2012年1月22日日曜日

電気工学者ニコラ テスラ


年譜 [編集]

ラボラトリーでの実験風景
1856年7月9日深夜、ハンガリー王国(現在のクロアチア西部)リカ=コルバヴァ県ゴスピチ (Gospić) 近郊のスミリャン村 (Smiljan) で生まれる。父母はセルビア人で、父はセルビア正教会司祭。姉が2人、兄デン(12歳で事故死)、妹が1人。兄を喪った5歳の頃から幻覚を頻繁に見るようになったとされる。また、「テスラ以上の神童」と呼ばれた兄を上回るために勉学に励み、特に数学において突出した才能を発揮したとされる。
1880年オーストリア帝国グラーツのポリテクニック・スクール在学中に交流電磁誘導の原理を発見する。1881年に同校を中退し、ハンガリー王国ブダペストの国営電信局に就職。23歳でプラハ大学を卒業したらしい(その後、エジソン社のフランス法人に勤めたともされている)。
1884年にアメリカに渡り、エジソンの会社・エジソン電灯に採用される。当時、直流電流による電力事業を展開していた社内にあって、テスラは交流電流による電力事業を提案。これによりエジソンと対立し、1年ほどで職を失うこととなる。
1887年4月、独立したテスラは、Tesla Electric Light Company(テスラ電灯社)を設立し、独自に交流電流による電力事業を推進。同年10月には交流電源の特許を受諾されている。
1888年5月16日、アメリカ電子工学学会でデモンストレーションを行い、それに感銘を受けたジョージ・ウェスティングハウスから100万ドルの研究費と、特許の使用料を提供されることとなった(契約には、特許の将来買取権が含まれていた)。
テスラの発明した交流発電機は、ウェスティングハウス・エレクトリック社によりナイアガラの滝発電所に取り付けられた。また同年には循環磁界を発見。超高周波発生器を開発する。だがウェスティングハウス社技術陣の中でも孤立し、1年で離れることになる。
1891年、100万ボルトまで出力できる高圧変圧器を発明。
1898年点火プラグで米国特許取得。
1901年J・P・モルガンの援助により、ロングアイランド、ショアハムに高さ57mの無線送信塔「ウォーデンクリフ・タワー」 (Wardenclyffe Tower) の建設を開始。1905年に完成するも、その後モルガンとの関係が悪化して資金繰りに詰まり、研究は中断。アメリカ合衆国が第一次世界大戦に参戦すると、1917年にタワーは標的にされるとの理由で撤去された。
1915年、エジソンとともにノーベル物理学賞受賞候補となるが、共に受賞せず。双方が同時受賞を嫌ったためとも言われている。1930年代にも受賞候補に選ばれるが、受賞はしなかった。
1917年、米国電気工学協会エジソン勲章の授与対象になるが、これを断る(後述)。
1943年1月7日ニューヨーク市マンハッタンのニューヨーカー・ホテルで死去。86歳。その死後、数トンに及ぶとされる彼の発明品・設計図は「アメリカ軍とFBIが没収した」「ユーゴスラビアを通じてソ連の手にも渡った」と噂され、半ば伝説のように流布した。実際には一度FBIに押収されて複製された後、母国に返還された。原版はベオグラードのニコラ・テスラ博物館に保管されている。

エジソンとの確執 [編集]

テスラがエジソン電灯に入社した当時、エジソンは既に研究者・発明家として実績を積み重ねており、テスラがエジソンに対して憧れや敬意を持って就職したのだとしても何ら不思議はない。給与未払いなどの話も残るが、一般的に両巨人の確執は主に「直流と交流との確執」から始まるとされている。
エジソンは工場の(エジソン好みの直流用に設計された)システムをテスラの交流電源で動かすことが出来たなら、褒賞5万ドルを払うと提案した。直流の優位性・安全性また交流の難しさなどを考慮したうえでの発言だったが、テスラはこれに成功し、交流の効率の良さを見せつけた。しかし交流を認めたくないエジソンは褒賞の件を「冗談」で済ませたため、テスラは激怒し、その後退社することになる。 その後、テスラらの交流陣営とエジソンの直流陣営との紛争が起こり、エジソンによる有名な電気椅子のエピソードなどが発生するが、現在の世界情勢的には、生活配電システムは交流がおおよそ主流となっている。詳しくは「ジョージ・ウェスティングハウス」ならびに「電流戦争」の項目を参照のこと。
以下はエジソンとの確執をあらわすエピソードである。
1917年、貧しい生活を送っていたテスラの許に、米国電気工学協会からエジソン勲章が授与されるという知らせが届いた。テスラは当然ながら、エジソンの名が冠されたこの賞を断った。「私に名誉の勲章をくださるということですが、それを上着につけてあなた方協会員の前で得意げに見せびらかせばよいという事ですか?あなた方は私の体を飾り立てるばかりで功績を認められそこなった私の頭とその画期的な発明には何も与えてくださらない。今日、あなた方の協会があるのは、おおかた私の頭とその産物が下地を与えたからだというのに」
またエジソンの名言「天才は1%のひらめきと99%の汗(努力)」を聞いたテスラは、皮肉って以下の言葉を残している。
「天才とは、99%の努力を無にする、1%のひらめきのことである」(「天才とは、1%の直観と99%の徒労である」とも)
とはいえ当のテスラ自身はエジソンの工場に勤めていた頃、毎朝10時半から翌朝5時まで研究改良・製作に打ち込み続けた努力家であり、エジソンが「貴様にはかなわない」と言ったと伝わる、つまりはひらめきだけではない、努力の人でもあった。
なお、後年エジソンが語った所によると、件の「名言」は取材した記者がエジソンの発言を努力賛美の発言のように勝手に書き換えたものであり(「天才は1%のひらめきと99%の汗」の真意)、エジソンの発言趣旨は「1%のひらめきがなければ99%の努力は無駄である」という、極端に言うならば努力の否定(発想・天才の賛美)に近いものであった。つまり「結局、それを生かすひらめきがなければ、そこまで積み重ねた努力なんて全部無駄」「努力をどれほど重ねるよりも、たったひとつのひらめき(発想・発明)のほうが局面打破できる」というテスラの皮肉はエジソンの真意と、実は同意であったという事になる。
基本的に努力の人であり、加えて発想・発明の達人であった両名だからこそ、最終的に同じ境地に達したのであろう。

人柄 [編集]

幼少期は空想と数々の強迫観念に囚われていたらしい。成人してからは異常な潔癖症で知られた。また、「宇宙人と交信している」「地球を割ってみせる」などの奇怪な発言や行動が多い。
その奇抜とも取れる研究内容や、数々の伝説、冷遇された人生なども相まって、彼や彼の発明であるテスラコイルはカルト団体や疑似科学方面から熱い注目を集めることが多々ある。特に、晩年は霊界との通信装置の開発に乗り出すなど研究にオカルト色が強まったこともあり、テスラの名を一層胡散臭いものとして響かせる原因ともなっており、彼への正当な評価を余計に難しくさせている(もっとも、晩年の研究においてオカルト色が強まったのはエジソンも同様である)。
しかし冷静に判断すれば、彼は純粋なただの科学者である。その研究テーマが風変わりであることが多々あり、社会とうまくやっていく能力にほんの少々欠けており、生涯でいくつかの“競争”に敗北しただけである。
容貌は長身でとてもハンサムであり、モルガンの令嬢などとのいくつかの恋もあったが、うまくはいかなかった。モルガンが資金援助を打ち切ったのも、娘との関係があるとも言われている。結果的には生涯独身であった。
「公園を歌いながら散歩しつつ思考しており、なにか閃いたらしく蜻蛉返りをした。」と当時の目撃者が記録している。
友人で作家のマーク・トウェインは彼を「稲妻博士」と呼んでいる。「アメリカSFの父」と呼ばれるヒューゴー・ガーンズバックも友人であり、テスラ死後にそのデスマスクを製作させている。
なお科学技術の発展に著しい貢献をしたとして、母国セルビアの紙幣ディナールの肖像として使われている。

世界システム [編集]

ウォーデンクリフ・タワー
世界システムと呼ばれる電磁波を用いた送電装置を開発しようとしていた。

IEEEとの関わり [編集]

IEEE(電気電子学会)のエジソン勲章受章者リストによると、テスラは1916年の同メダルの受章者として挙げられている。
1975年には、テスラの名前を冠したIEEE ニコラ・テスラ賞IEEE Nikola Tesla Award)が設けられている。

兵器 [編集]

1898年ニューヨーク新聞記者の前で2トンのの塊を粉々に粉砕するという実験がテスラにより行われた。これは高周波振動を発生する装置によるものであるとされる。テスラはこの兵器出力を上げれば、「この地球でもリンゴを割るように真っ二つにできる」と述べた。

関連記事 [編集]

参考文献 [編集]

伝記 [編集]

テスラの登場するフィクション [編集]


悲運の天才科学者は究極兵器も考察していた!

ニコラ・テスラの世界システム

 ニコラ・テスラは真に天才科学者だった。だが、天才はその時代には中々
受入れられないのが常である。彼の才能は狂気と混同される事さえ少なく
なかったのだ。

●エジソン等と比較にならない尺度の大きさ

 1943年1月7日の夜、86歳になる一人の老人が、
マンハッタンのニューヨーカー・ホテルの一室で
その長く波瀾にとんだ生涯を終えた。
最後を看取った者は誰もいない、孤独な死であった。

翌朝、老人の死がメイドによって発見されると、
生前の知人達の手によって直ちに葬儀の準備がなされた。 
葬列は寒風の吹すさぶ冬のマジソン街を葬儀場に向って黙々と進んでいった。
ところがその頃、老人が息をひきとった部屋では、
その静かな死とは対照的に慌ただしい事態が起っていた。
葬列がホテルを出て間もなく、
突如FBIの捜査官達がこの部屋に乱入したのである。
彼等は部屋を厳重に捜査し、
老人が保管していたと思われる1個の小さな金庫を見つけると
無理矢理こじ開けて、複雑な数式や図面が描かれた書類の一切を抜取った。
そして再び影も残さずに立去ったのである。

一方、葬儀がとり行われた教会堂でも奇妙な事が起っていた。
しめやかな弔辞を述べられている最中に、
突如まばゆいばかりの太陽光線が天窓を貫き、
棺を光の衣で包んだのである。会葬者達は思わず息をのんだ。
棺は神の祝福を受けたかの様に清らかな光を発し、
教会堂は荘厳な光で満たされた。
そして後日、葬儀中の教会堂内を写した写真が仕上ると、
そこには信じ難い映像が移っていた。
それらは何れも教会堂内部を隅々まではっきり映し出しているにも関わらず、
会葬者達の姿は全て輪郭が呆けていたのである。

 この不思議な老人の名はニコラ・テスラという。
とはいうものの、今日彼の名を知る者は少ない。電気工学の知識を持つ者であれば、交流の実用化に貢献した「テスラ・コイル」の発明者として、テスラの名に触れた事があるかもしれない。確かに手元の百科事典を引いてみると、ユーゴスラビア生れの電気技師、発明家としてのテスラについて何がしかの知識を得ることは出来る。火花放電を利用して数百kvの高電圧を発生させ、自由に送電する事を可能にしたテスラの業績は、今日の電気事業の発展の上で計り知れない貢献をなした。しかし、ニコラ・テスラという人物の全体像を知った者には、それが、彼の業績の極一部分でしかない事が分るだろう。
テスラについての記述の中には、彼が1912年にエジソンと共にノーベル賞候補とされた事から、彼は「エジソンと肩を並べる発明家」とみなす者もあるが、とんでも無い事である。あえて彼を「発明家」とみなすとしても、エジソン等とは比較にならない桁外れの尺度を持った発明家であったのだ。
と云うのも、彼の見果てぬ夢であった「世界システム」という構想は、地球そのものの電気振動と共振(共鳴)して、莫大なエネルギーを殆どタダで、しかも無限に得る事の出来るものであったのである。
これは革命的な構想であった。しかし余りにも革命的であり過ぎた。高エネルギーが地球上のどこからでも無限に得られるとなれば、当然、それまでエネルギー供給を独占した企業(メジャー又はロックフェラー系列(スタンダード石油))や国家の利益と真正面から対立する事になる。これが現在、テスラの名が殆ど抹殺同然にされるに至った大きな事情である。

●”自分は自動人間(オートマン)なのだ”

 にも関わらず、テスラの「世界システム」は今日再び熱い視線を集めている。
だがその視線の奥には、何やら暗い云い回しげな炎が燃えているようである。即ち兵器としての、それもレーザー光線や素粒子ビームの威力を遥かに越えた
究極兵器としての「世界システム」の利用である。

実はテスラの死後、彼の部屋からFBIが持ち去った書類は、
この究極兵器(スカラー兵器、又は重力波兵器、昔の名では超能力兵器、
「気」を利用した兵器)に関する物であったと云われている。

彼等は、究極兵器の秘密が外部に漏れるの恐れて、
テスラの死後、いち早く彼の論文類を差し押えたのである。

 勿論テスラ本人も、「世界システム」が人類にとって
両刃の剣になる事を承知していた。
それでも彼は
「世界システム」が人類を必ず幸福にするであろう事を深く信じていたのである。

では、一体それはどの様に構想されたのか。
テスラの生涯を追いながら見て行く事にしよう。

ニコラ・テスラは1856年7月9日の深夜に生れた。
場所はユーゴスラビアのクロアチア共和国スミリアン村であった。
父はギリシア正教の牧師で、母も代々牧師という家の出であった。

ニコラには姉が二人、妹が一人、そして兄が一人いた。
兄はデンという名で、7歳の時既に天才と呼ばれる程秀でた能力の持主であった。
ニコラ自身、この兄
「生物学的に説明する事が出来ない程稀にみる天才的知性」
を持っていたと述べている。

 ところが、あらゆる点でニコラより抜きん出ていた兄デンは、
12歳という若さで不慮の死を遂げてしまう。
デンの死は幼かったニコラに強い衝撃を与え、
後々までも彼の潜在意識に深い影響を及した
(これで、分るように千乃先生も優しい親に育てられているのを忘れた恩なし人間になりそうである。千乃先生が何を云うとも、親を大切にする方向にスカラー波を考えなければならない!忍)。
物心ついた時には既に彼は技師になりたいと思うようになり、身の回りに有る物で様々なユニークな発明をしていた。
だがニコラが後年、稀有の天才発明家と呼ばれるまでに至るには、別の重大な要因があった。それは、彼を少年時代から悩ませ続けていた幻視癖(透視。霊体によって見せられている。)であった。彼は述べている。

 「少年時代、私は幻影に悩まされた。それはしばしば強烈な閃光と共に
現れた。それが現れると、視野の中に現実の物体は失せ、思考や行動も
妨げられるのだった。それらの幻影は、かって私が実際に見た事のある
物や景色であり、決して私が想像したものではなかった。ある言葉が私
に発せられると、その言葉が喚起するイメージがいきいきと私の脳裏に
映り、時として、そのイメージが現実のものかそうでないのか、私自身
見分ける事が出来なくなる事があった」

 だが、17歳になって、彼が発明家の道に進む事を決心すると、この幻視癖が非常に役に立つ事になった。というのも、彼は何かアイディアが閃いた時、それを具体化するのに図面もモデルも実験も無しに、目の前にありありと思い描く事が出来たからである。
やがて彼は、自分のあらゆる思考、行動が外的な刺戟(霊体による刺戟、今現在は、機械(スカラー波)によって刺戟を与える事が出来る!忍)によって自動的に形成されている事に気付いた。自分は感覚器官の刺戟によって反応する「自動人間(オートマン)」なのだと痛感した。この自覚が後に「テロートマティックス」という自律的な運動刺戟制御技術の構想へと発展するのである。

●地震発生装置、地球二分割法・・・

 オーストリア、グラーツのポリテクニック・スクールを中退したニコラ・テスラは、1881年、ハンガリーのブタベストの国営電信局に務めるようになる。しかしここは2年足らずで止め、彼はパリのコンチネンタル・エジソン社に職を変えた。この時既に彼の脳裏には交流モーターの原理のアイデアがあった。程なくしてテスラの才能を見抜いた社長は、テスラにぜひ渡米してエジソンに会うようにと勧めた。
エジソンとの出会いはテスラの人生における最大の事件だった。だがエジソンは、テスラの途方もない才能に気付きながらも交流の使用を認めようとはせず、ことある毎に交流の危険性を世界に呼びかけた。一方、テスラも、露骨なまでのエジソンの批判を撤回させる為に、交流の優位性、安全性を広く知らせる為のショーを催したりした。
彼は、肉体にショックを与えるのは高電圧ではなく高電流である事を、自らの体を貫流させた電流で針金を溶かしたりランプを点灯したりして証明した。この驚くべきショーは大好評を博し(これは異常である。こういう異常な現象は、今の日本にも起りそうである。テスラーが大丈夫だったのは、霊体による守護のお陰である有る事を忘れてはならない。!)、結局、エジソン対テスラの威信をかけた対立はテスラに軍配が上がった。以後、ナイアガラ瀑布電力会社は交流の採用を決定し、交流は世界に普及していったのである。

 エジソンのもとを去ったテスラは、1887年にニューヨークに自分の研究所を設立し、心おきなく自らの研究に集中するようになった。ここで彼は後年”マッド・サイエンティスト(狂気の科学者)”と呼称されるようになる数々の発明や研究に打込んだ。
「地震発生装置」「地球2分割破壊法」の考案、「無線操縦装置」「地球全体の照明装置」等がその成果である。
これらの研究は一見荒唐無稽のものに思われるが、テスラの知的関心は極めて一貫したものだったのである。つまり、彼の興味は常に自然界のエネルギーを最大限に引出す事にあったのである。これは、彼の少年時代の次の様な体験がきっかけとなっている。

 ある冬の日、テスラは仲間の少年達と雪に覆われた山に登った。雪は大変深く積っていた。少年達は雪玉を斜面に投げつけ、それが転げ落ちながら雪を集めて大きくなるのを見て遊んでいた。ところが突如一個の雪玉が、斜面を転がる内に見るくる大きくなり、ついには一軒の家程の大きさになってしまった。テスラを始め少年達は、信じ難い光景に茫然と立竦んでいた。テスラは考えた。
 「どうしてあんな小さな雪玉があっと云う間にこれ程巨大な雪玉に成長
してしまうのか。自然界には何ととてつもないエネルギーがあるのだろ
う」
 この経験はテスラに強い印象を残した。そして数十年の後に自分の研究所を持ったテスラは、漸くこの少年の日の疑問にじっくり取組み始めたのである。
彼は、この自然界に潜む巨大なエネルギーをどうしたらそのまま取出す事が出来るだろうかと真剣に考えていた。

 そんなある日、テスラは一人山の中を宛もなく歩き回っていた。すると空が厚い雲で覆われだし、吹雪になりそうな気配が漂ってきた。彼は雨の当らない所に避難し、怪しげな空を見上げてた。しかし、空は殆ど真っ暗にも関わらず、雨は中々降出さなかった。その時突然、空に一閃の稲妻が走った。途端、堰を切ったように豪雨が降出した

●地球の引金を引く「世界システム」

 この観察から彼は重大な直観(インスピレーション)を得た。稲妻の電気的なエネルギーが豪雨を引き起す引金になったのを見た彼は、若し自然界のエネルギーの引金となる電気的効果を見出す事が出来れば、地球全体の環境を変える事さえ出来るだろうと考えたのである。そうすれば、砂漠を水で潤す事も、湖や川の造成も、驚く程簡単になる筈である。

 こうして彼が取組み始めたのが、「拡大送信機」と呼ばれる高エネルギー発生・送信装置の開発であった。拡大送信機は高周波振動の電気的共鳴を利用して、巨大な電圧を発生させる装置であり、ニューヨークの彼の研究所では400万Vの高電圧の発生に成功した。後にニューヨークの研究所が焼け、コロラドに新たな研究所を設けたテスラは、そこで更に大がかりな拡大送信機の実験に取組んだ。

 ここで彼は1200万Vに達する電圧を発生させる事に成功した。この拡大送信機が凄まじい放電の火花を飛ばす傍らで平然と読書するテスラの写真は、マッド・サイエンティスト・ファンなら一度は目にした事があるだろう。
拡大送信機は、高周波振動の共鳴にする増幅作用を用いたものであり、それは丁度、小さな雪玉が斜面を転がる内に巨大に成長するプロセスを電気的に行ったものであった。だが、テスラの真の狙いはもっと遥かに壮大な事だった。
彼はこう考えた。若し地球自体の定常波を見出す事が出来れば、拡大送信機の高周波と地球との間に共鳴を起す事が出来る筈だ、と。つまり彼は、地球全体を導体としてエネルギーの発生、送信を行おうとしたのである。もしそれが出来れば、莫大なエネルギーを低コストで発生させる事が出来、又自由に世界中に送る事が出来る筈である。そうなれば電信電話は勿論、あらゆる情報やエネルギーが世界中に伝達される巨大な情報ネットワークが形成されるのである。

 しかしそれは、現在実現されつつあるような光通信、付加価値通信網(VAN)といった情報ネットワークとは質的に異なる。テスラの発想はあくまで自然界(地球)自体が潜在的に以ているエネルギーを抽出しようとするものであった。それは丁度稲妻が豪雨の引金となったように、地球の引金を電気的に引こうとするものなのである。この様にして作られる地球規模の情報通信網システムを、テスラは「世界システム」と名付けた。

 テスラによれば、「世界システム」を構成する要素は、テスラの次の様な5つの発明と技術である。

①テスラ変圧器(テスラ・コイル)
②拡大送信機
③テスラ無線システム
④個別化の技術
⑤地球定常波

 ④の「個性化の技術」とは、どれ程多重の複雑な信号であろうと、それぞれの信号が独立して混信する事なく送信出来る技術を意味する。
この世界システムが具体的に実現されるとどんな事が可能になるのか。テスラは、特に生産的と思われる利用法を幾つか纏めている。それは主に現在、世界中に散らばる電信、電話局を全て相互連絡し、ニュース、文書、音楽の通信を可能にすると云う事である。だが、とりわけ注目すべきは、船が羅針盤(コンパス)無しで正確な位置と方向を知る事が出来る事や、世界中の時計が同期して動くような機械化(メカニズム)の設定等である。こうした事が可能のは、テスラの電気理論が高速の限界と無関係だからである。地球の定常波から生じるエネルギーは、距離の2乗に比例して減る事も、無くなる事もない(ここの部分は、全ておかしい。宇宙の物理の法則は、ミクロとマクロは統一的に成立っている。ミクロに成立っている法則は、マクロにも通じるのです。だから、地球の定常波だけ、物理の法則に逃れる事という事はない!忍)。
1901年、テスラは具体的な世界システムの構想の為に、ロングアイランドのショアハムに巨大な無線送信塔の建設を始めた。これは実際に地球を導体としてエネルギーを発生させる本格的なものになる筈だった。しかし、建設資金が底をついて工事は中断され、アメリカが第一次大戦に参戦した1917年には、危険と云う事で取壊されてしまう憂き目を見た。壮大な夢の計画は一方的に潰されたのであった。

●「世界は未だ準備が整っていない」

 テスラの旺盛な探求心はこの出来事の後も全く衰える事はなかった。だが、彼の世界システムへの関心は次第にその破局的側面、つまり兵器としての利用に向けられるようになっていた。
1934年にテスラは、何万馬力にも相当するエネルギーを髪の毛よりも細い光線として放射する事が可能な装置について述べている。その発想は、今日のレーザー光線に極めて似ている。
実際、世界システムを用いれば、如何なる巨大なエネルギーであろうと遠隔誘導によって瞬時にして目的地に送る事が出来るのである。又彼は世界システムを利用して、遠隔制御型の兵器も構想していた。しかし、テスラは決して世界システムが軍事的に利用される事を望んでいたわけではない。彼は平和主義者だったのである。だが、平和が何もせずに得られるとは考えていなかった。彼は述べている。
 「戦争は法的に禁じたとしても、決して無くならない。強い国の警戒心
がなくなったとしても、戦争は終らない。戦争を停止させるには、強い
国も弱い国も自己防衛力を持たねばならない。幸い、私は防衛の為の完
璧な手段を構想した。若しこれが採用されれば、国際関係に革命が持た
されるだろう。それは、国が大きかろうが小さかろうが、あらゆる攻撃
に対して難攻不落に変える事が出来る。私の発明は大がかりな装置を必
要とするが、一度装置が出来れば、人であれ機械であれ、半径300k
m以内に近づいたものは悉く破壊してしまう事が出来る」
 テスラのこの発言は明らかに今日の核抑止力による平和の達成を先どりしている。テスラ兵器は核兵器の様に目的地につくまでの時間もかからないし、又レーザー砲よりも遥かに大きな威力を持っている。それは将に究極の兵器なのである。
 だが、テスラの平和の願いは果して今日、生かされているだろうか。米ソ2大大国が歩み寄りを見せ、各方面における段階的な核兵器の削減が実現しようとしているが、それだけで戦争の勃発を抑える事は出来ない様に思われる。事実、過去に於いては、ソ連軍部はテスラの理論に従った兵器の開発、実験に取組んでいたという噂もあったのである。
アメリカ空軍情報部長のジョージ・キーガンは、1977年にカナダで起った異常な嵐はソ連の素粒子ビーム兵器の実験によって引き起されたものだと報告している。又カザフ共和国のセミパラチンスクでは、素粒子ビーム兵器の大がかりな実験が行われているという情報もある。
 この様な素粒子ビーム兵器の大規模な実験の骨組は、恐らくテスラの理論と関係がある、と多くの軍事関係者が指摘している。カナダの科学者のアンドリュー・ミクロウスキーに至っては、自信を持って次の様に断言している。
 「ロシア人達がテスラのアイデアに基づいて実験を行っている事は
極めて明白だ。この実験は世界の気候をも変えてしまう」
 テスラが世界という花壇に蒔いた様々な種は、今のところ萌芽したばかりで、どんな実をつけるか未だ見当もつかない。だが、この不世出の天才が着想した事の顛末が世界の自己崩壊を促す事であるとしたら、余りにも悲しい事である。
テスラが現代に託したものは何も兵器だけではない。前出のアンドリュー・ミクロウスキーは「地球クリーン・活力協会」の主宰者でもあるが、彼はテスラの理論と20世紀の神秘学者ルドルフ・シュタイナーの自然農法とを2本の柱として、今後における新しいエネルギーのあり方を考察している。
地球規模でエネルギー危機が叫ばれている今日、其処にどんな可能性が開かれているのか、我々には知る由もない。只、テスラの次の言葉に、悲運の天才学者の未来の洞察を感じ取るのみである。
 「私の計画は自然の法則(自然の法則と云うよりも、自然の法則を預って
いる霊界の守護霊によって統制されている。今、現在は天上界は、スカラ
ー波研究を真剣に行い、防衛の準備に整えるようにおっしゃっている!忍
)。世界は未だ準備が整っていない。未だ早すぎるのである。だがこの法
則も最後には浸透し、勝利をもたらすだろう」


ときどき登場するニコラ・テスラについて、新しい資料を手に入れましたので掲載いたします。


1915年、今から95年前の話です。
彼は、地球の自転のエネルギーを使って無尽蔵にエネルギーを取り出す事に成功しました。
鬼才ニコラ・テスラがニューヨークタイムズに自ら寄稿した原稿があります。

電線エネルギーを電線を使わずに送り、遠隔地において破壊的効果をもたらすという技術は完全に実行できる。

私自身すでに電線を全く使わない送電線を発明している。
最近許諾された1197325で使用される送電線を(有線でない送電線)を用いれば我々は望むところの電気エネルギー望む場所に送る事が出来る。

その用途は無限といってよいだろう。
その言葉を言いかえればそれは平和的にも軍事的にも利用が可能だ。

改めて彼の都市伝説を振り返ってみましょう。

フィラデルフィア実験■


1943年、第二次世界大戦のさなか、アメリカフィラデルフィア驚くべき実験が行われた。アメリカ海軍が行ったこの実験の目的は、軍艦をレーダーから見えなくするというものであった。

むろん、これだけなら、驚くにあたらない。
現代でも、ステルス技術は存在する。
レーダーから放射された電波を吸収してしまえば、電波が反射しないため、レーダーではキャッチできない
つまり、レーダーでは不可視となる。

ところが、フィラデルフィア実験では、軍艦はレーダーから消えたのではなく、人間の目から消えたのである。

実験台となった軍艦エルドリッジは、いったん消滅し、数百マイル離れたノーフォークに突然現れ、再びフィラデルフィアに現れた。

つまり、ワープしたのである。
話はこれにとどまらない。
還ってきた軍艦エルドリッジの中では、異常な事態が発生していた。
乗組員の身体が、甲板や壁にめり込んでいたというのだ。
1つの空間に2つの物体が共存する異常世界である。

これは、かなり有名なネタで、しかも面白いため、SF映画の格好の題材となった。
しっかり映画化され、続編までつくられている。
映画のほうもネタ同様、なかなか面白く、一見の価値あり、である。

この話は自分で見聞きしたわけではないので、真偽のほどはわからない。

それでも、一般常識から次のようなことは言える。
この実験のように空間を歪曲させるためには、とてつもない重力が必要になる

例えば、太陽系最大の重力をもつ太陽の近傍でさえ、ほんのわずかしか空間は曲がらない。ましてや、先の実験のように、空間をアメのようにひん曲げるには、太陽サイズの物体がいくつあっても足りないのではないか?。

だいたい、そんな技術をアメリカが所有していたとすれば、原子爆弾などというチャチな兵器は不要だったはずだ。

空間を割って!物体を移動できるのである。
世界の戦術を一変させる地球スケールの超弩級兵器だ。

広島と長崎に投下された原子爆弾の製造プロジェクトマンハッタン計画』など、歴史年表から消えていたに違いない。

この実験が行われたと言われる1943年は彼が亡くなった年でもあり、この時点で当局が、研究資料の全てを手にしていた訳ではないでしょうから、実用化までには至らなかったともいえる。
■マッド サイエンティスト■

そして、この不名誉な実験に登場するのが、電気技師ニコラ テスラである。
空間をひん曲げるために、テスラが発明したテスラ コイルが使われたというのだ。
確かに、テスラ コイルは実在する装置だが、電圧を変換するためのもので、物質転送の助けになるとは思えない。

ところが、『テスラ コイル』という言葉には、不思議なカリスマがあり、怪ししい分野で形を変え登場する。

1950年代には、ニコラ テスラのもとで働いていたと称する発明家が、画期的な航空機を発明したと発表した。

空飛ぶ円盤の原理で飛ぶのだという。
動力は、UFOでおなじみの重力場推進。
予定では、地球の重力圏を瞬間に離脱、宇宙に飛び出すはずだったが、成功したというニュースは今も聞かない。

さらにテスラが関わったとされる装置を列挙すると、人工地震兵器、殺人光線、気象兵器、反重力装置。かくして、テスラは歴史上最大のマッド サイエンティストに祭り上げられたのである。

■ニコラ テスラの偉業■

ニコラ テスラは、1856年7月にクロアチアに生まれた。
大学で電気工学を学んだ後、パリで働く。その後、アメリカにわたり、エジソンの会社で働くが、意見が対立し退社している。

原因は、送電方式の対立にあったと言われた。
電力を送る方法には、直流方式と交流方式がりますが、エジソンは直流方式を、テスラは交流方式を主張した。

それぞれ、メリット、デメリットがあるが、現在、世界で使われているのは交流方式である。
つまり、現時点では、テスラが正しく、エジソンは間違っていたことになる。

ニコラ テスラは、マッド サイエンティストなどではなく、真面目で優れた発明家であった。1888年には交流発電機と交流電動機(交流モーター)を発明している。

世界を変えた歴史的な発明だが、知名度は限りなくゼロに近い。
エジソンの白熱電灯のほうがよほど有名だ。
白熱電灯などすでに過去の技術だが、交流モーターは、今でも使われている。
しかも、白熱電灯と交流モーターでは技術のレベルがまるで違う。
にもかかわらず、エジソンの知名度がテスラの1000倍!一体どうなっているの?

なんでなの?
テスラはたんに、歴史を味方につけることができなかった?
いや違う、テスラの発明は軍事利用が大いに期待されたため、表に出る事を嫌った当局が世間に知られぬように封印したのとちがう?

1899年、標高2000mにある町コロラドスプリングズで、ニコラ テスラをマッド サイエンティストならしめた歴史的実験が始まった。

実験が行われたワーデンクリフ研究所の中央には、高さ60mのポールがそびえ立ち、先端には不気味な金属球が輝いていた。

研究所の中では、異様さはさらに拍車をかけた。
巨大なコイル、コンデンサ、無数の配線が血管のように張り巡らされている。
むろん、テスラの十八番『テスラ コイル』もある。まさに、マニアが泣いて喜ぶマッド サイエンティストの世界だったでしょう。
 ここで、テスラが目指したのは『世界システムとよばれる装置だった。
情報とエネルギーを無線で世界中に送るという地球スケールの超技術である。
もちろん、このシステムで、テスラ コイルは大活躍するはずであった。
ところが、この壮大な実験は、莫大な資金を食いつぶしたあげく、とん挫する。
つまり、失敗したのである。
ちがう、資金をロックフェラーが引き上げたんじゃない?
そんなすごい物を発明されたら、石油メジャーが困るでしょう。
石油メジャーって、誰ですか?
ロックフェラーその人。
■ニコラ テスラの晩年■
ニコラ テスラには生涯2人の偉大なライバルがいた。
一人は送電方式で争ったエジソン。
エジソンは、1300もの発明をなしとげ、歴史上最大の発明家として名を残した。
もう一人のライバルは、無線通信で争ったイタリアのマルコーニ。

テスラとの戦いで勝利したマルコーニは、無線電信装置の発明者として名声を得、ノーベル物理学賞まで受賞する。

テスラのこの2人のライバルは、世界を変えた発明家として、歴史にその名が刻まれている。
一方、テスラは、この種の名声には無縁だった。
かわりに得た名声が、マッド サイエンティストだった。

それでも一つ、ささやかな名を残すことはできた。磁場の強さを表す国際単位に『テスラ』が採用されたのだ。
テスラが陽の当たる世界で得たたった一つの名声であった。

テスラは、ハンサムで190cmを超える長身だったが、生涯独身で、晩年は一人でホテル住まいをつづけた。

そして、1943年1月8日の早朝、家政婦によってテスラの死が確認される。
97年の人生であった。ところが、テスラが死んだ後、奇妙な噂が流れた。

死体が運び出された直後、FBI捜査官がテスラの部屋を物色し、テスラが発明した超兵器の資料を没収したというのだ。
こうして、偉大な電気工学者ニコラ テスラは、死してなお、マッド サイエンティストとして君臨するのである。

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