2019年9月12日木曜日

史上最悪の極右内閣が誕生! 教育勅語を掛け軸にする文科相、バノン大好き法務相、日本会議のガチメンバーも入閣

https://lite-ra.com/2019/09/post-4965.html史上最悪の極右内閣が誕生! 教育勅語を掛け軸にする文科相、バノン大好き法務相、日本会議のガチメンバーも入閣の画像1
本日発表された“史上最悪の極右内閣”(首相官邸HPより)

 本日発表された第4次安倍再改造内閣。すでに事前のマスコミによる入閣報道の時点で、その顔ぶれから“史上最悪の極右内閣”になることは確定していたが、あらためて新閣僚の過去の発言やトンデモ思想、差別性をチェックしてみると、本当にこの国は行くところまで行こうとしているとしか言いようがない。
 そもそも、今回の内閣改造の最大の特徴は、現政権の極右政策の旗振り役を務めてきたり、メディアへの圧力を担ってきた“側近”たちで要所をガチガチに固める布陣。つまり、安倍首相の極右思想を具現化したようなメンツだ。
 その筆頭が、一億総活躍担当相として初入閣した
衛藤晟一参院議員だ。
一億総活躍の他に領土問題、沖縄北方、海洋政策なども担当するが、これは安倍首相の極右イデオロギーをモロに反映させた采配だろう。
 そもそも衛藤氏は、学生時代には当時「大日本帝国憲法復元」を主張していた宗教団体・生長の家の活動家で、日本青年協議会の委員長を務めるなど、日本会議をその前身から支えてきた筋金入りの極右だ。政界入り後は、自身の初当選から1期遅くれて当選した安倍氏を弟分として可愛がり、まさに“右派の家庭教師”として極右イデオロギーのイロハを叩き込んだとされる。まさに長年、安倍氏と二人三脚で極右政策を推進してきた存在だ。
 たとえば、若手時代には安倍氏らとともに「歴史・検討委員会」に参加。この委員会は、のちに「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」(教科書議連)に発展し、自民党内で慰安婦問題の否定など歴史修正主義の中心的役割を担ってきた。「SPA!」(扶桑社)1995年7月12日号では、日本の戦争責任を〈侵略か否かの問題は、当時侵略という定義はなかったわけで、非常に判断が難しい〉などと語り、大日本帝国による韓国併合についても平然とこう吐き捨てている。
〈韓国併合にしても1910年だから、85年も前の話ですよ。85年前のことを謝罪せよと言われても、「確かにつらかったね」としか言いようがないと思います。特に韓国とは、’65年の日韓基本条約で区切りがついているわけだし、当事者でもなく、当時の歴史もよくわからない人が謝罪するというのはおかしな話じゃありませんか。〉
 現在も日本会議国会議員懇談会の幹事長をつとめ、選挙でも日本会議の支援を受けている衛藤氏は、いわば、日本会議と現政権の“直接的窓口”だ。
 一例をあげると、日本会議は「令和」の新元号天皇の代替わりより前に公表することに「遺憾の意」を表明したが、このとき“日本会議側から安倍首相へのメッセンジャー”として官邸に働きかけたのが衛藤氏だ。また、2016年の明仁天皇(当時)によるいわゆる「生前退位のおことば」をめぐっては、安倍首相から事前検閲を指示された衛藤氏が、“万世一系の神話的イメージ”を維持するために天皇・皇后の考えた文章を削除したこともわかっている(伊藤智永『「平成の天皇」論』講談社)。
 衛藤氏の入閣は、安倍首相が日本会議に代表される戦前回帰的極右団体との協力関係にまた一段ギアを上げたことを意味している。「日本会議の生みの親」とも呼ばれる村上正邦・元参議院幹事長は、2016年の雑誌インタビューでこう発言していた。
「もし安倍さんが日本会議の言い分を尊重しようとしているなら、衛藤晟一(首相補佐官)を大臣にしているはずですよ。だけど、入閣させてないということは、そういうことですよ。日本会議の象徴は、稲田(朋美・防衛相)じゃない。稲田だとみんな言うが、衛藤ですよ」(「週刊ポスト」2016年9月2日号/小学館
 その“日本会議の象徴”である衛藤氏を、とうとう安倍首相は大臣に任命した。
第二次安倍政権以降、不動の首相補佐官を任せていたが、これからはアドバイザーとしてだけでなく、領土や領海を担当する大臣として、表立って安倍政権の極右政策やタカ派外交を現実化させてほしい──そういう安倍首相の考えがダダ漏れになっていると言わざるを得ない。

萩生田光一の女性差別思想…参院選では「一番の功績は出産」発言を擁護

 そして、この衛藤氏に比肩する“極右新大臣”が、文科相として初入閣する
萩生田光一衆院議員だ。
萩生田氏については昨日の記事(https://lite-ra.com/2019/09/post-4960.html)でも、加計問題を中心にその大臣としての資格のなさを指摘したが、あらためておさらいしておこう。
 そもそも萩生田氏は、安倍氏が第一次政権を放り投げ、自民党内で求心力を失った時期においても、ずっと“忠犬”として尽くしてきた側近中の側近だ。2014年の総選挙では、『NEWS23』(TBS)に安倍首相が生出演した際、アベノミクスに対して批判的な街頭インタビューを流し、安倍首相が「厳しい意見を意図的に選んでいる」と陰謀論まがいの主張をまくしたててブチ切れると、萩生田氏はすぐさま在京キー各局に恫喝文書を送りつけるなど、報道圧力の尖兵としても動いてきた。
 萩生田氏の思想は戦前回帰的なゴリゴリの極右だ。2014年10月にはBS番組で、河野談話について「もはや役割は終わった。骨抜きになっていけばいい」「(安倍首相による)戦後70年談話で、結果的に骨抜きになるんじゃないか」と発言するなど、歴史修正をむき出しにしてきたが、その危険性は教育行政のトップに就いたときにこそ最大限に発揮されるだろう。
 たとえば、性差別的な発想だ。萩生田氏は2007年に、日本会議の設立10周年大会にメッセージを送り、〈入会直後直面した、「行き過ぎたジェンダーフリー教育、過激な性教育」対策では日本会議の識者の先生方の後押しもいただき、党内でも問題を喚起し、ジェンダーの暴走をくい止め、正しい男女共同参画社会へと路線を変更する事ができました〉などと自慢げに報告している。この「行き過ぎたジェンダーフリー教育」云々というのは、日本会議が男女平等を否定し、“女は家の中にいろ”という前時代的価値観を喧伝するときに使うレトリックだ。
 実際、先日の参院選では、自民党の三ツ矢憲生衆院議員が吉川有美候補の応援演説で「一番大きな功績は子どもをつくったこと」と、性差別丸出しの発言をし問題になったが、このときも、街頭演説に同席していた萩生田氏は「母親になって一つ大きくなった候補を応援してほしいという趣旨だ」と擁護していた。これは「功績は子どもをつくったこと」発言の問題点をまったく理解していないだけでなく、逆に「母親になること=女の仕事」かのような萩生田氏の差別意識を露わにしたとみなす他ないだろう。

議員会館に教育勅語の掛け軸、教科書に圧力…萩生田の戦前回帰的教育政策

 他にも、昨日の記事でも触れたが、萩生田氏は2013年、安倍首相の「(現行の教科書検定基準には)伝統、文化の尊重や愛国心、郷土愛について書き込んだ改正教育基本法の精神が生かされていない」と発言したことを受け、自民党の「教科書検定の在り方特別部会」の主査に就任した。同部会は「自虐史観に立つなど、多くの教科書に問題となる記述がある」と教科書批判を展開。教科書会社の社長や編集責任者を呼び出し、〈南京事件や慰安婦問題、竹島などの領土問題、原発稼働の是非などに関する教科書の記述〉について聞き取りをおこない、議員らが「経緯の説明が足りない」「偏っている」などと意見する(朝日新聞2013年6月4日付)など、露骨な“圧力”行動に出たこともある。
 さらに象徴的なのが、前川喜平・元文科事務次官がきのう投稿したツイートだ。
〈やっぱり萩生田文部科学大臣か。ひどいことになるだろう。彼の議員会館の事務職には、教育勅語の大きな掛軸が掛けてあった。〉(原文ママ)
 教育勅語の掛け軸をかけていたというこのエピソードからも、萩生田氏の目指す教育が、いかに戦前回帰的なものであるかは明らかだろう。
 いずれにしても、安倍首相はこれまでの萩生田氏の“忠犬”ぶりを買って、教育行政のトップに起用したのだ。萩生田氏が文科大臣としてやることは明らかだろう。お得意の“圧力”でどんどん現場から自由や平等・反差別の教育を「骨抜き」にし、歴史修正主義を加速させ、安倍政権による改憲を後押しするため、かならずやトンデモな教育行政を推し進めていくはずだ。
 さて、初入閣組ではこの衛藤氏と萩生田氏が攻撃的な極右政治家の“ツートップ”だが、だからといって、他の面々がまともなわけでは決してない。
 たとえば、
経産相に起用された菅原一秀衆院議員は、
自民党の元ネットメディア局長で、ネトウヨの巣窟である別働ステマ部隊「自民党ネットサポーターズクラブ」(J-NSC、通称ネトサポ)の親玉。元愛人に「女は25歳以下がいい。25歳以上は女じゃない」「子供を産んだら女じゃない」と女性差別丸出しの暴言を繰り出した過去を「週刊文春」(文藝春秋)にすっぱ抜かれたこともある。

河井克行法務相はアメリカのネトウヨの親玉・バノンとアパホテルで

 また、法相の河井克行衆院議員は、
差別主義者であるスティーブン・バノン前米大統領首席戦略官を自民党の講演会に招き、一緒にアパホテルを訪れ、ツーショット写真を嬉々としてブログにアップするような神経の持ち主。今年8月にもワシントンDCでバノン氏と性懲りもなく会談しており、河井氏のブログによると、話題のほとんどを韓国政府のGSOMIA破棄に費やして、ホワイトハウスへ働きかけてくれるよう“告げ口”したという(なお、日刊ゲンダイによれば、小学校時代のあだ名は「スネ夫」だったらしい)。
 法相としての資質も大いに疑問だ。河井氏はかつて、取り調べの録音・録画などの「可視化」について、〈私は「分かりやすい立証」を進めるという名の下に取り調べの可視化を図ることがどれほど捜査現場の手足を縛り、なし崩しの禍根をもたらすか、危惧しています〉〈日本が築いてきた治安の良さを覆す大問題〉として猛烈に反対していた(「正論」2009年5月号/産経新聞社)。裁判所検察当局を所管する大臣として、この人権感覚の欠如は致命的だろう。
 他にも、農水相の江藤拓衆院議員は、2007年に櫻井よしこ氏らが米紙ワシントン・ポストに出した従軍慰安婦の強制性を否定する意見広告に、稲田朋美衆院議員らとともに賛同者として名前を連ねた。地方創生相の北村誠吾衆院議員も2012年、米ニュージャージー州地元紙に出稿された慰安婦の強制性を否定する意見広告に安倍晋三氏らとともに賛同者として登場している。国家公安委員長で行革担当相などを兼任する武田良太衆院議員もタカ派政治家だ。数年前には防衛副大臣として参加したフランスの武器見本市で、あろうことか楽しそうにライフルの銃口を人に向け、払いのけられた場面がテレビに映され顰蹙を買った。
 留任・再入閣組の閣僚も当然のように極右だらけだ。息をするように差別発言を繰り返す麻生太郎財務相は言うまでもなく、ナチス礼賛本を宣伝したことやネオナチ団体代表とのツーショット写真でも知られる「電波停止」発言の高市早苗衆院議員が総務相に返り咲いた。
 こうした新閣僚の面々を見てもわかるように、ようするに、安倍首相の極右思想や歴史修正主義、そして韓国バッシングの旗振り役となる者だけが、大臣として出世できる。そういうことだろう。事実、穏健保守派の政治家は閣僚や党の要職にもほとんど起用されないし、安倍首相に刃向かった石破派の議員たちは入閣ゼロに終わっている。つまり、この“史上最悪の極右内閣”が意味するのは「安倍シンパにあらずんば政治家にあらず」ということらしい。
 私たちができるのは、この極右むき出しの組閣をちゃんと批判することだ。でなければ、日本はどんどん“安倍サマのための極右国家”になっていってしまうだろう。
最終更新:2019.09.12 12:03

第37話: USA第51州の実態  2

 【日本という怪しいシステムに関する一見解】(初稿1999.10.29)



   ※そのうえに日本にとって最も不幸だったことは、以上申し述べたような諸種の

    事情が、日本有史以来の大人物の端境期に起こったということでありまして、
    建国三千年最大の危難に直面しながら、如何にこれを乗り切るかという確固不
    動の信念と周到なる思慮を有する大黒柱の役割を演ずべき一人の中心人物がな
    く、ただ器用に目先の雑務をごまかしていく式の官僚がたくさん集まって、わ
    いわい騒ぎながら、あれよあれよという間に世界的大波瀾の中に捲き込まれ、
    押し流されてしまったのであります。
     これは必ずしも、北条時宗の故事に遡らずとも、〔明治〕維新当時、日本の
    各地に雲のごとく現れた各藩の志士、例えば一人の西郷隆盛、一人の木戸孝充
    、一人の大久保利通のごとき大人物が現存しておったなら、否、それほどの人
    物でなくても、せめて日清、日露の戦役当時の伊藤博文、山県有朋のごとき政
    治家、また軍人とすれば陸軍の児玉源太郎、降って、せめて加藤高明、原敬、
    あるいは一人の山本条太郎が今日おったならば、恐らく日本の歴史は書き換え
    られておったろうと思われるのです。支那事変から大東亜戦争を通じて、日本
    の代表的政治家は曰く近衛文麿、曰く東条英機、曰く小磯国昭、曰くなにがし
    であり、これを米国のルーズベルト、英国のチャーチル、支那の蒋介石、ソ連
    のスターリン、ドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニなど、いずれも世
    界史的な傑物が百花繚乱の姿で並んでいることに思いを致してみると、千両役
    者のオールスターキャストの一座の中に我が国の指導者の顔ぶれの如何に大根
    役者然たるものであったかを痛感せざるを得ないでしょう。
     また、民間の代表的人物といいますと、三井財閥では住井某、三菱財閥では
    船田某など、いずれも相当の人柄でしょうが、これを一昔前の渋沢栄一、井上
    準之助などに比べると、いかにも見劣りせざるを得ない。その他、政党方面に
    誰がいるか、言論文化の方面には誰がいるか、どの方面も非常な人物飢饉であ
    り、そのために本筋の大道を見損なって、とんでもない方面に日本国民を引っ
    張っていく一つの大きな原因になったと思われます。
         (昭和20年、永野護氏『敗戦真相記』、バジリコ.2002;p.27-28)



   ※親泊朝省大佐(陸軍報道部、沖縄出身、9月2日自決)のいう敗戦の原因
     その第一は陸海軍の思潮的対立である。陸軍はドイツ流に仕立られてゐる。
    陸大にはメッケルの胸像が日本戦術の開祖として立ち、その講堂にはヒンデ
    ンブルグとルーデンドルフとが作戦を練る図が掲げられ学生の憧憬の的とな
    つてゐる。これに反して海軍は兵学校の講堂に東郷元帥の遺髪とともにネル
    ソンの遺髪を安置して精神教育の資としてゐる。しかもこの相背く二つの思
    潮に立つ陸海軍が日本的に結合しようとするところに云ひ知れぬ困難を伴ふ
    のである。また陸軍内部ではドイツ班の勢力がロシヤ班や米、英班を凌ぎ、
    その結果は正衡な戦政局の判断が出来なかつたのである。第二には満州事変
    以後、事変を単に軍の一部の力で推進して来たといふ幕僚統帥の弊風が挙げ
    られてゐる。第三には軍人が軍人に賜はりたる勅諭の御旨に反して政治に介
    入し、軍本然の姿を失つたことである。第四が人事の大権が派閥的に行はれ
    東条人事とか梅津人事とか呼ばれるに至つたこと、更に甚しいのは第一線に
    出されることが懲罰を意味するといふに至つては言語道断である。第五には
    軍の割拠主義である。作戦面にまで陸軍地区とか海軍地区といふものが分れ
    てゐた結果、戦勢を不利に導いたことは少くないのである。
     (森正蔵氏著『あるジャーナリストの敗戦日記』ゆまに書房、p.52)



   ※日本のジャーナリズムには、戦争を客観的に見つめる目はなく、あったとして
    も検閲が強化され、紙面に反映させることはできず、各新聞は競って特攻を礼
    賛し、本土決戦を訴えた。
        (星亮一氏著『戦艦「大和」に殉じた至誠の提督 伊藤整一』より)



   ※古山高麗雄氏の回想(作家案内ーー「吉田満 寡言の人」より)
     散華の世代の者の責任として、いや、人間として、戦後、自分は何をしなけ
    ればならないのか、どのように考えなければならないのか、を追究する。英霊
    を犬死ににさせてはならぬ、そのためには、この国を誇りある社会にしなけれ
    ばならぬ、と吉田さん(鳥越注:吉田満氏)は言う。
     私も、この国が誇りある社会になれば、どんなにいいだろう、とは思うのだ
    が、けれども私には、英霊を犬死ににさせないため身を粉にして、誇りある社
    会づくりに身を投じようという気はない。散華だの、犬死にだの、玉砕だの、
    英霊だの、という言葉が私にはない。私は、戦死者も、生存者も、その自己犠
    牲も、善意も、まったく報いられずに終わるかも知れぬ、と思っている。それ
    を、私たちはどうすることもできない、と言ったら吉田さんは、またまた澱の
    ようなものが溜まるような気持になるであろう。
            (吉田満氏著『戦艦大和ノ最期』講談社文芸文庫、p198)



   ※国民は家畜並。軍隊というのは最低最悪の組織だ。
     支那事変が拡大して、大東亜戦争になりますが、大東亜戦争でも、まず集め
    られ、使われたのは、甲種合格の現役兵です。人間を甲だの乙だのにわけて、
    甲はガダルカナル島に送られて、大量に死にました。
     敗戦後、わが国民は、二言目には人権と言うようになりましたが、戦前の日
    本には、人権などというものはありませんでした。国あっての国民、国民あっ
    ての国、昔も今も、そう言いますが、藩政時代も、明治維新以降も、日本は民
    主の国ではありませんでした。忠と孝が、人の倫理の基本として教育される。
    孝は肉親愛に基づく人間の自然な情ですが、忠は為政者が、為政者の受益のた
    めに、人の性向を利用し誘導して作り上げた道徳です。自分の国を護るための
    徴兵制だ、国民皆兵だと言われ、法律を作られ、違反するものは官憲に揃えら
    れて罰せられるということになると、厭でも従わないわけには行きません。高
    位の軍人は政治家や実業家と共に、国民を国のためという名目で、実は自分の
    ために、家畜並に使用しました。私の知る限り、軍隊ぐらい人間を家畜並にし
    てしまう組織はありません。貧しい農家の二男、三男の生活より、下士官の生
    活の方がいい、ということで人の厭がる軍隊に志願で入隊した人を、馬鹿とは
    言えません。しかし、国の為だ、天皇への忠義だ、国民なら当然だ、と言われ
    ても、人間を家畜と変わらないものにしてしまう組織は憂鬱な場所です。けれ
    ども、そこからのがれる術はありません。・・・
     軍隊というのは、私には最低最悪の組織です。
              (古山高麗雄『人生、しょせん運不運』草思社137-138)



   ※軍隊はpassionを殺し、machine(機械)の一歯車に変ずるところなのだ。
           (林尹夫(1945年7月28日戦死、享年24歳)の日記より)
     「家に帰れなかったら、そして、この海兵団から足を洗えなかったら、気
    が狂ってしまいそうだ」と言う。「いまおれは、ゆっくり本が読みたい。こ
    のぶんでは、とても戦争に行けない。”死”なぞいまのおれにとって思案の
    外の突発事)だ」、「…いまのおれにはそのようなパッションも気力もない。
    無関心、どうでもなれという自己喪失。そうだ、なにが苦しいといって、い
    まのような自己喪失を強制された生活、一歩動くとすぐにぶつかってくると
    いう障、なのだ。生のクライマックスで生が切断される。人生の幕がおりる。
    あるいは、それは実に素晴らしい。ましてクライマックスのあとに、静かな
    る無感覚がつづき、そのあと死の使者がくる」、「それはなおすばらしい筋
    書だ。だが生活に自己を打ち込めぬ、そして自己を表現する生活をなし得ぬ
    ままに死んでしまうとしたら、こんな悲惨なことが、あろうか」と追いつめ
    られた、極度に悲惨な心情を書き下す(1944年1月23日)。
     この3日後の1944年1月26日には、海軍航空隊の飛行機搭乗員の選抜発表を
    翌日に控え、選ばれることを願っている。そして林は、飛行専修予備学生予
    定者に決定し、1944年1月28日に、兵士の待遇の過酷なことで知られていた
    土浦海軍航空基地に配置されることになった。
     土浦に配属されて問もないころの日記には次のように書いている。
       学校にいたときの、あのPatriotismus(祖国愛)の感激、一歩一歩後
      退を余儀なくされているときの緊迫感、そういうものは、もういまは全
      然ない。だいたいpassionというものは、もう消えてしまった。軍隊は
      そういうpassionを殺し、人間をindifference(無関心)にし、惰性的
      に動く歯車に代えてしまうところだ。
          (大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.130-131)



   ※阿呆と家畜のオンパレード
     それにしても、名誉の出征に、名誉の戦死。聖戦という言葉も使われまし
    た。聖戦は鬼畜米英にホリーウォーと訳されて噂われましたが、アラヒトガ
    ミだとか、いざというときには大昔の蒙古襲来のときのように神風が吹く、
    なぜならわが国は神国だから、だとか。よくもまあ国の指導者があれほど次
    から次に、阿呆を阿呆と思わずに言い、国民もまた、その阿呆にあきれてい
    た者まで、とにかく、権力者たちに追従したのです。
     あれは、全体主義国家の国民としては、やむを得ない生き方であり、世界
    に冠たる大和民族の性癖でもあるのでしょう。世界に冠たる大和民族は、天
    皇を担ぐ権力者たちに押し付けられた言葉や考え方を否でも応でも、とにか
    く受け入れ、追従する者も、便乗して旗を振っている者も、みんな家畜にな
    りました。(古山高麗雄『人生、しょせん運不運』草思社、p.144)



   ※戦前の日本は、嘘八百の国であったが、嘘八百ということでは戦後も同様で
    ある。戦前の嘘の第一は、天皇陛下のため、御国のため、というやつだ。御
    国のために命を捧げる、というやつだ。本当に国を護るために、命をかけて
    戦うというのならいいが、あの戦争で国民が、国を護る戦争だと思い始めた
    のは、敗け始めてからである。本土が空襲で焼かれ、沖縄が占領されたころ
    になって大東亜戦争は、侵略の戦争から、国を護る戦争に変わったのである。
    国民は、徴兵を拒むことはできなかった。軍の敷いた法律から逃れることは
    できず、軍の意のままに狩り出され、物品のようにどんなところにでも送ら
    れて、殺し合いをやらされた。
     あの戦争は、米英仏蘭にはめられたということもあるだろうが、日本軍は、
    国を護るために支那大陸を侵略したのではない。東亜解放というのも、後追
    いの標語である。国民はそれを感じながら、しかし、ロを揃えて、天皇陛下
    のため、国のため、と言った。口先だけで言っていた者もいたが、そうだと
    思い込もうとした。そう思わなければ、軍の奴隷になってしまうからである。
     フーコンでもインパールでも、おびただしい将兵が餓死した。それを本人
    も、遺族も、軍の奴隷の餓死だとは思いたくないのである。国のための名誉
    の戦死だと思いたいのである。軍は、人のそういう心につけ込んだ。
     辰平はそう思っている。戦後は、天皇陛下のため、とは言わなくなったが、
    平和のために戦争を語ろう、などという嘘に満ちた国になった。戦争で最も
    苦しめられるのは、一番弱い女と子供だ、などという、甘言が幅を利かす国
    になった。・・・。(古山高麗雄氏著『フーコン戦記』(文藝春秋社)より)



   ※陸軍と海軍、足の引っ張りあい。大局観の喪失、ワンマン体制・・・
      挙句の果てが、「陸軍」と「海軍」の足の引っ張り合いであった。
      この頃から、両軍お互いの意地の張り合いが、目に付くようになつてい
     く。バカげたことに、それぞれが自分たちの情報を隠しあってしまう。
      「日本は太平洋戦争において、本当はアメリカと戦っていたのではない。
     陸軍と海軍が戦っていた、その合い間にアメリカと戦っていた……」など
     と揶揄されてしまう所以である。
      陸軍と海軍の意地の張り合いは、「大本営発表」が最もいい例であろう。
     大本営「陸軍報道部」と「海軍報道部」が競い合って国民によい戦果を報
     告しようと躍起になっていた。やがてそれがエスカレートしていき、悪い
     情報は隠蔽されてしまう。そして虚偽の情報が流されるようになっていく。
     「大本営発表」のウソは、この時期からより肥大化が始まる。
      仕方ないのかもしれない、この当時、東條に向かって「東條閣下、この
     戦争は何のために戦っているのでしょうか」などと意見するような者がい
     たら、たちまちのうちに反戦主義者として南方の激戦地に転任させられて
     しまうのがオチである。
      危機に陥った時こそもっとも必要なものは、大局を見た政略、戦略であ
     るはずだが、それがすっぼり抜け落ちてしまっていた。大局を見ることが
     できた人材は、すでに「二・二六事件」から三国同盟締結のプロセスで、
     大体が要職から外されてしまい、視野の狭いトップの下、彼らに逆らわな
     い者だけが生き残って組織が構成されていた。
      昭和17年の頃の日本は、喩えていえば台風が来て屋根が飛んでしまい、
     家の中に雨がザーザー降り込んできているのに、誰も何もいわない、雨漏
     りしているのに、わざと見ないようにして、一生懸命、玄関の鍵を閉めて
     戸締りなどに精をだしている……、そんなようなものだった。
      だが、そうした組織の”体質”は、今を顧みても、実は、そう変わらな
     いのかもしれない。
      昨今のNHKの、海老沢勝二元会長をめぐる一連の辞任騒動や西武グループ
     の総帥、堤義明の逮捕劇など見ていると、当時の軍の組織構造と同じよう
     に見えてしまう。あれだけ大きな組織の中でワンマン体制が敷かれ、誰も
     彼に意見できず、傲慢な裸の王様の下、みな従順に飼い馴らされてきたの
     だ。そして、危機に直面すると、何の具体策もない精神論をふりまわす。
     (保阪正康氏著『あの戦争は何だったのか』新潮新書、pp.122-123より)



   ※ 渡辺清氏著『砕かれた神』(岩波現代文庫)より
     東条英機大将が自殺をはかり未遂(九月十一日)。・・・
     それにしてもなんという醜態だろう。人の生死についてことさらなことは
    慎むべきだと思っているが、余人ならいざ知らず、東条といえば開戦時の首
    相だった人ではないか。一時は総理大臣だけでなく、同時に陸軍大臣や参謀
    総長も兼任していたほどの権力者だったではないか。そればかりではない。
    陸軍大臣だった当時、自ら「戦陣訓」なるものを公布して全軍に戦陣の戒め
    をたれていたではないか。「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を
    残すこと勿れ」。これはその中の一節であるが、この訓令を破っているのは、
    ほかでもない当の本人ではないか。
     軍人の最高位をきわめた陸軍大将が、商売道具のピストルを射ちそこなっ
    て、敵の縄目にかかる。これではもう喜劇にもなるまい。
     東条はこの失態によって、彼自身の恥だけでなく、日本人全体の恥を内外
    にさらしたようなものだ。おれは東条大将だけは連合軍から戦犯に指名され
    る前に潔く自決してほしかった。あの阿南陸相のように責任者なら責任者ら
    しく、それにふさわしい最期を遂げてほしかったと思う。(p.23-24)



     ・・・「出てこいニミッツ、マッカーサー」と歌にまでうたわれていた恨
    みのマッカーサーである。その男にこっちからわざわざ頭を下げていくなん
    て、天皇には恥というものがないのか。いくら戦争に敗けたからといって、
    いや、敗けたからこそ、なおさら毅然としていなくてはならないのではない
    か。まったくこんな屈辱はない。人まえで皮膚をめくられたように恥ずかし
    い。自分がこのような天皇を元首にしている日本人の一人であることが、い
    たたまれぬほど恥ずかしい。
     マッカーサーも、おそらく頭をさげて訪ねてきた天皇を心の中で冷ややか
    にせせら笑ったにちがいない。軽くなめてかかったにちがいない。その気配
    は二人の写実にも露骨にでている。モーニング姿の天皇は石のように固くし
    ゃちこばっているのに、マッカーサーのほうはふだん着の開襟シャツで、天
    皇などまるで眼中にないといったふうに、ゆったりと両手を腰にあてがって
    いる。足をいくらか開きかげんにして、「どうだ」といわんばかりに傲慢不
    遜にかまえている。天皇はさしずめ横柄でのっぼな主人にかしずく、鈍重で
    小心な従者といった感じである。
     だが、天皇も天皇だ。よくも敵の司令官の前に顔が出せたものだ。それも
    一国の元首として、陸海軍の大元帥として捨て身の決闘でも申し込みに行っ
    たというのなら話はわかる。それならそれで納得もいく。といってもおれは
    別に天皇にそうすぺきだと言っているのではないが、ただそれくらいの威厳
    と気概があってほしかった。
     ところが実際はどうだろう。わざわざ訪ねたあげく、記念のつもりかどう
    かは知らないが、二人で仲よくカメラにおさまったりして、恬として恥ずる
    ところもなさそうだ。おれにはそう見える。いずれにしろ天皇は、元首とし
    ての神聖とその権威を自らかなぐり捨てて、敵の前にさながら犬のように頭
    をたれてしまったのだ。敵の膝下にだらしなく手をついてしまったのだ。そ
    れを思うと無念でならぬ。天皇にたいする泡だつような怒りをおさえること
    ができない。(p.36-37)



     夜新聞を読んでいて感じたことだが、この頃の新聞の豹変ぶりは実にひど
    い。よくもこうまで変われるものだ。これはラジオも同じだが、ついせんだ
    ってまでは、「聖戦完遂」だの「一億火の玉」だの「神州不滅」だのと公言
    していたくせに、降伏したとたんに今度は「戦争ははじめから軍閥と財閥と
    官僚がぐるになって仕組んだものであり、聖戦どころか正義にもとる侵略戦
    争であった」などとさかんに書いたり放送したりしている。
     まったく人を馬鹿にしている。それならそれでなぜもっと早く、少なくと
    も戦争になる前にそれをちゃんと書いてくれなかったのか。事実はこれこれ
    だと正直に報道してくれなかったのか。それが本来の新聞やラジオの使命と
    いうものだろう。それを今ごろになってズボンでも裏返すように、いとも簡
    単に前言をひっくりかえす。チャランポランな二枚舌、舞文曲筆、無責任に
    もほどがある。いつだったか「新聞で本当なのは死亡広告だけだ」と言って
    いた人がいたが、おれももう金輪際、新聞やラジオなるものを信用しない。
    というのは、いま言ったり書いたりしていることが、いつまた同じ手口でひ
    っくり返されるかわからないからである。
     それからこれも前から腹にすえかねていることだが、このごろの新聞やラ
    ジオが、ふた言目にはアメリカを民主主義のお手本だといって持ち上げてい
    る。日本が平和な文化国家として立ち直るためには、この際もろもろの過去
    の行きがかりを捨ててアメリカと手を取りあって仲良くすぺきだといってい
    る。こういう場あたり的なご都合主義を敗け犬の媚びへつらいというのだろ
    う。それほど仲良くする必要があるのなら、はじめから戦争などしなければ
    よかったのだ。だいいち、それではアメリカを敵として戦って死んでいった
    者はどうなるのだ。新聞やラジオの仕事にたずさわる人たちは、そういう人
    たちのことを一度でも考えてみたことがあるのだろうか。
     おれはアメリカとの戦いに生命を賭けた。一度賭けたからにはこのまま生
    涯賭け通してやる。誰がなんと言おうと、アメリカはこれからもおれにとっ
    ては敵だ。いまになって「昨日の敵は今日の友」などという浪花節は聞きた
    くもない。(p.46-47)



     三菱財閥がかつて東条大将に一千万円を寄付したということが新聞に出て
    いる。これをみると、「戦争中軍閥と財閥は結託していた」というのはやは
    り事実のようだ。それにしてもこんな気の遠くなるような大金を贈った三菱
    も三菱だが、それを右から左に受けとった東条も東条だ。
     表では「尽忠報国」だの「悠久の大義」だの「聖戦の完遂」だなどと立派
    なことを言っておきながら、裏にまわって袖の下とはあきれてものも言えな
    い。まったくよくもそんな恥知らずなことができたものだ。むろんこれは氷
    山の一角かもしれない。首相の東条さえこうなのだから、ほかのお偉方もわ
    かったものではない。天皇にもそれ相応の寄進があったのではないかと疑い
    たくもなる。
     いずれにしろ、おれたちが前線で命を的に戦っていた最中に、上の者がこ
    んなふらちな真似をしていたのかと思うと、ほんとに腹がたつ。と同時に、
    これまでそういう連中をえらい指導者としててんから信じきっていた自分が
    なんともやりきれない。(p.87)



    <渡辺清氏の冷静な回想、p.220-221>
     考えてみると、おれは天皇について直接なにも知らなかった。個人的には
    会ったことも口をきいたこともないのだからそれは当然のことだが、そのお
    れが天皇を崇拝するようになったのは小学校に上がってからである。おれは
    そこで毎日のように天皇の「アリガタサ」について繰り返し教えこまれた。
    「万世一系」「天皇御親政」「大御心」「現御神」「皇恩無窮」「忠君愛国」
    等々。そして、そこから天皇のために命を捧げるのが「臣民」の最高の道徳
    だという天皇帰一の精神が培われていったわけだが、実はここにかくれた落
    とし穴があったのだ。
     おれは教えられることをそのまま頭から鵜呑みにして、それをまたそっく
    り自分の考えだと思いこんでいた。そしてそれをいささかも疑ってみようと
    もしなかった。つまり、なにもかも出来合いのあてがいぶちで、おれは勝手
    に自分のなかに自分の寸法にあった天皇像をつくりあげていたのだ。現実の
    天皇とは似ても似つかないおれの理想の天皇を……。
     だから天皇に裏切られたのは、まさに天皇をそのように信じていた自分自
    身にたいしてなのだ。現実の天皇ではなく、おれが勝手に内部にあたためて
    いた虚像の天皇に裏切られたのだ。言ってみれば、おれがおれ自身を裏切っ
    ていたのだ。自分で自分を欺していたのだ。
     郁男のかけた謎の意味もおそらくこのことだろうと思う。いずれにしろ、
    いままでのおれは天皇を自分と等距離において見つめていく眼を持っていな
    かった。この点にたいする自覚と反省がまるでなかった。天皇を一方的に弾
    劾することで、自分を”よし”とする思い上がりと逃避がそこにあったと思
    う。
     天皇を責めることは、同時に天皇をかく信じていた自分をも責めることで
    なければならない。自分を抜きにしていくら天皇を糾弾したところで、そこ
    からはなにも生まれてこない。それはせいぜいその場かぎりの腹いせか個人
    的なグチに終わってしまう。そしてそれでことはすんだつもりになって、時
    とともに忘れてしまい、結局、いつかまた同じ目にあわされることになるの
    だ。とにかく肝心なのはおれ自身なのだ。二度と裏切られないためにも、天
    皇の責任はむろんのこと、天皇をそのように信じていた自分の自分にたいす
    る私的な責任も同時にきびしく追及しなければならない。おれは今にして強
    くそう思う。
     戦争についてもまったく同じことがいえる。……。



   ※ 加藤周一の怒り(『天皇制を論ず』、1946年3月)
     加藤周一も、1946年3月に「天皇制を論ず」という論考を発表し、「恥を
    知れ」と保守派を非難した。加藤はその理由を、後年こう述べている。
    
      一九四五年、敗戦が事実上決定した状況のもとで、降伏か抗戦かを考え
     た日本の支配者層の念頭にあったのは、降伏の場合の天皇の地位であって、
     抗戦の場合の少くとも何十万、あるいは何百万に達するかもしれない無益
     な人命の犠牲ではなかった。彼らにとっては、一人の天皇が日本の人民の
     全体よりも大切であった。その彼らが、降伏後、天皇制を廃止すれば、世
     の中に混乱がおこる、といったのである。そのとき彼らに向って、無名の
     日本人の一人として、私は「天皇制を論ず」を書き、「恥を知れ」と書い
     た。日本国とは日本の人民である。日本の人民を馬鹿にし、その生命を軽
     んじる者に、怒りを覚えるのは、けだし愛国心の然らしめるところだろう
     と思う。



     ここでいう「人命の犠牲」は、敗戦直後の人びとにとって、抽象的な言葉
    ではなかった。敗戦時に26歳だった加藤は、同年輩の友人の多くを戦争で失
    っていた。加藤によれば、「太平洋戦争は多くの日本の青年を殺し、私の貴
    重な友人を殺した。私自身が生きのびたのは、全く偶然にすぎない。戦争は
    自然の災害ではなく、政治的指導者の無意味な愚挙である、と考えていた私
    は、彼らと彼らに追随し便乗した人々に対し、怒っていた」。
     こうして加藤は46年の「天皇制を論ず」で、天皇制を「個人の自由意志を
    奪い、責任の観念を不可能にし、道徳を頑廃させ」る原因だと批判したので
    ある。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.134)



   ※前線の兵士の飢えと難渋(現在:国民の耐乏生活と企業努力)を大本営
    (現在:政府)は無視し、「大和魂」や「神風」などの戯言をもって
    ごまかし続けた。
    この戦争の中に、現在(平成8~11年)の日本の姿が全て凝縮されていると
    感じているのは筆者だけだろうか?



        はじめ第十五軍の隷下にあった龍兵団が、後にビルマ方面の直属隷
       下部隊となり、さらに昭和十九年に、新設された第三十三軍の隷下に
       移ったといったようなことも、当時の芳太郎は、知らなかった。師団
       の上に軍があり、その上にビルマ方面軍があり、その上に南方総軍が
       あり、そのまた上に大本営があるといったぐらいのことは知っていた
       が、自分の部隊が十五軍の下であろうが三十三軍の下であろうが、ど
       うでもよかった。奥州町の萩原稔は、上の者がちっとばかり異常であ
       ったり馬鹿であったりしたら、それだけでたちまち何千何方の者が殺
       されるのが戦争だと言う。大東亜戦争はちっとばかりの異常や馬鹿ぐ
       らいでやれるものではなく、あれはもう大異常の大馬鹿だが、軍司令
       官だの師団長だのが、自分にできることで、ほんのちょっとでも異常
       や馬鹿から脱すれば、どれだけの人間の命が救われるかわからない。
       その良いほうの見本が水上源蔵少将であり、悪いほうの見本が、たと
       えば第十五軍司令官の牟田口中将だと萩原は言った。
               (古山高麗雄氏『断作戦』(文春文庫) p.140)
                --------------------------
       (鳥越注:龍陵会戦(S19.4~10)撤退のしんがりをつとめながら
      生き残った大竹さんはその手記のなかで・・・)
       守備隊の兵士たちは、マラリアや赤痢にかかり、連日連夜戦い続
      け、飢え、気力も体力も限界の状態にあった。眼は開いていてもよ
      く見えない、自分ではせいいっぱい走って突撃しているつもりでも、
      実はヨタヨタ歩きをしているのであって、喚声を上げたつもりが、
      声が出ていない。そんなふうになっている兵士たちに、何時までに
      どこそこの敵陣地を占領せよ、と簡単に命令を出す上官が、不可解
      であった、と書いているが、許せないと憤っていたのではないだろ
      うか。勝算もないのに攻撃命令が出され、そのたびに戦死傷者をつ
      くった。肉薄攻撃をする敵なら、反撃するが、砲爆撃には手の打ち
      ようもなく、ただ耐え忍ぶだけである。一兵卒には、防禦の方法も
      攻撃の方法もない。そのような状態が長期間続き、兵士たちは、外
      見が幽鬼のような姿になったばかりでなく、中身も異常になってい
      た。なぜ、そのような戦闘を続けなければならなかったのだろうか。
       断作戦(鳥越注:S19.7、中国雲南省の援蒋ルート遮断作戦。また
      してもキチガイ辻政信の愚劣な発想)が発動されて、私が龍陵周辺
      高地に着いたころには、守備隊の苦痛は限界に達していたのだ。も
      うこれ以上はもちこたえられない。これが最期だと、守備隊の兵士
      たちが覚悟をしていたギリギリの状態だったのである。
             (古山高麗雄氏『龍陵会戦』(文春文庫) p.270)



   ※木村久夫の場合
     私は死刑を宣告せられた。誰がこれを予測したであろう。年齢三十に至ら
    ず、かつ、学半ばにしてこの世を去る運命を誰が予知し得たであろう。波瀾
    の極めて多かった私の一生は、またもや類まれな一波瀾の中に沈み消えて行
    く。我ながら一篇の小説を見るような感がする。
     しかしこれも運命の命ずるところと知った時、最後の諦観が湧いて来た。
    大きな歴史の転換の下には、私のような蔭の犠牲がいかに多くあったかを過
    去の歴史に照して知る時、全く無意味のように見える私の死も、大きな世界
    歴史の命ずるところと感知するのである。
     日本は負けたのである。全世界の憤怒と非難との真只中に負けたのである。
    日本がこれまであえてして来た数限りない無理非道を考える時、彼らの怒る
    のは全く当然なのである。今私は世界全人類の気晴らしの一つとして死んで
    行くのである。これで世界人類の気持が少しでも静まればよい。それは将来
    の日本に幸福の種を遺すことなのである。
     私は何ら死に値する悪をした事はない。悪を為したのは他の人々である。
    しかし今の場合弁解は成立しない。江戸の仇が長崎で討たれたのであるが、
    全世界から見れば彼らも私も同じく日本人である。彼らの責任を私がとって
    死ぬことは、一見大きな不合理のように見えるが、かかる不合理は過去にお
    いて日本人がいやというほど他国人に強いて来た事であるから、あえて不服
    は言い得ないのである。彼らの眼に留った私が不運とするより他、苦情の持
    って行きどころはないのである。日本の軍隊のために犠牲になったと思えば
    死に切れないが、日本国民全体の罪と非難とを一身に浴びて死ぬと思えば腹
    も立たない。笑って死んで行ける。
     ・・・・・
     私は生きるべく、私の身の潔白を証明すべくあらゆる手段を尽した。私の
    上級者たる将校連より法廷において真実の陳述をなすことを厳禁せられ、そ
    れがため、命令者たる上級将校が懲役、被命者たる私が死刑の判決を下され
    た。これは明らかに不合理である。私にとっては、私の生きる事が、かかる
    将校連の生きる事よりも日本にとっては数倍有益なる事は明白と思われ、ま
    た事件そのものの実情としても、命令者なる将校連に責が行くべきは当然で
    あり、また彼らが自分自身でこれを知るがゆえに私に事実の陳述を厳禁した
    のである。ここで生きる事は私には当然の権利で、日本国家のためにもなさ
    ねばならぬ事であり、かつ、最後の親孝行でもあると思って、判決のあった
    後ではあるが、私は英文の書面をもって事件の真相を暴露して訴えた。判決
    後の事であり、また上告のない裁判であるから、私の真相暴露が果して取り
    上げられるか否かは知らないが、とにかく最後の努力は試みたのである。初
    め私の虚偽の陳述が日本人全体のためになるならばやむなしとして命令に従
    ったのであるが、結果は逆に我々被命者らに仇となったので、真相を暴露し
    た次第である。もしそれが取り上げられたならば、数人の大佐中佐、数人の
    尉官連が死刑を宣告されるかも知れないが、それが真実である以上は当然で
    あり、また彼らの死によってこの私が救われるとするならば、国家的見地か
    ら見て私の生きる方が数倍有益である事を確信したからである。美辞麗句ば
    かりで内容の全くない、彼らのいわゆる「精神的」なる言語を吐きながら、
    内実においては物慾、名誉慾、虚栄心以外の何ものでもなかった軍人たちが、
    過去において為して来たと同様の生活を将来において続けて行くとしても、
    国家に有益なる事は何ら為し得ないのは明白なりと確信するのである。日本
    の軍人中には偉い人もいたであろう。しかし私の見た軍人中には偉い人は余
    りいなかった。早い話が高等学校の教授ほどの人物すら将軍と呼ばれる人々
    の中にもいなかった。監獄において何々中将、何々大佐という人々に幾人も
    会い、共に生活して来たが、軍服を脱いだ赤裸の彼らは、その言動において
    実に見聞するに耐えないものであった。この程度の将軍を戴いていたのでは、
    日本に幾ら科学と物量があったとしても戦勝は到底望み得ないものであった
    と思われるほどである。殊に満州事変以来、更に南方占領後の日本軍人は、
    毎日利益を追うを仕事とする商人よりも、もっと下劣な根性になり下ってい
    たのである。彼らが常々大言壮語して言った「忠義」「犠牲的精神」はどこ
    へやったか。終戦により外身を装う着物を取り除かれた彼らの肌は、実に見
    るに耐えないものだった。
     しかし国民はこれらの軍人を非難する前に、かかる軍人の存在を許容し、
    また養って来た事を知らねばならない。結局の責任は日本国民全体の知能程
    度の浅かった事にあるのである。知能程度の低い事は結局歴史の浅い事だ。
    二千六百余年の歴史があるというかも知れないが、内容の貧弱にして長いば
    かりが自慢にはならない。近世社会としての訓練と経験が足りなかったとい
    っても、今ではもう非国民として軍部からお叱りを受けないであろう。
     私の学生時代の一見反逆的として見えた生活も、全くこの軍閥的傾向への
    無批判的追従に対する反撥に外ならなかったのである。
     ・・・     (『新版 きけわだつみのこえ』岩波新書、pp.444-467)



   ※「軍神」とか「作戦の神様」とか、何を根拠に賞賛したのであろうか?。
     暗号は悉く盗聴、解析され事実上作戦などはなきに等しかった。いい気な
    ものである。
     「トルコの父」として、今でもトルコ国民に敬愛されている傑出した軍人
    であり政治家「ケマル・パシャ」と比較したとき、我が国の軍部中枢の精神
    活動に対して名状し難い稚拙さと卑怯さを感じる。



   ※日本がましな国だったのは、日露戦争までだった。あとはーー特に大正七年
    のシベリア出兵からはーーキツネに酒を飲ませて馬に乗せたような国になり、
    太平洋戦争の敗戦で、キツネの幻想は潰えた。
                 (司馬遼太郎氏著『アメリカ素描』より引用)



   ※日本軍は日露戦争の段階では、せっぱつまって立ち上がった桶狭間的状況の
    戦いであり、児玉(源太郎)の苦心もそこにあり、つねに寡をもって衆をや
    ぶることに腐心した。
     が、その後の日本陸軍の歴代首脳がいかに無能であったかということは、
    この日露戦争という全体が「桶狭間」的宿命にあった戦いで勝利を得たこと
    を先例としてしまったことである。陸軍の崩壊まで日本陸軍は桶狭間式で
    終始した。 (司馬遼太郎氏著『坂の上の雲<四>』より引用)



   ※日本人は敗れたことで過去をすべて否定し、現代の平和を享受しているが、
    本当にそれでいいのだろうか。国家という存在が希薄で、しかも無防備な姿
    のままの今日の日本が、未来永劫に存在していけるのだろうか。
    (星亮一氏著『戦艦「大和」に殉じた至誠の提督 伊藤整一』あとがきより)



★1942年(昭和17年)の国権の背景  
   ※医療はその公共性から国民とともに行政に翻弄され蹂躙されるおそれが最も
    高い分野であり、特に戦時中医師会は、戦争遂行のための国家組織の重要な
    一翼を担うよう国家統制された。(一例:731石井細菌部隊の残虐性)
       ■「国民医療法」の制定、公布。医療国家統制の始まり。
       ■医師会の官製化
        ・行政当局の監督を強化することにより、医師会を国家の別働機関
         たらしむる。
        ・軍医を除いて、医師の悉くが医師会へ強制加入とされた。
       ■特別法人「日本医療団」設立。
         病院、診療所、産院の運営と医療関係者の指導練成がその任務と
        された。
            -----------------
       ■「日本銀行法」公布
         政府の日銀に対する監督権は著しく強化され、日銀の国家的色彩
        がいよいよ濃くなり、戦争中は政府発行の膨大な国債と引き替えに
        日銀券を無制限に増発した。このことは戦後に激しいインフレを
        招来するもととなった。
            -----------------
       ■「食糧管理法」制定
         昭和13年の「農地調整法」「国家総動員法」と、昭和16年の
        「臨時農地管理令」と合わせて、土地と米の生産についての全て
        が国家管理の網の目に入るように仕組まれた。このことは地主の
        権利を著しく制限し、小作人の権利擁護となって反映され、敗戦
        後は農地改革が小作地を完全に解放した。
            -----------------
       ■「翼賛選挙」(1942年、昭和17年4月30日、第21回総選挙)
        ※政府御用機関「翼賛政治体制協議会」(会長 阿部信行元首相) 
         が選定、推薦した候補者が大量に立候補し、県、大日本翼賛壮年
         団、学校長、警防団、町内会長など、官民あげて手厚い支援が行
         われ、臨時軍事費からも一人当たり5000円の選挙費用が渡された。
         推薦者は381人(定数466人)が当選。
           ----------------<「翼賛選挙」の様相>----------------
           選挙は全く国民の自由である。(中略) しかるにこれを思
          わずして一方的に特殊候補者を製造し、国民に対して官権の擁
          護あるものの如き印象を与え、自由候補者と対立せしめて選挙
          を争わんとするが如きは全く選挙制度の根本を紊(みだ)るも
          のにして、世界に立憲政治始まって以来未だかつて見るあたわ
          ざる咄々怪事の至りである。(中略)若し他日我国の議会に政
          府盲従議員多数を占むることあらば、その形体の如何に拘らず
          その実質は全く独逸議会とその軌を一にし、立憲政治はここに
          滅ぶべく(後略、『群馬県議会史』第四巻)
          (楠精一郎氏著『大政翼賛会に抗した40人』朝日新聞社、
            pp.186-187)
        ※東条英機「内外の新情勢に応じ、大東亜戦争の完遂に向かって
              国内体制を強化、これを一分の隙もないものにする
              のが、今度の総選挙の持つ重大な意義だ。推薦制の
              活用が大いなる貢献と示唆をもたらすだろう」
                (身勝手で空虚な演説といわざるをえない)。
        ※日本の政党政治は名実ともに消失した。
         国内は太平洋戦争緒戦の勝利で沸き立っていた。
            -----------------
        ・ドイツがロケット兵器「V2」を完成(フォン・ブラウンら)     
        ・アメリカ、マンハッタン計画を立ちあげる。(1942.9)
           レスリー・グローヴス、ロバート・オッペンハイマー、
          フェルミ、シーボルグらが中心となり原爆開発にいそしむ。
        ※レオ・シラードの箴言は無視された。
           「人類が新たに解き放った自然の力を、破壊のために使っ
          た国は責任を負うことになろう。想像を絶する惨事に怯える
          時代への扉を開くことになる」。
  1943年(昭和18年)の補遺
       ■診療報酬支払い方式は「健康保険法」改正により健康保険、国民
        健康保険とも点数単価方式になった。
        ※医者は皆保険医で、その代価は村役場からとる由。すなわち
         患者が病気になれば、医者はそれに投薬ないしは注射す。そ
         の代価は村役場に請求するが、そこで値段を鑑定し、適当な
         値段を交附す。したがって医者の請求するだけを払うのでは
         ない。そして誰もその保健(ママ)会員であり、支払いは租
         税に応じて出すのだ。
                (清沢洌氏著『暗黒日記』岩波文庫、p.48)
             -----------------
        ・マリー・キュリーが白血病で死去
          (1903年放射能の発見、1911年ラジウムの単離でそれぞれ
           ノーベル賞受賞)
        ・プルトニウムの精製が、この年の年末より盛んになってくる。
          またプルトニウム汚染が深刻な問題となり始める。
           (アイリーン・ウェルサム『プルトニウムファイル<上>』)
        ・抗結核薬の発見
          ストレプトマイシン(ワックスマン、シュルツ)
           PAS(リーマン、ロスダール)
        ・カチン事件(1943)
           当時ソ連軍に捕らえられていたポーランド軍将校5000人の
          射殺死体が、東ポーランドのカチンの森で見つかった。ソ連
          は長い間、カチン事件をナチスの所業としてきたが、1989年
          になってようやく、それがソ連軍の犯行であったことを認め、
          ポーランドに謝罪し、調査を約束した。
               (荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店、p.134)

  1944年(昭和19年)の補遺
       ■ブレトン・ウッズ体制の幕開け(機軸通貨がポンドからドルへ)
          ニューハンプシャー州、ブレトン・ウッズのホワイトマウン
         テン・リゾートに44か国から730人の代表があつまり、新しい国際
         経済体制づくりの計画が立てられた。最終的な形はイギリス大蔵省
         代表ジョン・メイナード・ケインズと、アメリカ財務省代表ハリー
         ・ホワイトが練りあげた。新しい体制では、合衆国のドルが構造
         の核心となり、そのとき全能のドルを支えていたのは、世界の貨幣
         用金の75%にあたる合衆国の金保有高だった。
          この新しい体制では合衆国のみが通貨を固定レートで自由に金へ
         交換できるとされ、つまりはドルに国際通貨の地位を与えること
         になった(金1オンス(31.1035g)=米ドル紙幣35ドル)。
         (ただし、この体制は1971年8月15日にニクソン大統領が一方的に
         ドルの金への兌換を認めないという決定を下し(ニクソン・ショ
         ック)、それ以後従来の国際通貨制度は弱体化し消滅への道をたど
         ることになった)。
        ※2008年3月現在、米ドルの力は1g=3000円で約30分の1になってしま
         っている。(副島隆彦氏著『連鎖する大暴落』徳間書店、p.128)

       ■ボナー・F・フェラーズ准将(マッカーサー軍事秘書官、心理戦責任
        者)の見事な分析による戦後の天皇制の維持への方針(1944年)。
                (フェラーズ准将は米軍きっての親日軍人だった)
          軍国主義者のギャングたちが神聖不可侵なる天皇の信頼をも裏
         切ったことを、大衆は実感するであろう。軍国主義者たちが、帝
         国の神聖な統治者たる天子を没落の瀬戸際へと追い込んだのだ。
          天皇をだます者は、日本に存在してはならない。そう理解でき
         たとき、これまで長い間表面に出られなかった保守的で寛容な勢
         力が真価を発揮する可能性が出てくるであろう。彼らが先頭にた
         って政府を握り、彼らの手に残った日本列島と日本人と天皇を救
         うために必要な譲歩を行うかもしれない。天皇が和平を裁可すれ
         ば、全員が納得するであろう。そうすれば、日本を完全な廃墟に
         するほかなくなる前に、対日戦争は終結する可能性があろう。
          休戦条件については、われわれはけっして弱腰であってはなら
         ない。しかしながら、天皇の退位や絞首刑は、日本人全員の大き
         く激しい反応を呼び起こすであろう。日本人にとって天皇の処刑
         は、われわれにとってのキリストの十字架刑に匹敵する。そうな
         れば、全員がアリのように死ぬまで戦うであろう。軍国主義者の
         ギャングたちの立場は、非常に有利になるであろう。戦争は不必
         要に長引き、われわれの損害も不必要に増大するであろう。
          ・・・・・
          天皇にだけ責任を負う独立した軍部が日本にあるかぎり、それ
         は平和にたいする永久の脅威である。しかし、天皇が日本の臣民
         にたいしてもっている神秘的な指導力や、神道の信仰があたえる
         精神的な力は、適切な指導があれば、必ずしも危険であるとは限
         らない。日本の敗北が完全であり、日本の軍閥が打倒されている
         ならば、天皇を平和と善に役立つ存在にすることは可能である。
          日本の政府については、権力を分散させ、それら相互のあいだ
         にチェック・アンド・バランスの仕組みを持たせる必要がある。
         天皇の側近は、すべて非軍人のリベラルな指導者でなければなら
         ない。武装組織は、非軍人の責任者に従う国内治安用の警察だけ
         に限定しなければならない。・・・
         (ジョン・ダワー(増補版)『敗北を抱きしめて<下>』
          三浦洋一・高杉忠明・田代泰子訳、岩波書店、pp.9-11より)

1945年(昭和20年):大東亜戦争(太平洋戦争)終結(以下敗戦前後の補遺)
       ■ヤルタ会談(1945.2.4~):密約でソ連の参戦(8.9)が決定された。
         ルーズベルト、チャーチル、スターリンの密約
       ■ポツダム宣言(1945.7.26)
        天皇「わたしのことはよい。それよりも和平の道がひらかれたのが
           喜ばしいと思う。戦争を継続すれば、空襲などもあって罪の
           ない国民が傷つく。受諾の方向で動いてほしい」
        参謀総長梅津美治郎、軍令部総長豊田副武、陸相阿南惟幾は受諾反
        対、本土決戦を主張。戦争を知らないアホウばかりであった。

       ======== 海軍と陸軍の反目は終戦工作のもたつきとなって ========
       ======== 広島と長崎への原爆投下を誘った。また8月9日に ========
       ======== は極東ソ連軍の満州進出に至った。       ========

       ■8月14日正午、御前会議において、日本の無条件降伏が決定された。
        ※陸軍若手皇道派のクー・デタ計画は宮城占拠まで至ったが、間一
         髪のところで阻止。(阿南陸相自決)
          -----------------------------------------------
  ★ 1945年(昭和20年)の一年間に学ぶこと
     日本の歴史上には、日本近代国家のカラクリがあらわに見えていた時期が
    ありました。1945年の一年間です。
     米軍の原爆投下による広島・長崎の惨禍も、シベリア抑留につながるソ連
    の参戦も、東京大空襲も、沖縄戦もみな、国体護持の保証が得られないから
    と和平交渉を遅らせているうちに起こったことです。
     1945年2月、近衛文麿元首相は昭和天皇に「敗戦は必至なので降伏を遅ら
    せると国体そのものが危うくなる。だから今のうちに和平交渉をはじめるべ
    きだ」と進言しました。これを昭和天皇は「国体護持のためにはもう一度戦
    果を挙げてからでないと難しい」として近衛の進言を斥けたのです。このあ
    と、3月10日の東京大空襲で都心は焼け野原となりました。3月未から6月に
    かけては沖縄戦で多数の民間人が死亡、このとき沖縄は完全に日本政府によ
    って捨て石にされたのです。8月には広島・長崎への原爆投下。
     このように一般の人たちが戦禍にさらされ、戦後、戦争の記憶として語ら
    れてきたもののほとんどはこの年に集中しています。それらはみな国体護持
    のために和平交渉を遅らせたことによって生じたものです。日本の国家が何
    を守るためにあったのか、ハッキリしているではありませんか。それにもか
    かわらず、国家そのものへの疑いというものがおよそない。それどころか、
    昭和天皇が国民を救うために終戦の「聖断」を下してくれたから最悪の結果
    をまぬがれたのだというような神話が、マス・メディアによって流され続け
    ているのです。(高橋哲也氏著『反哲学入門』白澤社/現代書館,pp.224-225)
  ★「一億総懺悔」:東久邇稔彦(首相)のフザけた戦争責任論(鳥越私見)
    ・・・一般国民の戦争責任については、敗戦直後の首相だった東久邇稔彦が、
   「一億総懺悔」を訴えた経緯があった。・・・一九四五年八月二八日の記者会見
   で、東久適は敗戦の原因の一つとして、闇経済に代表される「国民道義の低下」
   を挙げ、「一億総懺悔をすることがわが国再建の第一歩」だと唱えた。
    しかしこの「一億総懺悔」論は、人びとの反発を買った。たとえば、『毎日新
   聞』への一九四五年九月八日の投書は、こう述べている。

     「一人残らず反省」とか、「一人残らず懺悔」とか、一体それは国民の誰に
    向かっていったのか。……終戦の聖断が下るまで自分は頑張り通して来た。配
    給上の不公正や各種事業にたいする急・不急の誤認、あらゆる窓口の不明朗な
    ど、戦力低下に拍車をかけたのはみな官吏ではないか。貴官達はどの口で、誰
    に向って「反省しろ」だの「懺悔しろ」だのといえるのか。自分は涙をもって
    問う。特攻隊その他戦死者の遺族、工場戦死者の遺族も、罪深き官吏と一緒に
    懺悔するのか。反省するのか。
            (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.105)

  ★ 敗戦前後の軍事物資の消滅
    八月二〇日、マニラの米軍は日本の降伏使節に「一般命令第一号」を手渡し、
   日本軍の全資産は手を付けず保管せよと命じた。東久邇宮新内閣は、この命令
   を無視した。マッカーサー元帥が到着する予定日の二日前、日本政府は前述の
   秘密の処分命令(「陸機三百六十三号」:すべての軍事物資の処分を地方部隊
   の司令官の手に委ねる)を取り消したが、すでに処分された資産の所在を確認
   し回収しようとする努力はまったく行われなかった。当然のことながら、これ
   らの物資の所在に関する記録は、もはや簡単には入手できなくなっていた。こ
   れと同じ時期、日本銀行は「平和的」な生産に転換させるという表向きの目的
   の下に、軍需関係の業者に対して膨大な融資を行うことに力を注いでいた。後
   日行われた調査記録を読むと、影響力をもつ人々の非常に多数が、天皇の放送
   が行われた後の二週間の混沌の間に軍の倉庫から勝手に物資を持ち出し、軍事
   予算や日本銀行から急いで代金を支払ってもらえるよう軍需業者や旧友のため
   に手を打ったり書類を破棄することに、目が覚めている時間のほとんどをあて
   ていたとの印象は拭えない。日本史上最大の危機のただ中にあって、一般民衆
   の福利のために献身しようという誠実で先見性ある軍人、政治家、官僚はほと
   んどいなかった。旧エリートたちからは、賢人も英雄も立派な政治家も、ただ
   の一人も出現しなかったのである。
    その後の調査によれば、帝国陸海軍が保有していた全資産のおよそ70%が、こ
   の戦後最初の略奪の狂乱のなかで処分された。もともとこれは、本土約500万人
   と海外300万人余りの兵士のためのものであった。だが、話はこれで終わったわ
   けではなかった。降伏から数カ月後、占領軍当局は、それまで手付かずできち
   んと管理されていた軍の資財の大半を、公共の福祉と経済復興に使用せよとの
   指示をつけて、うかつにも日本政府に譲渡してしまったのである。これら物資
   の大半は、建設資材と機械類であり、内務省は財閥系企業の五人の代表からな
   る委員会にその処分を委任した。その総価値はおよそ1000億円と見積もられた
   が、これらの資財もすぐにほとんど跡形もなく消えうせた。1947年8月、国会
   がこの一連の不祥事に関する遅まきながらの調査委員会を開いたとき、証言に
   立った1946年当時の大蔵大臣・石橋湛山は、「1000億円の価値があるものがど
   こに行ったのか知る者は一人もいない」と残念そうに述べている。
   (ジョン・ダワー(増補版)『敗北を抱きしめて<上>』三浦洋一・高杉忠明
    訳、岩波書店、pp.124-125より)
          -----------------------------------------------

       ■9月2日、横浜港に停泊する戦艦ミズーリの上で降伏文書の調印
         結局GHQの日本占領は約6年8か月(1945.8.15~1952.4.28)続いた。
           (9.11 東条英機自殺未遂。 不細工、ここに極まれり!!)
       ■大本営廃止(昭和20年(1945年)9月13日)
       ■天皇のマッカーサー訪問(9月27日)
          例の歴史的に有名な「気楽なマッカーサーと卑屈な天皇」の
         写真が撮影された。40分の会見は全くの秘密にされた。
       ■陸軍参謀本部、軍令部消滅(11月30日)
       ■陸軍省と海軍省は昭和20年(1945年)12月1日にその歴史の幕を閉
        じた。70余年の歴史のあっけない幕切れだった。その後始末のため
        に第一復員省(陸軍系)と第二復員省(海軍系)が新設され(4か
        月後廃止)その業務を担当した。両省の担当大臣は当時の首相の
        幣原喜重郎が兼任した。敗戦時内地に約436万人と外地に約353万人
        の兵士がいたという(後半部は能勢伸之氏著『防衛省』新潮新書、
         pp.14-15)

       ・第二次世界大戦が終わって、政府の形を保ったまま戦争を終えた
        のはアメリカ合衆国、イギリス、ソ連、中国だけだった。

  ★ 政党が弱いから軍部官僚の一撃に遭うて、直ちに崩壊してしもうた。夫れのみ
   ではない。吾々は吾々の力に依って、軍国主義を打破することができなかった。
   ポツダム宣言に依って、初めて是れが打破せられた。吾々は吾々の力に依って言
   論・集会・結社の自由すら解放することができなかった。ポツダム宣言に依って、
   初めて其の目的を達することが出来た。尚又、吾々は吾々の力に依って民主政治
   を確立することができなかった。ポツダム宣言によって、漸く其の端緒を開くこ
   とができた。凡そ此等の事実は、吾々に向かって何を物語っているか、遺憾なが
   ら吾々日本政治家の無力を物語るのほか何者でもない。・・・将来は再び是れを
   繰り返してはならぬ。・・・(斎藤隆夫)

  ★ ・・・戦争は終わりを告げたが、偖て是から日本はどうなるか。・・・軍備の
   撤廃である。陸海空軍は悉く撤廃せられ、将来一人の軍人、一隻の軍艦、一台の
   飛行機も存置することは許されない。国を護る武力を有せざる国は独立国ではな
   いが、此の関係に於て日本は最早独立国ではない。(斎藤隆夫) 

  ★ 戦争天皇責任、天皇制廃止、天皇戦犯訴追の投書
    他方、天皇制廃止、天皇戦犯訴追を訴えた投書もかなりあり、こちらは長文で
   論理的なものが多い。
    神奈川県の男性は、「東条は総理大臣、陸軍大臣、参謀総長としての責任を負
   ふべきであり、天皇は国家の元首として、且つ又陸海軍の最高統帥者としての責
   任を負うべきであり、天皇制度は軍国主義の温床としての責任を負うべきであり」
   「我等は東条を憎むの余り、天皇の責任までも東条に負はせてはならない」「天
   皇が現在平和主義者であることを声明したとしても、日本の元首として、対米英
   其の他の諸国に対して戦争を承諾し、空前の惨虐事件を惹起するに至つたその責
   任は断じて負はなければならない」「日本を真に民主主義化するためには、この
   原始的、迷信的皇室制度を廃止することを考慮する必要がある」と、マッカーサ
   ーに訴えている。
    熊本県の男性は、「戦争犯罪人の検挙を望む」として、「今日、政界、官僚の
   上層部に於て、天皇陛下には戦争責任なしと論ぜられているのは何故であるか。
   尚又、宣戦の大詔が論議されないのは、吾々にはどうも合点が行かぬ。憲法には、
   統治の大権は厳として天皇陛下が御掌握なされて居る、宣戦の布告も講和の締結
   も陛下がなされることになつて居る。而も陛下は大元帥であらせられる。それに
   何ぞや、天皇陛下に戦争責任なしとは、不合理も甚しいと思ふ。是では天皇の大
   権を否定することになり、又、憲法違反となり、天皇の崇厳さもなくなり、憲法
   も一片の反古となる。彼の宣戦の大詔は此度の戦争の原動力をなして居る。学校
   官公署、常会等で朝夕、是を拝聴して国民は大に発奮した。百の名士の演説より
   も彼の崇厳なる大詔に感激した。然るに今日、此の大詔が何の論議とされぬとは
   不可解千万である」「吾々は天皇陛下の統治の大権を確認して居るものである。
   又、それ故に戦争責任者の最高は天皇陛下にあらせられると思ふ」と述べている。
    神奈川県の別の男性は、「天皇制廃止論」として、「明治維新以来の日本の支
   配者たる軍閥・官僚が彼等の人民に対する支配を強固たらしめる目的の為に非科
   学なる神話・伝説を利用し、天皇を神秘化し、神聖化し現神人(ママ)として国
   民を教育し、信じ込ませた。その結果、無智なる一般人民は今なほ天皇を神の如
   くに崇拝している。この状態では人民の頭を民主主義的に切換へる事は絶対に不
   可能である。それには天皇の封建性、非民主主義性、軍国主義性を徹底的に暴露
   してその地位より追放し、日本を共和国にする事が絶対に必要である」「日本天
   皇は日米戦争を誘発し、遂行せる戦争犯罪人である。日米戦争は開戦前に天皇の
   出席せる所謂、御前会議に於て天皇の裁可の下に決定せるものである」「天皇は
   最大の戦争犯罪人である。速に彼を逮捕して裁判にかけよ」と訴えた。
    東京都の男性は、「私は天皇制廃止を希望するものであります。然して私は共
   産主義者では有りません。共産主義は私の嫌悪する所のものであります」「新開
   や世間では共産主義者以外は天皇制打倒などと云ふ事を云ふ者はない様ですが、
   一般国民は何も天皇制を熱望し、天皇制でなければならないと云ふわけではない
   と思ひます。日本人は成行きにまかせると云ふ考へであろうと思ひます。私はど
   うしても天皇制廃止以外には新日本建設はないと思ひます」と述べた。
    茨城県の匿名の男性は、マッカーサーに宛て「閣下は日本を民主国家にされる
   と申されました。誠に有難いのですが、閣下は未だその根本にメスを加へられま
   せん。それは天皇です」「閣下は今この小さな犯罪者のみ捕へて居ります。私は
   天皇をその優にして閣下が日本国を去られることを恐れるのです」「どうぞ閣下
   の手によつて三千年来日本土民を瞞着し来れる天皇及其一族を処罰して下さい。
   そして永遠にこの日本に皈(かえ)れない様にして下さい」・・・
          (粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<下>』講談社、pp.19-21)

  ☆ 小田実の回想
    小田がうけた「致命的な傷」とは、1945年8月14日の大阪空襲だった。当時は
    中学一年生だった小田は、恐怖の時間を粗末な防空壕で過ごしたあと、米軍機
    がまいた、日本の無条件降伏を告げるビラを拾った。そして翌日の正午、降伏
    を告げる放送があったときの心情を、小田はこう回想している(『小田実全仕
    事』第八巻六四貢)。

     私は疲れきっていた。虚脱状態だった。火焔から逃げるのにふらふらにな
    っていたといっていい。何を考える気力もなかった。それに、私は、あまり
    にも多くのものを見すぎていた。それこそ、何もかも。
     たとえば、私は爆弾が落ちるのを見た。…渦まく火焔を見た。…
     黒焦げの死体を見た。その死体を無造作に片づける自分の手を見た。死体
    のそばで平気でものを食べる自分たちを見た。高貴な精神が、一瞬にして醜
    悪なものにかわるのを見た。一個のパンを父と子が死に物狂いでとりあいし
    たり、母が子を捨てて逃げていくのを見た。人間のもつどうしようもないみ
    にくさ、いやらしさも見た。そして、その人間の一人にすぎない自分を、私
    は見た。

    小田によれば、そこには「輝かしいものは何もなかった。すべてが卑小であり
    、ケチくさかった。たとえば、死さえ、悲しいものではなかった。悲劇ではな
    かった。街路の上の黒焦げの死体ーーそれは、むしろコッケイな存在だった。
    私は、実際、死体を前にして笑った」(八巻六五-六六貢)。
     空襲の極限状況は、人間のあらゆる醜悪さを露口王させた。小田がみた死は
     、ロマンティックでも勇壮でもないのはもちろん、「悲しみ」や「苦しみ」
    などといった抽象的な形容をもこえた、言語を絶した「もの」だった。
              (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.753)

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
           <日本敗戦における蒋介石の演説(1945.8.15)>
    「同胞諸君、今や我々の頭上に勝利の栄光が輝くに至った。永い間、到底、筆
   舌に尽くし難い凌辱をうけながらこれに屈せず、よく戦い抜いた諸君の労苦よっ
   て我が敵は遂に我が軍門に降ったのである。我が中国人があの暗黒と絶望の時代
   を通じて、忠勇にして仁慈、真に偉大なる我が伝統的精神を堅持したことに対し
   、まさに報償を受くべき時機が到来したのである。しかしながら我々が終始一貫
   戦った相手は日本の好戦的軍閥であって、日本国民ではないのであるから、日本
   国民に対し恨みに報いるに恨をもってする暴を加えてはならない。民族相互が真
   に相手を信じ合い、尊重し合わなければならないということを腹の底から悟るこ
   とが、この戦争の最大の報償でなくてはならない。これによって今後、土地に東
   西の別なく人間に皮膚の色の別なく、あらゆる人類は一様に兄弟のように平和に
   暮らすことができるものと信ずる。自分はいまさらのごとく『爾の敵を愛せよ』
   『爾ら人にせられんと思うごとく人にしかせよ』と訓えられたキリストの言葉を
   想い出すのである。もしこれに反し暴に報いるに暴をもってし、奴辱に対するに
   奴辱をもってしたならば、冤と冤とは相報い、永久にとどまるところを知らない
   であろう。こんなことは決して我々正義の師の目的とするところではないのであ
   る。我々は単に敵国人をして己の犯した錯誤と失敗を承認せしむるばかりでなく
   、さらに進んで公平にして、正義の競争が彼らのなした強権と恐怖による武力競
   争に比べて、いかに真理と人道の要求に合するものであるかということを承認せ
   しめなくてはならない。換言すれば、敵を武力的に屈服せしむるばかりでなく、
   理性の戦場においても我々に征服せられ、彼等に懺悔を知らしめ、これをして世
   界における和平愛好の一分子たらしめなければならない。この目的を達成したと
   き初めて今次大戦最後の目的が達せられたことになるのである」
        (昭和20年、永野護氏『敗戦真相記』、バジリコ.2002;p.101-103)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  ★【国家も個人も、熟慮なく命を重視するようになる時代の到来】
   ◎戦後の復興期「人が大事、命が大事」
    (国家防衛をアメリカにまかせて属国的復興。-->現在にまで禍根を残す)。

      ノーム・チョムスキーは私に、まさに鉈でぶち切るように、こんなこと
     を語りました。
     ーーー戦後日本の経済復興は徹頭徹尾、米国の戦争に加担したことによる
     ものだ。サンフランシスコ講和条約(1951年)はもともと、日本がアジア
     で犯した戦争犯罪の責任を負うようにはつくられていなかった。日本はそ
     れをよいことに米国の覇権の枠組みのなかで、「真の戦争犯罪人である天
     皇のもとに」以前のファッショ的国家を再建しようとした。1930年代、40
     年代、50年代、そして60年代、いったい日本の知識人のどれだけが天皇裕
     仁を告発したというのか。あなたがたは対米批判の前にそのことをしっか
     りと見つめるべきだ。ーー陰影も濃淡も遠慮会釈もここにはありません。
     あるのはよけいな補助線を省いた恥の指摘でした。(p.91)
                ・・・・・
      「戦後期の日本の経済復興は、徹頭徹尾、アジア諸国に対する戦争に加
     担したことによっている。朝鮮戦争までは日本経済は回復しなかった。朝
     鮮に対する米国の戦争で、日本は供給国になった。それが日本経済に大い
     に活を入れたのです。ベトナム戦争もまたしかり。米兵の遺体を入れる袋
     から武器まで、日本はあらゆるものを製造し、提供した。そしてインドシ
     ナ半島の破壊行為に加担することで国を肥やしていったのです」という。
      (そうした犯罪行為に較べれば憲法改悪は「ささい」ともいえると語っ
     たわけです。彼から見たら、憲法の改悪なんてどうということはない。そ
     れよりも現実に戦後日本が米国の戦略的枠組みのなかでしてきたこと、そ
     れは憲法の破壊以上ではないか。恥ずかしくはないのか。彼はそういいた
     かったのでしょう)。(pp.114-115)
             (辺見庸氏著『いまここに在ることの恥』毎日新聞社)

  ▲▲▲▲▲ 国民は、アメリカの手で悪魔の支配から解放された ▲▲▲▲▲
  ▲▲▲▲▲ しかし、悪魔達は根絶やしされたわけではなかった ▲▲▲▲▲
  ▲▲▲▲▲ 同時にアメリカの世界戦略の一端も垣間見えるのだ ▲▲▲▲▲

  ★とにかく、ひもじかったのである。(-->都市と農村の対立、闇経済の蔓延)
    とにかく、ひもじかったのである。当時、政府の主食の配給量は成人一人
   の一日当たりは二合一勺、約三〇〇グラム。一食茶碗一杯分である。それも
   米に換算しての「綜合配給」で、薩摩芋、大豆、小麦粉、薯のつる、もとは
   豚の飼料である大豆粕、さらにはいくらふかしてもガリガリの豚も食わぬ「
   冠水芋」などで代用して、カロリーは一日一人当たり一二〇〇カロリーにし
   かならなかった。最低必要カロリーは労働者一日三〇〇〇カロリー、普通人
   が二四〇〇カロリーと計算されているから、半分に満たぬことになる。ただ
   し、それさえも遅配、欠配でまともに配給されることもない。
    不足分はどうしたのか。闇ルートを頼るほかはなかったが、天井知らずの
   インフレのさなか、闇物価もまた鰻登りの高値で、補給はそれほど簡単とい
   うわけにはゆかない。警視庁経済三課の調査した十月末の闇の値段表を参考
   のために引用しておく。カッコ内は基準額である。白米一升七十円(五十三
   銭)、薩摩芋一貫目五十円(八銭)、砂糖一貫日干円(三円七十銭)、ビー
   ル一本二十円(二円八十五銭)、清酒二級一升三百五十円(八円)、冬オー
   バー一着百六十円(十八円)などなどである。念のために書いておくが、昭
   和二十年末の国家公務員の給与は月額最低四十円、最高五百二十円のころで
   ある。(半藤一利氏著『日本国憲法の二〇〇日』プレジデント社より)


       ・敗戦3日目には尾津マーケットとよばれる闇市や露店が、都内各所
        に約45000店も林立した。
       # あるヤクザ曰く
           「おれたちがヤミ市を開いたからこそ、戦後の日本人は飢え
          死にせずにすんだ」
       ・亀尾英四郎氏(旧制東京高校ドイツ語教授)栄養失調から衰弱死
         いやしくも教育家たるものは表裏があってはならないし、どん
        なに苦しくとも国策をしっかり守ってゆく、という固い信念のも
        とに生活をし続けた。(S20.10.11 死亡)

       ・悲しい統計によれば、敗戦の日から11月18日までに、東京では、
        上野、四谷、愛宕の三警察署の管内で150人余の餓死者を収容し
        た。また同時期の、神戸、京都、大阪、名古屋、横浜の五都市
        では、733人の餓死者が出たという。もうひとつ統計をあげれば、
        敗戦の日から十月までに失業者は448万人(男女の合計)であっ
        たという。そこへ内地復員老761万人(軍人と軍属)、在外引揚
        者150万人が加わり、総計1359万人が住居と職場と食いものを求
        めてさまよっていたのである。(算用数字は筆者が改変)
        (半藤一利氏著『日本国憲法の二〇〇日』プレジデント社より)

       ■日本自由党結成(鳩山一郎、S20.11.9)
          運営資金として児玉誉士夫により、かつて軍事物資
         として集めたダイアモンドが提供され使われた。
          児玉は後の「五五年体制」の幕開け役の一人であり
         「裏権力」構造の主役となった。

       ・政府公認RAA(Recreation and Amusement Association、特殊慰安
        施設協会)結成(昭和20年8月26日)
         --->「インターナショナル・パレス」(売春宿、東京板橋)設置
           (ロバート・ホワイティング氏『東京アンダーワールド』
            磯田光一氏『戦後史の空間』などより)

       ■アメリカの世界戦略の一端
          A級戦犯容疑者の児玉誉士夫、岸信介、笹川良一を
         巣鴨プリズンから釈放させ、戦争中、治安維持法違反
         で検挙された哲学者の三木清を敗戦後、獄死させた戦
         後日本の歪んだ出発を指摘して、社会学者日高六郎は
         「児玉、岸信介、笹川は釈放すべくして釈放された。
         つまり釈放することのほうが、アメリカの世界戦略の
         本筋だった」と書いた。
          (以上、立石勝規氏著『金融腐敗の原点』および、
           日高六郎氏著『戦後史を考えるー三木清の死から
           ロッキード事件までー』(雑誌『世界』昭和51年
           9月号)より)
         ※岸信介は白州次郎、矢次一夫、ハリー・カーン(当
          時『ニューズウィーク』誌の外信部長。CIAアレン・
          ダレスの親友)が助けたという。またティム・ワー
          ナー『CIA秘録<上>』によると、日米開戦時の駐日
          大使で岸の友人ジョゼフ・グルーも強い味方だった
          という。
         ※児玉はダイヤ・プラチナ・ウランとの取り引きで助
          かった。
          (柴田哲孝氏著『下山事件 最後の証言』、祥伝社、
           pp.239-240より)
         ※ CIAは1948年以降、外国の政治家を金で買収し続けて
          いた。しかし世界の有力国で、将来の指導者をCIAが
          選んだ最初の国は日本だった。(ティム・ワーナー
          『CIA秘録<上>』藤田博司・山田侑平・佐藤信行訳、
          文芸春秋、pp.177-178)
         ※「アメリカ対日協議会(ACJ)」(いわゆる日本ロビー)
          設立(1948年6月):メンバーの中核は国務省内の反共
          の闘志(ジョセフ・グルー、ウイリアム・キャッスル、
          ●ハリー・カーン、ユージン・ドゥーマン、コンプトン
          ・パケナム)たちであった。岸信介は彼らに助けられた。
       ■農地改革と家族制度の解体が占領政策の骨子となっていた。

    ●ニュルンベルク裁判が1945年11月20日に始まった(約10か月続いた)。

1946年(昭和21年):「日本国憲法」公布。
  ★日本は決して「自由」も「平和」も獲得していない。客観的情勢は冷酷に、
   日本のゆくてに暗い寒ざむとした墓場を示している。このことを、日本人が
   明確に、徹底的に知った時でなければ、日本は再起できないであろう。
    自由と平和は、自分で掴むべきものであって、決して与えられて享楽出来
   るしろものではないのだ。(昭和21年2月4日)
      (山田風太郎氏『戦中派焼け跡日記(昭和21年)』小学館、P76より)

       ■天皇の「人間宣言」。当たり前だ!!(昭和21年(1946年)1月1日)
         <マッカーサーの天皇感ーーアイゼンハワー宛て極秘電報ーー>
          マッカーサーがドワイト・D・アイゼンハワー陸軍統合参謀
         総長に宛てた極秘電報の要旨そのものであった。天皇の戦争責
         任を調査せよというワシントンの指令への返事であるこの電報
         のなかで、マッカーサーは天皇擁護のためにあらゆる努力をは
         らった。「調査はすでに実施されたが」ーー1月25日、最高司
         令官はアイゼンハワーに報告しているーーしかし、過去10年の
         間に裕仁が日本の政治的決定に関与したといういかなる証拠も
         発見されなかった。マッカーサーは、天皇を「日本国民統合の
         象徴」であるとし、もし天皇が告発されるようなことになれば、
         国民は「深刻な動揺」によって「ばらばらになり」、「復讐の
         戦いが何世紀にもわたって繰り返されることになるだろう」し、
         政府機関の機能は停止して「開明的な試みの多くは停止し」、
         ゲリラ戦が始まるだろう。近代的な民主主義を導入する望みは
         すべて消え、占領軍が去ったあとには、「ばらばらになった大
         衆のなかから、おそらく共産主義の路線に沿った強力な統制が
         生まれてくるだろう」と警告した。(ジョン・ダワー(増補版)
         『敗北を抱きしめて<下>』三浦洋一・高杉忠明・田代泰子訳、
         岩波書店、pp.69-70より)

       ■連合国最高司令官(SCAP)により極東国際軍事法廷が正式に開設
        された。(1月19日)
       ■日本の開業医60000人、復員軍医20000人、医学卒業生6000人。
       ■昭和の徳政令:いわば借金の踏み倒し(S21.2月25日、幣原内閣)
        ・突然の預金封鎖(S21.2.17)
          世帯主は月300円、世帯員は100円まで引き出し可能
          封鎖された預金は激しいインフレによって二束三文となった。
        ・農地改革による地主からの資産没収
        ・戦時国債(戦時に国民から徴収した、国民への借金)の無効化
        ・新円切り換え(十円以上の紙幣は3月2日限りで無効。5円以下は
         今まで通り)
       ■戸田城聖が創価教育学会を「創価学会」と改称。ますます宗教団
        体としての性格が強まった。(S21.3)
         -------------<毎日新聞社 森正蔵の日記より>-------------
          (昭和21年)二月十六日  雨降り続く
           先週の土曜に発せられるはずであつたインフレーション防止
          の緊急令は諸準備がとゝのはないために一週問おくれとなつて、
          いよいよ今日の午后一時半発表。明日から実施されることにな
          つた。そのために、社の編輯局内は最近めづらしい緊張、活気
          を呈した。この措置がうまく運ばなければ日本は敗戦から滅亡
          に落る。
           一、金融緊急措置令
              モラトリアムはもう僕たちの記憶にかすかに残つてゐ
             るだけだが、今また現実に出て来た。僕たちは今月から
             最近五百円の現金収入が社から、後は預金で封鎖。別に
             世帯主として三百円の預金引き出しが月毎に出来るのと、
             新円への交換が百円だけ(これは一回きり)出来るのみ。
             しかし僕の場合は戦災者として一回きり一千円の新円に
             よる預金引出しが出来ることゝならう。
           二、日本銀行券予入令
              二十五日から三月七日までの間に新円券と旧円券の交
             換が行はれる。三月二日以後は旧券の使用は無効となる。
             新円は百円券と十円券とが現はれた。
           三、臨時財産調査令
              三月三日午前零時を期しての財産調査実施。そして四
             月二日を期限とするその申告書提出。
           四、隠匿物資等緊急措置令
              一定の調査物資について所定数量以上をもつてゐる者
             は三月十日までに届出なければならぬ。
           五、戦後物価対策基本綱領
              新物価体系が組まれた。限定価格と呼ばれる。これで
             どんどん昇る市場の物価が新しい統制のもとに置かれる
             ことゝなる。
           これ等に続いて「食料緊急措置令」や「失業対策令」や「生
          産命令」などが出る予定である。今日出た限りのものを見ても、
          賛否の評しきり。しかしやつてみなければどうなるか判るもの
          ではない。
          (森正蔵氏著『あるジャーナリストの敗戦日記』
                          ゆまに書房、pp.242-243)
         ----------------------------------------------------------
       ■日本経済は軍需産業消滅、財閥解体、国家賠償、指導者の追放、
        インフレの進行などで支離滅裂の状態。昭和21年6月には失業者
        は560万人いた。(国鉄運賃は旅客1.5倍、貨物3倍になる)         
        ・ハイパー・インフレの実態(米一俵の値段)
           敗戦時     : 18円80銭
           昭和20年12月31日: 60円
           昭和21年12月31日:220円
           昭和22年12月31日:700円
          (副島隆彦『預金封鎖』祥伝社より)
        ---------------------------------------------------
             <ハイパーインフレの実相>
         しかし天皇の放送のあとに現実に起こったジャンプは、
        ほとんどが狂乱と破壊のそれだった。民間請負業者の手
        元にあった資材はいうまでもなく、軍の備蓄物資までが、
        隠匿されるか、まっすぐに闇市に運ばれた。陸軍、海軍、
        軍需省(筆者注:S18(1943).11.1、戦争指導強化のため、
        商工省の大部分と企画院が統合され発足)の役人たちは
        すぐさま巨額の金を引きだして、請負業者に支払い、自
        分のポケットや気に入った仲間のポ ケットに詰めこんだ。
         大蔵省と日本銀行は、何百万人という解雇された労働
        者や復員兵の手当にしようと、印刷機にはりついて、イ
        ンクの跡も生々しい紙幣を国中にあふれさせた。同時に、
        国民の不安を和らげるために、戦時中の個人預金口座か
        らの引出し制限を解除した。まじめな帳簿付けは放棄され、
        記録は意図的に破棄された。
         このすべての結果が、財政と経済の混乱と、貪婪なまで
        のインフレの始まりで、結局これが経済をすっかり食いつ
        ぶすことになった。(ジョン・ダワー(増補版)『敗北を
        抱きしめて<下>』三浦洋一・高杉忠明・田代泰子訳、
        岩波書店、pp.346-347より)
            -------------------------------
    ●元英首相テャーチル、米国で「鉄のカーテン」演説(冷戦のはじまり)
    ●アメリカで”RAND(Research and Development)”が誕生(1946.3.1)
       RAND設立の最大の功績者はカーチス・ルメイ、冷酷で攻撃的で悪魔の
      化身ともいうべき男。RANDはアメリカの戦後戦略の殆どを立案した。
       他にヘンリー・ハーレー・アーノルド元帥とフランク・コルボム(ダ
      グラス社幹部)が協力。(アレックス・アベラ『ランド 世界を支配し
      た研究所』牧野洋訳、文藝春秋、pp.22-25)
            -------------------------------
       ■極東軍事裁判開始(1946年5月3日~1948年11月12日)
         米国政府は日本敗戦にあたって、日本の戦争指導者と戦争犯罪を
        処罰する方針として、ドイツの場合にならって、彼らを「主要戦争
        犯罪人」(A級戦犯)として、戦時国際法に規定された「通例の戦争
        犯罪」に加えて、侵略戦争の計画・準備・遂行などを犯罪とする
        「平和に対する罪」、戦前または戦時中の一般住民に対する非人道
        的行為を犯罪とする「人道に対する罪」という戦争犯罪概念で訴追
        し、国際裁判方式をとるとの意思を固めていた。
         しかし同時に、すでに準備がなされていたニュルンベルク裁判を
        めぐる他国との折衝の経験から、日本の裁判もドイツの例に準拠す
        ることが望ましいが、裁判所の設置と施行規則、戦争犯罪概念の規
        定は、連合国間の協定によるよりは、一方的にSCAPのマッカーサー
        が決定するかたちにすべきだとの方針も固めた。(粟屋憲太郎氏著
        『東京裁判への道<上>』講談社、p.33)
         <余談>東京裁判の劈頭で被告東条英機の頭をピシャリとやった
             のは大川周明(精神異常?)だった。
             -------------------------------------------
         対象時期を昭和3年1月1日から昭和20年までとした。この軍事裁判
        は東条らに全ての戦争責任を負わせた陰で、アメリカは、情報将校
        だった元軍人らを免責し、戦後の情報工作に利用した。東京裁判は
        旧軍人や政治家らの戦争責任を公平かつ公正に裁いたわけではなか
        った。(1948年、昭和23年12月23日絞首刑執行)
        広田弘毅:「この裁判で文官のだれかが殺されねばならぬと
              したら、ぼくがその役をになわねばなるまいね」
          ※ 常に戦争防止に努めながら、一切の弁解なしに従容として
           処刑の運命を受け入れた広田弘毅を我々は忘れてはいけない。
           (ただし、広田弘毅は昭和13年当時は中国に対する武力制圧
            論者だった。広田弘毅の善悪については諸説あり)
          ※ 昭和53年10月に靖国神社は絞首刑となったA級戦犯7人と巣
           鴨プリズンで病死した7人を合祀した(松平永芳宮司の抜き
           打ち合祀)。
          ※ ・・開戦責任、あるいは戦下での国際法違反や、非人道的
           行為といった限定された事由ではなく、「平和」や「人道」
           そして「文明」に対する全体的侵害という、きわめて包括的
           かつ広範な罪状によって、「戦犯」たちは起訴されることに
           なったのである。このような姿勢が、アメリカのきわめて独
           善的な姿勢、過去に南北戦争の戦後処理において極めて明確
           に表れている、自らを絶対の正義となし、敵を悪ととして徹
           底的に糾弾しないではいられないピューリタン的潔癖とその
           徹底があいまってのものに起因していることはいうまでもな
           い。・・(福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)
          ※ 東京裁判の不公平性、起訴根拠の脆弱性の一つについて
             東京裁判は別の批判に対しても脆いことが証明された。
             A級戦犯として誰を起訴するかの決定に一定の政治的恣意
            性が働いていたことである(驚いたことにジョセフ・キー
            ナン自身が、検察側の冒頭陳述において、「我々はいずれ
            の個人に対しても、またその処罰に対しても、特別の興味
            をもつものではない。被告たちはある意味で一つの階級あ
            るいは集団の代表である」と率直に認めている)。よしん
            ばこれが「代表的」指導者に戦争責任について説明責任を
            問うための発見学習的あるいはショウケース的裁判である
            と了解したとしても、ある種の集団、ある種の犯罪がそこ
            から見逃されていることはいかにも顕著である。人びとに
            恐れられた憲兵隊の隊長は誰も起訴されなかった。超国家
            主義秘密結社の指導者も、侵略によって私腹を肥やし、
            「戦争への道」を拓くことに親しく関与してきた実業家も、
            起訴されていなかった。日本が植民地統治していた朝鮮人
            と台湾人を強制動員したことは「人道に対する罪」として
            追及されなかったし、何万人もの外国人の若い女性たちを
            狩りあつめて帝国軍人に性的サービスを提供する「慰安婦」
            として働かせたことも訴追されなかった。また、検察団を
            支配していたアメリカ自身が、残虐非道さにおいて疑問の
            余地のない罪を犯した特定の日本人集団を、秘密裏に、そ
            っくり免責していた。満州の七三一部隊で、何千人という
            捕虜を実験台に使って生物兵器を開発していた将校や科学
            者たちである(研究結果をアメリカに教えることを交換条
            件に訴追を免れた)。中国における化学兵器使用の証拠に
            ついても、検察は真剣には追及しなかった。
             さらには、東京裁判の裁判官の人選もかなり奇抜だった
            というか、少なくともいきあたりばったりだった。11人の
            判事のうち、もっとも明敏で、人びとの記憶に残ったのは
            レーリンク判事とパル判事で、ふたつの主要な反対意見を
            書いている。国際法にそれなりの経験があったのはパルだ
            けだった。・・・
            (ジョン・ダワー(増補版)『敗北を抱きしめて<下>』
             三浦洋一・高杉忠明・田代泰子訳、岩波書店、pp.260-
             261より)
          ※東京裁判の問題点
             荒井信一氏は著書『戦争責任論』(岩波書店)のなかで
            東京裁判の問題点として、”裁かれなかった問題点”を
            うまく纏めて述べている(pp.192-198)。以下主要テーマ
            のみ掲げる。
              1. 戦争で主要な被害を直接受けたアジアの国々の
                民衆の被害が裁かれなかった。
              2. ”人道に対する罪”が追求されなかった。
              3. 裁判の早期打ち切り。
             なお筆者は東京裁判で天皇を裁かなかったことも問題点
            の一つであると思っている。ちなみにオーストラリア政府
            の天皇告発の覚え書きを引用しておく。
            ---------------------------------------------------
              天皇裕仁は個人的には、平和的願望と自由主義的な
             思想の持ち主であることは疑いないようだが、帝国憲
             法の規定では、宣戦、講和、条約締結の権限は天皇に
             あり、侵略戦争を認可したことは戦犯としての個人的
             な責任となる。天皇は満州事変での林銑十郎朝鮮軍司
             令官の独断出兵、日本軍の錦州出撃、さらに35年の日
             本軍の長城線越境などに停止を命じたが、後にはこれ
             らを認めた。また37年の中国侵略(日中戦争)を正式
             に認可し、また太平洋戦争は天皇の開戦の詔書によっ
             て開始したものである。米国国務省は真珠湾奇襲の天
             皇の責任を、軍国主義者の脅迫によるものとして、免
             除しようとしているが、実際は彼がいつも軍に脅迫さ
             れていたわけではない。彼が本当に平和主義者ならば
             戦争を拒否できたし、退位や自決(ハラキリ)によっ
             て抗議できたはずである。たとえ戦争を良いと思って
             いなかったとしても、開戦を認可したのだから、それ
             だけで責任がある。(粟屋憲太郎氏著『東京裁判への
             道<上>』講談社、p.154)
            ---------------------------------------------------
       ■戦後初の総選挙(昭和21年、1946年4月10日)
          自由党:141、進歩党:94、社会党:93、協同党:14、共産党:5、
         諸派:38、無所属:81という勢力図となった。(-->鳩山一郎追放)
            ---------------------------------------------------
       ■「日本アナキスト連盟」結成(昭和21年、1946年5月12日)
         石川三四郎、岩佐作太郎、近藤憲治ら
          6月15日第三次『平民新聞』発行
              <『平民新聞』発刊の言葉、近藤憲治>
           われらいま、当時の諸先輩の決意と不屈の精神を回想し、身
          のひきしまるのを覚える。同時に、すぐる幾年かの戦争下にわ
          れら何をなしたるかを思うとき、まことに冷汗三斗の感なきを
          得ない。1946年6月15日、ここに三度日の平民新開発刊さる。
          現下の日本の情勢はまことに未曾有の危機である。経済は混乱
          し、文化は低下し、食糧、住宅、失業などの緊急の問題は山積
          している。敗戦によって日本の軍国主義はいちおう終息した。
          自由は高唱され、民主主義のかけ声は一見さかんなるものがあ
          る。しかしながら眼を開いてみよ。どこに自由があるか。封建
          的思想は根強く巣くい、社会機構の急所急所はいぜんとして資
          本家、官僚の手にしつこく握られている。われわれはその城壁
          にツルバシ一本うちこんでいないのである。自由は与えられる
          ものではなく、みずからの力によって、獲得すべきものである
          ことを、今日ほど痛感させられるときはない。さればわれわれ
          はこの一大転機をとらえて、自由のために、平等のために、果
          敢なる戦いを開始しなければならない。
           なおまた、眼を転じて目前に展開されつつある解放運動をみ
          よ。口に労働者農民の解放を叫びながら、その根本の思想にお
          いて旧制度の継承者に過ぎないものをみる。ふるい主人を追い
          出し、新しい主人となって民衆にのぞもうとするものを見るの
          である。強権はたとえそれが民衆の名によるものであるとして
          も、常に人民の敵である。われわれはこの際、ほんとうの解放
          運動者と、今はわれわれの味方だといっているが、やがてはわ
          れわれ民衆の敵になるものどもとを、厳重に区別しておかねば
          ならぬ。これはわれわれのなし遂げなければならない革命を暗
          礁に乗りあげさせないために、最も必要なことである。
           さらにわれわれは、われわれが旧制度を打ち倒すためには、
          そして新秩序による新社会をつくり上げるためには、ひろく全
          世界の同志に呼びかけ、その協力によるのでなければ成就し得
          るものでないと考える。その意味において、本紙はわが解放運
          動の一機関であると同時に、全世界解放運動の機関である。そ
          の責任を感じ、その誇りをもってここに第三次「平民新聞」を
          発刊する。(松下竜一氏著『ルイズ』講談社、pp.170-171より)
                     ++++++++++++
         ※ただし、このアナキズム(社会的個人主義?)運動は1950年には
          分裂し、「平民新聞」も絶えている。その後は副島辰巳の発行
          する「クロハタ」が全国的なアナキズム機関紙となってゆく。
            ---------------------------------------------------
       ■第一次吉田内閣の発足(昭和21年、1946年5月22日)
          吉田茂は、アメリカ情報機関との協力の基礎を築くとともに、
         内閣調査室、公安調査庁といった日本の情報機関を発足させた。
         吉田のことを「日本情報機関の父」といってもいいだろう。
         (春名幹男氏『秘密のファイル CIAの対日工作<下>』より)

          ※戦後初の総選挙から、鳩山追放、幻の吉田追放案、第一次
           吉田内閣組閣までの間米情報機関が絡んで暗闘が展開された
           のは間違いないだろう。
          ※当時の右翼の大物、三浦義一と矢板玄蕃が支配する”金銀運
           営会”(大蔵省総務局長迫水常久も関与)が吉田茂の政治金
           脈の一つだったらしい。(柴田哲孝氏著『下山事件 最後の
           証言』、祥伝社、pp.228-230より)
          ※吉田茂は戦前から終始一貫「軍部の暴走がこの国を滅ぼし
           た」と思っていた。
           -------------------------------------------
    ●中国が全面的な内戦に突入(第二次国共合作の崩壊)
      1946年7月、蒋介石が共産党地区への攻撃を開始。
          <モスクワからの毛沢東(中国共産党)への支援>
        モスクワによる共産党軍の再武装は急速に進められた。ソ連
       は日本製の航空機900機、戦車700輌、3700基以上の大砲や迫撃
       砲や擲弾発射筒、1万2000挺近い機関銃、さらに松花江に浮かぶ
       相当規模の小型艦艇部隊、おびただしい数の装甲車や高射砲、
       何十万挺ものライフルを共産党軍に引き渡した。日本の主要な
       武器庫があった北朝鮮からは、貨車2000台以上に満載した兵器
       や軍用賀材が鉄道で運ばれてきた。さらに、外モンゴルからも
       日本軍から鹵獲した武器が届いた。ソ連製の武器も運び込まれ
       た。ドイツ製の武器はマークを削って、アメリカから奪った武
       器のように見せかけてあった。
        加えて、ソ連はひそかに日本人の戦争捕虜を何万人も中国共
       産党に引き渡した。日本人捕虜部隊は、みすぼらしい共産党軍
       を強力な戦闘集団に変身させるうえで大きな役割を果たし、共
       産党軍が持っている兵器の大部分を占める日本製兵器の操作、
       手入れ、修理方法を教えるうえでも重要な役割を果たした。中
       国共産党の空軍を育てたのも、日本人捕虜だった。日本人パイ
       ロットは飛行機に同乗して共産党軍パイロットに操縦を教えた。
       数千人にのぼる熟練した日本人医療スタッフは、共産党軍の負
       傷兵にはそれまで緑のなかった高度の専門治療をほどこして非
       常に歓迎された。なかには共産党軍の戦闘に参加した日本人部
       隊もあった。
        もうひとつ、きわめて重要な役割を果たしたのは、ソ連占領
       下の北朝鮮だった。ソ連は北朝鮮から武器を供給しただけでな
       く、日本軍やソ連軍のもとで訓練された20万の強者ぞろいの朝
       鮮人正規兵部隊も派遣した。加えて、中国東北と800キロの国境
       を接する北朝鮮は、中国共産党が「我椚隠蔽的后方」(我々の
       秘密後方)と呼んだように、貴重な抜け道としても役立った。
       1946年6月、敗走中だった共産党軍は、部隊や傷病兵や軍事物資
       を北朝鮮に退避させた。国民党軍が東北の中央部をほぼ制圧し
       ていたため、共産党軍は南北に分断される形になっていたが、
       北朝鮮を経由することによって南北の連絡を取り、あるいは中
       国東北と中国東岸、とくに重要な山東省との連絡を取ることが
       できた。この巨大な輸送システムを監督するため、中国共産党
       はピョンヤンおよび朝鮮の4つの港に事務所を開設した。
         (ユン・チアン『マオ<上>』講談社、pp.500-501)
   ※蒋介石は最初から最後まで私情に従って政治や軍事を動かした。そしてその
    ような弱点とまったく無縁の毛沢東という男に負けて中国を失った。
         (ユン・チアン『マオ<上>』講談社、p.524)

1947年(昭和22年):「日本国憲法」施行
       ■社団法人「日本医師会」発足。
       ■GHQによる医療国家統制の改廃。
   ※昭和22年は国家統制医療がひとまず終焉した記念すべき年であった。

        ●トルーマン・ドクトリン(S22.3.12):■冷戦時代の到来
           トルコとギリシャに対するアメリカの支援。共産主義対
          自由主義というイデオロギーの対立を鮮明にした。
               -------------------------------
             1947年3月12日、トルーマンは、上下両院の合同会議
           で演説し、アメリカが海外で共産主義と戦わなければ、
           世界は破滅的な事態に直面することになるだろうと警告
           した。いま「数千人の武装勢力のテロ活動に脅かされて
           いる」ギリシャを助けるために数億ドルが必要だ。アメ
           リカが援助を与えなければ「中東全体に無秩序がひろが
           り」、ヨーロッパ各国には絶望が深まり、自由世界に暗
           雲が垂れ込めることになる、と語った。この演説には、
           これまでにない、新しい概念が付け加えられていた。
           「少数派の武装勢力や外国の圧力による支配に抵抗して
           戦っている自由主義者を支援するのは、アメリカの政策
           でなければならないと、私は信じている」と大統領は主
           張したのだ。世界のいずこの国であれ、アメリカの敵が
           加えた攻撃は、ア人リカに対する攻撃であるという意志
           表示だった。これがのちにトルーマン・ドクトリンと呼
           ばれるものになる。議会は総立ちになって柏手した。
               -------------------------------
        ・ジョージ・ケナンの対日占領政策
           日本の政治的・経済的復興を優先
          (「マーシャル・プラン」:戦争による被害を修復し、ソ連
           に対するアメリカの経済的、政治的防塞を築くために何十
           億ドルかを自由世界の提供するもの)

       ■「教育基本法」制定(1947.3)
          個人の価値や人格の完成を謳う。
        ・六・三制始まる(1947.4)
        ・日教組(日本教職員組合)結成(1947.6)
       ■日本の労働運動史上例のないゼネストへの動きが本格化
          首相吉田茂が、労働争議を頻発させる労組活動家らに対して、
         「不逞の輩」と非難。これに猛反発した国鉄、全逓など官公庁
         労組の共同闘争委員会が「吉田内閣打倒!民主人民政府樹立」の
         スローガンを掲げて2月1日からの無期限ゼネスト突入を宣言した。
           (GHQの指令で、このゼネストは中止された)

           -------------<日本の戦後の混乱の象徴>----------
        ・無法者に対する、GHQ民生局、局長チャールズ・ケーディス大佐の
         宣戦布告(「アングラ経済への警告」)
        #「(今の)日本の真支配者は、GHQが望むような"正式に選ばれた"
          国民の代表ではない。ヤクザの親分や、ならず者や、脅迫者であ
         る。彼らは、政治フィクサーや元軍国主義者、産業資本家、さらに
         は司法界の上層部や腐り切った警察首脳部とつるんでいる」
        ●臨時金利調整法施行
           この臨時という名のついた時限立法は延々と延長され、実質
          的にこの効力がなくなったのは1994年の完全金利自由化だった。
          この間、日本経済成長期の全体を通じて預貯金金利は低く抑えら
          れ続け、預貯金者の実質利益は権力側に吸い上げられていたので
          あった。
           -----------------------------------------------

       ■隠退蔵物資事件(辻嘉六事件)
          敗戦直後、日本軍が本土決戦に備えて備蓄していた物資や資材
         が忽然と消えた。推定2400億円(現在価値で数十兆円)にものぼ
         る。これらは軍需工場の出入り業者や旧軍人などに横領されてい
         た。それらを横流しして得たヤミ金が辻嘉六を通じて政界に流れ
         た。(黒田清氏・大谷昭宏氏著『権力犯罪』より)
       ■炭鉱国管疑獄事件(1947~1948年)

  ☆ 余談   <昭和22年、広津和郎『日本人の根性』(文藝春秋8月号)>
      雑誌が復活し、言論の自由が叫ばれ、何でも云ひたいことを云ひなさいと
     いふ注文が殺到し始めると、私はペンを持つ気もなくなってきた。・・・
      私はそれ等を面白く、興味をもつて読んだが、その中変な気がして来た。
     何故この人達は、こんなにいろいろな事を知ってゐて、今日まで黙ってゐた
     のであらう。・・・
      日和見主義者が多過ぎたのである。この国の人民は大体さう鈍感は方では
     なく、相当敏感な人間が多いと云っても間違ひはなからうと思ふが、さうい
     う連中は物を知ってゐて、結局間違った方へ物も向つて行くのを阻止しよう
     とはしないのである。・・・
      扠て、こんなことはいつまで云ってゐても同じ事である。民主主義日本が
     来た筈であるし、その呼び声は高いし、と云って見渡したところ、この国の
     背骨が民主主義によつて切り換へられてなど凡そゐない。軍と協力した官僚
     機構が、今でもこの国の推進力であるし、軍が壊滅した後、それが唯一の推
     進力であるとさへいへる状態で厳として存在してゐる。
      これはちつとやそつとではその根を掘りかへしも出来ないやうな組織であ
     り機構である。長いものに巻かれろ主義のこの国の国民の根性が相も変わら
     ず続く限り、この国には再び官僚政治が支配しないとはかぎらない。いや、
     今でも支配してゐるのであるが、それが強化されないとは限らない。
             (文藝春秋 2002年2月号、坪内祐三『風呂敷雑誌』より)

1948年(昭和23年):●出生数:約268万人(昭和23年)
                  約270万人(昭和24年)
  ★インフレが猛威をふるい、賃金・物価の上昇に対応するため、診療報酬単価
   引き上げや「健康保険法」改正が行われた。

       ■戦後日本の医療制度、ひいては社会保障制度の骨格づくりが始
        まった。
       ■社会保険診療報酬支払基金の設立。レセプト審査が独立組織に
        移された。また任意設立だった、国民健康保険についても
        「国民健康保険法」が改正されて、市町村による公営が原則となった。
       ■「医療法」施行。病院を20床以上と規定、診療所の48時間患者
        収容制限も実施猶予つきで規定。       
           -------------------------
  ★「教育復興学生決起大会」(昭和23年6月1日)
     雨模様の日比谷野外音楽堂に全国から2万人の学生が駆けつけた。この学生
    集会の焦点は授業料の3倍値上げ(600円-->1800円/年間)問題だった。
     これにより戦後学生運動は対政府闘争、中央政治闘争へと飛躍した。
       ■「全日本学生自治会総連合会(全学連)」の結成(昭和23年9月18日)
          初代委員長:武井昭夫、加盟145校、学生総数30万人。
          以後東大を中核とした学生運動は日本の反体制運動の牽引車と
         しての地位を確立。
           -------------------------
       ■昭和電工疑獄事件の発覚:芦田均連立内閣の倒壊。
                    吉田茂長期政権がスタート
               <昭和電工疑獄事件発生の温床>
          傾斜生産方式(筆者注:統制経済、主幹産業保護育成)は、
         思想的にさまざまに異なる経済学者たちの創案になるもので、
         超党派的な幅広い支持を集めた。これは基本的に次の三つの
         措置に立脚していた。労働力と稀少な原材料の主幹産業部門
         への割当て。これらの部門への政府の直接補助。新設の復興
         金融金庫を通した政策誘導貸付。このような産業目標設定は、
         もっとも基本的なエネルギー生産(石炭、その後は電力)と、
         基幹重化学工業(鉄鋼、および多少程度は低いが、肥料)に
         資源をまわすことで、経済の全体的回復を刺激することを狙
         っていた。将来の輸出回復に備えて、造船と繊維も優遇措置
         を受けた。対象となったこの6部門には、1949年まで、外部
         資金のおよそ四分の一が復興金融金庫を通して政府から供給
         された。結果として、たった97社が復興金融金庫の金融資額
         の87%を占めることになった。
          これは汚職にうってつけのシステムをつくり、実業家、官
         僚、政治家は時を移さずその濫用にとりかかった。賄賂が資
         金を呼びこみ、その資金の一部が礼金やさらなる賄賂になっ
         た。大規模炭鉱経営者から保守系政治家につながるパイプに
         とくに大きな額が流れたが、こうした違法な金の流れる下水
         管はあらゆる方向にあふれだして、GHQさえも汚染した。こ
         のことに国民の注目をセンセーショナルに向けさせたのが、
         1948年に明るみにでた「昭和電工事件」だった。ひとつの化
         学肥料会社が復興金融金庫から巨額融資を獲得するために広
         げた大きな汚職の網が発覚したのである。この年の4月に新
         聞に最初の暴露記事がでてから、10月には芦田均内閣の総辞
         職に至り、年末までに有力者67人が逮捕される、という大ス
         キャンダルだった。(ジョン・ダワー(増補版)『敗北を抱
         きしめて<下>』三浦洋一・高杉忠明・田代泰子訳、岩波書
         店、p.351より)

  ★中央競馬法・自転車競技法が整備・成立。競輪は早速昭和23年に開催され全国に
   競輪ブームを巻き起こした。(中央競馬開催は昭和29年、地方競馬は昭和21年よ
   り始まっていた)。(工藤美代子氏著『悪名の棺 笹川良一伝』幻冬社、p.285)

          --------------<昭和23年の世界状況>--------------- 
        ●朝鮮半島を分断し二つの国家が成立
        ●イスラエル建国(1948.5.14)
          ソ連のスターリンは反帝国主義・反植民地主義の立場から世界
         で最初に承認した。イギリスがパレスチナから撤退しイスラエル
         が独立宣言。と同時にアラブ諸国がイスラエルに対して宣戦布告
         を行った。これが第一次中東戦争の始まりである。
        ●第一次中東戦争(パレスティナ戦争)
           1948.5.14にパレスチナに対する委任統治が終了。イスラエル
          が国家独立宣言を行った。これに対してアラブ諸国が反対し戦争
          となった。(1948.6.30に外務省政治情報局(後のモサド)が
          誕生)。
        ●中国共産党が蒋介石・国民党の拠点である錦州を一斉攻撃(1948.
         9.12)。10月14日錦州は陥落し、これが国共内戦の転換点となっ
         た。(ユン・チアン『ワイルド・スワン<上>』土屋京子訳、
         講談社、pp.123-149)
        ・毛沢東が中国人民銀行設立(1948.12.1)
           中国の通貨統合(「人民幣」)のはじまり。
        ●ラファエロ・レムキンの献身的努力により国連総会で55か国の
         代表の全会一致で「集団人間破壊(ジェノサイド)禁止法」が
         採択された(1948.12.9)。(サパンサ・パワー『集団人間破壊
         の時代』星野尚美訳、ミネルヴァ書房、pp.40-52)
          ただしこの条約がアメリカで(ウィリアム・プロックシマイ
         アー上院議員らの積年の努力により)批准されたのは1986年2月
         であった。実に40年が過ぎ去っていた。(サパンサ・パワー
         『集団人間破壊の時代』星野尚美訳、ミネルヴァ書房、p.146)
          --------------------------------------------------- 
       ■A級戦犯容疑者19名が巣鴨プリズンから釈放される(S23.12.24)
          この日は東京裁判で絞首刑を言い渡された東城英機らが処刑され
         た翌日だった。岸信介、児玉誉士夫、笹川良一らの名があった。
          後児玉誉士夫はCIAの協力者となり、岸信介は昭和32年に”親アメ
         リカ内閣”を樹立。
          なお、突然の釈放、岸信介、児玉誉士夫、矢板玄、ウィロビー少
         将(G2=参謀第2部、CIC=対敵諜報部隊)、キャノン中佐(キャノン
         機関)、佐藤栄作などの人脈については柴田哲孝氏著『下山事件
         最後の証言』(祥伝社、2005)など参照。
           ------------------------- 

  ☆ 大学教授は飢えている
   一九四八年三月七日の『朝日新聞』に掲載された「大学教授は飢えている」とい
  う投書は、こう述べている。私は某官立大学の学生だが、最近教授たちの顔色が悪
  く元気がないので、その内状をお聞きしてびっくりした。ほとんどすべての教授は
  栄養失調になりつつあり、某助教授はすでにこの世の人でなく・・・学長ですら税
  金を差引いて手取り三千円と聞いては、配給品を買うにも不自由を感ずるだろうと
  思う。・・・二度も戦災にあった某教授は、全く無一物となったが、友人知己から
  もらいうけた不似合いな服で、とくとくとして教壇に立っておられる。青白い顔で
  熱弁をふるう教授の姿からは行者のごとき感じをさえ受けるのである」。
           (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.86-87)

1949年(昭和24年)
  ★超均衡財政(歳入に見合う歳出しか認めない)によりインフレの鎮静化と深刻
   な不況の到来。(”ドッジ・ライン”=「経済安定九原則」)
       ■自由診療の患者が少なくなって、開業医は医業収入を保険診療の
        患者に頼らざるを得なくなった。(※乱診乱療問題が初めて惹起
        された)。

        ●「通商産業省(仮称)設置」法案が閣議決定された(S24.2.8)
           ”白州次郎貿易丁長官ー永山時雄貿易課長”コンビの活躍
          ----->「通商産業省」誕生(S24.5.25)
            (北康利氏著『白州次郎 占領を背負った男』講談社、
                                pp.270-282)
        ●ドッジ・ライン(すさまじいデフレ政策--->大不況)
         ・東京証券取引所が戦後再開(1949年、昭和24年5月)
         ・ 一般会計、特別会計の超均衡財政
            吉田茂は前大蔵事務次官だった池田勇人(当選したばかり
           の一年生議員だった)を大蔵大臣に抜擢した。
            (北康利氏著『白州次郎 占領を背負った男』講談社、
                                pp.258-260)
         ・価格差補給金(鋼材・石炭を廉価に保つための補助金)の廃止
         ・復金債発行(石炭・鉄鉱の二大産業の保護のため発行)の停止
              --------------------------------
          ※鉄道が絡んだ奇妙な事件の頻発(1949年、昭和24年7~8月)
            (当時の国鉄は贈収賄の温床)
            ・下山事件:下山国鉄総裁が轢死体で発見され、不審死と
                  騒がれた(S24.7.5~6)
            ・三鷹事件:中央線三鷹駅で無人電車が暴走(S24.7.15)
               吉田茂首相は事故が”労組・共産主義者の扇動”に
              よるものと断定。これを機に共産党は急激に求心力を
              失い、国鉄労組は7月21日の94300人余りの大量解雇を
              受け入れさせられた。
            ・松川事件:東北本線金谷川~松川間で列車が転覆
                                (S24.8.17)
              --------------------------------
        ●4月には円/ドル=360の固定為替レートが決まった。
          日本が輸出して外貨を稼げるようにやや円安で固定された。
        ●税制における「シャウプ勧告」
           急激な累進的所得税と、間接税の範囲の強い制限は、世紀末
          から21世紀に至る「日本の希望」を完全に喪失させてしまった。

        ・蒋介石が中華民国総統を辞職(1948.5~1949.1.21)
        ・蒋介石が台湾に逃亡(1949.5)
           戦後、連合国は「カイロ会談」の秘密合意の一環として台湾
          を蒋介石に引き渡した。台湾の人々は国民党=蒋介石を歓迎して
          いなかった。
        ・CIA法が強引に議会を通過(1949.5.27)
           これによりアメリカ議会はCIAに広範な権限を付与した。でき
          ないのは”国内での秘密警察のような振る舞い”だけであった。
         (ティム・ワーナー『CIA秘録<上>』藤田博司・山田侑平・佐藤
          信行訳、文芸春秋、p.69)
        ・NATO(北大西洋条約機構)創設(1949.8)
        ・ソ連が初めての核実験に成功(1949.9.3)
          ドイツ出身の物理学者でロスアラモス研究所で原爆開発をして
         いたクラウス・フックスがソ連に情報を流していた。
         (保阪正康氏著『昭和の空白を読み解く』講談社文庫、p.42)
        ・中華人民共和国成立(1949.10.1):毛沢東、(宋慶齢は副主席
                          の一人として名を連ねた)
           中国国民党敗北、国民党軍は国境を越えてビルマ領内に逃
          れた。
           ----------------------------------------------------------

  ★アメリカは日本の軍事的価値を以下のように判断していた。
     「日本列島は、極東におけるアメリカの安全保障上の利益に
    とって高度の戦術的重要性をもっている。その主たる理由は、
    日本列島が北太平洋の貿易ルート、日本海と東シナ海それに黄海
    の出入口、それに、それらほど重要ではないが上海=呉淞以北の
    アジアの諸港に対して占める地理的位置のためである。・・・
     戦争になれば、ソ連に早い段階で日本海、黄海、東シナ海を渡
    さず、最終的にはそれらの海をわれわれが支配するかまたは中立
    化するための戦略的前哨基地として、日本を使うことができるで
    あろう。・・・」(統合参謀本部(JCS)、『日本におけるアメリカ
              の軍事的必要に関する戦略的評価』より)

1950年(昭和25年) 
       ■社会保険審議会、中央社会保険医療協議会が発足。
       ■”池田ミッション”(昭和25.4.25)
          吉田茂は、占領状態から一刻も早く日本を独立させようと
         画策(講和条約の早期締結)。時の外務省は全くあてになら
         ず、池田勇人蔵相と白州次郎を渡米させた。
            <バターワース国務次官補、白州次郎会談より>
            「日本は地理的にソ連に近いし、中立などという立場
           をとったらすぐ共産日本になってしまうだろう。だから
           中立は問題外だ。もちろん、日本経済の弱体ぶりと新憲
           法による制約と過去の苦い経験から再軍備もできない。
           日本は国家として戦争を放棄したのだから、日米協定で
           米軍基地を日本に残して戦争に備えるというのも憲法上
           むずかしいはずだ。この袋小路を突破するいちばんいい
           方法は、アメリカが日本の占領を終了すると宣言して、
           軍事面以外の内政と外交権を日本政府に完全に返還する
           一方で、いざという場合の軍事行動の自由を保持すると
           いう方法だ」
         (北康利氏著『白州次郎 占領を背負った男』講談社、p.309)
        -----------------------------------------------------
        ・中ソ友好同盟相互援助条約締結(1950.2)
          この同盟の敵国は日本と日本と同盟している国だった。

        ●「シューマン宣言」:ヨーロッパ統一に向けて(1950.5.9)
           1950年の春、その機会が訪れ、モネ(筆者注:
          ジャン・モネ;「ヨーロッパの父」)はすぐに飛
          びついた。当時、西ドイツの経済は再生しはじめ
          ていた。アデナウワー政権は、アメリカとイギリ
          スの後押しを受け、ルール川、ザール川の流域に
          ある大規模製鋼所の再開を熱望していたが、この
          計画は、ドイツの近隣国に期待と恐怖の双方を抱
          かせた。疲弊しきったフランスとベルギーは、ド
          イツの工場に大量の石炭を売り込むチャンスだと
          胸を膨らませ、閑散としたオランダの港も、ドイ
          ツの鉄鋼産業が復活すれば、海運ブームに沸くこ
          とは確実だった。とはいえ、フランス、ベルギー、
          オランダの三国は、第一次大戦後のドイツが鉄鋼
          産業を復興させ、ルールやザールの工場から大量
          の砲弾や軍用機、戦車などを送り出したことを決
          して忘れていなかった。あの悪夢をなぜ再現させ
          なければならないのか。欧米どちらの政治家たち
          も、こうした論争と悲痛なジレンマをじっと見守
          るしかなかった。だが、あくまでも独創的なジャ
          ン・モネは、同じ問題に突破口を見出した。これ
          ぞ待ちに待ったチャンスだった。
           ドイツ鉄鋼問題を解決するため、英仏米三方国
          政府の首脳会談が1950年5月10日に開かれることに
          なった。当時、フランスの外相だったシューマン
          は、何とか解決策はないかと友人のモネのもとを
          訪ねた。モネは早速、仏独両国の産業を統合する
          概略案を示してみせた。両国の石炭採掘と鉄鋼生
          産業を共同管理機構の下に置くという案で、簡単
          に言えば、フランスは石炭を売り、ドイツも鉄鋼
          を生産できるが、国境を超えた管理委員会が、石
          炭も鉄鋼も軍事目的には一切使われないように監
          視するというものだ。これは利益と平和に役立つ
          計画だった。
           シューマン直ちにモネ案の真意を見て取った。
          「ここからヨーロッパが出てくるわけだな」と、
          計画案を読んだシューマンは言った。「堅固に結
          ばれた統一ヨーロッパがね」。モネの計画は、ド
          イツの鉄鋼生産という目先の問題を解決するだけ
          でなく、経済と行政の協力機構を誕生させ、やが
          ては「一つのヨーロッパ」という夢につながって
          いくものだった。5月10日の三カ国首脳会談で、
          フランスはどんな立場をとるのかとメディアは大
          騒ぎだった。そこでシューマンは記者会見を開い
          た。
           モネを傍らにして、シューマン外相は自らの提
          案を明らかにした。この「シユーマン宣言」は、
          きわめて壮大かつ野心的で、しかも、あとで判明
          したことだが、じつに正確な記述がなされていた
          ため、ヨーロッパ統合の一種の「独立宣言」とな
          った。
         (トム・リード『「ヨーロッパ合衆国」の正体』
                  金子宣子訳、新潮社、p.62-64)
        ●朝鮮戦争勃発(昭和25.6.25)
           福岡の板付空港から、北朝鮮軍と中国軍を攻撃する
          爆撃機が毎日のように飛び立った。沖縄の嘉手納基地
          は、戦場のようだった。佐世保や横須賀は、前線への
          補給基地であり、また、戦傷者の野戦病院でもあった。
          そのころは全く知らなかったが、御殿場キャンプは、
          韓国兵の訓練所だった。(竹内宏氏著『父が子に語る
          昭和経済史』より)
        # 戦死者・行方不明者は韓国軍76万人、米軍4万人、北朝鮮軍
         は200万人といわれている。
        -----------------------------------------------------

        ・警察予備隊発足(S25.8.10、75000人)、海上保安庁8000人増員
          日本共産党の暴動に対する警戒が主な目的だった。
                          
        ・GHQ勧告によるレッド・パージ(共産党員1万数千人追放)
           多くの学生は下記理由からレッド・パージに反対した。
             1.学生の多くは新しい価値観をマルクス主義の
              中に発見していた。
             2.学生は第二次世界大戦に命を賭けて反対した
              共産主義者を深く敬愛していた。
             3.レッド・パージは思想の自由を保障している
              憲法に対する違反
             4.GHQに対る本能的な反感
           (東大ではレッド・パージ反対ストライキが6月3日整然
            と行われた)
        ・日本共産党の分裂(ソ連共産党 vs 日本共産党)
           1.主流派:平和革命論(野坂参三)、徳田球一、伊藤律ら。
                少数の全学連の分派の協力。-->非公然組織
           2.反主流派(国際派):コミンフォルム賛同派、宮本顕治
                      志賀義雄ら。全学連主流派。
                      -->公然組織
        ・総評(日本労働組合総評議会)結成
          共産党の影響を受けない労働組合の組織体として結成された。
        -----------------------------------------------------
        ・フリーメーソンは1950年から日本人の参加を認めた。
           第一号は佐藤尚武参議院議長、植原悦二郎元国務相ら5人の
          国会議員。鳩山一郎もその後入会した。
          (戦前からいうと日本人フリーメーソン第一号は西周である)

1951年(昭和26年)
       ■「サンフランシスコ講和条約」締結(S26.9.8 11:44)
         ロシア(旧ソ連)との北方領土をめぐる係争の発端となった。
        対日終戦の一括処理をめざし48か国が調印した講和条約にソ連全権
        として参加した外務次官のグロムイコがアメリカ主導に対し不満を
        述べて調印を拒否。(条約はS27.4.28に発効し日本は独立国家に復
        帰した)。
                <講和条約受諾演説秘話>
          白州次郎: 「何だと! 講和会議でおれたちはようやく
               戦勝国と同等の立場になれるんだろう。その晴
               れの日の演説原稿を、相手方と相談した上に相
               手国の言葉で書くバカがどこの世界にいるんだ」
          (北康利氏著『白州次郎 占領を背負った男』講談社、p.327)
       ■「日米安全保障条約」締結(S26.9.8、発効:昭和27年4月28日)
         同時にその細目協定である日米行政協定を結んだ。これは駐留軍
        施設の無償提供など日本の主体性のない一方的なものだった。
       ■沖縄に核兵器の陸揚げ(S26.7.3)-->昭和28(1953)年12月31日に
        は地対地戦術核ミサイル、オネストジョンが正式配備された。
              (有馬哲夫氏著『原発・正力・CIA』新潮新書、p.53)

      ◇◇◇◇◇ 安くて豊富な労働力を使った戦後の復興 ◇◇◇◇◇
      ◇◇◇◇◇ 朝鮮戦争による特需も復興に一役かった ◇◇◇◇◇
        # 日本の輸出額は昭和24年には、わずか5億ドルにすぎ
         なかったが、昭和27年には輸出13億ドル、特需8億ドル
         に達した。昭和24年には輸入は9億ドルであって、貿易
         収支の4億ドルの赤字はアメリカの援助でカバーした。
         しかし昭和27年には輸入は20億ドルに増えたが貿易収支
         は自力で黒字になった。

        ・川崎製鉄、西山弥太郎社長の大バクチ(千葉製鉄所建設)
           見事にこのプロジェクトは成功し日本の鉄鋼業が
          世界のトップに躍り出る基礎を築いた。
        ・開発銀行設立:設備資金の専門政府銀行
           郵便貯金の原資を使って、電力、海運、石炭、鉄鋼
          の四大重要産業へ集中的に低利資金を融資した

        ・毛沢東(中国共産党)が台湾を除く中国全土を統一
        ・マッカーサーがトルーマン大統領に罷免される (S51.4.11)。
           朝鮮戦争においてトルーマンの休戦の意図に逆らい政府批判
          を行ったため。
        ・中国共産党の「三反運動」:汚職、浪費、官僚主義の追放(S51末)
          ----------------------------------------------------
                <マッカーサーの日本観>                  
            ドイツの問題は、完全かつ全面的に日本の問題とは違
           っています。ドイツ人は成熟した人種 a mature race で
           した。
            もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点
           で、科学とか芸術とか宗教とか文化において、まあ45歳
           であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。
           しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのです
           が、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺
           度で測れば、われわれが45歳で、成熟した年齢であるの
           に比べると、12歳の少年といったところ like a boy of
            twelveでしょう。
            指導を受ける時期というのはどこでもそうですが、日
           本人は新しい模範とか新しい考え方を受け入れやすかっ
           た。あそこでは、基本になる考えを植え付けることがで
           きます。日本人は、まだ生まれたばかりの、柔軟で、新
           しい考え方を受け入れることができる状態に近かったの
           です。
            ドイツ人はわれわれと同じくらい成熟していました。
           ドイツ人が近代的な道徳を放棄したり、国際間の規範を
           破ったりした時、それは彼らが意図的にやったことでし
           た。ドイツ人は、世界について知識がなかったからそう
           したことをしたのではありません。日本人がある程度そ
           うだったように、ふらふらと、ついそうしてしまったと
           いうのではありません。ドイツ人は、みずからの軍事力
           を考慮し、それを用いることが、自分の望む権力と経済
           制覇への近道と考え、熟慮のうえでの政策として、それ
           を実行したのです。
            ところが、日本人は全然違っていました。似たところ
           はまったくありません。大きな間違いのひとつは、日本
           で非常にうまくいった政策をドイツにもあてはめようと
           したことでした。ドイツでは、同じ政策でもそうは成功
           しませんでした。同じ政策でも、違う水準で機能してい
           たのです。(ジョン・ダワー(増補版)『敗北を抱きし
           めて<下>』三浦洋一・高杉忠明・田代泰子訳、岩波書
           店、pp.374-375より)
          ----------------------------------------------------

  ★ ”12歳の少年 "like a boy of twelve"(マッカーサー)”の顛末
     日本人が自分自身をマッカーサーの子と呼ぶことはすでに習慣のようにな
    っていた。・・・そしてそもそも日本占領全体が、アメリカの圧倒的な家父
    長的権威に黙従することを大前提としていたし、独立による主権の回復が近
    づき、冷戦のパートナーとして日本が再興していく間も、アメリカ人たちが
    日米に平等の関係がやってくると予期したことはまったくなかった。新しく
    できた日本の軍隊は、疑問の余地なくアメリカ合衆国のコントロールの下に
    ある「小さいアメリカ軍」であったし、新しい日本の経済は、アメリカの援
    助と庇護に大きく依存していた。他方で、日本民主化の計画は急速に放棄さ
    れ、日本の旧保守勢力の復活は許され、かつ、再軍事化は促進されていった
    が、それは冷戦の敵味方の区別なく多くの国々を驚かせ、警戒させた。こう
    した状況では、日本が独立したといっても、予見できる将来において、現実
    には合衆国に依存し従属していく以外のことを想像することは難しかった。
    独立国というのは名目だけであり、ほかのすべてにおいて、日本は合衆国の
    保護国 a client stateであった。(ジョン・ダワー(増補版)『敗北を抱
    きしめて<下>』三浦洋一・高杉忠明・田代泰子訳、岩波書店、p.376より)

  ★天皇退位論の終焉の象徴:「京大事件」(1951.11.12)
    朝鮮戦争のさなかだったこの時期、学生側は丸木位里・俊子夫妻による「原爆
   の図」を展示した「原爆展」を開催しており、10日間に3万人の入場者を集めてい
   た。そこへ行なわれた巡幸を、のちに映画監督となった大島渚などをはじめとす
   る学生たちは、「平和を守れ」の合唱と「"天皇陛下万歳"といって死んで行った
   先輩たちを忘れるな」といったプラカードで迎え、「人間天皇に訴う」と題する
   公開質問状を作成した。その質問状は、以下のような内容であった。
 
     私たちは貴方が退位され天皇制が廃止されることを望むのですが、貴方自身
    それを望まれぬとしても、少なくとも一人の人間として憲法によって貴方に象
    徴されている人間達の叫びに耳をかたむけ、私達の質問に人間として答えてい
    ただくことを希望するのです。
     質問
    一、もし、日本が戦争にまき込まれそうな事態が起るならば、かつて終戦の詔
     書において万世に平和の道を開くことを宣言された貴方は個人としてでもそ
     れを拒否するように、世界に訴えられる用意があるでしょうか。
    二、貴方は日本に再軍備を強要される様な事態が起った時、憲法に於て武装放
     棄を宣言した日本国の天皇としてこれを拒否する様呼びかけられる用意があ
     るでしょうか。
    三、貴方の行事を理由として京都では多くの自由の制限が行われ、又準備のた
     めに貧しい市民に廻るべき数百万円が空費されています。貴万は民衆のため
     にこれらの不自由と、空費を希望されるのでしょうか。
    四、貴方が京大に来られて最も必要なことは、教授の進講ではなくて、大学の
     研究の現状を知り、学生の勉学、生活の実態を知られることであると思いま
     すが、その点について学生に会って話し合っていただきたいと思うのですが
     不可能でしょうか。
    五、広島、長崎の原爆の悲惨は貴方も終戦の詔書で強調されていました。その
     事は、私たちは全く同意見で、それを世界に徹底させるために原爆展を製作
     しましたが、その開催が貴方の来学を理由として妨害されています。貴方は
     それを希望されるでしょうか。又私たちはとくに貴方にそれを見ていただき
     たいと思いますが、見ていただけるでしょうか。

     私たちはいまだ日本において貴方のもっている影響力が大であることを認め
    ます。それ故にこそ、貴方が民衆支配の道具として使われないで、平和な世界
    のために、意見をもった個人として、努力されることに希望をつなぐものです。
    一国の象徴が民衆の幸福について、世界の平和について何らの意見ももたない
    方であるとすれば、それは日本の悲劇であるといわねばなりません。私たちは
    貴方がこれらの質問によせられる回答を心から期待します。

    この当時、昭和天皇が退位しなかったことへの弁護論として、立憲君主として
   遵法意識が強い天皇が、憲法と皇室典範に退位規定がないことを遵守したからだ
   というものがあった。しかしそうだとすれば、天皇は憲法第九条を遵守する意志
   はあるのか。もともと日本国憲法第九九条は、「天皇又は摂政及び国務大臣、国
   会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と規
   定していた。学生たちは、この点を質問したのである。
    しかし約500人の警官隊に守られた天皇は、この質問状をうけとることなく、
   一時間ほどで京都大学を去った。与党は学生たちを不敬行為として処分すること
   を主張し、京都大学当局は質問状を作成した京都大学同学会に解散命令を下した
   上、幹部学生八名を無期停学処分にしたのだった。
           (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.130-131)

    ----------- 松田道雄(『世界』(1951.10)講和問題特集より)----------
    こんどの講和はけんかの仲直りというのではなく乱暴もののおわびというべき
   ものですから、乱暴をはたらいたものは、乱暴をされたものに二度と乱暴をしな
   いという誠意を示さねばなりません。大東亜戦争などといっていたように東亜の
   諸民族が一ばん迷惑したのですから、何よりもそういう人たちにおわびをしない
   ことには、東亜の片すみに生きている我国としては近所づきあいがうまくいかぬ
   でしょう。近所づきあいがうまくいかぬと、ゆくゆく生活にこまるようなことに
   なるでしょう。生活にこまってくると、とかく乱暴なことをたくらむ政治家が国
   民をたぶらかして・・・そのたくらみを実行にうつすことになりがちです。・・
    ・・・何のうらみもない近隣の民族に乱暴をはたらいて自分だけがよくなろう
   というさもしい考え方をしたことが誤っていたとみとめるのが講和のたてまえで
   しよう。戦争はもうやらないと憲法にまで書いておきながら、講和をきつかけに
   その憲法をひつこめて軍隊をつくるようなことをすれば、我国民は人間としてゼ
   ロになるだけでなく、近所がおさまらないと思います。
    このことは小学校五年生の子供なら、もうわかるのではないでしようか。読ま
   せてみて下さい。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.475-476)
     ------------------------------------------------------------------

  ★「新宿粛清」(『読売新聞百二十年史』(1994.11発行)より)
    <戦後六年にもなろうというのに、焼け野原となった東京の盛り場は不健全を
   極めていた。原(四郎・社会部長)の意図は、安井誠一郎知事以下の都政がそん
   な状態を放置し、都市計画や区画整理に手をつけない怠慢を批判しようというも
   のでもあった。とくに新宿駅東口は、やみ屋ともぐり営業の飲食店が密集し、売
   春、たかり、暴力、麻薬が横行、都内の盛り場でも最も悪評が高かった>
    キャンペーンの第一報は、三月四日付朝刊の社会面トップに掲載された。<新
   宿”悪の華”根幹にメス/淀橋署長を召喚/背後におどるボス、暴力団、区政の
   悪因縁など>という見出しで、社会部の取材と並行して監査していた警視庁第四
   方面本部が不正の摘発を始めたことを伝えた。
    具体的には、現職警官の寄付強要、解散されたはずの警察後援会の温存、渡会
   守淀橋警察署(現新宿警察署)長の自宅新築にからむ不審な融資ーーの三つの疑
   点を列挙した。
    三月七日付朝刊の第二報は、<無法規の街の実相>として、その実態をさらけ
   出した。同署の捜査係刑事数十人が、大挙して無銭飲食を繰り返し、署員の異動
   ごとに餞別を集めている。警察は無許可の飲食店、族館の数さえ把握しておらず、
   野放し状態で放置している・・・。これらの事実を実名入りで、しかも取材記者
   全員の署名をつけて報じたのである。
   『百二十年史』は、<果敢なキャソペーンを展開した>と記しているが、その表
   現に誇張はない。・・・
           (本田靖春『我、拗ね者として生涯を閉ず』講談社、p.158)
     ------------------------------------------------------------------
  ★創価学会入信世帯が1951年(S26)末の時点で5700世帯にまで増えた。--->
    7万世帯(1953年)、16万世帯(1954年)、30万世帯(1955年)(折伏大行進)
    --->100万世帯突破(1958年)、150万世帯(1960年)、500万世帯以上(1960年)
    創価学会は日本の高度成長に合わせて一気に勢力を拡大した。
                 (島田裕巳氏著『創価学会』新潮新書、p.54)
  ★モーターボート競争法案が制定、交付された(昭和26年6月18日)。11月には
   全国モーターボート競争連合会(社団法人)が結成され、初代会長に足立正
   が推された。笹川良一は2代会長で、昭和30年5月12日に就任。(初めてのレ
   ースは昭和27年4月6日、長崎県大村市で3日間の開催)(工藤美代子氏著『悪
   名の棺 笹川良一伝』幻冬社、pp.287-288)

1952年(昭和27年):日本の主権回復。昭和27年4月28日(月)午後10時30分は
             日本人として決して忘れられない年となった。

    ◆◆◆◆◆ 昭和27年4月28日、日米安全保障条約発効をもって ◆◆◆◆◆
    ◆◆◆◆◆ 連合軍最高司令部の公式な支配は終結した。   ◆◆◆◆◆
      # 昭和27年4月28日、GHQの日本占領は約6年8か月と14日続いて
       終了した。日本はやっと主権を回復したのであった。

       ■警察予備隊は改編され保安隊となり海上警備隊も傘下に入った。
                            (1952年、昭和27年)
        ・二つの長期信用銀行(長銀と興銀)設立:長期設備資金の専門銀行
         --------------------------------------------------
        ・中国共産党の「五反運動」:贈賄、脱税、詐欺、国有資材の横領、
         国家経済情報の不正入手の五悪の追放(S52春)
          (ユン・チアン『ワイルド・スワン<上>』土屋京子訳、
         講談社、p.247)
        ・ガマル・アブデル・ナセルがエジプトで革命。ムアンマド・アリ朝
         崩壊。
        ・キューバで親米軍人のバティスタがクー・デタで政権を握り独裁
         者として君臨するようになった。(1952年)
        ・「ソ連邦共産党」の誕生
           1952年10月の第19会党大会で、それまでの正式呼称、「全連邦
          共産党」(ボリシェビキ)から改称された。
        ・1952年、アメリカでポリオが大流行。5万7000人のうち3000人が亡
         くなり、2万1000人に麻痺が残った。(スティーヴン D. レヴィッ
         ト、スティーヴン J. ダブナー『超ヤバい経済学』望月衛訳、東
         洋経済新聞社、p.183)
         --------------------------------------------------
        ●「血のメーデー事件」(昭和27年5月)
          デモ隊の死者5人、逮捕者1232人、警官隊の死者3人など
        ●菅生事件(昭和27年6月2日未明)
          警察・検察多数がグルになって、罪なき共産党員をワナにかけて
         召し捕り、ニセの証拠で犯罪をデッチ上げ、裁判官を騙して有罪に
         し、世間を欺こうとした大陰謀事件。
         (正木ひろし『事件・信念・自伝』日本図書センター、pp.29-75)
                  ----------------------
            菅生事件では、日本の警察庁と最高検察庁とが結託して、
           みずからの手で駐在所を爆破させ、これを共産党貝の罪に
           デッチあげた。それが東京大学工学部の鑑定でバクロされ
           ても、誰も責任をとらないばかりか、直接関係者たちは、
           抜てきされ、栄進している。
            国民は、ただ指をくわえて、それを眺めているだけであ
           る。
            しかし、正義なき権力は、公然たる暴力ではあるまいか。
           暴力に支配されている日本人なのである。
            国民各自の”正義”感覚が、おそろしくニブイ。
            おたがいの、小さな利害や感情問題では、眼の色を変え
           て争い、ときとするとイノチがけになりながら、この国家
           権力を笠に着た悪党に対しては、家畜のごとく無抵抗だ。
            もっとも、それは現代の国民だけのツミではない。遠い
           祖先以来、ただの一度も、国民が正義のために立ち上がっ
           て、不良、不正の支配権力を覆滅したという伝統がないの
           である。底力のある国民運動をもったという経験もない。
           これじゃ、いつまで待っても春は来ない。
            同士の諸君よ!われわれの時代に、一つ新しい伝統を作
           り出そうではないか。
           (正木ひろし『事件・信念・自伝』日本図書センター、
                               pp.145-146)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
         <ポポロ事件:言論の自由、大学の自治についての考察、2004年>

          一九五二年二月二十日のことであった。特高警察の拷問で殺さ
         れた小林多喜二の命日にあたるこの日、東京大学の学生劇団ポポ
         ロ座が大学内で演劇を公演した。テーマは共産党弾圧の口実に使
         われた謎の列車転覆事件、すなわち松川事件だった。ところが、
         観客のなかに紛れこんでいた数人の私服警官が学生らに見つかり
         騒ぎになった。学生らは警官三人を拘束して「謝罪文」を書かせ
         ただけでなく、警察手帳を取り上げたのである。手帳には、警察
         が学生運動や教職員組合指導者らの活動状況の調査つまりスパイ
         活動を長期にわたり行っていたことを示すメモが記されていたと
         いう。翌日、警察当局は大学に断りなく構内に突入、学生らを逮
         捕、連行した。一方、大学側は警察の学内潜入自体が不法である
         として学生らの釈放を要求、学生らも抗議集会を開いた。矢内原
         忠雄総長は大学の自治を守るように学生に呼びかけ、抗議行動を
         事実上激励した。東大は全学挙げて「戦前の政治警察の再現」「
         学問の自由・大学の自治の侵犯」だとして怒り、多くの他大学も
         これを支持した。事件は政治問題としても拡大し、国会の法務委
         員会も矢内原総長、学生、警官らを証人として喚問して審議する
         など大きな論議となったのである。
          逮捕学生らは起訴されたが、第一審判決と第二審判決では、警
         官の学内立ち入りは違法行為であると判断、学生らは無罪となっ
         た。しかし最高裁が差戻しを決め、東京地裁が一九六五年、一転
         して学生に有罪判決を下した。大学での学生集会が学問や研究の
         ためではなく政治活動にあたる場合には警察が立ち入っても大学
         の自治の侵害とはならないという趣旨であった。私のデモ初体験
         はこれに抗議するためのものであった。
          右の(筆者注:上の)、いまとなってはまるで夢のような経緯を
         したためながら、私は訝った。ポポロ事件と同種の事件が、もし
         も現在、どこかの大学で起きたとしたらどうなるであろうか、と。
         おそらく、総長も学長も学生の釈放など求めはすまい。それどこ
         ろか、学生らの行動を非難し、大学によっては事件に関係した学
         生らの情報を警察に内通する可能性も大であり、逮捕学生につい
         ては停学などの処分も検討するかもしれない。裁判一、二審とも
         ほぼまちがいなく学生側有罪であろうし、マスコミのほとんどは
         そうした判断を支持するだろう。有罪判決に抗議するデモに都内
         の各大学の学生たちが広く参加するということも、むろんありえ
         まい。(辺見庸『抵抗論』毎日新聞社、2004年、pp.178-179)
         ----------------------------------------------------------
        ・1952年11月。アメリカ水爆実験の「死の灰」のなかから原子番号
         99番と100番の元素、アインスタイニウムとフェルミウムが初めて
         発見された。(高木仁三郎氏著『市民科学者として生きる』岩波
         新書、pp.143-144)
         ----------------------------------------------------------

  ★血液銀行があわただしく設立された。
     朝鮮半島に送り込む乾燥血漿が潤沢に必要となり、GHQの命令で乱立する。
    現在の日赤はそのうちの一つで、血液を集めるのに我が国は買(売)血制度を
    採用したが、このことは後年多くの困難を抱えることになった。(献血で集め
    たのは、このとき日赤東京血液銀行のみ)。

  ★結局、占領の終わった1952年は、東西対立の発火した朝鮮戦争を背景に、片面
   講和-ー治安立法-ー日本再軍備の三点セットを進める強大な米国と、それに
   追随せざるをえない同盟関係を結んだ日本政府、そしてこれらに逆らって蟷螂
   の斧を振るおうとした共産党の衝突を軸として騒然となった年であった。ただ、
   その弱い側には、日共の冒険主義には与しなくとも、より広く言論の分野で三
   点セットに反対した野党、知識人、マスメディア、市民の存在もあったことは
   付け足しておかねばならない。(石川真澄氏著『戦争体験は無力なのか』岩波
   書店、p.46)

1953年(昭和28年)
        ●アメリカ、アイゼンハワー大統領就任(1953年1月)
          (このとき日本には約21万人のアメリカ軍兵士とその家族が日本
          に駐留していた)
        ●スターリン死亡(1953年3月5日)
           ソ連は「平和共存」政策へ(マレンコフ政権)
        ・朝鮮戦争終息(休戦協定調印、7.27)
           中国兵90万人、北朝鮮兵45万人死亡また国連兵40万人が死亡
          し、このうち1/3は韓国兵だった。アメリカ軍は戦死54000人。
          これに比べソ連の死者は300人程度だった。
         (重要:実際には、朝鮮戦争ではアメリカの要請を断り切れず、
             日本の掃海艇が極秘のうちに出動させられていた)
        ・ソ連が水爆実験に成功(1953年8月)。
        ・韓国とアメリカが相互防衛条約を結んだ(1953.10)。
        ・米韓相互防衛条約調印、北朝鮮との分断が固定化された。
        ・奄美群島の日本への返還(1953.12.25)
        ・沖縄の処遇
          ダレス国務長官:「極東に今のような緊張がある間は沖縄と
                   小笠原返還は困難」
          ニクソン米副大統領:「共産主義の脅威がある限り保有する」
          アイゼンハワー大統領の一般教書:沖縄基地の無期限所有
        ・沖縄:米軍現金輸送車強盗事件(1953.7.6)
          4人の沖縄人が米国人を銃撃し一人に大怪我を負わせた。4人
         の被告には3人に懲役12年、ひとりに8年という重罪を課した。
         (佐野眞一氏著『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』集英社
         インターナショナル、pp.74-75)
       ■国内政治の乱れ
         ・自由党の過半数割れと鳩山派の分党
       ■保安大学校(防衛大学校)が創設された。(1953年、昭和28年)
            -----------------
        ・DNAの構造を完全解明(ワトソンとクリック、4.25『Nature』)
           生命の設計図のからくりが明らかとなった。
        ・NHKが日本で初めてのテレビ放送を開始(昭和28年2月1日)
          日本テレビは初の民法局として8月28日に開局。テレビ受像器は
         一台19万円、全国に受像器は3000台もなかった。
1954年(昭和29年)
  ★1954年は節目の年であった。日本経済は特需が減少して苦境に立った。6月には
   ドル準備高が前年の半分にまで落ち込んだ。それまでのインフレ政策が刺激に
   なって輸入品にたいする需要も加熱しているという背景もあった。
    吉田内閣はアメリカによるインフレ体質批判に応えて思いきった緊縮財政を
   ひいた。しかしこのデフレ政策は倒産と失業を激増させ、日本経済に深刻な不況
   をもたらした。
       ■造船疑獄事件(猪又功、森脇正光、山下汽船、日本海運、日本
        通運、佐藤栄作、池田勇人・・)
         当時の自由党幹事長佐藤栄作が深く関わった贈収賄かつ政治
        資金規制法違反。
         海運・造船業界に大きな利益をもたらした利子補給法(海運
        助成法)は政界と業界の腐れ縁の上にできたものであり、これ
        が造船疑獄をもたらす原因となった。あるいは目論みに贈収賄  
        があって、そのための利子補給法(海運助成法)制定が画策さ
        れたといっても過言ではなかろうと筆者は思う。いつの時代も
        政界と財界の卑しさは払拭できないでいる。
         しかし幹事長逮捕は政権の基盤にかかわる重大事とされ、巨
        悪を眠らせないと寝食を忘れ取り調べにあたった河井信太郎検
        事の努力も虚しく、吉田総理は犬養健法相に「指揮権発動」
        (検察庁法第十四条)をさせて佐藤栄作逮捕を阻んだ。犬養法
        相は後に辞任した。この政界の大腐敗とそれによる政局不安定
        が1955年のいわゆる「臭いものに蓋、五五年体制」へと繋がっ
        た。(※造船疑獄については堀越作治氏著『戦後政治裏面史』、
        山本祐司氏著『特別捜査検察物語』などの著作を参照されたい)

       ■防衛庁設置法、自衛隊法制定(1954年、昭和29年)
          日米相互防衛援助協定により兵力13万9000人の陸上自衛隊を
         はじめとする海上、航空自衛隊が誕生。
        ・日米相互防衛援助協定(MSA協定)の調印(1954年、昭和29年3月)
        ・保安大学校が防衛大学校に改称される。(1954年、昭和29年4月)

  ★----------<憲法第九条とアメリカの対日軍事要求の流れ>----------
   (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.819、2002年第一刷)
     1955年以後は、日本国内の「革新」勢力が一定数を占めていたこ
    とにより、一定規模の自衛隊と憲法第九条の並存という膠着状態が
    続いてきた。だが冷戦が終結して、日本内部の「革新」勢力が退潮
    するとともに、アメリカの対日軍事要求がふたたび強まってきた。
     しかし一方では、冷戦終結とアメリカとロシアの協調によって、
    日本に対する安全保障上の脅威は大幅に減少した。北朝鮮はその国
    力からいっても、日本の軍事的脅威になる可能性はほとんどない。
    いうなれば現在(鳥越注:2001~2002年頃)の国際情勢は、冷戦が激
    化する以前の、1946年前後に類似してきている。その意味では、冷
    戦期よりもはるかに、第九条が適合しやすい情勢だともいえる・そ
    れにもかかわらず、日本の保守勢力に第九条改正を唱える声が絶え
    ないのは、冷戦期の対米追随外交から発想が転換できないからであ
    ると考える。
     「第二の戦後(鳥越注:筆者は1960年代の米ソ冷戦体制の安定期と
    定義)」では保守勢力の対米追随は、経済成長の基盤となる市場の
    獲得につながった。しかしそれはおそらく、二つの要因に支えられ
    ていた。一つはくりかえし述べたように、日本内部の「革新」勢力
    のプレゼンスのために、アメリカが対日軍事要求を控えていたこと。
    もう一つは、中国が冷戦の敵対陣営にあったため、アメリカは多少
    の不満があっても、日本をアジアの中核工業国として重視せざるを
    得なかったことである。
     しかしこうした条件が失われた冷戦後の国際情勢において、アメ
    リカからの軍事協力要求に追随することがプラスになるとは思えな
    い。むしろアメリカに与しやすいという印象をあたえ、対日要求を
    エスカレートさせる効果のほうが大きいだろう。ましてや、第九条
    を改正することが有利とは、筆者には考えられない。
     本論でも明らかにしてきたように、戦後日本の保守ナショナリズ
    ムは、改憲や軍備増強をうたえばうたうほど、それが対米従属を深
    める結果になるというジレンマを負っていた。一般に植民地支配に
    おいては、現地の王朝や地主層を宗主国に協力させ、王朝への忠誠
    を宗主国への忠誠に連結させる間接統治が行なわれる。いわば戦後
    の保守ナショナリズムは、結果的には、アメリカによる間接統治の
    手段として機能してきたと考えられる。
   ----------------------------------------------------------------

        ・アメリカで世界初の原子力潜水艦(ノーチラス号)の進水式(昭
         和29年1月21日)
        ・アメリカ水爆実験(1954年、国内対米感情の悪化)
           ビキニ環礁で日本のマグロ漁船・第五福竜丸船員が被爆
            (実験場から150km離れて被爆、昭和29年3月1日)
            (ソ連は昭和28年8月に水爆実験に成功している)。
        ・インドシナ休戦成立(1954年7月):フランスの後退

       ■鳩山日本民主党政権誕生(昭和29年12月10日)
          鳩山派(自由党)+ 改進党(松村謙三ら) + 日本自由党(三
         木武吉、河野一郎ら)の陰謀。このとき三木はガンにかかり先は
         なく鳩山は脳卒中で体の自由がきかない状態だった。
          アメリカと協調しつつも独立国家としての自主外交を模索した
         いという指向性があった。(吉田外交からの脱却)
        ※外相重光葵:吉田が結んだ安保条約は不平等条約であり、国民の
               独立心を傷つけ、日本の保守政治を不安定にし、
               日米協調の妨げになる。(-->この重光外交は失敗)
               (坂本一哉氏『日米同盟の絆』より)
            ----------------------------------
        # 昭和二十年代の終わりには、生活水準は戦前水準に戻り
         大学は政治運動ではなく、学問を学ぶ場に変わり、先生と
         学生は、戦前のように深い師弟の関係になった。新宿では
         帝都座でフランスの名画が上映され、ムーラン・ルージュ
         のような演劇が学生の人気を集めた。・・これらを見た後
         に、紀伊国屋で本を眺め、二幸で夜食用のメンチカツを買
         って帰るのが、その頃の学生のレジャー・ルートだった。
         日本は「もはや戦後ではない」という状態になった。
             (竹内宏氏著『父が子に語る昭和経済史』より)
            ----------------------------------
       ■創価学会青年部員が富士の裾野で出陣式を行う。(昭和29年10月)
         戸田は天皇の閲兵式を真似ており「軍旗のある宗教」と揶揄
        された。実際に「青年部隊」があって、その中には参謀室がお
        かれておりその室長が池田代作だった。(島田裕巳氏著『創価学
        会』新潮新書、pp.72-73)

1955年(昭和30年)
  ★あの時代(昭和30年代)は、戦後の焼跡闇市の混乱が終わり、といって東京
   オリンピックへと向かう喧騒も泣く、比較的平穏な、一種、小春日和のよう
   な時代だった。(平川克美氏著『移行期的混乱』筑摩書房、p47(川本三郎
   氏著『向田邦子と昭和の東京』より))
  ★勤労世帯の実収入は約29000円/月(-->1965年65000円-->1975年23万6000円)
            ----------------------------------
        ・昭和30年2月27日総選挙
           民主党:185、自由党:112、左派社会党:89、左派社会党:67、
          鳩山少数与党は政権運営が非常に難しくなった。
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  ★「五五年体制」スタート:「民主党」(三木武吉-->鳩山一郎)+「自由党」
          (緒方竹虎)=「自由民主党」(昭和30年11月15日結成大会)
   ※「五五年体制」という戦後最大の愚行が、今日の政治腐敗・官僚腐敗の根源
    をなしていることは間違いなかろう。
    (戦前は政友会と民政党が互いに覇を競い、互いに切瑳琢磨し汚職にも敏感
     に反応し牽制しあっていた。故に政界は浄化され代議士は貧乏であった)。
   ※「五五年体制」という保守合同は造船疑獄(1954年)から発展して賠償汚職
    (戦後処理としての東南アジアに対する多額の賠償金支払いに絡んだ汚職)
    摘発をごまかす(「臭いものに蓋」)ための大掛かりな仕掛けだったとも
    いわれる。
    (「戦後賠償のからくり」などについては共同通信社『沈黙のファイル』に
     かなり詳しく載っている。戦中戦後についてぜひ一読して欲しい本である)
  ★政策、経済、経営、家庭の五五年体制があったことも忘れてはならない。
                   (行革100人委員会『民と官』より抜粋)
   1.政策の五五年体制:外交的には西側陣営に属し、内政的には官僚主導の業界
             協調体制を貫く。
   2.経済の五五年体制:「護送船団方式」で業界を守り、規格大量生産を目指す。
   3.経営の五五年体制:「閉鎖的雇用慣行」(終身雇用、年功賃金)
             「先行投資型財務体質」(配当を押さえ内部留保を厚く)
             「集団的意思決定方式」(赤信号皆で渡ればこわくない)
   4.家庭の五五年体制:「会社人間」「職縁社会」の形

  ☆ 余談   <福田恆存『戦争と平和』(昭和30年、文藝春秋6月号)>
    私はこの人間社会から戦争は永遠になくならないと信じてをります。ある雑誌
   のインタヴューで、さう答へましたら、あまりにショッキングであり反動的だと
   いふ理由で没になりました。・・・
    とにかく平和論とか再軍備反対とかいふものが青年一般に支持されてゐる根柢
   には、生命尊重の考へかたがあります。戦争中の生命蔑視の反動でありませう。
   さう考えれば納得がいくのですが、これは問題だとおもひます。そして、遺憾な
   ことに、日本以外には、ほとんどどこの国にも通じない思想であります。昔は個
   人の命よりも祖国が大切だといふやうなことをいつた。祖国のためには死ぬこと
   を辞さなかったのです。祖国といふと昔の国粋主義の臭ひがしていやですが、国
   や民族の生きかたを守らうといふ気もちは是認できます。個人の生命より全体の
   命を大事にするのは当然でせう。
    が、戦後、その全体の生命としての国家といふ観念が失はれてしまつた。です
   から、個人の生命より大事なものはなくなつたのです。それを無理に焦って、変
   な愛国心を捏造しようとしてもだめです。そんな附け焼刃でどうにもなりはしな
   い。が、個人の生命より大事なものはないといふのは変態だといふことくらゐ自
   覚しなければなりますまい。それを常態として、いや、最高原理として、戦争と
   平和を論じることはできません。その点を、今の若い人たちに、よく考へてもら
   ひたいとおもひます。 (文藝春秋 2002年2月号、坪内祐三『風呂敷雑誌』より)

  ☆ 余談   <鶴見俊輔「戦争映画論」(昭和32年)>
    鶴見はこの戦争映画論で、「本当にがんばって戦った人々にたいして、私は、
   何の反感も感じない」「むしろ、軍人にすっかり罪をきせてしまって、戦後に自
   分の席を少しずらして自由主義・民主主義の側についてしまった権力者-ー官僚
   、政治家、実業家たちに憎しみを感じる」と述べている。そのもっとも身近な例
   が、彼の父親だった。
    鶴見の父の祐輔は、戦前は知米派の自由主義者として知られ、国粋主義者の平
   沼麒一郎を「日本をわるくする元凶だ」と評していた。ところが1939年1月に平
   沼が内閣を組織したさい、祐輔は次官として入閣した。このとき鶴見は、「えら
   いと思っていた」父親が、「次官くらいのエサでもパクッと食う」ことにひどい
   失望と屈辱を感じた。そして祐輔は戦後に公職追放になったが、1950年代には返
   り咲いた。鶴見はのちに、父親が「家からいろんな人たちに電話をかけるので、
   話の内容で考えが変わっていくのが見えた」と回想している。
    また鶴見は、自分がかつて愛読していた武者小路実篤や倉田百三が、帰国して
   みると「鬼畜米英」の旗振り役を務めていることに怒りを覚えた。柳宗悦や宮本
   百合子、永井荷風などがそうした潮流に同調していないことが、わずかな救いだ
   った。鶴見はたまたま入手した『評論家手帖』の名簿をみながら、かつての論調
   を変えて戦争賛美の文章を書いた知識人をチェックしていたという。こうした怒
   りは、後年に同世代の吉本隆明なども交えて、転向の共同研究を組織することに
   つながってゆく。
    しかし鶴見は、吉本とは大きな相違があった。兵役を経験しなかった吉本と違
   い、鶴見はロマンティックな戦争観とおよそ無縁だった。彼は1950年には、「私
   達日本人が、戦争中、日本の外に出て何をしたかー-日本に残っておられた方達
   には今日でも分っていないように思う」と述べ、「純粋」な少年兵たちが、狂暴
   な加害者でもあったことを指摘した。鶴見はそのさい、サディストとマゾヒスト
   は表裏一体だという学説に言及しながら、こう述べている。
  
     日本人の多くは、小学校、中学校できびしいワクの中にはめられて、しかも
    それを余り苦にしないで成長した。先生のいうままになり、全く自主性がなく
     、教育勅語や修身の教科書をうのみにしている、典型的なマゾヒストの優等
    生。…やがて十六、七歳になって、早めに学校からほうり出されて志願兵また
    は軍属となって占領地に出る。そうするとそこで…サディスト的本能がむくむ
    くと目ざめる。内地で数年にわたって日本精神教育を受けた少年達が、占領地
    に来てすぐ、毎晩酒をあびるようにのんでは女を買い、原住民の娘達を自由に
    し捕虜収容所で「毛唐」の首を試しぎりにしたことを自慢しているのを見た。
    …私連日本人は、平和の時、天皇陛下や役人にへいこらへいこらしているその
    同じ程度に、戦時になると、他国民に対して残虐なことをする。

    こうした視点は、「優等生」や「正義」への反抗という鶴見らしい要素も加わ
   ってはいるものの、丸山眞男の「超国家主義の論理と心理」や、竹内好の「ドレ
   イとドレイの主人は同じものだ」という言葉と同質のものだった。そして何より
   、鶴見はジャワ時代の自分のことを、こう回想していた。「私は、この島を支配
   する官僚組織の末端にあって、私の上にある重みを更に苛酷なものとして現地人
   に伝えている。私のスタイルは同僚たちと何のかわりもない。同じ権威を背にし
   て、二言、三言のつたない現地語で、命令を下しているばかりだ」。
           (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.726-727)
     -----------------------------------------------------------------

  ★「日米原子力協定」締結。(財)日本原子力研究所発足(1955.10)
    1955年末の「原子力三法」(原子力基本法、原子力委員会設置法、原子力局
   設置に関する法律)が成立、発効した。
    ※「原子力三法」の重大な欠陥
      1. 原子力平和利用は「善」であるとの大前提
         原子力基本法第一条:
           「この法律は、原子力の研究、開発及び利用を推進することに
          よって、将来におけるエネルギー資源を確保し、学術の進歩と産
          業の進行とを図り、もって人類社会の福祉と国民生活の水準向上
          とに寄与することを目的とする」
      2. 「安全」の過小評価
          <1957年アメリカBNL(ブルックヘブン国立研究所)の解析>
          ・・・その一方で、原発の本質が次第に明らかになっていった。
         まず1957年に公表された前述のアメリカのBNLの解析研究は、標準
         的な都市から48キロメートル離れた20万キロワットの小型の原子炉
         でも、「暴走事故が起これば、24キロメートル以内で即死者3400人、
         72キロメートル以内で負傷者43000人を出し、メリーランド州に匹
         敵する面積が放射能汚染されて数百年間住めなくなり、物的損害も
         70億ドル(当時のレートで2兆5200億円)に達する」と予測したの
         である。(市川定夫他『希望の未来へー市民科学者・高木仁三郎
         の生き方ー』、七つ森書館、p.31)
      3. 「民主」「自主」を保障する方法の欠如
         原子力基本法第五条:(国会の審議無視の政策決定)
           「原子力委員会は、原子力の研究、開発及び利用に関する事項
          について企画し、審議し、及び決定する」
    (久米三四郎他『希望の未来へー市民科学者・高木仁三郎の生き方ー』、
                             七つ森書館、pp.7-9)
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     ●1955年11月29日。アイダホ州国立原子炉試験所。高速増殖実験炉EBR-1
      で、実験運転中に燃料棒が曲がり、その効果によって原子炉出力が急上
      昇して、燃料の一部が溶けた。それは原子炉の事故のなかでも最も恐れ
      られているメルトダウン事故ーー燃料が溶けて中に詰まっている燃えか
      すの放射能が大量に放出されるーーの、最初の本格的な経験だった。
      EBR-1は、この時点ではプルトニウムを燃料として用いていなかったが、
      プルトニウムを生産する目的の原子炉であり、また、いずれはプルトニ
      ウムを燃やす計画をもっていたように、プルトニウムと因縁の深い原子
      炉だった。メルトダウンの恐怖もまた、プルトニウムがらみでやってき
      たのである。(EBR-1計画はその後中止された)。
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       ■創価学会が1955年4月の選挙において最初の政界進出を果たす。
         東京都議会1名、23区の区議会に33名、地方都市の市議会で19名
        当選。(島田裕巳氏著『創価学会』新潮新書、p.75)
       ■「日本電報通信」社(このときすでに広告代理店専門)が社名を
        変えて「電通」として発足。洗脳広告代理店として日本の政治経
        済全体にわたって社会を徐々に蝕んでゆく。(苫米地英人氏著
        『電通』サイゾー社より)

1956年(昭和31年):「神武景気」(~S33頃まで)のはじまり
  ☆☆☆ この1956年から1973年(「福祉元年・老人医療費無料化」)は高度経済
     成長期であるといわれる(経済成長率9%)☆☆☆
  ☆「一億総白痴化」(大宅壮一):テレビの爆発的普及
       ■日本、国際連合へ加入(1956年12月18日)
          並行して、米軍基地反対運動の高揚を恐れた日米政府の協議
         により、1950年代後半から1960年代初頭にかけて、本土の米軍
         基地はほぼ1/4に縮小された。しかし本土から撤退した米軍は
         実質的に沖縄に移動し、同時期に沖縄の基地は約2倍に増加した。
         こうして、沖縄を米軍に提供しつつ、アメリカの庇護下で経済
         成長に邁進するという体制が、しだいに固定化されていった。
             (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.497)
   ◎「もはや戦後ではない」(第十回『経済白書』、経企庁調査課長後藤誉之助)
        ・対インドネシア賠償総額803億円決定(1957年、岸-スカルノ)
         インドネシア賠償ビジネス:辻-瀬島-小林勇一-久保正雄ルート
         (政商久保正雄は商社「東日貿易」の社長であり、大野伴睦や
          河野一郎、児玉誉士夫らが株主になっていたという)。
        ・三菱重工や石川島播磨によって日本はイギリスを凌ぐ世界一の
         造船国となった。
     ※「もはや戦後ではない」というフレーズは、中野好夫「もはや『戦後』
      ではない」(文藝春秋 昭和31年2月号にその起源をもつ)
     ※ もちろん1947年(昭和22年)にケーディスが存在を指摘した「アング
       ラ経済」も相変わらず、すくすくと成長していた。
       ・ニコラ・ザペッティ:レストラン<ニコラス>
       ・児玉誉士夫:日本プロレス協会(戦後日本権力構造の縮図)
              (コミッショナーは大野伴睦)
       ・ブラック・ドラゴン
       ・町井久之:<東声会>
           (ロバート・ホワイティング『東京アンダーワールド』より)
          ------------------------------------------------
       ・フルシチョフのスターリン批判(1956.2):ソ連が開かれた国家へ
       ・「雪解け」
          悪名高いコミンフォルム(共産党・労働者党情報局)解散
                                 (1956.2)
          日ソ国交回復共同宣言(1956.10):日ソ戦争状態終了。
           (日ソの国境線をどう引くかで折り合いがつかず平和
            条約締結までは至らなかった)。
       ・ハンガリー動乱(1956.10.23):フルシチョフがワルシャワ条約に
        基づいて戦車をブダペストに送り込んだ。
          ------------------------------------------------

       ■原子力開発基本計画策定
         ・日本原子力研究所、原子燃料公社、放射線医学研究所設立
         ・三井、三菱、住友、日立、第一の五つの財閥グループで
          それぞれ原子力産業グループを結成
         ・経団連と電機事業連合会を中心に日本原子力産業会議を設立
       ■創価学会が1956年の参議院選挙において全国区で2名、大阪地方区
        で1名を当選させた。獲得票数は99万票。(島田裕巳氏著『創価学
        会』新潮新書、p.75)

  ★経済の二重構造の悲しみ
     雇用が増加すれば賃金が上昇するはずであるが、中小企業の従業員は、
    依然として低賃金に苦しんでいた。中小企業の雇用は非常に増加したにも
    かかわらず、その賃金はほとんど上昇せず、大企業の従業員の賃金との
    格差は拡大したままだった。従業員二十人前後の企業で働く人達の年所得
    は、五百人以上の工場で働く人々の40%ぐらいだった。(銀行融資に守られ
    た大企業とそうでない中小企業の生産性の格差がその一因だった)

    ※ 総評はこの経済の二重構造是正のために長期ストライキ方式から
     春闘方式へと闘争方法を変えた(太田薫、岩井章)。この労働運動
     は日本がアメリカの対ソ、対軍事体制に徐々に組み込まれて行くこと
     に反対する平和運動と重なっていた。
            (以上、竹内宏氏著『父が子に語る昭和経済史』より)

  ★沖縄で、軍用地代の支払い問題をきっかけとした島ぐるみの反基地、反米運動
   の盛り上がり
  ★砂川事件(S31年10月) 
    東京都立川市の米軍基地拡張をめぐって警官隊と学生・住民が衝突し、多数
   の負傷者を出した。  

  ★石橋湛山内閣成立(S31年12月14日):石橋はアメリカに嫌われていた
   ※ 反官僚政治を唱える石橋湛山と官僚の権化、統制経済論者の岸信介との戦い
    のなかで、かろうじて成立。(岸:223 vs (石橋:151+石井光次郎:137))
   ※ 石橋湛山は組織に寄りかかることなくジャーナリストとして、政治家として
    戦前戦中は日本軍と戦い戦後は米国の軍と戦った。しかし戦後日本の希望の星
    「石橋湛山政権」は、彼の病気(脳卒中、心房細動、肺炎、全身衰弱)のため
    に僅か71日で終焉した。

       #「湛山先生が総裁公選で、僅少の差で岸を破り、首相になった
         時、私は本当に地獄で仏に会ったような喜びを感じました。
         神が、まだ悪徳日本を見捨てていなかったのかとすら思った
         のです。・・・(中略)・・・ところが・・・私は失望しま
         した。自身の前途を医者の判断に一任した湛山先生の人生観
         に、いささか女々しさを感じました。なぜ議会の壇上で倒れ
         るまで、所信を実行する気概を示さなかったのか、と考えま
         した。・・・・・以来『石橋湛山』なるものは、私にとって
         "生ける屍"となったんですよ。
          戦争時代の権力層は、国民にとって、集団強盗と同性質の
         暴力的支配者であった。その支配者が、戦後の日本に再び居
         直って、悪魔の支配を持続させているのが実情ではなかった
         か。戦後の日本を民主主義によって更生させるためには何と
         しても、一度、彼らの手から権力を払い落とさなければなら
         なかった。片山・芦田・鳩山の敗北の次に、悪魔の力に対抗
         できる汚れなき前歴と、実行力とを持った者は石橋湛山以外
         にはなかったであろう。おそらく大部分の醒めたる国民は、
         石橋内閣に期待したと信ずる。また、日蓮宗の権大僧正の位
         にある氏が、国の柱となって、立正安国の実を挙げる一生一
         度の機会ではなかったろうか。その後の自民党と官僚の合体
         政治の腐敗や、これに伴う一般国民の道義観念の喪失を想う
         時私が湛山先生を"生ける屍"と嘆いたことは、失当ではなか
         ったと信ずるが如何」   
           (戦う弁護士、正木ひろし氏著『挂冠を怒る』より引用)

   ※ このあと、日本の政治が「官僚独裁政治」に向かってまっしぐらにすすみ
    政治家が政治を行うという本来の姿に立ち戻ることはなかった。
    (このシステムは1990年代後半に官僚どもが、贈収賄や横領や不正な利益
     供与など様々な不祥事を起こして、世論の一斉の非難を浴びるまで続い
     た。それでも常にこの国は政治権力、行政権力、財界権力が互いに権力
     闘争するという三重権力構造で成り立っているのである)

         # 日本は国民主権ではなく、官僚主権です。
          官僚たちが政治家を神輿にのせ、ワッショイ、ワッ
          ショイと思いのままに、あっちこっちに跳梁してい
          ます。
         # 霞が関には血の通った人間がいないのです。
          一つの制度が化け物のように権力を持って動いてい
          るだけの話です。
         # 各省庁の事務次官は、各分野の代表なのです。
          国民の選挙で選ばれてない官僚が、実質的には代表
          になっているという摩訶不思議な官僚国家が日本と
          いうわけです。
         # 委員会で官僚の答弁を年中受けていますが、彼ら
          は自分の言ってることが、どのくらい恥ずかしくて
          論理性のないものかということを、わかっていなが
          ら平気でやるのです。まともに答えていたら省益に
          かかわる、だからここはおかしくても嘘をつく、あ
          るいは答えない、全然違う答えを笑いもしないでや
          るのです。
         (以上、中村敦夫氏『この国の八百長を見つけたり』より)

  ★ジラード事件(1957年、昭和32年1月30日)
    アメリカ陸軍の三等特技兵WS.ジラードが群馬県のアメリカ軍の演習場で薬莢
   拾いをしていた一人の日本人を射殺した。
    この事件でアイゼンハワー大統領、アメリカ議会、社会党(日本)政治家、
   日本のマスコミは裁判管轄権について大いにもめた。アイゼンハワー大統領は
   裁判管轄権放棄の立場を貫いたが、これを境に日本との安全保障条約の再検討を
   強く促された。
   (マイケル・シャラー『「日米関係」とは何だったのか』
                 市川洋一訳、草思社、pp.224-225、pp.230-231)

  ★岸信介内閣が「国防の基本方針」を定めた(1957年、昭和32年5月20日)。
   しかし国防の実体は米軍におんぶにだっこの状態だった。
   (岸の政治目標:吉田内閣の「占領政治体制」を是正して、独立国家に相応しい
           体制をつくる)
            --------------------------
        ・エジプト、ナセル大統領がスエズ運河国有化宣言(1956.7.26)
        ・第二次中東戦争(1956.10.29):ナセルは戦場では完敗したが
          アラブ民族主義の英雄、第三世界のリーダーとなった。
            --------------------------
        ・宇宙時代の幕開け(1957年10月4日)
           ソ連が世界初の人工衛星「スプートニク1号」を打ち上げ。
          米国はフォン・ブラウン、ソ連ではセルゲイ・コロリョフ
          (偽名:K.セルゲーエフ)が中心的役割を果たした。
           アメリカ陸軍がエクスプローラー1号の打ち上げに成功
          したのは1958年1月4日だった(ヴァン・アレン帯発見)。
        ・インフルエンザ(アジア風邪、H2N2)の猛威(1957年)
          世界中で約100万人が死亡
        ・この頃はまだ毎年200万人が天然痘で死亡していた。
              (--->1967年の本格的天然痘撲滅作戦開始に至る)
        ●ローマ条約締結:EEC設立基本条約調印(1957年3月25日)
          (参加国:ドイツ・フランス・イタリア・ベルギー・オランダ
               ・ルクセンブルク)
        ●1956年~1958年末、アメリカ合衆国経済
           アメリカ合衆国で3%のインフレ、消費者物価が2.7%上昇。
          失業者100万人以上増加、失業率7%。
           (公定歩合を1.5%--->4.0%に引きあげ、ひとまずインフレを
            乗り切った。アメリカは1964年まで5%の経済成長を達成)
            --------------------------
        ●1957年2月と1958年1月。ソ連の南ウラルでプルトニウム関連核
         廃棄物貯蔵施設で大爆発(『ウラルの核惨事』(邦訳『技術と
         人間』1982)。
            --------------------------
        ●イギリスの支援するイラク政権が、アブドル・カリム・カーシム
         によって打倒された(1958年)。これは世界の主要なエネルギー
         資源に対する米英の共同管理が破綻した最初の例だった。
         (--->1963年、アメリカはバース党とサダム・フセインを支援し
         て体制転換を果たした)。(ノーム・チョムスキー『破綻するア
         メリカ 壊れゆく世界』鈴木主税・浅岡政子訳、集英社、p.187-
         189)

  ★東京タワー完成(1958年、昭和33年)
    この頃はまだまだ東京には高いビルは殆どなく東京全体がまっ平らな感じだ
   ったという。
      (生方幸夫氏『日本人が築いてきたもの壊してきたもの』新潮OH文庫)

       ■売春汚職事件
       ■グラマン・ロッキード事件(1958年~1959年)
          航空自衛隊の第一次FX(時期主力戦闘機)に内定していたグラ
         マン社からロッキード社への逆転をめぐり、政界に数億円もの金
         が流れたという疑惑。児玉誉士夫(ロッキード社の秘密代理人)、
         森脇将光、田中彰治、河野一郎、川島正次郎、岸などそうそうた
         るワルのメンバーが名を連ねたが、検察・警察の捜査は行われな
         かった。
       # 児玉誉士夫の主治医、東京女子医大教授、喜多村孝一が提出した
        児玉誉士夫の病状に対する診断書は大ウソだった。さらに国会医師
        団の事情聴取に対して、セルシン+フェノバールで昏睡を装わせてい
        た。(平野貞夫『昭和天皇の「極秘指令」』講談社、pp.53-54)
            --------------------------
        ・郵政大臣田中角栄が作った”特定郵便局制度調査会”が特定郵便
         局の存続を認めるという答申を提出(昭和33年1月)。
          これをきっかけに全国特定郵便局長会は無条件で田中派議員の
         選挙を応援しはじめた。
           (町田徹氏著『日本郵政』日本経済新聞社、pp.38-41)

1959年(昭和34年):伊勢湾台風。死者行方不明者7500人。
  ★大型の「岩戸景気」のはじまり
     「岩戸景気」は日本の主要産業が海外の先端技術を大規模に導入して、世界
    のレベルに飛躍する過程で発生した大型景気だった。
     1.スケール・メリットの追求:十数倍の生産能力、運搬能力など
     2.材料革命:合成繊維、合成ゴム、プラスチックなどが天然産にとって
           代わった。
     3.消費革命の進展:三種の神器(洗濯機、テレビ、冷蔵庫)の爆発的普及。
     4.プロセス・オートメーション技術の進歩
     5.エネルギー革命:中近東大型油田の開発、原油の大量輸送、原油価格低下
              により発電が「火主水従」「油主炭従」に変わった。

    # 太平洋ベルト地帯では、白砂青松の地次々に埋め立てられて、大規模な
     コンビナート、製鉄所、造船所、耐久消費財産業の工場が建設され、近代
     的な港湾施設が作られた。それとともに海は次第に汚くなり、大気の汚染
     が目立ちはじめた。(竹内宏氏著『父が子に語る昭和経済史』より)

         ------------------------------------------------------
        ●カストロがキューバ革命に成功(1959.1)
        ・永井荷風死去。吐血。(昭和34年4月30日)
        ●米ソ首脳会談実現(1959.9):フルシチョフとアイゼンハワー
        ●中国、「大躍進」政策(製鉄の推奨-->農民が農業に従事できず)
         の大失敗から大飢饉の到来(1960前後)。中国全体の餓死者は
         3000万人に上ったといわれる。
          (ユン・チアン『ワイルド・スワン<上>』土屋京子訳、
         講談社、p.319)
         ------------------------------------------------------

  ★社会党内の深刻な対立の激化(合同後数年で分裂)
    社会党内の深刻な対立は、岸の立場を強めた。1955年に左右の合同によって生
   まれた社会党は安定を欠き、総評と結びついた左派と、より穏健な労働組合の連
   合組織である仝労に基礎を置く右派との協力関係は、不安定なものだった。一時
   は、国会で多数を占めることができるという期待が両派の主義の違いをおおい隠
   した。だが、1958年の衆議院選挙と59年の参議院選挙での後退のため、社会党の
   団結に歪みが生じた。1959年に、全労が条約改定に反対する国民会議への参加を
   拒否し、総評が全労を組合の分裂を策するものだ、と非難したとき、社会党の両
   派の亀裂が広がった。1959年12月に社会党右派の指導者西尾末広は日本社会党を
   脱党し、民主社会党を組織した。その国会での勢力は衆議院が37議席、参議院が
   16議席で、これに村し日本社会党は衆議院が38議席、参議院が69議席であった。
    日本社会党と総評は階級闘争のマルクス主義を信奉し、一方、民主社会党と全
   労はアメリカ人にもなじみ深い生活権擁護の労働運動を主張した。民社党と全労
   は安全保障条約反対の戦闘的なストライキや大衆行動に反対し、民社党はアメリ
   カとの安全保障上との結びつきを交渉によって徐々にゆるめていくことを主張し
   た。1958年以来、アメリカと自民党は、西尾や全労にひそかに資金援助をするこ
   とによって、社会党の分裂を策し、岸と池田は、民社党の幹部に資金を提供して
   接触を維持し、民社党が条約改定を支持してくれるか、少なくとも批准のための
   国会審議を混乱させないようにしてくれることを期待した。
   (マイケル・シャラー『「日米関係」とは何だったのか』
                       市川洋一訳、草思社、pp.256-257)

  ★安保条約改定阻止国民会議結成(昭和34年3月28日)
    総評、原水協、護憲連合、日中国交回復国民会議、全国基地連の五団体が率先
   し、社会党はじめ合計134団体が加わって。共産党も幹事団体でないものの参加
   を認められた。(社会党右派(-->S35.1に分裂し民社党)は共産党参加に反発、
   全労と新産別は加入せず)。
           (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.503-504)

       ■創価学会が1959年の参議院選挙において6議席を獲得。獲得票数は
        248万票。(島田裕巳氏著『創価学会』新潮新書、p.75)

1960年(昭和35年)
  ★新安保条約(日本国とアメリカ合衆国の間の相互協力及び安全保障条約)の
   調印(ワシントン、1960年1月19日)
    (原子力潜水艦への核兵器の積み込みは禁止されているという発表だった
   が、実際は口頭の合意で自由だった)。
        -----------------<余談:岸信介について>-----------------
         作家の伊藤整は、国会傍聴で岸を目撃した印象を、こう述べて
        いる。「おや会社員みたいな人間だな、と考えた」「私が保守系
        の政治家にしばしば見ていた人間とは異質なものであった」「理
        想を持つ人、人格的な人間、豪傑風の人間などを国民は漠然と首
        相なるものの中に期待する。その資格のどれもが岸信介にはない
        のである」。伊藤の形容にしたがえば、岸は「既成政党と党人の
        弱点を握り、内側からそれを智略によって支配して首相の座に這
        いのぼった」「知識階級人のいやらしいタイプの一つ」であった。
         伊藤がみた岸には、巧みな計算と要領の良さ、権威的でありな
        がらそつがない「優等生的」「官僚的」な姿勢、そして戦争責任
        の忘却など、戦後知識人たちが批判してきた要素のすべてが備わ
        っていた。そして伊藤は、そうした岸に「自分の中にありながら、
        自分があんまり認めたがらない何か」を見出して、「はっとした
        というか、ぎょっとしたと言うに近いショックを受けた」という。
        60年安保において、岸があれほど反発を買ったのも、こうした岸
        の特性を抜きには語れない。
            (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.500)
        -----------------------------------------------------------

  ★第一次安保闘争:与野党の対立激化、巨大なデモ(全国約600万人)とストラ
           イキの頻発(労働組合の大規模な政治運動の最後だった)
       ■アメリカの属国としての立場からの独立を目指した平和運動。
                (平和=国と国とが戦争をしていない状態)
       ■当時の支配階級は裏社会のヒト達を利用してこれを弾圧した。
        ここにあらためてEstablishmentとUndergroundの怪しい関係が
        再構築されるに至ったものと思われる。
       (この後権力闘争、汚職などあらゆる形で時々表面化した)。
       ■憲法改正と日本の再軍備を約束して米国から帰国した岸首相は
        樺美智子さんの圧死によって、国防に関する所信を放棄して辞職
        した。(昭和35年7月15日)--->★憲法改正論の頓挫
       ■第一次安保闘争は「反岸」運動だったともいえる。岸が代表する
        と思われた戦前の権威主義的な国家主義に反対する運動だった。
             --------------------
  ★自民党の(お家芸)強行採決(安保承認と会期延長)(1960年5月19日深夜)
    ・・・しかし結局、社会党議員団は排除された。自民党議員たちは、「ざま
   あみやがれ」「お前なんか代議士やめちまえ」といった罵声を浴びせながら、
   議場の入口を破壊して入場した。清瀬一郎議長がマイクを握り、会期延長と新
   安保承認の採決を行なうまで、わずか15分ほどのできごとだった。
    この強引な採決方法は、じつは自民党内でも、十分に知らされていなかった。
   清瀬議長も多くの議員も、会期延長だけの議決だと思っていたところ、岸の側
   近に促された議長が新安保採決を宣言し、一気に議決してしまったというのが
   実情だった。自民党副総裁の大野伴睦は、安保議決を議場ではじめて知らされ、
   岸の弟である佐藤栄作蔵相に抗議したところ、「はじめから知らせたら、みん
   なバレちまうから」と返答されたという。
    こうした岸の手法は、自民党内でも反発をよんだ。岸にすれば、安保承認に
   は、自分の面子と政権延命がかかっていた。しかし新安保が今後10年以上にわ
   たって日本の運命を決定することは、賛否を問わずみなが承知していた。その
   重要条約が、このような方法で議決されることに抗議し、自民党議員27名が欠
   席した。
    その一人であった平野三郎は、こうした方法で「安保強行を決意するような
   人に、どうして民族の安全を託し得ようか」と岸を批判した。三木武夫や河野
   一郎も退席し、病気療養中だった前首相の石橋湛山は「自宅でラジオを聞いて
   、おこって寝てしまった」。議場突破の状況に反発して帰宅した松村謙三は、
   車中のラジオで安保可決のニュースを聞き、「『ああ、日本はどうなるのだろ
   う』と暗然とした」という。
          (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.508-509)

   -----------------------------------------------------------------------
   ※ 民主主義がおわればファシズムです。
     ……既成事実を積みあげる岸の政治手法は、戦争に突入した時代の記憶をよ
    びおこした。竹内好は、5月19日に深夜のラジオで強行採決のニュースを聞いた
    あとの心情を、23日にこう記している。

       私は寝床を出ました。もう眠れません。健康のためひかえている酒を
      台所から出してきて、ひとりでのみました。
       ……これで民主主義はおわった、引導を渡された、という感じが最初
      にしました。
       民主主義がおわればファシズムです。ファシズムは将来の危険でなく、
      目の前の現実となったのです。ファシズムの下でどう生きるべきか。あ
      れやこれや思いは乱れるばかりです。ともかく態度決定をしなければな
      らない。私の場合、亡命はできないし、国籍離脱もできない。

     屈辱と悔恨に満ちた戦争の時代を生きた人びとにとって、強行採決は「ファ
    シズムの下でどう生きるべきか」といぅ危磯感を与えるものだった。竹内は本
    気で亡命を考えたあと、それを断念し、日本にとどまって岸政権と闘う覚悟を
    決めた。
     こうした戦争の記憶の想起は、竹内だけのものではなかった。作家の野上瀰
    生子は、「あの流儀でやれば徴兵制度の復活であろうが、或はまた戦争さえも
    が強行採決されるのだ、と考えれば慄然とする」と述べた。さらに鶴見俊輔は、
    こう述べている。

     ……戦時の革新官僚であり開戦当時の大臣でもあった岸信介が総理大臣に
    なったことは、すべてがうやむやにおわってしまうという特殊構造を日本の
    精神史がもっているかのように考えさせた。はじめは民主主義者になりすま
    したかのようにそつなくふるまった岸首相とその流派は、やがて自民党絶対
    多数の上にたって、戦前と似た官僚主義的方法にかえって既成事実のつみか
    さねをはじめた。それは、張作霖爆殺-満洲事変以来、日本の軍部官僚がく
    りかえし国民にたいして用いて成功して来た方法である。……5月19日のこの
    処置にたいするふんがいは、われわれを、遠く敗戦の時点に、またさらに遠
    く満洲事変の時点に一挙にさかのぽらした。私は、今までふたしかでとらえ
    にくかった日本歴史の形が、一つの点に凝集してゆくのを感じた。

    前述したように岸には、官僚的な権威主義、アメリカヘの従属、戦争責任の
   忘却、そして「卑劣」さといった、戦後思想が嫌悪してきたものすべてが備わ
   っていた。鶴見は、「岸首相ほど見事に、昭和時代における日本の支配者を代
   表するものはない。これより見事な単一の象徴は考えられない」と述べ、「日
   本で現在たたかわれているのは、実質的には敗北前に日本を支配した国家と敗
   北後にうまれた国家との二つの国家のたたかいである」と唱えた。
          (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.510-512)

   ※ 悪魔の再来と戦うために
     (筆者注:竹内好は言う)しかし岸さんのような人が出てくる根ー-これ
    が結局、私たち国民の心にある、弱い心にある、依頼心、人にすがりつく、
    自分で自分のことを決めかねる、決断がつかない、という国民の、私たち一
    人一人の心の底にあるー-かくされているところのそれを、自分で見つめる
    ことがためらわれるような弱い心が、そういうファシズムを培ってゆく、と
    いうことを忘れてはなりません。
     たしかに本当の敵はわが心にあります。自分で自分の弱い心に鞭うって、
    自分で自分の奴隷根性を見つめ、それを叩き直すという辛い戦いがこの戦い
    です。国民の一人一人が眼覚めてゆく過程が、わが国全体が民主化する過程
    と重なります。……
      ……時間を犠牲にし、金を犠牲にして……こうしたことをやっているの
    は、大きな実りを得たいからなのです。……それはめいめい、この戦いを通
    じて、戦いの後に国民の一人一人が大きな知恵の袋を自分のものにするとい
    うことです。どういう困難な境遇に立っても、めげずに生きてゆけるような、
    いつも生命の泉が噴き出るような、大きな知恵の袋をめいめいが自分のもの
    にするように戦ってまいりましょう。

    1960年6月において、このメッセージは大きな共感をもって迎えられた。岸政
   権との闘いは、いまや人びとにとって、戦後日本と自分自身の内部にある、否定
   的なものとの闘いとなっていた。
    竹内はさらに6月12日の講演で、こう述べている。

     どうか皆さんも、それぞれの持ち場持ち場で、この戦いの中で自分を鍛え
    る、自分を鍛えることによって国民を、自由な人間の集まりである日本の民
    族の集合体に鍛えていただきたい。……私はやはり愛国ということが大事だ
    と思います。日本の民族の光栄ある過去に、かつてなかったこういう非常事
    態に際して、日本人の全力を発揮することによって、民族の光栄ある歴史を
    書きかえる。将来に向って子孫に恥かしくない行動、日本人として恥かしく
    ない行動をとるというこの戦いの中で、皆さんと相ともに手を携えていきた
    いと思います。

    のちに保守派に転じた江藤淳も、6月初めに執筆した評論で岸政権との闘いを
   説き、読者にこう訴えた。「もし、ここでわれわれが勝てば、日本人は戦後は
   じめて自分の手で自分の運命をえらびとることができるのである」。
          (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.513-514)

   ※ このころの右翼
    こうした運動を攻撃したのが、右翼団体だった。6月15日夕方、「維新行動隊」
   の旗を掲げた右巽が、二台のトラックで国会周辺の新劇人の隊列に突っこみ、釘
   を打ちこんだ棍棒と鉄棒で殴りかかった。このとき国会を警備していた警官隊は
   右翼を制止せず、女性が主に狙われ、約60人が重軽傷を負ったといわれる。
    敗戦後に低迷していた右翼運動は岸政権のもとで伸張し、1958年1月には、元
   内相の安倍源基や防衛庁長官の木村篤太郎などを代表理事として、新日本協議会
   が結成されていた。翌1959年には全日本愛国者団体会議が誕生して、この両団体
   は安保改定促進運動を展開していた。日教組の教研集会に対する右翼の妨害が始
   まったのも、1958年からだった。自民党の幹事長だった川島正次郎は、アイゼン
   ハワー訪日の警備と歓迎のため、こうした右翼団体を動員する計画を立てていた。
    右翼による襲撃は全学連主流派を刺激し、この6月15日の午後5時半には、学生
   たちが国会構内に突入した。しかし共産党は、「反米愛国」のスローガンのもと、
   傘下のデモ隊を国会前からアメリカ大使館の方に誘導して解散させた。孤立した
   全学連主流派のデモ隊は警官隊に制圧され、負傷者は救急車で運ばれた者だけで
   589名にのぼり、東京大学の女子学生だった樺美智子が死亡した。
           (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.533-534)

   ※ 樺美智子
    誰かが私を笑っている こっちでも向うでも 私をあざ笑っている
    でもかまわないさ 私は自分の道を行く
    笑っている連中もやはり 各々の道を行くだろう
    よく云うじゃないか 「最後に笑うものが最もよく笑うものだ」と

    でも私は いつまでも笑わないだろう
    いつまでも笑えないだろう それでいいのだ
    ただ許されるものなら 最後に
    人知れず ほほえみたいものだ
           (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.536)
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  ★ 新しい安保条約はアメリカの日本防衛義務を明文化し、その義務と日本と
   アメリカに基地を提供する義務との間の双務関係(相互性)を明確にした。
    ・・・しかし日本は、この新しい安保条約においても、旧条約と同じよう
   にアメリカ領土の防衛義務をいっさい負わなかった(負えなかった)。・・・
    つまり安保条約は、改定によって相互性の明確化という意味ではより対等
   な条約に変化したが、そこからさらに対等な相互防衛条約に発展するのはか
   えって難しくなったかもしれない。
    ※安保改定の主要なポイント
      1.国連憲章との関係の明確化
      2.日米の政治的・経済的協力
      3.いわゆるヴァンデンバーグ条項の挿入=憲法上の規定に従うという
       留保のもとで、日本に対して自衛力の維持発展を義務づけた。
      4.協議事項
      5.アメリカの日本防衛義務の明確化
      6.日本の施政下においてアメリカを守る日本の義務の明確化
      7.事前協議制度
        <事前協議における極秘の取り決め=いずれも推察>
         ・事前協議は米軍の日本からの撤退には適用されない
         ・核兵器の導入のみに事前協議は適用されること
         ・日本の基地からの直接出撃のみに事前協議を行う
         ・核搭載艦船の寄港を事前協議の対象外とする
      8.条約に期限を設けた(10年)=10年間が経過した後は日米いずれか
       が通告すれば一年で終了
      9.いわゆる内乱条項を削除=旧条約では、日本政府の要請に基づいて
       米軍を日本国内の内乱および騒擾の鎮圧に用いることができる、と
       規定されていた。
      10.行政協定を改定=在日米軍の諸権利・特権についてNATO方式との
       平準化をはかった。日米両政府の摩擦の種であった防衛分担金は
       廃止   
    ※西村熊雄の比喩
       鰹節を進呈するとき、裸でおとどけするのは礼を失する。安保条約は、
      いわば、裸の鰹節の進呈である。日本人は裸の鰹節をとどけられて眉を
      ひそめた格好であった。新条約は桐箱におさめ、奉書で包み、水引をか
      け、のしまでつけた鰹節と思えばよろしい。桐箱は「国際連合憲章」
      (第一条、第七条)であり、奉書は「日米世界観の共通」(第二条)で
      あり、水引は「協議事項」(第四条)であり、のしは「十年後さらによ
      りよきものに代え得る期待」(第十条)である。裸の鰹節と桐箱におさ
      められた鰹節では、とどけられる者にとり、大きな相違がある。心ある
      日本人は新しい条約を快く受け入れてくれるに違いない。
               (以上、坂本一哉氏著『日米同盟の絆』より引用)
             --------------------
    ◆◆◆安全保障の問題では日米双方、事を荒だてないようにしよう◆◆◆
             --------------------
       ■社会党浅沼稲次郎委員長刺殺される。(1960.10.12)


   ◎池田内閣の「所得倍増」の喧伝(政治的対立の回避と保守政治の安定路線)
      国防という国家の基本にかかわる政治論争を回避した。これにより日本
     は真の独立国家を目指すことを止め、極東の産業地帯になろうとした。
          (池田、岸、佐藤派の官僚が池田政権を支えた)
                (沢木耕太郎氏著『危機の宰相』文春文庫など)

  ★「貿易・為替自由化計画大綱」が閣議決定される(1960.6.24)
     石坂泰三(経団連)の強力に主張、日本商工会議所会頭足立正の賛成。
           (菊地信輝氏著『財界とは何か』平凡社、pp.163-166)
  ★黒沢明監督作品『悪い奴ほどよく眠る』が公開される。
    政界・官界・財界の三つ巴の構造汚職をテーマにした名作。
    ※「大物黒幕」概観(以下、立石勝規氏著『金融腐敗の原点』を参考にした)
     ・児玉誉士夫:政界への「フィクサー」、政財界の月光仮面
            戦後最大の黒幕。
            巣鴨プリズンでA級戦犯岸信介と親しくなった。(河野一郎
            、大野伴睦は岸の盟友)さらに田中彰治(「国会の爆弾
            男」)の協力で「児玉-森脇-田中彰治」ラインができ、この
            関係は1964年(S.39)頃の田中角栄の台頭まで続いた。
             (--->後「児玉-小佐野-田中角栄」ラインとして継続)
     ・辻嘉六:戦前からの政界のスポンサー、自由党結成に資金援助
     ・三浦義一:「室町将軍」、大物右翼、よろず相談所
           東条英機とのつながり。GHQ-G2のウィロビーと親しかった。
           一万田尚登(日銀の法皇とよばれた)と縁戚関係
     ・矢次一夫:岸信介の「盟友」(昭和の怪物)、空前絶後の黒幕、大政翼
           賛会参与など
           陸軍省軍務局事務課(政界と陸軍のパイプ)官僚との癒着
     ・高瀬青山:沈黙の「怪物」(山下奉文大将の「私設高級顧問」だった)
           緒方竹虎(元大政翼賛会副総裁、元自由党総裁)、五島慶太
          (東急)とのつながり
     ・森脇将光:ヤミ金融王、森脇メモ(造船疑獄を暴露)で日本を震撼させ
           た。森脇調査機関主幹。(「児玉-森脇-田中彰治」ラインに
           よる暗躍)
     ・小佐野賢治:田中角栄の刎頚の友
     ・笹川良一:「競艇のドン」「岸->佐藤-矢次-笹川」ライン
     ・田中清玄:児玉誉士夫と対立、GHQ高官と親交、転向した反共主義者。
           信じ難いスケールと内容の国際人脈をもつ。
           巨大労組、日本電気産業労働組合との戦いの中で力をつけた。
              (共産党系を排除して民主化同盟の主導権を確立)
           インドネシア産原油輸入において、岸信介と激しく利権闘争
           し、ついに勝利した。この裏にはスハルトとの親交があった。
            田中清玄は岸の権力的・官僚的エンジニアリングの思想が
           嫌いだったという。(後半部は宮崎学氏著『近代ヤクザ肯定
           論拠』筑摩書房、p.304より)
          -----------------------------------
  ★ 1960年代は米国において、放射性物質投与による人体実験や抗癌治療に名を
   借りた放射能全身照射(TBI)が華やかな狂気の時代であった。
         ( アイリーン・ウェルサム『プルトニウムファイル<下>』)
       ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
        <プルトニウムーーこの世で最も毒性の強い元素>
    プルトニウムは、この世で最も竜性の強い物質のひとつ、とよくいわれる。
   後から述べるように、その毒性の評価は未だ専門家の間でも大きく意見の分れ
   るところだが、どんな評価をとっても、プルトニウムが「地獄の王の元素」の
   名にふさわしく、超猛毒の物質であることには、まぎれがない。その毒性がこ
   の元素を大きく特徴づけることになった。
    現行の許容量の妥当性には、さまざまな疑義が提出されているが、現行の許
   容量をとっても、一般人の肺の中にとりこむ限度は、プルトニウム239の場合、
    0.0016マイクロキュリー(1600ピコキュリー)とされている。これは重量にし
   て4000万分の1グラムほどに過ぎず、もちろん目に見える量ではない。骨を決
   定臓器とした場合の許容量も、0.0036マイクロキュリーと小さい。
    このように大きな毒性が生じる最大の原因は、その放出するアルファ線であ
   る。アルファ線は、その通路に沿って電子をたたき出すが、これが放射線のも
   たらす生体に対する悪影響の主な原因である。このような放射線の作用を電離
   作用と呼んでいる。電離作用が生体結合に与える破壊・損傷効果によって、い
   ろいろな障害がもたらされるのである。
   (高木仁三郎氏著『高木仁三郎著作集<プルートーンの火>』七つ森書館、
     p205:1981年『プルトニウムの恐怖』を著作集として再録)
       ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

  ★ ブレトン・ウッズ体制の影響について(1960年末の状況)
    ・アメリカの貨幣用金の減少:220億ドル(1958年)-->180億ドル(1960年)
    ・外国人所有ドル預金と財務省短期債券の増加
                 : 80億ドル(1950年)-->200億ドル(1960年)
      ※ 1960年末の時点で、アメリカの金保有高は実質的に底をついていた。
      ※ 1960年10月27日、アメリカ大統領選で、ケネディ有利の影響で、従来
        金1オンスが35ドルであったが、急に40ドルに跳ね上がった。
      ※ 1960年~1964年の5年間のアメリカ合衆国の経済
         ・輸入総額           :800億ドル
         ・国外の軍隊維持        :110億ドル
         ・外国への投資、他国での資産形成:290億ドル
         ・外国旅行、経済援助      :180億ドル
              (鳥越注:1ドル360円として、約50兆円の大散財)
      (P・バーンスタイン『ゴールド』鈴木主税訳、日本経済新聞社より)

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  ★ アメリカの途上国援助の条件(内幕):輸出部門中心の世界銀行からの貸付
    輸出能力が高まれば、国内経済に二つの好ましい影響を及ぼすというのが、
   その根拠だった。輸出から得られた収入で農産物や工業製品を輸入できるよう
   になるだろうし、さらに、借り手国内に収入を生み出すことで、その国の農業
   や工業製品産業を支えることができるにちがいない……。こうして世銀貸付の
   おかげで、借り手国の国内消費経済は安定し、同時に輸出能力の拡大によって
   その国は工業的に豊かになるはずだった。
    これは、完全無欠な理論だった。つまり、もし現実がそのとおりなら、完全
   無欠だったにちがいない。この理論の根底には、事実を解釈する際の誤りがあ
   った。インプットとしての貸付は、考えられたような結果を実際に生み出すか
   もしれない。だが、償還局面でのアウトプットとしての貸付についてはどうか?
   この間いはなおざりにされた。理論的に貸付は贈与の一種として扱われ、その
   利子を伴う償還は、交換可能通貨の形において、生み出される輸出収入より小
   さいと仮定されたのだ。借り手の国々は、まるで、借り入れた資金を利用して
   の現金収益が債務償還と利子支払いを合わせた資金流出より確実に多い、堅実
   な会社であるかのように扱われた。残念ながら、それらの国々が途上国と目さ
   れるゆえんは、まさにそういう特徴が欠如しているからにほかならなかったの
   だが……。途上国経済の非消費部門に莫大な量の資本投入を行った効果の一つ
   は、途上国経済の能力では消費財部門の産出を増加させてそれを相殺できない
   ほどの、所得の伸びだった。こうして輸出と同じく輸入が伸び、それらの国々
   が輸出収入の増加をもとに債務償還義務を果たしていく実質的な能力は大きく
   狭まった。
    さらに、途上国経済の急激な工業化の結果として、工場で職を得ようとする
   人々が田舎から都会にあふれでてきた。とはいえ雇用の伸びは、土地を離れた
   人々を都市産業に吸収するには追いつかない。農民や日雇い労働者としての以
   前の生活水準がいかにみじめなものであろうと、少なくとも彼らは自活してい
   た。だが吸収力の十分でない都市産業の磁力に引かれて土地を離れた人々は自
   立できず、必然的に国の資源を食いつぶすことになる。それに加えて、人々が
   農村を離れたせいで、食糧の生産は落ち、蓄えも乏しくなつた。輸入ーー今や
   食糧のーーを増大させる副次的な必要性が起こり、時が経ち、人々の都市への
   流入が続くにつれてますます拡大していった。農村人口の減少のせいで農産物
   の生産高が減り、必須食料品の市場での需要が増加するにつれて、国内の物価
   はどこの国でも暴騰した。急激な工業化がもたらした全体的な効果は、自給能
   力を弱めてそれら途上国の経済を不安定にし、その結果のインフレによりすで
   に量の増えていた輸入品の価格を増大させることだった。
    結果として、途上国の毎年の債務返済費用は、1968年までに47億ドルに達し
   た。これは、1960年代初めの10パーセントと比して、総輸出の20パーセントに
   匹敵する。援助借入国は、交換可能通貨の面から見て信用貸し可能性の絶対的
   限界にまで至っていた。利子の支払いと過去の援助借入の返済を、悪化してい
   く貿易・サービス収支から支払わなくてはならなかったのだ。この膨大な債務
   に資金を再供給し、少なくとも通常の支払能力を維持するために、途上国は自
   国の経済成長の方向を変えざるをえなくなり、農業や消費財産業の拡大を制限
   して、以前にもまして輸出部門に力を注いだ。これはある形の強制的貯蓄であ
   り、自国の経済を国内の必要性や自国民の願いではなく、対外債務の要求に集
   中させることにほかならなかった。その結果は、どの国でも一連の経済成長の
   ゆがんだパターンとなって現れた。成長が奨励されるのは、対外債務返済の手
   段を生み出す分野だけで、それは、対外債務返済手段を生み出す分野における
   成長のための資金を借りられるようにするためであり、これが繰り返されてい
   く。ジョー・ヒル〔アメリカの労働運動の指導者〕の言葉、「われわれは仕事
   に行く。仕事に行くのは金を稼ぐためで、金は食べ物を買うためで、食べ物は
   力を出すためで、力は仕事に行くためで、仕事に行くのは金を稼ぐためで、金
   は食べ物を買うためで、食べ物は力を出すためで、力は仕事に行くためで……」
   が国際的なスケールで現実化されたようなものだ。世銀は、机上で援助計画を
   立てた相手の国々を貧困に追いやっていた。世銀が公言した目的と現実の展開
   との間にはどうしようもない矛盾があった。(マイケル・ハドソン『超帝国主
   義国家アメリカの内幕』広津倫子訳、徳間書店、pp164-166)

  ★ OPEC(石油輸出国機構)結成(1960年9月14日)
    世界の石油争奪戦(アメリカの憂鬱)のはじまり。ベネズエラが提唱しイラ
   ン・イラク・クェート・サウジアラビアが加入。これにより大手石油会社が石
   油価格をコントロールすることが不可能になった。その後アルジェリア、イン
   ドネシア、リビア、ナイジェリア、カタール、アラブ首長国連邦が加盟。
          --------------------------------------------
    石油経済とそれを支配するアメリカの地位は、つねに二つの条件に支えられ
   ていた。ひとつは安定的な石油供給であり、もうひとつは増大の一途をたどる
   石油需要を満たし続ける能力である(この需要を満たすには既存の油田の産油
   量を増やすか、別の油田を新しく見つける必要があった)。しかし、この二つ
   の前提条件は崩れ始め、「安定的な石油供給」はもはや保証されなくなってい
   た。1946年にはアメリカの石油消費量は国内産油量を上回り、アメリカは同国
   史上初めて石油の純輸入国となった。このことはきわめて大きな影響をもたら
   した。ある歴史家が記述したとおり、二度の戦争をつうじて世界に石油を供給
   したアメリカは、「実際には石油の輸入国になっていて、ベネズエラやサウジ
   アラビアから石油を輸入しなければ、同国の東海岸は凍りついてしまう」状況
   にあった。ここへきてアメリカ国民は、イギリスやヨーロッパ大陸諸国、日本
   が長年抱えてきた悩みや不安を実感するようになった。アメリカは、経済・軍
   事大国でありながらその生命線を他国に支配されるという、二十世紀の大いな
   る矛盾を体現する国になったのである。
    そして、この不安定な状況をさらに危うくするかのように、”外国産”の石
   油も急に当てにならなくなった。1938年、憤慨したメキシコ政府は石油産業を
   国営化したが、そのときの怒りが欧米諸国に石油を支配された他の産油国にも
   広まったのだ。石油の重要性が高まり、力と富の獲得にあたって今後は石油が
   カギを握ることが明確になると、産油国は力と富を自国にもっと分け与えるよ
   う要求するようになった。ベネズエラは石油価格を引き上げ、中東の産油国に
   外交ルートで接近を図るようになった。1948年には、イスラエル建国に激怒し
   たアラブ諸国が、アメリカをはじめイスラエルを支持する国すべてに対して石
   油輸出の中止を警告するという、きわめて深刻な事態も生じた。
    その三年後にも未来を予感させる出来事が起きた。イランがイギリスやアメ
   リカの大手石油会社を国内から追放して、石油産業を国営化したのだ。他の産
   油国もこれに続き、1960年には世界初の石油カルテルである石油輸出国機構
   (OPEC)が結成された。突如として、世界の石油産業地図は世界の政治不安を
   示す図に変わってしまったかのようだった。そうした政治不安がどこよりも顕
   著だったのが中東である。中東の石油埋蔵量が世界の総産油量の半分をゆうに
   超えることはすでに知られていた。かつてはごく少数の国際石油会社が世界の
   石油産業の大部分を支配していたが、ほんの数年のうちに、その支配権はペト
   ロステートという新たなプレーヤーの手に移った。ペトロステートとは、サウ
   ジアラビアやベネズエラなど、豊富な石油埋蔵量を誇る国々の新たな呼び名で
   ある。運命が一転した石油メジャー各社は、主要産油国以外の国(いわゆる
   OPEC非加盟囲)が生産する石油の争奪戦を繰り広げるようになり、これまでに
   なく遠く採掘困難な場所で石油を探す傾向もさらに強まった。
      (ポール・ロバーツ『石油の終焉』久保恵美子訳、光文社、pp.74-75)
       ---------------------------------------
            <世界の石油消費量>
          ・1900年  50万バレル/年
          ・1915年  125万バレル/年
          ・1929年  400万バレル/年
          ・1945年  600万バレル/年
          ・1960年 2100万バレル/年
          ・1995年  240億バレル/年
          ・2000年  300億バレル/年
          ・2020年  370億バレル/年(推定)
          ・2035年  530億バレル/年(推定)


1961年(昭和36年):国民健康保険法改正
       ■国民皆保険を達成
   ◎「全ての国民に良質の医療を」
              --------------------
        ●1961年1月アメリカ、民主党ケネディ政権誕生
        ●エドウィン・O・ライシャワー駐日大使着任(1961年4月)
        ・ガガーリン飛行士の地球周回(1961年4月)
        ●「金プール」組織(1961年--->1968.3.17解散)
           インフレヘッジとしての金にたいする投機牽制のため、アメ
          リカ・イギリス・ドイツ・フランス・イタリア・スイス・ベル
          ギーが共同出資して金をプールし、金が1ドル=35セントを少し
          でも越えそうな兆候が出たら金を売り浴びせて金の価格を維持
          する。(--->1967年、フランス(=ド・ゴール)は脱退)
              --------------------
        ・辻政信、東南アジア視察中にラオスにて消息を絶つ。ラオスでは
         スパイ容疑で銃殺されたという。存在事態が怪奇に満ちていた辻
         らしい結末だったろう。(ヒトは生きてきたようにしか死なない)
         (辻の最後は明らかではなく畠山清行『何も知らなかった日本
          人』pp.295-296)ではハノイから中国に密入国し軍事監獄幽閉
          され、昭和40年も初夏、そこで病死したことになっている)。
        ・韓国軍事クー・デタ:朴正煕政権成立(昭和36年5月16日)
                   KCIA創設(初代部長:金鐘泌)
        ・北朝鮮とソ連の間に友好協力相互援助条約の締結(1961.7.6)
        ●ケネディ大統領が沖縄復帰問題について重要な先鞭をつける。
          ジョージ・ボール、エドウィン・ライシャワーの啓蒙・努力が
         実り、琉球列島問題に関する特別委員会の長にカール・カイセン
         (当時国家安全保障会議事務局員)を任命。
                <ライシャワーの進言>
            沖縄人はアメリカの軍事的支配を歓迎しており、自立など
           ということには全然関心がない、という主張は明らかに間違
           っている。ライシャワーによれば、沖縄人には一定の文化的、
           言語的特徴があるが、彼らは自分たちを日本人と考えていて、
           ほとんどが本土復帰に賛成しており、この感情は日本の激し
           い政治問題となるだろう、というのである。ライシャワーは
           ケネディに、沖縄に大幅な自治を許し、日本政府と協力して
           生活水準を改善するよう勧告した。
           (マイケル・シャラー『「日米関係」とは何だったのか』
                         市川洋一訳、草思社、p.303)
        ・X線星の発見(1962年)
        ●キューバ危機(1962年10月16日~28日)
          アメリカがキューバに敷設したソ連のミサイル基地撤去を要求。
         ケネディとフルシチョフの間で無意味な戦争が回避された。
        ・対韓賠償5億ドル決定(1962年、昭和37年12月)
          「金鐘泌・大平メモ」の存在
          韓国賠償ビジネス:瀬島龍三と金鐘泌の出会い。
                   政財界のパイプ役を児玉誉士夫がつとめた。
        ・昭和37年には東京都の人口が1000万人を越えた。
        ・中国共産党のフルシチョフ批判
           「修正主義化し資本主義の復活を図る反革命集団だ」
        ・ケネディ大統領暗殺(1963年、昭和38年11月22日(日本時間23日))
        ・日本のヤクザが5107団体、18万4091人にまで膨脹。当時の自衛隊
         勢力を上回る。(宮崎学氏著『近代ヤクザ肯定論拠』筑摩書房、
          p.316より)
        ・世界初の女性宇宙飛行士(テレシコワ)誕生(1963年)
        ・クェーサーの発見(1963年)
              --------------------
       ■「公共用地の取得に関する特別措置法」試行(-->土地開発公社林立)
          この法律は後に地方自治体が借金まみれになる原因を作った
         最悪の法律だった。
       ■「原子力の日」(1963年、昭和38年10月26日)
          日本原子力研究所東海研究所で日本で初めて原子力発電を行っ
         た。
      -------------------------------------------------------
  ★「黄色い血の恐怖」(昭和37年頃日本の輸血用血液供給はほぼ100%売血だった)
     売血制度が生み出した弊害ーー「黄色い血の恐怖」に、まだ社会一般の関心
    は高まっていない現状だが、この制度はいま完全に行き詰まった結果、医療関
    係者だけでなく、社会全体の問題として注目されなければならない段階にきた。
     諸外国に例をみない日本独特の売血制度。それはおびただしい売血常習者の
    群れを生み、いちじるしい輸血保存血液の質の低下を招いている。「黄色い血
    の恐怖」とは、月に一度しか許されない採血を、ときには月50回も繰り返し、
    その結果、鮮紅色の血液はついに黄色になって、売血者の生命力が朽ちていく
    ことであり、また、こうして集めた血液の輸血を受けたものが、20%以上の確率
    で悪性の血清肝炎にかかるということである。
         (本田靖春『我、拗ね者として生涯を閉ず』講談社、pp.347-348)
      -------------------------------------------------------

  ★「老人福祉法」制定(1963年、昭和38年)
     国や地方自治体が、高齢者の福祉(暮らしぶりの良さ)を増進する責務を
    有することを明記
  ★「集団就職」
    この言葉が時代を象徴していた。1961年の中学卒業者のうち38%が出身県外の
   府県で就職していて、その93%が東京、大阪、愛知の三大都市圏に吸収されてい
   た。(田原総一朗氏著『日本の戦後』講談社)
  ★「高度成長」
    高度経済成長の進展は急速だった。1955年から60年の実質平均成長率は8.7%
   だったが、1960年から65年は9.7%、1965年から70年は11.6%にまで伸長した。こ
   の状態は石油ショックが起きた1973年まで継続する。
             (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.574)
      ----------------------------------------------------------------
        ・東京は1962年に世界ではじめて人口1000万人の都市となった。
      ----------------------------------------------------------------
              <アメリカの対日貿易額>
                輸出      輸入    バランス
         1961年   1837万ドル   1055万ドル  782
         1962    1574      1358     216
         1963    1844      1498     346
         1964    2009      1768     241
         1965    2080      2414    -334
      ----------------------------------------------------------------
    (Statistical History of the United States,From Colonial Times to 1970)

  ★大学生の急激な大衆化
    戦後の学制改革と高度成長は、大学生の急激な大衆化をもたらした。1940年
   に47校だった大学は、1954年には227校にまで増加した。大学進学率も1960年の
   10.3%が、1965年に17.0%、1970年に23.6%、1975年には37.8%まで上昇する。
             (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.551)

  ★「三矢研究」(昭和38年度統合防衛図上研究実施計画)(1963.2)
     昭和38年2月、東京・市ヶ谷の統幕講堂で、陸海空自衛隊の征服幹部が極秘
    裡に集まって、朝鮮半島を中心とする戦争の図上練習を行うとともに、それに
    際しての国家の前面管理について話し合った。戦後日本での初めての本格的な
    有事研究だった。
      --------------------------------------------------------------
       演習は第一動から第七動までの想定に基づき、第一動では、韓国情
      勢が悪化、韓国軍が反乱を起こしたとする。第二動は、韓国反乱軍に
      対し北朝鮮軍の支援が行われ、米軍がこれに反撃。第三動は、北朝鮮
      軍が三八度線を突破して新たな朝鮮戦争に発展、自衛隊が出動を準備
      するとともに、日本国内の総動員体制が樹立される。第四動は、自衛
      隊と米軍の共同作戦。第五動では、西日本が攻撃を受け、朝鮮半島で
      は戦術核兵器が使用される。第六動では、ソ連軍が介入。第七動では、
      日本全土にソ連軍の攻撃がなされ、全戦場で核兵器が使用される。し
      かし北朝鮮、中国に反攻作戦が展開され、核の報復攻撃も実施して最
      後的に米側が勝利する。
       白昼夢か妄想か倒錯か。だが、これは一部の単純な狂信者による戦
      争ごっこではない。統合幕僚会議事務局長であった田中義男陸将の主
      導で行われ、制服からは「集めうる最高のスタッフ」が参加し、防衛
      庁内局、在日米軍司令部からも少人数が出席した。「密室」周辺では
      ものものしい警備がなされ、出席者全員が腕章をつけ、部外者の立ち
      入りは一切禁止されたという。図上演習は戦闘のシミュレーションに
      とどまるものではなく、第三動にさいしては、八十七件にもおよぶ非
      常時(有事)立法を成立させて政治、経済、社会を全面管理する国家
      総動員体制を確立するという、憲法など歯牙にもかけない研究が本気
      でなされたのであった。この三矢研究の「国家総動員対策の確立」の
      なかでとくに鳥肌が立つのは、「人的動員」の項目で、「一般労務の
      徴用」「業務従事の強制」「防衛物資生産工場におけるストライキの
      制限」「官民の研究所・研究員を防衛目的に利用」「防衛徴集制度の
      確立(兵籍名簿の準備・機関の設置)」「国民世論の善導」などを、
      制服組が当然のごとくに論じていることだ。さらに、「国民生活の確
      保」の項目では、「国民生活衣食住の統制」「生活必需品自給体制の
      確立」「強制疎開」「非常時民・刑事特別法」「国家公安維持」など
      が語られている。まさに「軍政」そのものである。(辺見庸『記憶と
      沈黙』毎日新聞社、pp.173-175)

1964年(昭和39年):東海道新幹線開通と東京オリンピック(S39.10.24開幕)
    は日本復興の象徴。またOECD(経済協力開発機構)への加盟・IMFにおける八
    条国への移行も経済復興の象徴となった。
  ☆国民性・国民意識:官僚主導の高度成長は国民の自主性を奪い去り、徹底的な
            官僚統制経済のため民間活力の萌芽や独創性を封じ込めた。
        ・公明党結成
        ・自民党総裁選で池田勇人と佐藤栄作が激突(S39.7.10)
           池田側:河野派、川島正次郎派、三木派、旧大野派
           佐藤側:福田派(岸派の後継主流派)、石井光次郎派
            (岸派はすでに福田派、川島(「政界寝業師」)派、
             藤山愛一郎派に分裂していた)
         ※結果はかろうじて池田が勝利したが、すさまじいばかりの
          金が飛び交ったという。(池田:242票、佐藤:160、藤山:72)
         ※ただし、池田は既に末期の喉頭癌に侵されており、3か月後に
          は首相を辞任することになった。(-->佐藤政権誕生)
       ■吹原産業事件はこの自民党総裁選をめぐる詐欺的及び買収資金捻出
        事件と思われたが、結局政界とは無関係とされた。
                (黒田清氏・大谷昭宏氏著『権力犯罪』より)

    # 昭和三十九年は東京オリンピックの年だ。この年を目標にして、新幹線、
     首都高速道路が建設され、主要な国内航空路が整備され、そこをジェット
     機が飛ぶようになった。岩戸景気の後でも、依然として設備投資の水準が
     高かった上に、こうした大規模なインフラ投資が行われたために、輸入が
     拡大し、昭和38年初めから金融引き締めがはじまった。・・・(池田退陣
     の頃より)、金融引き締めの効果が現れ、景気が急ピッチに後退し、企業
     は、過剰設備と、労働力の不足激化にともなう賃金コストの上昇に悩まさ
     れた。山陽特殊鋼は戦後最大の負債を残して倒産した。株式市況は極めて
     不振に落ち込み、ついに山一証券は倒産寸前の状態に追い込まれ、株式の
     大恐慌が発生しそうだった。証券危機は日本銀行の特別融資によって救わ
     れた。(竹内宏氏著『父が子に語る昭和経済史』より)

    # 家電需要の伸びの急速な鈍化(--->過剰設備と過剰在庫)
     家電製品の普及率:白黒テレビ:88.7%
              電気洗濯機:66.4%
              電気冷蔵庫:39.1%

       ■九頭竜川ダム汚職事件(石川達三氏著『金環食』のモデルか?)
       ■「公明党」の結党。創価学会の本格的な政界進出の幕開けとなり、
        1967年(昭和42年)には衆議院にも進出、25議席を獲得。
           -------------------------------------------
        ・トンキン湾事件:米駆逐艦マドックスに対する北ベトナム魚雷艇
                 攻撃(1964.8)
           この事件は米国の愛国心を燃え上がらせたが、当初から事件
          はアメリカの捏造が疑われており、アメリカという国はいつで
          も戦略完遂のためにはでっちあげを平気で行う国ということが
          改めて露呈した。
           -------------------------------------------
        ・1964年、アメリカの軍事衛星SNAP-9Aがインド洋上空で炎上し、
         プルトニウムの仲間であるプルトニウム238約1キログラムが空か
         ら世界中にばらまかれた。プルトニウムは、「この世で最も毒性
         の強い物質のひとつ」といわれる猛毒の放射性物質である。1キロ
         グラムといっても、もしそれをそのまま人びとが吸い込んでいた
         ら、1兆人分もの許容量にあたる。この出来事は、プルトニウム
         がすでに私たちの生活環境にも深く入りこんできたことを示して
         いた。(高木仁三郎氏著『高木仁三郎著作集<プルートーンの火
          >』七つ森書館、pp.124~126)
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        ・サウジアラビアの宮廷クー・デタ(1964年)
           アブドゥルアジースの次男サウード(第二代国王)を廃して、
          異母弟のフェイサル皇太子が第三代国王になった。フェイサル
          は名君の誉れ高く、彼によってサウジアラビアは近代国家に向
          かって力強く発進した。
          (保阪修司氏著『サウジアラビア』岩波新書、pp.12-13)
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        ・中国が核実験を成功させた(1964.10)。
          この後1966年10月にはミサイル実験も成功させている。
           -------------------------------------------

  ★献血推進のスタートの年
    政府がやっと動きだし、献血推進への予算が僅かながらおりた。
   村上省三(日本赤十字社輸血研究所)、木村雅是(早稲田大学学生、早大献血
   学生連盟)、本田靖春(読売新聞社社会部記者)の3氏の名前を忘れてはならな
   いだろう。

1965年(昭和40年):このころから学園紛争が激化した。
  ★勤労世帯の実収入は約65000円/月(<--1965年29000円)。
  ★学園紛争       
    1960年代後半には、各地の大学で紛争があいついだ。1965年4月、高崎経済大
   学において、地元優先の委託学生入学に反対がおこり、学生がハンストと授業
   放棄に突入した。1966年には、早稲田大学で授業料値上げ反対闘争がおき、学
   生たちが大学本館を占拠した。さらに1968年、日本大学で20億円の使途不明金
   が発覚し、それを契機にワンマン経営者による大学運営に学生の不満が爆発し
   た。おなじく1968年には、東京大学医学部学生自治会が、無賃労働に等しい登
   録医制度に反対して無期限ストに入った。
           (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.575)

    ------------<学園紛争の背景と当時の学生の回想など>-------------
    ・・・「学生数の圧倒的増大は、学生の社会的地位をも著しく変化せしめ、
   大学を卒業したからといって大企業に就職するとは決していえない」「それは
   、学生そのものが、社会のなかで、例外的存在であることから、マスのなかの
   一員としてしかみなされなくなってきていることと無関係ではない」「今日の
   学生運動は、すでにのべたような社会的地位の変化、エリート的意識と存在の
   決定的欠落、そしてマスプロ化していく学園のなかにあって、たえず人間とし
   ての真実をとりかえしたいという欲求が大衆的にひろがっていくことを基礎に
   おいて成り立っているのである」「このような背景のもとでの学生の不満と不
   安のうっ積は、どのような契機から学園闘争が爆発しても、同じような全学的
   闘争にと発展してしまうのである」。
    こうして1968年には、日本大学や東京大学で学生による大学占拠がおこり、
   全学の学生を糾合した「全学共闘会議」が結成され、「全共闘」と略称された
   。1965年の日韓会談反対闘争いらい、学生運動は一時停滞していたが、1967年
   から68年以降は一気に盛りあがった。この「全共闘」による大学占拠は、やが
   て全国各地の大学に波及し、全共闘運動と総称された。
    この全共闘運動は多くの場合、「革命」や「疎外」といった、マルクス主義
   の言葉によって行なわれていた。しかしその背景にあったのは、学生のマス化
   と旧来型の大学組織のミスマッチであり、秋山(筆者注:中核派全学連委員長)
   らのいう「エリート的意識と存在の決定的欠落」であり、マス化してゆく大学
   と社会のなかで「人間としての真実をとりかえしたいという欲求」だった。こ
   うした背景なくしては、全共闘運動が一部の活動家の範囲をこえて、あれほど
   の広がりをもつことはなかっただろう。
    当時の学生の一人は、1996年にこう回想している。

     一つの時代が過ぎてから、多くの友人と話してみると、マルクスもレーニ
    ンも誰もがほとんど正確に理解していないことに驚かされたが…私たちを行
    動に駆り立てたのは決してそうしたイデオロギーでも思想でも理論でもなか
    った。理屈は後からついて来る、である。むしろ、戦後生まれの私たちの世
    代にとって、旧態依然の秩序や常識がぴったりこないいらだちのほうが重要
    だった。たとえば、一流大学に入ることで人生のプラスカードを得るとか、
    女は男ほどの学力は必要ない。勉強をろくにしなくても卒業できる大学と、
    それに比べてやたらと消耗な受験勉強とか、天皇と軍部だけが悪いと総括す
    る戦争観や、大人たちがもっているアジア人に対する差別意識とか社会のヒ
    エラルキーとかの考え方に対する違和感のほうが大きかった。そしてその違
    和感をそのまま受け入れてくれたのが全共闘だった。歴史は古い時代のカビ
    臭い価値観を終わらせて、新しい価値を求めている。そしてその改革の錠は
    自分たちの手の中にある、と熱い思いを抱いた。
     「さあ、これから新しい時代に向けての歴史的ビッグイベントが始まりま
    すよ」それは、先輩たちのオルグやマスコミの報道だったり、校門のところ
    で手渡されたビラだったりした。とまれ、歴史への参加・未来を切り拓く試
    みと認識しているわけだから、いくら深刻ぶっても心の中はワクワクしてい
    た。あらゆる権威や権力に対し傲慢に振る舞えもした。「東大解体」や東大
    の門柱に書かれた「造反有理」はますます私たちを元気にしてくれた。
          (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.576-577)
    ----------------------------------------------------------------

        ●アメリカが北ヴェトナムを爆撃(1965年2月~1973年3月)
           「アメリカ+南ヴェトナム政府」 vs「ヴェトコン+北ヴェ
          トナム労働党秘密党員(=人民革命党)+南ヴェトナム中央局
         (COSVN=ヴェトナム労働党南部委員会)」
            ----------------------------------
             <アメリカ国民の多少の正義>
           1. ベトナムが冷戦の重大な戦場
           2. ベトナムが倒れれば広範な地域で悪影響が生じる
           3. ミュンヘン会談(1938年)の教訓:局地的後退は
             あとで取り返しがつかない結果につながる。
            ----------------------------------
        ・1965~66年にかけてサイゴンではヴェトコンのテロが荒れ狂った。
           アメリカ大使館爆破、水上レストラン「ミカン」爆破、アメ
          リカ軍宿舎ヴィクトリアホテル爆破、・・・

      --------<本田勝一(朝日新聞記者)ルポ『戦場の村』など>------
       本多がそれと対照的な存在として描きだしたのが、南ベトナム解放
      戦線の兵士たちだった。本多が会見した解放戦線の青年将校は、彼の
      身を案じて写真撮影を遠慮する本多たちにむかって、「私は民族の独
      立に生命をささげた人間です。傀儡政府のもとで生きて行くことがな
      い以上、顔が外部にわかっても一向にかまいません」と返答した。米
      軍の空襲のもとで抗戦する解放区の幹部は、「われわれは軍事的に負
      けているでしょう。しかし負けません。負けても、負けないのです。
      本当の勝利とは何でしょうか」と述べた。
       アメリカの空襲に耐え、アメリカの物質的誘惑に抗しながら、「民
      族の独立」を掲げる解放戦線のありようは、日本の読者から多くの共
      感を集めた。圧倒的な物量と科学力で攻めよせる米軍にたいし、粗末
      な兵器と乏しい食料で善戦する彼らの姿も、戦争体験者の心に訴える
      ものがあった。本多のルポが連載された『朝日新聞』には、読者から
      の共感の投稿が殺到したという。
       しかしこうしたベトナムのあり方は、日本という国家を問いなおさ
      ずにはおかなった。本多は、日本製の軍用トラックや上陸用舟艇を米
      軍が使っていること、日本の業者の輸送した燃料で北爆が行なわれて
      いることを報道した。ベトナムに派遣されていた韓国軍の将校は、「
      この戦争で、日本はどれだけもうけているか知れないほどですなあ」
      とコメントした。本多は日本という国家を、「死の商人」と形容せざ
      るをえなかった。
       米軍の「ベトナム特需」は、輸出総額の一割から二割におよんでお
      り、輸出総額の六割を占めた朝鮮戦争特需にくらべれば小さかったも
      のの、日本の経済成長を支える要因になっていたことは事実だった。
      それには武器弾薬だけでなく、枯葉剤なども含まれた。横須賀や沖縄
      が米軍艦隊の基地となったばかりでなく、1967年に羽田空港を利用し
      た航空機総数のうち四割は米軍のチャーター機であり、ベトナムで負
      傷した米兵の75パーセントが日本に送られて治療をうけた。日本は米
      軍にとって、ベトナム戦争に不可欠な後方基地だった。
       こうした事情のため、前述した1965年8月24日の『朝日新聞』の世
      論調査では、戦争で「日本もまきぞえを食う心配がある」が54パーセ
      ント、「心配はない」が17パーセントという結果がでた。1966年6月
      1日、当時の椎名悦三郎外相は衆議院外務委員会で、日本に報復攻撃
      が加えられないのは地理的条件のためだと言明した。自衛隊は有事即
      応態勢をとり、1966年9月には南ベトナムに軍事視察団を送った。日
      本からの軍需物資を輸送する米軍舟艇には、政府の斡旋で日本の要員
      が乗りくんでおり、1967年10月までに9人の戦死者を出していた。
       本多が会見した解放区の幹部は、日本からどんな支援をしたらよい
      かという問いに、こう返答した。「ありがたいことです。しかし私た
      ちは、大丈夫です。やりぬく自信があります。心配しないで下さい。
      それよりも、日本人が自分の問題で、自分のためにアメリカのひどい
      やり方と戦うこと、これこそ、結局は何よりもベトナムのためになる
      のです」。 
        (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.588-589)

      ------------------<ベトナム戦争の背景と概略>----------------
       それまでフランスを宗主国としていた南ベトナムに1954年、ゴ・ジ
      ン・ジエム政権が誕生した。東西冷戦の中、アメリカはこの政権を援
      助することでインドシナにおける反共の砦とすることを考えた。その
      理論的な根拠となったのは、ベトナムが赤化すれば周辺諸国もソ連の
      影響を強く受けてドミノ倒しのように共産化してしまうという、いわ
      ゆる「ドミノ理論」である(後に判明することだが、ソ連はベトナム
      には中国が関与するものだと考えており、特に強い関心をもっていな
      かった)。
       ただ当時政権にあったアイゼンハワーは、ドミノ理論に対する強い
      信奉者ではなかったために、ベトナムへの介入は南ベトナムに米中央
      情報局(CIA)を派遣する程度にとどまったが、その後を継いで1961年
      に政権についたケネディは、南ベトナムへ軍事顧問団を派遣して直接
      介入を開始した。その数は62年5月には合計 6000人、63年末には 1万
      6000人に増大した。だがゴ政権は弱体で63年11月、クーデターによっ
      て倒される。CIAはそれを黙認するが、直後にケネディも暗殺され、
      アメリカのベトナム政策は後任のジョンソン政権に引き継がれる。そ
      してジョンソンはベトナム戦争に本格的に踏み込んでいく。
         ・・・・・・(中略)・・・・・
       そのようなジョンソン政権は、1964年8月2日にアメリカの駆逐艦マ
      ダックス号がトンキン湾の公海上で北ベトナムのPTボートに銃撃を受
      けたのに続いて、4日にはマダックス号とターナージョイ号が、北ベト
      ナム軍に猛烈な魚雷攻撃を受けたと発表。その報復として北ベトナム
      を爆撃する。この魚雷攻撃がその後事実でなかったことや、最初の銃
      撃が起きたのも公海上ではなく北ベトナムの領海内であり、攻撃を受
      けた北ベトナムの反撃だったことが判明している。だがこの事件をき
      っかけとして、議会で「あらゆる必要な手段を用いて」北ベトナムの
      攻撃に対抗し侵略を阻止するという「トンキン湾決議」がなされ、ジ
      ョンソンは議会から戦争遂行の全面的な支持と承認を受けた。
       だがここで多少の注釈が必要である。この年は大統領選挙の年であ
      り、現職の民主党ジョンソン大統領に対抗したのは、タカ派で知られ
      た共和党のゴールドウォーターだった。そのためゴールドウォーター
      が政権をとれば、ベトナム戦争をエスカレートさせるとみられていた
      一方で、ジョンソンは事件当初は慎重な姿勢をみせていたという点で
      ある。だが11月の大統領選挙で地滑り的な大勝利を得たジョンソンは、
      結局1965年2月に北ベトナムへの大規模な爆撃(北爆)を開始、1965年
      3月には海兵隊のダナン上陸を断行し、本格的な軍事介入を行う。そ
      の数は1965年末までに19万人規模に達する。その規模はその後も膨れ
      上がり、最大54万人のアメリカ兵を派遣することになる。
       だが戦局はアメリカ軍に有利に展開していったわけではなかった。
      そんな中でその後の情勢を決定づけるものとなったのは、1968年1月末、
      アメリカに対抗する解放戦線が全土で攻勢に出たテト攻勢である。こ
      の時期は旧正月(テト)にあたっており、油断しているところを狙っ
      て解放戦線側の約7万人勢力が、約100の都市や町で一斉攻撃を行うと
      いう大規模な奇襲攻撃を行った。それに対してアメリカ軍は猛反撃に
      出たものの自らの被害は大きく、2月18日になってペンタゴンは、この
      テト攻勢で味方の死者543人、負傷者2547人と、1週間あたりの死傷者
      の数が過去最高になったと発表した。
       このテト攻勢がベトナム戦争の大きな転換点となる。2月23日にはジ
      ョンソン政権がベトナム戦争中2番目の規模となる4万8000人を徴兵す
      ることを発表。2月25日、政権側は兵士のさらなる増員が必要になるこ
      とを認める。これ以降、ベトナムでアメリカの作戦がうまく進行して
      いないことが明らかになっていき、国内には戦争の先行きに対する悲
      観論が広がる。
       こうしたベトナム戦争の状況の悪化を反映して、3月のニューハンプ
      シャー州の民主党予備選挙では、反戦を訴えたユージーン・マッカー
      シーが大勝利を収める。そしてジョンソン大統領はベトナムでの戦局
      の先行きが見えない中、3月31日、その年の秋の大統領選への不出馬を
      宣言することを余儀なくされる。その後11月の大統領選挙では共和党
      のニクソンが当選。翌1969年1月に政権につくと、ニクソンはベトナム
      の戦線縮小と撤退への道筋を模索する。そして1973年1月に北ベトナム
      とのパリ和平協定を締結。だがこの協定は事実上失敗し、最終的には
      1975年4月にサイゴンが陥落して南ベトナムが崩壊する。アメリカにと
      ってはきわめて不名誉な形で敗北してベトナム戦争は終わるのである。
       アメリカはこの戦争に1500億ドルを投じ、第二次世界大戦で全世界
      に投下された爆弾より多くの爆弾をベトナムに投下してなお敗れ去っ
      た。敗北でアメリカは5万8000人の兵士を失い、その後もベトナムに
      従軍した314万人のうち15%程度が心的外傷後ストレス傷害(PTSD)を
      もつに至ったとされる。またこの出費は国内のインフレを促進し財政
      赤字が拡大。アメリカが保有する金の流出をもたらし、1971年には金
      とドルの兌換停止、いわゆる「ドル・ショック」を宣言するまでに追
      い込まれる。一方、全人口7200万人のベトナムも、戦死者300万人、
      行方不明者30万人、負傷者600万人、ボートピープル100万人、精神障
      害者600万人という甚大な被害を受けた。
       アメリカ側からこの戦争をみた場合に重要なことは、戦争が国内の
      各方面に大きな影響をもたらしたことだ。時期をほぼ同じくして進行
      した公民権運動と連動した形で、国家への反抗や反戦運動・学生運動
      が広まって、カウンター・カルチャーのうねりが大きくなった。1968
      年3月、女性も子供も虐殺したソンミ村事件でのアメリカ軍の行動には、
      激しい非難が集中した。「国家は信用できない」「われわれは誤った
      戦争をしている」という認識が広まり、ビートルズやボブ・デイラン、
      ジョーン・バエズなどが革命と反戦を歌い、1969年ニューヨーク州ウ
      ッドストックの野原で開催されたロックフェスティバルには40万人が
      集まった。反戦のうねりは全世界的な広がりを見せた。
      (石澤靖治氏著『戦争とマスメディア』ミネルヴァ書房、pp.234-238)

  ☆「ベトナムに平和を! 市民連合」(ベ平連)誕生:日本の市民運動の原型
     小田実、鶴見俊輔、高畠通敏が発起。それぞれの細君の協力がなかっ
    たら形にならなかった運動だという。
     ※「ベ平連」三原則(鶴見俊輔)
       (1)やりたいものがやる。やりたくないものはやらない。
       (2)やりたいものは、やりたくないものを強制しない。
       (3)やりたくないものは、やりたいものの足を引っ張らない。
    (鶴見俊輔・小熊英二・上野千鶴子『戦争が遺したもの』新曜社、p.374)

     ※注意:「ベ平連」の二重構造:表面の市民グループとは別に、非公然の
         地下組織「反戦脱走兵援助日本技術委員会(JATEC)」があった。
        (ただし、この二重構造については鶴見俊輔氏は何も語ってない)
         ---------------------------------------------------
             <ベトナム戦争、映像のなかの惨劇>
           (松岡完氏著『ベトナム症候群』中公新書、p73)

           1. 「ジッポー・ジョブ」:ベトナム人の小屋への放火
           2. 狩猟まがいのヘリコプターからの機銃掃射
           3. 枯葉剤のおぞましい影響
               枯葉剤はすでに1961年8月から実験的に使用
              されていた。南ヴェトナム政府の最初の要請は
              米作地にそれを使用し、解放戦線への食料供給
              に打撃を与えることであった。1965年までに使
              用された枯葉剤の42%がこの目的に使用された。
              すでに1963年、アメリカの専門家たちは、枯葉
              剤の使用が人体に悪影響を及ぼし、癌や異常出
              産などの原因となることを明らかにしていた。
              しかしアメリカ軍は9年にわたって枯葉剤の使
              用をつづけた。その20%はジャングルに、36%は
              マングローブ林にたいして使われ、莫大な被害
              をヴェトナムの住民と大地と海洋に及ぼし、環
              境を破壊した。
               枯葉剤を含むハイテクノロジーの利用と、破
              壊力の大量、無差別的使用は、ヴェトナム戦争
              を環境破壊戦争とし、とくに農村社会の存立自
              体を危機におとしいれた。この新しい戦争の様
              相は、無人地帯をつくるための強制立ち退きな
              どとともに、多くの農民を農村から切り離し難
              民化させた。少なくとも農民の半数以上が難民
              化したものと見られている。
               流民化した農民が都市に殺到したために、都
              市人口は急増した。1960年には南ヴェトナムの
              人口の20%が都市に住んでいたが、1971年には
              43%が都市住民となった。
               人口わずか1800万(1970年現在)の南ヴェト
              ナムでこのように人口学的な激変が起こったの
              である。現代の戦争は環境を破壊するばかりで
              なく、一国の社会構造そのものにも影響したの
              であった。(荒井信一氏著『戦争責任論』、岩
              波書店、pp.272-273)
           4. 度重なる僧侶の焼身自殺
           5. ナパーム弾大火傷を負い泣き叫ぶ裸の少女
           6. 逃げまどい必死で川を渡るベトナム人一家
           7. 米国内の反戦デモで射殺された学生の遺体
           8. サイゴンの路上、白昼のゲリラの処刑・・・
           9. ソンミ村大虐殺(1968.3.16)
              「五時半に、ソンミ周辺で突然、砲撃が始まり、
             そのうち、ソンミのあちこちにヘリコプターが飛
             来、アメリカ軍兵士が降りて来て、やがて手当た
             り次第に虐殺が始まりました。四時間虐殺はつづ
             き、そのあいだに住民五百四人が殺されていまし
             た。五百四人のうち、女性は百八十二人。さらに
             そのうち妊婦が十七人。子供は百七十三人。その
             うち五十六人が生後五カ月未満の赤ん誓した。六
             十歳以上の老人が六十人、中年男子が八十九人。
             しめて総計五百四人。女性を、アメリカ軍兵士は
             ただ殺しただけではありませんでした。多くを強
             姦してから殺しました。十四歳の少女は、すでに
             殺された母親の死体のそばで、何人ものアメリカ
             軍兵士によって次から次に強姦されたあげくに、
             小さな赤ん坊といっしょに射たれ、小屋に放り入
             れられたあと、小屋は火をつけられました。少女
             は必死に小屋から這い出て来ようとしたのですが、
             兵士は押し戻し、母親と赤ん坊ともに、灰になる
             まで焼かれました。十二歳の少女もやられたし、
             六十歳の女性も、殺されるまで兵士二人に強姦さ
             れました」。(小田実氏著『終らない旅』新潮社
             pp.425-426)
          ---------------------------------------------------

  ☆ ベトナム戦争による日本の平民(大衆)への教訓(簡単に徴兵できる「カモ」)
     第二次世界大戦では、徴兵対象年齢老の少なくとも7割が戦場に赴いた。
    しかしベトナムに行った男性は、戦争最盛期の10年間に徴兵年齢に達した者
    (統計により異同があるが、ほぼ260万~300万人)のうち8%、多く見積もっ
    ても10%程度にすぎない。戦闘に携わった者となると、6%たらずである。
     しかも1割と9割のどちらに入るかが、きわめて不公平なやり方で決められ
    た。全米の徴兵事務所にかなりの裁量権を認める選抜徴兵制が採用されたた
    めである。その結果、有為な人材はなるべく残し、社会の底辺に位置する黒
    人やヒスパニック、貧しい白人などをベトナムに送り込み、そこで社会人と
    しての訓練を与えようという作為が働いた。
     この「10万人計画(Project 100000)」の網に引っかかった者は35万人を
    超える。その4割は黒人だった。誰を徴兵するかを決める者のうち黒人は1.3%
    にすぎず、南部諸州では黒人が一人もいない徴兵事務所も珍しくなかった。
    入隊者が全員警察になにがしかの世話になった過去を持つ部隊、7割以上が黒
    人かヒスパニックという部隊もあった。
     いいようのない不公平感が触媒となり、アメリカに精神的荒廃をもたらし
    た。映画『プラトーン』(1986年)をノべライズした作品によれば、ベトナ
    ムに行った若者たちは「東南アジアでの労役から免れるような口実が何ひと
    つない、いたって簡単に徴兵できるカモ」にすぎなかった。また、こうした
    やり方で能力の低い兵士を量産したことが、敗因の一つだったともいう。
                (松岡完氏著『ベトナム症候群』中公新書、p69)
     ※ベトナム戦争で5万8132人の米兵が命を落とし、戦後その3倍にも及ぶ
      約15万人のベトナム帰還兵が自殺している。
        (星野道夫氏著『星野道夫著作集 4』新潮社、pp.165-166、2003)
     ※もし日本で徴兵があれば、きっと同じようなことになるだろう。
           -------------------------
        ・「山一証券」倒産寸前(昭和40年5月19日)
           大蔵大臣・田中角栄による日銀特融。
        ・日韓基本条約締結(昭和40年6月)
           植民地支配の償いとして日本から韓国に支払われた巨額の
          賠償金は日韓政財界の癒着の温床になった。怨念と利権と政
          治的思惑が複雑に絡みあった日韓条約交渉の舞台裏で、児玉
          誉士夫と渡邊恒雄が動いた。
              (魚住昭氏著『渡邊恒雄 メディアと権力』より)
        ・インドネシア政権交代(クー・デタ、昭和40年9月30日)
           スカルノ体制からスハルト体制へ
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        ・宇宙背景放射の測定(1965):ペンジャスとウイルソン
           -------------------------
  ★東海村で「東海原発一号機」の運転開始(1966.7.25)
    耐震など安全設計の面で技術的に未熟な英国「コールダーホール型発電用原子
   炉」が予定より3年も遅れて運転開始にこぎつけた。
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       ●1966年10月5日。アメリカの「フェルミ炉」(高速増殖炉)の事故。
        炉心の底に使っていた金属版のボルトが緩んで外れて、燃料二体に
        ついて流路を閉塞。ナトリウムの流れる道を閉塞してしまった。
        そのために、冷却状態が悪くなって温度が上り燃料の溶融に至った。
        幸い大惨事にはならなかった。(高木仁三郎氏著『高木仁三郎著作
        集<プルートーンの火>』七つ森書館、p.351より)
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       ■昭和39年から続く「構造不況」に対して、政府は戦後初めて国債を
        発行。不景気を短期間で乗り切ることに成功。(ケインズ経済理論)
         (大蔵省と日銀の勢力バランスは日銀に有利に変化した)
         ※ 政府支出を国債でまかなうことが可能になれば、政治家も
          大蔵省も、日銀の信用統制にちょっかいをださなくなるだろう。
          同時に、財政法のもとでは新規発行国債の日本銀行引き受けは
          禁止されていた。したがって、日銀はそう簡単に国債引き受け
          による財政政策支援を要求されないですむ。

       ■1965年(昭和40年)は日米間貿易において、はじめて対米黒字
        を記録した。このあと1967年、1975年以外は全て対米貿易黒字
        となりそれは次第に拡大した。(--->「いざなぎ景気」)
           -------------------------
          1965年初頭、毛沢東は「大躍進」後の「大飢饉」に対し部分的
         ではあったが自らの非を認めたことや、劉少奇・トウ小平の現実
         的な実務路線への国民の傾斜に対して、指導力低下に脅威を感じ
         ていた。自分もフルシチョフに非難されたスターリンのようにな
         るのではないかという被害妄想が昂じて”「中国のフルシチョフ」
         である劉少奇・トウ小平と彼らに同調する党内勢力を叩き潰さね
         ばならぬ”と思った。そしてこれを「文化大革命」という言葉で
         包み隠しながら実行に移した。毛沢東はこの過程で、これまで毛
         沢東崇拝をくりかえし教え込まれてきた若者を「(毛首席の)紅
         衛兵」(はじまりは清華大学附属中学の学生活動家が名乗ったも
         の)として利用した。林彪は「文化大革命」の指導者として「四
         旧を破る」ために突撃せよと紅衛兵を扇動した。多くの古い文化
         遺産や貴重な書物や文献がいともたやすく破壊された。四旧とは
         旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣のことだった。
         (ユン・チアン『ワイルド・スワン<下>』土屋京子訳、講談社、
           pp.11-42)
        ●中国プロレタリア文化大革命(1966年5月16日~1971年)
         毛沢東:プロレタリア文化大革命は、プロレタリア階級による
             資本主義階級に対する偉大な政治的革命である。それ
             はプロレタリア階級による資本主義階級に対する闘争
             の継続である。それはまた、共産党による国民党に対
             する闘争の継続である。(チェン・ニェン『上海の長
             い夜<下>』篠原成子・吉本晋一郎訳,朝日文庫, p.24)
               -----------------------------------
           毛沢東が発動したプロレタリア文化大革命は、既成の党機関
          や行政組織を造反派(革命派、急進派)の手に奪い返す奪権闘
          争を巻き起こした。造反派に抵抗するものは「資本主義の道を
          歩む実験派」や「修正主義者」などとされ、粛清の対象となっ
          た。この間に劉少奇や林彪らが失脚した。毛沢東は1972年1月
          には体調を崩し寝込みがちになっており文化大革命収束時には、
          周恩来は実権の殆どを掌握していた。また1973年には毛沢東に
          よりその実務能力の非凡さを買われていたトウ小平は失脚から
          復権(国務院副総理=副首相)した。
                    (『毛沢東秘録<下>』産経新聞社より)
           <「牛鬼蛇神」(悪をはたらくために人間になれる悪魔)>
             毛沢東が言い出したこの言葉は文化大革命のあいだに
            下記の九種類の敵に対して用いられた。
             ・1950~1952年の土地改革運動で非難された元地主の
              連中
             ・1955年の農業合作化のときに非難された富農
             ・1950年の反革命鎮圧運動と1955年の反革命粛清運動
              で非難された反革命分子
             ・共産党が統治するようになってから時に応じて逮捕
              された「悪質分子」
             ・1957年の反右派闘争で非難された右派分子
             ・叛徒(国民党によって投獄されていたときに国民党
              に共産党の機密をばらしたとの嫌疑をかけられた者)
             ・スパイ(外国とのつながりをもっていた男女)
             ・「走資派」(毛沢東の言う厳格な左派の政策に従わず、
              「資本主義の道」を歩む者)
             ・ブルジョワ階級出身の知識人
             この言い方はよく「牛」だけに短縮しても使われ、文化
            革命中にこれら政治的追放者を監禁した場所は一般に「牛
            棚(牛舎)」と言われた。(鄭念(チェン・ニェン)『上海
            の長い夜<上>』朝日文庫、pp.29-30)

                  【文化大革命時代の中国】
           先生は話を続けた。「この社会は既得権益を握る階層が統治
          集団、つまり新たな特権階級を構成しているんだ。僕ら一般市
          民は公衆便所の便槽を増やす望みぐらいしか持っていないのに、
          幹部連は職位の上下に関わらず、自分の家に個室の水洗便所や
          浴槽を持ち、電話付きで、お手伝いや乳母まで雇っている。大
          飢饉で幹部階層の誰かが餓死したなどという話を聞いたことが
          あるか。こういう連中にとって一番大切なことは、特権集団の
          共同の利益を死守することで、これは自分の子どもたちにちゃ
          んと譲り渡さなければならない。次に大事なことは、人を踏み
          つけにして、わき目もふらず這い上がることだ。共同の利益の
          死守と自分だけ這い上がることとの間にはかなり矛盾があるの
          で、ときおりここから一般民衆の政治的反乱が惹き起こされる
          んだよ」。
           先生はさらに続けた。「文化大革命は、実は二度にわたって
          行なわれたんだ。最初の文革は幹部同士の闘争で、自分に対す
          る攻撃の有無に関わらず必死で他を攻撃した。政治の世界で飯
          を食う以上、なりふりかまわず突き進まなけりゃならないし、
          いったん特権を手にしたからには、闘争の目標にされる危険ぐ
          らいは覚悟すべきなんだ。こんなことは当然であって、不平不
          満を言う理由などあるはずがない。自分たちが望んで掴みとっ
          た道じゃないか。文革時の当事者やらその子どもたちやらが、
          今になって文革中造反派にやられてひどい目にあったなどと書
          きまくっているが、笑止千万な話さ。もう一つの文革は一般民
          衆がやったんだ。彼らは毛沢東が共産党内で劉少奇らに対する
          クーデターを起こした機会を利用し、共産党組織に造反という
          名の反逆の闘争を仕掛ける形で、これまでの復讐をしようとし
          たんだ。だけど、こういう造反派は1969年には粛清されてしま
          った。あれから11年経ったけれど、まだ幹部連中は造反の気骨
          を持った民衆を根絶やしにしようと躍起なんだよ」。  
            (虹影『飢餓の娘』関根謙訳、集英社、pp.243-244)

           「この文化大革命が何を狙っているのか、ぼくにはようやく
          わかってきた。これでは、ぼくの将来には何の希望もない」と、
          父が話しはじめた。文化大革命は、民主化とは何の関係もない。
          人民にもっと多く発言の機会を与えるための運動でもない。文
          化大革命は、毛沢東の個人的な権力を強化するための血なまぐ
          さい粛清だ。それがはっきり見えてきたーー父は、そう言った。
           父は慎重にことばを選びながら、ゆっくりと話した。・・・
           「たぶん、毛主席は中国の社会を根底からひっくり返してし
          まわなければ、自分の目的が達せられないと考えているんだろ
          う。これまでだっていつも、毛主席はやるときには徹底的にや
          った。犠牲者が出たって、いっこうに平気だったじゃないか」。
           (ユン・チアン『ワイルド・スワン<下>』土屋京子訳、
                               講談社、p.105)
          ------------------------------------
        ・ワインバーグ=サラム理論の登場(1967年頃)
        ・第三次中東戦争(6日戦争、1967年6月5日、昭和42年)
           イスラエルは電撃的に勝利、エルサレム旧市外を含む西岸と、
          ガザ地区を占領、ゴラン高原とエジプト領シナイ半島も支配下
          においた。(<大イスラエル主義>=”リクード”)
        ●ボリビアにてゲリラ戦争中のエルネスト・チェ・ゲバラがボリビ
         ア政府軍に捕らえられ戦死する(1967年10月9日、39歳)。
         チェ・ゲバラを斃したのは事実上CIAだった。(三好徹氏著『チェ
         ・ゲバラ伝』原書房、pp.317-321)
          ----------------<現代における最初の水戦争>-------------
           この戦争は領土と安全保障をめぐつて戦われたという見方が
          大勢を占めており、水の重要性についてはしばしば無視されて
          いる。だが、単純明快な事実はつぎのとおりだ。戦前には、イ
          スラエル領内にあったのはヨルダン川流域面積のわずか10分の
           1以下だったが、最終的には、ヨルダン川はほぼ完全にイスラ
          エルの支配下に置かれるにいたった。イスラエルはヨルダンか
          ら、かつての東側国境とヨルダン川に挟まれたすべてを奪った。 
          そして、シリアからは、ガリレヤ湖の北東の山岳地帯、ヨルダ
          ン川の源流が流れでるゴラン高原を奪ったのだ。
           六日開戦争のときの指令官であり、後にイスラエル首相とな
          ったアリエル・シヤロンは、その戦争でのイスラエルの水文学
          的な動機については平然と認め、イスラエル側の言い分を説明
          した。1960年代はじめ、シリアは水路を建設してゴラン高原か
          らヨルダン川の水源の流れを変えてイスラエルから水を奪おう
          という敵対的行為に出たと、シヤロンは自伝に書いた。
           「六日開戦争が本当にはじまったのは、イスラエルがヨルダ
          ン川の流路変更を実力で阻止すると決定した日である。国境紛
          争は大きな意味を持っていたものの、流路変更は生死をかけた
          重大問題だった」(フレッド・ピアス『水の未来』古草秀子訳
           、日経BP社、p.262)
          ----------------------------------------------------------
        ・吉田茂逝去(S42.10.20)
        ・ヴェトコンのテト攻勢(1968年、昭和43年1月)
          アメリカ人約4万人が死亡
        ・国際反戦デー(1968年、昭和43年)
        ・昭和43年には日本のGNPは西ドイツを抜いて世界第二位になった。
          (1965~1972年に日本がヴェトナム戦争で稼いだ金は少なくと
          も70億ドル)
        ・インフルエンザ(香港風邪、H3N2)の猛威(1968年)
          世界中で約100万人が死亡
        ・空母エンタープライズ寄港阻止闘争(同上)
          ------------------------------------
  ★1967年4月22日。日本の原子力委員会の「原子力開発利用長期計画」がこの日に
   決定された。それによって、日本でもプルトニウムを生産し、燃料として燃やす
   長期計画が本決まりになったのである。この計画は国家のエネルギー開発の柱と
   なる「国家プロジェクト」の中心に、プルトニウムを燃やし、生産する高速増殖
   炉と新型転換炉という二つのタイプの原子炉を据えたものだった。その計画に、
   10年間で1500億円という、当時としては破格の研究・開発費が見積られた。これ
   は、同時に国家に強力に支えられた巨大科学プロジェクトの時代の日本における
   幕明けを意味していた。(高木仁三郎氏著『高木仁三郎著作集<プルートーンの
   火>』七つ森書館、pp.124~126)

  ★「第一次資本自由化」(1967.7.1)
     1964年IMF八条国に移行(為替に関する制限の撤廃)にOECDに加盟。
            (菊地信輝氏著『財界とは何か』平凡社、p.166)
  ★東京に霞が関ビル完成(1968年、昭和43年)
    この頃より東京は大きな変貌を遂げてゆく。
    車では日産サニー、トヨタカローラが発売され、サラリーマンでもマイカーが
   持てるような時代がやってきた(日産の生産台数:34.5万台(1965年)--->203万台
   (1973年))。(生方幸夫氏『日本人が築いてきたもの壊してきたもの』新潮OH文
   庫より)

    ---------------<余談:失敗の教訓は生かされなかった>---------------
    しかし1968年に20歳前後だった学生たちは、1955年以前の社会運動を、具体
   的には知らなかった。彼らが知っていたのは、1955年以後の穏健化した共産党
   や、なかば惰性化した護憲平和の「国民運動」、あるいは教室で「平和と民主
   主義」を説いていた「猿のような」教師でしかなかったのである。
    また年長世代の知識人の側も、自分たちが1950年代に行なっていた運動の失
   敗の歴史を、若者たちに語りたがらなかった。失敗の教訓は、若い世代に受け
   つがれないまま、当事者たちが胸に秘めているだけだった。国民的歴史学運動
   で挫折を経験していた歴史学者の鈴木正は、60年安保闘争の直後に、「ぼくら
   は10年前に『壁』をやぶろうとして傷ついた。ぽくの教え子たちが、いままた
   『壁』をつきやぶろうとしている。ぼくの先生に当る先輩もぼくらも若い世代
   に手をかさず個々別々に『青春残酷物語』をくりかえす悲しみと愚かさを断つ
   ために口を開かねばならない」と述べていた。しかしそうした状況は、1968年
   になっても変わっていなかったのである。
    ただし1950年代前半の運動と、1960年代後半の運動のあいだには、明確に異
   なっていた点があった。それは新左翼や全共闘運動が、日本をすでに近代化し
   た先進帝国主義国家の一員とみなし、「民族主義」への反発を抱いていたこと
   だった。そしてそれは、高度成長によって地方や階級の差異が縮小し、「民族
   」という言葉で格差の解消を求めた1950年代の心情が理解されなくなった時
   代状況を反映していた。
            (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.582)
    --------------------------------------------------------------------
             【アメリカの食糧輸出戦略】
    アメリカの市場開拓において”平和のための食糧”が果たしている役割は
   きわめて重要であり、そう簡単に片付けるわけにはいかない。そこで、この
   役割をもう少し詳細にみたうえで、他の役割(軍事的な側面など)にも触れ
   てゆくことにする。ここでの引用や数字は、とくに注を付さない限り、すべ
   て1966年から74年の間に大統領から議会に提出された公法480号(筆者注:
   農産物貿易促進法、「平和のための食糧法」とも呼ばれた)年次報告による
   ものである。
    1966年の段階ですでに「公法480号の運用によって、アメリカが国際収支
   の面で利益を得てきた」ことは明らかになっていた。「アメリカ農産物輸出
   の大幅な伸びが、計画開始以来、国際収支の上に年平均15億ドルのプラスを
   もたらした。この輸出増大には、それ以前の、被援助国に有利な条件での食
   糧売却や無償供与によって、外国でアメリカの農産物が身近なものになった
   ことが大いに役立っている。・・・食糧援助計画に組み込まれた経済開発は、
   そのままアメリカの輸出を増大させる機会をつくった。㌔
    その恩恵はアメリカにはね返ってきている。食糧援助を受けている国で一
   人当たり国民所得が10パーセント増えれば、その国のアメリカからの農産物
   輸入は21パーセント伸びると推定されている。「こうして多くの国々が”援
   助”から”貿易”へと移っていった。日本、イタリア、スペインはその典型
   的な例である」。なかでも日本は、単なる典型というだけにとどまらず、”
   平和のための食糧”という名の投資のまったく見事な成功例である。1954年
   にこの法律に基づく援助が姶まってから日本が受け取った食糧は四億ドル足
   らず、一方、1974年までに日本が買い付けた食糧は175億ドルを上回る。そし
   て現在でも毎年20億ドル以上の食糧をアメリカから輸入しているのである。
    それでは、販売市場は、実際にはどのようにして開拓されるのだろうか。
   成功の確率が高い方法としては、給食制度のなかに子どもたちを組み込むこ
   とがある。1964年にマクガバン上院議員は「アメリカがスポンサーになった
   日本の学校給食でアメリカのミルクやパンを好きになった子どもたちが、後
   日、日本をアメリカ農産物の最大の買い手にした」と述べている。しかも、
   マクガバンによれば、この事が成功する時代はまだ終わっていないという。
   「”平和のための食糧”を通して、厖大な数の人びとがアメリカの農産物に
   なじんだ地域こそ、将来の大食糧市場である。今日われわれが援助する人び
   とは、明日はわれわれの上得意になるだろう。・・・もしイソドがカナダ(
   アメリカのよき得意先)の半分の生産性を達成できれば、あらゆるアメリカ
   製品の巨大な市場が出現するに違いない」。
    1966年の報告もマクガバンと同じ見方をしている。
   「この食粗援助は世界中で4000万人以上の小学生の食事を改善し・・・アメ
   リカ農産物の大きな市場を築きあげた。・・・過去20年間、増えつづけた農
   産物輸出によって、アメリカの農民も実業家も着実な利益を得てきた」。
 (スーザン・ジョージ『なぜ世界の半分が飢えるのか』、朝日選書、pp.246-247)
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    公法480号からもっとも大きな恩恵を受けたのは、何といっても大手の飼料
   輸出業着である。1966年、すでに飼料はアメリカにおけるドルの稼ぎ頭とな
   っていた。「飼料穀物協会は、主要な国々のいたるところで、貿易、農業関
   係者に普及宣伝活動をつづけて市場の拡大を助長した。つまり”適正”な家
   畜の飼育法ーーアメリカ産のトウモロコシ、大麦、裸麦、アルファルファな
   どを家畜飼料に使うことを教えたのである」。
    「アメリカ大豆協議会とアメリカ大豆協会は輸出拡大に力を入れ、その結
   果、数億ドルにのぼる大豆とその製品市場をつくりあげた。大豆飼料、大豆
   油脂のスペイン向け輸出は、売り込み政勢によって倍以上に増えた」。
    公法480号のおかげで、アメリカの大豆輸出は1970年にそれまでの最高を記
   録した。
    「国内で飼料産業を育成しようと努カしている国々に対しても、大豆や粉
   末大豆の輸出が大幅に伸び、その輸出額は前年を3億5900万ドルも上回った。
   1969~70年には大豆の価格が安かったこと、そのためにアメリカ大豆とその
   製品に対する需要が世界的に非常に大きくなったことがその原因である」。
    そして三年後、多くの国々は、・・・アメリカの大豆にしばりつけられる
   ことになった。これらの国々は、たとえ値段が6倍になってもーーアメリカは
   もはや価格面での競争を心配する必要はなくなった-ーなおアメリカ大豆を
   買いつづけるほか方法はなかったのである。飼料が荒稼ぎのタネになり、大
   豆加工がアメリカによって独占されているとすれば、公法480号を運用する
   側としては、良質の蛋白質物資を国外へ売り込むに当たって、人間よりも動
   物用に向けたくなるのは当然である。
 (スーザン・ジョージ『なぜ世界の半分が飢えるのか』、朝日選書、pp.248-249)

  ★昭和40年代は日本が公害にまみれた時代でもあった。
    ●昭和42年6月12日:新潟水俣病(昭和電工)
    ●昭和42年9月1日:四日市ぜんそく(昭和四日市石油、三菱油化、三菱
      モンサント化成、三菱化成工業、中部電力、石原産業)
    ●昭和43年3月9日:富山イタイイタイ病(三井金属工業)
    ●昭和44年6月14日:水俣病(チッソ)
          (山根一眞氏『環業革命』、講談社、p.196)

1969年~1971年(昭和44年~昭和46年)
  ★沖縄の1972年返還を決めた日米共同声明発表(1969.11.21)
        <核密約:ニクソン-佐藤合議議事録>
     米合衆国大統領
     われわれの共同声明に述べてあるごとく、沖縄の施政権
    が実際に日本国に返還されるときまでに、沖縄からすべて
    の横兵器を撤去することが米国政府の意図である。そして、
    それ以後においては、この共同声明に述べてあるごとく、
    米日間の相互協力及び安全保障条約、並びにこれに関連す
    る諸取り決めが、沖縄に適用されることになる。
     しかしながら、日本を含む極東諸国の防衛のため米国が
    負っている国際的義務を効果的に遂行するために、重大な
    緊急事態が生じた際には、米国政府は、日本国政府と事前
    協議を行なった上で、横兵器を沖縄に再び持ち込むこと、
    及び沖縄を通過する権利が認められることを必要とするで
    あろう。かかる事前協議においては、米国政府は好意的回
    答を期待するものである。さらに、米国政府は、沖縄に現
    存する核兵器の貯蔵地、すなわち、嘉手納、那覇、辺野古、
    並びにナイキ・ハーキュリーズ基地を、何時でも使用でき
    る状態に維持しておき、重大な緊急事態が生じた時には活
    用できることを必要とする。

     日本国総理大臣
     日本国政府は、大統領が述べた前記の重大な緊急事態が
    生じた際における米国政府の必要を理解して、かかる事前
    協議が行なわれた場合には、遅滞なくそれらの必要をみた
    すであろう。

     大統領と総理大臣は、この合意議事録を二通作成し、一
    通ずつ大統領官邸と総理大臣官邸にのみ保管し、かつ、米
    合衆国大統領と日本国総理大臣との間でのみ最大の注意を
    もって、極秘裏に取り扱うべきものとする、ということに
    合意した。
              1969年11月21日
              ワシントンDCにて
                   R.N.
                   E.S.
       (西山太吉氏著『沖縄密約』岩波新書、pp.49-50)

  ★軍人恩給受給者:282万5000人(昭和44年)、合計2406億7300万円。
  ★新左翼運動の激化(学園紛争、第二次安保闘争):反戦・反体制運動
       ■「官僚制度打倒」を目指した学生運動の盛り上がり。
            (現民主党:今井澄氏、仙谷由人氏ら)
       ■騒乱罪適用。学園紛争は、結局国民の顰蹙を買って頓挫。
        これを契機に「官僚機構」は益々強固になってしまった。
        ・"安田砦(東京大学安田講堂)"の落城(昭和44年1月18日)
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        ・アポロ11号が月面着陸(1969年7月16日、昭和44年)
          米国はアポロ計画に750億ドルの資金を次ぎ込んだ。
        ・無人探査機ルナ15号(ソ連)が月面に着陸(1969年7月17日)
        ・アメリカはベトナム戦争で疲弊、消耗していた(約56000人戦死)
           リチャード・M・ニクソン大統領就任(昭和44年1月)
           ヴェトナム民主共和国首席ホー・チ・ミン死亡
                             (昭和44年9月3日)
          # ホー・チ・ミンはインドシナの共産主義者の象徴であり、
           ヴェトミン以来の独立運動の英雄として南の民族主義者から
           も崇敬されていた。また中国、ソ連の対立(干渉)のなかで
           もヴェトナムの共産主義者を分裂させず統一・団結の立場を
           貫いてきた。ホー・チ・ミンの死亡はヴェトナム戦争を巡る
           バランスがさまざまな面で崩れるきっかけとなった。
            ヴェトナム労働党、南の共産主義者内部の中国派・ソ連派
           の対立、あるいは解放戦線内部および周辺での共産主義者と
           民族主義者の対立がバランスを失った。

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        ・国有地(現読売新聞社所在地)払い下げ問題の解決
           1850坪(約38億6500万円)で決着。
           (魚住昭氏著『渡邊恒雄 メディアと権力』に詳しく掲載)
        ・言論出版妨害問題(1969年、昭和44年)
           創価学会批判本(評論家・明治大学教授、藤原弘達氏著
          『創価学会を斬る』)の出版阻止騒動。
           当時の自民党幹事長田中角栄と、公明党委員長竹入義勝の裏
          取り引き。(島田裕巳氏著『創価学会』新潮新書、pp.95-99に
          自公の関係についてもやや詳しく書いてあり、参照を勧める)。
                    <余談>
          「1970年代、田中角栄首相のときの記者クラブでは、一人
          5000ドルが封筒に包んで各記者に渡されていた。これはよ
          く知られていたことです。もしそれを拒否すれば、記者ク
          ラブに居られなくなった」と共同通信のある記者はいう。
          (B.フルフォード『日本がアルゼンチン・タンゴを踊る日』
                               光文社、p.75)
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        ・昭和45年には日本の総人口は1億466万5000人
        ・世界の人口は36億人を越えた
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        ● 1970年アメリカ合衆国は確実に景気後退期に入った。
          ・インフレ圧力:物価上昇率3.4%(1968)-->5.7%(1969年)
          ・貿易黒字の縮小:68億ドル(1964年)-->6億ドル(1969年)
          ・ベトナム戦争で疲弊、消耗:国防費が60%も急増
          ・財政赤字増大:80億ドル以上(1967年)
                           --->260億ドル(1968年)
          ・アメリカの金保有高の減少:190億ドル(1958年)
                           --->100億ドル(1971年)
          ・アメリカの外国への流動負債の増加:330億ドル(1967.10)
                           --->600億ドル(1971年)
       (P・バーンスタイン『ゴールド』鈴木主税訳、日本経済新聞社より)
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        ●原油価格は1970年には1バレル3ドルだった。












































































史上最悪の極右内閣が誕生! 教育勅語を掛け軸にする文科相、バノン大好き法務相、日本会議のガチメンバーも入閣 2019.09.11 10:51 https://lite-ra.com/2019/09/post-4965.html 本日発表された“史上最悪の極右内閣”(首...