2019年9月12日木曜日

第37話: USA第51州の実態  1
 【日本という怪しいシステムに関する一見解】(初稿1999.10.29)

://www.ibaraisikai.or.jp/information/iitaihoudai/houdai37.html

 ※ 筆者は日本人でありながら、どうしても昭和以後のこの国が好きになれない。
  一体それはどこから来るのだろうか?。小さい島国で飽くことなく続いた権力闘
  争のなれの果ては、あの残忍な秦の始皇帝も顔負けの官僚制度を生みだした。
   そして現在、政財官トライアングル(=権力階級)は資本主義と社会主義を極
  めて巧妙に組み合わせ、しかも情報統制(非公開、隠匿、操作)をもって国民を
  飼い馴らしている。いまや日本は権力階級の「私物国家」に成り果てており、殆
  んどの国民が惰眠を貪っているあいだに、徐々に構築された巨大なピラミッド型
  の「一億総『潜在能力』搾取・没収システム」が民主主義の萌芽さえ阻んでいる。
   まさに「国民の命を蹂躙し翻弄する」という表現がピッタリの「日本という怪
  しいシステム」の本質を分析してみた。
    ( 『潜在能力』とは社会の枠組みの中で、今その人が持っている所得や資産
     で将来何ができるかという可能性のことである。詳しくはアマルティア・
     セン著『不平等の再検討』を参照)

 ※ 日本の「戦争被害受忍論」(最高裁判所 昭和62年6月26日 第二小法廷判決)
   戦争犠牲ないし戦争損害は、国の存亡にかかわる非常事態のもとでは、国民の
  ひとしく受忍しなければならなかったところ(戦争受忍義務)であって、これに
  対する補償は憲法の全く予想しないところというべきである。(奥田博子氏著
  『原爆の記憶』、慶應義塾大学出版会、p.73)

 ※ 昭和天皇の在位が半世紀に達した1975(昭和50)年10月、天皇ははじめてーー
  また唯一ともなったーー公式の記者会見を皇居内で行なっている。日本記者クラ
  ブ理事長が代表質問に立ち、前月の訪米に際しての印象などの問答が済んだのち、
  ロンドン・タイムズの中村浩二記者が立って関連質問をした。
    記者:「天皇陛下はホワイトハウスで、『私が深く悲しみとするあの不幸な
       戦争』というご発言がありましたが、このことは戦争に対して責任を
       感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また、
       陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられ
       ますかおうかがいいたします」。
    天皇:「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研
       究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題については
       お答えが出来かねます」。(朝日新聞、1975年11月1日)
                  (後藤正治氏著『清冽』中央公論社、p.155)

 ※ 「日本」
   何と言う不思議な国であろう。
  歴史的結果としての日本は、世界のなかできわだった異国というべき国だった。
  国際社会や一国が置かれた環境など、いっさい顧慮しない伝統をもち、さらには、
  外国を顧慮しないということが正義であるというまでにいびつになっている。外
  国を顧慮することは、腰抜けであり、ときには国を売った者としてしか見られな
  い。その点、ロシアのほうが、まだしも物の常識とただの人情が政治の世界に通
  用する社会であった。   (司馬遼太郎氏著『菜の花の沖<六>』より引用)

 ※ この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望がない。
                (村上龍氏著『希望の国のエクソダス』より引用)

 ※ 国家の詐術を鶴見さんは、アメリカによる原爆投下にみる。
   「原爆はなぜ落とされたか。それも二つも。公式にはアメりカ兵の被害を少な
  くするためとされている。しかし、それはウソだ。当時の日本に連合艦隊はなく、
  兵器を作る工場もない。米軍幹部は大統領に原爆投下の必要はないと進言もして
  いた」
   投下の主な理由は二つあるという。「一つは、原爆開発の膨大な予算を出した
  議会に対し、原爆の効果を示したかったから。つまりカネのためなんだ。そして
   2個の原爆は種類が異なっていた。二つとも落として科学的に確かめようという
  のが第2の理由。人間のつくる科学には残虐性が含まれているんだ」。
   このウソをアメリカ政府はいつまでつき続けるのか、と鶴見さんは問う。「ア
  メリカという国家がなくなるまででしょう」。
   いちどきに何十万もの人を殺す原爆ができて、国家はより有害なものになった、
  という。「日本はそのことにいまだに気づかず、世界一の金持国である米国の懐
  に抱かれてしまい、安心しちゃっている。すさまじいことですよ」。
  (『戦後60年を生きる 鶴見俊輔の心』朝日新聞朝刊 2005年11月25日号 p.21)

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              【この国の戦争とは】

              <幸徳秋水の非戦論>
    日清戦争は仁義の師だとか、膺懲の軍だとか、よほど立派な名義であっ
   た。しかもこれがために我国民は何ほどの利益恩沢に浴したのであるか、
   数千の無邪気なる百姓の子、労働者の子は、命を鋒鏑(刀と矢、武器)に
   落として、多くの子を失うの父母、夫を失うの妻を生じて、しかして齏
   (もたら)しえたり、伊藤博文の大勲位侯爵、陸軍将校の腐敗、御用商人
   の暴富である。(『日本人』第192号。190.3.8.5)
     (山室信一氏著『憲法9条の思想水脈』朝日新聞出版、pp.148-149)

          <日本軍の自分たちの兵士に対する残虐性>
    日本の軍隊の伝統には独特な要素があった。例えば、ドイツ軍では「敵を
   殺せ」とまず命じられたが、日本軍は殺すこと以上に死ぬことの大切さを説
   いた。この日本軍の自分たちの兵士に対する残虐性は、19世紀後半の近代化
   の初期段階においてすでに顕著に現れている。1872年に発令された海陸軍刑
   律は、戦闘において降伏、逃亡する者を死刑に処すると定めた。もちろん良
   心的兵役拒否などは問題外であった。軍規律や上官の命令に背くものは、そ
   の場で射殺することが許されていた。さらに、江戸時代の「罪五代におよび
   罰五族にわる(ママ)」という、罪人と血縁・婚姻関係にある者すべてを処
   罰する原則と同様に、一兵士の軍規違反は、その兵士のみならず、彼の家族
   や親類にまで影響をおよぼすと恐れられていた。個人の責任を血族全体に科
   し、兵士個人に社会的な圧力をかけることで、結果的に規律を厳守させてい
   たのである。この制度によって、兵士の親の反対を押さえつけ、兵士による
   逸脱行為はもちろんのこと、いかなる規律違反も未然に防止できたのである。
   さらに、警察国家化が急激に進むにつれて、1940年代までに、国家の政策に
   批判的な著名な知識人や指導者が次々と検挙・投獄され、国家に反する意見
   を公にすることは極めて困難になった。
           (大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.7-8)
    結局において、軍法会議から裁判の通知はおけないが、憲兵隊から死刑に
   なった、つまり死亡したということを知らされ、それによって死亡通知を書
   いた。裁判を省略されているという疑いが濃厚である。つまり、”略式処刑”
   というものは無かったとは言えないように思われるのである。判決書(ほか
   一切の訴訟記録)は存在しないうえにに前科通知もなされた形跡がない。本
   人が事実適法な裁判を受けたとする証拠はない。
        (NHK取材班・北博昭氏著『戦場の軍法会議』NHK出版、p.180)

         <日本の軍隊:兵士の人格と生命の完全な無視>
    自発性を持たない兵士を、近代的な散開戦術の中で戦闘に駆り立てるため
   には、命令にたいする絶対服従を強制する以外にはなかった。世界各国の軍
   隊に比べても、とくにきびしい規律と教育によって、絶対服従が習性になる
   まで訓練し、強制的に前線に向かわせようとしたのである。そのためには、
   平時から兵営内で、厳しい規律と苛酷な懲罰によって兵士に絶対服従を強制
   した。それは兵士に自分の頭で考える余裕を与えず、命令に機械的に服従す
   る習慣をつけさせるまで行なわれた。兵営内の内務班生活での非合理な習慣
   や私的制裁もそのためであった。「真空地帯」と呼ばれるような軍隊内での
   兵士の地位も、こうした絶対服従の強制のあらわれであった。このような兵
   士の人格の完全な無視が、日本軍隊の特色の一つである。すなわち厳しい規
   律と苛酷な懲罰によって、どんな命令にたいしても絶対に服従することを強
   制したのである。(藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、pp.4-5)
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    兵士の生命を尊重せず、生命を守る配慮に極端に欠けていたのが日本軍隊
   の特徴であった。圧倒的勝利に終った日清戦争をみてみると、日本陸軍の戦
   死、戦傷死者はわずか1417名に過ぎないのに、病死者はその10倍近くの11894
   名に達している。・・・これは軍陣衛生にたいする配慮が不足し、兵士に苛
   酷劣悪な衛生状態を強いた結果である。
    日清戦争では悪疫疾病に兵士を乾したが、日露戦争の場合は兵士を肉弾と
   して戦い、膨大な犠牲を出した。火力装備の劣る日本軍は、白兵突撃に頼る
   ばかりで、ロシア軍の砲弾の集中と、機関銃の斉射になぎ倒された。・・・
   旅順だけでなく、遼陽や奉天の会戦でも、日本軍は肉弾突撃をくりかえし、
   莫大な犠牲を払ってようやく勝利を得ている。・・・
    日露戦争後の日本軍は、科学技術の進歩、兵器の発達による殺傷威力の増
   大にもかかわらず、白兵突撃万能主義を堅持し、精神力こそ勝利の最大要素
   だと主張しつづけた。その点では第一次世界大戦の教訓も学ばなかった。兵
   士の生命の軽視を土台にした白兵突撃と精神主義の強調が、アジア太平洋戦
   争における大きな犠牲につながるのである。
    兵士の生命の軽視がもっとも極端に現れたのが、補給の無視であった。兵
   士の健康と生命を維持するために欠かせないのが、兵粘線の確保であり、補
   給、輸送の維持である。ところが精神主義を強調する日本軍には、補給、輸
   送についての配慮が乏しかった。「武士は食わねど高楊子」とか、「糧を敵
   に借る」という言葉が常用されたが、それは補給、輸送を無視して作戦を強
   行することになるのである。(藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』大月書
   店、pp.10-11)

            <権力は弱みをついて脅すのだ>
   「天皇のために戦争に征ったという人もいるが、それは言葉のはずみであっ
  て関係ないですね。それより、戦争を忌避したり、もし不始末でもしでかした
  ら、戸籍簿に赤線が引かれると教えられたので、そのほうが心配でしたね。自
  分の責任で、家族の者が非国民と呼ばれ、いわゆる村八分にあってはいけんと、
  まず家族のことを考えました」(戦艦『大和』の乗員表専之助氏の述懐)
         (辺見じゅん氏著『男たちの大和<下>』ハルキ文庫、p.276)

             <戦争は権力のオモチャだ>
   国家権力は国民に対する暴力装置であり、その性格は佞奸邪知。その行動原則
  は国民をして強制的、徹底的に情報・言論・行動・経済の国家統制の完遂を目論
  むことである。従って異論や権力に不都合な論評や様々な活動は抹殺、粛清され
  る。畢竟、国家権力とは、国民を蹂躙・愚弄・篭絡する「嘘と虚飾の体系」にほ
  かならないということになる。
   さらに言えば「戦争」は権力に群がる化物どものオモチャである。犠牲者は全
  てその対極に位置するおとなしい清廉で無辜の民。私たちは決して戦争を仕掛け
  てはならないことを永遠に肝に銘じておかなければならない。(筆者)

               <戦争は起きる>
   誰しも戦争には反対のはずである。だが、戦争は起きる。現に、今も世界のあ
  ちこちで起こっている。日本もまた戦争という魔物に呑みこまれないともかぎら
  ない。そのときは必ず、戦争を合理化する人間がまず現れる。それが大きな渦と
  なったとき、もはや抗す術はなくなってしまう。
           (辺見じゅん氏著『戦場から届いた遺書』文春文庫、p.13)

               <人間の屑と国賊>
   人間の屑とは、命といっしょに個人の自由を言われるままに国家に差し出して
  しまう輩である。国賊とは、勝ち目のない戦いに国と民を駆り立てる壮士風の愚
  者にほかならない。(丸山健二氏著『虹よ、冒涜の虹よ<下>』新潮文庫、p46)

               <軍人はバカだ>(古山高麗雄)
   軍人はバカだからです。勉強はできますよ。紙の上の戦争は研究していますよ。
  だけど人間によっぽど欠陥があったんですよ。(保阪正康氏著『昭和の空白を読
  み解く』講談社文庫、p.93)   

               <軽蔑する人たちは>(吉本隆明)
   ぼくの軽蔑する人たちは戦争がこやうと平和がこやうといつも無傷なのだ。
      (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.618からの孫引き)

        <戦争を扇動するのは>(ヴォーヴナルグ)
   戦争を扇動するのは悪徳の人で、実際に戦うのは美徳の人だ。
   (辻原登氏著『許されざるもの<上>』毎日新聞社、p.276)

              <非情な国家権力を弾劾する>(鶴彬)
          手と足をもいだ丸太にしてかへし
          コウリャンの実りへ戦車と靴の鋲
          胎内の動きを知るころ骨がつき
    鶴彬:本名喜多一二(かつじ)、M42生、プロレタリア・リアリズム「川柳」
   作家の先頭に立って軍国主義体制に抵抗。S12.12.3に治安維持法違反の容疑
   で逮捕された。留置場内で赤痢にかかり豊多摩病院に隔離され、S13.9.14未明
   にベッドに手錠をくくりつけられたまま獄死した。(荘子邦雄氏著『人間と
   戦争』朝日新聞出版、pp.280-282より)

           <内村鑑三「戦争廃止論」(1903年6月)>
   「余は日露非開戦論者であるばかりでない、戦争絶対的廃止論者である。戦争
  は人間を殺すことである、しこうして人を殺すことは大罪悪である、しこうして
  大罪悪を犯して個人も国家も永久に利益を収め得ようはずはない」
             (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、p.209)

           <戦争をなくす国にせなあかん>
  そういえばぼく、ハルビンで日本人が人民裁判にかかってるのを見ました。警察
 署長とか、特務機関の人がつかまってね。この人民裁判は、それに参加した人民が
 もう、”タース(殺せ)!”の一言ですよ。この人間はこういうことをしたから
 ”タース”人民裁判とはそんなものです。どっちにしたって、勝ったものが負けた
 ものを裁くのに、言い訳も何もない。だから戦争に負けた国の人間はあわれだ。自
 分たちがあわれな目に遭うてきたから、こんど、よその国をあわれな目に遭わせて
 いいと、そういうことは成り立たないから、ぼくらは日本を戦争をなくす国にせな
 あかん、と思う。(藤山寛美氏著『あほかいな』日本図書センター、p.81)

          <戦争は大資本家や大地主の金儲けのため>
   恥ずかしいことだが、今までおれは戦争は台風のように自然に起こるものだと
  ばかり思っていたが、とんでもないことだった。戦争は大資本家や大地主の金儲
  けのためだったのだ。直接の仕掛人は軍隊だが、彼らはそのうしろで巧妙に糸を
  引いていたのだ。表面では「聖戦」だの「東洋平和のため」などともっともらし
  いことを言いながら、その実、戦争は願ってもない金儲けの手段だったのだ。そ
  う言われれば、おれの乗っていた武蔵の場合にも、それがそのまま当てはまる。
   武蔵は三菱重工業株式会社長崎造船所でつくった艦だが、むろんあれだけの大
  艦だから、請け負った三菱はきっとしこたま儲けたにちがいない。おそらく儲け
  すぎて笑いがとまらなかったろう。しかもそれをつくった三菱の資本家たちは誰
  一人その武蔵に乗り組みはしなかった。それに乗せられたのは、たいていがおれ
  のような貧乏人の兵隊たちだったのだ。そしてその大半は武蔵と運命を共にした
  が、おれたちがシブヤン海で悪戦苦闘している間、三菱の資本家たちは何をして
  いたのか。おそらくやわらかな回転椅子にふかぶかと腰を沈めて葉巻でもふかし
  ながらつぎの金儲けでも考えていたのに違いない。
        (渡辺清氏著『砕かれた神』(岩波現代文庫)、p.247-248より)

    ◎儲けてゆくのはかれらだ。死んでゆくのはわれわれだ。
    (阿部浩己・鵜飼哲・森巣博氏著『戦争の克服』集英社新書、p.198より)
    ◎「尻ぬぐいをするのはいつでもイワンだ」(ロシアの諺、戦争を始めるの
     は資本家やファシストだが、尻ぬぐいをさせられるのは無名の兵隊だ)。
            (高杉一郎氏著『極光のかげに』岩波文庫、p.83より)

         <華族や政府の高位・高官は自己安全に狂奔していた>
   「金持や政財界で、死んだ人がいますか。憲兵や特高とつながりのあった有力
  者たちには、情報が流れている。長岡では、空襲のまえに避難勧告の伝単が多量
  にまかれていた。それなのに、一般の市民にはすこしもつたえられていない。神
  風が吹く、日本はかならず勝つ。こんなバカな宣伝をして市民を愚弄していたん
  じゃありませんか。そんな人たちはみな、捕虜収容所のほうへ逃げて助かってい
  るんだ。子供をもつ母親たちは、子供を抱きかかえたまま、死んだんじゃありま
  せんか。いまだに忘れられません。・・・」(長岡市、新保和雄氏の話より)
                 (近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.93)

              <ひっ殺してゆけと言った>
   私の連隊である戦車第一連隊は戦争の末期、満州から連隊ごと帰ってきて、北
  関東にいた。東京湾や相模湾に敵が上陸すれば出撃する任務をもたされていたが
  、もし敵が上陸したとして、「われわれが急ぎ南下する、そこへ東京都民が大八
  車に家財を積んで北へ逃げてくる。途中交通が混雑する。この場合はどうすれば
  よろしいのでありますか」と質問すると、大本営からきた少佐参謀が、「軍の作
  戦が先行する。国家のためである。ひっ殺してゆけ」といった。
               (司馬遼太郎氏著『歴史の中の日本』他より引用)

          <今後2千万人の日本人を殺す覚悟で・・・>
   会談中に大西軍令部次長が入室し、甚だ緊張した態度で雨総長に対し、米国の
  回答が満足であるとか不満足であるとか云ふのは事の末であつて根本は大元帥陛
  下が軍に対し信任を有せられないのである、それで陛下に対し斯く斯くの方法で
  勝利を得ると云ふ案を上奏した上にて御再考を仰ぐ必要がありますと述べ、更に
  今後二千万の日本人を殺す覚悟でこれを特攻として用ふれば決して負けはせぬと
  述べたが、流石に両総長も之れには一語を発しないので、次長は自分に対し外務
  大臣はどう考へられますと開いて来たので、自分は勝つことさえ確かなら何人も
  「ポツダム」宣言の如きものを受諾しようとは思はぬ筈だ、唯勝ち得るかどうか
  が問題だと云つて皆を残して外務省に赴いた。そこに集つて居た各公館からの電
  報及放送記録など見て益々切迫して来た状勢に目を通した上帰宅したが、途中車
  中で二千万の日本人を殺した所が総て機械や砲火の餉食とするに過ぎない、頑張
  り甲斐があるなら何んな苦難も忍ぶに差支へないが竹槍や拿弓では仕方がない、
  軍人が近代戦の特質を了解せぬのは余り烈しい、最早一日も遷延を許さぬ所迄来
  たから明日は首相の考案通り決定に導くことがどうしても必要だと感じた。
  (昭和20年8月13日、最高戦争指導会議でのできごとを東郷茂徳が日記に残してお
  り、上記引用は保阪正康氏著『<敗戦>と日本人』ちくま文庫、p.242-243より)

               <「散華」(さんげ)>
   「散華」とは四箇法要という複雑な仏教法義の一部として、仏を賞賛する意味
  で華をまき散らす事を指す。軍はこの語の意味を本来の意味とは全く懸け離れた
  ものに変え、戦死を「(桜の)花のように散る」ことであると美化するために利
  用したのである。 (大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』岩波書店より)

              <政府によって「殺された」>
   戦争の最大の皮肉は、若者たちが最期の瞬間が近づくにつれて、ますます愛国
  心を失ってゆくという事実である。入隊後の基地での生活を通じて、日本の軍国
  主義の真相を目のあたりにした若者たちは、情熱も気力も失いながら、もうどう
  しようもなく、死に突入して行った。
           (大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.35-36)
   隊員やその遺族が証言するように、彼らは政府によって「殺された」のである。
             (大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、p.49)
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            【対米従属への訣別のために】

   保守ナショナリストの間にも、対米従属状態への不満がないわけではない。し
  かし彼らの多くは、日米安保体制への抗議を回避し、「アメリカ人」や「白人」
  への反感という代償行為に流れてしまっている。彼らのもう一つの代償行為は、
  改憲や自衛隊増強の主張、そして歴史問題や靖国神社、国旗・国歌といったシン
  ボルの政治だが、これもアジア諸地域の反発を招き、さらに対米従属を引きおこ
  す結果となる。・・・アジア諸国の対日賠償要求をアメリカの政治力に頼って回
  避した時点から、日本の対米従属状態は決定的となったのである。
   さらに保守勢力の代償行為は、対米関係をも悪化させる。アメリカの世論には、
  日本の軍事大国化を懸念する声が強い。・・・さらに複雑なのは、対米軍事協力
  法案であるガイドライン関連法は、自衛隊幹部すら「要するに我々を米軍の荷物
  運びや基地警備など、使役に出す法律」だと認めているにもかかわらず、「日本
  の軍事大国化の徴候」として報道する米メディアが少なくなかったことである。
  そのため、第九条の改正はアメリカ政府の意向に沿っているにもかかわらず、米
  欧のメディア関係者の間では、「第九条を変えるとなれば、米欧メディアの激し
  い反応は確実」という観測が存在する。
   すなわち、対米従属への不満から改憲や自衛隊増強、あるいは歴史問題などに
  代償行為を求めれば求めるほど、アジア諸国から反発を買い、欧米の世論を刺激
  し、アメリカ政府への従属をいっそう深めるという悪循環が発生する。この悪循
  環を打破するには、アメリカ政府への従属状態から逃れてもアジアで独自行動が
  可能であるように、アジア諸地域との信頼関係を醸成してゆくしかない。その場
  合、第九条と対アジア戦後補償は、信頼醸成の有力な方法となるだろう。
          (小熊英二氏著氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.820)

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     【『超帝国主義国家アメリカの内幕』(国際収支赤字の克服戦略)】

   この新たな帝国主義の国家資本主義形態が目新しいのは、経済的余剰を吸い上
  げるのが国家自体だということだ。今日のドル本位制を通じて国際収支による搾
  取を推進するのは中央銀行であって、民間企業ではない。この金融的基軸通貨帝
  国主義を真の超帝国主義に変えるのは、すべての国ではなく一国だけに与えられ
  た赤字垂れ流しの特権である。信用創造の中心国の中央銀行(と、その外交官が
  支配する国際的通貨機関)のみが、他の衛星国の資産や輸出品を買い取るための
  信用を創造できるのだ。
   一方、この型の帝国主義は、資本主義に特有なものではない。ソビエト・ロシ
  アは、仲間の COMECON 諸国を搾取するために、貿易、投資、金融のル-ルをつ
  かさどる機関に支配権を行使していた。ルーブルの非交換性という条件のもとに
  、貿易の価格決定および支払システムを支配することで、ロシアは、アメリカが
  非交換性のドルを発行して仲間の資本主義国を搾取したのと同じく、中央ヨーロ
  ッパの経済的余剰を自分の懐に入れていた。ロシアが自国にきわめて都合のいい
  やり方で衛星国との貿易条件を決めていたのも、アメリカが第三世界に対して行
  っていたのと同じだった。ちがうのは、ロシアが燃料や原料を、アメリカが穀物
  やハイテク製品を輸出していたことぐらいである。戦術の集合として理論的に見
  れば、国家資本主義的帝国主義と官僚社会主義的なそれとは、政府間的な手段に
  頼るという点で互いに似通っている。アメリカと同じくソビエト・ロシアも自ら
  の同盟国をカで威圧したのである。
   ヤコブ・ブルクハルトは一世紀前にこう述べた。「国家は、政治や戦争、その
  他の大義、そして”進歩”のために負債を背負い込む・・・未来がその関係を永
  遠に尊んでくれると仮定するわけだ。商人や会社経営者から信用をいかにして食
  い物にするかを学んだ国家は、破綻に追いやれるものならやってみろと国民に挑
  戦する。あらゆるペテン師と並んで、国家は今やペテン師の最たるものとなって
  いる」。(マイケル・ハドソン『超帝国主義国家アメリカの内幕』広津倫子訳、
  徳間書店、pp59-60)
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1.歴史的考察
 (★:背景、◎:スローガン等、■:動き、☆:国民性・国民意識、※:注釈)

 ※国家あるいは権力者にとって、民(平民)の命なぞ考慮に値しないという精神
  は今も昔も変わらなく、時にはあからさまに、時には潜在して続いていること
  を、我々は決して忘れてはならない。

   ◎軍人勅諭「世論に惑わず政治に拘らず、只々一途に己が本文の忠節を守り、
    義は山獄よりも重く、死は鴻毛より軽しと覚悟せよ」、「下級のものは上
    官の命を承ること実は直に朕が命を承る義なりと心得よ」(明治15年、山
    県有朋)
   ◎教育勅語「天皇の尊厳、臣民の忠誠」「義勇公に奉ずべし」等(明治23年)
         -------------------------------------------
  ★天皇の「統帥大権」:旧憲法第十一条:「天皇は陸海軍を統帥す」
    この統帥大権は行政権の範疇外のものとなっており行政府とは別個に、天皇に
    直接隷属する統帥部がそれを管掌する仕組みだった。
   ※統帥部:参謀本部(陸軍)と軍令部(海軍)であり、そのそれぞれの長官たる
        参謀総長および軍令部総長が天皇の陸軍または海軍に対する統帥権の
        行使をそれぞれ輔翼(ほよく)した。
    (ちなみに輔弼(ほひつ):各国務大臣が天皇の行政権行使を輔佐すること) 
   ※ここにおいて行政府(=軍政、陸軍省と海軍省)と統帥部(参謀本部、軍令部)
    は、いずれも天皇に直属する並立の独立機関であった。(「統帥権の独立」)
  ★天皇の「編成大権」:旧憲法第十二条:「天皇は陸海軍の編成及常備兵額を定む」
   ※当時はこの条文を拡大解釈(?)し、軍の編制、装備、兵力量(統帥と軍政との
   「混成事項」)については、一般的には行政府(内閣=軍政)に帰属すべき一般
    行政権の範疇外に属するとみなされることが多かった。これにより統帥部は常
    に行政府(内閣=軍政)に口を出し、混成事項の決定に干渉し、この決定は閣議
    に付議する必要はなく内閣総理大臣に報告するだけという慣習があった。
                (以上、瀬島龍三『大東亜戦争の実相』より引用)
   ※統帥権の行使及びその結果に関しては議会において責任を負はず、議会は軍の
    統帥指揮並びに之が結果に関し質問を提起し、弁明を求め、又はこれを糾弾し、
    論難するの権利を有せず。(陸大で教えられた『統帥参考』より。保阪正康氏
    著書『あの戦争は何だったのか』新潮新書、p.25)
  ★参謀総長の「帷幄上奏権」
     欽定憲法体制の下では、内閣の承認抜きに、軍事上の決定んいついて天皇の
    裁可を求める権限が参謀総長には、認められていた。この権限は、軍は内閣、
    議会の指示を受けず、また責任も負わず、軍の最高指揮権および命令権をもつ
    天皇に直属するとする天皇の統帥権独立に由来するものであった。
  ★天皇制国家は、天皇の「神聖不可侵」を原則とし、天皇の責任を問うことができ
   ない「君主無答責」の建前をとっていた。すべての行為は指揮命令系統にもとづ
   くものとしながら、最高責任者である天皇は責任を問われないという無責任きわ
   まりない体系であった。つまり責任はすべて指揮官にありながら、最高指揮官で
   ある天皇に責任はないという矛盾にみちた原理に立っていたのである。
             (藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、p.13)

  ※敗戦(昭和20年)までの「天皇制」は、それを利用した軍部や軍属属僚にとって
   は国民に対する「暴力機関」だったと公言しても、言い過ぎではないと筆者は思
   うのである。
          【天皇制イデオロギーの二面性】(久野収)
    (群小思想家のひとりにすぎない)久野収も、戦前の天皇制イデオロギ
   ー体系を宗教になぞらえて説明している。それは、天皇制イデオロギーの
   二側面を仏教の顕教と密教に見立てたもので、確かに巧みな譬喩であり、
   今に至るまで一種の定説と化している。
   1956年の『現代日本の思想』(岩波新書)が、顕教密教という譬喩の出て
   くる最も初期の著作である。・・(中略)・・。少し長くなるが、次に引
   用してみよう。
    「天皇は、国民全体にむかってこそ、絶対的権威、絶対的主体としてあ
   らわれ、初等・中等の国民教育、特に軍隊教育は、天皇のこの性格を国民
   の中に徹底的にしみこませ、ほとんど国民の第二の天性に仕あげるほど強
   力に作用した。
   しかし、天皇の側近や周囲の輔弼機関からみれば、天皇の権威はむしろ
   シンボル的・名目的権威であり、天皇の実質的権力は、機関の担当者がほ
   とんど全面的に分割し、代行するシステムが作りだされた。
   注目すべきは、天皇の棒威と権力が、『顕教』と『密教』、通俗的と高
   等的の二様に解釈され、この二様の解釈の微妙な運営的調和の上に、伊藤
   〔博文〕の作った明治日本の国家がなりたっていたことである。顕教とは
   、天皇を無限の権威と権力を持つ絶対君主とみる解釈のシステム、密教t
   は天皇の権威と権力を憲法その他によって限界づけられた制限君主とみる
   解釈のシステムである。はっきりいえば、国民全体には、天皇を絶対君主
   として信奉させ、この国民エネルギーを国政に動員した上で、国政を運用
   する秘訣としては、立憲君主説、すなわち天皇国家最高機関説を採用する
   という仕方である」
    要するに、戦前の天皇制は一般国民には、神のごとき絶対的権威として
   現れ、国政の枢要を担う高学歴エリート層には、単なる制度・機関にすぎ
   なかった、ということである。顕教密教とは、日本では空海が明確化した
   仏教上の教理概念で、広く衆生にも理解されるように顕らかに説かれたの
   が顕教、真理が理解できる者にのみ密かに説かれたのが密教、という区分
   である。天皇性にも同じ二側面が観察でき、尋常小学校卒業程度の大多数
   の国民には、顕教として天皇は神であると教え、高等教育を受けるエリー
   トには、密教として、天皇は神ならぬ単なる機関にすぎないと教える。こ
   れが天皇制イデオロギーの狡知である、と久野収は言うのだ。
    久野収の見事な説明に、私は異論を唱える必要を感じない。というのは、
   天皇制イデオロギーの二面制については、顕教密教という言葉こそ使って
   いないものの、戦前に教育を受けた多くの人がそう認識しているからであ
   る。しかも、久野のような”革新的”な人ばかりでなく、”保守的”な人
   も同じようにそう認識している。(呉智英氏著『危険な思想家』メディア
   ワークス、pp.160-161)

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   ◎【富国強兵・殖産興業への道】
     徳川時代のものと隔絶して作られた新しい無私無謬の「官僚制度」の主導の
    もとで近代工業社会への三つの施策が推進されていった。
              (この三つの制度はだいたい昭和16年頃に完成した)。
     1.資本蓄積:銀行制度、郵便貯金制度
      ※国民の持つ金を吸い上げる制度
     2.全国同一規格の統一大市場の形成(規格大量生産を目指す)
      ※輸送と情報の統一:郵便、鉄道、海運、教育の統一。近代的度量衡
                (メートル法)を採用
     3.人材育成:大量生産現場で働くための、辛抱強さ・協調性・共通の知識
           と技能の保持。この三条件を備えた人材育成が目論まれた。
      ※独創性や個性のない人材を育成するための教育制度が作られていった。
   ◎選挙権について
      国会に国民を代表する衆議院を置き、地租15円以上の納税者45万人、
     全人口の約1%に選挙権を与えた。これを手始めに普通選挙の推進が始まり
     普通選挙法(1925年)を経て政党政治は躍進した(1905より~1930頃まで)
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    ●明治30年(1897年)、日本が金本位制を導入(松方正義)したとき金0.75g
     を1円とした。(2009.3.31日、金1g=3100円、円/ドル=97円。1円は2009年
     の2325円に相当)
    ●北清事変(義和団事件)(1900年6月)
      義和拳と白蓮教の流れをくむ義和団が「扶清滅洋」をスローガンに清国
     を侵略・分割した各帝国に半旗を翻し、1900年6月には日本とドイツの外
     交官を殺害した。大軍を送ることができたのはロシアと日本(イギリスは
     ボーア戦争で、アメリカはフィリピンで紛争をかかえて忙しかった)のみ
     で、結局義和団は鎮圧され、西太后と光諸帝は都落ちして逃げた。
      この戦争で日本は連合軍の2/3にあたる22000人の兵士を派遣し、初めて
     アジアに関する国際問題で欧米列強と共同歩調を取った。
            (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.65-68)
    ●従軍記者光永星郎が”電報通信社”(現『電通』)を設立
    ●石油時代の幕開け(1901年1月10日)
      アメリカ、テキサス州ボーモント郊外のスピンドルトップという小さな
     丘から原油の大量の噴出(ハミル兄弟の快挙)
        (ポール・ロバーツ『石油の終焉』久保恵美子訳、光文社、p.58)
    ・ロックフェラー医学研究所設立(1901年1月)
    ●現代サウジアラビアの成立(1902年)
      クウェートに亡命していたサウード家のアブドゥルアジーズによるリャ
     ード奪還。この第三次サウード王朝がアラビア半島の大半を平定し1932年
      9月にサウジアラビア王国と名前を変えた。
              (保阪修司氏著『サウジアラビア』岩波新書、p.10)
    ●1903年ヘンリー・フォードがガソリン・エンジンを搭載したモデルAを導入
      エネルギーの主役は徐々に石炭から石油に変わりつつあった。
     (スタンダード・オイル(ロック・フェラー所有)、ロイヤル・ダッチ・
      シェル、ブリティシュ・ペトロリアムなどが有名)
               <世界の石油需要>
             ・1900年   50万バレル/年
             ・1915年  125万バレル/年
             ・1929年  400万バレル/年
    ●福沢諭吉没(明治34年(1901)2月3日、脳出血、享年66歳)
       「宇宙の間に我地球の存在するは大海に浮べる芥子の一粒と云ふも
      中々おろかなり。吾々の名づけて人間と称する動物は、此芥子粒の上
      に生れ又死するものにして、生れて其生るる所以を知らず、死して其
      死する所以を知らず、由て来る所を知らず、去て往く所を知らず、五、
      六尺の身体僅かに百年の寿命も得難し、塵の如く埃の如く、溜水(た
      まりみず)に浮沈する孑孑(ぼうふら)の如し」
               (岳真也氏著『福沢諭吉(3)』、作品社、p.403)
    ●奥村五百子が近衛篤麿の後援を得て”愛国婦人会”を結成。(1901年2月)
       ”愛国婦人会”は1937年には会員数338万6000人と公称されたが、
     1942年には大政翼賛会の下部組織の”大日本婦人会”に統合された。
     (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.71-73)
    ●日英同盟が成立(1902年1月)
      これによってイギリスは清国に、日本は満州を含む清国と韓国に対し
     て特殊権益をもつことを相互に承認し、一国が交戦した場合には他の国
     は中立を保って他国の参戦防止に努めること、またもし第三国が参戦し
     た場合には締約国は参戦して同盟国を援助することとなりました。この
     ことは、日露が交戦した場合にも、露仏同盟を結んでいるフランスの参
     戦を抑える効果をもち、またイギリスでの戦費調達のための外債募集が
     可能となったことを意味しています。
              (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、p.98)
    ●ライト兄弟、飛行機で世界初飛行。(1903年、明治36年12月17日)
    ●第二インターナショナル(1904年8月)
      また、1904年8月、オランダのアムステルダムで開催された第二インタ
     ーナショナル(国際社会主義者大会)第6回大会に出席した片山潜は、ロ
     シア代表プレハーノフとともに副議長に選出され、ともに自国政府の戦争
     に反対する非戦の握手をかわしました。大会では、つづいてフランス代表
     から提出された「日露戦争反対決議案」を満場一致で可決しています。こ
     うした世界各国の社会主義者との交流については、『平民新聞』に「日露
     社会党の握手」、「万国社会党大会」などの記事によって詳細に報告され
     ていました。
      置かれた状況の違いによって手段もまた異ならざるをえなかったにせよ、
     日露戦争の時代、日露両国の社会主義者によって、反戦・非戦活動のため
     の連帯の声が交わされていたのです。そして、本格化しはじめた日本の社
     会主義運動が、貧富の格差是正と生産手段の公有という本来の目的と並ん
     で、戦争に反対する非戦・反戦運動として展開せざるをえなかったのは、
     戦場に送られて死を強制され、しかも戦費の負担を強いられるなど、戦争
     の災厄を最も過酷な形で押し付けられるのが労働者と農民であったことか
     らすれば必然的なことであったのです。
      (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.180-181)
    ●東清鉄道(チタ==ウラジオストク)経由のシベリア鉄道が全通
     (1904年9月)し、日本軍の作戦展開の大きな脅威となった。
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   ◎明治の医師養成制度
      明治36年までは医師になるには、大学の医学部を卒業するほかに、医術
     開業試験を直接受験するという制度があった。済生学舎はその受験のため
     の医学校だった。しかしこの学校は専門学校令公布とともに明治36年突然
     閉校になった。(帝大閥の牛耳る医学界において済生学舎出は徹底的に差
     別されていた。野口英世はその顕著な一例)
            (浅田次郎氏著『壬生義士伝』、文藝春秋、pp.112-115)
        ----------------------------------------
  ☆気がついたときは戦争になっていた。
     こうして主戦論の浸透は、事実以上にロシアに対する脅威感をあおり、
    同時に政府を「恐露病」と罵倒することになります。原敬によれば、こう
    した批判にさらされた政府もまた「少数の論者を除くのほかは、内心戦争
    を好まずして、しかして実際には戦争の日々近寄るもののごとし」(『原
    敬日記』1904年2月5日)という自制のきかない状況に自らも落ち込んでい
    く様子を率直に告白しています。原はまた表面的には開戦論が世論を指導
    していたようにみえて実態とは異なっていたことを「我国民の多数は戦争
    を欲せざりしは事実なり。政府が最初七博士をして露国討伐論を唱えしめ、
    また対露同志会などを組織せしめて頻りに強硬論を唱えしめたるは、かく
    してもって露国を威圧し、因てもって日露協商を成立せしめんと企てたる
    も、意外にも開戦に至らざるをえざる行掛を生じたるもののごとし。...
    しかして一般国民、なかんづく実業者は最も戦争を厭うも、表面これを唱
    うる勇気なし。かくのごとき次第にて国民心ならずも戦争に馴致せしもの
    なり」(『原敬日記』1904年2月1言日)と観察していました。
     ここには、戦争に踏み込むときの、自分でも望んでもいないにもかかわ
    らず、制御しきれないままに、流されていって取り返しがつかなくなると
    いう心理過程が示されているのではないでしょうか。そして、このように
    自らが決断したという明確な自覚もないままに、戦争がいつの間にか近寄
    ってきて、「気がついたときには戦争になっていた」という思いのなかで、
    多くの日本人は日露戦争を迎え、さらにその後も同じような雰囲気のなか
    で「流されるように」いくつかの事変と戦争へと突入していくことになり
    ます。(山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.108-109)

1905年(明治38年):日露戦争(国家存亡の戦い、1904.2.8~1905.9.5)
    日本の背後ににはイギリス、アメリカ、ロシアの背後にドイツ、フランス
   のある帝国主義戦争であり、その餌食となったのは朝鮮や中国であった。
            (藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、p.8)
   ※日露戦争の歴史的意味
      この一連の過程、すなわち日本が韓国保護国化の権利を獲得するため
     に、アメリカとはフィリピン、イギリスとはインドなどの植民地支配と
     を、その対象国の意志とは全く無関係に交換条件として決定した過程に
     こそ、日露戦争の歴史的意味が示されています。また、ポーツマス条約
     においても遼東半島の租借権などを、これまた主権をもっていたはずの
     清国の意志とは無関係に、ロシアから譲渡させましたが、清国に中立を
     宣言させたのも、この講和条件に関与させないためでした。しかも、日
     本は日露開戦直後、清国に対して「戦争の終局において毫も大清国の土
     地を占領するの意志なき」(『日本外交文書』日露戦争I、第690号文書)
     旨を通告していたのですから、これにも違約します。
       (以上、山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.130-131)
            ・日本連合艦隊が旅順港外のロシア艦隊攻撃(1904.2.8)
            ・ロシアに宣戦布告(1904.2.10)
            ・第二回旅順港閉鎖作戦(1904.3.27):広瀬武夫戦死
            ・乃木希典、遼東半島上陸(1904.6.6)
            ・旅順のロシア軍要塞攻撃開始(1904.7.26)
            ・遼陽会戦(1904.8.25)
            ・徴兵令改正、後備兵役10年に延長(1904.9.28)
            ・沙河会戦始まる(1904.10.9)
            ・児玉源太郎総参謀総長、第三軍司令部到着(1904.12.1)
            ・第三軍、203高地を占領(1904.12.5)
            ・旅順のロシア艦隊壊滅(1904.12.15)
            ・奉天会戦~奉天占領(1905.3.1~3.10)
            ・日本海海戦(1905.5.27)
            ・黒海で戦艦ポチョムキンの反乱(1905.6.27)
            ・樺太ロシア軍降伏(1905.7.31)
            ・ポーツマスで講和条約締結(1905.9.5)
            ・日露講和条約批准(1905.10.14)
                   ****************
            ・第二次日韓協約(1905.11.17)
              韓国では乙巳(ウルサ)条約といい、これに賛成した
             大臣たちは5人は乙巳五賊(ウルサオジョク)と言われ
             て今でも非難されている。(この項、山室信一氏著『日
             露戦争の世紀』岩波新書、p.132より)
   ※日露戦争後の人種問題
      日露戦争後において人種問題が現実的な意味をもったのは、ドイツより
     もアメリカやオーストラリアなどでした。日露戦後の対日感情の悪化と日
     本の興隆に対する恐怖心が、アメリカの日本人移民への攻撃に利用されま
     す。早くも1906年にはカリフォルニアでの日本人学童の入学拒否や州議会
     での日本移民制限決議などの動きが出、1924年の日本人労働者の低賃金と
     ストを理由とする日本人排斥移民法の成立へと至ります。また、地理的に
     近接しているために日本からの脅威を強く感じていたオーストラリアでは、
     日露戦後に首相ディーキンによって「北太平洋の黄色人種」への不信が表
     明され、白豪主義による黄色人種の締め出し政策が採られました。さらに、
     ニュージーランド、南アフリカでも日本人移民が禁止され、カナダでも入
     国が制限されることになっていきました。
      こうして黄禍論という明確な表明はされなくとも、人種的な偏見が政策
     に反映されたのも20世紀の特徴のひとつでした。太平洋戦争は、「鬼畜」
     や「黄色で野蛮な小牧い猿」と相互が痛罵しあうことで戦意を高めながら
     戦われた人種戦争となりましたが、その戦争に至るまでにも、人種的偏見
     による紛議が陰に陽に積み重なってきていたわけです。
      しかし、そうであったからこそ、日本は同じ黄色人種のアジア諸民族と
     も距離をとるような外交政策を採らざるをえなくなります。なぜなら、日
     露戦争での勝利は、日本が必死で否定していた欧米とアジアとの対立とい
     う構図をさらに浮きあがらせる結果となったため、日本は黄禍論を否定す
     るためにも外交的にはアジアと意識的に距離をとり、欧米との協調路線を
     とらざるをえないというディレンマに陥ったからです。そして、欧米との
     同盟や協定などに従ってアジア諸民族の独立運動を抑圧し、「アジアの公
敵」とみなされていきました。
      しかしながら、1930年代以降の中国への進攻によって、欧米との敵対が
     避けられなくなったとき、日本は再び「黄色人種の指導者」「アジアの盟
     主」として自らを位置づけ、植民地からの欧米追放を訴えて、「大東亜戦
     争」を戦うための名目とせざるをえなかったのです。
       (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.153-154)
       -------------------------------------------------------------
                 <余談:千人針>
        愛国婦人会(奥村五百子、1901年2月)などの活動として知
       られる千人針の風習が本格化したのは、日靂戦争の時からでし
       た。千人針は千人結びともいい、出征兵士の武運長久を祈るた
       めに、白木綿の布に千人の女性が赤糸で一針ずつ縫って千個の
       縫玉を作って贈るものでした。これは「虎は千里往って、千里
       還る」との故事からうまれ、寅年生まれの女性に年齢の数を縫
       ってもらえばさらに効果があるといわれました。赤い糸そのも
       のにも災厄をよける意味がこめられていたと思われます。昭和
       になると五銭と十銭の穴あき硬貨をかがりつけて「死線(四銭)
       を越えて、苦戦(九銭)を免れる」という語呂合わせで無事を
       祈りました。
        危難にむかう人のために、多くの人が力を合わせて無事や幸
       運の祈願をこめるものとして、千という字は象徴的意味をもち
       ました。古来長寿の動物とされた鶴が千羽そろったものがこと
       さら吉兆とされたことに由来する千羽鶴もそのひとつであり、
       第二次世界大戦後には病気平癒や平和を祈って折られるように
       なりました。
        (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.73-74)

  ★【国家が命を翻弄した時代】:軍神(?)乃木希典による命の無駄使い。
            (100万人の日本兵動員、死者約12万人といわれる)
      <茂沢祐作『ある歩兵の日露戦争従軍日記』草思社、p.168より>
        ・・・糧食の給与を受けることが出来ないので、この次の
       兵站部へ行くことを急いで、午前八時頃に舎を出かけ三道溝
       の糧餉部へ行ったが、ここは取次所で分配出来ぬとにべもな
       くはねつけられ、仕方なくなく吸足(びっこ)を引きずった。
       ・・・稷台沖まで来たら糧餉部があったから給与を願ったら、
       酔顔紅を呈した主計殿と計手殿がおられて、糧食物はやられ
       ぬが米だけなら渡してやろうとの仰せありがたく、同連隊の
       兵三名分一升八合の精米を受領証を出してもらい受け、敬礼
       して事務室を出たが、その時にカマスに入った精肉と、食卓
       の上のビフテキ、何だか知らぬが箱入りの缶詰をたくさん見
       た。あれは何にするのであろう。飾っておくのかしらん。一
       同が今日六里ばかりの行軍に疲れたので、舎を求めて夕食を
       食べるとすぐに寝た。
      (筆者注:戦場では、ごまめの一兵卒はいつも空腹で使い捨て
           なのである)。
  ☆国民性・国民意識:「勤勉」・「努力」・「忍耐」
  (この頃は、あるいは強制的に作られたかも知れないが、自己を律する高邁な意識
   があった)。
    ●日露講和会議(ポーツマス):米大統領ルーズベルトの好意ある斡旋
       1.旅順と大連の租借権の取得
       2.南満州鉄道の入手
       3.樺太の南半分の獲得
      (明治38年9月5日調印、10月16日批准して公布)
           ---------------------------------  
      ※ (日本の)調子狂いは、ここからはじまった。大群衆の叫びは、
        平和の値段が安すぎるというものであった。講和条約を破棄せよ、
        戦争を継続せよ、と叫んだ。「国民新聞」(社長は徳富蘇峰)を
        除く各新聞はこぞってこの気分を煽りたてた。ついに日比谷公園
        で開かれた全国大会は、参集するもの三万といわれた。かれらは
        暴徒化し、警察署二、交番二一九、教会一三、民家五三を焼き、
        一時は無政府状態におちいった。政府はついに戒厳令を布かざる
        をえなくなったほどであった。
          (司馬遼太郎氏著『この国のかたち<一>』より引用)
           ---------------------------------  

    ●第二次日韓条約(韓国保護条約、1905年8月22日、明治38年):日韓併合
       京城(漢城)の日本の韓国統監府(初代統監、伊藤博文)がおかれたが
      これに伴い、韓国の各地で激しい反日運動が起こった。
     ※日本は自らの独立を守ることを、近代のとば口で自らに誓った。その誓い
      は、道義的には、他者の独立もまた尊重するべきものでなければならない
      はずである。だが、日本はその道義を破った。・・・「道義」を踏みにじ
      らなければ生きて行けない、という自覚を、日本は近代の中で身につけて
      しまった。(福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)
     ※内村鑑三「日露戦争より余が受けし利益」
       日露戦争直後の1905年11月、内村は「日露戦争より余が受けし利益」
      という演説において、「日清戦争はその名は東洋平和のためでありまし
      た。然るにこの戦争は更に大なる日露戦争を生みました。日露戦争も東
      洋平和のためでありました。然しこれまた更に更に大なる東洋平和のた
      めの戦争を生むのであろうと思います。戦争は飽き足らざる野獣であり
      ます。彼は人間の血を飲めば飲むほど、更に多く飲まんと欲するもので
      あります」と述べて、「東洋平和のため」という名目による主戦論のさ
      らなる肥大化を懸念します。
       その後の歴史の推移を知っている私たちには、この予言は的確な洞察
      を含んだものとして響きますが、日露戦勝に歓喜していた当時の日本人
      の多くにとっては、内村の指摘など単なる空言にすぎなかったのでしょ
      う。なぜなら、戦勝の意義や戦争というものの本質とは何か、を省みる
      よりも、勝利によって勝ち得た韓国や南満州における権益をいかに維持
      し、拡大していくか、のほうがはるかに切実な「現実問題」として現れ
      てきていたからです。
       そして、統治する空間が拡大したことは、その先により広い空間の獲
      得を要求することになります。しかも、それは山県有朋の主権戦と利益
      線の議論がそうであったように、けっして植民地獲得のための拡張とし
      てではなく、あくまでも自国防衛のためとして正当化されます。日露戦
      争の開戦にあたって「自個生存の権利のために戦うなり。満州守らざれ
      ば朝鮮守らず、朝鮮守らざれば帝国守らざればなり」(「宣戦の大詔を
      捧読す」1904年2月)として、それを自存のための戦争と唱えた徳富蘇峰
      は、韓国を併合すると、つぎには「日本の防衛は、朝鮮においてし、朝
      鮮の防衛は南満洲においてし、南清洲の防衛は内蒙古においてす」(「
      満蒙経営1913年)として、清洲から内蒙古への拡張を主張します。そし
      て、中国の主権回復運動にさらされると、「満蒙は日本の生命線」とし
      て死守することが日本生存のための唯一の道とされ、それが1931年の満
      州事変を引きおこし、満洲国を作るとそれを守るために華北を越え、さ
      らに中国全土へと戦線を拡張していかざるをえない、という間断なき戦
      争の連鎖を引きおこしていったのです。そして、いったん領土拡張が自
      己目的化してしまえば、それがなんのためなのか、という意味を問い直
      すことさえできなくなります。
       (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.206-207)
    ・数々の王族や文豪を苦しめた梅毒の病原体(スピロヘータ・パリダ--->トレ
     ポネーマ・パリドゥム)が発見された。(シャウデン、ホフマン、シュル
     ツェ)(1905年5月24日)

1906年(明治39年) 
       ■「医師法」制定。
         第8条:「医師は医師会を設立することを得、医師会に関する
              規程は内務大臣之を定む」
       ■各府県に医師会が相次いで誕生。

  ★ロシアも日本も互いに仮想敵国として軍備や軍事施設を充実し、日本は徐々に
   軍事主導国家に変貌していった。
     ※ 明治40年(1907年)の国家予算は6億3500万円で、そのうち陸軍関係は
      1億1100万円、海軍関係は8200万円で、軍事費比率は31%に達していた。
      明治40年代からは、日本の軍事費比率はつねに30%以上になった。
          (保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<上>』より引用)

    ・世界最初の軍用機ライト・ミリタリー・フライヤーが作られた。
                             (1908年、明治41年)
    ・ワッセルマンが梅毒の血清反応による診断法(ワッセルマン反応)を確立
    ●イギリスが海軍全艦の動力源を石炭から石油に切り替えた。(1908年)
      ドイツに対抗するためで、原油資源のないイギリスにとっては大きな賭
     けだった。これ以来イギリスは中東からの石油の安定供給のため、地中海
     に海軍を配備した。・・・中東ではヨーロッパやアメリカの外交官が、石
     油をもっと入手しやすくするため一部の国境を変更した。こうした国境改
     定がとくに盛んだった時期に、フランスのある外交官は、いみじくもこう
     発言した。「石油を制する者、世界を制す」。
     (ポール・ロバーツ『石油の終焉』久保恵美子訳、光文社、pp.68-69)

1907年(明治40年)
  ★「帝国国防方針」策定。同時に精神主義・精神教育の徹底
     さて、陸軍は日露講和を「やや長期なる休戦」と考えて再度の日露戦争を
    想定し、海軍は満洲をめぐる対立からアメリカを仮想敵国とした大建艦計画
    をたてていました。これに基づいて1907年、初めて策定されたのが「帝国国
    防方針」です。そこでは「一旦有事の日に当たりては、島帝国内において作
    戦するがごとき国防を取るを許さず、必ずや海外において攻勢を取るに在ら
    ざれば我が国防を全うする能わず」として、それまでの防衛型の守備方針か
    ら外征型の前方進出方針へと転換しました。そして、「将来の敵と想定すべ
    きものは露国を第一とし、米、独、仏の諸国これに次ぐ」と仮想敵国を明示
    しました。つまり、日露戦勝によって「第一等国」となったということは、
    世界最強の国家にも匹敵できる軍備を備えることと考えられたのです。しか
    し、軍備の拡張とともに政府が留意したのは、次なる戦争を遂行していくた
    めの国民をいかに形成していくかという問題でした。
     その国民形成のためには現行の教育体制では「道徳および国民教育の基礎
    を作り、国民の生活に必要なる普通教育の知識・技能を得せしめんこと頗る
    困難」として、1908年から義務教育年限を4年から6年に延長しましたが、こ
    の体制は1947年に義務教育9年制になるまで続きます。また、日露戦争中の
    1904年4月から小学校教科書は、文部省が著作権をもつ国定教科書になり、忠
    君愛国や滅私奉公を軸とした臣民の育成が図られました。
     さらに、日露戦争から得た戦訓として、いかに軍備の拡張を図るにしても
    日本の国力では消耗戦に耐えられない以上、これを精神力で補うしかないと
    いう方針が採られます。1908年の『軍隊内務書改正理由書』には、「未来の
    戦闘においても吾人は、とうてい敵に対して優勢の兵力を向くること能わざ
    るべし。兵器、器具、材料また常に敵に比して精鋭を期すること能わず。吾
    人はいずれの戦場においても寡少の兵力と劣等の兵器とをもって無理押しに
    戦捷の光栄を獲得せざるべからず。これを吾人平素の覚悟とするにおいて、
    精神教育の必要なること一層の深大を加えたること明らかなり」とあります
    ように、精神教育によって「物質的威力を凌駕する」という日本軍隊の特徴
    がうまれてきます。この精袖教育が、1882年の『軍人勅論』で強調された「
    死は鴻毛(鴻の羽毛、きわめて軽いことのたとえ)よりも軽しと覚悟せよ」
    という天皇の命令と接合して、兵士は「一銭五厘」の郵便料金の召集令状(
    赤紙)でいくらでも召集できるという使い捨ての思想となるとともに、軍隊
    内での私的制裁が日常化し、さらには捕虜などに対するビンタ(平手打ち)
    などの虐待をうむ土壌となったのです。
     こうして、日露戦争で砲弾の補給不足に悩んだ陸軍は、火力が補充できな
    い場合においても刀、銃剣などによって敵を斬り、突き刺して戦う白兵戦を
    重視する方針をとります。
     (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.212-213)

1909年(明治42年):この年までに日本の主要鉄道網が完成
      この時期をきっかけとして日本資本主義が商品経済の支配網を全国のす
     みずみまで作り上げ、自給自足をたてまえの古い部落組織をつき崩しはじ
     めた。

    ・伊藤博文がハルピンの駅頭で強烈な反日主義者安重根に暗殺される。
                           (1909年、明治42年10月)
    ●渋沢栄一(1840~1931)の偉業(明治42年に古稀を迎えた)
      「金銭資産は、仕事の滓である。滓をできるだけ多く貯えようと
      するものはいたずらに糞土のかさねを築いているだけである」。

        明治四十二年六月、古稀を迎えた栄一は、第一銀行、東京貯蓄
       銀行、東京銀行集会所などもっとも関係の深いものをのぞき、こ
       れまで関係していた企業から退任することを発表した。
        取締役会長として在任したもの。
        東京瓦斯会社、東京石川島造船所、東京人造肥料会社、帝国ホ
       テル、東京製綱会社、東京帽子会社、日本煉瓦製造会社、磐城炭
       鉱会社、三重紡績会社、日韓瓦斯会社。
        取締役として在任したもの。
       大日本麦酒会社、日本郵船会社、東京海上保険会社、高等演芸場、
       日清汽船会社、東明火災保険会社。
        監査役として在任したもの。
        日本興業銀行、十勝開墾会社、浅野セメント会社、沖商会、汽
       車製造会社。
        相談役として在任したもの。
        北越鉄道会社、大阪紡績会社、浦賀船渠会社、京都織物会社、
       広島水力電気会社、函館船渠会社、日本醍酸製造会社、小樽木材
       会社、中央製紙会社、東亜製粉会社、日英銀行、萬歳生命保険会
       社、名古屋瓦斯会社、營口水道電気会社、明治製糖会社、京都電
       気会社、東海倉庫会社、東京毛織会社、大日本塩業会社、日新生
       命保険会社、品川白煉瓦会社、韓国倉庫会社、日本皮革会社、木
       曽興業会社、帝国ヘット会社、二十銀行、大日本遠洋漁業会社、
       帝国商業銀行、七十七銀行。
        顧問として在任したもの。
        日本醤油会社、石狩石炭会社、東洋硝子会社。
        この外に、京釜鉄道会社清算人、日活火災保険会社創立委員長、
       大船渡築港会社創立委員長、東武煉瓦創立委員長、日英水力会社
       創立委員長、韓国興業会社監督創立委員長などの役職を辞任した。
       これらの諸事業のほか、関係を絶った小企業の数はおびただしか
       った。
       (津本陽氏『小説渋沢栄一<下> 虹を見ていた』NHK出版、p.305)

  ★歩兵重視の肉弾攻撃の強要。死を恐れぬ精神力の鍛錬。
     ※ 歩兵操典(明治40年11月)の綱領第3項より
        「攻撃精神は忠君愛国の至誠と献身殉国も大節とより発する
        精華なり。武技之に依りて精を致し、教練之に依りて光を放
        ち、戦闘之に依りて捷を奏す、蓋し勝敗の数は必ずしも兵力
        の多寡に依らず、精練にして且攻撃精神に富める軍隊は毎に
        寡を以て衆を破ることを得るものなり」
          (保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<上>』より孫引き)

1910年(明治43年)
  ★帝国在郷軍人会創設
    日露戦争前後から各地につくられはじめた予・後備兵と町村有志の親睦団
   体であった尚武会や軍人会、軍人共励会などを統合する全国統一組織として、
   陸軍省の指導下に1910年、帝国在郷軍人会が創設されます。在郷軍人会は「
   軍隊と国民とを結合する最も善良なる連鎖となる」ことを目的に掲げ、郷土
   の名誉という観念をより所にして、軍人精神の鍛錬と軍事知識の増進によっ
   て戦時動員を準備します。また、会員の相互扶助、軍人遺族の救護などの活
   動を進めました。当初は陸軍のみの組織でしたが、1914年からは海軍を含む
   ことになり、以後、国民思想の統制にも積極的に関与していきます。そして、
   1935年の天皇機関説事件においては機関説撲滅運動や国体明徽運動を展開し、
   満洲への武装移民の送出にも積極的に関与していきます。1936年には在郷軍
   人会令が公布されて、戦時下の国民の動員と統合の主体としての役割を担い
   ましたが、それは日露戦後から進められてきた義務教育-ー青年会ー-徴兵
   ー-在郷軍人会を通じて全土を兵営とし、軍隊内の秩序を社会にもちこんで
   国民を「良兵良民」として、生涯にわたって管理していく体制をつくること
   に他なりませんでした。
    そして、1941年1月に東條英機陸相によって示達された「戦陣訓」で、「恥
   を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思い、愈々奮励してその期待に答う
   べし。生きて虜囚の辱を受けず。死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」と説か
   れたように、良兵とは、捕虜となることを恥として、戦って死ぬことを厭わ
   ない兵士のこととされました。それを内面化するために郷党や家門に対する
   「恥」を常に意識させる必要があったのです。
    (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.214-215)

    ●韓国併合(1910年、明治43年8月):朝鮮統督府設置(初代統督、寺内正毅)
      韓国に対する統治方法の問題点(奥宮正武氏『大東亜戦争』より)
       1.日本政府は、併合と同時に、それまでの韓国の領土の名称を朝鮮と
        改めてしまった。
       2.日本の国家神道を朝鮮人に強制した。そして、京城の中心部にある
        高台に朝鮮神宮を建立した。
       3.日本語の学習を義務づけ、韓国語による教育を制限した。
       4.朝鮮人を「皇民化」するとの意図のもとに、彼らの姓名を日本式
        の姓名の改めさせた。
      ( 5.昭和13年朝鮮人より志願兵募集。昭和19年朝鮮でも徴兵制施行)。
           ---------------------------------  
    ・「大逆事件」(1910年、明治43年):幸徳秋水、管野須賀子らによる明治
                      天皇暗殺未遂事件
       (ただしこの事件は当時の政府が無政府主義者、社会主義者、またそ
      の同調者、さらに自由・平等・博愛といった思想を根絶するためにしく
      んだ国家犯罪だったことが明らかになっている)。これより日本の社会
      主義運動はきびしい冬の時代を強いられることとなった。
    ・中国辛亥革命勃発(武漢にて、1911年(明治44年)10月10日)
       翌年(明治45年)中華民国成立。孫文は臨時大総統に選出されたが、
      実権は袁世凱が握っており、孫文は約1か月後に辞任した。
      ※ 日本の中央政府は、常に孫文らの「理想」に対して冷淡であり、む
       しろ孫文らに対抗する地に足のついた「現実的」な勢力を応援した。
       辛亥革命に対しては清朝を支持し、その後は袁世凱を支持した。袁の
       死後は北方軍閥の段祺瑞を尊重した(福田和也氏著『地ひらく』文藝
       春秋より)。
        (注:袁世凱は西太后の首席軍事顧問で、西太后死後の当時は隠居
       中だったが、改めて権力掌握のチャンスを掴んだ(S. シーグレーブ
       『宋王朝』田畑光永訳、サイマル出版会、p.169))。
    ・マリー・キュリーがラジウムの単離に成功(1911年)。
    ・駆梅剤(砒素剤=サルバルサン)が初めて人体に試された。

1912年(明治45年、大正元年):明治天皇崩御
    ・孫文が中華民国の臨時大統領に就任(前記、1912年1月1日、南京)
      「三民主義」(民族・民主・民生)
    ・清国滅亡(1912年2月)とともに、満州所在の陸軍部隊の動きが活発さと
     怪しさを増していった。(「このまま満州に居座り続けようではないか」)
    ・袁世凱、中華民国大統領に当選(1913年、大正2年10月16日)。
      清帝退位強制、国民党解散、国会停止など傍若無人の独裁。
      (--->孫文日本へ亡命、1914年孫文が東京で「中華革命党」を結成)
    ・アメリカで中央銀行設立を決定。世界の仲間入りを果たす。
    ・ロックフェラー財団創立(1913年)

 ***********************  明治から大正へ  **************************

  ★【大正デモクラシー】
    ※大正デモクラシーとは(日露戦争の戦後体制に関して考察)
      文明国をアピールするためには、戦中(日露戦争)においても言論の
     自由を露骨に抑庄することはできませんでしたが、この事件(1905年9月
     の日比谷焼き打ち事件。国民の政治に対する意識や行動の高まりと、そ
     れを利用しての政府による統制強化)を通じて治安妨害を理由とする新聞
     ・雑誌の発行停止権が内務大臣に与えられることになり、全国で29誌紙が
     延べ39回にわたって発行停止の処分を受けました。こうして内務省保安局
     がメディアの生殺与奪の権を握ることとなり、また、死者17名を出した一
     連の焼打ち事件をうけて、1908年刑法において集団による抗議行動も「騒
     擾罪」として重罰化されました。日露戦争という国家目標を終えた政府の
     次の課題が戦時体制から戦後経営体制に向けての再編であったとき、この
     事件は内務省主導の治安体制の強化にとって、このうえないきっかけと正
     当化根拠を与えることになったのです。
      日露戦争中にもかかわらず、影響力をもった社会主義思想は、戦後こう
     して整えられた言論統制、治安維持の体制によって窒息させられていき、
     ついに1910年の大逆事件というフレームアップに至り、社会主義運動のみ
     ならず言論・結社・集会の自由そのものが「冬の時代」に入っていくこと
     になります。大正デモクラシーとは、こうした治安体制の中で閉塞状況に
     あった諸権利を獲得するための民主主義的改革要求の運動と思潮だったの
     です。(山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.156-156)

    ■普通選挙への流れの促進(吉野作造:民本主義で憲政の常道を説く)
      立憲君主制の概念が定着<--(敵対関係)-->Nationalist・右翼団体
    ■さらに大正時代は社会問題・社会運動・社会主義が話題の中心でもあった。
    ■大正は「婦人」の時代でもあった。(関川夏央氏『白樺たちの大正』より)
       人々の意識は「日本人」から、「男」と「女」のジェソダーの別へと向
      けられ、女性の自己主張がはじまった。第二の波は第一次大戦好況によっ
      てもたらされた。そこに「主婦」と「勤労女性」という区分けが新たに生
      じたのは、好況と人々の会社員化によって「中流」意識が日本人に芽生え
      たからであった。
       その背景には女性のための中等教育の著しい普及があった。
       大正二年に高等女学校数は全国で二古十四校、生徒数は六万八千人であ
      った。それが大正8年には274校、10万3000人となり、大正10年には417校、
      15万5000人に急増した。さらに大正15年には663校、29万7000人に達した。
       大正年間に学校数で三倍強、生徒数で四倍強となったのである。
       「大正時代のいわゆる『新しい女』を産み出した基盤は、この中等教育
      の機会に恵まれた新中間層の女性群であった。彼女らは良妻賢母主義の美
      名のもとに、家父長制への隷属を強いられていた従来の家庭文化のあり方
      に疑問を抱き、社会的活動の可能性を模索しはじめる。男性文化に従属し、
      その一段下位に置かれていた女性文化の復権を要求しはじめる。婦人の家
      庭からの解放を説き、女性の社会的進出と婦人参政権の獲得を繰返し取り
      上げた『婦人公論』が、そのオピニオン・リーダーであったことはいうま
      でもない」(「大正後期通俗小説の展開」前田愛、『近代読者の成立』)

    ※大正デモクラシーの時代は、日本の近代に短く咲いたあだ花でしかな
     かった。言論の自由は、時の政府が適当と認めたものに限っての自由
     であり、軍国主義の靴音とともに言論弾圧の時代へと入ってゆく。
                (『司馬遼太郎が語る雑誌言論100年』より)
    ※大正後半期から昭和初期頃までは栄養学がブームになっており素人もビタ
     ミンや酵素ということばを盛んにつかい、食物の成分を気にていた。
     まるで平成10年代の日本のようである。いつの時代も平和ボケた時代の人
     々はこうなのだろうか。(筆者私見)

  ★【人間の狡猾さと残忍さが浮き彫りにされる時代の到来】
    ・「シーメンス事件」:大掛かりな収賄事件(大正3年摘発)
               (検事総長:平沼騏一郎、主任検事:小原直)
       日本帝国海軍上層部と、大手貿易会社<三井物産>、およびドイツ
      最大の電機企業コンツェルン<シーメンス>と、イギリスの武器製造
      会社<ヴィッカース>が関わった疑獄事件。
       ここに登場するワルどもは、シーメンス東京支社のヘルマン(証拠
      隠滅、贈賄)、ロイター通信社のプーレーとブランデル(贓物故買、
      恐喝)、松本和中将(当時約41万円の収賄)、沢崎寛猛大佐(収賄)、
      藤井光五郎少将(収賄)、山本条太郎など三井物産関係者(文書変造
      行使、贈賄)どもである。(後半部は、三好徹氏著『政・財腐蝕の
      100年』講談社、pp.23-24より)
       平沼騏一郎(岡山・津山藩)は薩摩閥の海軍(斎藤実海軍大臣ら)
      や三井財閥の逆襲をこわがって適当なところで撤退した。(三好徹氏
      著『政・財腐蝕の100年』講談社、pp.192-198より)

1914年(大正3年):第一次世界大戦勃発(7月28日~1918年(大正7年)11月11日)
      ※セルビア vs [オーストリア・ハンガリー + ロシア(スラブ系)]
         サラエボ事件:セルビア vs オーストリア(1914.6)
       ドイツ  vs  フランス(ロシアの同盟国):植民地モロッコ争奪
       ドイツ  vs  ベルギー(ドイツの入国を拒否)
       ドイツ  vs  イギリス(ベルギーの同盟国):建艦競争
       ドイツ  vs  日本(イギリスの同盟国)
      ※三国協商:イギリス・フランス・ロシア (後で + イタリア)
             <世界の結果:3王朝の崩壊>
          1. ロシア:ロマノフ朝崩壊:ロシア革命(1917.11)
          2. ドイツ:ホーエンツォレルン朝崩壊--->ワイマール共和国
          3. オーストリア:ハプスブルグ帝国崩壊
    ●日本の対応(火事場どろぼうに匹適)など
      1.ドイツに宣戦布告し、山東半島(当時、ドイツの租借地)の青島と
       その付近を攻略(大正3年8月23日~11月7日)。
      2.日英同盟がありながら、英国を主とする連合国に武力をもってする
       協力を十分にしなかった。(--->日英同盟破棄(1921年))
      3.フランスから欧州戦線への陸軍部隊派遣要請があったが拒否。
      4.シベリア出兵のさいに、日本と米英の間で意見の相違があった。
      5.こうして米英というアングロサクソンの国との緊密な関係がなくな
       り、日本が世界から孤立せざるを得なくなった。

   ※第一次世界大戦日本の好景気を呼び、「戦争恐るるべからず」という風潮を
    呼ぶ。
      ☆国民:「戦争は儲かる」(■大戦景気=戦争バブル)
      ☆軍人:「ロシア・ドイツ恐るるに足らず」
      ☆政府:「欧米の独善を排す」(近衛内閣)

   ※石橋湛山の慧眼(第一次世界大戦とその後の日本への警告)
      此問題に対する吾輩の立場は明白なり。亜細亜大陸に領土を拡張すべか
     らず、満州も宜く早きにおよんで之れを放棄すべし、とは是れ吾輩の宿論
     なり。更に新たに支那山東省の一角に領土を獲得する如きは、害悪に害悪
     を重ね、危険に危険を加うるもの、断じて反対せざるを得ざる所なり。
                (『東洋経済新報』大正3年11月15日号「社説」)
      而して青島割取に由って、我が国の収穫するものは何ぞと云えば、支那
     人の燃ゆるが如き反感と、列強の嫉悪を買うあるのみ。其の結果、吾輩の
     前号に論ぜし如く、我が国際関係を険悪に導き、其の必要に応ぜんが為め
     に、我が国は、軍備の拡張に次ぐに拡張を以ってせざるべからず。
                   (同上、大正3年11月25日号「社説」)
          (加藤徹氏著『漢文力』中央公論新社、pp.10-11より孫引き)

   ※通貨膨脹、物価高騰、生活費昂上となり、国民全体の収入が増えた。
       ■歳入:7億3000万円(大正3年)----->20億8000万円(大正11年)
        第一次世界大戦が終わってからは、歳入は減り続け、昭和2年の
        金融恐慌に至る。(昭和5年において国債(公債)残高60億円)
        (-->昭和5年、蔵相井上準之助は緊縮財政、金解禁を推進)
   ※第一次大戦後の日本は、農業国から準工業国へと変質しつつあった。農民の
    占める割合は50%を切った。

  ★【国家存亡の戦いから、侵略戦争へ。狂気の政府と軍人の台頭】
          --------------------
    ・対華二十一か条要求(1915年、大正4年1月、第二次大隈内閣-->袁世凱) 
       (「『軍閥抬頭』序曲」(若槻礼次郎))
      ※孫文の日本への期待が裏切られた。
      ※中国の排日運動激化の一大転機となった。

    ●世界における本格的な毒ガス戦のはじまり(1915.4.22)
      ベルギーの町、イーブル付近の塹濠で好適な風が吹くのを待っていた
     ドイツ軍は、午後5時30分から大量の塩素ガスをフランス・アルジェリア
     軍に向けて放射しはじめた。
            (吉見義明氏著『毒ガス戦と日本軍』岩波書店、p.1)

    ・1915年に初めて初歩的な戦闘機が戦場に投入され、ドイツと連合国が大空
     の支配権をもって争った。

    ・<フセイン・マクマホン書簡>(1914~1916)
       イギリスはアラブ人に対して、独立アラブ国家創設を約束したが、誠
      実にそれを履行しようとはしなかった。あろうことかイギリスはフランス
      との密約<サイクス・ピコ協定>によって、オスマン帝国のアラブ地域を
      両国で分割支配することを意図していた。
          --------------------<余談>--------------------
           1083年から1099年までのパレスチナはセルジュク・
         トルコが支配した。1099年からは十字軍が各地を支配し、
         その状態が、十字軍がサラディンに敗れる1291年まで続
         いた。パレスチナ人には十字軍の末裔だと主張する者が
         多いが、文化的にはアラブ文化が支配的だった。大多数
         を占めるアラブ人はパレスチナ人と呼ばれた。少数派の
         ユダヤ教徒はユダヤとは呼ばれず、レヴァント人のつけ
         た「イスラエル人」という名称でユダヤ教徒であること
         が示された。
          次いでオスマン・トルコがパレスチナを征服し、1517
         年以後この地を支配したが、1918年にロレンス大佐(「
         アラビアのロレンス」)率いるアラブ人の英雄的な戦い
         によって、パレスチナから駆逐された。ロレンスはロイ
         ド=ジョージを首班とする自国政府に騙され、アラブ人
         は「三枚舌」外交で騙された。まれに見る権謀術数やあ
         からさまな欺瞞を経て、結局はトルコの支配から、国際
         連盟によるイギリスの委任統治に変わっただけだった。
          パレスチナにはさまざまな民族が住んでいて、フェニ
         キア人、シリアから来たアルメニア人、アンモン人、モ
         アブ人、そしてアラブ系のナバテア人が入り交じってい
         た。ローマに征服された当時のパレスチナには、十分に
         発達した、それとわかる部族国家が31あった。
         (ジョン・コールマン博士『石油の戦争とパレスチナの
                   闇』太田龍監訳、成甲書房、p103)
          -------------------------------------------------

    ●近代ヤクザ山口組誕生(1915年、大正4年)
      ヤクザは光彩陸離として下層民の先頭に立つ。
           (宮崎学氏著『近代ヤクザ肯定論』筑摩書房、p.40)
    ●筑豊の吉田磯吉は福岡全県区から衆議院議員に当選、中央政界に進出。
      憲政会(のちの民政党)の院外団(政党のゲバルト部隊=「羽織ゴロ」
     「政治ゴロ」=「ハカマ屋」)のまとめ役となり、この結果ヤクザが
     院外団をまとめることによって、政党政治と民間暴力の癒着が始まった。
             (宮崎学氏著『近代ヤクザ肯定論』筑摩書房、p.44)

1916年(大正5年)~1918年(大正7年)
       ■「大日本医師会」誕生(会長:北里柴三郎)
       ・理化学研究所創設(1917年、大正6年)
       ・大正6年4月20日の総選挙で憲政会(加藤高明)は政友会(原敬)
        に敗れた。第一党の座は政友会に移り、これ以後10年間憲政会は
        第二党に甘んじた。--->
       ●日本最初の本格的政党内閣として原敬総裁の政友会内閣の誕生
                  (1918年、大正7年 (---> 1921年原敬暗殺))
          --------------------
    ・1916年、アメリカ・ニューヨーク市でポリオが大流行。8900人のうち
     2400人が亡くなった。(スティーヴン D. レヴィット、スティーヴン J.
     ダブナー『超ヤバい経済学』望月衛訳、東洋経済新聞社、p.183)
    ・ロシア革命(1917年、大正6年):レーニン登場
    ・張作霖、北京政府に対し満州の独立を宣言。
      日本政府は満州において張作霖を支援。
    ・アメリカがドイツに対して宣戦布告(1917年4月6日)。
    ・金輸出禁止(大正6年、1917年9月)

    ●内務省が阿片製造を四社に限定(これまでは星製薬一社に限定されていた)
       星製薬株式会社、株式会社ラヂウム商会(-->武田薬品)、三共株式会社
      大日本製薬株式会社(星製薬株式会社は1915年から阿片製造をしていた)
       なお平成の現在、武田薬品、三共製薬、大日本製薬の3者が特権的に
      モルヒネを製造し莫大な利益をあげているはずである。
        (倉橋正直氏著『日本の阿片戦略 隠された国家犯罪』より)
    ・英国バルフォア外相が英シオニスト会長ロスチャイルド卿にユダヤ人国家
     建設を約束(第一次世界大戦中のイギリスの中東地域占領。ユダヤ人と先
     住のアラブ系パレスチナ人との紛争の始まり)
            --------------------------------
            <バルフォア宣言>(1917年11月2日)
       イギリス政府がパレスチナにユダヤ人国家の創設を宣言したもの
      とされているがこれは当時のイギリスの外務大臣だったアーサー・
      バルフォアのライオネル・ロスチャイルド卿宛の書簡だったという。

        イギリス政府は、パレスチナにユダヤのための民族郷土
       を建設することに賛成し、この目的の達成を容易にするた
       め、最善の努力を払うものである。ただし、パレスチナに
       現住する非ユダヤ人民の市民的・宗教的権利、および他の
       諸国におけるユダヤの享受する諸権利と政治的地位が損な
       われるようなことは許されない旨、明確に了解される。
       (ジョン・コールマン博士『石油の戦争とパレスチナの闇』
                 太田龍監訳、成甲書房、pp117-118)
            --------------------------------

    ・石井・ランシング協定調印(中国での機会均等、門戸解放、日本の特殊
     地位の承認など)
    ●シベリア出兵(1918年、大正7年8月2日):満州が再び脚光を浴びはじめた。
    ●「米騒動」(大正7.8.3~)
      米の買い占めで米価が高騰(一升(1.5kg)10銭(T3)-->34銭(T7.6)-->
     45銭(T7.7))、富山県の海岸地帯にはじまった「米騒動」が全国に広がっ
     た。寺内内閣はこの鎮圧のために軍隊を出動させたために総辞職に追い込
     まれた。(--->原敬(賊軍かつ平民だった:閨閥のはじまり)内閣の成立、
     大正7年9月25日。薩長主流の藩閥政治の終焉)
    ●朝日新聞への弾圧(白虹事件):政客のような記者の否定、政府の反対
      勢力としての新聞の役割の終わり(大正7年12月8日)
          (詳細は、関川夏央氏『白樺たちの大正』173-198頁を参照)
          ------------------------------------
    ・戦闘爆撃機登場。飛行機による近接航空支援の確立(1917~1918年)
          ------------------------------------
    ●第一次世界大戦終結(1918年11月)
       800万人以上が死亡(ロシア:180万人、フランス:140万人など)
      主戦場となったフランスの繊維産業は壊滅的打撃をうけた。
       イギリス、フランス、ドイツの金総保有量は戦争が終わったときは
      わずか20億ドル程度にすぎなかった。
    ・スペイン風邪(インフルエンザ、H1N1)の猛威(1918~1919年)
       世界で2500万人以上(4000万人ともいう)が死亡。日本では2300万人
      が罹患し38万人余り(これも一説びは約15万人)が死亡。近代演劇の
      旗手、島村抱月(47歳)もこのインフルエンザで死亡した。
    ●ワイマール共和国成立(1918年11月9日
                   --->1933年ヒトラー独裁体制により終焉)
       社会民主党のフィリップ・シャイデマンが共和国成立を宣言した。こ
      れにより1919-1933年までドイツは14年間のマルクス主義制度(ワイマ
      ール共和制)下にあった。しかしこの体制は腐敗、頽廃、犯罪の蔓延な
      どで大きく混乱・荒廃し、ナチ党・ヒトラーの台頭を加速した。

1919年(大正8年)
  ★ 労働者の目覚め、労働運動の芽生え。
    ・神戸川崎造船所で8時間労働と賃上げを要求してストライキ。
    ・コミンテルン(第三インターナショナル)結成
       レーニン主導のもと、ロシア共産党を中心に各国の共産党を糾合。
         (ただし、ロシアの方針転換にともない1943年解散)
         --------------------------------------
    ・「三・一事件(3月1日)」:朝鮮半島の京城・平壌・義州で一斉に争乱が
       起こった。独立を願う朝鮮民族運動。日本は弾圧し死者1200人以上。
    ・「北京五・四運動(5月4日)」:アジア的専制制度(家族制度=儒教)
                    の打倒運動
      ※ 五・四運動は外国勢カを標的にしたばかりでなく、外国と結びつく
       中国人すべてをも標的にした。これは中国革命における新しい要素で
       あり、商工業者や秘密結社を不安にした。租界内あるいはその周辺の
       邸宅で、安全かつ快適に暮らしている上海の資本家の立場からは、革
       命は邪道に入ってゆくように見え、彼らの生活と中国経済に対する支
       配力を脅かすように見えた。
        北京における学生運動の指導者の一人は穏健な知識分子で、名前は
       陳独秀(チエントウシウ)、北京大学文学院の院長〔文学部長〕で、
       そこの図書館では毛沢東が働いていた。陳は北京大学にいた二年間で
       中国の先進的知識分子のリーダーとなり、雑誌『毎週評論』を舞台に、
       革命的左翼の新思想を広めた。この雑誌は可能な限り多くの読者を獲
       得するために、日常的な口語文で書かれていた。五・四運動が北京で
       勃発したとき、彼は衰世凱を弾劾するパンフレットを発行し、そのた
       め三カ月間の投獄と拷問を味わった。釈放後、彼は大学の職を辞して
       上海に移った。そして1919年秋には、そこで若い無政府主義者、社会
       主義者、マルクス主義者たちの中心にいた。・・・
        上海における、陳独秀と彼の無害かつ動揺しがちな知識分子のグル
       ープは、レーニンおよびマルクスの教義は現下の中国の情勢に適合す
       るものであり、それを実践するためには、中国に共産党を創立しなけ
       ればならないと決定した。共産主義インターナショナルの代表、グレ
       ゴリー・ヴォイチンスキーが討論に加わったことが、彼らがこの結論
       に到達するのにあずかって力があったのは明らかである。
        陳独秀の大学在職時代の同僚や学生たちの援助で、中国各地にマル
       クス・レーニン主義の研究グループが組織された。湖南省の省都、
       長沙でこの組織にあたったのが、若き日の毛沢東であった。
     (S. シーグレーブ『宋王朝』田畑光永訳、サイマル出版会、pp.213-214)
    ●ベルサイユ講和条約(1919年6月28日)
      オスマントルコ帝国は細かく解体され、ソヴィエト連邦が国際的に承認
     された。敗戦国ドイツのは巨額の戦争賠償金が課せられた。
    ・ドイツにおいて民主主義的社会主義を唱え、ドイツ共産党を離れた
     ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトが暗殺された。
    ・この頃ドイツはハイパーインフレに見舞われていた。
      (--->有能な財政家、ヒャルマー・ホラース・グリーリー・シャハトに
         より1920年代初頭に終結)
    ●最初の陸軍特務機関(対外情報機関)設置(1919年)
       ウラジオストク、ハバロフスク、ブラゴベシチェンスク、ニコラエフ
      スク、吉林、ハルピン、チタ、イルクーツク、オムスクなど極東ロシア
      地域に設置。(小谷賢氏著『日本軍のインテリジェンス』講談社選書
      メチエ、p.42)
         --------------------------------------
    ・武者小路実篤はこの年の年初に「新しき村」を宮崎県日向の山奥に建設
     することを決めた。 (関川夏央氏『白樺たちの大正』より)

1920年(大正9年)
       ■国際連盟に日本は常任理事国として参加。日本はいちおう軍事大国
        となった。(その実、内情は火の車)
  ★日本は表向きの好況で投機熱が煽られていた。しかし内実は戦争関係の不自然な
   政府の支出と戦時中の浪費性向と熟慮の停止からおきた好景気の外観でしかなか
   った。案の定大正9年3月15日から株式市場は大暴落し不況は全国に始まりだした。
                     (城山三郎氏著『男子の本懐』より)

    ・大正バブルの崩壊=戦後恐慌(大正9年3~4月)
    ・官営八幡製鉄所でストライキ発生、溶鉱炉の停止。
    ・上野公演で最初のメーデーが開かれた。
    ・労働争議や労働者のデモンストレーションは各地で頻発するようになった。
      ※資本家と労働者の葛藤(原敬内閣はこれを放置していると見られた)
        「今日の世界に於いて、尚ほ階級専制を主級する者、西には
        露国の過激派政府の『ニコライ、レニン』あり、東には我原
        総理大臣あり。(拍手起り『ノウノウ』と呼び其他発言する
        者多く、議場騒然)。若し私は此・・・(『懲罰々々』と呼
        び其他発言する者多し)、終わりまで御聴きなさい。其提げ
        て立つ所の階級が『レニン』は労働階級である。原首相は寧
        ろ資本家階級であると云うことは違うけれども、倶に民本主
        義の大精神を失うことは同じである。(拍手起り『ノウノウ』
        と呼ぶものあり、議場騒然)」(永井柳太郎の演説より)

    ●「米騒動」:米価高騰に対する群衆の反乱(全国500箇所以上での暴動)
    ●原敬内閣(第43回議会)での軍需費の大幅な増大(一般歳出の半分)。

    ・日本で初めて国勢調査が実施される(1920年7月、大正9年)。
      東京市の人口:217万人(--->1932年、昭和7年、575万人)
    ・学歴志向の高揚
       大学生+高等専門学校生数の増加 : 86000人(T10)-->126000人(T14)
       中学+高等女学+実業学校生の増加:445000人(T10)-->744000人(T14)
          --------------------------------------
    ●インドの天才数学者ラマヌジャンが32歳で病死(1920.4.27)
    ・中国共産党発足(1921年7月、大正10年)
       コミンテルンの支持。しかしコミンテルンは中国革命の中心的担い手
      は国民党であるとして、中国共産党に対して国民党との連合戦線をはる
      よう求めた。(--->「第一次国共合作」(1924.1)へ)
    ・ワシントン会議(1921~22年、大正10~11年)
      この会議は大幅な軍縮を提案したが、同時に日英同盟破棄につながった。
          (アメリカ中心の日本封じ込め体制)
    ・ムッソリーニの台頭(1922年、大正11年)
    ●イーライリリー社、はじめての産業規模でのインスリン生産を始める
     (1922年6月、大正11年)。ただしインスリンで助かるかそれが裏目に出る
     かは紙一重の差だった。純度と力価の問題が残っていた。
    ・ドイツの戦後インフレ
       4.2マルク/ドル(戦前)-->8(1918年)-->62.5(1921年)
       -->6000(1922年)-->15000(1923年、初頭)-->15万(1923年、夏)
       -->4.2レンテンマルク(戦前に比して1兆分の1になった1923年11月)
          --------------------------------------
    ●「バーデン・バーデンの盟約」(1921年、大正10年10月27日)
      永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次がドイツ南部の温泉地バーデン・バー
     デンのホテルで深夜まで話し込んだ。今ではなかば伝説と化している「盟
     約」とは、(1)長州閥専横人事の刷新、(2)軍制改革(軍備改編、総動員体
     制の確立)の大目標に向けて同志を結集すること。
     (--->「一夕会」--->満州事変へ(注:戦後に岡村寧次が語ったこと))
    ・原敬暗殺(1921年、大正10年11月4日)
    ・大隈重信没(1922年、大正11年1月10日)
    ●山県有朋病死(1922年、大正11年2月9日)
       陸軍内部の出身地閥による派閥闘争の終焉
    ●全国水平社の創立宣言(1922年、大正11年3月2日):京都岡崎公会堂
      松本治一郎、西光万吉、阪本清一郎、米田富、山田孝野次郎、
      柴田啓蔵ら

1923年(大正12年)
    ●関東大震災(大正12年9月1日午前11時58分44秒):日本の工業力への大打
     撃。死者・行方不明者10万5千余人。被災者300万人、被害総額55億円(GDP
     の半分)。(東京市長:後藤新平)
              -----------------------------
       そのうち、私たちは空地を出て、歩き始めました。誰かが歩き出した
      ら、みんなゾロゾロと歩き出しただけで、誰も行先があるわけではあり
      ません。亀戸天神に近づく頃、避難民の群は大きく膨れ上って、私たち
      は、道幅一杯の長い行列になってノロノロと流れて行きました。みんな
      黙っています。しかし、時々、行列の中から、見失った家族の名前を呼
      ぶ叫びが聞こえます。私たちも、思い出したように、妹や弟の名前を呼
      びました。けれども、あの空地にいた時、柳島尋常小学校の子供たちは
      みんな焼け死んだ、と誰かが言っていましたので、もう諦めていました。
      感情が鈍くなっていたというのでしょうか、悲しみを鋭く感じるのでな
      く、自分というものの全体が悲しみであるような気分でした。家族の名
      前を呼ぶ声が途絶えると、行列の中から、時々、ウォーという大きな坤
      き声のようなものが起ります。それを聞くと、私の身体の奥の方から、
      思わず、ウォーという坤き声が出てしまいます。その夜は、東武鉄道の
      線路の枕木に坐って、燃え続ける東京の真赤な空をボンヤリと眺めてい
      ました。(清水幾太郎ら『手記・関東大震災』1975より)
       (野田正彰氏著『災害救援』岩波新書、p.4)
              -----------------------------
     ※後藤新平の復興計画(チャールズ・ピアーズの協力)
       1) 遷都すべからず。
       2) 復興に30億円(2011年換算では175兆円)を要すべし。
       3) 欧米最新の都市計画を採用採用して我が国にふさわしい新都を
         造営せざるべからず。
       4) 新都市計画実施のためには地主に対し断固たる態度を取らざる
         べからず。(『文藝春秋』2011年6月号、pp.96-97)
     ※蔵相井上準之助は国内初のモラトリアム(9月7日、支払猶予令)を公布
      した。東京は廃墟と化し、景気は益々後退。大量の不良債権が発生。
       政府は「震災手形」を発行し、それを政府保証で日銀に割り引いて
      引き取らせることで、結果的に不良債権をごまかし続けることになった
      (大正12年9月27日、日銀震災手形割引損失補償令を公布)。この時の
      日銀の手形の再割り引きは4億3000万円に上った。
     ※震災手形:関東大震災により、特に建築、土木、不動産関係の手形が
           紙クズ同然になったが、政府はそれを「震災手形」化して
           とりあえず急場を凌いだ。しかし悪徳業者は、震災以前の
           不良債権まで「震災手形」に紛れ込ませ、市中の不良債券
           を日銀に引き受けさせることになった。結局これによる赤
           字財政は、後々まで悪い影響を残すことになった。
     ※流言飛語の飛び交うなかで、多数の在日朝鮮人が虐殺され、社会運動
      家の大杉栄と伊藤野枝、橘宗一(6歳)が憲兵隊(甘粕正彦大尉ら)に
      よって惨殺された(大杉事件(9.16))。大正デモクラシーの終焉を象徴
      する事件だった。(「一致行動」のみに長けていて「個人性格」を持っ
      てない「集団」(大衆)の登場)
              -----------------------------
        例えば警察は、東京下町の住民を本所被服廠跡の一方所に誘導し
       たため、集まった4万の群衆の衣服に火が移り、3万8000人が焼死し
       た。東京市内の死者は6万といわれているので、その6割をこえる人
       々は警察の強権的な誘導によって死んだことになる。
        また、「朝鮮人来襲」の流言を拡げたのも警察であった。震災の
       翌日、9月2日、政府は米騒動のときでさえとらなかった戒厳令(こ
       の場合は行政戒厳)を施行し、五万の軍隊で「朝鮮人来襲」にそな
       えた。警察の呼びかけによって、青年団、在郷軍人、消防隊などを
       軸として自警団が組織され、彼らは各地でーーただし火災被害の少
       ない地域でーー朝鮮人を惨殺していった。殺された朝鮮人は、政府
       の発表では231人とされているが、実数は10倍を越えるといわれて
       いる。ほかにも、多くの中国人が殺された。このような官民一体の
       大量虐殺の情勢のなかで、多くの社会主義者や無政府主義者が殺害
       されていった。大杉栄、伊藤野枝らも東京憲兵隊の甘粕正彦大尉に
       「国家の害毒」として殺されたのである。しかも、官憲と自警団に
       よる犯罪は詳しく調べられることはなく、責任を問われることもほ
       とんどなかった。(野田正彰氏著『災害救援』岩波新書、pp.2-3)
              -----------------------------
     ※伝染病の流行(吉村昭氏『関東大震災』文春文庫、p.246)
        災害地の衛生状態は最悪だったが、その具体的なあらわれとして、
       伝染病の流行が見られた。
        震災直後には、東京府一帯に赤痢が大流行して2619名の患者を出し
       、それが衰えた後、腸チフスが猖獗をきわめた。その罹病者は4675名
       にのぼり、中でも北豊島郡などでは9、10月の2カ月間に700余名の発
       病者が出た。
        その他、パラチフス、猩紅熱、ジフテリア、流行性脳膜炎、天然痘
       がそれぞれ流行し、伝染病患者は総計14364名という平年の2倍以上の
       数に達し、死者1827名を数えた。
     ※見事な学生の羅災者救援
        さらに学生たちは、「東京羅災者情報局」を作った。今でいう、情
       報ネットワーク作りである。彼らは東京市と協力し、全市にわたる避
       難者名簿を精力的に作成し、尋ね人探しを容易にした。全市および隣
       接町村に散っているすべての傷病者収容所を訪ね、その氏名、住所リ
       ストを作った。区役所と警察を歩き、死亡者名簿を作成した。また、
       歩いて調べた正確な焼失区域地図を作って、新聞を通して公表したの
       である。9月2日には戒厳令が布かれ、地方の人が東京に入ることは難
       しく、親族の安否を尋ねることもできなかった。学生の作ったデータ
       は、人々の不安をやわらげたのだった。
        末弘教授は、「平素動(やや)ともすれば世の中の老人達から、私
       事と享楽とにのみ没頭せるものゝ如くに罵られ勝ちであった現代の学
       生が、今回の不幸を機として一致協力文字通り。寝食をすら忘れて公
       共の為めに活動努力し、以て相当の成績を挙げることが出来たことは、
       平素学生の「弁護人」たる私としては此上もない嬉しいことである」
       と書いている。阪神間の大学教授で末弘教授と同じ思いを今回持った
       人もいるであろう。
        72年前の権威的な社会でのこと、民衆の自立の力は弱く、学生の救
       援活動はきわめてエリート的である。それにしても、避難民の自治を
       促し、警察やマスコミが今日やっている情報センターとしての機能を
       はたしていったことに、私は感心する。学生たちの救護活動から、3
       カ月後に東京帝大セツルメント(会長は末弘厳太郎)が作られ、2年
       後の東京本所における活動に発展していく。
        私たちはこんなボランティアの歴史があったことをすっかり忘れて
       いる。昭和の全体主義があり、戦争があり、敗戦から経済復興、そし
       て富裕な80年代社会へ移りゆく間に、新しい出来事の記憶は、それ以
       前の人々の反応の記憶をかき消してしまったのである。
        (野田正彰氏著『災害救援』岩波新書、pp.72-73)
    ●大杉事件(大正12年9月16日)
       憲兵隊分隊長甘粕正彦が、社会主義無政府主義者大杉栄と妻伊藤野枝、
      甥の橘宗一(6歳)を絞殺の上、空井戸に放り投げた。まことに残虐な行
      為だった。
      (付録:大杉栄に同調していた無政府主義者(新聞『労働運動』同人)
          和田久太郎、村木源次郎、山鹿泰治、岩佐作太郎、水沼辰夫、
          和田栄太郎、近藤憲二ら)
             --------------------------------------
            【大杉栄『生の闘争』の中の『鎖工場』より】
          おれは再びおれのまわりを見た。
          ほとんど怠けものばかりだ。鎖を造ることと、それを自分の
         からだに巻きつけることだけには、すなわち他人の脳髄によっ
         て左右せられることだけには、せっせと働いているが、自分の
         脳髄によって自分を働かしているものは、ほとんど皆無である。
         こんなやつらをいくら大勢集めたって、何の飛躍ができよう、
         何の創造ができよう。
          おれはもう衆愚には絶望した。
          おれの希望はただおれの上にかかった。自我の能力と権威と
         を自覚し、多少の自己革命を経、さらに自己拡大のために奮斗
         努力する、極小の少数者の上にのみかかった。
          おれたちは、おれたちの胃の腑の鍵を握っているやつに向か
         って、そいつらの意のままにできあがったこの工場の組織や制
         度に向かって、野獣のようにぶつっかってゆかなければならぬ。
                (松下竜一氏著『ルイズ』講談社、p.95より)
             --------------------------------------
        夜、芝生や鳥小屋に寝ていると、大勢の兵隊が隊伍を組んで帰つ
       て来ます。尋ねてみると、東京の焼跡から帰つて来た、と言います。
       私が驚いたのは、洗面所のようなところで、その兵隊たちが銃剣の
       血を洗つていることです。誰を殺したのか、と聞いてみると、得意
       気に、朝鮮人さ、と言います。私は腰が抜けるほど驚きました。朝
       鮮人騒ぎは噂に聞いていましたが、兵隊が大威張りで朝鮮人を殺す
       とは夢にも思つていませんでした。……
        ……軍隊とは、一体、何をするものなのか。何のために存在する
       のか。そういう疑問の前に立たされた私は、今度は、大杉栄一家が
       甘粕という軍人の手で殺されたことを知りました。……私は、判ら
       ないながら、大杉栄の著書を読んでいたのです。著書の全部は理解
       出来ませんでしたが、彼が深く人間を愛し正義を貴んでいたことは
       知つていました。人間を愛し、正義を貴ぶ。細かいことが判らなく
       ても、私には、それだけでよかつたのです。それが大切だつたので
       す。その大杉栄が、妻子と共に殺されたのです。殺したのが軍人な
       のです。軍隊なのです。日本の軍隊は私の先生を殺したのです。軍
       隊とは何であるか。それは、私の先生を殺すものである。それは、
       私の先生を殺すために存在する。……(野田正彰氏著『災害救援』
       岩波新書、p.5)
       ------------------------------------------------------------
    ●トルコ共和国が正式に誕生(1923.10.29、PM8:30)
      大統領選挙では "トルコの父" ケマル・パシャ(ケマル・アタチュルク)
     がトルコ共和国初代大統領に選出された。--->カリフ制の廃止。政教分離
     の確立。
    ●虎ノ門事件(1923年12月27日):難波大助が摂政宮(後の昭和天皇)を
     ステッキ銃で狙撃。
    ●レーニン死亡(1924(大正13)年1月21日)
    ●憲政会(加藤高明)第一党に復帰(大正13年5月10日、第15回衆院選挙)
        --->加藤高明内閣(護憲三派(憲政会・政友会・革新倶楽部)内閣)
          成立(大正13年6月9日)
           斎藤隆夫(憲政会)の5年来の夢であった普選法案(衆議院
          議員選挙法改正法律案)が陽の目をみることになった。
           --------------------------------------
    ・1924年はインド独立運動史にとって記念すべき年だった。
       1. ヴィール・サルバルカル(ブラーミン出身の文民政治家)の帰国
       2. マハトマ・ガンジーの釈放
          不可触民解放についてはガンジーはあくまでも表面的な保護
         者でしかなく、何ら彼らの現実を変える事が出来なかった。ア
         ンベードカルは不可触民解放の現実的指導者であり、二人は互
         いの力量を認めながらも激しく対立した。
       3. ビームラーオ・アンベードカル(インド不可触民解放の父)が政
        治の表面に姿を表わす。
       (ダナンジャイ・キール『アンベードカルの生涯』山際素男訳、
        光文社新書より)

1925年(大正14年):ラジオ放送開始
       ■「治安維持法」(日本を戦争に向かわせることになる大悪法)成立
                  (内務大臣:若槻礼次郎、大正14年3月19日)
         治安維持法は思想弾圧のための法律で最高刑は死刑。昭和16年に
        全面改正され、取り締まり範囲の拡大、予防拘禁まで採用された。
                    -----------
        ※第一条「国体もしくは政体を変革し又は私有財産制度を否認する
        ことを目的」として結社を組織したり、これに加入したものは十年
        以下の懲役か禁錮に処する。
                   ●●「国体」とは●●
            当時の憲法の基本秩序である天皇主権と資本主義経済
           秩序をいう。(長谷部恭男氏著『憲法とは何か』岩波新
           書、p.23)
                    -----------
        ※星島二郎の反対演説
          「反動内閣が天下を取りまして、此の条文を楯に取ってもし言
         論を圧迫し、結社を圧迫するならばーー私が仮に当局者となって
         やるならば此法案の一条でもって、日本の大部分の結社を踏み潰
         すことが出来る」と警告した。
         (結局、同法は衆議院では246対10人の大差で可決された。反対者
         のなかには星島のほかに、尾崎行雄、坂東幸太郎の二名ののちに
         同交会のメンバーとなる議員の名が見られる。このときの星島の
         危惧が現実のものになるには、それからあまり時間はかからなか
         った)。(楠精一郎氏著『大政翼賛会に抗した40人』朝日新聞社、
          pp.57-58)
       ■「普通選挙法」成立(大正14年3月29日--->5月5日公布)
             (上記2法はセットで成立していた)

    ●孫文死亡(北京にて、肝臓癌、1925年3月12日、59歳)
      いわゆる「大アジア主義」演説(於神戸 1924年11月28日)
         「・・・あなたがた日本民族は、西方覇道の手先となるか、それ
         とも、東方王道の干城となるか、それは日本国民が慎重におえら
         びになればよいことです」。
           資本主義=重財而徳軽
           共産主義=重物而軽人
           亜州主義=重人並重徳(=アジア主義)
      (孫文は、この演説のなかで井伊直弼が安政条約を結んだ1858年から
       明治27年(安政の不平等条約解消)までの36年間の日本が、欧米の
       植民地であって独立国ではなかったと規定した)
    ●日本がイスタンブールに大使館を設置(1925年3月)
      トルコとの外交関係成立。日本としては10番目、アジア地域でははじ
     めての大使館であった。初代大使は小幡酉吉。「日土貿易協会」も設立
     され初代理事長は山田寅次郎。
    ・イギリスが1ポンド=4.86ドルで金本位制に復帰(1925年4月)
       当時の大蔵大臣はウインストン・チャーチルだった。イギリスはこの
      後、コスト高の炭坑業界にはじまり、失業者続出の大不況に見舞われる
      ことになる。
    ・フランスのフラン大暴落
       1ドル=5.4フラン(1918年)-->11フラン(1918年)-->49フラン(1926)
    ●5・30事件(1925年5月30日)
       日本資本の内外綿紡績工場の争議中に日本人監督が組合指導者の一人
      を射殺し十数人を負傷させたことに端を発した大惨事。これをきっかけ
      の中国全土に反帝国主義運動が拡大。
    ・大正天皇崩御(48歳、大正14年12月25日)
        --->昭和(「百姓昭明、協和万邦」、昭和元年は1週間のみ)
          -------------------------------------
    ・南京に国民政府誕生、北京へ向かい北伐開始(1926.7)。満州(張作霖)
     との軋轢。(--->山東出兵(1927.5))
      ※北伐:各地の軍閥を攻撃して帰順させようとした。
       ○国民党左派(宋慶齢):武漢を目指して北西へ進軍
       ○国民党右派(蒋介石):南昌、上海に向けて進軍
    ・1926年11月、国民党左派が武漢を攻略、国民政府は武漢に移転。
          -------------------------------------
    ●若槻内閣誕生(大正15年1月30日)--->●田中義一内閣への変遷
       議会構成は憲政会165・政友会161・政友本党87の議席数(政友会は
      犬養総裁の革新倶楽部を吸収)。この内閣は朴烈怪写事件・金融恐慌
      など激しい政争。経済的混乱で倒れ(1927年、昭和2年)、田中義一
      内閣という久しぶりの政友会内閣ができた(1927年、昭和2年4月)。

 ***********************  大正から昭和へ  **************************

 ※ 「大正末年、昭和元年ぐらいから敗戦まで、魔法使いが杖をポンとたたいたの
  ではないでしょうか。その森全体を魔法の森にしてしまった。発想された政策、
  戦略、あるいは国内の締めつけ、これらは全部変な、いびつなものでした。
   この魔法はどこからきたのでしょうか。魔法の森からノモンハンが現れ、中国
  侵略も現れ、太平洋戦争も現れた。世界中の国々を相手に戦争をするということ
  になりました。・・・
   国というものを博打場の賭けの対象にするひとびとがいました。そういう滑稽
  な意味での勇ましい人間ほど、愛国者を気取っていた。そういうことがパターン
  になっていたのではないか。魔法の森の、魔法使いに魔法をかけられてしまった
  ひとびとの心理だったのではないか。・・・あんなばかな戦争をやった人間が
  不思議でならないのです」(司馬遼太郎氏『雑談「昭和」への道』より)

 ※ 「参謀」
  という、得体の知れぬ権能を持った者たちが、愛国的に自己肥大し、謀略を企ん
  では国家に追認させてきたのが、昭和前期国家の大きな特徴だったといっていい。
              (司馬遼太郎氏、『この国のかたち<一>』より)

1927年(昭和2年)から1939年(昭和14年、第二次世界大戦勃発)まで
    【日本の政治経済の激動時代:20世紀末~21世紀を考える試金石の時代】
     ●政友会と民政党(憲政会と政友本党の合流;1927.6)という二大政党
      政治が始まった。
     ★首相:田中義一(政友会)、昭和2~4年(政友会217・民政党216)
  ★徴兵制について(以下、清水寛氏著『日本帝国陸軍と精神障害兵士』不二出版
   より抜粋引用、pp.22-63)
   徴兵令・明治6年(1873)-->新徴兵令・明治22年(1889)-->兵役法・昭和2年(1927)
   1. 「徴兵令」時代
      国家武装の具として、一般兵役義務(「必任義務」)として国民皆兵を
     掲げようとした。(免役要件は士族階級・有産階級に有利)。
   2. 新「徴兵令」時代
      徴兵要員を確保するため主として免役条項の整理改定。日清・日露戦争
     への大兵力動員とその後の侵略戦争が可能となった。
   3. 「兵役法」時代(徴兵令全文改正)
      国家全体を軍事化するという徹底した必任義務としての徴兵制
      動員兵力総数
       ・昭和 6年(1931)=満州事変:27万8000人
       ・昭和12年(1937)=日中戦争開始翌年:130万人超
       ・昭和16年(1941)=大東亜戦争突入:240万人超
       ・昭和20年(1946)=敗戦:716万5000人(当時満17歳以上45歳以下の
        日本国籍を有する男子は約1740万人)
      このほか特別志願兵令や特別志願兵制度によって朝鮮と台湾で「志願」
     という名の実質的強制徴兵が(植民地で)行われた。
     -----------------------------------------------------------------
        <孤高の政治家、斎藤隆夫氏の発言より(昭和3年)>
     さなきだに近時国民思想の流れ行く有様を見ると、一方には極端なる
    左傾思想があると共に、他の一方には極端なる右傾思想があり、而して
    是等思想は悉く其向う所は違っているけれども、何れも政党政治とは相
    容れない思想であって、彼らは大なる眼光を張って、政党内閣の行動を
    眺めて居る。
     若し一朝、政党内閣が国民の期待を裏切り、国民の攻撃に遭うて挫折
    するが如き事があるならば、其時こそ彼等は決河の勢(決潰した堤防を
    河水が流れ出す勢い)を以て我政治界に侵入して政治界を撹乱し、彼等
    の理想を一部でも行おうと待設けて居るのである。故に、今日は政党内
    閣の試験時代であると共に、政治界に取っては最も大切なる時である。
    ・・・ 
     我々が政党政治の運用を誤れる現内閣を糾弾せんとするのは、決して
    微々たる一内閣の存廃を争うが如き小問題ではなくて、実に将来に於け
    る政党内閣の運命延いて憲法政治の運命に関する大問題である事を記憶
    せられたいのであります。
     (松本健一氏著『評伝 斎藤隆夫』、東洋経済、p234-235より引用)

       ■田中義一(政友会)内閣は長州・陸軍閥の田中義一を首相に戴き、
        内務大臣は司法次官・検事総長出身の鈴木喜三郎とした、政党内
        閣とは縁もゆかりもない、実質的には官僚・軍閥内閣であった。
        (松本健一氏著『評伝 斎藤隆夫』より引用)
       ※現内閣(田中内閣)は政党内閣の本領を全然没却して、党利党略
        の為めに、国家民衆の利益を犠牲に供して憚らねものである。
                      (昭和3年、斎藤隆夫(民政党))
           -----------------------------------------------------
             <幻の「田中上奏文」:日本語原文は存在しない>
          1927年、日本政府の首相、将軍の田中[義一]は天皇への
         覚書の中で次のように述べた。「明治天皇の遺訓により、我々
         の第一歩は台湾征服であり、第二歩は朝鮮を獲得すべきことに
         あった(これはすでに実現した)。今は、満洲、モンゴル、中
         国の征服という第三の歩をすすめなければならない。これが達
         成されれば、我々の足は残りのアジアすべてに及ぶであろう」。
          (シーシキン他『ノモンハンの戦い』田中克彦訳、岩波現代
           文庫、pp.7-11)
          -----------------------------------------------------
                 <蒋緯国の追憶(1990.5)>
          本来なら、あのころの中国と日本は友好的であるべきでした。
         それなのに日本は、中国の領土を日本のものとし、そこを前面
         の歩哨に押したてて日本自体の国防の安全地帯にしようとした
         のです。ロシアの南下をくい止めるために共に連合して助けあ
         って対抗しなければならなかったのにですよ。なぜこうならな
         かったかを見ていけば、あのころのお国の田中義一内閣がもっ
         とも大きな誤ちを犯したということになる。彼の内閣のときか
         ら中国を侵略し、共産中国をつくる元となる役割を果たしたと
         いっていいでしょう。私は田中首相が中国を攻めてきたという
         言い方はしませんが、彼の戦略が間違っていたとの断定はして
         もいいでしょう。お国の誤りは第二段階(蒋緯国:いつ誰と協
         力し、いつ拡張するのか、つまり生存を賭けた戦いを行うのか、
         どのように拡張したら効果があがるのかを考えること)の失敗
         だったということです。(保阪正康氏著『昭和の空白を読み解
         く』講談社文庫、p.71)

       ■「健康保険法」施行。医療保険における診療報酬の支払いとレセプト
         の審査は、基本的には地域医師会の仕事だった。
       ※診療報酬はこの時より昭和17年度(医療国家統制開始)までは、
        政管健保の診療報酬は政府と日本医師会の診療契約に基づいて人頭
        割り請負方式で支払われた。また組合健保の診療報酬は、個々の組合
        と医師会との契約で決められた。

    ・震災手形損失補償公債法案、震災手形前後処理法案(震災手形二法)の審議
      経営難に陥っていた鈴木商店とメインバンクの台湾銀行救済目的
    ●金融恐慌:莫大な不良債権の顕在化。 銀行は続々と破綻。 
       鈴木商店、川崎造船所の経営難の表面化。台湾銀行破綻。大阪の近江
      銀行の支払い停止と閉鎖。
       4月21日にモラトリアムの緊急勅令(--->5月10日)。

        -----◇日本のマルクス主義の崩壊(現実的破綻)◇-----
       ■「三・一五」事件:共産党一斉検挙(昭和3年、1928.3.15)
         これによりプロレタリア文化運動は壊滅に瀕した。
         (橋浦泰雄ら「ナップ」(全日本無産者芸術連盟)を結成)
         (昭和4年4月16日にも再び残った共産党の大物が一斉検挙され
         た。つまり戦争に反対する勢力が、治安維持法違反ということ
         で、田中義一内閣の時に一斉に監獄に入れられた)。
       ■これに続く1930年代はコミンテルン(共産主義運動の国際組織)の
        強い統制下(共産主義と共産党の不乖謬性)で、プロレタリア文化
        運動は柔軟さを失い瓦解して行くのであった。
                (一例:マルクス主義理論家福本和夫の失脚)
       ※共産主義は極度に体系的な理論であり、それが神格化されてしまい、
        日本において具体的現実によって検証される機会を喪失していった。
       ※「集団転向」(昭和4年)
        共産党指導者たちの集団転向とその声明文は国家主義と戦争肯定の
        思想を謳っており、日本の大陸侵略への口実を与え、戦争合理化の
        根拠ともなった。
       ※河上肇『獄中独話』(昭和8年)
        共産主義の実践の断念を声明。しかしその理想と理論への確信は微
        動もしないこともまた明白に述べている。
          ---------------------------------------------------
    ・(余談)第一回日本オープン(旧程ケ谷コース)開催
       この当時はゴルフは特権階級の占有物で、軍艦成金赤星弥之助の六男
      赤星六郎が優勝。赤星六郎は唯一のアマチュアのチャンピオンだった。
    ・アメリカ、バージニア州で最高裁が断種措置を許可した。(1927年)
          ---------------------------------------------------
    ・1927年3月21日蒋介石(右派)の部下の白崇禧将軍の北伐軍が上海郊外の
     龍華に到着。これを機に上海の労働者は一斉蜂起し、3月23日上海は労働者
     の管理下に入った。(ソ連、スターリンの強力な指導があった)
    ・汪兆銘(宋慶齢とともに左派、孫文後継)が武漢国民政府首席に就任
    ●蒋介石反共クー・デタ(1927年4月12日):反共列強の歓迎があった。
      「青幇(チンパン)」(上海やくざ集団、ボスは杜月笙)と蒋介石の
     関係についてはスターリング・シーグレイブ『宋王朝』(田畑光永訳、
     サイマル出版会)を参照。これにより第一次国共合作が崩壊。
    ●蒋介石(「青幇」の殺し屋?)が南京に国民政府樹立(1927年4月18日)
       蒋介石は政権基盤維持のための資金調達に関しては、脅し、ゆすり、
      たかり、強制没収、誘拐身代金強奪など悪の限りを尽くした。また
      南京政権に反目する指導者(北洋軍閥ー段祺瑞・張作霖の系譜)や作家
      などを冷酷非常に葬り去った。(--->「北伐」へ)
    ・1927年7月14日、宋慶齢(孫文未亡人)は蒋介石と絶縁。同時に兄弟・姉妹
     の宋一族とも決別した。(宋一族の宋子文は蒋介石の(脅しによる強制的
     な)資金源。すでに武漢国民政府の汪兆銘も蒋介石側に立っていた)。
    ・宋慶齢は蒋介石夫人宋美齢の姉。その生涯を通じてソ連のスパイだったこ
     とは、現代においても秘匿されている。(ユン・チアン『マオ<上>』講
     談社、p.237)
    ・1927年11月ソ連でスターリンがトロツキーら反対派を除名。スターリンは
     この後中国革命支援を止めてしまった。
    ・1927年12月1日、蒋介石と宋美齢と結婚。
    ・アメリカ、ウォール街の株価が急上昇。1924年末から1928年初頭にかけて
     2倍になっていた。
     (--->1928年8月に頂点--->公定歩合6%に引き上げをきっかけに世界恐慌)
    ・エルネスト・チェ・ゲバラ誕生(1928年6月14日~1967年10月9日戦死)
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    ●初めての「普通選挙法」による総選挙(1928年、昭和3年2月20日)
      革新、無産政党が躍進。ただしこの動きは満州事変に向かう軍事的な動
     きが後戻りできないまでに始まっており、田中義一内閣は労農党関係の団
     体に解散命令をだしたり、共産党への大弾圧を行い、昭和3年7月には「特
     高」までも設置した。

    ●張作霖爆殺事件(関東軍参謀河本代作大佐ら、1928年、昭和3年6月4日)
       昭和陸軍の体質があからさまに発揮された重大な事件であった。
       つまり昭和の日本は早くも権力の空隙をあらわにしていた。どこに
      権力があり、だれが責任をとるのかという指導力の核心が分裂してし
      まっているがために、当事者能力を欠いていた。(福田和也氏著『地ひ
      らく』文藝春秋より)
       この事件は政治家と陸軍の総意でもみ消され、首相田中義一は孤立し
      てしまっていた(--->天皇激怒-->田中義一辞職-->田中急死-->宇垣一
      成(=昭和陸軍=長州閥)のはじまり)。
       この張作霖爆殺事件処理のゴタゴタは「沈黙の天皇」(半藤一利氏著
      『昭和史 1926->1945』平凡社、p46)をつくりあげ、陸軍が横暴を極め
      るようになってしまった。
       これにより張作霖の息子、張学良は反日政策をとるようになった。
       張学良軍20万、関東軍14000の対峙。
      (石原莞爾、板垣征四郎、河本大作、花谷正らの身勝手な満蒙政策の
       具現化。--->柳条湖事件(1931年、昭和6年9月18日)--->満州事変へ)
    ※<関東軍とは>
       関東州(遼東半島の南端部で満州地方の南端、軍港旅順と貿易港大連
      などを擁した)と南満州鉄道・満鉄附属地(拓務省関東庁管轄)を警備
      するために設けられたのが関東軍である。1935年8月頃からは満鉄総裁・
      副総裁人事、満州電々などの人事を蹂躙し、さらには満州国の人事や組
      織へも傍若無人に介入しはじめた。(古川隆久氏著『あるエリート官僚
      の昭和秘史』芙蓉書房出版、p.76などより)
    ※張作霖爆殺は日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から
     最近明らかになったことは、実際にはスターリンの命令でナウム・エイ
     ティンゴン(トロツキー暗殺に関与)が計画し、日本軍の仕業にみせかけ
     たものだという。(ユン・チアン『マオ<上>』講談社、p.301)
    ・奉天軍閥の張学良が国民党に帰順、蒋介石が北京占領をもって北伐を完了。
     全中国を概ね統一(昭和3年、1928年10月10日)。
       「宋王朝」:宋子文は蒋介石の資金源だった。「宋家」のルーツにつ
      いてはスターリング・シーグレイブ『宋王朝』(田畑光永訳、サイマル
      出版会)を参照(「宋」はもともとは「韓」だったという)。
    ●不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約、パリ条約)の締結(1928年8月)
      不戦条約は国際連盟第5回総会(1924)においてフランスが提案し採択
     された「国際間紛争の平和的解決のための保障協定(ジュネーヴ平和議定
     書)」の思想を踏まえて作られたもので、1928.8月に日本を含め15か国が
     調印した。条約は1929.9月に発効し1938年までに64か国が締結することに
     なった。しかしこの条約は自衛権に基づく武力行使についての定義や解釈
     が曖昧で、結局日本が自衛権を拡張解釈して満州事変(1931年)を起こし
     有名無実のものとなってしまった。そして遂に日本は国際連盟脱退(1933
     年)に行き着くのであった。

               --------------------
  ★『大学は出たけれど』(昭和4年、小津安二郎監督の映画)が世相を物語る。
     ※林芙美子『十年間』より(満州は有識無産・失業青年の受け皿)
       大学を出ても職業への部門は閉ざされ、知己はなく、何等の進歩性も
      ない世界が広がり、青年は涙を忘れ、一日だけの怠惰に日を過ごしてゐ
      たと云いっていゝ。民衆からは力強い正義感と云ふものが忘れられ、信
      念と云ふものが希薄だったやうに私は思ふのだ。迷える若人たちは何か
      を探し求めてゐた様子だった。ーー思想や土地や人間や職業を・・・
          (川本三郎氏著『林芙美子の昭和』、新書館より孫引き引用)
               --------------------
    ●「一夕会」の誕生(昭和4年、1929年5月19日)
       午後六時富士見軒にて発会。集るもの大佐、中佐、少佐級で一夕会と
      命名された。
       会合は、毎月一回を標準として行なわれ、だいたいにおいて、討議よ
      りも懇親を深め、会員の団結を鞏固にするというのが目的のようであっ
      た。会員を重要なポストにつかせ、それぞれの職域で上司を補佐して会
      の意図するところを実現せるよう、お互に協力しようとするにあった。
      それにこの一夕は、先に結成されていた同人会、もしくは双葉会と称し
      ていたものと、国策研究会(木曜会・無名会)といわれた会との大同団
      結であったことも注目すべきである。
       ところでこの一夕は、第一回の会合で重大な申合せを行なっている。
      『満州事変(一)』(稲葉正夫)によると、
       (イ)陸軍の人事を刷新して諸政策を強く進めること
       (ロ)荒木、真崎、林の三将軍をもりたてながら正しい陸軍を建て直
          すこと
      という二点である。一夕会のメンバーは次のとおり。
       十四期、小川恒三郎。十五期、河本大作、山岡重厚。十六期、永田鉄
      山、小畑敏四郎、岡村寧次、小笠原数夫、磯谷廉介、板垣征四郎、土肥
      原賢二。十七期、東条英機、渡久雄、工藤義雄、飯田貞固。十八期、山
      下奉文、岡部直三郎、中野直。二十期、橋本群、草場辰巳、七田一郎。
      二十一期、石原莞爾、横山勇。二十二期、本多政材、北野憲造、村上啓
      作、鈴木率道、鈴木貞一。二十三期、清水規矩、岡田資、根本博。二十
      四期、沼田多稼蔵、土橋勇逸。二十五期、下山琢磨、武藤章、田中新一。
               (高橋正衛氏著『二・二六事件』中公新書、p.145)

    ●ヒトラーが28歳のハインリヒ・ヒムラーをSS(Schutzstaffel:ナチ親衛隊)
     帝国指導者に任命した。
      (ジョージ H. ステイン『武装SS興亡史』吉本貴美子訳、学研、p.23)
    ●世界大恐慌(1929年~、昭和4年10月24日)
       :ニューヨーク株価の大暴落。「暗黒の木曜日」
     ※ アンドルー・メロン(当時の財務長官、大富豪)のフーヴァーへの助言
        「労働者、株式、農場主、不動産などの一切を整理し・・体制
         から腐敗を一掃するのです」
     ※ ラッセル・レフィングウェル(モルガン商会)
        「救済策はこうです。チッカーを見守り、ラジオを聴き、密造
         のジンを飲み、ジャズのリズムに合わせて踊るのを人々にやめ
         させるのです。・・そして、倹約と労働を旨とする古い経済と
         繁栄に戻ることです」
     ※ 1931年に合衆国の金準備が減りはじめたとき、卸売り物価は24%下回
       っており、失業率は15%を越え、3000もの銀行が倒産していた。
       (1929年9月4日以降の暴落からルーズベルト政権が発足してニュー
       ディール政策を始める1933年までの間にアメリカ全国で約6000の銀
       行が倒産。540億ドルあったアメリカのマネーサプライは405億ドル
       と25%が吹っ飛んだ(徳川家広『バブルの興亡』講談社、p.92))
     ※ 1931年5月11日、オーストリア、ウィーンの銀行、クレディット・アン
       シュタルト倒産(ラルフ・ホートリー:「恐慌の激しい発作を、世界
       中の金融の中心地に伝染させた」)
     ※ ローズベルトの爆弾発言(J・M・ケインズが支持、1933年7月3日)
        「金との厳密な関係を回復させることによって、為替レートを安定
         させようという努力は、いわゆる国際的な金融業者の古臭い狂信
         であり、安定した為替レートは正しく見える誤信である」
      (P・バーンスタイン『ゴールド』鈴木主税訳、日本経済新聞社より)
               --------------------

       ■小選挙区性の提案:「カネのかからぬ選挙」「政情の安定」を理由
        ※小選挙区性に対する尾崎行雄の批判
           「選挙区は小さいほど金がかかるのであり、小党を出られなく
          して議席の多数が大政党に集中すれば、政情は一見安定するよう
          に見えるが、多数が無理を通すことになる。選挙費用の節約と政
          情の安定を理由とする小選挙区性の提案は、そのあまりのバカバ
          カしさに抱腹絶倒の外はない」
        ※「民主主義の数理」
             (小林良彰氏論文、数学セミナー、1999年10月号、P8)
           かなり単純化したモデルであるが小選挙区制と多数決民主主義
          の矛盾を数学的に指摘している。結論として曰く、・・・
            1.多数決民主主義に基づいて小選挙区で決定を行うと、小選
             挙区で議員を選ぶ時と、国会で議決するときの合計2回多数
             決を行う事になる。多数決を二回重ねれば51%の51%、すな
             わち26%の有権者の意見が全体を支配することになる。小選
             挙区制度は民主主義における多数決原理を根本から否定し
             かねない選挙制度である。
            2.定数1の小選挙区性下で行われる選挙における候補者が選挙
             に勝とうとする限り、すなわち得票差最大化行動を取る限
             り、候補者の政策は同じものになる。つまり小選挙区制に
             おいては政策によって選挙が争われることはない。このた
             め我々有権者は形式的選択権を与えられても実質的選択権
             を剥奪されてしまっているということになる。
            3.因に、比例代表制においては、多数決を国会の議決の時に
             一回しか使わないため、多数決民主主義をそのまま反映す
             る。
          --------------------
       ■このころ浜口雄幸内閣の金解禁政策(昭和5年1月11日)が裏目に出
        て、日本は経済不況のどん底にあった(--->満州開発が切望されて
        いた)。
          ・為替相場の乱高下--->その操作と悪用。
             円レートが実勢より高く設定されており輸出不振
          ・緊縮財政に伴うデフレ経済の推進(円レート維持)
          ・求人数激減(資本家と労働者の対立、労働争議)
          ●金解禁政策とは金を自由に輸出することができる金輸出解禁
           政策で、金本位制復帰のための措置。世界恐慌は金本位制に
           よって発生し伝播したという結論がでている。
           (高橋洋一氏著『恐慌は日本の大チャンス』講談社、p.151)

        # 昭和5年は昭和恐慌の年だ。翌年の6年にはGNPは、昭和4年に比
         べて18%のマイナス、個人消費は17%のマイナスという目を被うよ
         うな惨憺たる不況だ。雇用者数は18%も減り、農産物価格は、20%
         以上も下がった。町には失業者があふれ、失業率は20%を越した。
          農村の小作農は、4割ぐらいに達する小作料を負担していた上
         に、農産物価格が暴落したので、生活に困り、欠食児童と娘の身
         売りが激増した。こうした農村の貧しさに怒り狂った青年将校は、
         テロに走って、政府要人を暗殺した。若いインテリは、小作農争
         議、労働争議を指導し、社会主義運動にのめり込んでいった。
                (竹内宏氏著『父が子に語る昭和経済史』より)
        # 昭和5年日本最初のトーキー映画が上映された。日本での第一作
         は田中絹代主演の『マダムと女房』で昭和6年だった。
                     (徳川夢声『夢声自伝』講談社文庫) 
        # <金本位制度(金輸出を認める(=金解禁)制度)について>
           金本位制は、その国の紙幣通貨を金との互換性によって保証
          するものである。それゆえに通貨の信用度はきわめて高いが、
          同時に通貨発行量が、国家の保有する金の量によって決められ
          てしまう。金本位制をとる国家間の貿易では、輸出競争力のな
          い国の金が、強い国へと流入していくことになり、結果として
          国内の通貨供給量がどんどん収縮してゆく。金本位制は、経済
          的な体力を必要とする厳しい経済体制である。

       ■昭和5年1月11日の金輸出解禁後、半年もたたないうちに2億円余りの
        金が流出した。この額は、解禁のために英米と結んだ借款の額にほぼ
        等しいものであった。生糸、綿糸といった主要輸出品の価格が1/3ま
        で暴落した。デフレは緊縮を上回って加速し、労働者の解雇、賃下げ
        が一般化し、労働争議が頻発した。失業者は300万人に及び、率にして
        およそ20%を遥かに越えた。 

       ■経済の大混乱、政治の混迷は軍部を活気付かせてしまった。
        農村の困窮、米価や繭価の下落、婦女子の身売り、欠食児童増加
        (全国20万人)などが社会問題化し、不満が堆積していた。

       ■海軍練習航空隊予科練習生制度の創設(昭和5年5月29日)
          昭和5年5月29日に教育制度改正があり、勅令により、海軍練習
         航空隊令が制定され予科練習生制度が創設された。(鳥越注:地
         方や農村の貧しいが有能な人材を集めて訓練し、戦争に駆り出そ
         うという腹づもりだったのであろうか)。
        ・乙種予科練習生:S5.5.29創設、S5.6.1第一期生入隊
        ・甲種予科練習生:S12.5.18創設、S12.9.1第一期生入隊
        ・丙種予科練習生:S12.10.1創設・入隊
        ・乙種予科練習生(特):S17.12.7創設、S18.4.1第一期生入隊
         (倉町秋次『豫科練外史<1>』教育図書研究会、1984年、p.82)

       ■青年将校運動の原点となった「桜会」結成(昭和5年9月末)
         橋本欣五郎中佐:参謀本部第二部第四班(ロシア班)
            「国家改造を以て終局の目的とし之がため要すれば武力
           を行使するも辞せず」
         桜会趣意書:
           塾々(つらつら)帝国の現状を見るに・・・高級為政者の
          悖徳(はいとく)行為、政党の腐敗、大衆に無理解なる資本
          家・華族、国家の将来を思わず国民思想の頽廃を誘導する言
          論機関、農村の荒廃、失業、不景気、各種思想団体の進出、
          縻爛(びらん)文化の躍進的台頭、学生の愛国心の欠如、官
          公吏の自己保存主義等々邦家のため寔(まこと)に寒心に堪
          へざる事象の堆積なり。然るにこれを正道に導くべき事責を
          負ふ政権に何等之を解決すべき政策の見るべきものなく・・
             (秦郁彦氏著『昭和史の謎を追う<上>』より引用)

                --------------------
       ・ガンジーのダンディ行進(1930年3月)
           3月12日マハトマ・ガンジーが解放運動の大号令をかけて、
         インド国中を不服従闘争で満たし400kmの道を徒歩で行進しダン
         ディの浜辺で海水から塩を作りイギリス独占の塩専売法を破っ
         た。(第二次不服従運動開始)
       ・インド「被抑圧階級第一回会議」開催(1930年8月8日 ナグプール)
          不可触民解放の父、アンベードカルはダンディ行進を批判しつ
         つもインド独立(スワラージ)と不可触民自らの向上・自立を叫
         んだ。
         (ダナンジャイ・キール『アンベードカルの生涯』山際素男訳、
          光文社新書より)
                --------------------
       ●ロンドン軍縮条約締結(1930年、昭和5年4月22日)
             (首相:浜口雄幸、外相:幣原喜重郎)
          軍閥と結託した政友会(犬養毅、鳩山一郎ら)は、この軍縮
         条約締結を「統帥権干犯」だと非難し、民政党内閣を葬ろうと
         した。・・・それは結論的にいえば政党政治を自己否定し、そ
         の責任内閣制から独立した聖域に軍部=統帥権をおくものだった。
          さらにロンドン軍縮条約締結前後のゴタゴタで海軍の良識派
         だった山梨勝之進や掘悌吉らがいなくなり、強硬派のアホども
         (加藤寛治、末次信正ら)が主流となり、対米強行路線へと動
         き出した。

          <「統帥権干犯」="魔法の杖"(司馬遼太郎氏、前述)>
          軍の問題はすべて統帥権に関する問題であり、首相であろう
         と誰であろうと他の者は一切口だし出来ない、口だしすれば干
         犯になる(半藤一利氏著『昭和史 1926->1945』平凡社、p46)

          ※鳩山一郎の大ボケ演説(昭和5年4月25日、衆議院演説)
             政府が軍令部長の意見を無視し、杏軍令部長の
            意見に友して国防計画を決定したという其政治上
            の責任に付て疑を質したいと思うのであります。
            軍令部長の意見を無視したと言いますのは、回訓
            案を決定する閣議開催の前に当って、軍令部長を
            呼んで之に同意を求めたと云う其事実から云うの
            であリます。・・・陸海軍統帥の大権は天皇の惟
            幄に依って行われて、それには(海軍の)軍令部
            長或は(陸軍の)参謀総長が参画をLて、国家の
            統治の大権は天皇の政務に依って行われて、而し
            てそれには内閣が輔弼の責任に任ずる。即ち一般
            の政務之に対する統治の大権に付ては内閣が責任
            を持ちますけれども、軍の統制に閑しての輔弼機
            関は内閣ではなくて軍令部長又は参謀総長が直接
            の輔弼の機関であると云うことは、今日では異論
            がない。……然らば、政府が軍令部長の意見に反
            し、或は之を無視して国防計画に変更を加えたと
            いうことは、洵に大胆な措置と言わなくてはなら
            ない。国防計画を立てると云うことは、軍令部長
            又は参謀総長と云う直接の輔弼の機関が茲にある
            のである。其統帥権の作用に付て直接の機関が茲
            にあるに拘らず、其意見を蹂躙して輔弼の責任の
            無いーー輔弼の機関でないものが飛び出して来て、
            之を変更したと云うことは、全く乱暴であると言
            わなくてはならぬ。・・・
            (松本健一氏著『評伝 斎藤隆夫』、p238より引用)
              ---------------------------------------
       ・満州への定住者19万人(昭和5年発行、馬郡健太郎著『大支那案内』)
       ・牧口常三郎が創価教育学会を発足させた(1930年、昭和5年)。
          同時に刊行した『創価教育学体系』(全4巻)の第一巻には柳田
         國男、新渡戸稲造らが序文を寄せ、創価教育学支援会のメンバー
         だった犬養毅(政友会総裁)が題字を揮毫した。
                --------------------
          牧口:「所詮宗教革命によって心の根底から立て直さなければ、
             一切人事の混乱は永久に治すべからず」。(島田裕巳氏
         著作『創価学会』新潮新書、pp.31-32)
       ・台湾、霧社事件(1930年、昭和5年10月)
         高砂族の抗日暴動。日本軍が抗日派の約500人を大量虐殺した。
         (柳本通彦氏著『台湾・霧社に生きる』(現代書館)などを参照)
       ・中国国民党は、国民会議において、基本的外国政策を決定し、その
        中で関税権の回収、治外法権の回収、最終的には租借地や鉄道など
        全てを回収することを謳った。(昭和6年5月)
                 --------------------

  ★政党は、外からは、「経済失政への不満」と「国家改造運動」に包囲され、内
   からも「腐敗と堕落」により墓穴を掘っていった。
    (首相:斎藤実(S7~9)-->岡田啓介(S9~11)-->広田弘毅(S11~12)-->林銑十
     郎 (S12)-->近衛文麿(S12~14、第1次)-->平沼麒一郎(S14)-->阿部信行(S14
     ~15)-->米内光政(S15.1.16~S15.7.16)-->近衛文麿(S15~16、第2~3次)
     -->東条英機(S16~19)-->小磯国昭(S19~20)-->鈴木貫太郎(S20)-->東久邇
     宮稔彦(S20)-->幣原喜重郎(S20~21))

    ※ 昭和7年(1932)から11年(1936)にかけて、非政党エリートの力は、
     信用を失った政党の政権復帰を阻むことができるほど強大になっていた。
     政党は相対立するエリートの主張や彼らの野心の調整機関として機能で
     きなくなり、権力は官僚と軍部の手に急速に移っていったのである。
      しかし、その結果、今度は調整者不在下で生じる軍部や官僚の内部で
     の不和や分裂そのものが、内閣の一貫した政策の立案やその履行上の重
     大な妨げとなってきた。
      (ゴードン・M・バーガー著『大政翼賛会』、坂野閏治訳、山川出版社)

       ----------◇当時の資本主義日本の状況◇----------
    在野の経済評論家高橋亀吉は、『資本主義日本の現在の流れとその帰趨』(昭
   和4年1月号、「中央公論」に掲載)で当時の資本主義日本の腐敗堕落を分析して、
   その流れの行く先を鋭く指摘した。以下一部を抜粋するが、当時の政界財界の大
   デタラメの様子がよくわかる。しかも70年経た現在と酷似していることに注目。

    さて、いまわが資本主義の現状をみるに、大略、次の四点を結目として、
   その生産力は多かれ少なかれ萎縮し、あるいは退歩しつつあることを発見する。
     (1)営利行為の反生産化
     (2)資本権力の反生産化
     (3)資本家階級による資本の食い潰し
     (4)資本家階級の腐敗堕落
    いったい、資本主義制度の原動力たる営利行為は、はじめ、生産力の増進と
   いうベルトを通じてつねに働らいていたものであった。・・・しかるに、わが
   資本主義のようやく成熟するや、資本家は、生産力増進というがごとき努力を
   要するベルトによる代わりに、あるいは資本力による独占、あるいは政治的諸
   特権等、楽に金儲けのできる他のベルトを利用して、その営利行為を逞うする
   にいたった。・・・しからば、いうところの政治的特権に出る営利行為の追求
   とは、そもそもいかなる方法による営利行為であるか。試みに、その重なる手
   段を例示せばじつに左(注:原文は縦書き)のごときものがある。
     (イ)保護関税の引き上げによる利得。
     (ロ)「国家事業」その他の名によって補助金を得ることによる利得。
     (ハ)「財界救済」ないしは「国家事業」救済等の名による利得。
     (ニ)鉄道、鉱山、水力電気、電気供給路線、ガス等の特許、国有土地およ
       び林野の払い下げ、国営事業の請負、用地買上げ、等々による「利権」
       ないし「特権」による利得。
     (ホ)国産品奨励その他の名により、高価にて政府買上げの特約による利得。
     (ヘ)低金利資金貸下げの名による利得。
     (ト)預金部資金貸付けの名による同資金食荒らしによる利得。
     (チ)特種銀行の貸出という名による資金の濫用による利得。
     (リ)米価調節その他による利得。
     (ヌ)税金免除、脱税看過、課税軽減、その他による利得。
    その他、細かな点をあげれば際限もない。右の中、多くは説明なくともその
   意味を理解していただくに難くないと思うが、・・・(ハ)についてはたんに最
   近のことのみをあげるも、震災手形関係二億七百万円、台湾銀行および日銀特
   融関係七億円、という巨額を国民の負担で貸し付け(事実においてはその過半
   をくれてやったわけ)、なお、この外にも預金部の金数千万円が同様に濫費せ
   られ、・・・(ホ)の代表的のものとしては、わが兵器、造艦、その他の軍需品
    、国有鉄道の車両、機関車等の注文のごときである。 (ヘ)および(ト)にいた
   っては政界の「伏魔殿」として有名であって、・・・(チ)に至っては、台湾、
   朝鮮両銀行の大不始末が何よりも雄弁であるが、このほか、多少の程度の差は
   あるが、他の特種銀行も同じく食い荒らされている。たとえば坪十銭くらいで
   買った荒地数百町歩が、坪一円くらいの担保で某々銀行より貸し出され、それ
   が選挙費になれりというがごとき、・・・また、地方農工銀行がつねに政争の
   具に供せられているごとき、いずれもその片鱗である。・・・
    以上のごとく、資本主義そのものは、その営利行程その他において、その生
   産力の抑圧、減耗、退化をもたらしつつある。その結果はいうまでもなく資本
   主義的発展の行き詰まりであり、その衰弱であり、大衆の生活難加重であり、
   資本主義に対する積極的否定運動の勃興である。・・・
    (-->この風潮は昭和の初め頃の資本主義の否定・修正から社会主義運動の
                          発展につながっていった)。
       
       ------◇政界財界腐敗への痛烈な反応と軍部の台頭◇------
    ・浜口雄幸首相が凶弾に倒れる。(1930年、昭和5年11月14日-->昭和6年死亡)
       浜口雄幸首相は軍縮について海軍の統帥部の強硬な反対を押しきり、
      昭和5年4月、ロンドン海軍軍縮条約に調印し右翼や野党(政友会)に
      「統帥権干犯」として糾弾されていた。以後昭和史は滅亡に向かう。
                   (北一輝の扇動、佐郷屋留雄の凶行)
      ※北一輝『日本改造法案大綱』(大正8年刊)より
        「国民は生活不安に襲われており、西欧諸国の破壊の実例に学ぼうと
       している。財政・政治・軍事権力を握っている者は、皇権にかくれてそ
       の不正な利益を維持しようと努力している。われわれは全国民の大同団
       結を実現して、天皇にその大権の発動を求め、天皇を奉じて国家改造の
       根底を完成しなければならぬ」。
    ・民間右翼は、政党政治打倒をかかげ、軍部独裁政権こそが日本の舵取りに
     ふさわしいと主張するようになった。

    ●満州事変(1931年、昭和6年9月18日~昭和8年5月塘沽(タンクー)
          停戦協定)
             ("毎日新聞後援・関東軍主催・満州戦争")
        -------------------------------------------------------
        日本の新聞は一度だって戦争を未然に防いだことはなかった。
       事実上戦争の推進役でしかなかったわけで、いまも本質的には変
       わっていない。それはなぜなのかと自問したほうがいい。報道企
       業を単に主観的な社会運動的側面から見るだけでなく、市場原理
       のなかでの狡猾な営利企業という実相からも見ていかないと。前
       者はもともと幻想だったのですが、きょうびはその幻想や矜持も
       薄れて、営利性がとてもつよくなっています。そうした営利指向
       も権力ヘの批判カを削ぎ、戦争めく風景に鈍感になることとつな
       がっている。(辺見庸『抵抗論』毎日新聞社、2004年、p.157)
        -------------------------------------------------------

      ※柳条湖事件:午後10時20分、奉天郊外の柳条湖で関東軍の指揮下にあ
       る独立守備隊の将校が満鉄線を爆破。これを中国軍(張学良)の攻撃
       と詐称し、板垣は独断で独立守備隊第二大隊と第二十九連隊(川島正
       大尉、河本末守中尉)に、北大営の中国軍と奉天城を攻撃するように
       命じた。(田中隆吉はS46.2月の東京裁判にむけてのウールワースの
       非公式尋問において、この事件が関東軍の仕業であることを明言し
       た。しかし正式な尋問においては明言を避けた)。
      ※満州国独立承認、日満議定書締結。
      ※この満州事変は日本の破滅への途における画期的転機だった。
        首謀者:関東軍高級参謀板垣征四郎大佐、次級参謀石原莞爾中佐
            (陸軍参謀本部作戦部長建川美次は黙認した)
      ※錦州爆撃:石原莞爾の独断による錦州張学良軍爆撃--->国際連盟に対
            する挑戦。(1931年、昭和6年10月8日)
      ※この事件頃より軍部にファシズムが台頭。
        中央の命令を無視した関東軍の動きと、それに呼応した朝鮮軍(司令
       官林銑十郎中将)の動きに対して、時の首相、若槻礼次郎やその他の
       閣僚はただただ驚くばかりであった。しかも所要の戦費の追認までした
       のであった(責任者たちの厳罰はなかった)。満州事変は政党政治にも
       とづく責任内閣制も幣原の国際協調政策も一気に吹き飛ばしてしまっ
       た。
      ※民間右翼と陸軍の将校たちが一気に結びついた。

    ●軍部によるクー・デタ計画(昭和6年(1931年)、三月事件、十月事件)
       とくに十月事件は、民間右翼(大川周明、北一輝、井上日召ら)と陸
      海軍青年将校・中堅将校が図った大掛かりなクー・デタ(未遂)事件。
       これらの首謀者(「桜会」=橋本欽五郎ら)は軽い判決で、事件そのも
      のは闇に葬り去られた。(北一輝:国家社会主義者:「資本家と政治家
      に対決する兵士と農民の結合」)
                ***********************
       「三月事件は、小磯(国昭・陸軍省軍務局長)、建川(美次・参謀本
      部第二部長)、二宮(治重・参謀次長)、橋本(欣五郎・中佐)、重藤
      (千秋・中佐)など陸軍の一部が、宇垣(一成)陸相を担いで政権を奪
      取するために企てた陰謀でした」。また同事件に民間から呼応した人物
      として右翼の大川周明の役割も強調した。(東京裁判にむけてのサケッ
      トによる木戸幸一への尋問より)(粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道
      <上>』講談社、p.123)
            ----------------------------------
    ・中国共産党は1931年(昭和6年)11月7日、江西省瑞金で第一会全国ソビエ
     ト代表者大会を開いて、中華ソビエト共和国臨時政府を成立させた。(中
     国共産党と蒋介石の対立激化)。毛沢東はモスクワにより首長に任命され
     「中央執行委員会首席」という肩書きを与えた。但し紅軍のトップは朱徳
     だった。さらに上海から周恩来が党書記として赴任し最高権力を与えられ
     た。周恩来はモスクワで訓練されたプロ集団を使って、卓越した行政能力
     と粛清という恐怖のもとで共産党による統治を確立した。
         (ユン・チアン『マオ<上>』講談社、pp.180-185)
            ----------------------------------

  ★ 若槻内閣総辞職(昭和6年(1931年)12月11日)
      若槻内閣総辞職は、浜口雄幸ー幣原喜重郎的政策、つまりは国際連盟・
     ワシントン条約的国際秩序に対する協調政策が、完全に歴史の舞台から姿
     を消したことを意味した。--->挙国一致的連立内閣構想--->大政翼賛へ。
               (福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)
  ★ 犬養毅内閣(昭和6年12月)は発足と同時に金輸出再禁止(大蔵大臣、高橋是
   清)を行った。浜口雄幸と井上準之助の二年半にわたる苦労は水の泡と消えた。
   そしてこれ以後の日本経済は果てしないインフレへと転げ込んでいった。
    犬養毅内閣はまた、戦前最後の政党内閣となってしまった。「憲政の神様」
   が幕引役とは、まことに歴史の皮肉としかいいようがない。(5・15事件:海軍
   将校を中心とするクー・デタ未遂事件。昭和7年5月15日)

    ●桜田門事件:李奉昌(リポンチャン)が桜田門外の警視庁正面玄関付近で
     昭和天皇の乗った馬車に手榴弾を投げた。
    ●第一次上海事変(1932年、昭和7年1月28日)
       日本軍の謀略で田中隆吉中佐と愛人川島芳子が組んで仕掛けた事変。
             (半藤一利氏著『昭和史 1926->1945』平凡社、p92)
       この軍事衝突は日中関係において必然だった。中国側の抗日意識・ナ
      ショナリズムは、遅かれ早かれ、日本と対決せざるをえないものだった
      し、日本側もまた、大陸から手を引く意思がない以上、それをさけるこ
      とができなかったのである。投入戦力約5万人、戦死者3000人余りに達
      したが、日本側が得たものは何もなかった。英国は徐々に中国支援へと
      傾いていった。     (福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)
     ※『肉弾三勇士』(1932年、昭和7年2月22日)
        江下武二、北川丞、作江伊之助の3名の一等兵は、爆薬を詰めた
       長さ3mの竹製の破壊筒を持って上海近郊の中国防護線の鉄条網に突っ
       込み、このため陸軍の進軍が可能となった。(大貫恵美子氏著『ねじ
       曲げられた桜』岩波書店)これは後に「散華」とか「軍神」という
       歪められた実質のないまやかしの美辞麗句と共に、日本人全員が見習
       うべき国への犠牲の最高の模範という美談・武勇談として軍に大いに
       利用され、日本人の心に刻み込まれた。(ただし、彼らの命は導火線
       の長さをわざと短くしたことで、意図的に犠牲にされていた)。

        注釈:「散華」(さんげ)とは四箇法要という複雑な仏教法義の
           一部として、仏を賞賛する意味で華をまき散らす事を指す。
           軍はこの語の意味を本来の意味とは全く懸け離れたものに
           変え、戦死を「(桜の)花のように散る」ことであると美
           化するために利用したのである。(大貫恵美子氏著『ねじ
           曲げられた桜』岩波書店)

    ●「血盟団事件」(首謀者:国家主義者(民間右翼)、井上日召)
        1.井上準之助蔵相の暗殺(1932年、昭和7年2月9日)       
         ※浜口、井上は民生党内閣において通貨価値守護の義務感を捨てず、
          不評だった緊縮財政を敢えて推進していた。これはまた肥大する
          軍事予算を圧縮する意図もあった。
             <井上準之助蔵相の政策(緊縮財政、金解禁など)>
            イ.昭和5年度以降、一般会計で新規公債を計上しない。
            ロ.特別会計での新規公債計上を半分以下にする。
            ハ.ドイツ賠償金600万円以上を全て国債償還に充当。
            ニ.「金解禁」(金本位制への復帰)
                これまでの金輸出禁止(金本位制度一時停止
               (大正6年~昭和5年))を解除し金本位制への復帰。
               (緊縮財政、消費節約、輸入抑制と一体で施行)。
                この「金解禁」は当時の日本にとっては円を大幅
               に切り上げることになるが、国内経済の体質改善の
               ために敢えて行った。これはまた国内不採算企業に
               市場からの撤退を強いた。
                     *****************
               ※日本の「グローバル化」。
                 結局、このために日本は1929に始まった世界恐
                慌に巻き込まれ、日本は昭和恐慌となり第不況に
                見舞われた。大胆な構造改革は”凶”となった。
               ※関東大震災後、復旧為に外国からたくさんの
                物資を購入したため、海外貯蓄の金が減少した。
                すると日本の金の価値が徐々に下落し、大正12
                年の49$50/100円が大正13年末には38$50/100円
                と円が下落してしまった。この為替相場の激落
                で国民は金輸出禁止の影響を痛感した。
               ※レート換算で円を払うより金の現物支払いが有利
               ※当時の緊満財政、公債発行、国民の浪費状態、
                輸入超過状態、物価高騰、高い生活費、為替相場
                低落の状態で金輸出禁止を解除(金解禁=金本位制
                への復帰)すると、ますます輸入超過が助長され、
                外貨準備高は底をつき、日本は激しい財政破綻を
                招来する恐れあり。(金本位制は、この当時のグ
                ローバルスタンダードだった)
            ホ.財政の整理緊縮、国民の消費節約、勤倹力行の奨励。

        2.団琢磨(三井合名理事長)を狙撃(1932年、昭和7年3月5日)
           金融恐慌時代には必ず自国通貨を守ろうという運動がある。
          しかしその裏で秘かに自国通貨を売りまくって、為替差益を稼
          ごうとする卑しい人間が存在する。それは概ね裕福な財閥、大
          富豪、上流階級の人間だろう。団琢磨の暗殺の背景に三井物産
          の「円売りドル買い」があった。
         ※四元義隆(当時東大生、三幸建設工業社長)
           「あのころの政党は、財閥からカネをもらって癒着し、ご都
          合主義の政治を行っていた。この国をどうするのか。そんな大
          事なことに知恵が回らず、日本を駄目にした。これではいかん、
          (と決起した)ということだった」。

  ★ 浜口雄幸、井上準之助の死後、軍部の横暴と圧力(テロの恐怖)によって政党
   が実権を失い、日本は転落の一途を辿った。

    ●「満州国建国宣言」(東三省=吉林省・黒龍江省・遼寧省)
       日本政府と関東軍(土肥原賢二ら)によりごり押し独立(1932年、
      昭和7年3月1日)。中華民国からの独立、五族協和・王道楽土(なんの
      こっちゃ?)を謳う。東京では(二葉会-->)一夕会系の中堅幕僚らの
      支持。昭和9年愛新覚羅溥儀は皇帝になり、帝政に改組された。 
                      (--->「満州は日本の生命線」)

      ※ 満州国建国は昭和陸軍の軍人たちに軍事力が人造国家をつくりあげ
       ることが可能だという錯覚を与えた。その錯覚を 「理想」と考えてい
       たわけである。これが明治期の軍人たちとは根本から異なる心理を生
       んだ。つまり軍事は国家の威信と安寧のために存在するのではなく、
       他国を植民地支配する有力な武器と信じたのである。その対象に一貫
       して中国を選んだのである。
             (保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<上>』より引用)
      ※ 因に日満と中国国民党の間では、昭和8年5月31日の塘沽(タンクー)
       停戦協定(関東軍と中国軍の間で締結、満州国の存在を黙認させる協
       定)から昭和12年7月の廬溝橋事件までの4年2か月の間、一切の戦闘行
       為はなかった。
      ※ たしかに当時の満州国は発展しつつあった。だがその手法は、満州
       協和会といった民間日本人や、満州人、中国人、在満朝鮮人らを徹底
       して排除した、陸軍統制派と新官僚とによってなされたものだった。
       つまり、<二キ三スケ>という無知無能連中(東条英機、満州国総
       務長官星野直樹、南満州鉄道総裁松岡洋右、日本産業鮎川義介、産業
       部長岸信介)に牛耳られていた。残念ながらこの盤石になりつつあっ
       た満州は、石原莞爾の目指したものではなかった。
                  (福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)
            -------------------------------------
    ・オタワ会議(昭和7年7月):自由貿易帝国主義からの撤退
       イギリス帝国がその自治領や植民地を特恵待遇にして経済を守ると
      いう、植民地ブロック経済(スターリング・ブロック)を採用。(次
      いでフランス、アメリカも同様の措置をとった)

    ・リットン調査団の満州踏査(昭和7年2月~8月、10月に報告)
        ○柳条湖事件は日本の戦闘行為を正当化しない。
        ○満州国は現地民の自発的建国運動によって樹立されたもの
         ではない。
                <解決策提示>
           1. 日中双方の利益と両立すること
           2. シビエトの利益に対する考慮が払われていること
           3. 現存の、諸外国との条約との一致
           4. 満州における日本の利益の承認
           5. 日中両国間における新条約関係の成立
           6. 将来における紛争解決への有効な規定
           7. 満州の自治
           8. 内治および防衛のための保障
           9. 日中両国間の経済提携の促進
           10. 中国の近代化のための国際的協力
         (子細にみれば、日本に不利なものでは、けっしてない)
                   (福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)
            -------------------------------------

    ●五・一五事件(1932年、昭和7年5月15日(日)):犬養首相(政友会)射殺
       海軍士官と陸軍士官学校候補生、それに橘孝三郎の農本主義団体が
      加わっての凶行。彼等のスローガンは政党政治打倒、満州国の承認、
      軍部独裁国家樹立といった点にあったが、この事件は図らずも国民の
      同情を集めた。これにより政党政治(内閣)の終焉が明らかとなった。
       (統帥権の干犯をたてに民政党内閣を攻撃し、それによって政党政治
      の自滅へと道を開いた犬養は、みずから軍人の独走の前に身をさらさな
      ければならなくなってしまった)。
       橘孝三郎を除く全ての犯人は昭和15年(1940年)末までに釈放された。
     ※橘孝三郎:昭和5年(1930)に「愛郷塾(自覚的農村勤労学校)愛郷塾」)
       を創立したトルストイ(農民生活の気高さを賛美したロシア貴族)
       信奉者。
       <以下(ヒュー・バイアス『昭和帝国の暗殺政治』内山秀夫・増田修
        代訳、刀水書房、pp.59-60)より>
        第一次大戦によって西洋文明の崩壊がはっきりした、と橘は語った。
        「われわれはナショナリズムに回帰し、完璧な国家社会を要望する
       国家社会主義的計画経済原理に立って、日本を再編成しなければなら
       ないのだ」、と彼は説いた。「マルクス主義が救済策を提供すること
       はあり得ない。マルクスが考察したのは工業化ずみの国家であるのに
       反して、日本は小独立農民の国家である。農民を犠牲にして工業によ
       って豊かになったイギリスを模倣するという誤ちを近代日本はおかし
       てしまったが、日本は農民の国なのであって、金本位制で利潤を都市
       に流出する資本主義は、その農民の国を破壊しっつあるのだ」。
        その当時の事態をこと細かく説明するのはむずかしくないが、救済
       策ということになると、このトルストイの旧使徒は理想に燃えて幻影
       を追ったのであった。「日本はその個人主義的な産業文明を一掃して、
       ふたたび独立自営農民の国にならなければならない」と彼は語った。
       「対外進出と国内革新は同時に進められねばならない。満州の馬賊は
       大した問題ではない。日本が打倒しなければならないのは、アメリカ
       と国際連盟なのだ。・・・国民は金権政治家の道具と化した腐敗した
       議会から解放されなければならない。・・・「われわれが求めている
       のは、自治農村共同体社会にもとづいた代議組織である」。
                   ++++++++++++++++   
      首謀者古賀中尉:
        「五・一五事件は、犬養首相と一人の警官の死のほかに、いった
        い何をもたらしたのだろうか。まず、国家改造運動の真意が、公
        判を通じて国民の前に明らかになった。血盟団の評価も変った。
        国賊と呼ばれた小沼正義や菱沼五郎らも、国士と呼ばれるに至っ
        た。
         この逆転の流れがなければ、二・二六事件は起らなかったので
        はないか、と私は思っている。私たちの抱いた信念はたしかに歴
        史の流れに転機をもたらした」(立花隆氏「日本中を右傾化させ
        た五・一五事件と神兵隊事件」文藝春秋 2002;9月特別号:433ペー
        ジより引用)

      ※青年将校運動は浅薄であると同時に狂暴であり、その浅薄さがその
       持つよこしまな力をつつみ隠していたのである。街頭演説に訴える
       精神とは違った色に染められてはいるが、質的には変わるところの
       ない、未熟で偏狭な精神の持ち主である青年将校は、陸海空軍を通
       じて蔓延していた精神構造の典型であった。
       (ヒュー・バイアス『昭和帝国の暗殺政治』内山秀夫・増田修代訳、
       刀水書房、pp.45-46)
         +++++++++++++++++++++++++++++++++++++
      ※以下、陸軍参謀本部刊行『統帥参考』より
         (以下、司馬遼太郎氏著『この国のかたち<一>』より孫引き)
   
        「統帥権」: ・・・之ヲ以テ、統帥権ノ本質ハ力ニシテ、其
              作用ハ超法規的ナリ。
               従テ、統帥権ノ行使及其結果ニ関シテハ、議会
              ニ於テ責任ヲ負ハズ。議会ハ軍ノ統帥・指揮並之
              ガ結果ニ関シ、質問ヲ提起シ、弁明ヲ求メ、又ハ
              之ヲ批評シ、論難スルノ権利ヲ有セズ。
       「非常大権」: 兵権ヲ行使スル機関ハ、軍事上必要ナル限度ニ
              於テ、直接ニ国民ヲ統治スルコトヲ得ルハ憲法第
              三十一條ノ認ムル所ナリ。         

      ※昭和初年、陸軍の参謀本部が秘かに編んだ『統帥綱領』『統帥参考』
       にあっては、その条項をてこに統帥権を三権に優越させ、"統帥国家"
       を考えた。つまり別国をつくろうとし、げんにやりとげた。
         +++++++++++++++++++++++++++++++++++++

  ★五・一五事件事件前後の”日本の変調のはじまり”について
     「五・一五事件」では、海軍士官と陸軍士官候補生、農民有志らにより
    首相の犬養毅が惨殺された。にも拘らず、当時の一般世論は加害者に同情
    的な声を多く寄せていた。
     年若い彼らが、法廷で「自分たちは犠牲となるのも覚悟の上、農民を貧
    しさから解放し、日本を天皇親政の国家にしたいがために立ち上がった」
    と涙ながらに訴えると、多くの国民から減刑嘆願運動さえ起こつた。マス
    コミもそれを煽り立て、「動機が正しければ、道理に反することも仕方な
    い」というような論調が出来上がっていった。日本国中に一種異様な空気
    が生まれていったのである。
     どうしてそんな異様な空気が生まれていったのか、当時の世相を顧みて
    みると、その理由の一端が窺える。
     第一次世界大戦の戦後恐慌で株価が暴落、取り付け騒ぎが起き、支払い
    を停止する銀行も現れていた。追い討ちをかけるように、大正十二年には
    関東大震災が襲う。国民生活の疲弊は深刻化していたのだ。昭和に入ると、
    世界恐慌の波を受けて経済基盤の弱い日本は、たちまち混乱状態になった。
     「五・一五事件」の前年には満州事変が起きていた。関東軍は何の承認
    もないまま勝手に満蒙地域に兵を進め、満州国を建国した。中国の提訴に
    より、リットン調査団がやって来て、満州国からの撤退などを要求するも、
    日本はこれを拒否。昭和八年には国際連盟を脱退してしまう……。
     だが、これら軍の暴走、国際ルールを無視した傍若無人ぶりにも、国民
    は快哉を叫んでいたのである。
     戦後政治の立役者となった吉田茂は、この頃の日本を称して「変調をき
    たしていった時代」と評していた。確かに、後世の我々から見れば、日本
    全体が常軌を逸していた時代と見えよう。
     またちょうどこの頃、象徴的な社会問題が世間を騒がせていた。憲法学
    者、美濃部達吉による「天皇機関説」問題だ。天皇を国家の機関と見る美
    濃部の学説を、貴族院で菊池武夫議員が「不敬」に当ると指摘したのであ
    る。
     しかし、天皇機関説は言ってみれば、学問上では当たり前の認識として
    捉えられていた。天皇自身が、側近に「美濃部の理論でいいではないか」
    と洩らしていたほどであった。しかし、それが通じないほどヒステリック
    な社会状況になっていたのである。
     天皇機関説は、貴族院に引き続き衆議院でも「国体に反する」と決議さ
    れた。文部省は、以後、この説を採る学者たちを教壇から一掃してしまう。
    続いて文部省は、それに代わって「国体明徽論」を徹底して指導するよう
    各学校に通達したのであった。「天皇は国家の一機関」なのではなく、「
    天皇があって国家がある」とする説である。
    (さらに「国体明徽論」は、「天皇神権説」へとエスカレートしていった)。
     ・・・この時代、狂信的に「天皇親政」を信奉する軍人、右翼が多く台
    頭してきたのであった。
     「天皇親政」信奉者の彼らは、軍の統帥部と内閣に付託している二つの
    「大権」を、本来持つべき天皇に還すべきである、と主張した。天皇自身
    が直接、軍事、政治を指導し、自ら大命降下してくれる「親政」を望んだ
    のである。「二・二六事件」を起こした青年将校たちも、そうした論の忠
    実な一派であった。(保阪正康氏著『あの戦争は何だったのか』新潮新書、
    pp.57-60より)

  ★ 民政党の経済政策の破綻。政友会の大陸積極策とその帰結としての満州事変。
   政党政治の帰趨はもとより、内外の情勢の逼迫が政党政治の存続を困難にして
   いた(政党政治の自己崩壊)。

    ●海軍大将斉藤実の「挙国一致内閣」(昭和7年5月22日~昭和9年7月)の成立
      政党政治の終焉の象徴(政党内閣・政党政治・議会政治の機能不全)
      ※ 1932年(昭和7年)以降の数年間は、国策の遂行に必要な専門知識を
       保持すると自負する官僚と軍部エリートの優越性が、大幅に認められる
       に至った点で特徴的である。この結果軍部の政治支配の増大をもたらし
       、ひいては日本軍国主義の確立をもたらした。
          <大衆の政治参加の問題:官僚の画策>
          1.鎮圧による支配(内務省警保局)
          2.既存の選挙過程の「浄化」
             地方の名望家と政党の連携を弱体化させるような施策
             (「選挙粛清運動」、後藤文夫、丸山鶴吉ら)
          3.政治的異端分子を「粛清」選挙運動に吸収
             敵対する側の一方(社会大衆党)を支持吸収して既成
             政党の弱体化を図った。

      ※ 軍部も政党も1930年代には共通のジレンマに直面した。日本の安全
       保障に不可欠と判断される軍事的、経済的政策を実行するためには、
       全国の資源を軍事と重工業に集中しなければならなかった。そのため
       には、陸軍が非常に関心をもっていた貧困化した農民の利益や、政党
       が多くの場合その利害の代表であった地方の農業・商工業団体の利益
       を犠牲にしなければならなかった。結局のところ陸軍も政党もその政
       策決定においては、国民の生活水準よりも国防の方を重視した。
        この選択は1945年の不幸な結果をもたらしただけでなく、戦時中の
       国民生活に大きな影響を与えた。それにもかかわらず、政党は支配集
       団の一員としての使命感から、一貫して軍事的膨脹主義を支持した。
       政党のこのような政策は誤ちであり不賢明なものであったことは後に
       明らかになった。
       (ゴードン・M・バーガー著『大政翼賛会』、坂野閏治訳、山川出版社)
         +++++++++++++++++++++++++++++++++++++
    ●熱海事件(第3次共産党検挙)(1932年、昭和7年10月30日)
      風間委員長以下、中央地方の幹部は軒並み逮捕され共産党は事実上壊滅
     状態となった。(松村(M)はスパイだった)

  ▼▼▼▼▼ 昭和十年代は人間の顔をした悪魔が日本を支配した ▼▼▼▼▼
  ▼▼▼▼▼ 多くの国民は無知に埋没し、悪魔は国民を蹂躙した ▼▼▼▼▼

  ★【軍部におけるファシズムの顕在化とその台頭】
     (昭和陸軍には戦術はあっても、哲学も世界観も何一つなかった)
    ※ファシストが何よりも非であるのは、一部少数のものが暴力を行使して、
     国民多数の意思を蹂躙することにある。
    ※ファシズムとは社会学的な発想に基づく政治体制である。(福田和也氏)
      ファシズムは社会を「束ねる」事を目指したことにおいて、ほぼデュケ
     ルムの問題意識と重なると云うことができるだろう。ファシズムの様々な
     政策や運動行為、つまり国家意識の強調、人種的排他差別、指導者のカリ
     スマ性の演出にはじまり、大きな儀式的なイベント、徹底した福祉政策、
     官僚性をはじめとする硬直した統治機構に対する攻撃、国民的なレジャー、
     レクレーションの推進などのすべてが、戦争やナショナリズムの高揚とい
     う目的のために編成されたのではなく、むしろ拡散され、形骸化してしま
     った社会の求心性を高めるために構成されていると見るべきだろう。
      ファシズムが成功したのは、第一次大戦において敗れたドイツや、王政
     が瓦解したスペイン、王政と議会とバチカンに政治権力が分散し、その分
     裂が大戦後昂進するばかりだったイタリアといった社会の枠組み崩壊した
     り、激しい亀裂に見舞われた社会においてばかりであった。
     (デュケルム(フランス社会学中興の祖)の考え
        近代社会が大衆化するにしたがって社会がその求心力を失い、
       社会を構成する成員が帰属意識と共通感覚を失って浮遊しはじめる
       ーーいわゆるアノミー現象が起こる。デュケルムはこうして拡散し
       た社会を改めて「凝集」する事を社会学の任務とした。(福田和也
       氏著『地ひらく』文藝春秋))
    ※日本政治研究会(時局新聞社)の見解
      「日本ファシズムは、国家機関のファショ化の過程として進展しつつ
     ある。政党形態をとってゐるファシズム運動は、この国家機関のファシ
     ョ化を側面から刺激するために動員されてゐるだけである。同じく官僚
     機構内部に地位を占めながら、かかるファショ化を急速に実現せんとす
     る強硬派と、漸進的にスローモーションで実現してゆく漸進派とのヘゲ
     モニー争奪は、満州事変以後の政局をながれる主要潮流をなしてゐる。
     そして後者が国家機関における主要支配勢力として政権を握り続けてゐ
     る」。(保阪正康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、p.16)
     ------------------------------------------------------------------
    ※労働運動と左翼および彼らの活動の源泉である民主主義の行き過ぎを弾圧
     するファシスト流の極端なナショナリズムは、米英両政府と産業界及び多
     くのエリートの見解ではファシズムは、一般には、むしろ好意的に見られ
     ていた。
        ファシズムへの支持は直ちに表明された。イタリアでファシスト
       政権が誕生し、それによって議会制度が速やかに崩壊させられ、労
       働運動及び野党が暴力的に弾圧されると、ヘンリー・フレッチャー
       大使はその政権誕生を称える見解を表明し、以後はそれがイタリア
       を始めとする地域に対するアメリカの政策を導く前提となった。イ
       タリアは明白な選択を迫られている、と彼は国務省宛に書いた。
       「ムッソリーニとファシズム」か、「ジオリッティと社会主義」か。
       ジオリッティはイタリアのリベラリズムの指導的人物だった。10年
       後の1937年にも、国務省はまだファシズムを中道勢力と見なし続け、
       彼らが「成功しなければ、今度は幻滅した中流階級に後押しされて、
       大衆が再び左翼に目を向けるだろう」と考えていたのだ。同年、イ
       タリア駐在の米大使ウイリアム・フィリップスは「大衆の置かれた
       状況を改善しようとするムッソリーニの努力にいたく感動し」、
       ファシストの見解に賛成すべき「多くの証拠」を見出し、「国民の
       福利がその主たる目的である限り、彼らは真の民主主義を体現して
       いる」と述べた。フィリップスは、ムッソリーニの実績は「驚異的
       で、常に人を驚かし続ける」と考え、「人間としての偉大な資質」
       を称えた。国務省はそれに強く賛同し、やはりムッソリーニがエチ
       オピアで成し遂げた「偉大な」功績を称え、ファシズムが「混乱状
       態に秩序を取り戻し、放埓さに規律を与え、破綻に解決策を見出し
       た」と賞賛した。1939年にも、ローズヴェルトはイタリアのファシ
       ズムを「まだ実験的な段階にあるが、世界にとってきわめて重要」
       と見ていた。
        1938年に、ローズヴェルトとその側近サムナー・ウェルズは、
       チェコスロヴアキアを解体したヒトラーのミュンヘン協定を承認し
       た。前述したように、ウェルズはこの協定が「正義と法に基づいた
       新たな世界秩序を、諸国が打ち立てる機会を提供した」と感じてい
       た。ナチの中道派が主導的な役割を演じる世界である。1941年4月、
       ジョージ・ケナンはベルリンの大使館からこう書き送った。ドイツ
       の指導者たちは「自国の支配下で他民族が苦しむのを見ること」を
       望んではいず、「新たな臣民が彼らの保護下で満足しているかどう
       かを気遣」って「重大な妥協」を図り、好ましい結果を生み出して
       いる、と。
        産業界も、ヨーロッパのファシズに関しては非常な熱意を示した。
       ファシスト政権下のイタリアは投資で沸きかえり、「イタリア人は
       自ら脱イタリア化している」と、フォーチュン誌は1934年に断言し
       た。ヒトラ-が頭角を現した後、ドイツでも似たような理由から投
       資ブームが起こった。企業活動に相応しい安定した情勢が生まれ、
       「大衆」の脅威は封じ込められた。1939年に戦争が勃発するまで、
       イギリスはそれに輪をかけてヒトラ-を支持していた、とスコット
       ・ニュ-トンは書いている。それはイギリスとドイツの工業と商業
       及び金融の提携関係に深く根ざした理由からであり、力を増す民衆
       の民主主義的な圧力を前にして、「イギリスの支配者層がとった自
       衛策」だった。(ノーム・チョムスキー『覇権か、生存か』
                    鈴木主税訳、集英社新書、pp.98-99)

  ★【官僚化した軍部の暴走の時代、国家が命を翻弄する時代の再来】
  ☆国民性・国民意識:「やっぱり戦争がないとダメだ、軍部頼むよ」
            「満州には日本の未来がある。一旗あげるチャンスがある」

             <軍部の独善主義とその暴走>
    ※ところで、ついに今日の事態を招いた日本軍部の独善主義はそもそも何故に
     よって招来されたかということを深く掘り下げると、幼年学校教育という神
     秘的な深淵が底のほうに横たわっていることを、我々は発見せざるを得ませ
     ん。これまで陸軍の枢要ポストのほとんど全部は幼年校の出身者によって占
     有されており、したがって日本の政治というものはある意味で、幼年校に支
     配されていたと言っていいくらいですが、この幼年校教育というものは、精
     神的にも身体的にも全く白紙な少年時代から、極端な天皇中心の神国選民主
     義、軍国主義、独善的画一主義を強制され注入されるのです。こうした幼年
     校出身者の支配する軍部の動向が世間知らずで独善的かつ排他的な気風を持
     つのは、むしろ必然といえましょう。
     (注釈)幼年学校→陸軍幼年学校
        陸軍将校を目指す少年に軍事教育を施すエリ-卜教育機関。満13歳か
       ら15歳までの三年教育。年齢的には中学に相当。前身は1870年(明治3
       年)、大阪兵学寮内に設置された幼年校舎。1872年(明治5年)、陸軍
       幼年学校に改称。東京、大阪、名古屋、仙台、広島、熊本の六校があり、
       卒業後は陸軍士官学校予科に進んだ。幼年学校、士官学校、陸軍大学校
       と進むのが陸軍のエリートコースといわれた。
             (昭和20年、永野護氏『敗戦真相記』、バジリコ、p.22)

  ★【人間の屑と国賊の時代】
    人間の屑とは、命といっしょに個人の自由を言われるままに国家に差し出して
   しまう輩である。国賊とは、勝ち目のない戦いに国と民を駆り立てる壮士風の愚
   者にほかならない。(丸山健二氏著『虹よ、冒涜の虹よ<下>』新潮文庫、p46)
    昭和10年代は人間の屑と国賊が日本にはびこった時代だったといっても言い過
   ぎにはならないだろう。

  ★【戦争は起きる】
    誰しも戦争には反対のはずである。だが、戦争は起きる。現に、今も世界
   のあちこちで起こっている。日本もまた戦争という魔物に呑みこまれないと
   もかぎらない。そのときは必ず、戦争を合理化する人間がまず現れる。それ
   が大きな渦となったとき、もはや抗す術はなくなってしまう。
           (辺見じゅん『戦場から届いた遺書』文春文庫、p13)

  ★日中戦争の特質:中国に対する差別意識
    この戦争のもう一つの特徴は、日本の中国に対する特別な意識、ある意味
   では差別意識に基づいていたと言えます。中国人に対しては、これを殺した
   って構わない。どうしたって構わないという感覚を持っていた。満州事変の
   経験に鑑みて、日本は対支那軍の戦闘法の研究を始めます。それまで日本陸
   軍は主たる敵はソ連ですから、対ソ戦の研究をし、対ソ戦の訓練をしていた
   のですが、満州事変で中国軍と戦うことになったので、改めて中国軍との戦
   いはどういうふうにやったらいいかという研究を陸軍の学校の一つである歩
   兵学校でやったわけですが、その教訓を『対支那軍戦闘法ノ研究』というか
   たちで1933年にまとめています。
    その中にはいろいろなことが書いてありますが、とくに重要なのは、「捕
   虜の処置」という項目です。そこには「捕虜ハ他列国人ニ対スル如ク必スシ
   モ之レヲ後送監禁シテ戦局ヲ待ツヲ要セス、特別ノ場合ノ外之レヲ現地又ハ
   他ノ地方ニ移シ釈放シテ可ナリ。支那人ハ戸籍法完全ナラサルノミナラス特
   ニ兵員ハ浮浪者多ク其存在ヲ確認セラレアルモノ少キヲ以テ仮リニ之レヲ殺
   害又ハ他ノ地方ニ放ツモ世間的ニ問題トナルコト無シ」と書いてあります。
   そこには、つまり中国人の人権を認めない、非常に差別的な意識がここに表
   れていると言えます。(藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、
   pp.68-69)

  ★歴代首相
    斎藤実(S7~9)-->岡田啓介(S9~11)-->広田弘毅(S11~12)-->林銑十郎(S12)
    -->近衛文麿(S12~14、第1次)-->平沼麒一郎(S14)-->阿部信行(S14~15)-->
    米内光政(S15.1.16~S15.7.16)-->近衛文麿(S15~16、第2~3次)

    ● F.D.ルーズベルト、アメリカ第32代大統領に就任(1933年3月4日)
       1. 全国銀行休業の上緊急銀行救済法案提出
       2. 失業保険、高齢者福祉の充実
       3. 農産物の生産調整
       4. 様々な公共事業の推進(TVAなど)
       5. 預金者保護
      (6. サウジアラビアの石油漁り(筆者私論))

    ● ヒトラーの台頭(1933年1月~):ナチ党の一党独裁体制確立(6月14日)
       ※(シモーヌ・ヴェイユの言葉によると)ヒトラーの台頭当時、ナ
        チスは「必要とあらば労働者の組織的な破壊をもためらわぬ大資
        本の手中に」、社会民主党は「支配階級の国家機関と癒着した官
        僚制の手中に」、肝腎の共産党は「外国(ソ連)の国家官僚組織
        の手中に」あって労働者たちは孤立無援だった。(シモーヌ・ヴ
        ェイユ『自由と社会的抑圧』の解説(富原眞弓)より、岩波文庫、
        p.177)
      1933年
       1月30日:軍部クーデタの恐れのため、ブロンベルク将軍を国防相
            に任命して鎮圧を図るが、ヒンデンブルク大統領は不本
            意ながらヒトラーを首相に任命し、右翼連立政権が成立
            する。
       2月 1日:ヒトラー首相の強要で、大統領は国会を解散する。広範
            囲な全権委任獲得を求め、多数を得るために総選挙を選
            択。
       2月 4日:出版と言論の自由を制限する取締法の通過。
       2月24日:ナチス突撃隊が共産党本部を襲撃して占拠。
       2月27日:国会議事堂の炎上(オランダ人共産党貞のルッペを逮捕
            するとともに、これを機会に共産党議員の逮捕)。
       2月28日:事実上の戒厳令を閣議で決定する。
       3月 5日:ナチス党が選挙で第一党になる。
       3月23日:帝国議会で全権委任法(受権法)が成立し翌日に発効。
       4月 1日:ユダヤ人排斥連動の実施。「専門的官職再興法」(ユダヤ
            人とマルクス主義者を官職から排除できる法律)やナチ党
            中央委員会(ユリウス・シュトライヒャー)を使った徹底
            的弾圧。(ロバート・ジェラテリー『ヒトラーを支持した
            ドイツ国民』根岸隆夫訳、みすず書房も参照)
       5月10日:ナチス政府が社会民主党の資産没収。ゲッベルスは非ド
            イツ的な書籍の焚書を扇動。
       7月14日:政党新設禁止法によりナチス党の独裁樹立。また、国民
            投票に関しての法律の実施。「遺伝疾患予防法」制定。
       10月14日:国際連盟とジュネーブ軍縮から脱退の声明。
       11月12日:国際連盟脱退の国民投票。95%が政権支持。
       12月 5日:補足命令で患者の遺伝疾患やアルコール中毒などの当局
            への届け出義務が発生した。
       12月 7日:労働組合の解散命令。
       12月28日:学校での挨拶は「ハイル・ヒトラー」と規定。
      1934年
       4月20日:ハインリヒ・ヒムラー率いる政治警察は中央集権化して
            絶大な権力をふるっており、ついにプロイセン・ゲシュタ
            ポの長官の地位までも手中にした(ロバート・ジェラテリ
            ー『ヒトラーを支持したドイツ国民』根岸隆夫訳、みすず
            書房、p.38)
       6月30日:「長いナイフの夜」、SA突撃隊貝の虐殺と粛清。
       8月 2日:ヒンデンブルク大統領の死去。「国家元首法」の発効で
            ヒトラー首相は大統領を兼任して、合法的に総統に就任
            して独裁の完成。
       8月19日:新国家元首への信任の国民投票で89%の賛成。
       (以上の年表の主要部分は、藤原肇氏著『小泉純一郎と日本の病理』
                          光文社、pp.156-157より)
       ※ニュールンベルク法制定(1935年9月)
         ”ドイツ人の血統とドイツ人の名誉を保護する法”
       ※「水晶の夜」(1938年11月9日~10日):ユダヤ人に対する全国的
        なポグロム(襲撃)。
         11月7日ポーランド・ユダヤ人ヘルシェル・グリュンスパンがパリ
        のドイツ大使館の下級外交官エルンスト・フォン・ラートを撃った
        (グリュンスパンの両親がドイツから追放されたのが動機)のを機
        会に開始された。(ロバート・ジェラテリー『ヒトラーを支持した
        ドイツ国民』根岸隆夫訳、みすず書房、p.151)
       ※アドルフ・アイヒマン(元親衛隊(SS)中佐)
         無思想で道化のような人間によってファシズムが行われたとき笑
        うしか対応の仕方がなかった。(ハンナ・アーレント『イェルサレ
        ムのアイヒマン』)
           一度おこなわれ、そして人類の歴史に記された行為はすべて、
          その事実が過去のこととなってしまってからも長く可能性とし
          て人類のもとにとどまる。これが人間のおこなうことの性格な
          のである。
                  *************
           アイヒマンという人物の厄介なところはまさに、実に多くの
          人々が彼に似ていたし、しかもその多くの者が倒錯してもいず
          サディストでもなく、恐ろしいほどノーマルだったし、今でも
          ノーマルであるということなのだ。われわれの法律制度とわれ
          われの道徳的判断基準から見れば、この正常性はすべての残虐
          行為を一緒にしたよりもわれわれをはるかに慄然とさせる。
       ※ニュールンベルグ裁判で法廷に呼び出されたポーランド人看守の証言
           子供を連れている女性はいつでも子供と一緒に焼き場に送り
          込まれた。子供は労働力としての価値がなく、だから殺された。
          母親たちも一緒に送られたのは、引き離せばパニックやヒステ
          リーにつながりかねず、そうなると絶滅工程が減速する可能性
          があり、それを許容している余裕はなかったからだ。母親たち
          も一緒に殺して、すべてが静かに滑らかに進むようにしたほう
          が無難だった。子供は焼き場の外で親から引き離され、別々に
          ガス室に送られた。その時点ではなるべく多くの人を一度にガ
          ス室に詰めこむことがもっとも優先順位の高い事項だった。親
          から引き離せばもっと多くの子供だけを別に詰めこむことが可
          能になったし、ガス室が満杯になったあとで大人たちの頭上の
          空間に子供を放りこむこともできた。ガス室でのユダヤ人根絶
          の最盛期には、子供は最初にガス室に送ることなしに、焼き場
          の炉に、あるいは焼き場近くの墓穴に直接投げこむように、と
          の命令が出されていた。(ライアル・ワトソン『ダーク・ネイ
          チャー』旦敬介訳、筑摩書房、pp.397-398)

       ***************     ***************   ***************
     <以下、クラウス・コルドン『ベルリン1933』酒寄進一訳、理論社より>
     ※ナチの典型的スローガン「パンがなけりゃ、法律なんてくそくらえだ」
      ヒトラーの「優性至上主義」は障害者、病者を収容所に隔離、隔世
      することから始まり、果ては「ホロコースト」にまで至った。
     (※当時の元リトアニア領事代理、杉原千畝は日本政府に反命しユダヤ人
       の国外脱出を助けた。帰国後彼は非難と左遷の憂き目に会い、名誉が
       回復されたのは、ほんの最近のことである)。
     ※フォス新聞より
       現実の矛盾は、暴力で解決することはできないだろう。しかし、民衆
      のあいだの対立は、暴力によって沈黙させることが可能だ。貧困をなく
      すことはできないが、自由をなくすことは可能だ。困窮を訴える声を消
      すことはできないが、報道を禁ずることは可能だ。飢えをなくすことは
      できなくても、ユダヤ人を追放することは可能だ。・・・ドイツは世界
      を制覇するか、消え去るかだ。(クラウス・コルドン『ベルリン1933』
      酒寄進一訳、理論社より)
     ※ヒトラーの脅迫的演説
       ・・・もしドイツ民族がわれらを見捨てるならば、天よ、われらを許
      したまえ。われらは、ドイツのために必要な道を進むであろう。(同上)
       (マルクス:「理論もそれが大衆の心をつかむやいなや、物質的
              な力になる」はファシズムを予告している)
     ※ナチ突撃隊に埓された監獄のなかで
       「・・・だが、最悪なのはそんなことじゃない。共産党と社会民主党
       がいがみあっているのは知っているだろう。監獄の中でも、おなじ調
       子だったんだ。こうなった責任を、おたがいにかぶせあってあってい
       たんだ。悲惨な状況でなかったら、笑いがでていただろう。処刑台の
       下に来てまで、いっしょに死刑執行人と闘おうとせず、けんかをして
       いるんだからな」(同上)
     ※ 1933年9月、ヒトラーはナチ党大会で、司令部衛生班に対して「ライ
      プシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー(LAH)」という名称を正
      式に与えた。さらに11月19日、LAHの隊員は帝国首相アドルフ・ヒトラ
      ーに無条件の特別な忠誠を誓った。ここにおいてヒトラーはLAHをSS(
      親衛隊)帝国指導者からもナチ党からも切り離して直接自分の指揮下に
      おいただけでなく、これによって正規の国防郡と警察とは違う、いかな
      る法的根拠ももたない独立した軍事組織を創設した。
     (ジョージ H. ステイン『武装SS興亡史』吉本貴美子訳、学研、pp.41-42)
     ※ヒトラーによるSA(国家社会主義運動のための私設革命部隊で、褐色の
      シャツを着た突撃隊(SA:Sturnabteilung))の粛清(1934年6月30日)
       レーム事件:ナチ親衛隊によるSA指揮官エルンスト・レーム殺害など
      (ジョージ H. ステイン『武装SS興亡史』吉本貴美子訳、学研、p.24)

              <ナチズムの社会主義的根源>
        「ドイツは観念の世界においては、すべての社会主義的夢の最も
       信頼のおける代表者であり、現実の世界においては、最も高度に組
       織化された経済体制の最も有力な建築家であったからーー20世紀は
       われわれのものである。いかなる形で戦争が終っても、われわれは
       代表的国民である。われわれの観念は人類の生活目的を決定するで
       あろうーー世界史は現在、わが国においては人生の新しい偉大な理
       想を最終の勝利に押し進めているのに反し、同じときにイギリスに
       おいては、世界史的な原理が最終的に崩壊するというすばらしい光
       景を露呈しているのである」。
        1914年にドイツに起った戦時経済は、「最初に実現した社会主義
       社会であって、その精神は社会主義的精神の最初の積極的な現われ
       であり、単に漠然と要求された現われではない。戦争という緊急事
       態のもとで、ドイツの経済生活のなかに社会主義的理念が入り込み
       〔その組織は新しい精神と結びつき〕、そしてこのようにして、わ
       が国の防衛が人類のために1914年の観念、ドイツ的組織の観念、す
       なわち国家主義的社会主義の民族共同体(Volksgemeinschaft)を
       生み出したのである。われわれは真にそのことを注意していないが、
       国家と産業におけるわれわれの全政治的生活は高い段階に上ってい
       る。国家と経済は結びついて新しい統一体を形成しているのである。
       ……官吏の仕事を特徴づける経済的責任感はいまやすべての私的活
       動(原文では企業者と農民の組織、労働組合)に広がつてゆく」。
       経済生活の新ドイツ的協同組合組織は(プレンゲ教授は未完成であ
       り、不完全であることを認めているが)、「この世で知られている
       国家の生命の最高の形態である」。
        最初、プレンゲ教授はなお自由の理念と組織の理念とを調和させ
       ようと望んでいた。もっともそれは主として全体に対する個人の完
       全でしかも自発的な服従によってではあるが。けれどもこうした自
       由主義的観念の痕跡は、彼の書物からまもなく消え失せた。1916年
       までに彼の心のなかには、社会主義と冷酷な政治的権力の結合が完
       全なものとなっていた。戦争の終る少し前に、彼は"Die Glocke"と
       いう社会主義の新聞紙上において次のように同胞に訴えている。
       「社会主義はそれが組織化されるべきものであるから、権力政策で
       なくてはならぬという事実を確認する絶好の時期である。社会主義
       は権力を獲得しなければならない。社会主義は決して盲目的に権力
       を破壊してはならない。そして民族間の戦争の際に社会主義にとっ
       て最も重要にして緊急な問題は、必ずどういう民族がぬきんでて権
       力の座につくか、ということでなければならない。というのは、そ
       の民族が諸民族の組織の代表的な指導者だからである」。
        そして彼はついにヒットラーの新秩序を正当化するに役立ったす
       べての観念を予言しているのである。「組織である社会主義の観点
       からすれば、絶対的な民族自決権は、個人主義的な経済的無政府状
       態を意味しないか。個々の民族に対しその経済生活における完全な
       自己決定権を与えることは好ましいことか。首尾一貫した社会主義
       は歴史的に決まっている勢力の真の分配にしたがってのみ、民族に
       政治的な団結権を与えることができる」。(F・A・ハイエク『隷従
       への道』一谷藤一郎・英理子訳、東京創元社、pp.220-221)
                ---------------
    ●中国「長征」のはじまり(1934年10月、8万人の行軍)
       蒋介石は「抗日」より「反共」を優先。江西省南部を中心とする共産党
      地区にたいし、本格的な包囲掃討作戦を開始。陸軍100万人、空軍200機の
      国民党の攻勢の前に共産党は根拠地である瑞金を放棄し西南方面に移動。
       この当時共産党の実権を握っていたのは、李徳(オットー・ブラウン)
      、博古(秦邦憲)、周恩来の3人の中央委員だったが、この25000里の行軍
      の間に毛沢東が共産党の指導者の地位を確立。一年に及ぶ「長征」の後、
      紅軍は陳西省延安に根拠を定めた。(この時、徹底的な抗日を唱える張学
      良の率いる東北軍は陳西省西安に駐留していた。(--->西安事件、1936年
      12月12日)日本の侵略は、この中国の内乱に乗じて拡大の一途を辿ってい
      た。
       (「長征」の行く手には国民党の四重の封鎖線があったはずだが、蒋介
      石はこの「長征」の主力部隊を意図的に通過させてやった。この詳しい理
      由は、ユン・チアン『マオ<上>』講談社、pp.229-234とpp.240-241(
      紅軍とモスクワに捕われていた息子・蒋国経との交換交渉)とを参照)。
                ---------------
      ※「長征」が1935年1月に貴州の遵義にたどりついたとき、今後の方針に
       ついて会議が行われた、そこには李徳、毛沢東、朱徳、博古、周恩来、
       陳雲らの政治局員らとともに、劉少奇、林彪、楊尚昆、トウ小平、その
       後の中国史を飾る主要な人物が際会した。毛沢東はここで黒幕として采
       配をふるうようになり、ついには絶対的権力を奪取した。
       (さらに詳細なことは、やはりユン・チアン『マオ<上>』講談社、
       pp.242- を参照)
    ・ドイツとスウェーデンで強制断種法が制定された。(1934年)
                ---------------
    ・「滝川事件」(1933年、昭和8年):京大刑法学教授、滝川幸辰氏を追放。
      「国権による自由封じ」の象徴。(黒沢明映画『わが青春に悔いなし』)
    ・挙国一致内閣(海軍大将、斉藤実)の横暴
      「非常時」を叫び、ファッショ的な風潮と言論・思想統制が強まるなか、
      共産党の弾圧が強まった。(河上肇の検挙、小林多喜二の獄中虐殺など)
      なお挙国一致とはファシズムにほかならない。
    ●「満州国」否認される。日本、国際連盟を脱退(1933年、昭和8年2月24
      日)。日本は国際的な孤立を深めていった。
      ※昭和8年頃までに満州での軍事行動は一段落した。関係者は満州国の
       育成に努力したが、日本の政府や陸軍の配慮は十分でなかった。日本
       のためだけの利益を追求するのにやっきになっており(満蒙開拓団)、
       古くからの住民の生活が不当に圧迫された。このことは日本人が他の
       民族と共存共栄する器量に乏しいことを証明した。
    ・「ゴー・ストップ事件」:大阪府警(粟屋仙吉大阪府警警察部長=S18.7
     より広島市長・原爆で死亡)と陸軍の喧嘩:国民が軍にたてつくことが
     できた最後の事件(半藤一利氏著『昭和史 1926->1945』平凡社、p119)
    ● 出版法・新聞紙法改悪(1933年、昭和8年9月5日)
       当局による新聞、ラジオの統制強化
    ・救国埼玉青年挺身隊事件(昭和8年11月13日、猪又明正氏著『幻のクーデ
      ター』参照)
    ・満州事変(1931年)の頃より約5年間ほど共産党(非合法)は相次ぐ弾圧によ
     り地下に潜り、労働者たちが反戦ビラを張りまくっていた。
     (むのたけじ氏著『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波新書、p.7)

  ★昭和十年代の大日本帝国のそこは(東京、三宅坂上、日本陸軍参謀本部)、建物
   こそ古びていたが、まさしく国策決定の中枢であった。・・・ここは左手の皇居
   と右手の国会議事堂や首相官邸のちょうど中間にある。国政の府が直接に天皇と
   結びつかないように、監視するか妨害するかのごとく、参謀本部は聳立していた
   ことになる。書くまでもないことであるが、参謀本部とは大元帥(天皇)のもつ
   統帥大権を補佐する官衙である。・・・しかし1937年(昭和12)7月の日中戦争の
   勃発以来、11月には宮中に大本営も設置され、日本は戦時国家となった。参謀本
   部の主要任務は、大本営陸軍部として海軍部(軍令部)と協力し、統帥権独立の
   名のもとに、あらゆる手をつくしてまず中国大陸での戦争に勝つことにある。次
   には来たるべき対ソ戦に備えることである。そのために、議会の承認をへずに湯
   水のごとく国税を臨時軍事費として使うことが許されている。大本営報道部の指
   導のもとになされる新聞紙上での戦局発表は、順調そのもので、・・・日本軍は
   中国大陸の奥へ奥へと進撃していった。三宅坂上の参謀本部は・・・民衆からは
   常に頼もしく、微動だにしない戦略戦術の総本山として眺められている。・・・
    特に日本陸軍には秀才信仰というのがあった。日露戦争という「国難」での陸
   の戦いを、なんとか勝利をもってしのげたのは、陸軍大学校出の俊秀たちのおか
   げであったと、陸軍は組織をあげて信じた。とくに参謀本部第一部(作戦)の第
   二課(作戦課)には、エリート中のエリートだけが終結した。・・・そこが参謀
   本部の中心であり、日本陸軍の聖域なのである。・・・そこでたてられる作戦計
   画は外にはいっさい洩らされず、またその策定については外からの干渉は完璧な
   までに排除された。・・・このため、ややもすれば唯我独尊的であると批判され
   た。・・・彼らは常に参謀本部作戦課という名の集団で動く、・・・はてしなき
   論議のはてに、いったん課長がこれでいこうと決定したことには口を封じただ服
   従あるのみである。・・・参謀本部創設いらいの長い伝統と矜持とが、一丸とな
   った集団意志を至高と認めているのである。そのために作戦課育ちあるいは作戦
   畑という閉鎖集団がいつか形成され、外からの批判をあびた。しかし、それらを
   すべて無視した。かれらにとっては、そのなかでの人間と人間のつきあい自体が
   最高に価値あるものであった。こうして外側のものを、純粋性を乱すからと徹底
   して排除した。外からの情報、問題提起、アイディアが作戦課につながることは
   まずなかった。つまり組織はつねに進化しそのために学ばねばならない、という
   近代主義とは無縁のところなのである。作戦課はつねにわが決定を唯一の正道と
   してわが道を邁進した。
         (以上、半藤一利氏著『ノモンハンの夏』より若干改変して引用)
   ※これから約60年経た現在、状況は何も変わらなかった。霞が関にたむろする見
    せかけのエリート集団が、平成の大不況のシナリオの主役となり、わが日本を
    経済的壊滅の危機に瀕しせしめている。将来を見通す知恵も知識もなく滄桑の
    変にさえも鈍感で新しいパラダイムを創造できず、過去に学ばない一群の特権
    的な役人が権力を握って、秘密主義・形式主義・画一主義で煩瑣で独裁的な政
    治を行い、そのなれの果てを今我々被支配者階級は、またしても否応なく味わ
    わされているのである。

    ----------------<軍人どもの内閣諸機関への介入>----------------
    ・陸軍が対満事務局の設置に成功(1934年)
       これにより外務省と拓務省の発言権が奪われ、満州問題は全面的に
      陸軍将校の統制下におかれることになった。
          <関東局(駐満日本大使の監督下)ー関東軍の設置>
         関東局が1934年12月26日付けで設置され、駐満日本大使は
        実際には関東軍司令官が兼任したため、結局軍人が満州問題
        を全面的に取り扱う事になった。(古川隆久氏著『あるエリ
        ート官僚の昭和秘史』芙蓉書房出版、pp.19-21)
    ・内閣審議会および直属下部機関の内閣調査局を新設(1935年、岡田内閣)
       とくに内閣調査局は軍人どもが文官行政に関与する新しい経路にな
      った。しかも内閣調査局は内閣企画庁へと発展的に改組され、政府の
      もとに行政各省の重要政策を統合する要、総動員計画の中心となって
      いった。
    ・現役将官制の復活(1936年、広田内閣)
       陸軍大臣は陸軍によって、海軍大臣は海軍によってのみ統制される
      こととなり、陸海軍いずれかが現役将官から大臣候補者を推薦するこ
      とを拒否すれば、気に入らない内閣の組閣を妨害したり、内閣の存続
      を妨げることが可能になった。
               (後述、「平民宰相広田弘毅の苦悩」を参照)
    ・「不穏文書臨時取締法」(広田内閣、1936年)
       これにより、少しでも反政府的・反軍部的なものはすべて、即、取
      り締まられることとなった。
    -----------------------------------------------------------------

  ★明治~大正~昭和と日本は富国強兵・殖産興業への道を官僚主導のもとで強制的
   に歩んでいった。しかし資本蓄積、統一規格品大量生産(メートル法採用)、教
   育改革(統一規格化した人材育成)は国民や議会の大反対を招き、日本の官僚は
  「議会が権威を持っているかぎり、近代工業国家にならない」と思うようになっ
   た。官僚は次々と汚職事件、疑獄事件をデッチあげ議会(政治家)の権威を失墜
   させようと目論んだ。「帝人事件」はその頂点であった。
    ●「帝人事件」(1934年、昭和9年)
      官僚が帝国議会の権威失墜を目論んでデッチ上げた大疑獄事件。
     昭和12年「本件無罪は証拠不十分に非ず。事実無根による無罪である」
     という判決で被告の名誉は守られたが、民主主義は守られなかった。
     この間に「2.26事件」が起こって法律が改正されたので、帝人事件以後
     議会内閣は終戦までできなかった。(行革700人委員会『民と官』より)
                 -----------------
      「帝人事件」は当時、枢密院副議長の座にあった平沼騏一郎が、腹心
     の塩野季彦を使って政党寄りの斎藤実内閣を潰すために疑獄事件を仕組
     んだものだった。端的にいえば戦前の議会政治の息の根を止めたのがこ
     のデッチ上げ疑獄事件だった。(文藝春秋 2009;5月号:113-115)
     ---------------------------------------------------------
         彦坂忠義氏(当時東北帝大理学部物理学科助手)が
         原子核の「核模型論」を提唱(1934年)。しかし当
         時は大御所ニールス・ボーアの「液滴模型論」が主
         流で相手にされなかった。結局1963年にイェンゼン
         やメイヤーが全く同じ図形でノーベル賞を受賞した
         のである。日本は全くナメられていたのであった。
         (『20世紀 どんな時代だったのか 思想・科学編』より)
     ---------------------------------------------------------
    ●永田鉄山(総動員国家推進者、陸軍統制派)暗殺される(陸軍派閥抗争)
     (1935年、昭和10年8月12日)--->二・二六事件(昭和11年2月26日)へ
       陸軍皇道派の相沢三郎中佐は、永田鉄山が社会主義者、実業界の大物、
      狡猾な官僚らと気脈を通じたことを理由として永田鉄山を斬殺した。
       (東条英機は、このあと永田鉄山に代わり、統制派のエース格となっ
      ていった)
     ※相沢三郎中佐:「この国は嘆かわしい状態にある。農民は貧困に陥り、
             役人はスキャンダルにまみれ、外交は弱体化し、統帥権
             は海軍軍縮条約によって干犯された。これらを思うと、
             私は兵士練成の教育に慢然と時をすごすことはできなか
             った。それが国家改造に関心を抱いた私の動機である」
       (ヒュー・バイアス『昭和帝国の暗殺政治』内山秀夫・増田修代訳、
                              刀水書房、p.91)

     ※永田鉄山殺害は、軍を内閣の管理下におこうとした政府の企画への陸軍
      の反革命だった(皇道派と統制派の対立抗争の帰結)。

        詳細に語らなかったけれど、弁護人の鵜沢ははっきりと理解してい
       たように、弁護側が主張したのは、陸軍とは、そのメンバーを合意な
       しには代えてはならないとする、三長官(筆者注:陸軍統制の三長官
       は参謀総長、陸軍大臣、教育総監だった)の恒久的寡頭制によって管
       理される自主的な自治団体だ、と見なすことであった。この自治団体
       は「天皇の軍隊」であり、それを内閣の管理下におこうとするいかな
       る企図も、「軍を私的軍隊に変えること」なのである。したがって、
       相沢のような人物の、たとえ言葉になってはいないにしても、頭のな
       かでは、天皇は帝位に装われたお神輿にすぎないことになる。1000年
       の歴史が、これこそまさしく日本の天皇概念であることを立証してい
       る。天皇は神人、つまり、国家の永遠性の象徴である。天皇は、その
       職にある人間が行なう進言には異議をさしはさむことなく裁可する自
       動人形(オートマトン)である。1868年の明治維新は、天皇にそうし
       た地位を創りだしたのだと言えよう。永田殺害は、陸軍の反革命の一
       部だったのである。
       (ヒュー・バイアス『昭和帝国の暗殺政治』内山秀夫・増田修代訳、
                              刀水書房、p.101)
     ※鈴木貞一(企画院総裁)が戦後に曰く
       「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」。
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    ●"統帥権"による謀略的な冀東政権が華北に誕生(1935年、昭和10年)
        日本からの商品が満州国にはいる場合無関税だったが、これにより
       華北にも無関税ではいるようになった。このため上海あたりに萌芽し
       ていた中国の民族資本は総だおれになり、反日の大合唱に資本家も参
       加するようになった。
    ・参謀本部によるいわゆる「天皇機関説」(美濃部達吉博士)への攻撃
       ともかくも昭和十年以降の統帥機関によって、明治人が苦労してつく
      った近代国家は扼殺されたといっていい。このときに死んだといってい
      い。(司馬遼太郎氏)

     「天皇機関説」:国家を法人とみなしたときに、その最高機関を天皇と考
             えること。法人企業の最高機関を社長と考えることと同
             じ。こののち、昭和10年3月国会で「国体明徴決議」なる
             ものが通り、天皇絶対主権説が日本の本当の国体とされ、
             天皇機関説は公式に国家異端の学説として排除された。
                    <国体明徴決議>
               国体の本義を明徴にし人心の帰趨を一にするは刻下
               最大の要務なり。政府は崇高無比なる我が国体と相
               容れざる言説に対し直に断乎たる措置を取るべし。
               右決議す。

        ※ 天皇機関説は高度に抽象的な法学概念がかかわる問題で、
         あまり一般人の関心をよぶ問題ではなかったのに、浜口内閣
         時代、ロンドン軍縮条約が結ばれたとき、政府が軍部の反対
         を押しきってそのような条約を結ぶ権利があるかどうか(そ
         ういう権利は天皇大権=統帥権に属するから、政府が勝手に
         軍備にかかわる条約を結ぶと統帥権干犯になるのかどうか)
         の議論がおきたとき、美濃部が天皇機関説をもとに政府の行
         動を支持したところから、天皇機関説はにわかに政治的な意
         味を帯び、ロンドン条約に反対する軍部や国家主義者たちか
         ら激しく攻撃されるようになった。(立花隆氏「日本中を右
         傾化させた五・一五事件と神兵隊事件」文藝春秋 2002;9月
         特別号:439ページより引用)

         --------陸軍内部の派閥抗争(昭和7年頃より激化)--------
         ○統制派: 青年将校たちも含め、軍人は組織の統制に服す
              べし。
               天皇機関説を奉じ、合法的に軍部が権力を手に
              入れ、そして国家総動員体制(高度国防体制)を
              つくってゆこうと主張するグループで陸軍上層部
              に多かった。
               エリート中心の近代化された国防国家を目指し、
              官僚的だった。
              (渡辺錠太郎教育総監(S11.2暗殺)、永田鉄山
               陸軍省軍務局長(S10.8に暗殺)、林銑十郎ら)
         ○皇道派: 国体明徴運動(今の腐敗した国家は日本の天皇
              の意に沿う国家ではないから、理想的な国家をつ
              くろう)に熱心で非合法によってでも権力を握ろ
              うとし、そして天皇親政による国家を目指すグル
              ープで青年将校に多かった。(農民出身の兵士た
              ちと兵舎で寝起きをともにしており)農民・労働
              者の窮状に深い同情をもっていた(精神主義的)。
               (荒木貞夫、真崎甚三郎、小畑敏四郎ら)
         -------------------------------------------------------
         <高見順『いやな感じ』角川文庫、p.425より>
      「……。どえらい戦争をはじめたら、きっと日本は、しまいには敗
     けるにきまってる。どえらい敗け方をするにちがいない。だって今の
     軍部の内情では、戦争の途中で、こりゃ敗けそうだと分っても、利口
     な手のひき方をすることができない。派閥争い、功名争いで、トコト
     ンまで戦争をやるにきまってる。そうした軍部をおさえて、利口な手
     のひき方をさせるような政治家が日本にはいない。海軍がその場合、
     戦争をやめようと陸軍をおさえられれば別問題だが、海軍と陸軍との
     対立はこれがまたひどいもんだから、陸軍を説得することなんか海軍
     にはできない。逸る陸軍を天皇だっておさえることほできない。こう
     見てくると、戦争の結果は、どえらい敗戦に決まってる。そのとき、
     日本には革命がくる」
         -------------------------------------------------------

    ●中国共産党「八・一」宣言(1935年8月1日):抗日統一戦線の呼びかけ
       「全ての者が内戦を停止し、すべての国力を集中して抗日救国の
        神聖なる事業に奮闘すべきである」

    ●牧野伸顕が内大臣を更迭される。(昭和10年12月26日)
      吉田茂、牧野伸顕、樺山愛輔は反戦の”三羽がらす”だったが、東条ら
     により身の危険さえある圧力を受けていた。

  ★農民は「富国強兵」の犠牲者だった。
    農民は明治政府の重要政策であった「富国強兵」の犠牲者であった。後進国
   が自らの原始的蓄積によってその資本主義を発展させる「富国」のために農民
   は犠牲を求められた(地主金納、小作物納の租税体系と地租の国税に占める割
   合をみても判る)。同時に「インド以下」といわれた農民は「強兵」のために
   はあたかもグルカ兵のように、馬車馬的兵士として使われた。「富国」と「強
   兵」とは農民にとって本来結合しない政策であった。この農民の二重苦にもか
   かわらず、隊附将校は「富国」のために強兵を訓練し、「強兵」と生死をとも
   にする立場に立たされていた。そして幕僚は「富国」への体制に専念した。こ
   の「富国強兵」策のもつ矛盾は、大正九年の経済恐慌、昭和二年の金融恐慌、
   昭和五年の農業恐慌によって激化された。このことは、「武窓に育って」社会
   ときりはなされていた青年将校に、軍の危機イコール国の危機であるという彼
   ら特有の信念を、いよいよ自明のものとしてうけとらせるのに十分であった。
              (高橋正衛氏著『二・二六事件』中公新書、p.148)
    ----------------------------------------------------------
        <高見順『いやな感じ』角川文庫、p.154より>
     「 ……。あの・・中尉は俺にこう言ってた。軍人として国のため
    に命を捧げるのはいいが、今の日本の、金儲けしか眼中にないような
    資本家階級のために命を捨てるんではやりきれない。奴らの手先をつ
    とめさせられるのは、かなわない。こう言うんだが、あれも俺と同じ
    水呑み百姓のせがれなんだ。今のような世の中では、百姓が可哀そう
    だ。地主に搾取されてる百姓も惨めなら、資本家に搾取されてる労働
    者も惨めだ。彼らを縛ってる鎖を断ち切るために、世の中の立て直し
    が必要だと、こう言うんだ。自分たち軍人が、喜んで命を捧げられる
    国にしなければならない。今みたいでは、兵隊に向って、国のために
    命をささげろと言うのが苦痛だ。これでは、兵隊を戦場に連れて行っ
    て、むざむざ殺すのに忍びない……」
    ----------------------------------------------------------

    ●二・二六事件(1936年、昭和11年2月26日):岡田内閣終焉-->テロの恐怖
        陸軍内部で国家改造運動をすすめていた皇道派青年将校(栗原安秀、
       村中孝次、磯部浅市ら)たち約1500名が起こしたクー・デタ未遂事件。
       緊縮財政を推進し、軍事支出をできる限り押さえようとした岡田内閣
       が軍部の標的にされ、高橋是清蔵相、内大臣斉藤実、渡辺錠太郎教育
       総監らが暗殺された。
        歩兵第一・三連隊、近衛兵第三連隊の20人余りの将校と部下約1500名
       が参加し、約1時間ほどの間に日本の中枢を手中に治めてしまった。
        皇道派の首魁は真崎甚三郎、決起隊の中心人物は野中四郎(のち自決)
       だった。
       (歩兵第三連隊安藤輝三大尉の決意と兵を想う気持ちを覚えておこう)。
       (真崎甚三郎の卑怯、狡猾さは忘れてはならない)。
        ※あてにもならぬ人の口を信じ、どうにもならぬ世の中で飛び出し
         て見たのは愚かであった。(竹島継夫の遺書より)
        ※国民よ軍部を信頼するな。(渋川善助)
           ここで真崎甚三郎を縛ってしまったら、日本の陸軍は全滅する
          といってもいい。そこで、当時、北一輝のところに若い将校が出
          入りしていたものだから、結局北一輝らのこの責任を押しつけて、
          死刑にした。(むのたけじ氏著『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波
          新書、p.13)
        ※昭和史に造詣の深い高橋正衛氏によれば「二・二六事件は真崎甚
         三郎の野心とかさなりあった青年将校の維新運動」(『二・二六
         事件』、中公新書、p.175)と結論づけられるが、真崎の卑しさ
         とでたらめは粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<下>』(講談社、
         pp.129-136)にも簡潔にまとめてある。日本ではいつもこういう
         卑怯で臆病なものどもがはびこるのである。
           ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
      蹶起趣意書
      謹んで惟るに我神洲たる所以は、万世一神たる天皇陛下御統帥の下に、
     挙国一体生々化育を遂げ、終に八紘一宇を完ふするの国体に存す。此の国
     体の尊厳秀絶は天祖肇国、神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ、
     今や方に万方に向って開顕進展を遂ぐべきの秋なり
      然るに頃来遂に不逞凶悪の徒簇出して私心我欲を恣にし、至尊絶体の尊
     厳を藐視し僭上之れ働き、万民の生々化育を阻碍して塗炭の痛苦に呷吟せ
     しめ、随って外侮外患日を逐ふて激化す
      所謂元老重臣軍閥官僚政党等は此の国体破壊の元凶なり。倫敦海軍条約
     並に教育総監更迭に於ける統帥権干犯、至尊兵馬大権の僭窃を図りたる三
     月事件或は学匪共匪大逆教団等利害相結で陰謀至らざるなき等は最も著し
     き事例にして、其の滔天の罪悪は流血憤怒真に譬へ難き所なり。中岡、佐
     郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の噴騰、相沢中佐の閃発となる、
     寔に故なきに非ず
      而も幾度か頸血を濺ぎ来って今尚些も懺悔反省なく、然も依然として私
     権自欲に居って苟且偸安を事とせり。露支英米との間一触即発して祖宗遺
     垂の此の神洲を一擲破滅に堕らしむるは火を睹るよりも明かなり
      内外真に重大至急、今にして国体破壊の不義不臣を誅戮して稜威を遮り
     御維新を阻止し来れる奸賊を芟除するに非ずんば皇謨を一空せん。恰も第
     一師団出動の大命煥発せられ、年来御維新翼賛を誓ひ殉国捨身の奉公を期
     し来りし帝都衛戌の我等同志は、将に万里征途に上らんとして而も顧みて
     内の世状に憂心転々禁ずる能はず。君側の奸臣軍賊を斬除して、彼の中枢
     を粉砕するは我等の任として能く為すべし。臣子たり股肱たるの絶対道を
     今にして尽さざれば、破滅沈淪を翻へすに由なし
      茲に同憂同志機を一にして蹶起し、奸賊を誅滅して大義を正し、国体の
     擁護開顕に肝脳を竭し、以て神洲赤子の微衷を献ぜんとす
      皇祖皇宗の神霊冀くば照覧冥助を垂れ給はんことを
        昭和十一年二月二十六日
                        陸軍歩兵大尉 野中四郎
                              他同志一同
               --------------------------
     背景:「天皇大権は玉体と不二一体のもの」(磯部「獄中遺書」)であり、 
        さらに天皇と国民は君民一体である。と同時に天皇は彼らにとり政
        治権力機構から切り離された雲の上の人であった。だから改めるべ
        きは、国民と天皇との間にある障壁にあり、それは、国民の頂上に
        いて、しかも天皇と直接話し合うことのできる重臣、元老であり、
        これを支える財閥、軍閥、官僚、政党であった。 (高橋正衛氏著
        『二・二六事件』中公新書、pp.166-167)
           ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

      ※陸軍内部の派閥抗争(権力闘争)の極致
         陸軍士官学校や陸軍大学校から軍の高級官僚が供給されるように
        なって以来、彼等の人事権が確立し、外部の干渉を排して自らの組
        織を編成するという、官僚機構独特の行動が目立ちはじめた。ここ
        に陸軍省と参謀本部の内部で、陸軍の主導権をめぐって皇道派と統
        制派の対立が生まれた。二・二六事件は権力闘争に敗れた皇道派の
        青年将校のやぶれかぶれの行動であった。いつの時代も官僚は白蟻
        のごとく国家に寄生しつつ権力闘争に明け暮れている。結局依拠す
        る基盤もろともに壊滅し、時には国家の存亡を殆うくする。日本は
        21世紀に入っても相も変わらず、全く懲りることなく同じ状況を呈
        している。

       # 私の見るところ、昭和初年代、十年代の初めに公然と軍部に抵抗
        した言論人はこの桐生を含めて福岡日日新聞の菊竹淳ではないかと
        思う。それだけにこのような言論人は歴史上に名を刻んでおかなけ
        ればならないと思うし、またその言論から学ばなければならない。
         その桐生(筆者注:桐生悠々(政次))だが、二・二六事件から
        十日ほど後の発行(三月五日の『他山の石』で「皇軍を私兵化して
        国民の同情を失った軍部」という見出しのもと、次のような批判を
        行った。
          「だから言ったではないか。国体明徽よりも軍勅瀾徽が先きで
         あると。だから言ったではないか、五・一五事件の犯人に対して
         一部国民が余りに盲目的、雷同的の讃辞を呈すれば、これが模倣
         を防ぎ能わないと。だから、言ったではないか。疾くに軍部の盲
         動を誡めなければ、その害の及ぶところ実に測り知るべからざる
         ものがあると。だから、軍部と政府とに苦言を呈して、幾たびと
         なく発禁の厄に遭ったではないか。国民はここに至って、漸く目
         さめた。目さめたけれどももう遅い」。(保阪正康氏著『昭和史
         の教訓』朝日新書、p.43)

       # 軍人その本務を逸脱して余事に奔走すること、すでに好ましくな
        いが、さらに憂うべきことは、軍人が政治を左右する結果は、もし
        一度戦争の危機に立った時、国民の中には、戦争がはたして必至の
        運命によるか、あるいは何らかのためにする結果かという疑惑を生
        ずるであろう。(河合栄治郎「二・二六事件について」、帝国大学
        新聞(S11.3.9)より引用) 
     
       # 二・二六事件の本質は二つある、第一は一部少数のものが暴力の
        行使により政権を左右せんとしたことに於て、それがファシズムの
        運動だということであり、第二はその暴力行使した一部少数のもの
        が、一般市民に非ずして軍隊だということである。
         二・二六事件は軍ファシズムによる「自ら善なりと確信する変革
        を行うに何の悸る所があろうか」という根本的な社会変革への誤り
        から出発した事件である。(河合栄治郎、『中央公論』巻頭論文) 
               (高橋正衛氏著『二・二六事件』中公新書、p.23)

       # 石原莞爾:石原が中心になってこの事件を終息させたといえる。
          「この石原を殺したかったら、臆病なまねをするな。直接自分
         の手で殺せ。兵隊の手を借りて殺すなど卑怯千万である」
        (石原莞爾は統制派の指導者武藤章とともに、鎮圧に向いて動き始
         めていた)
          「貴様らは、何だ、この様は。陛下の軍を私兵化しおって。
         即座に解散し、原隊に復帰せよ。云う事をきかないと、軍旗を奉
         じて、討伐するぞ!」
         ※ 事件後の陸軍を牽引したのは石原莞爾、梅津美治郎、武藤章
          だったが、後二者は官僚色、統制色の強い輩であり、精神的に
          皇道派的な石原莞爾は彼等(幕僚派、東条英機も)との軋轢を
          もつことしばしばであった。結局このことが石原の軍人として
          の経歴に終止符をうつことになった。

       # 昭和天皇:
          「朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ凶暴ノ将校等、其精神ニ
         於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ」
          「朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ真綿ニテ朕ガ首ヲ締ムル
         ニ等シキ行為ナリ」

       # 斎藤隆夫氏の粛軍演説(『粛軍に関する質問演説』)については
         松本健一氏著『評伝 斎藤隆夫』、東洋経済、pp254-284を参照の
         こと。
          ただし斎藤隆夫氏のこの憲政史上に残る名演説も、当時の広田
         弘毅首相、寺内寿一陸相をして、軍部に対して大した措置をとら
         せるには至らなかった。結局は皇道派の首脳を退陣させただけで、
         残った統制派が、我が世の春を謳歌することになっただけだった。

       # この重大な情勢下で日本には政治の指導者がいない。すでに多年
        来、政府は内蔵する力も、また決意も持たない。軍部と官僚と財界
        と政党の諸勢力のまぜものにすぎない。以前は強力であった政党も
        汚職と内部派閥の闘争のため、政治的には全く退化し、国民の大多
        数から軽蔑されている。(リヒアルト・ゾルゲ『日本の軍部』より
        引用)
          ※ゾルゲは事件後に陸軍統制派の覇権が確立し、日本は中国
           征服に向かうだろうということを正確に予言した。
          ----------------------------------------------------
       # 二・二六事件を官僚の視点で整理すると
         (佐藤優・魚住昭氏著『ナショナリズムという迷宮』朝日新聞社、
          pp.168-169)
         魚住 ・・・、二・二六事件は統制派に対する闘争の面は否めま
            せんよね?
         佐藤 それはそうでしょう。そこで、逆にお聞きします。全共闘
            運動の中ではいろいろな内紛がありましたが、それぞれの
            グループは何で対立していたと思いますか。
         魚住 私は全共闘世代よりも少し後の世代で、端から見ている立
            場でしたが、正直、どこが違うのかよくわかりませんね。
         佐藤 そうでしょ。まさにそれが皇道派と統制派の対立なんです。
            彼らの中では大変な対立で、場合によっては殺し合わなく
            てはならなくなるのですが、私たちにはわからないんです
            よ。全共闘型の内紛が軍事官僚の中で起きたと考えればい
            いんです。
         魚住 なるほどなあ。二・二六事件を官僚という視点で整理する
            と、30年代までの平和な時代において軍縮条約が結ばれる
            など、軍事官僚の存在意義を問われるような状況が起きた。
            そんな時代に自分たちの自己保存を図ろうとした象徴的な
            行動が二・二六事件だったということでしょうか。
         佐藤 そうだと思います。蹶起することで非日常的な状況を日常
            的な状況にする、つまり、常に軍事官僚の存在意義があり、
            自分たちの安楽な椅子を増やせるような状況を作り出すと
            いうことですね。
         魚住 二・二六事件で皇道派は潰されましたが、結果としては少
            なくとも軍事官僚の自己保存運動としては成功したわけで
            すね。
         佐藤 そう、うまくいったんです。しかし彼らは国家全体が萎縮
            した(前述より(p.167):軍が動くことの恐ろしさを目の
            当たりにすることで、マスコミも学者も経済人も政治家も
            萎縮した)ところで勢力を伸張したものですから、ビュー
            ロクラシー(官僚政治)に陥ってしまったのです。社会全
            体を自分たちが理解し、統治できると。実際、後に1940年
            体制と呼ばれる統制経済システムの構築に成功しましたね。
            一方で、戦争を機能的に遂行できるテクノクラート(技術
            官僚)の側面が弱くなり、太平洋戦争で悲惨な敗北を喫し、
            軍事官僚システムは崩壊してしまいましたが。しかし、非
            軍事官僚は整理されずに生き残って、戦後の官僚機構を形
            成していきます。彼らもビューロクラシーに染まっていた。
            これは感覚的なレベルですが、現在にまで続く日本の官僚
            制の宿痾は1930年代の軍事官僚にあるのではないでしょう
            か。
          ----------------------------------------------------

      ※久原房之助の失脚
         一国一党論を掲げて、政友会(鈴木喜三郎、鳩山一郎*)と民生
        党(若槻礼次郎、町田忠治*)の連合運動に対立していた久原房之
        助は、1933年末頃より右翼団体、急進的青年将校、エリート官僚
        を巻き込んで岡田内閣を清算しようと政界・官界・軍部を引っ掻
        き回していたが、結局二・二六事件をきっかけにして姿を消した。
      ※新たな政権獲得闘争の激化(1937~)
         1. 「主流派」(政友会=鳩山一郎 + 民生党=町田忠治)指導部と
          陸軍の正面衝突
         2. 新しい連合勢力の出現
          石原莞爾大佐+近衛文麿+金融・財閥代表
           
    ・日独防共協定(1936年、昭和11年11月)成立
       大島浩中将とナチス・リッベントロップの交渉にはじまる。
       陸軍武官が大使館の外交ルートに侵食してきたケースの典型例
                 (--->昭和12年11月にはイタリアも参加)
          ---------------------------------
    ●魯迅(周樹人)死亡(1936年、昭和11年10月19日)
       肺結核によるものだが、日本人主治医(須藤某)の治療についての
      謎は今も残る。(周海嬰『わが父魯迅』、岸田登美子ら訳、集英社)
    ●中国西安事件(1936年、昭和11年12月12日):張学良、葉剣英による蒋介
      石監禁。毛沢東もこれを扇動した。
       張学良が西安に赴いた蒋介石に、滅共ではなく抗日民族統一戦線を
      つくるよう迫って軟禁した。中国共産党(周恩来ら)の調停で蒋介石
      は解放され、これによって、第二次国共合作(昭和12年8月)が実現
      した。(蒋介石夫人宋美齢の活躍。コミンテルンからの除名という、
      毛沢東に対するスターリンの脅しもあったらしい)
              <張学良のアピール>
        1. 南京政府を改組し、各党派を参加させて、救国の責任をとること
        2. すべての内戦を停止すること
        3. 上海で逮捕された愛国領袖の即時釈放
        4. 全国のすべての政治犯の釈放
        5. 民衆の愛国運動の解放
        6. 人民の集会、結社、すべての政治的自由の保障
        7. 孫文総理の遺嘱の切実なる遵守
        8. 救国議会の即時召集       (『中国共産党資料』第八巻)
           ---------------------------------
    ・スペイン内乱(1936~1939年):航空力が現実的に試された。
       都市爆撃で都市は破壊したが、人々の戦意を奪うことはできなかった。
      爆撃機は予想外に撃墜されやすいことも判明。航空輸送の重要性も判明。
       (リチャード・P・ハリオン『現代の航空戦 湾岸戦争」服部省吾訳、
        東洋書林より引用)
    ・1937年4月26日、ドイツのコンドル部隊が、バスクの山村ゲルニカを強襲空
     爆して死者千数百人を出して壊滅させた。再建されて僅か4年のドイツ空軍
     力の飛躍的充実を見せつけるとともに戦略爆撃のおそるべき破壊力をも見
     せつけた。

  ★1937年(昭和12年)から1945年(昭和20年)までの短期間に、突然、論理的に
   整合性があり、極めて効率的で、戦時中のみならず戦後日本の奇跡の経済成長
   の礎石となった戦時経済システムができあがったことは驚嘆に値することを認
   識しよう。
    ※国家の理想は”正義と平和”にあるという日本の良識の最高峰であった
     東大教授・矢内原忠雄氏は、度重なる言論弾圧により昭和12年12月2日、
     最終講義を終えて大学を去った。以下学ぶ事の多い終講の辞より。 

       植民地領有の問題をとって考えてみても、種々の方面から事をわけ
      て考えねばならない。研究者は一定の目的を以て行われている現実の
      政策をも学問的に見て、それが正しいかあるいは利益があるかを決す
      べきであり、実行者がやっているの故を以てそれを当然に正しいとか
      利益があるとかいうことは出来ない。
       ・・・大学令第一条には大学の使命を規定して、学術の蘊奥並びに
      その応用を研究し且つ教授すること、人格を陶冶すること、国家思想
      を涵養すること、の三を挙げている。その中最も直接に大学の本質た
      るものは学問である。もちろん学問の研究は実行家の実行を問題とし、
      殊に社会科学はそれ以外の対象をもたない。また学問研究の結果を実
      行家の利用に供すること、個々の問題について参考意見を述べること
      等ももとより妨げない。しかしながら学問本来の使命は実行家の実行
      に対する批判であり、常に現実政策に追随してチンドン屋を勤めるこ
      とではない。現在は具体的政策達成のためにあらゆる手段を動員して
      いる時世であるが、いやしくも学問の権威、真理の権威がある限りは、
      実用と学問的の真実さは厳重に区別されなければならない。ここに大
      学なるものの本質があり、大学教授の任務があると確信する。大学令
      に「国家思想を涵養し」云々とある如く、国家を軽視することが帝国
      大学の趣旨にかなわぬことはもちろんである。しかしながら実行者の
      現実の政策が本来の国家の理想に適うか否か、見分け得ぬような人間
      は大学教授ではない。大学において国家思想を涵養するというのは、
      学術的に涵養することである。浅薄な俗流的な国家思想を排除して、
      学問的な国家思想を養成することにある。時流によって動揺する如き
      ものでなく、真に学問の基礎の上に国家思想をよりねりかためて、把
      握しなければならない。学問的真実さ、真理に忠実にして真理のため
      には何者をも怖れぬ人格、しかして学術的鍛錬を経た深い意味の国家
      思想、そのような頭の持主を教育するのが大学であると思う。国家が
      巨額の経費をかけて諸君を教育するのは、通俗的な思想の水準を越え
      たところのかかる人間を養成する趣旨であることを記憶せよ。学問の
      立場から考えれば戦争そのものも研究の対象となり、如何なる理由で、
      また如何なる意味をそれが有つかが我々の問題となる。戦争論が何が
      故に国家思想の涵養に反するか。戎る人々は言う、私の思想が学生に
      影響を及ぼすが故によくないと。しかし私はあらゆる意味において政
      治家ではない。私は不充分ながらとにかく学問を愛し、学生を愛し、
      出来るだけ講義も休まず努力して来ただけで、それ以外には学生に対
      して殆んど何もしなかった。学生諸君の先頭に立つようなことは嫌い
      だった。しかし私がこうして研究室と教室とに精勤したということが
      よくないというなら、それは私の不徳の致すところだから仕方がない。
      私は不充分ながら自分が大学教授としての職責をおろそかにしたとは
      思わない。しかし私の考えている大学の本質、使命、任務、国家思想
      の涵養などの認識について、同僚中の数氏と意見が合わないことを今
      回明白に発見したのである。もっとも、意見の異る人々の間にあって
      やって行けないわけではない。いろいろの人々、いろいろの傾向が一
      つの組織の中に統一せられることは、大学として結構であり、学生に
      対しても善いのである。考えや思想が一色であることは、かえつて大
      学に取って致命的である。故に私は他の人々と意見が異うからという
      理由で潔癖に出てゆくわけではない。私は何人をも憎みまた恐れるわ
      けではない。地位を惜しむものでもなく、後足で砂をかけ唾を吐いて
      出てゆくのでもない。私は大学とその学生とを愛する。私はゴルフを
      やるでなし芝居を見るでなし、教室に来て諸君に講義し諸君と議論す
      ることが唯一の楽しみであった。それも今日限りで、諸君と、また諸
      君の次々に来る学生等と、相対することも出来なくなるのだ。しかし
      私の思想が悪いというので大学に御迷惑になるとすれば、私は進んで
      止める外はないのである。
       私の望むところは、私が去った後で大学がファッショ化することを
      極力恐れる。大学が外部の情勢に刺戟されて動くことはあり得ること
      であり、また或る程度必要でもあろうが、流れのまにまに外部の動く
      通りに動くことを、私は大学殊に経済学部のために衷心恐れる。もし
      そういうことであるなら、学問は当然滅びるであろう。・・・現象の
      表面、言葉の表面を越えたところの学問的真実さ、人格的真実さ、か
      かる真実さを有つ学生を養成するのが大学の使命である。これが私の
      信念である。諸君はこれを終生失うことなくして、進んで行かれるこ
      とを望む。私は大学と研究室と仲間と学生とに別れて、外へ出る。し
      かし私自身はこのことを何とも思っていない。私は身体を滅して魂を
      滅すことのできない者を恐れない。私は誰をも恐れもしなければ、憎
      みも恨みもしない。ただし身体ばかり太って魂の痩せた人間を軽蔑す
      る。諸君はそのような人間にならないように……。
      (矢内原忠雄氏著『私の歩んできた道』
                      日本図書センター、pp.106-110)
  
  ★歴代首相
    広田弘毅(S11~12)-->林銑十郎(S12)-->近衛文麿(S12~14、第1次)-->平沼
    麒一郎(S14)-->阿部信行(S14~15)-->米内光政(S15.1.16~S15.7.16)-->近
    衛文麿(S15~16、第2~3次)-->東条英機(S16~19)-->小磯国昭(S19~20)-->
    鈴木貫太郎(S20)-->東久邇宮稔彦(S20)-->幣原喜重郎(S20~21)

  ★ここまで発展してきた医師会も日中戦争から、大東亜戦争へと続戦時体制の中で、
   戦争遂行のための国家総動員体制の中に組み込まれた。(広田弘毅内閣への軍部
   の数々の嫌がらせや組閣僚人への妨害工作)
       # 寺内(お坊ちゃん)大将の横やり
         「これには(閣僚予定者)、民政・政友の両党から二名ずつ
        大臣が入っている。これでは政党政治に他ならない。政党出身
        者は各党一名に限ると、軍からかねがね希望していたはずであ
        り、一名ずつに減らさぬ限り、軍は承知できない。陸軍大臣を
        辞退する」(この時陸軍は、新大衆政党結成と陸軍大将林銑十
        郎ないし近衛文麿内閣樹立を画策していた。-->●荻窪会談、
        昭和36年~37年、林銑十郎、安保清種海軍大将、結城豊太郎
        (銀行家)、小原直(岡田内閣法相)、永井柳太郎(民生党)、
        前田米蔵(政友会)、中島知久平(政友会)、山崎達之輔(政
        友会-->昭和会)、後藤文雄(文官)、有馬頼寧(産業組合)ら)

      ※平民宰相広田弘毅の苦悩(軍部大臣現役武官制の復活<--最悪!!) 
        広田弘毅は二・二六事件に対して粛軍を断行した。しかしこれは
       軍部内部の派閥争い(統制派による皇道派締め出し)に利用され、
       軍部が全面的に反省の意を示したことにはならなかった。そればか
       りか、陸軍より「粛軍の一環として、軍部現役大臣(軍部大臣現役
       武官制)への復帰」という提案が出され 、広田弘毅は「現役将官の
       なかから総理が自由に選任できる」ことを条件にそれを認めた。
        しかし、たとえ条件つきでも軍部大臣現役武官制のもとでは、ど
       んなときにも陸軍主導の内閣を作ることができるようになってしま
       った。(広田弘毅は、このことを軍部暴走の追随として後の東京裁
       判で弾劾されることになった。さらに彼は当時の悪名高い愛国主義
       団体(アジア主義を掲げる国家主義的団体)”黒龍会(首領:頭山
       満)”の親睦団体である”玄洋社”で、青年時に教育されていた。
       この事実も彼の判決に不利に作用した。歴史は皮肉なものである)。

      ※浜田国松による軍部政策批判(1937年、昭和12年1月21日)
         政友会、浜田国松は第70議会(広田内閣、寺内陸相)において、
        軍部の改革案と政策決定への軍の関与に対して激しく批判した。
       # 「独裁強化の政治的イデオロギーは、常に滔々として軍の底を流
         れ、時に文武烙循の堤防を破壊せんとする危険あることは国民
         の均しく顰蹙するところである」
                   (--->広田内閣は致命的な分裂へ)

       # 「軍部は野放しのあばれ馬だ。それをとめようと真向から立ち
        ふさがれば、蹴殺される。といって、そのままにしておけば、何
        をするかわからん。だから、正面からとめようとしてはだめで、
        横からとびのって、ある程度思うままに寄せて、抑えて行く他は
        ない」 (以上、城山三郎氏著『落日燃ゆ』より部分的に引用)
           
      ----------------------------------------------------------------
  ☆ 余談 <昭和12年、三木清『学生の知能低下について』(文藝春秋5月号)>
     昔の高等学校の生徒は青年らしい好奇心と、懐疑心と、そして理想主義的
    熱情をもち、そのためにあらゆる書物を貪り読んだ。・・・しかるに今日の
    高等学校の生徒においては、彼等の自然の、生年らしい好奇心も、理想主義
    的感情も、彼等の前に控えている大学の入学試験に対する配慮によって抑制
    されてゐるのみでなく、一層根本的には学校の教育方針そのものによって圧
    殺されてゐる。・・・或る大学生の話によると、事変後の高等学校生は殆ど
    何等の社会的関心ものたずにただ学校を卒業しさへすれば好いといふやうな
    気持ちで大学へ入ってくる。それでも従来は、大学にはまだ事変前の学生が
    残ってゐて、彼等によって新入生は教育され、多少とも社会的関心をもつや
    うになり、学問や社会に就いて批判的な見方をするやうになることができた。
    しかるに事変前の学生が次第にすくなくなるにつれて、学生の社会的関心も
    次第に乏しくなり、かやうにして所謂「キング学生」、即ち学校の過程以外
    には「キング」程度のものしか読まない学生の数は次第に増加しつつあると
    云はれる。  (文藝春秋 2002年2月号、坪内祐三『風呂敷雑誌』より)

  ☆ 余談 <「少国民世代」>
     「少国民世代」などとも呼ばれるこの世代は、敗戦時に10歳前後から10代
    前半であった。敗戦時に31歳だった丸山(筆者注:丸山眞男)など「戦前派」
    (この呼称は丸山らの世代が自称したものではなかったが)はもちろん、敗
    戦時に25歳だった吉本など「戦中派」よりも、いっそう戦争と皇国教育に塗
    りつぶされて育ったのが、この「少国民世代」だった。
     1943年の『東京府中等学校入学案内』には、当時の中学校の面接試験で出
    された口頭試問の事例として、以下のようなものが掲載されている。
     「いま日本軍はどの辺で戦っていますか。その中で一番寒い所はどこです
    か。君はそこで戦っている兵隊さん方に対してどんな感じがしますか。では、
    どうしなければなりませんか」。「米英に勝つにはどうすればよいですか。
    君はどういうふうに節約をしていますか」。「日本の兵隊は何と言って戦死
    しますか。何故ですか。いま貴方が恩を受けている人を言ってごらんなさい。
    どうすれば恩を返す事ができますか」。
     こうした質問は、児童一人ひとりに、君はどうするのかという倫理的な問
    いを突きつけ、告白を迫るものだった。
          (小熊英二氏著氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.657)
      ----------------------------------------------------------------

  ★ この後広田内閣が倒れて、首相選びと組閣は混迷を極めた。軍人(幕僚派)の
   横暴、横やり、いやがらせが続き、結局大命は林銑十郎に下った。林銑十郎の組
   閣も陸軍、海軍、官僚が幕僚派、満州派(石原莞爾、十河信二、板垣征四郎、池
   田成彬、津田信吾)に分かれて次々と容喙し、「林銑十郎内閣は支那と戦争しな
   いための内閣だ(石原莞爾)」という言葉にこめられた対中融和政策が永遠に葬
   られた。(昭和12年1~2月)

    ●文部省より『国体の本義』という精神教育本を発行(昭和12年4月)。
      橋川文三はその著(『昭和ナショナリズムの諸相』)のなかで興味深い
     指摘をしている。次のようにである。               
       「(ファシズムの)推進力となった団体といいますか、主体というこ
      とと同時に、その主体のさまざまなアピールに応える共鳴盤といいます
      か、そういったものを合わせて考えないと、推進力という問題はでてこ
      ないのではないかと思います。ここで共鳴盤として考えたいのは、具体
      的に申しますと、農村青年とか、一般知識人とか、学生という階層にあ
      たるわけです。はじめから右翼的な団体があって、それがそのままファ
      シズムを作りあげたのではなく、それに共鳴する大衆の側、あるいは中
      間層、その層にいろいろ問題があったわけです。だからこそファシズム
      という一つの統合形態を生みだしえたと考えるほうが妥当ではないかと
      いうことです」
      共鳴盤という言い方が示しているのだが、それは権力を動かすグループ
     と「臣民」化した国民がともに声を発し、それが山彦のようにこだまして
     反応しあうその状態といっていいのではないか。(保阪正康氏著『昭和史
     の教訓』朝日新書、pp.126-127)
       **********        **********         **********
       「久しく個人主義の下にその社会・国家を発達せしめた欧米が、今日
      の行詰りを如何に打開するかの問題は暫く措き、我が国に関する限り、
      眞に我が国独自の立場に還り、萬古不易の国体を闡明し、一切の追随を
      排して、よく本来の姿を現前せしめ、而も固陋を棄てて益々欧米攝収醇
      化に努め、本を立てて末を生かし、聡明にして宏量なる新日本を建設す
      ベきである」
      この訴えが、『国体の本義』(全百五十六頁)の全頁にあふれている。
     現在、この冊子を手にとって読んでもあまりにも抽象的、精神的な表現に
     驚かされるのだが、なによりも天皇神格化を軸にして、臣民は私を捨てて
     忠誠心を以て皇運を扶翼し奉ることがひたすら要求されている。昭和十二
     年四月には、この冊子は全国の尋常小学校、中学校、高校、専門学校、大
     学などのほか、各地の図書館や官庁にも配布されたというのである。
      この『国体の本義』は、前述の庶民の例の代表的な皇国史『皇国二千六
     百年史』を誘いだす上部構造からの国益を前面に打ちだしてのナショナリ
     ズム滴養の書であった。橋川文三がその書(『昭和ナショナリズムの諸
     相』)で説いたように、まさに共鳴盤の役割を果たしていたといっていい。
     (保阪正康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、pp.128-129)
       **********        **********         **********
       「明き清き心は、主我的・利己的な心を去って、本源に生き、道に生
      きる心である。即ち君民一体の肇国以来の道に生きる心である。こゝに
      すべての私心の穢(けがれ)は去って、明き正しき心持が生ずる。私を
      没して本源に生きる精神は、やがて義勇奉公の心となって現れ、身を捨
      てて国に報ずる心となって現れる。これに反して、己に執し、己がため
      にのみ計る心は、我が国に於いては、昔より黒(きたなき)き心、穢れ
      たる心といはれ、これを祓ひ、これを去ることに努めて来た」
      こういう説得が、この『国体の本義』の骨格を成している。(保阪正康
      氏著『昭和史の教訓』朝日新書、pp.139-140)

    ●支那事変(日中戦争、1937年、昭和12年7月7日~):南京陥落(12月13日)
      ※廬溝橋事件(昭和12年7月8日未明)が発端。(S12.6第一次近衛内閣
       発足)
         北京郊外の廬溝橋に近い野原で、夜間演習中の第一連隊第三大隊
        が、国民党軍から発砲を受けた。
         当時の中国、特に華北情勢は、蒋介石の南京政府と共産党、冀察
        政権(宋哲元政務委員長)三者のきわめて微妙なバランスと相互作
        用の上に形成されていた。(なお国民党はナチス・ドイツと極めて
        緊密な関係にあり、同時に日本は日独伊防共協定の締結国として大
        事な政治上のパートナーであって、日中が対立することはドイツの
        世界戦略にとって頭痛の種となっていた)
      ※支那事変は厳密には重慶に位置する蒋介石政権に対する軍事行動だ
       った。日本はあえて「支那事変」と称した。それは「戦争」と宣言
       した場合主として米国が日本に対する物資の輸出を禁絶するであろ
       うと虞れたからである。(瀬島龍三『大東亜戦争の実相』より)
      ※陸軍参謀本部作戦部長は石原莞爾だった。石原は作戦課長の武藤章
       らの強硬論と対立し、期せずして日中戦争不拡大派となっていた。
       #「自分は騙されていた。徹底していたはずの不拡大命令が、いつも
         裏切られてばかりいた。面従腹背の徒にしてやられたのだ」。
      ※日中戦争がなぜ起きたのかを理解するには、浦洲国建国以降の日本
       の対中国政策という問題とともに、北清事変以来、中国の主権下に
       列強が自由に設定した場所に日本軍が30年余にわたって駐屯し続け
       て領土の分離工作を進めるとともに、連日、夜間演習をおこなって
       いたという史実にも目をむけておく必要があるのではないでしょう
       か。 (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、p.76)

      ※国家至上主義の台頭(軍人の思い上がり)
        「天皇の命令といえども、国家に益なき場合は従う必要はない」。
      ※戦争拡大派:見よ!、ワルどものオン・パレードを!!
         南次郎(朝鮮総督)、小磯国昭(朝鮮軍司令官)、東条英機(関
        東軍参謀長)、富永恭次・辻政信(いずれも東条英機の輩下)、寺
        内寿一、梅津美治郎、牟田口廉也、陸軍省の大部分の阿呆ども(田
        中新一(陸軍省軍務局軍事課)、武藤章(陸軍省軍務局作戦第三課
        、この男は"悪魔の化身"といっていい)、陸軍大臣杉山元など)
        近衛文麿、広田弘毅
      ※日本史上最悪の悪魔の歌の慫慂(「軍人も国民もみんな死ね!!」)
         『海行かば水づく屍山行かば草むす屍大君の辺にこそ死なめ
                               かえりみはせじ』
          どうだ!!、この国のばけものどもが、国家をあげて慫慂したこの
         歌の非人間性を、こころ行くまで味わい給え!!。
         (当時の兵隊さんは、「海に河馬、みみずく馬鹿ね・・」と揶揄
          していたが・・・)
      ※南京攻略戦を書いた石川達三氏著『生きている兵隊』は1/4ほど伏字
       で昭和13年発表されたが翌日発禁となった。             

    ・<余談1>
       日中戦争勃発とともに日本から人気女流作家が中国に取材に出かけた。
      吉屋信子(「主婦之友」より、昭和12年8月)と林芙美子(「東京日々
      新聞」より、昭和12年12月)だった。
    ・<余談2>
       昭和12~13年にかけて、スターリンは赤軍参謀長トゥハチェフスキー
      以下の赤軍将校5000人を国家反逆剤で死刑にした。
                    (津本陽氏『八月の砲声』講談社、p.19)
    ・トラウトマン工作(昭和12年11月)の失敗
      中国側に対する余りにも身勝手で横暴な和平条件に蒋介石は回答せず。
    ・「通州事件」(1937年、昭和12年7月29日)
        冀東政権(冀東防衛自治政府=日本の傀儡政権)の保安隊が日本軍
       の誤爆(保安隊兵舎の誤爆)の報復として日本の守備隊、特務機関、
       一般居留民を200人あまり虐殺した。当時の「支那に膺懲を加える」
       というスローガンはこの事件がきっかけだった。
            (川本三郎氏著『林芙美子の昭和』、新書館より引用)
    ・”後方勤務要員養成所(後の中野学校)”が陸軍兵務局内に設立された。
      (1937年12月)(小谷賢氏著『日本軍のインテリジェンス』講談社選書
      メチエ、p.46)

    ●中国、第二次国共合作成立(1937年、昭和12年8月)。
      ※中国における排日抗日の気運の昂揚(「救国抗日統一戦線」)
    ・対中国政策における石原莞爾の孤軍奮闘(1935~1937年、昭和10~12年頃)
      (注意:石原は以前、関東軍次級参謀として満州事変の企画立案をした)
       #「支那と戦争しちゃいかん」
       #「日本は今戦争ができる状態じゃない。日満支結合してして大工業
         を興した後でなければ戦争はできない。これから十年は戦争は
         できない」
       #「支那事変をこのままにして戦争を起こして英米を敵にしたら、
         日本は滅びる」
       (以上、井本熊夫氏(元東条英樹秘書官)へのインタビュー(『沈黙
        のファイル』、共同通信社編)より引用)
      ※いやはやまったく、張作霖爆殺事件や満州事変の首謀者(石原・板垣)
       がよく言うよと言いたい。ただし、この頃の参謀本部では石原や参謀
       次長の多田駿、戦争指導班の秩父宮、今田新太郎、堀場一雄、高嶋辰彦
       らは、軍事的に冷静な目をもった良識派だった。中国の目まぐるしい
       政変と経済的復興に伴い、日本の対中姿勢も転換を余儀なくされてい
       た。

    ●第二次上海事変(1937年、昭和12年8月13日)
       中国空軍が上海の日本軍の戦艦出雲を空爆する。指揮官はアメリカ軍人
      シェンノート(宋美齢の要請)。しかし中国空軍は租界を誤爆(?)した
      り、着陸失敗など惨憺たる有様だった。西欧諸国はこの誤爆を全て日本の
      責任として報道、日本は不当にも西欧列強から手ひどく指弾され、英国は
      ついに蒋介石支援を決意した。
       結局、この第二次上海事変では、蒋介石側の溢れる抗戦意欲、ドイツの
      協力指導による焦土作戦の緻密さ、英米各国の蒋介石政権への固い支持が
      明らかになった。しかし参謀本部はこの脅威を一顧だにしなかった。
       このとき日本では松井石根を司令官とする上海派遣軍が編成され、昭和
      12年8月14日に派遣が下命された。蒋介石は15日に総動員令を発動し、大
      本営を設置、陸海空軍の総司令官に就任。これより日中衝突は全面戦争へ
      と発展した。昭和12年11月までに死傷者は4万余に達した。
      
  ★ 日中全面戦争に至り死傷者が急増した。「一撃膺懲」などという安易なスロー
   ガンのもと、何の見通しもないまま激しい総力戦へと引きずりこまれていった国
   民が、憤激したのは当然だった。しかしこのような事態にたいし、政府は国民の
   精神、気分自体を統制しようと試みはじめた。近衛首相は上海事変たけなわの9月
   11日に、日比谷公会堂で国民精神総動員演説大会を開催、事変への国民的な献身
   と集中を呼びかけた。9月22日には、「国民精神総動員強調週間実施要綱」が閣議
   決定された。10月半ばには、国民精神の昂揚週間が設けられ、政財界など民間の
   代表を理事に迎え、各県知事を地方実行委員とする国民精神総動員中央連盟が結
   成された。       (福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より要約)

  ★ 戦争拡大派が2カ月で片付くと予想した戦闘は、中国軍の烈しい抵抗で思いも
   かけない規模に拡大することになった。とくに上海に戦火が波及してからの激戦
   で、日本軍の苦戦がつづき、次々に増援兵力を送らなければならなくなった。こ
   のため兵力も、弾薬や資材も、予想もしなかった規模にふくれ上った。
    もともと日本陸軍は、対ソ戦争を第一の目標としていた。中国との戦争が拡大
   しても、対ソ戦の準備を怠るわけにはいかなかった。そして対ソ用の現役師団を
   なるべく動かさないで中国に兵力を送るために、特設師団を多数動員した。特設
   師団というのは現役2年、予備役5年半を終了したあと、年間服する年齢の高い後
   備役兵を召集して臨時に編成する部隊である。1937年後半から38年にかけて、多
   数の特設師団が中国に派遣されることになった。現役を終ってから数年から十数
   年も経ってから召集された兵士たちが、特設師団の主力を構成していたというこ
   とになる。また彼らの多くは、結婚して3人も4人も子供があるのが普通だった。
   「後顧の憂い」の多い兵士たちだったといえる。上海の激戦で生じた数万の戦死
   者の多くが、こうした後備兵だったのである。それだけに士気の衰え、軍紀の弛
   緩が生じやすかったのである。軍隊の急速な拡大による素質の低下、士気、軍紀
   の弛緩も、掠奪、暴行などの戦争犯罪を多発させる原因を作ったといえる。
             (藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、p.15)

  ★ 戦時体制下の思想弾圧
     日中戦争の長期化は国内の戦時体制強化を促し、戦争に対して非協力的であ
    ったり、軍部を批判する思想・言論・学問は弾圧・排除の対象となった。日中
    戦争勃発四カ月後の1937年11月には、ヨーロッパの反ファシズム人民戦線運動
    を紹介した中井正一らの『世界文化』グループが検挙され、『世界文化』は廃
    刊となった。翌12月、コミンテルンの人民戦線戦術に呼応して革命を企図して
    いるとして、山川均、荒畑寒村、猪俣津南雄、向坂逸郎ら約400名が一斉検挙
    され、日本無産党・日本労働組合全国評議会は結社禁止となった(人民戦線事
    件)。次いで、翌38年2月には、大内兵衛、有沢広巳、脇村義太郎ら教授グルー
    プが検挙され、治安維持法違反で起訴された(教授グループ事件)。
    (松井慎一郎氏著『戦闘的自由主義者 河合榮治郎』社会思想社、p.193より)

    ●南京事件(1937年、昭和12年12月13日)
      ※南京攻略戦の範囲についてはS12.12.1(大本営が南京攻略を命令)から
        S13.1.8(南京城占領後治安回復)までと考える(藤原彰氏著『天皇
       の軍隊と日中戦争』大月書店、p.27より)。また南京大虐殺に関する
       論争やいやがらせなどについては笠原十九司氏の『南京事件と三光作
       戦』(大月書店)という名著がある。一読されたい。
      ※当時の外相広田弘毅は特にこの事件のため後の東京裁判で文官として
       ただ一人死刑になった。
           +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
        奥宮正武氏著「大東亜戦争」、89~93ページが真実に近いだろう。
       杉山陸相、松井大将、朝香宮・柳川・中島中将など破廉恥で獰猛な軍人
       のなせるわざであった。米内海相、広田外相の外交上の苦労推して知る
       べしであろう。(なお外相広田弘毅は和平に熱心ではなかったという
       説もある。最近の文献では文藝春秋 2003(10)、p272-274も参照)
               -------   -------   -------     
        11月20日勅令により大本営が設置され、呼称は事変のままで、宣戦布
       告もないままに、本格的戦時体制が樹立された。
        第一回の大本営での御前会議で、下村定(戦線拡大派)は、その上司
       多田駿(戦線拡大反対派)を無視して「南京其ノ他ヲ攻撃セシムルコト
       ヲモ考慮シテ居リマス」という説明文を加筆した。参謀本部の秩序は酷
       く紊乱していた。当時は、統帥権の独立によって、議会の掣肘を受けな
       い軍にとって、天皇に対する忠誠と畏敬の念こそが最大にして最後の倫
       理の基盤であったはずだ。それがかような形で侵されるとすれば、いか
       なる抑止が可能であるか、暗然とせざるをえない事態であった。
        南京を陥落させることによって、支那事変の収拾の目途がまったく立
       たなくなるということさえ予見できない無知無能連中が参謀本部を支配
       していた。
           +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
                   <この頃の右翼>
        1.「観念右翼」(「日本主義者」)
            競争的政党制と選挙手続きを否定。あらゆる対立政党を
           解消して、天皇に議員選挙権を奉還し、衆議院に政府との
           共和を表明する新たな単一勢力を樹立しようとした。
            時の枢密院議長平沼麒一郎(国粋主義的色彩の強い国本
           社の主宰)がその中心人物だった。
        2.「革新右翼」
            日本をナチやファシストのような全体主義の国にしよう
           と画策。中野正剛(東方会)、橋本欣五郎陸軍大佐、末次
           信正(内相)らが際立った指導者だった。
            さらに、かつての左翼運動に中心的存在であった「社会
           大衆党」もこの「革新右翼」の一翼というべき様相を呈し
           た。
           +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

    ●近衛最大の失政:「・・仍て、帝国政府は爾後国民政府を対手とせず・・」
       これをもって、蒋介石政権との決別が決まった。(昭和13年1月16日)
      しかしこの声明は、近代日本史上、屈指の大失策であったことは明らかで
      ある。
      ※当時の陸軍内部の日中和平派は、参謀次長多田駿、戦争指導班の
       高嶋辰彦、堀場一雄、それに秩父宮だった。
      ※石原莞爾(満州より東京を俯瞰、昭和13年5月12日)
         「・・私は事件(支那事変、南京事件)が始まったとき、これは
        戦いを止める方がいいといった。やるならば国家の全力を挙げて、
        持久戦争の準備を万端滞りなくしてやるべきものだと思った。然し
        どちらもやりません。ズルズル何かやって居ます。掛声だけです。
        掛声だけで騒いで居るのが今日の状況です。・・私は3か月振りで東
        京に来ましたが、東京の傾向はどうも変です。満州も絶対にいいこ
        とはありませんが東京はいい悪いではありません、少し滑稽と思ひ
        ます。阿片中毒者ー又は夢遊病者とかいう病人がありますが、そん
        な人間がウロウロして居るやうに私の目には映ります」
                  (福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)

        ---------------------<近衛文麿の正体>---------------------
            (戦犯指名における E・H・ノーマンの近衛批判)
         過去10年ばかりのあいだに内政外交を問わず重大な曲り角がある
        たびに、近衛はいつも日本国家の舵を取っていたこと、しかもこの
        ような重大な曲り角の一つ一つでかれの決定がいつも、侵略と軍お
        よびその文官同盟者が国を抑えこむ万力のような締めつけとを支持
        したことを明らかにせずにはいない。
         近衛が日本の侵略のために行ったもっとも貴重なつとめは、かれ
        だけがなしえたこと、すなわち、寡頭支配体制の有力な各部門、宮
        廷、軍、財閥、官僚のすべてを融合させたことであった。(粟屋憲
        太郎氏著『東京裁判への道<上>』講談社、p.74)
                  ******************
         当時朝日新聞記者であった、むのたけじ(武野武治)氏は「自分
        に都合の悪い質問を受けたりすると、不快感をむき出しにして、顔
        にも足にも表現した・・・この人は、自分以外の何千万人にもかか
        わる責任ですら、ある日ぽいと捨て去るのではないか、と不安にな
        ったんです」と言う。(むのたけじ氏著『戦争絶滅へ、人間復活へ』
        岩波新書、p.21)

    ●三つの戦時統制法を制定(近衛内閣)
      ・輸出入品等臨時措置法:重要物資の軍需産業への重点配分
      ・臨時資金調整法:企業設立、増資、配当、起債、資金借入の規制
      ・軍需工業動員法
      ※議会における国家総動員法案の審議がはじまる。(S13.2、近衛内閣)
         斎藤隆夫、牧野良三、池田秀雄らは、戦争と国家総動員ならびに
        非常時における国民の権利と義務の規制などの問題は、ひとり天皇
        のみが扱いうるものであることをはっきりと主張して国家総動員法
        案の議会通過に反対した(憲法と天皇主権を楯にした)。
    ●精神障害兵士の問題
      1938年、国府台陸軍病院(現、国立精神・神経センター国府台病院)が
     全陸軍の精神障害兵士の診療・研究の中心をなす<特殊病院>として改組
     された。(清水寛氏著『日本帝国陸軍と精神障害兵士』不二出版、p.80)
    ●「国家総動員法」が正式に公布された(1938年、昭和13年4月1日)
       「本法ニ於イテ国家総動員トハ戦時(戦争ニジュンズベキ事変ノ場合
        ヲ含ム)ニ際シ国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最ム有効ニ発揮セシム
        ル様人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ」
           (同時に「電力国家管理法」も公布された)
      ※「国家総動員法」の内容
         国民を好き放題に徴用できる、賃金を統制できる、物資の生産・
        配給・消費などを制限できる、会社の利益を制限できる、貿易を制
        限できる・・・つまり戦争のために国民はもっている権利をいざと
        なったら全面的に政府に譲り渡すというもの。
        ・第四条「政府は戦時にさいし、国家総動員上必要あるときは、
            勅令の定むる所により×××することを得る」
          ("×××"の部分は文言が入ってない。つまり何でもあり)
              (半藤一利氏著『昭和史 1926->1945』平凡社、p219)

       ******* <「国家総動員法」の本質:軍人は人的資源だ> *******
         Hさんの母親から気がかりなことを聞いた。NHK『日曜討論』
        (2003年6月8日)で、自衛隊イラク派遣の推進者、山崎拓自民
        党幹事長(当時)が、「自衛隊という資源を、人的資源を我々
        が持ってる以上、しかもそれに膨大な予算を費やして維持して
        るわけだから、それを国際貢献に使わないという手はないわけ
        で」と、薄ら笑いを浮かべながら発言した、と。
         「資源というのは消費するものですよね。人間を資源という
        のはおかしい。自衛官を使い捨てにするような発想が表れてい
        ると思います」と言う彼女は、我が子の痛ましい死を通して得
        た鋭敏な直覚によって、たとえ比喩であっても裏側にある本音
        を、小泉政権にそして国家そのものに潜む人命軽視の体質を見
        抜いたのだ。
         そしてHさんの母親から後日、電話があり、「人的資源」と
        いう言葉が気になって調べたら、それが国家総動員法のなかに
        出てくるのがわかったと知らされた。
         確かに国家総動員法(1938年公布)の第一条には、「本法ニ
        於テ国家総動員トハ戦時(戦争ニ準ズべキ事変ノ場合ヲ含ム以
        下之ニ同ジ)ニ際シ国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最モ有効ニ発
        揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ」とある。
         ここでは人間は、人格も意思も認められず「統制運用」され
        る対象として物資と一緒くたに扱われている。「人的資源」の
        発想の源は、かつて国民を戦争に駆り立てたあの国家総動員法
        にあるのだ。戦前~戦中~戦後を通じて国家の非情な本質は連
        続性を持つという事実を踏まえて、状況を見抜いていかなけれ
        ばならないことを痛感する。(吉田敏浩氏著『ルポ 戦争協力
        拒否』岩波新書(2005年)、pp.102-103)
       *************************************************************** 

      ※この法律は立法権制限の最たるものであり、これがその後8年間の
       政府の議会に対する関係を変えた(議会と政党の役割がかつてない
       ほどまでに低下した)ことには疑問の余地がない。
        統帥権を法令化したこの法律をもって「軍が日本を占領した」
       (司馬遼太郎)。

      ※軍部は美術家も総動員して戦争画を制作させ、戦意高揚・戦争協力
       を押し進める方針を打ち出した。(「聖戦美術展」、アホクサ!!)

       ■政友会両派の指導者である中島と久原は、政党制度の競争的
        性格を根本的に修正して、議会を恒久的に支配できるような
        単一の新政党を結成し、その新政党を国家のための国民動員
        の機関とすることを提唱していた。これは当時の内務省をは
        じめとする官僚どもの立場と共通であった。じつにおぞまし
        い時代だった。

      +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
      ※大本営の特設:天皇の統帥権行使を輔翼すべき戦時の最高統帥機関と
              して参謀本部と軍令部の二位一体的に機能するように
              設置。単一化した機構の下に統帥と軍政との統合、調
              整及び陸海軍の策応協同を適切敏活ならしめる。
                (大本営は陸軍部と海軍部に分かれていた)
      ※「大本営政府連絡会議」と「戦争指導」
           (「戦争指導」:「戦略」と「政略」の統合と調整)
        戦略(大本営、「用兵作戦」)と政略(行政府、外交、財政、教育)
        の統合と調整を行うために天皇を輔佐する固有の国家機関は当時、法
        的にも実質的にも存在せず、大本営と政府の申し合わせにより「戦争
        指導」に関する国家意志の実質決定機関として「大本営政府連絡会議」
        が設置された。
      ※「御前会議」:天皇の御前における「大本営政府連絡会議」をいう。
              枢密院議長が統帥部、行政府に対し第三者的立場で
              出席し大局的見地から意見や勧告を陳述した。
               (以上、瀬島龍三『大東亜戦争の実相』より引用)
      +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
       ■日中戦争勃発とともに文部省は「修文錬武」をスローガンに
        全国の学校に軍事教練の強化と集団勤労の実施を指令した。
               (魚住昭氏著『渡邊恒雄 メディアと権力』より)
       ■厚生省が新設された。(1938年、昭和13年1月11日)
         内務省の薬務行政はすべて厚生省に移管された。
                (--->この後約8年間、厚生省が阿片政策を担当)
       ・1938年、里見甫は上海の陸軍特務部から阿片配給組織をつくる
        よう命令された。--->「宏済善堂」(「火煙局」=「里見機関」)
        ※阿片販売は日本政府・軍部の国家的プロジェクトだった。
         (岸信介と東条英機はアヘンで繋がっていたという話もある)
        ※阿片に関与したものども
          原田熊吉、畑俊六、里見甫、福家俊一、塩沢清宣、
         児玉誉士夫(田中隆吉の供述より)。
       ●南京攻略後は慰安婦が制度化された。
       ・満蒙開拓青少年義勇軍応募が始まる(1938年、昭和13年)
          数え歳16~19歳の青少年を国策で満州へ移民させた。彼らは後
         にソ満国境の警備に配されたし、徴兵年齢に達したら関東軍に
         召集された。
       ・ソ連極東地方内務人民委員部長官リュシコフ大将が満州国に亡命
          リュシコフによれば満ソ国境のソ連軍は飛行機2000機、戦車
         1900輛に達していたが、関東軍はそれに対して飛行機340機、戦車
         170輛だった。しかし関東軍はこの大きな差に対し何も対策を立て
         なかった。最後の死を恐れない白兵戦と大和魂に根ざす感情的な
         強がりが、このあとのノモンハン事件の大惨敗の伏線になった。
       ・「ペン部隊」:昭和13年8月に内閣情報部が武漢攻略に当たって従軍
            作家を組織した。菊地寛が中心になって人選した(各班約
           10名、女性1名ずつ)。
          陸軍班:久米正雄、尾崎士郎、片岡鉄兵、岸田国士、瀧井孝作
              丹羽文雄、林芙美子ら
          海軍班:菊地寛、小島政二郎、佐藤春夫、杉山平助、吉川英治
              吉屋信子ら
             (川本三郎氏著『林芙美子の昭和』、新書館より引用)

    ・張鼓峰事件(ハーサン湖事件、1938年、昭和13年8月)
      「ソ連軍の武力偵察」という参謀本部の中堅幕僚のちょっとした思い
      付きと一師団長の功名心の犠牲となって、多くの日本人兵士が無駄に
      死んでしまった。参謀本部作戦課は火遊び好きな幼稚なものどもの集ま
      りだった。
       ※田中隆吉中佐の述懐
          「私の連隊は、野砲、山砲、垂砲合計36門を装備していた。
         二百数十門のソ連砲兵隊と射撃の応酬をしたが、敵の弾量の豊富
         なことはおどろくばかりで、こちらは深刻な弾丸不足に悩むばか
         りであった。
          どれほど旺盛な精神力をもってあたっても、強大な火力のまえ
         には所詮蟷螂の斧であることを、身をもって知った。
          私は日本陸軍のなかで、日露戦争以後、近代装備の砲兵と戦っ
         た最初の砲兵連隊長である。張鼓峯の一戦のあと、私は日本の生
         産力をもって、近代戦をおこなうのは到底不可能であると、上司
         にしばしば意見を具申したが、耳をかたむけてくれる人はいなか
         った」 (津本陽氏『八月の砲声』講談社、p.24)
    ・陸軍参謀本部の漢口作戦、広東攻略作戦(1938年、昭和13年9~10月)
       日中の戦局はさらに長期消耗戦にはいっていった。
      ※近衛内閣(ことごとくに思慮分別のない阿呆な内閣であった)
        「東亜新秩序の建設こそが日本の聖戦の目的」
        「抗日容共政権を殱滅する」「蒋介石政権は中国全土を代表せず」

    ・蒋介石が重慶を戦時首都とした(1938年10月)。
       1938年2月からの約5.5年、日本軍は重慶に無差別爆撃を繰り返した。

    ●内閣情報委員会が、東亜新秩序建設という長期的課題に処するために
     精神総動員を強化する計画を提出(1938年、昭和13年11月26日)
      ※情報委員会を通じて内閣から中央連盟傘下の全国の諸組織(青年団
       、在郷軍人会、婦人会、農村の産業組合)に連なる強力な動員機構
       を樹立しようとした。これこそは国民を一気に「統合」しようとす
       る構想であった。
            ---------------------------------
    ●ケマル・アタチュルク逝去(57歳)(1938.11.10、AM09:05)
      約20年前、オスマン・トルコ帝国は無謀な世界戦争を挑んで敗北し、
     国土は白人列強によって分割解体されようとしていた。そして殆どの国民
     が飢えと病気に苦しめられ、何よりもすべての希望を失っていた。
      しかし「灰色の狼」が彗星のように現れた。彼はどんな苦難にも負けな 
     かった。彼は国民を叱咤激励し、ついに侵略者と売国奴を打ち破り祖国を
     守り抜いた。(三浦伸昭氏著『アタチュルク』文芸社、pp.446-447)
    ●ナチスドイツの科学者、O. ハーンとF. シュトラスマンが中性子による
     ウランの核分裂実験に成功(1938年、昭和13年12月17日)
            ---------------------------------
    ●中支那派遣軍の身勝手で傲慢な発言(1939年、昭和14年1月)
       「今事変は戦争に非ずして報償なり。報償の為の軍事行動は国際慣
      例の認むる所」(加藤陽子氏著『それでも、日本人は「戦争」を選ん
      だ』朝日出版社、p.20-21)
    ・日本軍海南島占領(1939年、昭和14年2月)
    ●「国民徴用令」が閣議決定にて公布、施行(1939年、昭和14年)
       帝国臣民を徴用して、戦争遂行のための総動員業務に従事せしめると
      いうもの。こういうものが簡単に閣議決定のみで公布、施行された時代
      があったのだ。
    ・「満州開拓青少年義勇軍」計画(1939年、昭和14年4月29日)
    ・日本軍重慶を無差別爆撃(昭和14年5月):近代戦の最も恐るべき実例が
      アメリカの雑誌『ライフ』で提供され、アメリカ市民は大きな衝撃をう
      けた。以来アメリカの世論は大きく動いた。
    ・「梅機関」設置(1939年、昭和14年5月)
       王兆銘を上海に迎えるため、参謀本部の影佐禎昭大佐によって設置
      された。この「梅機関」は中野学校卒業生や憲兵隊を招いて上海で本
      格的なインテリジェンス活動を行った。(小谷賢氏著『日本軍のイン
      テリジェンス』講談社選書メチエ、p.61)

    ●ノモンハン事件(1939年、昭和14年5~9月):制空権の重要性を証明
        この敗戦を堺に日本は南方進出を決定。
       関東軍、服部・辻らの暴走で、「元亀天正の装備」の下にソ連の近代
      陸軍と対戦させられた兵士約18000人の戦没者を数えた。中には責任を
      押しつけられて自殺させられた部隊長もあった。
       (「元亀天正の装備」については司馬遼太郎氏著『この国のかたち
                               <一>』を参照)
         
      # 第一戦の将兵がおのれの名誉と軍紀の名のもとに、秀才参謀たち
       の起案した無謀な計画に従わされて、勇敢に戦い死んでいった・・。 
                 (半藤一利氏著『ノモンハンの夏』より引用)
            <特に”ハルハ河渡河作戦”の無謀さ>
             (師団長園部和一郎中将の親書より)
          「・・・小生がハルハ河渡河作戦を非常に無謀と思ったのは、
          第一、上司のこの作戦はゆきあたりばったり、寸毫も計画的
         らしきところのなき感を深くしたこと。
          第二、敵は基地に近く我は遠く、敵は準備完全、我はでたら
         めなるように思われ、
          第三、敵は装備優良、我はまったく裸体なり。
          第四、作戦地の関係上、ノモンハノンの敵は大敵なり。
          要するに敵を知らず己れを知らず、決して軽侮すべからざる
         大敵を軽侮しているように思われ、もしこの必敗の条件をもっ
         て渡河、敵地に乗りこむか、これこそ一大事なりと愚考致した
         る次第なり」 (津本陽氏『八月の砲声』講談社、p.278)

      # ソ連・モンゴル軍の情報混乱作戦
        計画の中で、また準備処置の中で特別の位置を占めていたのは、
       敵に、我が軍が防衛態勢に移っているかのような印象を与えるた
       めに、情報を混乱させる問題である。このため、各部隊には、
       「防衛線に立つ兵士の手引き書」が配られた。構築された防衛施
       設についての嘘の状況報告と技術物資の質問表とが手渡された。
       全軍の移動は夜間にだけ行われた。待機位置に集結される戦事の
       騒音は、夜間爆撃機と小銃・機関銃掃射の騒音によってかき消さ
       れた。日本軍には、我が諸部隊によって、前線中央部が強化され
       つつあるかのような印象を与えるために、前線中央でだけラジオ
       放送が行われた。前線に到着した強力な音を立てる放送所は、く
       い打ちの擬音を放送して、あたかも、大防衛陣地の工事をやって
       いるかのように見せかけた。日本兵には戦車の騒音に慣れっこに
       させるために、襲撃前の10~12日間は、消音装置をはずした自動
       車何台かが前線に沿って絶えまなく往復した。こうした方策すべ
       ては極めて効果的であることが明らかになった。日本軍司令部は、
       我が軍の企図をはかりかねて、全く誤解に陥ってしまった。
             ---------------------------------
          ソ・モ軍はこのように工事や戦車の悪日を放送した
         のみならず、「レコードやジャズの音」をひびかせ
         (田中誠一「陣中日記」)、あるいは「日本軍の兵隊
         の皆さん、馬鹿な戦争はやめて内地の親兄弟、妻子の
         いるところへ帰りなさい。馬鹿な戦争をして何になる
         のですか。命あっての物種、将校は商売だ」などと戦
         線離脱をすすめる放送を「1日数十回放送した」とい
         う。(山下義高「ノモンハンに生きた私の記録」)
             ---------------------------------
       (シーシキン他『ノモンハンの戦い』田中克彦訳、岩波現代文庫、
        pp.49-50)

      # 信じられないようなことだが、陸軍にあっては「戦車は戦車で
        ある以上、敵の戦車と等質である。防御力も攻撃力も同じである」
        とされ、この不思議な仮定に対し、参謀本部の総長といえども疑問
        を抱かなかった。現場の部隊も同様であり、この子供でもわかる
        単純なことに疑問を抱くことは、暗黙の禁忌であった。戦車戦術の
        教本も実際の運用も、そういうフィクションの上に成立していたの
        である。じつに昭和前期の日本はおかしな国であった。
                  (司馬遼太郎氏著『歴史と視点』より引用)

      # 幼年学校、陸士、陸大を通じての大秀才であった辻政信の、ソ連
       の戦力に対する偵察が、実に杜撰きわまりないものであった事実は、
       何を意味するものであるのか。
        頭脳に片々たる知識を詰めこむことを重視するばかりで、現実を
       正確に観察する人間学の訓練を受けなかった秀才が、組織社会の遊
       泳術ばかりに長じていても、実戦において眼前の状況に対応するに
       は歯車が噛みあわず、空転することになる。
        辻参謀は根拠なく軽視したソ連軍機械化部隊と戦闘をはじめるま
       で、自分が陸軍部内遊泳の才を持っているだけで、用兵の感覚など
       という段階ではなく、近代戦についての知識がまったくといってい
       いほど欠落していることに気づいていなかった。
        日露戦争からわずか二十三年を経ただけで、日本陸軍は大組織の
       内部に閉じこもり、派閥抗争をもっぱらとする、政治家のような官
       僚的軍人を産みだしていたのである。
        時代遅れの武装をしていた中国国民軍、中共軍を相手に戦闘して
       いるあいだに、日本軍も時代遅れになった。歩兵戦闘において世界
       に比類ない威力を備えているので、いかなる近代兵器を備えた敵国
       の軍隊にも、消耗を怖れることなく肉弾で突っこめば勝利できると
       いう錯覚を、いつのまにか抱くようになっていたのである。
                (津本陽氏『八月の砲声』講談社、pp.276-277)

      # 鈍感で想像力の貧困な、無能きわまりない将官たちが、無数の若
       い将兵を血の海のなかでのたうちまわらせて死なせるような、無責
       任かつ残酷きわまりない命令を濫発している有様を想像すれば、鳥
       肌が立つ。
        彼らを操っているのは、無益の戦闘をすることによって、国軍の
       中枢に成りあがってゆこうと考えている、非情きわまりない参謀で
       あった。
        罪もない若者たちの命を、国家に捧げさせるのであれば、なぜ負
       けるときまっているような無理な作戦をたて、恬として恥じるとこ
       ろがないのか。作戦をたてる者は、戦場で動かす兵隊を、将棋の駒
       としか思っていないのかと、残酷きわまりない彼らの胸中を疑わざ
       るをえない。 (津本陽氏『八月の砲声』講談社、pp.288-289)

      # ・・・(筆者注:ノモンハン惨敗、日本軍潰滅敗走のなかで)
        辻参謀はいきなり司令部壕から飛び出し、某中尉以下約40名の前
       に立ちふさがる。将兵の瞳孔は恐怖のために拡大しているようであ
       った。辻は右第一線全滅と報告する彼らを、大喝した。       
        「何が全滅だ。お前たちが生きてるじゃないか。旅団長、連隊長、
       軍旗を見捨てて、それでも日本の軍人かっ」
        潰走してきた兵は辻参謀に詫び、彼の命令に従い、背嚢を下し、
       手榴弾をポケットに入れて前線に戻ってゆく。
                  (津本陽氏『八月の砲声』講談社、p.452)

      # 停戦協定(昭和14年9月14日)あと、ノモンハンの惨敗の責任隠し
       のため、自決すべき理由の全くない3人の部隊長が自決させられた。
        歩兵第72連隊長酒井美喜雄大佐、第23師団捜索支隊長井置栄一
       中佐(部下の無駄死にを防いだ)、長谷部理叡大佐(陣地撤退)の
        3名だった。 (津本陽氏『八月の砲声』講談社、pp.488-490)

      # 日本防衛軍全軍総指揮官、第23歩兵師団長小松原の卑怯さ
        はじめに忘れないうちに----一つ、特徴的なエピソードを述べて
       おきたい。こ頃、我々は、関東軍(すなわち、事実上、仝満洲戦線
       の)司令官植田将軍が、ハルハ河事件との関係で解任されたという、
       驚くべきニュースを受けとった。ところが、それにすぐそれに続い
       て、ハルハ河で全滅した第六軍団司令官小松原将軍が勲章を受けと
       った。何勲章だったか、青銅の鷲〔鷲はナチス・ドイツの勲章〕だ
       ったか、黒いトビだったかの。その頃の日本配層の心理のある特性
       を考えに入れなければ、この知らせは、ほんとに謎のようなものだ。
        小松原将軍は、かれの部隊が我が軍の包囲網によって閉じられた
       その次の日、この包囲網から脱け出して後方へ、満洲へと飛び去っ
       た。捕虜となった将校たちが証言していたころによると、表向きは、
       満洲の奥へとさらに前進して行く我が軍に反撃を準備するたであっ
       たかもしれないが、じつは、単に自分が助かるためだったようだ。
                    ・・・
        小松原は、ハルハ河で壊滅した後、ほとんど手中には何もなく、
       大急ぎでかき集められるだけの兵を集めた。すなわち鉄道大隊2個、
       若干のバルガ騎兵、包囲から脱出したどれかの連隊の残党、独立警
       察連隊ーーこれらの手勢をもって、我が軍からかなり離れたところ
       に防禦線を敷いた。たぶんその頃の実際の力関係を考えてであろう
       が、それはとても防御とは呼ぺぬ、名ばかりの防禦であった。・・
        かくもわずかな兵力をもって、何倍もの優勢な敵に抗した「見事
       な防禦」という満洲国境の物語は、東京ではもしかして、すこぶる
       英雄的に見えたかもしれないが、麾下の二個師団を、むざむざ絶滅
       の包囲の中に投げ込んだこのへまな将軍は、本当ならば、日本の誠
       実の概念からすれば、突然勲章など受けとるかわりに、腹切りをす
       べきだったのだ。・・・はっきりしていることは、日本軍部という
       ものは、その特有の精神構造からして、誰が率いる部隊であれ、無
       防備の前線を目の前にして、あえて国境を越えようとしないとか、
       他国の領土に突進したりしないなどということは考えもしないだろ
       う。もしそんなことが考えられないとすれば、誰かがソビエト・モ
       ンゴル軍を阻止したとしなければならなかった。その時点で、それ
       をやれたとしたら警察隊と鉄道隊員を率いた小松原将軍だけだった。
        一見して説明のつかない、ハルハ河における日本軍司令官の軍功
       のものがたりはこのように見える。(シーシキン他『ノモンハンの
       戦い』田中克彦訳、岩波現代文庫、pp.157-159)

      # 「戦後の辻参謀(元陸軍大佐、辻政信)は狂いもしなければ
        死にもしなかった。いや、戦犯からのがれるための逃亡生活
        が終わると・・・、立候補して国家の選良となっていた。
        議員会館の一室ではじめて対面したとき、およそ現実の人の
        世には存在することはないとずっと考えていた『絶対悪』が、
        背広姿でふわふわとしたソファに坐っているのを眼前に見る
        の想いを抱いたものであった。・・・それからもう何十年も
        たった。この間、多くの書を読みながらぽつぽつと調べてきた。
         そうしているうちに、いまさらの如くに、もっと底が深くて
        幅のある、ケタはずれに大きい『絶対悪』が二十世紀前半を
        動かしていることに、いやでも気づかせられた。彼らにあって
        は、正義はおのれだけにあり、自分たちと同じ精神をもって
        いるものが人間であり、他を犠牲にする資格があり、この精神
        をもっていないものは獣にひとしく、他の犠牲にならねばなら
        ないのである。・・・およそ何のために戦ったのかわからない
        ノモンハン事件は、これら非人間的な悪の巨人たちの政治的な
        都合によって拡大し、敵味方にわかれ多くの人々が死に、あっ
        さりと収束した。・・・」
               (半藤一利氏著『ノモンハンの夏』より引用)

      ※この事件での貴重な戦訓(制空権の重要性)が生かされることなく
       大東亜戦争が指導された。過去に学ばない無知無能の関東軍であっ
       た。

    ・独ソ不可侵条約締結(1939年、昭和14年8月28日)
       (--->第二次世界大戦へ)
       日本では対ソ戦の有利な戦いを練るために、ドイツと軍事同盟を結ぼ
      うかと盛んに議論している最中に、ヒトラーとスターリンが手を結んで
      いた。
       ----------------<スターリンの実像を垣間見る>--------------
        同志諸君!
         十月革命の偉大なる大義は無惨にも裏切られてしまった…
        何百万もの罪なき人民が投獄され、いつ自分の番が回ってくる
        か知るよしもない…同志諸君は知らないのか。スターリン一味
        はまんまと極右(ファシスト)クーデターをやってのけたのだ! 
         社会主義はもはや新聞の紙面に残っているだけだ。だが、そ
        の新聞も絶望的なほど嘘にくるまれている。スターリンは真の
        社会主義を激しく憎悪するがゆえに、ヒトラーやムッソリーニ
        と同じになった。己の権力を守るためなら国家を破壊し、残忍
        なドイツ・ファシズムの格好の餉食にしてしまうのだ…・。
         この国の労働者たち(プロレタリアート)はかつてツアーと
        資本家どもの権力を打ち倒した。ファシストの独裁者とその一
        味も打倒できるはずだ。
         社会主義を目指す闘いの日、メイデーよ、永遠なれ!
                          反ファシスト労働者党
        (マーク・ブキャナン『複雑な世界、単純な法則』阪本芳久訳
                              草思社、p.252 )
       -------------------------------------------------------------
     ※モロトフ・リッペントロップ秘密協定
       この独ソ不可侵条約締結の際にスターリンの側近のソ連外相モロトフ
      とナチス・ドイツの外相リッペントロップの間に結ばれた秘密協定で、
      ポーランド分割、沿バルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)
      とモルダビアをソ連に割譲することなどが取り決められていた。この
      中にはスターリンとヒトラーの醜悪極まりない政策がはっきりとみてと
      れる。(佐藤優氏著『自壊する帝国』新潮社、pp.153-155)
      
    ・「朝鮮戸籍令改正」(1939年、昭和14年12月26日)
       日本人として暮らす朝鮮人に「創氏改名」を強制
    ・創価教育学会が教育団体から宗教団体(現世利益を強調)へと性格を変
     えるようになった(--->勢力拡大)。

   ★第二次世界大戦勃発(1939年、昭和14年9月1日)
      1939年9月1日ドイツが突然ポーランドに進駐。その後約1年あまりの間に
     ドイツはヨーロッパの中央部を殆ど制圧しイギリス・フランスとの戦いに
     入った。

     ※われわれはヒトラーやムッソリーニを欧米人なみにののしっているがその
      ヒトラーやムッソリーニすら持たずにおなじことをやった昭和前期の日本
      というもののおろかしさを考えたことがあるのだろうか。
               (司馬遼太郎氏著『歴史の中の日本』他より引用)
    ●ヒトラー「T4作戦」を命令(1939年10月)
      戦争遂行に不用と思われる、知恵遅れ・精神障害者をガス殺によって
     安楽死させた。(荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店、p.141)
    ●アメリカが原爆開発に着手(1939年、昭和14年10月)
      「ウラン諮問委員会」を設置した。

    ●「創氏改名」(1939年11月)
       朝鮮民事令改正の名目で「創氏改名」が公布された(翌年2月実施)。
      ※ 「おい日本の兵隊、イルボンサラミ(日本人)、あんたたちは、
       何の権利があって私たちの伝統的に何百年も続いた朝鮮、朴の名
       前を、変な日本名の木村に切り替え使わせているのか!!」
        木村上等兵の朝鮮名は、朴(パク)といった。しかし、1940年
        2月から実施された創氏改名によって、朝鮮人に日本式の氏を新
       しく創り、名乗らせることを事実上強要したのである。同年8月ま
       での半年で、全世帯の8割、322万人が創氏した。儒教を重んじる
       朝鮮では、家をとても大切にする。創氏改名は、何百年も続いて
       きた自分の家系、祖先を否定される屈辱的な行為だった。
        呆然とするトウタの前で、母親はまくし立てた。
        「これは日本人が、朝鮮人を同じ人間と思っていなかったから
       だろう。バカにしているからだ!!」
        何か言おうとすると、口を利くのも汚らわしいという表情でト
       ウタを睨んだ。
        「バカ者、なんで来た!! 絶対に許さない」
        母親はドアをバンと思い切り閉め、それきり出てこなかった。
               (神田昌典氏著『人生の旋律』講談社、p.59)

    ●日本軍の毒ガス散布の一例(1939年、昭和14年12月16日)
      尾崎信明少尉の回想記より(嘔吐性ガス『あか』を散布)
       かくて〔敵陣は〕完全に煙に包まれたのである。四五本の赤筒もなく
      なった。やがて「突っ込め!」と抜刀、着剣...。しかし、壕の所まで行
      って私は一瞬とまどった。壕の中には敵があっちこっち、よりかかるよ
      うにしてうなだれている。こんなことだったら苦労して攻撃する必要も
      なかったのではないか、と錯覚さえしそうな状景だった。しかし、次の
      瞬間「そうだ、煙にやられているんだ。とどめを刺さなきゃ」と、右手
      の軍刀を横にして心臓部めがけて...。グーイと動いた、分厚い綿入れを
      着ており、刀ごと持って行かれそうな感触。「みんなとどめを刺せ!」
      (中略)遂に敵は全員玉砕と相成った。
           (吉見義明氏著『毒ガス戦と日本軍』岩波書店、p.86-87)

1940年(昭和15年)から1945年(昭和20年、大東亜戦争終結)まで
     「大東亜戦争」:1941年12月10日に大本営政府連絡会議で、
             「支那事変を含め 大東亜戦争と呼称す」と
             決めた。
   ★第二次世界大戦におけるナチス・ドイツの攻勢(1940年最初の半年)
      ドイツ機甲師団とそれを率いるグデーリアンの活躍。
      ナチス・ドイツがノルウェー・デンマークを占領(4月)、西部戦線での
     戦端を開き(5月)フランス(ダンケルク撤退)、オランダ、ベルギー、
     ルクセンブルクに進攻。パリ陥落(6月24日)。イギリスの苦境。

     ※これらの欧州大戦は、日本の指導者たちの目には、日本の東南アジア
      進出を正当化し「東亜新秩序」から「大東亜共栄圏」拡大構想推進の
      千載一遇のチャンスと見えた。またアメリカが対日全面禁輸の措置に
      でるまえに東南アジアの資源を確保する必要があった。
             **********     **********
     ※さてサケットの尋問は、「木戸日記」の記述に沿って、日本の南部仏
      印進駐、独ソ戦開始をめぐる問題をへて、1941年7月2日の御前会議へ
      とたどりつく。この御前会議は、陸海軍の方針を基本的に受け入れた
      「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」を原案どおりに決定したもので、
      その核心は要するに、第一に南進政策の実現のためには「対英米戦を
      辞せず」の方針を、第二に「独『ソ』戦争の推移帝国の為め有利に進
      展せば武力を行使して北方問題を解決」するとの方針を、最高国策と
      して決定したことにあった。つまり対米兵戦と対ソ戦をどちらでも行
      うよう準備するという「南北併進」政策が国家意思として設定された
      のである。(粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<上>』講談社,p.136)

    ・日米通商航海条約破棄(昭和15年1月26日)
       日本は軍事用を主とする物資の入手が困難となった。それによる不利を
      補うため、日本は資源の豊富な仏領インドシナに注目。フランスとの軋轢
      を生んだ(北部仏印への強行進駐(S15.9.23),南部仏印へ進駐(S16.7.28))
    ・南京に汪兆銘政府成立(昭和15年3月30日)
       日本が蒋介石と決別したあと、いちるの和平への望みをもって王兆銘を
      かつぎだし、国民政府の正統であることを誇示するように青天白日旗を戴
      いて成立させた。
       この政府は陸軍中央部に巣食っていた中国蔑視の考えに、日中和平論者
      の影佐禎昭参謀本部第八課長らが抵抗するかたちで作られたが、基盤は明
      らかに脆弱だった。また王兆銘自らも行動原則や行動理念のない言行不一
      致の政治家だった。
    ・満州への定住者約86万人(昭和15年)

    ・日本がウラン爆弾に「ニ号研究」として取り組みはじめた。(昭和15年3月)
       しかしこの研究は、日本ではあまりにも課題山積で荒唐無稽の試みに近
      かった。(海軍の原爆研究は「F研究」とよばれ昭和15年8月に始まった
      が、戦状逼迫にてたち切れとなった。昭和天皇の強い嫌悪もあった)。
    ・天才的暗号解読家のフリードマンは、数学的正攻法で97式印字機の模造機
     を作成、日本外務省電報を悉く解読した。このとき以来日本の外交機密は
     アメリカへ筒抜けになった(1940年夏)。また日本海軍の戦略暗号も1942年
     春に破られた。

   ★無謀な戦争に最後まで反対していた米内光政海相、海軍次官山本五十六中将、
    軍務局局長井上成美少将、教育局長高木惣吉、衆議院議員斎藤隆夫氏の名前
    を忘れないでおきたい。
       ※井上成美
         「軍人の本分は国民を守ることにある。そして将たる者は、部下を
         大勢死なせてまで戦果を求めるべきでない」
            (加野厚志氏著『反骨の海軍大将 井上成美』より)
          協力しあって最後の最後まで戦争早期終結を望んでいた海軍大臣
         米内光政とは、「最後に護るべきもの」が違ったため、袂を分かっ
         た。
       ※斎藤隆夫(立憲民政党代議士、兵庫県但馬選挙区)
          (昭和15年2月2日、第75帝国議会、午後3時~4時30分 
                   『支那事変の処理方針に関する質問演説』)
         「一たび戦争が起こりましたならば、最早問題は正邪曲直の争い
        ではない。徹頭徹尾力の争いであります。強弱の争いである。強者
        が弱者を征服する。これが戦争である。・・・弱肉強食の修羅道に
        向かって猛進する、これが即ち人類の歴史であり、奪うことの出来
        ない現実であるのであります。この現実を無視してただいたずらに
        聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰く道
        義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、かくのごとき雲をつかむ
        ような文字を並べたてて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百
        年の大計を誤るようなことがありましたならば、現在の政治家は死
        してもその罪を滅ぼすことはできない。・・」
          (『20世紀、どんな時代だったのか』(戦争編、日本の戦争)
                 読売新聞社編より引用)(当時、米内光政内閣)
         斎藤隆夫:「いまのままでは世間は闇だよ。おれの演説を議会速
              記録から削除するような秘密主義で、どこに文明国の
              政治があるか。政府も政府なら議員も議員だ。わけも
              わからずギャーギャー騒いでおる。日本国中に真の政
              治家は一人もいやしないよ。滑稽じゃないか、みんな
              後ろ鉢巻きで騒いでおるよ」 (むのたけじ氏著『戦
              争絶滅へ、人間復活へ』岩波新書、p.22)
       ※山本五十六
         (当時第二航空戦隊、航空参謀、奥宮正武少佐の述懐より)
         「そのすぐれた見識から、米英との戦争には絶対反対し、それが
         いれられなくなると国家の将来を知りながらも、こんどは国家の
         運命を双肩に担って立たなければならなかった大将の心事は、私
         ごときが筆紙に尽くすことは、とうていできないことである」
         (星亮一氏著『戦艦「大和」に殉じた至誠の提督 伊藤整一』より)

   ★米内内閣の成立と終焉(昭和15年1月16日~昭和15年7月16日)
     米内内閣は、在職半年、終始陸軍ファッショの倒閣運動の矢面に立たされ、
    ついにそのボイコットに、支え得ずして倒れた。そこには、阿部内閣の退陣
    の際、陸軍の内閣を期待していたことが裏切られたため、陸軍を感情的にし
    たことも争えないが、それはむろん主な理由ではなく、欧州におけるドイツ
    の一時的な成功に幻惑され、いわゆる東亜新秩序を、一気に実現しようとす
    るファッショ的風潮が、一時に堰を切って流れ出していたと見るべきであろ
    う。ともあれ、一方に陸軍、他方に近衛・木戸・平沼ラインの猛烈な攻撃を
    うけながら、終始中道を見失わないですすみ、滔流を隻手をもってせきとめ
    ていた米内内閣が退陣するや、たちまちにして三国同盟が成立し、太平洋戦
    争突入の足場をつくって行くのである。(実松譲著『米内光政正伝』光人社、
    p.206)

   ★第二次近衛内閣成立(昭和15年7月22日):日本史上最低最悪の内閣だった
     陸相 東条英機
     海相 吉田善吾:日独伊三国軍事同盟締結に反対なるも病弱・疲労困憊で
            役立たず。(-->後任及川古志郎)
     外相 松岡洋右:名誉欲が強く権謀術数に長けた専断拙速猪突猛進の危険
            人物・釣針のように曲がったペテン師
            ---------------------------------------
      組閣五日後の七月二十七日、新内閣と大本営との連絡会議がひらかれ、
     そこで「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」が決定された。その結果
     近衛は、(1) 支那事変の徹底遂行、(2) 南方武力進出、という二大冒険
     を敢えてせざるを得なくなった。そもそも、この「時局処理要綱」は、
     陸軍がいわゆる”ヒトラーのバスに乗りおくれるな”と叫んで政戦両略
     の大転換を行なったその根拠として作成したものであり、米内内閣末期
     の七月三日、参謀本部と陸軍省の首脳会議で決定したのであった。この
     要綱には、対英一戦の覚悟のもとに、武力を媒介として南方への勢力進
     出を試みようとする陸軍の考え方が反映していた。また外交政策の面で
     は枢軸提携を強化し、さらにソ連とも協調して旧秩序勢力と対決する方
     針も打ち出されていたのである。
      この「時局処理要綱」の内容は、いうまでもなく日本の針路に画期的
     な影響を与えるものである。だから、こうした重大な国策ーー国家の運
     命に超重大な影響を及ぼすーーは、わが国の生死の問題として超真剣に
     取り扱うべきであり、長い時間をかけて検討し、熟慮に熟慮を重ねても
     慎重にすぎることはなかったのだ。にもかかわらず、近衛内閣は成立早
     々、わずか三時間の論議で大本営のお供えものを鵜呑みにしてしまった。
     それは軽率以上のものであり、そこに日本の悲運が胚胎していたのであ
     る。思えば、まことに腑甲斐のない”挙国”内閣のスタートであった。
              (実松譲著『米内光政正伝』光人社、pp.211-212)
            ---------------------------------------
    ●日本軍が北部仏印に進駐(昭和15年9月23日)
       富永恭次と佐藤賢了の軍紀違反による横暴。
      昭和陸軍"三大下剋上事件"の一つ。(他は満州事変、ノモンハン事件)
    ●●●●●「日独伊三国軍事同盟」締結(昭和15年9月27日)●●●●●
       ※これがくだらない大東亜戦争へのノー・リターン・ポイントだった。
       ※近衛内閣、松岡洋右外相の電撃的(国家の暴走)締結。
          松岡洋右は日独伊にソ連を含めた四国軍事同盟締結を目論
         でいたが、ヒトラーとソ連の対立が根強く、実現ははじめか
         ら不可能であった。またヒトラーは三国軍事同盟を、対ソ作
         戦の礎石と考えていた。
       ※過去、平沼・阿部・米内の三内閣はこの締結を躊躇して倒れていた。      
        (当時、陸(海)軍は陸(海)軍大臣を辞職させ、その後任候補を
         差し出すことを拒否してその内閣を総辞職に追い込んだり、新内閣
         の陸(海)軍相候補を差し出すことを拒否して内閣成立を阻止した
         りすることができた。総理大臣は法的に全く無力であった)。
                   <米内光政の名言>
           「同盟を結んで我に何の利ありや。ドイツの為火中の栗を拾
          うに過ぎざるべし」
           「ヒトラーやムッソリーニは、どっちへ転んだところで一代
          身上だ。二千年の歴史を持つ我が皇室がそれと運命を共になさ
          るというなら、言語道断の沙汰である」
           「ジリ貧を避けようとしてドカ貧になる怖れあり」
           「バスに乗りおくれるなというが、故障しそうなバスには乗
          りおくれた方がよろしい」
            (阿川弘之氏著『大人の見識』新潮新書、p.123))
       ※近衛の失策(近衛は日本を戦争に向かわせた重大な犯罪人)
         三国同盟に反対していた吉田善吾海軍大臣(山本五十六・米内光政
        ・井上成美の海軍英米協調・反戦トリオの流れをくむ)を神経衰弱に
        して辞任させ、後任に戦争好きの及川古志郎を海軍大臣に推薦した。
             (『小倉庫次侍従日記』(文藝春秋2007年4月号)より)
    ・関東軍情報部発足:柳田元三少将(小谷賢氏著『日本軍のインテリジェン
     ス』講談社選書メチエ、p.43)。対ソ諜報活動が中心。
    ●日本軍の中国に対する熾烈な毒ガス攻撃と効力試験(1940年8月以降)
          (吉見義明氏著『毒ガス戦と日本軍』岩波書店、p.111-132)
    ●日本軍の中国に対するペスト攻撃(状況証拠のみしかないが・・・)
      ・1940.10.4 :淅江省ツーシンへ。腺ペスト蔓延が24日続き21名死亡。
      ・1940.10.27:淅江省寧波(ニンポー)へ。34日続き100名死亡。
      ・1940.11.28:淅江省金華(キンホウ)へ。
      ・1941.11.4 :湖南省常徳(チャントウ)へ。11歳少女が腺ペスト発症
      (エド・レジス氏著『悪魔の生物学』、柴田恭子訳、河出書房新書より)
    ●「三光政策(作戦)」(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす政策)
       南京大虐殺が、日本軍の組織的犯罪であるとされるのは、捕虜の大量
      殺害があるからだが、それ以上に、一般民衆にたいする虐殺として問題
      なのは三光作戦である。中国共産党とその軍隊である八路軍が、日本軍
      の戦線の背後に浸透して解放区、遊撃区を作り上げたのにたいして、日
      本軍とくに華北の北支那方面軍は、1941年ごろから大規模な治安粛正作
      戦を行なった。これは日本軍自らが、燼滅掃蕩作戦(焼きつくし、滅ぼ
      しつくす作戦)と名づけたことでも示されるように、抗日根拠地を徹底
      的に破壊焼却し、無人化する作戦であった。実際に北支那方面軍は、広
      大な無人地帯を作ることを作戦目的に掲げている。中国側はこれを「三
      光政策」(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす政策)と呼んだのであ
      る。三光作戦は、南京大虐殺のような衝撃的な事件ではないが、長期間
      にわたり、広大な地域で展開されたので、虐殺の被害者数もはるかに多
      くなっている。(藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、
      pp.18-19)
          ---------------------------------------------
    ・1940年11月、大統領選挙に勝利したルーズベルトは本格的に対中支援の具体
     化に乗り出した。
    ・1941年3月、中国とアメリカとの間に武器貸与協定が結ばれる。
    ●1941年6月頃、ヒトラーが捕虜収容所における大量殺害を命じた (荒井信一
     氏著『戦争責任論』岩波書店、p.141)。
      ただし、パーベル・ポリヤーン『二つの独裁の犠牲者』(原書房)には
      ”最終解決”がヒトラーにより口頭でヒムラーとハイドリヒに下達された
     とされている。またこの指令自体は「バルバロッサ計画」の有機的な一部
     で1941年3月13日付けの「特別な分野のための指示」に、またSS(親衛隊)
     と陸軍との相互関係・相互協力を規定した1941年4月28日付の最高司令部と
     帝国保安本部(RSHA)との特別協定に大雑把にかかれていたという。
     (パーベル・ポリヤーン『二つの独裁の犠牲者』長勢了治訳(原書房)
      p.102)
          ---------------------------------------------

   ★「大政翼賛」への道(1940年後半は日本がひたすら堕落してゆく時代だった)
       ■全政党が解党、日本から政党が消えた。(昭和15年8月15日)
          1940年1月中旬に米内内閣組閣時、既成政党所属の多数の
         議員と小会派所属の議員は、こぞって自分たちの党を解散して、
         陸軍と協力して新しい大衆政党を結成しようという雰囲気に満
         ちあふれていた。(既成政党の内部分裂と小政党乱立が背景)
         ※新体制促進同志会
            個人主義・民主主義・議員内閣・多数決原理・自由主義
           ・社会主義を弾劾して報国倫理の確立と指導原理の信奉を
           要求した。
         ※ただし、政党の正式解散後にもその指導者たちの影響力は一
          貫して存続した。つまり彼等は戦争中にも、非政党エリート
          や右翼や政党内反主流派などの攻撃から身を守り、終戦時に
          は国政に参加する準備が出来上がっていた。これは戦中政治
          の際立った特徴である。
       ■新体制準備会(1940年、昭和15年8月28日、近衛内閣)
         「 世界情勢に即応しつつ能く支那事変の処理を完遂する
          と共に、進んで世界新秩序の建設に指導的役割を果たす
          ためには、国家国民の総力を最高度に発揮して、この大
          事業に集中し、如何なる事態が発生するとも、独自の立
          場において迅速果敢、且つ有効適切にこれを対処し得る
          よう、高度国防国家の体制を整えねばならぬ。而して
          高度国防国家の基礎は、強力なる国家体制にあるのであ
          って、ここに政治、経済、教育、文化等あらゆる国家国
          民生活の領域における新体制確立の要請があるのである。
           ・・・今我国が、かくの如き強力なる国内新体制を確
          立し得るや否やは、正に国運興隆の成否を決定するもの
          と言わねばならぬ」
           ( 詳しくは、ゴードン・M・バーガー著『大政翼賛会』
              、坂野閏治訳、山川出版社、211~221ページ参照)
        ※ただし、この近衛の新政治体制への熱意は、支那事変早期解決
         が絶望となって以来、戦時経済統制体制に世論を統一し、皇室
         と国家に対する国民の一体感を強め、体制エリートの諸集団が
         戦時動員に不可欠と考えたいかなる政策をも遂行するための手
         段として、新体制を発展させることだけになった。

            ---------------------------------------------
          ★希代の政治家、斎藤隆夫氏の(近衛文麿への)非難(1)★

           帝国憲法は日本臣民に向って結社の自由を許して居る。
          此の由由は何ものの力を以てするも剥奪することは出来な
          い。政党は此の難攻不落の城壁を有し、其の背後には政民
          両党共に三百余万の党員を控え、更に其の背後には国民も
          亦之を監視して居る。凡そ政治上に於て是れ程強い力はな
          く、政党は実に此の強い力を握って居る。尚其の上に此の
          戦争は前記幕末維新の戦争の如く、戦えば江戸を焦土と化
          し、多数の人命、財産を損する如きものではなく、是とは
          全然反対に、憲法上に与えられたる全国民の自由擁護を目
          的とする堂々たる戦争である。
           然るに此の政治上の戦いに当たりて、政民両党は何をな
          したか。戦えば必ず勝つ。而も其目的は国民の自由を擁護
          すべき堂々たる聖戦であるに拘らず、敢然起って戦うの意
          気なく、却って降伏に後れぎらんことを惧れて六十年の歴
          史をなげうち、国民の失望を無視して我れ先きにと政党の
          解消を急ぐに至りては、世界文明国に其の類例を見ざる醜
          態である。
            ---------------------------------------------
 
       ■大政翼賛会発足(1940年、昭和15年10月12日発会式)
          政党が解消されて、戦争にたいする異論(反対論)が完全に
         封じられてしまった。
        ※「近衛の構想の新体制」は「政治性」が取り除かれ、それに伴
         う近衛の変節とともに、国民精神動員運動を主軸とする運動に
         変化して発展することになった。そこで新体制準備会で用意さ
         れていた「中核体」(総理大臣への顧問組織であり、職能・文
         化組織推進機関)は『大政翼賛会』、国民運動は「大政翼賛運
         動」と呼ばれるようになった。
        ※「国民の歌」としての指定
         『海行かば水づく屍山行かば草むす屍大君の辺にこそ死なめ
                              かえりみはせじ』
        ※陸軍は翼賛会の地方活動を支配するために、「中核体」が持つ
         可能性に大きな期待をかけていた。また海軍も他の諸集団(例
         えば日本青年党(橋本欣五郎)、東方会(中野正剛)、青年団
         ・壮年団(後藤隆之助)、産業組合(有馬頼寧))も大政翼賛
         運動の中心的存在になることを熱望した。(内務官僚と名望家
         の反発)
        ※内務省は翼賛会府県支部の設立にあたって、知事の優越的役割
         を確保した。さらに内務省は町村にその官僚的支配を伸張し翼
         賛会下部組織の確立によって部落会や町内会の指導権を確保し
         ようと躍起になった。(陸軍と内務省の衝突)
        ※翼賛会議会局への参加を拒否したのは、鳩山派と社会大衆党社
         民派のみであった。
        ※大政翼賛会は内閣・議会・軍部の関係に何の変化ももたらさな
         かった。これは大政翼賛会に関して最も驚くべき点である。

            ---------------------------------------------
          ★希代の政治家、斎藤隆夫氏の(近衛文麿への)非難(2)★

            次は大政翼賛会である。浅薄なる革新論から出発して、
           理論も実際も全く辻褄の合わざる翼賛会を設立し、軍事
           多端なる此の時代に多額の国費を投じて無職の浪人を収
           容し、国家の実際には何等の実益なき空宣伝をなして、
           国民を瞞着して居るのが今日の翼賛会であるが、之を設
           立したる発起人は疑いもなく近衛公である。其の他のこ
           とは言うに忍びないが、元来皇室に次ぐべき門閥に生れ、
           世の中の苦労を嘗めた経験を有せない貴公子が自己の能
           力を顧みず、一部の野心家等に取巻かれて国勢燮理(治
           める)の大任に当るなど、実に思わぎるの甚だしきもの
           である。是が為に国を誤り実毒をのこす。其の罪は極め
           て大なるものがある。
            ---------------------------------------------
          ★軍隊というのはカルト教団だ
               (古山高麗雄『人生、しょせん運不運』草思社)
            あのみじめな思いは憶えています。軍隊では、人は人
           間として扱われません。そこには権力者が決めた階級が
           あるだけで、戦後は、人権がどうの差別がどうのと言う
           ようになりましたが、そんなことを言ったら軍隊は成り
           立たない。福沢論吉は、天は人の上に人を作らず、人の
           下に人を作らず、と言いましたが、とんでもない、わが
           国の権力者は天ではないから、人の上に人を作り、人の
           下に人を作りました。
            彼らは天皇を現人神と思うように国民を教育し、指導
           しました。その言説に背く者は、不敬不忠の者、非国民
           として罰しました。
            階級や差別のない社会や国家はありません。天皇が日
           本のトップの人であることは、それはそれでよく、私は
           いわゆる天皇制を支持する国民の一人です。けれども、
           アラヒトガミだの、天皇の赤子だのというのを押しつけ
           られるとうんざりします。・・・
            軍隊というのは、人間の価値を階級以上に考えること
           がなく、そうすることで組織を維持し、アラヒトガミだ
           のセキシだのというカルト教団の教義のような考え方で
           国民を統制して、陸海軍の最高幹部が天皇という絶対神
           の名のもとにオノレの栄達を求めた大組織でした。(p80)
                 ・・・
            あのころ(鳥越注:昭和10年代)のわが国はカルト教
           団のようなものでした。あの虚偽と狂信には、順応でき
           ませんでした。思い出すだに情けなくなります。自分の
           国を神国と言う、世界に冠たる日本と言う。いざという
           ときには、神国だから、元寇のときのように神風が吹く
           と言う。アラヒトガミだの、天皇の赤子だのと言う。祖
           国のために一命を捧げた人の英霊だの、醜の御楯だのと
           言う。今も、戦没者は、国を護るために命を捧げた英霊
           といわれている。
            しかし、何が神国ですか、世界に冠たる、ですか。神
           風ですか。カルト教団の信者でもなければ、こんな馬鹿
           げたことは言いませんよ。・・・
            戦前(鳥越注:大東亜戦争前)は、軍人や政府のお偉
           方が、狂信と出世のために多数の国民を殺して、国を護
           るための死ということにした。日本の中国侵略がなぜ御
           国を護ることになるのかは説明できないし、説明しない。
           そこにあるのは上意下達だけで、それに反発する者は、
           非国民なのです。
            やむにやまれぬ大和魂、などと言いますやなにが、やむ
           にやまれぬ、ですか。軍人の軍人による軍人のための美化
           語、あるいは偽善語が、国民を統御し、誘導し、叱咤する
           ためにやたらに作られ、使われました。八紘一字などとい
           う言葉もそうです。中国に侵略して、なにが八紘一宇です
           か。統計をとったわけではありませんから、その数や比率
           はわかりませんが、心では苦々しく思いながら調子を合わ
           せていた人も少なくなかったと思われますしかし、すすん
           であのカルト教団のお先棒を担いで、私のような者を非国
           民と呼び、排除した同胞の方が、おそらくは多かったので
           はないか、と思われます。(p106)

   ★1941年(昭和16年)、大東亜戦争(太平洋戦争)勃発にいたるまで
    ・東条英機が軍内に「戦陣訓」を発する(下記、昭和16年1月8日)。
      ※ 東条は一国を指導する器ではなかった。それどころか関東軍参謀長
       すらもまともに務まらない資質しかもっていなかった。卑しく臆病で
       嫉妬心が強く、権威主義的な男であった。

                     戦陣訓
                      序
           夫れ戦陣は、大命に基き、皇軍の神髄を發揮し、攻
          むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、遍く皇道を宣布し、
          敵をして仰いで御稜威の尊厳を感銘せしむる虞なり。
          されば戦陣に臨む者は、深く皇國の使命を體し、堅く
          皇軍の道義を持し、皇國の威徳を四海に宣揚せんこと
          を期せざるべからず。
           惟ふに軍人精紳の根本義は、畏くも軍人に賜はりた
          る勅論に炳乎として明かなり。而して戦闘茲に訓練等
          に關し準據すべき要綱は、又典令の綱領に教示せられ
          たり。然るに戦陣の環境たる、兎もすれば眼前の事象
          に捉はれて大本を逸し、時に共の行動軍人の本分に戻
          るが如きことなしとせず。深く慎まざるべけんや。乃
          ち既往の経験に鑑み、常に戦陣に於て勅論を仰ぎて之
          が服行の完璧を期せむが為、具體的行動の憑據を示し、
          以て皇軍道義の昂揚を圖らんとす。是戦陣訓の本旨と
          する所なり。
                  「第七 死生観」
           死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。生
          死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の
          力を盡くし、従容として悠久の大義に生くることを悦
          びとすべし。
                  「第八 名を惜しむ」
           恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ愈々
          奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受け
          ず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。

      ※ 死を恐れるな、従容として死に赴く者は大義に生きることを喜び
       とすべきである、というのであった。日本軍の兵士は、「大義に生
       きる」という死生観を理想としたのである。しかしここでつけ加え
       ておかなければならないのは、陸軍の上層部や指導部に属していた
       者のほうがこのような死生観をもっていなかったということだ。た
       とえば、この戦陣訓を軍内に示達した当の東條英機は、戦争が終わ
       ったときも責任をとって自決していないし、あろうことか昭和二十
       年九月十一日にGHQ(連合国軍稔司令部)の将校が逮捕にきたときに
       あわてて自決(未遂)を試みている。東條のこの自決未遂は二重の
       意味で醜態であった。・・・(中略)・・・
        「名を惜しむ」にあるのは、捕虜になって屈辱を受けるようなこ
       とがあってはならない、生を惜しんでのみっともない死に方はその
       恥をのこすことになるという教えであり、故郷や家族の面子を考え
       るようにとの威圧を含んでいた。これもまた兵士たちには強要して
       いながら、指導部にいた軍人たちのなかには虜囚の辱めを受けるど
       ころか、敗戦後はGHQにすり寄り、その戦史部に身を置き、食うや
       食わずにいる日本人の生活のなかで並み外れた優雅な生活をすごし
       た中堅幕僚たちもいた。
        戦陣訓の内容は、兵士には強要されたが指導部は別格であるとい
       うのが、昭和陸軍の実態でもあった。私は、太平洋戦争は日本社会
       を兵舎に仕立てあげて戦われてきたと考えているが、その伝でいう
       なら、この戦陣訓は兵士だけでなく国民にも強要された軍事指導者
       に都合のいい〈臣民の道〉であった。(保阪正康氏著『昭和史の教
       訓』朝日新書、pp.199-203より抜粋)

    ・新聞紙等掲載制限令公布(昭和16年1月11日)
    ・日ソ中立条約締結(昭和16年4月13日)
       これによりソビエトは実質的には満州国を承認。スターリンの中国軽
      視は毛沢東のスターリンへの不信感を高めた。さらにアメリカも強い不
      快感を持ち、ソビエトとの経済交流を中止し、ルーズベルトは重慶政府
      (蒋介石)へP-40戦闘機100機を提供した。
    ・米大統領が国家非常事態宣言、アメリカが臨戦態勢に入る。(昭和16年5月)
    ●独ソ戦開始(昭和16年6月22日)
       独ソ戦は日ソ中立条約のみならず、日独伊三国同盟の意義すらも、
      根本的に打ち砕くものであった。
    ・日本は関東軍特種演習(関特演)の名の下に約70万人の大軍を満州に集結
     (昭和16年7月2日)。
    ●●●●● 日本軍が南部仏印に進駐(昭和16年7月28日)●●●●●
       軍事的には無血占領であったが、政治的には陸軍の見通しの甘さが浮
      き彫りになっただけで、ここですでに敗戦なのだった。また日米開戦の
      「ポイント・オブ・ノーリターン」を形成したといえるだろう。
     ※太平洋の平和維持について、一縷の望みを託していた日米間の国交を調
      整するという両国政府の交渉を、文字通り暗礁に乗り上げさせ、交渉の
      前途をすっかり暗くさせてしまった(実松譲著『米内光政正伝』光人社、
       p.86)
     ※『仏印進魅の第一の目的は、仏印におけるわが諸目的を達成するにある。
      第二の目的は、国際情勢がこれに適する場合、仏印を基地として迅速な
      行動を開始するにある。仏印占領後の次の計画は蘭印に対する最後通告
      の発送である。シンガポール占領には、海軍が主な役割りを担当する。
      ……われわれは航空部隊と潜水部隊をもって、断固として英米軍事力を
      粉砕する。近く仏印に進験する兵力は第二十五軍である』(筆者注:広
      東在駐の日本総領事が日本陸軍から得た「仏印進駐計画」の詳細な情報
      を外務省に暗号で送ったが、ことごとく解読されていた)
                ・・・(中略)・・・
       こうして、米国はわが方の”平和進駐”の真意を事前に察知すること
      が出来、その報復措置などについて、あらかじめ準備を進めたのであっ
       た。
       すなわち、アメリカは、二十六日、日本の在米資産を凍結し、イギリ
      スもオランダもアメリカにならって同じ措置をとった。またこの日マッ
      カーサー将軍を司令官とする極東軍部隊が編成された。こうして日本を
      取り巻くA・B・C・D(米・英・中国・オランダ)包囲陣というものが、
      現実に完成されることになった。さらに8月1日、アメリカはかねてから
      準備していた石油の日本への輸出禁止をもって、日本軍の南部仏印進駐
      に報復したのだ。
       石油が得られないならば、日本の海軍は絵に描いたモチと化するであ
      ろうし、大陸軍もまた、”裸の兵隊”となり兼ねないであろう。武力を
      もって南方の石油を手に入れない限り、わが国は立往生することになり、
      相手の言うままに屈するよりほかにない。”この際、打って出るほかな
      し”の考えとなった。こうして、南部仏印進駐→対日全面禁輸→対米戦
      というレールが敷かれたのである。(実松譲著『米内光政正伝』光人社、
       pp.90-91)
    ●アメリカ対日石油輸出全面禁止、在米の日本資産凍結(昭和16年8月1日)
              <軍令部総長、永野修身の上奏>
         こうした禁輸措置のあとに、南部仏印進駐の主導者たちは
        すっかり混乱している。軍令部総長の永野修身は、アメリカ
        が石油禁輸にふみきる日(八月一日)の前日に、天皇に対米
        政策について恐るべき内容を伝えている。
         「国交調整が不可能になり、石油の供給源を失う事態とな
        れば、二年の貯蔵量しかない。戦争となれば一年半で消費し
        つくすから、むしろ、この際打って出るほかはない」と上奏
        しているのだ。天皇は木戸幸一に対して、「つまり捨鉢の戦
        争をするということで、まことに危険だ」と慨嘆している。
            (保阪正康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、p.215)
    ●中国、宜昌にて日本軍が大量の毒ガス攻撃(昭和16年10月7日~11日)
       催涙ガス(クロロピクリン、クロロアセトフェノン)、嘔吐性ガス
      (アダムサイト)、イペリット、ルイサイト、青酸ガス、ホスゲンなど
      を使った悪魔どもの悪あがきのヤケクソ攻撃だった。
          (吉見義明氏著『毒ガス戦と日本軍』岩波書店、p.134-144)
    ●大本営政府連絡会議(「御前会議」での追認、昭和16年10月4日)
       近衛文麿が内閣を投げ出した。
       近衛文麿:「軍人はそんなに戦争が好きなら、勝手にやればいい」。
       (保阪正康氏著『あの戦争は何だったのか』新潮新書、p.85より)
    ●「対米英蘭戦争終末促進ニ関スル腹案」(昭和16年11月16日、大本営政府
     連絡会議、石井秋穂・藤井茂原案):戦争終結への発想はお粗末な現実認
     識とともに無責任で他力本願(ドイツ・イタリア頼み)だった。
        一 方針(略)
        二 日独伊三国協力シテ先ツ英ノ屈伏ヲ図ル
          (一)帝国ハ左ノ諸方策ヲ執ル
            (イ)濠洲印度二対シ政略及通商破壊等ノ手段二依り
               英本国トノ連鎖ヲ遮断シ其ノ離反ヲ策ス
            (ロ)「ビルマ」ノ独立ヲ促進シ其ノ成果ヲ利導シテ
               印度ノ独立ヲ刺戟ス
          (二)独伊ヲシテ左ノ諸方策ヲ執ラシムルニ勉ム
            (イ)近東、北阿、「スエズ」作戦ヲ実施スルト共ニ
               印度二対シ施策ヲ行フ
            (ロ)対英封鎖ヲ強化ス
            (ハ)情勢之ヲ許スニ至ラハ英本土上陸作戦ヲ実施ス
          (三)三国ハ協力シテ左ノ諸方策ヲ執ル
            (イ)印度洋ヲ通スル三国間ノ連絡提携二勉ム
            (ロ)海上作戦ヲ強化ス
            (ハ)占領地資源ノ対英流出ヲ禁絶ス
        三 日独伊ハ協力シテ対英措置卜並行シテ米ノ戦意ヲ喪失セシ
          ムルニ勉ム
          (一)帝国ハ左ノ諸方策ヲ執ル
            (イ)比島ノ取扱ハ差シ当り現政権ヲ存続セシムルコ
               トトシ戦争終末促進二資スル如ク考慮ス
            (ロ)対米通商破壊戦ヲ徹底ス
            (ハ)支那及南洋資源ノ対米流出ヲ禁絶ス
            (ニ)対米宣伝謀略ヲ強化ス
                其ノ重点ヲ米海軍主力ノ極東ヘノ誘致竝米極
               東政策ノ反省卜日米戦無意義指摘ニ置キ米国輿
               論ノ厭戦誘致二導ク
            (ホ)米濠関係ノ離隔ヲ図ル
          (二)独伊ヲシテ左ノ諸方策ヲ執ラシムルニ勉ム
            (イ)大西洋及印度洋方面ニ於ケル対米海上攻勢ヲ強
               化ス
            (ロ)中南米ニ対スル軍事、経済、政治的攻勢ヲ強化ス
           (保阪正康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、pp.226-227)
    ●東条内閣成立(昭和16年10月18日、木戸幸一の推薦、第三次近衛内閣総辞
     職(10月16日))
       「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」
      よくもこんな発想ができたものだ。悪魔の内閣としか表現のしようがな
      い。
       ※中島昇大尉(BC級戦犯、死刑判決)の述懐(昭和21年6月)
         「捕虜になると国賊扱いにする日本国家のあり方が、外国捕虜の
         残虐へと発展したのではないでしょうか。捕虜の虐待は日本民族
         全体の責任なのですから個人に罪をかぶせるのはまちがっていま
         せんか。・・・私は国家を恨んで死んで行きます」
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    ・陸海軍大臣の任務(瀬島龍三『大東亜戦争の実相』より)
      1.国の行政全般の議に参画する国務大臣
      2.陸海軍省の主管大臣
      3.「編成大権」に関する天皇の輔佐役
      4.大本営の構成員
    ・「国民学校令」:国家による教育統制の完成。ナチスのフォルクスシューレ
             をそのまま真似た勅令。
      ----------------------------------------------------------
    ●通称「ハル・ノート」(平和解決要綱)が日本側に手渡された。
                            (昭和16年11月26日)
       中国や南方地方からの全面撤退、蒋介石政府の承認、汪兆銘政府の
      不承認、三国同盟の形骸化が主たる項目で昭和に入っての日本の歴史を
      全て白紙に戻すという内容だった。(--->日米開戦へ)
    ●昭和16年12月1日、この年5回目の御前会議(日米開戦の正式決定)
       「日米交渉を続けながら、戦備も整える。しかし11月29日までに交渉
      が不成立なら、開戦を決意する。その際、武力発動は12月初頭とする」。
       東条英機「一死奉公」の羅列:東条にとっては、国家とは連隊や師団
      と同じであり、国民は兵舎にいる兵士と同じだった。
    ●大東亜戦争(太平洋戦争)開戦
     (昭和16年(1941)12月8日午前3時25分:ホノルル7日午前7時55分、ワシン
      トン7日午後1時25分)
       当時日本政府の視線は、戦争の日米戦争としての側面に集中したが、
      世論のレベルではむしろ日本の対アジア侵略の側面があらためて強調さ
      れた。開戦そのものについても、戦争が真珠湾攻撃によってではなく、
      タイ、マレー半島への日本陸軍の無警告による先制攻撃で始まったこと
      に注意が向けられた。時間的にも真珠湾で空襲の始きる午前3時25分(
      日本時間)より1時間以上早い午前2時15分に日本陸軍俺美支隊がマレー
      半島(英領)コタバルに上陸し、激戦を始めていた。また真珠湾空襲開
      始のほぼ30分後手前4時)から日本軍がタイの各地に続々と進攻、上陸
      を行い、タイ領マレー半島でも地上戦闘がタイ軍との間で行われた。
             (荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店、pp.128-129)

         ************************************************
       ※重松譲(当時ワシントン駐在武官(海軍))の証言
         「あのバカな戦の原因はどこにあるか。それは陸軍がゴリ
        押しして結んだ三国同盟にある。さらに南部仏印進駐にある。
         私は、日本が三国同盟を結んだ時、アメリカにいたのだが、
        アメリカ人が不倶戴天の敵に思っているヒトラーにすり寄っ
        た日本を、いかに軽蔑したか、よくわかった。その日本がア
        メリカと外交交渉をしたところで、まとまるわけはなかった
        んだ」
         「陸軍にはつねに政策だけがあった。軍備はそのために利
        用されただけだ」
          (保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<上>』より孫引き)
         ************************************************
       ※「木戸日記」の存在
         ともかく提出された日記は、天皇を頂点とした昭和政治史
        の中枢を検証する第一級の政治資料であった。法廷では、検
        察側の天皇免責の方針によって、天皇の言動に関する記述は、
        いっさい活用されなかった。しかし素直に日記を読めば、太
        平洋戦争開戦にいたる道は、天皇と、木戸など天皇側近の主
        体的決断という要因を入れなければ、歴史的に説明がつかな
        いことは明らかだ。
        (粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<上>』講談社、p.113)

       ※腰ぬけ知識人だらけの国
          戦中の知識人の多くは、飢えと暴力が支配する状況下で、自分
         の身を守るために、迎合や密告、裏切りなどに手を染めた。積極
         的に戦争賛美に加担しなかったとしても、ほとんどすべての知識
         人は、戦争への抗議を公言する勇気を欠いていた。
          こうした記憶は、「主体性」を求める戦後思想のバネになった
         と同時に、強い自己嫌悪と悔恨を残した。たとえば、法政大学教
         授だった本多顕彰は、戦中をこう回想している。

           それにしても、あのころ、われわれ大学教授は、どうしてあ
          んなにまで腰ぬけだったのであろう。なかには、緒戦の戦果に
          狂喜しているというような単純な教授もいたし、神国日本の威
          力と正しさを信じてうたがわない教授もいるにはいた。……け
          れども、われわれの仲間には戦争の謳歌者はそうたくさんには
          いなかったはずである。だのに、われわれは、学園を軍靴が蹂
          躙するにまかせた。……〔軍による〕査察の日の、大学教授の
          みじめな姿はどうだったろう。自分の学生が突きとばされ、け
          られても、抗議一ついえず、ただお追従笑いでそれを眺めるだ
          けではなかったか。……
           ……心の底で戦争を否定しながら、教壇では、尽忠報国を説
          く。それが学者の道だったろうか。真理を愛するものは、かな
          らず、それとはべつの道をあゆまねばならなかったはずである。
          真に国をおもい、真に人間を愛し、いや、もっとも手ぢかにい
          る学生を真に愛する道は、べつにあったはずである。……反戦
          を結集する知恵も、反戦を叫ぶ勇気も、ともに欠けていたこと
          が、われわれを不幸にし、終生の悔いをのこしたのである。

          こうした「悔恨」を告白していたのは、本多だけではなかった。
          南原繁は、学徒出陣で大学を去っていった学生たちを回想しな
          がら、こう述べている。「私は彼らに『国の命を拒んでも各自
          の良心に従って行動し給え』とは言い兼ねた。いな、敢えて言
          わなかった。もし、それを言うならば、みずから先に、起って
          国家の戦争政策に対して批判すべきべきであった筈である。私
          は自分が怯懦で、勇気の足りなかったことを反省すると同時に、
          今日に至るまで、なおそうした態度の当否について迷うのであ
          る」。
          (小熊英二氏著氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.177-178)

       ※         「歴史的意思の欠落」
         日本は真に戦争か和平かの論議を論議を行ったといえるだろうか。
        ・・・日本がアメリカとの戦争で「軍事的勝利」をおさめるとはどう
        いう事態をさすのか。その事態を指導者たちはどう予測していたのだ
        ろうか。まさかホワイトハウスに日章旗を立てることが「勝利」を意
        味するわけではあるまい。・・・実際に戦争の結末をどう考えていた
        かを示す文書は、真珠湾に行きつくまでのプロセスでは見当たらない
        。・・・強いていえば、11月15日の大本営政府連絡会議で決まった
        「対米英蘭戦争終末促進ニ関スル腹案」というのがこれにあたる。
        ・・・日本は極東のアメリカ、イギリスの根拠地を覆滅して自存自衛
        体勢を確立し、そのうえで蒋介石政府を屈服させるといい、イギリス
        はドイツとイタリアで制圧してもらい、孤立したアメリカが「継戦の
        意思なし」といったときが、この戦争の終わるときだという。
         この腹案を読んだとき、私は、あまりの見通しの甘さに目を回し
        た。ここに流れている思想は、すでて相手の意思にかかっているから
        だ。あるいは、軍事的に制圧地域を広げれば、相手は屈服するとの思
        いこみだけがある。
         日本がアジアに「自存自衛体勢を確立」するというが、それは具体
        的にどういうことだろうか。自存自衛体勢を確立したときとは一体ど
        ういうときか。アメリカ、イギリスがそれを認めず、半永久的に戦い
        を挑んできたならば日本はどう対応するつもりだろうか。蒋介石政府
        を屈服させるというが、これはどのような事態をさすのだろうか。ド
        イツとイタリアにイギリスを制圧してもらうという他力本願の、その
        前提となるのはどのようなことをいうのだろうか。しかし、最大の問
        題はアメリカが「継戦の意思なし」という、そのことは当のアメリカ
        政府と国民のまさに意思にかかっているということではないか。・・
         私は、こういうあいまいなかたちで戦争に入っていった指導者の責
        任は重いと思う。こんなかたちで戦争終結を考えていたから、3年8か
        月余の戦争も最後には日本のみが「継戦」にこだわり、軍事指導者の
        面子のみで戦うことになったのではないかと思えてならないのだ。
         ・・・真珠湾に行きつくまでに、日本側にはあまりにも拙劣な政策
        決定のプロセスがある。・・・戦争という選択肢を選ぶなら、もっと
        高踏的に、もっと歴史的な意義をもって戦ってほしかったと思わざる
        をえない。(筆者注:保阪正康氏はこのあと戦争の「歴史的意思」
        を概観している。まことに明晰で説得力のある考察だが、長くなる
        ので略す。読者各自ぜひ通読されたい)
         (保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<上>』より引用、334ページ~)

       ※そしてもう一つ押さえておかなければならないことがある。
          実は、本当に太平洋戦争開戦に熱心だったのは、海軍だったとい
         うことである。
          そこには、「ワシントン軍縮条約」体制のトラウマがあった。
          1922(大正11)年、ワシントン会議において軍艦の保有比率の大
         枠をアメリカ5、イギリス5、日本3、と決められてしまった。その
         反発が海軍の中でずっと燻り続け、やがてアメリカ、イギリスを仮
         想敵国と見なしていったのである。昭和9年に加藤寛治海軍大将ら
         の画策で、ワシントン条約の単独破棄を強引に決めて、その後、一
         気に「大艦巨砲」主義の道を突き進んでいく経緯があった。対米英
         戦は、海軍の基本的な存在理由となっていた。
          またその後も、海軍の主流には対米英強硬論者が占めていく。特
         に昭和初年代に、ちょうど陸軍で「統制派」が幅を利かせていった
         頃、海軍でも同じように、中堅クラスの幹部に多く対米英好戦派が
         就いていったのだ。「三国同盟」に反対した米内光政や山本五十六
         、井上成美などは、むしろ少数派であった。
          私が見るところ、海軍での一番の首謀者は、海軍省軍務局にいた
         石川信吾や岡敬純、あるいは軍令部作戦課にいた富岡定俊、神重徳
         といった辺りの軍官僚たちだと思う。
          特に軍務局第二課長の石川は、まだ軍縮条約が守られていた昭和
          8年に、「次期軍縮対策私見」なる意見書で「アメリカはアジア太
         平洋への侵攻作戦を着々と進めている。イギリス、ソ連も、陰に陽
         にアメリカを支援している。それに対抗し、侵略の意図を不可能に
         するには、日本は軍縮条約から脱退し、兵力の均等を図ることが絶
         対条件」と説いていた。いわば対米英強硬論の急先鋒であった。ま
         た弁が立ち、松岡洋右など政治家とも懇意とするなど顔が広かっ
         た。その分、裏工作も達者であった。
          そして他の岡、富岡、神も、同じようにやり手の過激な強硬論者
         であった。
          昭和15年12月、及川古志郎海相の下、海軍内に軍令、軍政の垣根
         を外して横断的に集まれる、「海軍国防政策委員会」というものが
         作られた。会は4つに分けられており、「第一委員会」が政策、戦
         争指導の方針を、「第二委員会」は軍備、「第三委員会」は国民指
         導、「第四委員会」は情報を担当するとされた。以後、海軍内での
         政策決定は、この「海軍国防政策委員会」が牛耳っていくことにな
         る。中でも「第一委員会」が絶大な力を持つようになつていった。
          この「第一委員会」のリーダーの役を担っていたのが、石川と富
         岡の二人であった。「第一委員会」が、巧妙に対米英戦に持ってい
         くよう画策していたのである。・・・(保阪正康氏著『あの戦争は
         何だったのか』新潮新書、pp.87-88より)

   ★大東亜戦争勃発(太平洋戦争、昭和16(1941).12.8~20年(1945).8.15)
       ※開戦の原動力となった中心的悪魔ども
         近衛文麿(東条の前の無責任首相)
         東条英機、木戸幸一(「銀座の与太者」)、東条を首相に推薦)
           #東条英機の与太弁
              ・「戦争が終わるとは平和になったとき」
              ・「畢竟戦争とは精神力の戦いである。負けたと思っ
                たときが負けである」
             (筆者注:H14年から5年の長きに亘って首相の座にあり
              日本をさらにボロボロにした、小泉某によく似ている
              ではないか)。
           #木戸幸一(「銀座の与太者」)のやったこと
              アメリカとの戦争を回避しようとする願い、その試み
             を木戸はすべて潰しました。「国策遂行要領」から対米
             戦争の準備、決意を取り除こうとする、水野修身の望み
             を、内大臣の木戸は素知らぬ顔で通しました。対米外交
             交渉の基本方針の画定に秩父宮を参画させようとした高
             松宮の願いを、木戸は巧みに葬りました。陸軍大臣と中
             国撤兵の是非をめぐって総辞職した近衛文麿を、木戸は
             再度、首相に選ぼうとは露ほども考えませんでした。最
             後に山本五十六の参内したいという切願を木戸は容赦な
             く阻止し、平和を選ぶことができたであろう最後の機会
             を踏みにじりました。
              いったい、木戸幸一はどういうことを考えて、戦争を
             選んだのでしょう。(鳥居民氏著『山本五十六の乾坤一
             一擲』文藝春秋、pp.242-274)
         -----------------------------------------------------------
         陸軍省軍務局(武藤章(局長)、佐藤賢了(軍事課長))
         陸軍参謀本部(田中新一)
         星野直樹(東条内閣書記官長)
         岡敬純・長野修身(海軍)
         石原広一郎(民間、南進運動に積極的)
        (粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<上>』講談社、pp.224-230)
       ※「大東亜の地域」:おおむねビルマ以東、北はバイカル湖以東の
         東アジア大陸、並びにおおむね東経180度以西すなわちマーシャル
         群島以西の西太平洋海域を示しインド、豪州は含まれない。
         また「大東亜戦争」とは、単に大東亜の地域において戦われる
         戦争という意味合いのものに過ぎなかった。
                    (瀬島龍三『大東亜戦争の実相』より)
              (筆者注:まったく、何と言う言い逃れであろうか)
                
       ■官僚化した軍部が彼我の国民の命を無駄に費やした戦争
          日本陸軍は(1)その8割が旧式機で構成されている戦闘機隊を
         主力とし(2)一度も実践に投入したことがない新型戦闘機に頼っ
         て、欧米の航空先進国の空軍に立ち向かった。
        ※「陸軍は(わずかに)隼40機で、対英、米戦争につっ走った」
              (三野正洋氏著『日本軍の小失敗の研究』より)
       ■陸軍と海軍のばかばかしい対立(ほんの一部を紹介)
        ・20ミリ機関砲の弾丸が、規格が違っていて共用できない。
        ・空軍が独立せず。(陸軍航空部隊、海軍航空部隊)
        ・海軍向け、陸軍向け戦闘機。スロットル・レバーの操作が真反対
        ・ドイツの航空機用エンジン(ベンツ社、DB601型)のライセンス
         料の二重払い。同じエンジンを別々の独立した会社に依頼。
        ・陸軍の高射砲、海軍の高角砲
        ・陸軍の"センチ"、海軍の"サンチ"("サンチ"はフランス流?)
              (三野正洋氏著『日本軍の小失敗の研究』より)
       ■バカバカしい、教育といえぬ兵隊教育
          「行きあたりばったり」とか「どろなわ」とかいった言葉が
         ある。しかし、以上の状態は、そういう言葉では到底表現しき
         れない、何とも奇妙な状態である。なぜこういう状態を現出し
         たのか、どうしてこれほど現実性が無視できるのか、これだけ
         は何としても理解できなかった。そしてそれが一種の言うに言
         われぬ「腹立たしさ」の原因であった。
          第二次世界大戦の主要交戦国には、みな、実に強烈な性格を
         もつ指導者がいた。ルーズヴェルト、チャーチル、スターリン、
         蒋介石、ヒトラーーたとえ彼らが、その判断を誤ろうと方針を
         間違えようと、また常識人であろうと狂的人物であろうと、少
         なくともそこには、優秀なスタッフに命じて厳密な総合的計画
         を数案つくらせ、自らの決断でその一つを採択して実行に移さ
         す一人物がいたわけである。
          確かに計画には齟齬があり、判断にはあやまりはあったであ
         ろう、しかし、いかなる文献を調べてみても、戦争をはじめて
         二年近くたってから「ア号教育」(筆者注:対米戦教育)をは
         じめたが、何を教えてよいやらだれにも的確にはわからない、
         などというアホウな話は出てこない。確かにこれは、考えられ
         ぬほど奇妙なことなのだ。だが、それでは一体なぜそういう事
         態を現出したかになると、私はまだ納得いく説明を聞いていな
         いー-確かに、非難だけは、戦争直後から、あきあきするほど
         聞かされたがー-。 (山本七平氏著『一下級将校のみた帝国
         陸軍』文春文庫、pp.44-45)
       ■後方思想(兵站、補給)の完全なる欠乏
         日本軍内部:「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶々トンボも鳥のうち」
                 *******************
          兵站や補給のシステムがまず確立したうえで、戦闘を行うという
         のが本来の意味だろうが、初めに戦闘ありき、兵站や補給はその次
         というのでは、大本営で作戦指導にあたる参謀たちは、兵士を人間
         とみなしていないということであった。戦備品と捉えていたという
         ことになるだろう。実際に、日本軍の戦闘はしだいに兵士を人間扱
         いにしない作戦にと変わっていったのだ。
            (保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より引用)

        ※そもそも大東亜戦争について日本軍部の食糧方針は、”現地自給”
         だった。熱帯ジャングルの豊かさという、今日までつづくひとりよ
         がりの妄想があったのだろう。土地の農民さえ、戦争が始まると、
         商品として作っていた甘蔗やタバコを止めて、自分のための食品作
         物に切り換えている。
          食糧が問題であることにうすうす気づいた将校たちが考え出した
         のは「自活自戦=永久抗戦」の戦略である。格別に新しい思想では
         ない。山へ入って田畑を耕し折あらばたたかう。つまり屯田兵であ
         る。ある司令官の指導要領は次の如く述べている。
           「自活ハ現地物資ヲ利用シ、カツ甘藷、玉萄黍ナドヲ栽培シ、
          現地自活ニ努ムルモ衛生材料、調味品等ハ後方ヨリ補給ス。ナホ
          自活ハ戦力アルモノノ戦力維持向上ヲ主眼トス」
          この作戦の虚妄なることは、実際の経過が明らかにしているが、
         なおいくつか指摘すると、作物収穫までには時がかかるが、その点
         についての配慮はいっさい見られない。「戦力アルモノ」を中心と
         する自活は、すでにコレラ、マラリア、デング熱、栄養失調に陥っ
         た者を見捨てていくことを意味する。こうして多くの人間が死んだ
          。 (鶴見良行氏著『マングローブの沼地で』朝日選書;1994:168)

        ※井門満明氏(当時兵站参謀)
             「兵站思想には戦争抑止力の意味があります。という
            のは、冷静に現実を見つめることができるからです。冷
            徹に数字の分析をして軍事を見つめることが、兵士を人
            間としてみることになり、それが日本には欠けていたと
            いうことになります」
            (保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より孫引き)
       ■日本軍のやり方は、結局、一言でいえば「どっちつかずの中途半端」
        であった。それはわずかな財産にしがみついてすべてを失うケチな男
        に似ていた。中途半端は、相手を大きく傷つけ、自らも大きく傷つ
        き、得るところは何もない。結局中途半端の者には戦争の能力はない
        のだ。われわれは、前述のように、「戦争体験」も「占領統治体験」
        もなく、異民族併存社会・混血社会というのも知らなかったし、今も
        知らない。(山本七平氏著『一下級将校のみた帝国陸軍』文春文庫、
         p.95)

       ■死者約310万人:日本国民の実に1/25(しかも若者)が戦死した。
        (戦場での傷病により戦後亡くなった者を含めると500万人を越える?)
       ■「俘虜ノ待遇ニ関スル条約」への数々の違反
         1.シンガポールでの抗日華僑義勇軍約5000人の殺害
                            (1942年2月、辻政信)
         2.「ラハ事件」:アンボン島侵攻作戦時豪州兵集団虐殺
                (1942年2月、責任者:畠山耕一郎)
         3.米・比軍の約8万5000人の「死の行進」(フィリピン、バターン
          半島、1942年4月。約120km。責任者:本間正晴中将(1946.4.3に
          銃殺刑に処せられる)。但し本間正晴は「穏健な人道主義者」
          とされている。文芸春秋 2007;6:119-120)
           米兵1200人、フィリピン兵16000人が死亡(虐殺、行方不明)。
         4.オランダ領インドネシア、ボルネオ島を主とする捕虜の虐待
         5.タイ北西部、泰緬鉄道(筆者注:ビルマへの補給を確保するた
          めタイのノンプラドックからビルマのタムビザヤ間415kmに建設
          された鉄道)建設に関する多数の捕虜の死亡(1942~1943年)。
          (連合国捕虜65000人、アジア人労働者30万人を導入。うち
          16000人が飢餓と疾病と虐待により死亡)。    
         6.その他
               ----------------------------------------
           <古山高麗雄氏『断作戦』(文春文庫)pp.284-285より>
          帝国陸軍はシンガポールで、何千人もの市民を虐殺したし、帝国
         海軍はマニラで、やはり何千人もの市民を虐殺した。シンガポール
         では、同市に在住する華僑の十八歳から五十歳までの男子を指定の
         場所に集めた。約二十万人を集めて、その中から、日本側の戦後の
         発表では六千人、華僑側の発表では四万人の処刑者を選んで、海岸
         に掘らせた穴に切ったり突いたりして殺した死体を蹴り込み、ある
         いはそれでは手間がかかるので、船に積んで沖に出て、数珠つなぎ
         にしたまま海に突き落とした。抗日分子を粛清するという名目で、
         無愛想な者や姓名をアルファベットで書く者などを殺したのだそう
         である。
          日本軍はシンガポールでは、同市を占領した直後にそれをした
         が、マニラでは玉砕寸前の守備隊が、女子供まで虐殺し、強姦もし
         た。アメリカの発表では、殺された市民の数は八千人である。これ
         には名目などない、狂乱の所行である。
               ----------------------------------------

       # 明治38年式歩兵銃でM1カービン機関銃に歯向かった
       # 前線の下士官の一人は「これは戦争とは言えなかったな」と呟いた。

      ※日本陸軍は「機械力の不足は精神力で補うという一種華麗で粋狂な夢想」
       に酔いつづけた。
      ※太平洋戦争のベルは、肉体をもたない煙のような「上司」もしくはその
      「会議」というものが押したのである。そのベルが押されたために幾百万
       の日本人が死んだか、しかしそれを押した実質的責任者はどこにもいな
       い。東条英機という当時の首相は、単に「上司」というきわめて抽象的
       な存在にすぎないのである。
              (司馬遼太郎氏著『世に棲む日々<三>』より引用)     
      ※まったく馬鹿な戦争をしたもんだと、黒い海を見つめていた。それに
       しても腹がたつのは東京の馬鹿者たちだった。何が一億総特攻だ。これ
       が一億特攻か。話のほかだ。怒りがますます込み上げた。こうなったら
       なにがなんでも日本に帰り、横浜の日吉台の防空壕に潜んでいる連合艦
       隊の参謀たちに毒づいてやる。そうしなければ、死んでいった者どもに
       、何といってわびればいいのだ。(巡洋艦『やはぎ』、原為一艦長)

    ●開戦前の参謀本部:田中新一作戦部長、服部卓四郎作戦課長、辻政信班長
               (この3人の徹底した対米開戦派に牛耳られていた)
             ※服部と辻はノモンハン大敗北の元凶。
             ※特に辻政信は「作戦の神様」と言われていた。(◎_◎)
                「我意強く、小才に長じ、いわゆるこすき男にし
               て、国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注
               意すべき男なり」(山下奉文 評)
             ※服部卓四郎はおめおめと生き残って、あろうことか敗
              戦後もGHQ情報部ウィロビー将軍などと結びついて再軍
              備を画策した。性懲りのないアホウはいつの世も存在
              するものだ。
             ※このほかの腐敗卑怯狡猾悪魔軍人の典型例を掲げてお
              こう。
               荒木貞夫、真崎甚三郎、川島義之、山下奉文、福栄
               真平、富永恭次、寺内寿一、山田乙三、牟田口廉也
    ●一縷の望み:東郷茂徳外務大臣(当時、1942年元旦、外務省にて)
       「外務省職員はこぞって、早期終戦に努力せよ」
      この東郷茂徳は1948年、極東軍事裁判でA級戦犯にされ、憤慨しつつ獄中
     で亡くなった。東郷外相は、外務省によって戦犯にされたという疑いが濃厚
     なのである。

    ★[無残な結果]:真珠湾奇襲という卑怯で悪辣な行動は後に禍根を残した。
             南方戦線での兵の使い捨てと玉砕。他民族を差別・蹂躙。
            ※特殊潜航艇:潜水艦から発射する魚雷に人間を搭乗させて
                   百発百中を狙うという考えで5隻の特殊潜航
                   艇が出撃した。この悪魔の考えは後に昭和
                   18年5月頃「人間魚雷」へとさらに堕落した
                   のであった。
       ・「言論出版集会結社等臨時取締法」発布(S16.12):言論統制
       ●マレー作戦(シンガポール攻略など、S16.12.8~S17.2.15)
          司令官山下奉文ほか、西村、松井、牟田口が関わった。シンガ
         ポールは昭南島と市名を変えられ軍政が敷かれ、日本軍は住民か
         ら言葉を奪った。
         山下奉文: 「これから、お前らを天皇陛下の赤子にしてやる。
               ありがたいと思え。・・・」
             (何たる傲慢、何たる無知か。唖然として絶句しかない)
       ●比島攻略戦開始(S16.12)
          フィリピンではこの時から、レイテ沖海戦を経て敗戦までの3年
          8か月の間に約51万人の将兵、民間人が死亡した。
          フィリピンの日本軍は、住民と敵対し虐殺の行為者となってい
         た。(後半部は藤原彰氏著『餓死(うえじに)した英霊たち』
          pp.112-113より)
       ・マニラ陥落(S17.1.2)
       ・ロンドンのセント・ジェームス宮殿にドイツに国土を占領された亡
        命政府が集まり、戦争犯罪に関する連合国間の最初の国際会議が開
        催され、戦争犯罪処罰の宣言を発表(S17.1)
       ・ダグラス・マッカーサー:"I shall return."
          フィリピン、コレヒドール島(S17.5陥落)を脱出(S17.3.12)。
         後には在オーストラリアの連合軍と密接に連絡する地下ゲリラ組
         織が残った(残置諜報)。
         (ミンダナオ島ダバオには、東南アジア最大の日本人コロニーが
          あった。日本人移民がほとんど政府の力を借りずに築いた町だ
          った。戦争当時約2万人が住んでいたが戦争の被害者となった
         (鶴見良行氏著『マングローブの沼地で』朝日選書;1994:165)。
       ●シンガポール占領(S17.2.15)
       ●ラングーン(イギリス領ビルマ)を占領(S17.3.8)
       ●ジャワ島に上陸(S17.3.1)しオランダ軍を降伏させた(S17.3.9)。
          日本軍は各国・地域の首都を占領すると、まもなく
         して軍政を開始しました。フィリピンは陸軍第十四軍、
         ジャワ島は第一六軍、マラヤとスマトラ島は第二五軍、
         ビルマは第一五軍がそれぞれ担当し、オランダ領ボルネ
         オやセレベス(スラウェシ)島以東の島々は、海軍が担
         当しました。日本軍は、イギリス領マラヤやオランダ領
         東インドという枠組みでもなければ、戦後独立した国家
         とも違う枠組みで、統治したのです。
          ここで勘違いをしてもらっでは困るのは、軍政と言っ
         てもそのトップが軍人であっただけということです。実
         際に行政を司った人のなかには、日本の官庁から派遣さ
         れた官僚などが多く含まれていました。また、「資源の
         獲得」に従事したのは、軍から受命した一般企業で、積
         極的に進出しました。海軍担当地域は、「未開発」地域
         が多いとみなされたことから、日本が永久確保すべき地
         域とされ、「民政」がおこなわれました。しかし、「民
         政」とは名ばかりで、陸軍に勝るとも劣らない強権的な
         「軍政」がおこなわれました。いずれも、軍人が大きな
         力をもっていましたが、官も民も積極的に協力しました。
         その意味で、軍人だけに戦争責任を押しっけるのは、問
         題があると言えます。(早瀬晋三氏著『戦争の記憶を歩
         く 東南アジアの今』岩波書店、p.9)。
       ●ドーリトル空襲:日本本土・東京が初めて空襲される(S17.4.18)
          アメリカ空母ホーネットから発進したB25が東京、名古屋、関西
         方面を初空襲。(作戦名『シャングリラ』、S18年ルーズベルトに
         より命名される)。当時の防衛総司令官東久邇宮稔彦は捕虜とな
         った米人を処刑してしまった。
       ●妨害と干渉の翼賛選挙(S17.4.30、第21回総選挙)
         近衛文麿は衆議院議員の任期を法律を作って1年先延ばしして選挙
        を行った(国家の方針に全員一致で賛成する翼賛議会体制の確立)。
         投票率83.1%で翼賛政治体制協議会からの推薦候補は381人(466人
        中)と80%以上が当選。非推薦候補は85人のみ。
           非推薦候補鳩山一郎:「だんだんと乱暴の干渉をきく。憲法
             は実質的に破壊さる。選挙にして選挙に非らず。当局は
             蓮月尼の歌でもよく味へ。
               討つ人も討たるる人も心せよ おなじ御国の御民なら
               ずや」
           (清永聡氏著『気骨の判決』新潮新書、p.40)
       ・早川忠氏(筆者の親友早川芳文君の父君、T15.11.5生~H8.1.11病没)
        乙種第18期飛行予科練習生(1476名)として、土浦海軍航空隊に入
        隊。16歳(S17.5.1)(倉町秋次『豫科練外史<4>』教育図書研究
        会、1991年、p.286)
       ・珊瑚海海戦(MO作戦、S17.5.7~8)
          空母対空母の初めての激突。翔鶴航行不能、ヨークタウン大破、
         祥鳳とレキシントン沈没で痛み分け。日本の侵攻作戦はここまで。
       ●ミッドウェー海戦での惨敗(S17.6.5)
          正規空母四隻、重巡一隻を喪失。優秀なパイロットと整備員を
         失う。密閉型格納庫方式の採用が空母の命取りになった。さらに
         航空機損失322機、失った兵員3500名に達する壊滅的敗北を喫した。
          (作戦の責任者は順調に昇進した。お笑い種である)。
          澤地久枝氏著『滄海よ眠れ(-)』(文春文庫)によれば、淵田(美
         津雄)戦史(淵田・奥宮共著『ミッドウェー』)の中の「運命の五
         分間」説が大ウソであって、現実は艦隊司令部の”敵空母出現せ
         ず”の思い込みからきた作戦ミスだった。淵田は中佐であり海軍指
         揮官であり、事実までねじ曲げる軍隊の恐ろしさが、ここにも首を
         だしている。
       ●服部卓四郎と辻政信の独断による最悪のポート・モレスビー陸路
        攻略の無謀さ(S17.7.18-S18.1.1)
         標高4073mのスタンレー山を越えてニューギニア北岸のブナから
        ポート・モレスビーをめざすという行程は実際距離340kmの陸路進
        行で無謀極まりない作戦だとわかっていたが、田中-服部-辻という
        相変わらずのバカ参謀どもにより独断で行われ、飢餓地獄で終わっ
        た。辻はここでも責任を問われなかった。(藤原彰氏著『餓死(う
        えじに) した英霊たち』青木書店、pp.37-43)
                  -----------------------
         「食糧の欠乏は、的弾以上の徹底的損害を我が軍に与えるよう
         になってきた。私の大隊の将兵もみんな飢餓で体力を消耗しき
         ってしまい、頬は落ち髪は伸び放題となり、眼球は深く凹んで
         底に異様な光が残った。そして顎はとび出し、首は一握りほど
         に細り、気力なく足を引きずってよぼよぼと歩き、着ているも
         のは破れ、裸足で棒のようにやせた腕に飯盒をぶらさげ、草を
         摘み水を汲んで歩く姿はどこにも二、三十才の年齢は見られず、
         老いさらばえた乞食といった様子だった。・・・この栄養失調
         の衰弱した体に一たび下痢が始まりマラリアがあたまをもたげ
         ると、血便を下し、40度前後の高熱に襲われ・・・発病までは
         一粒の米でも貪り食った者が、今度は戦友の心づくしの粥すら
         欲しないようになり、水ばかり飲んで喘いでいるのだった。
         ・・・患者はたいてい1週間も発熱を続けると脳症を起こして
         うわごとを言い始め、嘘のように脆く、ちょうど晩秋の落葉の
         ようにあっけなく死んだ。・・・(結局)7割は病死だった」
                     (小岩井第二大隊長の回想録より)
         (藤原彰氏著『餓死(うえじに) した英霊たち』青木書店、
          pp.45-46)
       ●ガダルカナルを中心とした陸海の攻防での惨敗(S17.8.7~S18.2)
         ガダルカナル戦は補給を全く無視して陸軍部隊を送り込み、戦死
        者の3倍もの餓死者を出すという悲惨なな結果を迎えた。まさに大東
        亜戦争の全局面を象徴するような戦闘となった。(藤原彰氏著『餓
        死(うえじに)した英霊たち』青木書店、p.22)
         (「い」号作戦:ガダルカナルを巡っての航空決戦。このガダルカ
         ナルこそは大東亜戦争の縮図だ。大本営と日本軍の最も愚かな部
         分がこの戦いの全てに現れている)。
          第一次ソロモン海戦。陸海軍兵隊約3万1000人のうち約2万800
         人が無駄に死(大半が餓死、マラリアによる病死)んだ。多くの
         熟練パイロットの戦死により海軍航空隊の戦力が激減(893機の
         飛行機と2362名の搭乗員を失う)した。
           ※井本熊男(当時参謀本部作戦課)の回想
              「ガ島作戦で最も深く自省三思して責任を痛感しなけ
             ればならぬのは、当時大本営にありて、この作戦を計画、
             指導した、洞察力のない、先の見えぬ、而も第一線の実
             情苦心を察する能力のない人間共(吾人もその一人)で
             なければならぬ」
           ※藤木参謀(ガダルカナル作戦大失敗の馬鹿参謀)曰く
              ・・・一支隊の命運はそれこそ鴻毛の如し、従容とし
             て悠久の大義に生くる悦びとして受け入れるべきであり、
             戦争ではよくあることであります。その一つ一つに過度
             の感情移入は禁物であります。(ゴミだな。こいつは)
                    (福井孝典氏著『屍境』作品社、p.18)
           ※大本営発表
              「・・・ガダルカナル島に作戦中の部隊は・・其の目
             的を達成せるに依り二月上旬同島を撤し他に転進せしめ
             られたり」(あほか? 狂っとる)
           ※撤退にあたっての陸軍司令部よりの命令(最低!!)
             「新企画実行の為行動不如意にある将兵に対しては皇国
             伝統の武士道的道義を以て遺憾なきを期すること」
               (飯田進氏著『地獄の日本兵』新潮新書、p.41))
       ●横浜事件(S.17.9~10頃)
          太平洋戦争下の特高警察による、研究者や編集者に対する言論
         思想弾圧事件。(特高:特別高等警察=思想の取り締まりが任務)
          1942年、総合雑誌『改造』8、9月号に細川嘉六論文〈世界史の
         動向と日本〉が掲載されたが、発行1ヵ月後,大本営報道部長谷
         萩少将が細川論文は共産主義の宣伝であると非難し、これをきっ
         かけとして神奈川県特高警察は、9月14日に細川嘉六を出版法違
         反で検挙し、知識人に影響力をもつ改造社弾圧の口実をデッチ上
         げようとした。しかし,細川論文は厳重な情報局の事前検閲を通
         過していたぐらいだから、共産主義宣伝の証拠に決め手を欠いて
         いた。そこで特高は細川嘉六の知友をかたっぱしから検挙し始め、
         このときの家宅捜査で押収した証拠品の中から,細川嘉六の郷里
         の富山県泊町に『改造』『中央公論』編集者や研究者を招待した
         さい開いた宴会の1枚の写真を発見した。
          特高はこの会合を共産党再建の会議と決めつけ、改造社、中央
         公論社、日本評論社、岩波書店、朝日新聞社などの編集者を検挙
         し、拷問により自白を強要した(泊共産党再建事件)。
          このため44年7月、大正デモクラシー以来リベラルな伝統をもつ
         『改造』『中央公論』両誌は廃刊させられた。一方、特高は弾圧
         の輪を広げ、細川嘉六の周辺にいた、アメリカ共産党と関係があ
         ったとされた労働問題研究家川田寿夫妻、世界経済調査会、満鉄
          調査部の調査員や研究者を検挙し、治安維持法で起訴した。
           拷問によって中央公論編集者2名が死亡、さらに出獄後2名が
          死亡した。その他の被告は、敗戦後の9月から10月にかけて一律
          に懲役2年、執行猶予3年という形で釈放され、『改造』『中央
          公論』も復刊された。拷問した3人の特高警察官は被告たちに人
          権蹂躙の罪で告訴され有罪となったが、投獄されなかった。   
                     (松浦総三(平凡社大百科事典より))
       ●「敵性語を使うな」とか「敵性音楽を聴くな」
          国民には強制的な言論統制がなされていた。この年(昭和18年)
         の初めから「敵性語を使うな」とか「敵性音楽を聴くな」という
         命令が内務省や情報局からだされた。カフェとかダンスといった
         語はすでに使われず、野球のストライクもまた「よし一本」とい
         う具合に変わった。電車のなかで英語の教科書をもっていた学生
         が、公衆の面前で難詰されたり、警察に告げ口されたりもした。
          とにかく米英にかかわる文化や言語、教養などはすべて日常生
         活から追い払えというのだ。まさに末期的な心理状態がつくられ
         ていく予兆であった。指導者たちが自分たちに都合のいい情報の
         みを聞かせることで国民に奇妙な陶酔をつくつていき、それは国
         民の思考を放棄させる。つまり考えることを止めよという人間の
         ロボット化だったのだ。
          ロボット化に抗して戦争に悲観的な意見を述べたり、指導者を
         批判したりすると、たちまちのうちに告げ口をする者によって警
         察に連行されるという状態だった。(保阪正康氏著『あの戦争は
         何だったのか』新潮新書、pp.154-155より)

       ●ニューギニア東岸、輸送船団壊滅(S18.2.28)
          昭和十人年二月二十八日、第十八軍の隷下に入る兵士たちを乗
         せた八隻の輸送船団は、陸海八十機の戦闘機、八隻の駆逐艦に護
         られながらラバウルを出発しました。しかし、ブナから三百キロ
         北西のラエ近くで敵空軍の反復攻撃を受け、輸送船はすべて沈ん
         でしまいました。駆逐艦も四隻が沈没しました。第十人軍の司令
         部要員のほか、三千名の将兵が海に沈んだのです。貴重な武器、
         弾薬、車両、燃料などを失った僅か八百五十名の将兵が、丸腰の
         ままラエに上陸しただけでした。(飯田進氏著『地獄の日本兵』
         新潮新書、p.61)
       ・ビスマルク海での日本軍輸送船団壊滅(S18.3.4)
          アメリカ空軍による新しい攻撃方法(スキップ爆撃)
       ・唖然とする100トン戦車構想
          どうやって持ち込み、何に使う? 実際機能するのか?
         貧弱な発想の典型。
       ・「い号作戦」(S18.4.7)
          零戦はじめ合計400機による航空部隊による、ニューギニアの
         アメリカ軍飛行場攻撃作戦(山本五十六自ら指揮)
       ●連合艦隊司令長官、山本五十六大将戦死(S18.4.18)
          ラバウル発ブーゲンビル島カヒリ(ブイン)に赴く途中に撃墜
         された。長官の日程は暗号で打電されたが完全に解読されていた。
         ミッドウェーの失敗に学ばないバカ丸だしの軍部であった。
         (暗号解読の実際についてはマイケル・パターソン『エニグマ・
         コードを解読せよ』角敦子訳、原書房、pp.369-370を参照)
       ●御用哲学者田辺元の体制迎合的講義(1943.5.19)
         (林尹夫(1945年7月28日戦死、享年24歳)の日記より)
         19日のT(筆者注:田辺元)教授月曜講義「死生」を聴講。
        すなわち、死は自然現象であり、我々の本性意志のいかんと
        もしがたいものとみる、ストアを代表とする自然観的認識論
        と、これにたいして、死を現実の可能性とみて、それへの覚
        悟により蘇生の意義をみるハイデッガーを代表とする自覚存
        在論的態度を説明し、このいずれも現代の我々の死生の迷い
        を救うものでないとする。しからば我々を救う死の態度とは
        ”決死 ”という覚悟のなかにありとT教授は説く。つまり、
        死を可能性の問題として我々の生を考えるのではなく、我々
        はつねに死にとびこんでゆくことを前提に現在の生があると
        いう。この場合、死はSein(存在)ではなくしてSollen(当
        為)であるという。
         林は、「T教授の論理は、あきらかに今日の我が国の現状の
        必要性に即応することを考慮した考え方であろう」と鋭く見
        抜いていた。
         (大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、p.124)
       ●アッツ島玉砕(S18.5.29)
          大東亜戦争下での初めての玉砕。傷病兵を安楽死させ、2576人
         全員死亡。(藤田嗣治画伯『アッツ島玉砕』を見よ!!)            
         山崎保代大佐:「傷病者は最後の覚悟を決め、非戦闘員たる
                軍属は各自兵器を執り、共に生きて捕虜の辱
                めを受けざるよう覚悟せしめたり。他に策な
                きにあらざるも、武人の最後を汚さんことを
                虞る。英魂と共に突撃せん」
          ※「玉砕」とは
            「玉砕」は、唐の時代に編まれた 『北斉書』 の一節
           「大丈夫寧可玉砕何能全」に由来すると言われる。大丈夫
           たる男子は、いたずらに生き長らえるよりは玉のごとく美
           しく砕け散るほうがよいという意味だが、それを現代に復
           活させ神がかり的な殉国思想と結び付けたところに、大本
           営の詐術があった。国家および天皇のためにいさぎよく死
           ぬことは、生き延びることよりも美しい。実際には戦場で
           無謀な突撃をして皆殺しにされることを、「玉砕」の二文
           字は美化し、そのような徒死に向かって国民の意識を誘導
           する役割をも果たした。(野村進氏著『日本領サイパン島
           の一万日』岩波書店、p.207)
          ※ 清沢洌氏『暗黒日記』(岩波文庫、p.39より)
            昨日(S18.5.29)アッツ島の日本軍が玉砕した旨の放送
           があった。午后五時大本営発表だ。今朝の新聞でみると、
           最後には百数十名しか残らず、負傷者は自決し、健康者は
           突撃して死んだという。これが軍関係でなければ、こうし
           た疑問が起って社会の問題となったろう。
            第一、谷萩報道部長の放送によると、同部隊長山崎保代
           大佐は一兵の援助をも乞わなかったという。しからば何故
           に本部は進んでこれに援兵を送らなかったか。
            第二、敵の行動は分っていたはずだ。アラスカの完備の
           如きは特に然り。しからば何故にこれに対する善後処置を
           せず、孤立無援のままにして置いたか。
            第三、軍隊の勇壮無比なることが、世界に冠絶していれ
           ばいるほど、その全滅は作戦上の失敗になるのではないか。
            第四、作戦に対する批判が全くないことが、その反省が
           皆無になり、したがってあらゆる失敗が行われるわけでは
           ないか。
            第五、次にくるものはキスカだ。ここに一ケ師団ぐらい
           のものがいるといわれる。玉砕主義は、この人々の生命を
           も奪うであろう。それが国家のためにいいのであるか。こ
           の点も今後必ず問題になろう。もっとも一般民衆にはそん
           な事は疑問にはならないかも知れぬ。ああ、暗愚なる大衆!
          ※ 不愉快なのは徳富蘇峰、武藤貞一、斎藤忠といった鼠輩が
            威張り廻していることだ。(伊藤正徳)
             (清沢洌氏著『暗黒日記』、岩波文庫、p.46)
          ※ 開戦の責任四天王は・・・
             徳富蘇峰(文筆界)、本多熊太郎(外交界)、末次信正
           (軍界)、中野正剛(政界)
             (清沢洌氏著『暗黒日記』、岩波文庫、p.102)
       ●東条内閣「学徒戦時動員体制確立要綱」を閣議決定(S18.6.25)
         <大東亜戦争の現段階に対処し、教育練成内容の一環として、
          学徒の戦時動員体制を確立し学徒をして有事即応の態勢たら
          しむるとともに、これが勤労動員を強化して学徒尽忠の至誠
          を傾け、その総力を戦力増強に結集せしめんとす> アホか!!
       ・創価学会初代会長・牧口常三郎、二代目会長・戸田城聖(甚一)
        が治安維持法違反で逮捕された。(S18.7.6)
       ●清沢洌氏の日記より(S18.7.31)
          毎朝のラジオを聞いて常に思う。世界の大国において、かく
         の如く貧弱にして無学なる指導者を有した国が類例ありや。国
         際政治の重要なる時代にあって国際政治を知らず。全く世界の
         情勢を知らざる者によって導かるる危険さ。
       ・イタリア無条件降伏(S18.9.8)
          昨日まで「イタリー、イタリー」といっていたのが、今日は
         文芸欄その他まで動員しての悪口だ。日本の新聞には小学校生
         徒の常識と論理もないらしい。(清沢洌氏著『暗黒日記』、
         岩波文庫、p.89)
       ●ニューギニア東部サラワケット山越え"地獄の撤退"(S18.9.10)
             (飯田進氏著『地獄の日本兵』新潮新書、pp.63-69)
        ※ラエ・サラモアからキアリへの標高4000m級の山越え行軍を強い
         られた部隊の一つである第51師団第三野戦病院の岩田亀索衛生
         伍長は次のように書いている。
         「ラエより(S18.9.15発)死のサラワケット越え(行程約400km)、
         前半10日くらいは的包囲のうちの逃避行、虎の尾を踏む思ひの暗
         夜の難行軍、谷へ転げ落ちる者数知れず、キアリ着(S18.10.15)
          。ラエ撤退時の兵力約六千、どうにかキアリに着いた将兵は半
         数の約三千、熱帯とは云へ四千米以上の高山、寒さ、連日の行軍、
         疲労凍死、餓死数十名が各所に枕を並べて無念の涙を飲み此の山
         の犠牲となる。今もなほ白骨を晒す姿が目に浮かぶ」(藤原彰氏
         著『餓死(うえじに) した英霊たち』青木書店、p.57)
       ・ロンドンに連合国戦争犯罪委員会(UNWCC)が設置(1943.10)さ
        れ、1944年より活動を開始。
       ●学徒出陣(S18.10.21、最初の「壮行会」、25000人)
          東条英機:「御国の若人たる諸君が、勇躍学窓より征途に就
               き、祖先の遺風を昂揚し、仇なす敵を撃破して皇運
               を扶翼し奉る日はきたのである」。
           ※時まさに連戦連敗、戦争を知らない人間には、戦争をやめ
            る断固たる決意も持ち得なかったということだろう。あき
            れる他はない。
           ※特攻パイロットには意図的に学徒出陣組が徴用された。
           ※1943年12月にいまだに正確な数字はわかっていないが、
            全国で20~30万人の学生が学徒兵として徴兵された。
            (大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、p.126)
           ※学徒兵として召集された朝鮮人は4385人、このうち640人
            が戦死 (大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』岩波書店)
           ※林尹夫(1945年7月28日戦死、享年24歳)の場合
             1941年9月5日には、林は次のように記す。「日本よ、
            ぼくはなぜ、この国に敬愛の念を持ちえないのか」。
            さらに10月12日には、「国家、それは強力な支配権力
            の実体である。・・・ぼくは、もはや日本を賛美する
            こと、それすらできないのだ」と言いつつ、「戦争は、
            国体擁護のためではない。そうではなくして、日本の
            基本的性格と、そのあり方が、日本という国家に、戦
            争を不可欠な要素たらしめているのだ」と鋭い洞察を
            示す。日本は戦争なしでは一瞬たりとも存続しえない
            戦争機械のような存在である。戦争がなければ、自ら
            が生き延びるために無理やりにでも戦争を作り出すだ
            ろう-ーこの戦争不可欠という洞察からはどのような
            希望も導き出すことはできない。林はこの日、次のよ
            うにも述懐する。
              ・・・ぼくは、この戦争で死ぬことが、我ら世代
             の宿命として受けとらねばならぬような気がする。
             根本的な問題について、ぼくらは発言し、批判し、
             是非を論じ、そして決然たる態度で行動する。そう
             いう自主性と実践性を剥奪されたままの状況で戦場
             にでねばならぬためである。だから宿命と言うのだ。
              戦争で死ぬことを、国家の、かかる要求のなかで
             死ぬことを、讃えたいとは霜ほども思わぬ。その、
             あまりにもひどい悲劇のゆえに。(大貫美恵子氏著
             『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.120-121)
       ・東条英機を公然と批判した中野正剛は憲兵隊に引っ張られ10月27日
        自殺させられた。(憲兵隊:軍隊の警察。本来の任務は軍の綱紀粛
        正。内地憲兵と外地憲兵の二種あり。外地憲兵は作戦任務・諜報活
        動・機密保全が主な任務)。
         中野正剛:「国は経済によりて滅びず。敗戦によりてすら滅びず。
              指導者が自信を喪失し、国民が帰趨に迷うことにより
              滅びる」(『戦時宰相論』)
       ・米英ソが三国首脳の名で「ドイツの残虐行為に関する宣言」(モス
        クワ宣言)を発表(1943.11.1)
         ”ドイツの戦争指導者については、連合国政府の共同決定によっ
        て処罰する”ことをはじめて規定した。(粟屋憲太郎氏著『東京裁判   
        への道<上>』講談社、pp.18-19)
       ●マキン、タラワ両島の守備隊が全滅(S18.11)
          柴崎恵次海軍少将他4500名全滅
       ●ブーゲンビル島沖海戦(S18.10~11)
          ブーゲンビル島はラバウル防衛ののための要点であったので、
         米軍のタロキナ岬上陸(S18.10.27)に対して連合艦隊の主力を
         あげて反撃したが米艦のレーダーが大威力を発揮、絶対劣勢と
         思われた米艦隊が勝利した。日本海軍はブーゲンビル島突入に
         失敗。情報収集・分析・活用を無視した結果であった。なおこの
         時の戦果は大本営発表の1/10だった。
          タロキナ作戦大敗北の後に残った兵は4万余あったが、方面軍
         の報告ではS20.12.10には203053人に減少。大部分は飢餓に基づ
         く戦病死であった。しかもブーゲンビル島の第6師団のすさまじ
         い飢餓の状況のなかで食糧を求めて離隊し、敗戦後に戻った兵
         を軍法会議にもかけず、敵前逃亡とみなし銃殺したという。
         (1997.7.12放送、NHK教育テレビ「封印ーー脱走者たちの終戦」)
         (後半部は藤原彰氏著『餓死(うえじに)した英霊たち』
          pp.30-31より)
       ・カイロ会談(1943.11):ルーズベルトがチャーチルの反対を押して
         蒋介石をカイロに招き戦後の満州、日本の帰趨についてなど話し
         あった。どういうわけか蒋介石夫人の宋美齢も同席した。チャー
         チルにとっては中国はどうでもよかった。(このあとルーズベル
         トとチャーチルはスターリンと会談するためにテヘランに行き、
         結局、カイロ会談での合意(中国を援助する)を放棄。蒋介石を
         激怒させた。これが蒋介石政権の没落のはじまりとなった)。
          この『カイロ宣言』で連合国が、日本の戦争責任処罰をはじめ
         て公式に共同声明した。(粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道
         <上>』講談社、p.20)
       ・マーシャル諸島、クェゼリン本島、ルオット、ナムル壊滅(S19.1)
       ・フーコン死の行軍(S19.1)~メイクテーラ奪回(?)作戦(S20)
         古山高麗雄氏『フーコン戦記』(文藝春秋社)より
            俺たちが半月がかりであの道を踏破したのは、十九年の
           一月中旬から下旬にかけてであったという。泰緬鉄道が完
           成したのは、十八年の十月二十五日だという。すでに鉄道
           は開通していたのだが、俺たちは歩かされた。鉄道隊は、
           「歩兵を歩かせるな」を合言葉にして敷設を急いだという
           が、できると物資輪送が先になり、歩兵は後になった、と
           古賀中尉は書いている。
            歩兵は歩け、である。けれども歩兵だからと言って、歩
           かせて泰緬国境を越えていたのでは、大東亜戦争では勝て
           なかったのだ。歩兵は歩かせるものと考えていた軍隊は、
           歩兵は送るものと考えていた軍隊には勝てないのである。
           俺たちは日露戦争用の鉄砲、三八式歩兵銃を担がされ、自
           動小銃をかかえて輸送機で運ばれていた軍隊に、途方もな
           い長い道のりを、途方もない長い時間歩いて向かって行っ
           て、兵員が少なくても、食べる物がなくても、大和魂で戦
           えば勝てる、敵の兵員が十倍なら、一人が十人ずつ殺せば
           勝てる、俺たちはそんなことを言われながら戦い、やられ
           たのだ。
                  ******************
            どれぐらい待っただろうか。やっと一行が現われた。
           徒歩であった。副官らしい将校と参謀を従えて、師団長も
           泥道を歩いた。前後に護衛兵らしいのがいた。
            師団長だの参謀だのというのは、物を食っているから元
           気である。着ているものも、汚れてなくて立派である。フ
           ーコンでは戦闘司令所が危険にさらされたこともあったと
           いうが、あいつらは、食糧にも、酒、タバコにも不自由し
           ないし、だから、元気なわけだ。しかもこうして、瀕死の
           兵士や、浮浪者のようになっている兵士は見せないように
           と部下たちがしつらえるのだから、白骨街道の飢餓街道の
           と聞いても、わからないのである。あるいは、わかっても
           意に介せぬ連中でもあるのだろうが、どうしてみんな、あ
           んなやつらに仕えたがるのか。
            いろいろ記憶が呆けていると言っても、あのとき、貴様
           ら浮浪者のような兵隊は、閣下には見せられん、と言った
           下士官の言葉も、あの姐虫と同じように、忘れることがで
           きないのである。
       ●海軍軍務局が呉海軍工廠魚雷実験部に対して人間魚雷(暗号名
         「○六」)の試作を命じた。
       ・米空母機動部隊トラック島攻撃~パラオ空襲(S19.2~3)
          日本海軍は燃料補給に致命的打撃を被った。
          トラック島(海軍最大の前進基地)の機能喪失とラバウルの孤
          立(S19.3)。このあと日本軍は全ての戦いで完敗を重ねた。
       ・東條演説事件(S19.2.28):臨時の「全国司法長官会同」において
         東條が司法を脅した。
           「従来諸君の分野に於いて執られてきた措置ぶりを自ら
          批判もせず、ただ漫然とこれを踏襲するとき、そのところ
          に、果たして必勝司法の本旨にそわざるものなきやいなや、
          とくと振り返ってみることが肝要と存ずるのであります。
           (中略)私は、司法権尊重の点に於いて人後に落つるも
          のではないのであります。しかしながら、勝利なくしては
          司法権の独立もあり得ないのであります。かりそめにも心
          構えに於いて、はたまた執務ぶりに於いて、法文の末節に
          捉われ、無益有害なる慣習にこだわり、戦争遂行上に重大
          なる障害を与うるがどとき措置をせらるるに於いては、ま
          ことに寒心に堪えないところであります。
           万々(が)一にもかくのごとき状況にて推移せんや、政
          府と致しましては、戦時治安確保上、緊急なる措置を講ず
          ることをも考慮せざるを得なくなると考えているのであり
          ます。
           かくしてこの緊急措置を執らざるを得ない状況に立ち至
          ることありと致しまするならば、この国家のためまことに
          不幸とするところであります。
           しかしながら、真に必要やむを得ざるに至れば、政府は
          機を失せずこの非常措置にも出づる考えであります。この
          点については特に諸君の充分なるご注意を願いたいものと
          存ずる次第であります(以下略)」(清永聡氏著『気骨の
          判決』新潮新書、pp.134-135)
       ・中学生勤労動員大綱決定(S19.3.29)
       ●インパール死の行軍(S19.1.7に認可、S19.3月8日~7月)
         チンドウィンの大河を渡り、インドとビルマの国境のアラカン
        山脈を越えて、インドのアッサム州に侵入しようとした作戦。
          補給がなければ潰れるのは当然。稀にみる杜撰で愚劣な作戦だ
        った。(司令官:牟田口廉也、10万人中7万人死亡。なお牟田口の
        直属上司はビルマ方面軍司令官河辺正三だった)。
                 ---------------------------
        ☆インパール作戦失敗後の7月10日、司令官であった牟田口は、自
         らが建立させた遥拝所に幹部将校たちを集め、泣きながら次のよ
         うに訓示した。
           「諸君、佐藤烈兵団長は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を
            放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手
            に退りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても
            戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸
            がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由になら
            ぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がな
            くなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。
            足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和
            魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州であ
            る。神々が守って下さる…」
          以下、訓示は1時間以上も続いたため、栄養失調で立っている
         ことが出来ない幹部将校たちは次々と倒れた。
                 ---------------------------
            ※インパール作戦での日本兵の敵
              ○一番目:牟田口廉也(および日本の軍部)
                「インパール作戦」大敗後、作戦失敗を問われた
               牟田口は、こう弁明した。
                「この作戦は″援蒋ライン”を断ち切る重要な戦
               闘だった。この失敗はひとえに、師団の連中がだら
               しないせいである。戦闘意欲がなく、私に逆らって
               敵前逃亡したのだ」
                部下に一切の責任を押し付けたのである。
                三人の師団長たちはそれぞれ罷免、更迭された。
               しかし、牟田口は責任を問われることはなく参謀本
               部付という名目で東京に戻っているのだから、開い
               た口がふさがらない。
                私はインパール作戦で辛うじて生きのこった兵士
               たちに取材を試みたことがある(昭和63年のこと)。
                彼らの大半は数珠をにぎりしめて私の取材に応じ
               た。そして私がひとたび牟田口の名を口にするや、
               身体をふるわせ、「あんな軍人が畳の上で死んだこ
               とは許されない」と悪しざまに罵ることでも共通し
               ていた。(保阪正康氏著『あの戦争は何だったのか』
               新潮新書、p.179)
              ○二番目:軍部に同調する日本人のものの考え方
              ○三番目:雨季とマラリア(蚊)
              ○四番目:飢餓
              ○五番目:英国・インド軍

          萩原の言うとおりなのかも知れない。確かに、軍隊では、将軍
         の一声で、何万人もの人間の運命が違って来る。参謀が無茶な作
         戦を作ると、大量の人間が死ぬことになる。無茶と言えば、あの
         戦争自体が、最初から無茶だったのかも知れない。ビルマくんだ
         りまで行って、糧秣も兵器弾薬もろくになく、十五倍、二十倍の
         敵と戦うなどというのは、どだい無茶である。あの頃は、不可能
         を可能にするのが大和魂だ、などと言われて尻を叩かれたが、将
         軍や参謀たちは、成算もないのに、ただやみくもに不可能を可能
         にしろと命令していたわけだろうか。泰緬鉄道を作ることが、ど
         れほどの難工事であるか、アラカンを越えてインパールを攻略す
         ることがどのようなものであるか、将軍や参謀たちには、まるで
         わかっていなかったのであろうか。
          (奴ら、一種の精神病患者なんやね、病人たい、病人、軍人病
         とでも言えばよかかね、この病気にかかると、ミイトキーナを死
         守せよ、などと平気で言えるようになる。玉砕なんて、自慢にも
         何もならんよ、勝目のない喧嘩をして、ぶっ飛ばされたからと言
         うて、自慢にはならんじゃろう)。
               (古山高麗雄氏『断作戦』(文春文庫)pp.46-47)

            ※大本営発表(この頃は大ウソとボカしの連続)
               「コヒマ及インパール平地周辺に於て作戦中なりし
              我部隊は八月上旬印緬国境線付近に戦闘を整理し次期
              作戦準備中なり」
            ※桑原真一氏(日本-イギリス戦友会交流世話人)
               「あの作戦の目的について、私は今も知らない。ビル
              マ、インドからあなたたち(注:英軍)を追い出そうと
              したことだと思うが、しかしそれが目的ならあのような
              かたちの戦闘は必要でない。私は、あの作戦は高級指揮
              官の私利私欲のために利用されたと思っている。いや私
              だけではない。皆、そう思っている」
               (保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より)
            ※インパールを含めてビルマに派遣された兵隊33万人中
             19万人以上が戦死した。
        ・帝国陸軍「一号作戦」(大陸打通作戦)を発令(S19.4)
           51万人の大兵力を投じ、北京ー漢口、広州ー漢口の鉄道線沿い
          の重要拠点全てを占領して大陸交通を完全に支配下におくととも
          に、アメリカ軍の航空隊基地を破壊するという、気宇壮大、前代
          未聞の作戦。斜陽日本も、この作戦では弱体の中国軍に大攻勢を
          かけた。(結局は中国との和解に至らなかったのだが)
       ●「湘桂作戦」(S19.5~11):支那派遣軍最終最大の作戦
         黄河を渡り京漢線を打通し信陽まで400km、さらに奥漢線、湘桂線
        を打通して仏印まで1400kmに及ぶ長大な区間を、16個師団・50万人
        の大軍を動かした、日本陸軍始まって以来の大作戦。(服部卓四郎と
        辻政信(当時参謀部兵站課長)の極悪残忍さがよくわかる)。
           作戦担当の檜兵団は、野戦病院入院患者の死亡37%(三分の一
          強)、そのうち戦傷死13.9%に対し、脚気、腸炎、戦争栄養失調
          症等消化器病栄養病の死亡率は73.5%を占めた。
           入院患者中、「戦争栄養失調症」と診断された患者の97.7%が
          死亡したという。一人も助からなかったというにひとしい。
           前線から武漢地区病院に後送された患者の場合、栄養低下によ
          り、顔色はいちじるしく不良、弊衣破帽、被服(衣服)は汚れて
          不潔、「現地の乞食」以下であり、シラミのわいている者多く、
          「褌さえ持たぬ者もあった」と書かれている。全身むくみ、頭髪
          はまばらとなり、ヒゲは赤茶色、眼光無気力、動作鈍重、応答に
          活気がないなどと観察されている(19年9月下旬から10月中旬の
          こと)。
           日中戦争について論議は多いが、この種の臨場感ある専門家の
          文章に接するのははじめてのように思う。彼等もまた「皇軍」と
          いう名の軍隊の成員だったのだ。
           すべての戦線は母国からはるかに距離をへだてたところにある。
          しかし、中国戦線は「朝鮮」「満州」と地つづきである。海上だ
          けではなく、陸路の補給も絶え、飢餓線上で落命した多くの兵士
          がいたことを改めてつきつけられた。
          (澤地久枝氏著『わたしが生きた「昭和」』岩波現代文庫.p194)
        ・連合軍ノルマンディー上陸(S19.6.6)
       ●マリアナ沖海戦(「あ」号作戦、S19.6.19~20)
           日本海軍機動部隊消滅。新鋭空母「大鳳」(カタパルトなし)
          沈没。(作戦用Z文書は米軍の手に渡っていた)
            ※"マリアナの七面鳥狩り"(米国評)
            ※渾作戦(戦艦「大和」出動):宇垣纏(最後の特攻で
                           戦死)司令官
               「蒼い海がサンゴ礁を覆う南溟の果てに、大艦隊が
              海を圧し、脾肉の嘆をかこっている。祖国の興廃が分
              かれる戦機を眼前にしながら、阿呆の作戦、ただ手を
              こまねいて芒っとしているだけ・・・」
                 (吉田俊雄氏著『特攻戦艦大和』より)
            ※宇垣纏は中将は身の毛もよだつ「桜花特攻作戦」に対し
             平然と出撃命令を下した。「桜花特攻作戦」は一式陸攻
             の胴体の下に、頭部に1200キロの火薬を載せ、尾部にロ
             ケットを装着した小型グライダーをつけて攻撃目標まで
             運び、攻撃というときにこのグライダーに特攻兵士を乗
             せて殆んど滑空降下の形で目標艦へ突入させるというも
             のであった。
              「桜花特攻作戦」の総指揮官野中五郎中将は、この作
             戦を断じて拒否したが、掩護機に見捨てられ、出撃後ま
             もなく一式陸攻搭乗の野中五郎中将以下135名の乗員と
             三橋大尉以下 「桜花特攻作戦」隊員15名が沖縄の海に
             没した。 (荘子邦雄氏著『人間と戦争』朝日新聞出版
             pp.152-155より)
               
       ●サイパン陥落と玉砕(S19.6.15-->7.7~10):「バンザイ・クリフ」
          米軍の皆殺し作戦(ナパーム弾使用)で軍人、民間人約60000人
         が全滅。南雲忠一中将自決。(この後よりB29の日本本土爆撃が本
         格的にはじまった)。南雲忠一はミッドウェー惨敗の責任を負わ
         されサイパンへの流刑状態(悪魔の上にも悪魔がいる)だった。
         ※南雲忠一「『サイパン』島ノ皇軍将兵ニ告グ」(直後自決)
           「今ヤ止マルモ死、進ムモ死、生死須ラクソノ時ヲ得テ帝国
          男児ノ真骨頂アリ。今米軍ニ一撃ヲ加エ、太平洋ノ防波堤トシ
          テ『サイパン』島ニ骨ヲ埋メントス。戦陣訓ニ日ク『生キテ虜
          囚ノ辱ヲ受ケズ』、『勇躍全力ヲ尽シ、従容トシテ悠久ノ大義
          ニ生クルコトヲ悦ビトスベシ』ト。茲ニ将兵卜共ニ聖寿ノ無窮、
          皇国ノ弥栄(いやさか)ヲ祈念スベク敵ヲ索メテ発進ス。続ケ」
          (野村進氏著『日本領サイパン島の一万日』岩波書店、p.273)
       ・東部ニューギニア戦線(アイタペ作戦など、S18~19)
          ここは地獄の戦場だった。約16万人が戦死、戦病死。
           (大本営発表では一言も触れられていない)
             ---------------------------------------
               <第十八軍司令官安達二十三の回想>
          ・・・何も無いジャングルの地に投げ出すように放りこまれ、
         その後補給も無かった。近代戦の最低限の条件である物資と兵站
         線確保。安達はなんとかそれを獲得しようと努めた。しかし異境
         の地でそれは困難を極めた。潤沢に補給される敵の物量を前にし
         て、まるで徒手空拳さながらに対崎したのである。火力の差はと
         ても話しにならなかった。しかし何よりも兵士を苦しめたのは、
         食べる物が無いことだった。餓鬼地獄という言葉がある。まさに
         その言葉通りの惨状が日常となった。制空権も制海権も完全に奪
         われた南涙の未開地で、飢えと病にさいなまれて死んでいったの
         である。生きたまゝ死骸同然となっていく兵士たちの群れを見な
         がら、最高責任者として、済まないと思わぬ時はなかった。切歯
         扼腕、途方も無い絶望の淵に立ちすくむ時もしばしばだった。不
         屈の皇軍敢闘精神で捨て身の肉薄攻撃を繰り返したものの勝負は
         戦う前からついていた。そんな状態で戦い続けなければならなか
         った。それが悔しかった。その悔しさは兵士たちも同じ筈だった。
         同じ思いを抱いた者と一緒に死にたかった。(福井孝典氏著『屍
         境』作品社、p.196)

           ---------------<ある悲しいエピソード>--------------
           私たちはこの見張り所を占拠して、ここから敵の陣地を見る
          ことにしました。そこで私たちは一斉に銃を射って、彼らを倒
          したのです。不意の攻撃ですから、彼らに反撃の余裕はありま
          せん。全員を射殺しました。そして、私たちはその見張り所に
          入りこんだのですが、私は大学を卒業していましたので、ある
          程度の英語の読み書きはできます。
           私は、なにげなく机の上のノートを見ました。その兵士はす
          でに死んでいたのですが、まだ二十歳を超えたような青年でし
          た。そのノートに書かれた英文を読むと、「ママ、僕は元気に
          戦場にいます。あと一週間で除隊になりますが、すぐに家に帰
          ります。それまで皆を集めておいて、私の帰りを待っていてく
          ださい。そのときが楽しみです。・・・」という文面でした。
          戦友の中で英語がわかるのは私だけでしたから、何が書いてあ
          るんだと尋ねられたときも、どうやら報告書のようなものらし
          いと答えて、最後のページを被り、私はポケットにしまいこん
          だのです。しかしこれをもっていると、何かのときに都合がわ
          るいと思って、後にこっそりと焼いてしまいました。
          (保阪正康氏著『昭和の空白を読み解く』講談社文庫、p.12)
       ・西部ニューギニア戦線(S19~S20)
          苛烈な爆撃と飢餓、マラリア、アメーバ赤痢、脚気などが次々
         と若者の命を奪っていった。司令部のお偉いさんは漁船を呼びつ
         けこっそり逃げようとした。指揮官は爆撃の際には防空壕の底に
         へばりついていた。
         --------------<三橋國民氏著『鳥の詩』より>--------------
          早朝、破壊されたサマテ飛行場滑走路の修復作業のため、私た
         ち仲間の少しでも動ける何人かが、それぞれスコップを肩にして
         陣地を出発した。陣地の草っ原を抜けると山径になり清原のいる
         砲分隊のニッパ小屋につきあたる。すると、その小屋の高床式に
         なっている隅の柱に、清原が両手でしがみつき、辛うじて腰を浮
         きあがらせた恰好でうめき声をあげていた。私は清原が何をやっ
         ているのか見当がつかず、小屋の中に入っていった。
          「きよはら!何やってるんだい。・・・どうしたんだい?」
          清原は私の声を聞くなり握っていた両の手を放した。とたんに、
         尻餅をついた。こちらを振り返った清原の目に悔しげな涙が滲ん
         でいる。それでも清原は口もとに笑みをつくりながら、
          「三橋、情けねぇよ、どうにもならねぇんだ。四十度もあった
         マラリアの熱が、下がったと思ったら、腰が抜けちゃって立てね
         ぇんだよなぁ。いまこの柱に掴まって何とかして立とうとしてた
    ㌦    んだが・・・」             
          げっそりと痩せこけて毛髪が茶褐色になってしまい、ほんの幾
         日かで皺くちゃになった日の縁、手のひらの辺りなど老人めいた
         容貌に一変している。私はその時、ふっとそんな清原の状態が気
         になった。腰が抜けたあと、そのまま寝こんでしまい、余病を併
         発して亡くなっていくケースが意外に多かったからだ。高熱の引
         いたあと衰弱して、まるで老人そのもののようになってしまうの
         は、あまりいい経過とは言えないのだ。「アメーバ赤痢」「南方
         浮腫」などというのは、ほとんどがこんなふうになった体の弱点
         を衝いてくる命取りの病気のように思われ、誰からも恐れられて
         いた。軍医からは、-ーこれといって打つ手もなく、患者自身の
         体力に期待するだけーーといった絶望的な答えが返ってくるに過
         ぎなかったのである。(pp.250-251)
            **********     **********     **********     
          「こんちは、オッサン! どこから来られたんですか」
          「あぁ、兵隊さん、ご苦労さんだね、わしらは三崎漁港からだ
           よ」
          「えぇ! 三崎ですか、三浦半島の、神奈川県の・・・、よく
         こんなところまで・・・、どのくらいの日数をかけてこられたん
         ですか、すごいですねぇ、こんな小さな船で、五千キロも・・」
          「いやぁ、これも軍の機密とかだけどね、もう三崎を発ってか
         ら4か月日なんだよ。来る途中は随分おっかなかったよ、でも兵
         隊さんたちのことを思えば比べものにはならねえがね」
          「これからどこへ?」
          「まあ聞きっこなしさ。うるせえんだよ、防諜とかでね。だが
         まあいいや、赤道直下のここで兵隊さんに話したからって、敵さ
         んに漏れるわけじゃあねえしな。この船はこれから二、三日後に
         司令部のお偉いさん方を乗せて、島伝いに内地まで脱出するんだ
         とか言ってるんだがね、果たしてご注文どおりにうまくいきます
         かってぇところだな。だいいち、わしらがここまでやってくるこ
         とだけでも精一杯だったんだからねぇ・・・。帰りの海にゃあ敵
         潜がうようよしてるのを知らねぇんだから、全くいい気なもんだ
         よ、偉い人たちはねぇ」
          脱出などという、いわば軍隊ではタブーとされている言葉を、
         私たちに平気でしゃべれるのも民間人の気軽さなのだろうか。そ
         れとも、このような最悪の戦場に取り残されてしまう私たちを前
         にして、気兼ねしての言いまわしなのだろうか。しかし、この船
         が軍幹部の脱出用なのだと聞かされたとき、その理由はどうであ
         れなんとも複雑な気持ちがした。(pp.100-101)
            **********     **********     **********     
          「あぁ、もういやだ、いやだ。三橋よぅ、このあいだの戦闘で
         の四人の死にざまはほんとに惨めだったなぁ。おっかねえなぁ、
         戦争は・・・。それにしても、あの戦闘中に中助のS(鳥越注:中
         隊長S中尉)が何をやっていたか知ってるかい。敵さんが空から
         しかけてきたとき、あの野郎はドラム缶の輪っばを三つも繋ぎ合
         わせた壕の底にへばりついて、終わるまで出てこずじまいだった
         んだぜ。高射砲は空に向かって射つんだからなあ! 地面の底に
         へばりついていたんじゃあ指揮なんてできる訳がねえよ。あとで、
         中助がぬかした訓示を聞いてたかい? 『貴様らはヤマトダマシイ
         をこめて射たんから当たらないんだ』とか言ってたなぁ。あれは
         たしか何処かにあった軍歌の文句じゃあねえの・・・。ひでえ野
         郎に俺たちは、くっついちまつたなぁ・・・。だのに、あんな中
         助にべたべたして、ご機嫌とりばかりをやっている中隊機関(幹
         部室のやつらも気にいらねえよ。俺も軍隊生活は長えけれど、こ
         んなひでえ中隊に配属されちまったのはどうみても百年目だよ。
         あぁ、いやだ、いやだ。これから先、この独立中隊はどうなって
         しまうのか、皆は分かってんのかなぁ・・・」
          佐地の言ってることは、ただ単に愚痴をこぼしているといった
         ものではなく、内容そのものが時宜を得、的確な指摘だった。
         (p.150)(三橋國民氏著『鳥の詩』角川文庫)

       ●東条内閣消滅--->小磯内閣(S19.7.18)
          「敵ノ決戦方面来攻ニ方リテハ空海陸ノ戦力ヲ極度ニ集中シ敵
         空母及輸送船ヲ所在ニ求メテ之ヲ必殺スルト共ニ敵上陸セハ之ヲ
         地上ニ必滅ス」(捷号作戦と称された)
               捷一号:比島決戦(レイテ湾海戦)
               捷二号:台湾、南西諸島での迎撃戦
               捷三号:日本本土(北海道を除く)決戦
               捷四号:北東方面、千島列島での決戦
       ・グアム島10000人玉砕(S19.8)
          米軍がマリアナ諸島全域を制圧。
       ●沖縄から本土への疎開船「對島丸」が米潜水艦に攻撃され沈没。約
        1500人が死亡、生存者は227人(学童59人、一般168人)。「對島丸」
        へは護衛船がついていたが自分の身の安全のために救助活動を行わ
        ず。(外間守善氏著『私の沖縄戦記』角川書店、pp.19-27)
       ・満17歳以上兵役編入決定
       ・米軍のセブ島攻撃(S19.9~)
          米軍のセブ島空襲は十九年九月にはじまるが、二十年春、陣地
         を捨てて山中に逃げこむに至って、日本軍は民間人を邪魔もの扱
         いしはじめた。男は現地召集で軍隊にとられ、年寄りと女子供が
         のこっていた。
          「私は山で兄に会って、海軍の方へいったから命があったんで
         す。うちの義姉の弟嫁は、十一の男の子を頭に女の子四人連れて、
         陸軍の方にのこった。それを、子供がいると、ガヤガヤして敵に
         聞かれると言って、五人とも銃剣で殺してしまったんです。男の
         子は、『兵隊さん、泣きもしないし、なんでも言うこと聞きます
         から、殺さないで下さい』と言って逃げさまよっているのに、つ
         かまえて。四、五歳まで私が同じ家にいて育てた子です。そして
         妹たち四人も…。敵に知られると言って、鉄砲をうたないんです。
         銃剣で…。セブの話は一週間話してもつきないんです、あの残酷
         なやり方は。別行動をとりなさいと言ってくれればよかったんで
         すよ。殺す必要はなかったんです」。
          自決を強要され、手榴弾で死のうとして死にきれなかった人間
         を、日本兵が銃剣で刺し、出血多量で意識不明になっているのを、
         上陸してきた米兵が救い出し、レイテの野戦病院へ連れていって、
         輸血で助けた話も出る。
          「アメリカ兵は敵ながらあっぱれですね」。
            (澤地久枝氏著『滄海よ眠れ(-)』文春文庫、pp.149-150)
       ●神風特別攻撃隊の編成(S19.10、詳細は後記)
          戦争末期、いくらかの例外はあるが、日本軍の航空機使用は、
         青年の神風特攻と高級将校の逃亡という二つの機能に集中してい
         る。まことに無残という他はない。
          (鶴見良行氏著『マングローブの沼地で』朝日選書;1994:166)
         ※「特攻に行く人は、誇りです。しかし、それを強いるのは国の
          恥です」(粟屋康子:門田隆将氏著『康子十九歳 戦渦の日記』
          文藝春秋、p.81より)
       ●ハルゼイ機動部隊の沖縄「十・十空襲」(S19.10.10)
       ・台湾沖航空戦(S19.10.13~15)
          大本営発表では、日本は未曾有の大勝利をおさめたことになっ
         ている。(全くの虚報、大本営発表法螺吹きの最高)。
          大本営情報参謀掘栄三氏は、これらの成果に懐疑的で、ただち
         に参謀本部所属部長に打電したが、当時の作戦参謀瀬島龍三が握
         り潰してしまった。瀬島は捷一号作戦の直接の起案者だった。大
         本営の作戦部は、情報を軽視するだけでなく、自分たちに都合の
         悪い情報はすべて「作戦主導」の名のもとににぎりつぶしていた
         のだ。(保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より)
       ●レイテ決戦(捷一号作戦、S19.10.22~)
          比島決戦では日本人52万人以上が死亡したが、このうち8万4000
         人はレイテ島の攻防戦で死亡した。
          首謀者:服部卓四郎(敗戦後も復員省に籍をおき半ば公然と活
              動した)
       ●レイテ湾奇襲作戦 (S19.10.24~25)
          小沢囮艦隊の快挙(エンガノ沖海戦・ハルゼーの暴走)あるも、
         栗田艦隊の突然の中途退却で失敗。西村艦隊(支隊)壊滅。
          戦艦「武蔵」撃沈される(シブヤン海、S19.10.24 19:35)。
          日本の空母全滅・日本の連合艦隊全滅。--->特攻へ
       ●特攻開始(S19.10.25、海軍が一日早かった)。
          「(目標)大型戦艦ハ煙突下、ブリッジノ中間トシ、航空
          母艦ハ、エレベーターノ位置トスル」。
          「突進 一、最後マデ照準セヨ、眼ヲツムルナカレ、眼ヲツ
          ムレバ命中セズ」。(小田実氏ら『玉砕』岩波書店、p.16)
       ・「フ号兵器作戦」(S19.11.3):鹿島灘より発進
          和紙で作った直径10mの巨大な風船に15キロ爆弾1個と焼夷弾2個
         を吊して、ジェット気流にまかせてアメリカを爆撃する。しかも
         いずれはこれにペスト菌やコレラ菌を乗せてばら撒こうという愚
         劣で卑劣極まる作戦。
          (ただしこの「風船爆弾の愚劣さ」というのはGHQの嘘の情報操
         作であり、実際は1/10の確率で米国に届いたという。もしこれが
         本当ならば、例えば風船爆弾に生物・化学兵器を搭載したとすれ
         ば、大きな効果が期待出来たという。(佐藤優氏著『国家の自縛』
         、産経新聞社、p.226 ))
       ●人間魚雷「回天」(発案は黒木博司海軍少佐)の第一回出撃隊(
        「菊水隊」)が発進(S19.11.8)
       ●最初の大規模な東京空襲(S19.11.24):日本の迎撃も対空砲火も
        全く役立たなかった。
       ・東南海地震(S19.12.7)
          1944年12月7日の東南海地震の震源は紀伊半島沖の海底深さ約40
         kmで、三重県紀勢町では地震発生からわずか10分程度で6mの大津波
         が押し寄せたという記録もあります。最大震度6という揺れと津波
         によって三重県、愛知県、静岡県を中心に死者・不明者は1223名に
         のぼるということですが、太平洋戦争の混乱期でもあったためにあ
         まり詳しい記録は残っていない。
         (http://blog.goo.ne.jp/nan_1962/e
              /bec8cef008010403e54c26f14a432c4a より。H18.4.12)
       ・人肉食事件(S20.2.23~25):父島事件
          (秦郁彦氏著『昭和史の謎を追う<下>』、大岡昇平氏著
           『野火』などを参照)

          --------<休憩:サウジアラビアとアメリカ>--------
           米国は第二次大戦で石油の重要性を再認識し、豊富な
          埋蔵量をもつサウジを重要な石油供給源として位置づけ、
          関与を強めていく。石油は単にサウジ経済の柱となった
          ばかりではない。石油を媒介として、サウジと米国の関
          係が経済から安全保障の分野にまで拡大、緊密化してい
          ったのである。それを象徴したのが1945年2月、スエズ
          運河洋上でのアブドゥルアジーズと米国のローズヴェル
          ト大統領との会見であった。ここに石油と安全保障を機
          軸とした、堅固で相互補完的な両国間の「特殊な関係」
          が完成する。しかし、パレスチナ問題に対する政策の食
          い違いなどいくつもの課題を取り残したままであり、こ
          の関係は切っても切れないと同時にきわめて傷つきやす
          いという相矛盾した性格を引き摺っていく。
          (保阪修司氏著『サウジアラビア』岩波新書、p.11)
          --------------------------------------------------
       ●硫黄島全滅(S19.12.8~S20.3.26):東京より南1080kmに位置。
          戦闘49日、陸海軍23000人全滅、米軍死傷者28686人(6821人
         死亡)。太平洋戦争最大の死闘。
          栗林忠道中将 vs ホーランド M. スミス。
         ※硫黄島の滑走路が敵にとられると、本土大空襲が可能になるの
          であった。
             <名将栗林忠道中将の最後の電文より>
           戦局、最後の関頭に直面せり。敵来攻以来、麾下将兵
          の敢闘は真に鬼神を哭しむるものあり。特に想像を越え
          たる物量的優勢を以てする陸海空よりの攻撃に対し、宛
          然徒手空拳を以て克く健闘を続けたるは、小職自ら聊か
          悦びとする所なり。
           然れども飽くなき敵の猛攻に相次で斃れ、為に御期待
          に反し此の要地を敵手に委ぬる外なきに至りしは、小職
          の誠に恐懼に堪へざる所にして幾重にも御託申上ぐ。今
          や弾丸尽き水涸れ、全員反撃し最後の敢闘を行はんとす
          るに方り、塾々皇恩を思ひ粉骨砕身も亦悔いず。
           特に本島を奪還せざる限り、皇土永遠に安からざるに
          思ひ至り、縦ひ魂魄となるも誓つて皇軍の捲土重来の魁
          たらんことを期す。
           茲に最後の関頭に立ち、重ねて衷情を披瀝すると共に、
          只管(ひたすら)皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ永に
          御別れ申上ぐ。(後略)
           (梯久美子氏著『散るぞ悲しき』新潮社、pp.18-19)
         ※ この電文に書き添えてあった、3首の辞世のうちの1首...
             国の為重きつとめを果たし得で
                      矢弾尽き果て散るぞ悲しき
          は最後の句”散るぞ悲しき”が大本営により改ざんされ ”散る
          ぞ口惜し”として新聞発表されていた。
                 (梯久美子氏著『散るぞ悲しき』新潮社、p.23)
         ※ 硫黄島は、軍中央部の度重なる戦略方針の変化に翻弄され、
          最終的に孤立無援の状態で敵を迎え撃たねばならなかった戦場
          である。
           当初、大本営は硫黄島の価値を重視し、それゆえに2万の兵力
          を投入したはずだった。それが、まさに米軍上陸近しという時
          期になって、一転「価値なし」と切り捨てられたのである。そ
          の結果、硫黄島の日本軍は航空・海上戦力の支援をほとんど得
          られぬまま戦わざるをえなかった。
           防衛庁防衛研修所戦史室による戦史叢書(公刊戦史)『大本
          営陸軍部10 昭和二十年八月まで』は、硫黄島の陥落を大本営
          がどう受け止めたかについて、以下のように記述している。

             軍中央部は、硫黄島の喪失についてはある程度予期して
            いたことでもあり、守備部隊の敢闘をたたえ栗林中将の統
            帥に感歎するものの、格別の反応を示していない。

           「喪失についてはある程度予期」していたから「格別の反応
          を示」さなかったという。2万の生命を、戦争指導者たちは何と
          簡単に見限っていたことか。
           実質を伴わぬ弥縫策を繰り返し、行き詰まってにっちもさっ
          ちもいかなくなったら「見込みなし」として放棄する大本営。
          その結果、見捨てられた戦場では、効果が少ないと知りながら
          バンザイ突撃で兵士たちが死んでいく。将軍は腹を切る。アッ
          ツでもタラワでも、サイパンでもグアムでもそうだった。その
          死を玉砕(=玉と砕ける)という美しい名で呼び、見通しの誤
          りと作戦の無謀を「美学」で覆い隠す欺瞞を、栗林は許せなか
          ったのではないか。
           合理主義者であり、また誰よりも兵士たちを愛した栗林は、
          生きて帰れぬ戦場ならば、せめて彼らに”甲斐ある死”を与え
          たかったに違いない。だから、バンザイ突撃はさせないという
          方針を最後まで貫いたのであろう。
             (梯久美子氏著『散るぞ悲しき』新潮社、pp.228-229)
       ●吉田久大審院判事が鹿児島二区の翼賛選挙訴訟に無効判決を下す。
                                 (S20.3.1)
          主文:昭和十七年四月三十日施行セラレタル鹿児島県第二区ニ
             於ケル衆議院議員ノ選挙ハ之ヲ無効トス 訴訟費用は被
             告の負担トス
          ・・・翼賛政治体制協議会のごとき政見政策を有せざる政治
            結社を結成し、その所属構成員と関係なき第三者を候補
            者として広く全国的に推薦し、その推薦候補者の当選を
            期するために選挙運動をなすことは、憲法および選挙法
            の精神に照らし、果たしてこれを許容し得べきものなり
            やは、大いに疑の存する所・・・(清永聡氏著『気骨の
            判決』新潮新書、pp.1153-154)
       ●東京大空襲(S20.3.10):M69焼夷弾による首都壊滅。
         罹災者100万人以上、死者83793人、負傷者40918人(11万以上と
        の報告もある)を数えた。(荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店、
         p.165)
         日本は3月10日にはじまって4月16日までに12回も大空襲を受けた。
        その内訳は東京(3.10)、名古屋(3.12)、大阪(3.13)、神戸
        (3.17)、名古屋(3.19)、名古屋(3.25)、東京西部(4.2)、
        東京(4.4)、東京周辺・名古屋(4.7)、東京(4.12)、東京市街
        (4.13~14)、東京・横浜・川崎(4.15~16)で、消失戸数全71万
         戸、戦災者数全314万にのぼった。
             (清沢洌氏著『暗黒日記』岩波文庫、pp.337-338)
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          「何千何万という民家が、そして男も女も子どもも一緒に、焼
         かれ破壊された。夜、空は赤々と照り、昼、空は暗黒となった。
         東京攻囲戦はすでに始まっている。戦争とは何か、軍国主義とは
         何か。狂信の徒に牛耳られた政治とは何か、今こそすべての日本
         人は真に悟らねばならない」(昭和20年6月12日)
          「どの新聞を見ても、戦争終結を望む声一つだになし。皆が平
         和を望んでいる。そのくせ皆が戦争、戦いが嫌さに戦っている。
         すなわち誰も己の意思を表明できずにいる。戦争は雪崩のような
         ものだ。崩れおちるべきものが崩れ落ちぬかぎり終わらない」
                                  (7月6日)
          「首相曰く、<国民個人の生命は問題にあらず、我国体を護持
         せねばならぬ>と」(7月9日)
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          「十時、外国文學科の会。集まるほどのこともなし。<外国を
         知らぬから負けたんだ>と諸教授申される。<外国を知らぬから
         こんな馬鹿な戦争を始めたのだ>と訂正すべきものであろう」
                              (9月5日、敗戦後)
          (以上、串田孫一・二宮敬編『渡辺一夫 敗戦日記』 、博文館
           新社)
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         (付録) 1945年3月10日未明に東京の下町一帯が空襲された際
             も、私はまだ熱気が満ちていた朝の焼跡を駆け回って
             いました。真夜中のたった二時間半の空爆で、10万人の
             人間と27万戸の家屋が焼きつくされた光景…。網膜に焼
             きついたその光景は、出来合いのどんな言葉でも表現で
             きないほどだった。
              呼吸困難になるほどのショックを受けて、しばらくす
             ると、腹の底からはげしい怒りがこみ上げてきた。こん
             な馬鹿なことがあるものだろうか、あっていいのだろう
             か、と。炭化して散乱している死者の誰一人として、自
             分がこうなる運命の発端には参画していないし、相談も
             受けてはいない。自分から選んだ運命ではない。
              しかし、戦争はいったん始まってしまうと、いっさい
             が無差別で、落下してくる爆弾は、そこに住む人々の性
             別、老幼、貧富、考えの新旧などには日もくれず、十把
             ひとからげに襲いかかってくるのだ、と痛感させられま
             した。
              始まってしまうと、戦争は自分で前に歩き出してしま
             い、これはもう誰も止めようがない。完全に勝敗が決ま
             るか、両方とも共倒れするか、そのどちらかしかない。
             さっきも言ったように、「狂い」の状態にある戦場から
             反戦運動が出てくることは、まずありえません。それ
             なら、戦争を遂行中の国内から反戦運動が出てくるかと
             言えば、やはりそうはならない。なぜなら、戦争状態に
             なると、生活が困難になるということもありますが、国
             民同士が精神的に、国家の機密を守らなければだめだ、
             というように変わっていくんです。(むのたけじ氏著
             『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波新書、pp.49-50)

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          # ルメイは「すべての住民が飛行機や軍需品をつくる作業に
           携わり働いていた。男も女も子供も。街を焼いた時、たくさ
           んの女や子供を殺すことになることをわれわれは知っていた。
           それはやらなければならないことだった」とのちに弁明して
           いる。(荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店、p.166)
          # 戦争終結までに空襲は中小都市を含む206都市に及び、94
           の都市が焼き払われた。終戦直後に内務省の発表した数字に
           よれば、全国で死者26万人、負傷者42万人、その大部分が非
           戦闘員であった。このようにおびただしい民間人の犠牲をだ
           したにもかかわらず、爆撃が軍事目標に向けられたことを強
           調する一方、無差別爆撃は意図していなかったとすることが、
           この戦争の最終段階におけるアメリカ軍の公式態度であり、
           この態度を固執することが非人道的な空爆にたいする道徳的
           批判を回避する常套手段となった。
             (荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店、pp.166-167)
          ※ 何と東京・日本大空襲の指揮官ルメイには、戦後自衛隊を
           作ったことで勲章までくれてやったという。ここまでくると
           アホらしくて唖然としてグーの音も出ませんなぁ。
                    -------------------
             「久美子、私はいつか、日本の都市焼きつくし、一方的
            殺戮、破壊の作戦を立案し、実行したカーティス・ルメイ
            が、戦後、自分たちの側が戦争に負けていれば、自分はま
            ちがいなく戦犯として法廷に引き出されていた、幸いにし
            て、自分たちの側は戦争に勝った、そう言ったと教えたこ
            とがあるだろう。『正義の戦争』が、勝利することによっ
            てのみ『正義の戦争』として成立する実例だが、その彼に、
            私たち『不正義の戦争』をした、そう『正義の戦争』をし
            た側によって断じられた側の最高の指導者だった、そのは
            ずだった天皇は、勲一等旭日大綬章という、日本の最高位
            に近い勲章を手ずから(カーティス・ルメイに(筆者注))
            授与することで、相手側の正義を追認した。それは、自分
            の側の戦争の不正義を、あらためて確認したことになる。
            相手側に正義があれば、一方的な殺戟であれ破壊であれ、
            何をされても仕方がないーーになるのかね。一方的な殺戮
             、破壊のなかで殺される人間は、どうなるのか。ただ見
            棄てられる存在でしかないのか」。(小田実氏著『終らな
            い旅』新潮社、p.265)
                    -------------------
       ・陸軍記念日(奉天勝利の日):アホクサ!!
            陸軍記念日にあたり陸軍将兵一般に告ぐるの辞
          曠古の戦局下、陸軍記念日を迎うるにあたり特に陸軍将兵
         一般に告ぐ。本日ここに第四十回陸軍記念日を迎う。往時を
         回想して感懐転た切なるものあり。惟うに戦局いよいよ重大
         にして早期終戦を焦慮する敵はいよいよ進攻の速度を急ぎか
         つその手段を選ばざるを想わしむ。あるいはさきに神域を冒
         しまた宮城を漬すの暴挙を敢てす。まことに恐懼憤激に堪え
         ず。あるいは我国体の変革を夢みて帝国の根本的崩壊を放言
         するが如きその不逞天人共に断じて許し難きところなり。
          最近の戦局推移を察するに敵が皇土侵寇を企図しあること
          火を睹るよりも明らかなり。軍は、大元帥陛下親率の下多
          年の伝統と精髄とを発揮して神州を護持し、国体を擁護す
          る秋正に到れりというべし。全陸軍将兵深く思いをここに
          致し外地に在りと皇土に在りとを問わず、随処に敵の野望
          を撃摧し、以て天壌無窮の皇運を扶翼し奉らざるべからず。
          およそ戦勝獲得の根基は至誠純忠烈々たる闘魂と必勝の戦
          意とに存す。全陸軍将兵宜しく挙げて特攻精神の権化とな
          り、衆心一致いよいよ軍人精神を昂揚し精魂を尽して敵を
          徹底的に撃滅せんことを期すべし。
         皇国は神霊の鎮まりたまうところ、皇土は父祖の眠るところ、
         天神地祇挙って皇軍の忠誠を照覧ししたもう 想え肇国三千
         年金甌無欠の皇国の真姿を、偲べ明治三十七、八年国難を累
         卵の危きに克服せる先人の偉績を。
          最後に皇土にある将兵に一言す。皇土における作戦は外征
          のそれと趣きを異にし、真に軍を中核とせる官民一億結集
          の戦なり。而して総力結集の道は軍鉄石の団結の下燃ゆる
          が如き必勝の確信を堅持し、能く武徳を発揚して軍官民同
          心一体必勝の一途に邁進するに在り。かくして身を挺して
          難に赴き父祖の伝統を如実に顕現せば、一億の忠誠凝って
          皇国磐石の安きに在らん。
           昭和二十年三月十日 陸軍大臣 杉山 元
             (清沢洌氏著『暗黒日記』岩波文庫、pp.286-287)
       ※ 日本が、どうぞして健全に進歩するように-ーそれが心から願
        望される。この国に生れ、この図に死に、子々孫々もまた同じ運
        命を辿るのだ。いままでのように、蛮力が国家を偉大にするとい
        うような考え方を捨て、明智のみがこの国を救うものであること
        をこの国民が覚るようにーー「仇討ち思想」が、国民の再起の動
        力になるようではこの国民に見込みはない。(清沢洌氏著『暗黒
        日記』岩波文庫、p.262)
       ※ 戦争を職業とするものが、人間の生命をどんなに軽く取り扱う
        かを、国民一般に知らせることは、結局日本のためになるかも知
        れぬ。ああ。・・・それにしても、日本人は、口を開けば対手軽
        く見ることばかりしており、また罵倒ーー極めて低級なーーばか
        りしているが、日本国民に、この辺の相違が分からぬのだろうか。
                 (清沢洌氏著『暗黒日記』岩波文庫、p.298)
       ・「軍事特別措置法」(S20.3.28)
          国民の一切の権利を制限し、私有財産にまで強権介入し、国民
         は本土決戦に備えて、いかなる抗弁、抵抗もできなくなった。
       ●米軍が沖縄本島に上陸(S20.4.1)
       ・戦艦「大和」の最後の出撃(特攻)と撃沈(S20.4.7/14:23)
          「大和」:46センチ砲9門、1億6000万円、1941年完成。
               全長263m、72808屯、27.46ノット、153553馬力。
               東シナ海の海底に眠る。
               乗員3332人中269人救助(生存者、昭和60年現在、
               140余名)。
          # 連合艦隊参謀長、草鹿龍之介(中将)曰く
              「いずれ一億総特攻ということになるのであるから、
             その模範となるよう立派に死んでもらいたい」(アホウ
             な屁理屈である)
          # 戦艦「大和」乗員の発言
              「連合艦隊の作戦というのなら、なぜ参謀長は日吉の
             防空壕におられるのか。防空壕を出て、自ら特攻の指揮
             をとる気はないのか」
          # 伊藤整一提督
              「まぁ、我々は死に場所を与えられたのだ」
               ------------------------
           「世界の三馬鹿、万里の長城、ピラミッド、大和」
           (淵田三津雄『真珠彎攻撃総隊長の回想』講談社、p.48)
           「少佐以上を銃殺せよ、海軍を救う道はこれしかない」
               ------------------------
          # 八杉康夫上等水兵(当時)が回想する戦争
            「戦争がどんなにすさまじいか、酷いかを私が見たのは、
           あの沈没した日だった。血みどろの甲板や、吹きちぎれ、だ
           れのものか形さえとどめない肉片、重油を死ぬかと思うほど
           飲んだ海の中での漂流、我れ勝ちに駆逐艦のロープを奪い合
           う人々、私は、醜いと思った。このとき、帝国海軍軍人を自
           覚していた人が果たしてどれだけいただろうか。死ぬとは思
           わなかった。殺されると思った。『雪風』に拾い上げられた
           のは私が最後だった。それも、私と同じ年齢ぐらいの上等水
           兵が偶然見つけて救助してくれた。生きるか死ぬかのほんの
           一分にも満たない境だった。重油の海には、まだたくさんの
           人が、助けてくれッ、と叫んでいた。
            いったい何のための戦いだったのか、どうして、あんな酷
           い目に遭わねばならなかったのか、戦後、私が最初に知りた
           いと思ったのはそれだった。私が戦後を生きるという原点は、
           あの四月七日にあったと思っている」と、語っている。
          (辺見じゅん氏著『男たちの大和<下>』ハルキ文庫、p.197)
                   --------------------------
             ※H18年現在、広島県福山市在住の八杉康夫氏(昭和2年
              生)は、H18.4.12日、筆者の住む岡山県井原市で講演
              された。
               ストーリーは映画『男たちの大和』(辺見じゅん原
              作、佐藤純彌監督、2005年)に準ずるものであったが、
              帝国海軍は陸軍よりもはるかに人命を大事にしたらし
              く、「上官から『死ね』とは一度も言われなかったし、
              船が沈没して海上に放り出された時の生きる方法も軍
              事教練のなかで教えられた」ということだった。
                   --------------------------
          # 「初霜」救助艇ニ拾ワレタル砲術士、洩ラシテ言ウ
            救助艇忽チニ漂流者ヲ満載、ナオモ追加スル一方ニテ、危
           険状態ニ陥ル 更ニ拾収セバ転覆避ケ難ク、全員空シク海ノ
           藻屑トナラン
           シカモ船べリニカカル手ハイヨイヨ多ク、ソノ力激シク、艇
           ノ傾斜、放置ヲ許サザル状況ニ至ル
           ココニ艇指揮オヨビ乗組下士官、用意ノ日本刀ノ鞘ヲ払イ、
           犇メク腕ヲ、手首ヨリバッサ、バッサト斬り捨テ、マタハ足
           蹴ニカケテ突キ落トス セメテ、スデニ救助艇ニアル者ヲ救
           ワントノ苦肉ノ策ナルモ、斬ラルルヤ敢エナクノケゾッテ堕
           チユク、ソノ顔、ソノ眼光、瞼ヨリ終生消エ難カラン
           剣ヲ揮ウ身モ、顔面蒼白、脂汗滴り、喘ギツツ船べリヲ走り
           廻ル 今生ノ地獄絵ナリ
           (吉田満氏著『戦艦大和ノ最期』講談社文芸文庫、p156)

          # 清水芳人少佐(当時)の戦闘詳報
             戦闘が終わると、どの艦でも戦闘詳報が書かれる。戦闘
            詳報 は、戦略・戦術を記載し、次の戦いへの教訓ともなる
            報告書で、連合艦隊司令部へ提出される。
             「戦況逼迫セル場合ニハ、兎角焦慮ノ感ニカラレ、計画
            準備二余裕ナキヲ常トスルモ、特攻兵器ハ別トシテ今後残
            存駆逐艦等ヲ以テ此ノ種ノ特攻作戦ニ成功ヲ期センガ為ニ
            ハ、慎重ニ計画ヲ進メ、事前ノ準備ヲ可及的綿密ニ行フノ
            要アリ。『思ヒ付キ』作戦ハ、精鋭部隊(艦船)ヲモ、ミ
            スミス徒死セシムルニ過ギズ」
             この「大和」戦闘詳報には、これまでの戦闘報告には類
            を見ない激烈な怒りがつらねられている。
             沖縄突入作戦が唐突に下令され、「大和」以下の出撃が、
            「思ヒ付キ」作戦であり「ミスミス徒死セシムル」ものだ
            ったという遺憾の思いで埋まっている。
           (辺見じゅん氏著『男たちの大和<下>』ハルキ文庫、p.202)

       ●沖縄戦と沖縄県民の悲劇(S20.3.26~6.23)
          昭和20年3月26日、硫黄島の戦いで栗林中将が戦死した、まさ
         にその早朝、硫黄島から西に1380km離れた沖縄・慶良間列島に
         米陸軍第77師団が奇襲上陸。これが沖縄戦の始まりとなった。
          昭和20年4月1日アメリカ軍18万3000が沖縄本島の中西部の嘉手
         納海岸に上陸。5月15日は那覇周辺で戦闘激化。この沖縄戦は本
         土決戦そのもので、時間稼ぎの意味をも持って、沖縄住民は「本
         土の盾」として犠牲になった。満17歳から45歳未満の男子はみな
         戦争参加を強要され、軍に召集された。戦場では子どもや老人や
         婦人や負傷者といった弱い者から順に犠牲になった。彼等は邪魔
         物扱いにされ、あるいは自決やおとりを強要された。また泣き声
         で陣地が暴露されるという理由で日本軍兵士に殺された。兵士た
         ちは、与えられた戦場で、やみくもに戦って死んで行くという役
         割だけを押しつけられていた。82日間にわたる死闘ののち守備軍
         約90000人が6月21日に玉砕。沖縄県民の死者は15万人とも20万人
         ともいわれる。実に県民の3人に1人が亡くなったのである。
          # 海軍根拠地隊司令官・大田実少将(6.13に豊見城村の司令
            部濠で自決)からの海軍次官あて電報(S20.6.6)                    

             「若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ケ 看護婦烹飯婦ハモト
            ヨリ 砲弾運ヒ 挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ 所詮 
            敵来タリナハ老人子供ハ殺サレルヘク 婦女子ハ後方ニ運
            ヒ去ラレテ 毒牙ニ供セラレヘシトテ 親子生別レ 娘ヲ
            軍衛門ニ捨ツル親アリ 看護婦ニ至リテハ 軍移動ニ際シ
            衛生兵既ニ出発シ身寄リ無キ重傷者ヲ助ケテ・・・
             沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜
            ランコトヲ・・・」(浅田次郎氏著『勇気凛凛ルリの色
            四十肩と恋愛』講談社文庫より引用、60ページ)

          # 「恐ろしきかな、あさましきかな、人類よ、猿の親類よ」
                   (長谷川信、『きけわだつみのこえ』より)

          # 「米軍は日本軍を評して兵は優秀、下級幹部は良好中級将
           校は凡庸、高級指揮官は愚劣といっているが、上は大本営よ
           り下は第一線軍の重要な地位を占める人々の多くが、用兵作
           戦の本質的知識と能力に欠けているのではないかと疑う。
            (理知的な作戦参謀八原博道の言葉、保阪正康氏著『昭和
             陸軍の研究<下>』より引用)

          # 沖縄戦の研究者である石原昌家沖縄国際大学教授は、
           『争点・沖縄戦の記憶』(社会評論社)の中で、沖縄戦の
           住民犠牲を、次の三つの類型に大別しています。1.米英両軍  
           の砲爆撃死、2.日本軍(皇軍)による犠牲、3.戦争に起因す
           る犠牲。
            石原氏はそれらをさらに細かく分けていますが、ここでは
           簡略化してまとめておきます。
            1. は米英軍の空襲や艦鞄射撃、地上戦での砲・銃撃、洞窟
           や壊への攻撃、虐殺、強姦による死などです。
            2. は日本軍(皇軍)による住民の死で、スパイの疑いをか
           けたり、食料や濠の提供を渋ったなど非協力的であったこと
           を理由とした殺害。濠の中で泣く乳幼児の殺害や軍による濠
           追い出しによって砲撃にさらされたり、強制退去でマラリア
           や栄養失調に追いやられたことによる死、日本軍の指示、強
           制による「集団死」などです。
            3. は非戦闘地域での衰弱死、病死、ソテツなどを食べた中
           毒死、収容所内での衰弱死、住民同士のスパイ視殺害、食料
           強奪死、米潜水艦による疎開船、引き揚げ船などの撃沈死な
           どです。
            注意しなければいけないのは、牛島満司令官らが自決して
           日本軍が壊滅し、組織的戦闘が終わったとされる6月22日や、
           日本が無条件降伏した8月15日以降も、これらの類型の中の
           いくつかの死は続いていたということです。久米島での日本
           軍守備隊による仲村渠明勇さん一家の虐殺が起こつたのは8月
           13日だし、谷川昇さん一家が虐殺されたのは8月20日です。
           マラリアなどの病死、衰弱死は二、三年経っても続いていま
           した。
           (目取真俊氏著『沖縄「戦後」ゼロ年』NHK出版、pp.60-61)

          # 学校で教え込まれていたことと、天と地ほども隔たった日
           本軍の実態をまざまざと見せつけられ、あまりの衝撃に言葉
           を失った。(大田昌秀氏著『沖縄の決断』朝日新聞社)
                  --------------------------
             戦場での体験は、わが目を疑うほど信じられないことば
            かりだった。
             守備軍将兵は戦前から、県民の生命を守るために来た、
            と絶えず公言していた。しかるに、私たちが毎日のように
            目撃したのは、それとは逆の光景だったのだ。最も頼りに
            していた守備軍将兵が行き場もない老弱者や子供たちを壕
            から追い出しただけでなく、大事に蓄えていた食糧までも
            奪い取ってしまう。そのうえ、私たちの目の前で、兵士た
            ちは泣きすがる住民に向かって「お前たちを守るために沖
            縄くんだりまで来ているのだから、お前たちはここを出て
            行け」と冷酷に言い放ったものだ。しかも、赤ん坊を抱き
            かかえた母親が「お願いです。どうか壕に置いてやって下
            さい」と泣きすがっても、銃を突き付け容赦なく追い出す
            ことさえあった。
             この戦争は「聖戦」と称されていたにもかかわらず、ど
            うしてこのような事態になったのか。私たちには理解の仕
            様もなく、ただ愕然と見守るしかなかった。

            大田は同じ本のなかで、生き延びるためにわずかな食糧を
           めぐって味方の兵隊同士が、手榴弾で殺しあう場面を毎日の
           ように見せつけられたとも述べている。
            「日本軍に対する不信感といちう以上に、もう人間そのも
           のへの信頼を失っていたんです。それとは反対に、戦場では
           日本人が見殺しにした沖縄の住民を助けているアメリカ兵を
           随見ました。それで鬼畜米英というのは違うなと思い始めて
           いたんです」(佐野眞一氏著『沖縄 誰にも書かれたくなか
           った戦後史』集英社インターナショナル、pp.402-403)
                  --------------------------
        ・アメリカ、F. ルーズベルト大統領急死(1945.4.17)
          脳出血といわれているが、あるいは自殺かもしれないし殺され
         たのかもしれない。とにかく「私は大統領を辞めたい」と愛人に
         告げて死んだ。(そして広島への原爆投下は陸軍長官ヘンリー・
         ルイス・スティムソンとその操り人形たるトルーマンに委ねられ
         た)(鬼塚英昭氏著『原爆の秘密』成甲書房、pp.175-208)
       ・ドイツ軍無条件降伏(S20.5.7)<---ヒトラー自殺(1945.4.30)
       ●日本本土無差別爆撃(最高指揮官カーティス・ルメイ)
          # 横浜大通り公園「平和祈念碑由来之記」より
             「一九四一年十二月八日、日本軍の米国真珠湾軍港に対
            する奇襲攻撃により、大日本帝国は連合国軍との間に戦端
            を開くに至った。その後一九四五年八月十五日に至り、わ
            が民族の滅亡を憂うご聖断により漸く敗戦の日を迎えた。
            その間、三年九ケ月余。政・軍・官の情報統制の下、一般
            庶民は戦争の実相を知らされることなく、ひたすら盲従を
            強いられた日々であった。戦線が次第に日本本土に近づく
            につれ、米軍機による空爆は職烈を極め、国内百数十の都
            市が軍事施設・民間施設の別なく攻撃を受け、非武装の一
            般民衆が多数犠牲となった。(後略)」
               (近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.49)
          # 「宇都宮平和記念館建設準備会」藤田勝春氏のノートより
              「非戦闘員と、その住まいに容しゃなく襲いかかった、
             この無差別爆撃は、”みな殺し”空襲であった。軍都の
             名にふさわしく、宇都宮には数多くの軍事施設があった。
             が、なぜか、その施設は何ら爆撃されていないのである。
             明らかに、米軍の目的は、一般市民を焼き殺す、いわば
             ”無差別絨椴爆撃”によるみな殺しにあったことは、こ
             れで理解されるところである。
              ところでどういうわけか宇都宮の歴史の中で最も大き
             な火災ともいうべきこの空襲の実態が市民に明かされて
             いなかった。あっても、それはほんの数字的なものばか
             りで味もそっ気もなかった。つまり市民の眼で、市民の
             心で編まれた総合的な記録というものがなかったのであ
             る。そして戦後三十年を迎える今危うく歴史のそとへ押
             し出され、忘却の彼方へ押しやられようとしていたこの
             空襲の”真実の糸”が、市民の手によって編まれるよう
             になった。痛々しい戦災の傷痕は、長い歳月の風化に耐
             え、やはり市民の心に静かに、しかも深く息づいていた
             のであった」
               (近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.63)
          # 戦時下の国民にとって、米国の撒いた”伝単(避難を促す
           警告ビラ)”は見てはならぬものだった。

             「あなたは自分や親兄弟友達の命を助けようとは思ひ
            ませんか 助けたければこのビラをよく読んで下さい
             数日の内に裏面の都市の内四つか五つの都市にある軍
            事施設を米空軍は爆撃します
            この都市には軍事施設や軍需品を製造する工場がありま
            す 軍部がこの勝目のない戦争を長引かせる為に使ふ兵
            器を米空軍は全部破壊します けれども爆弾には眼があ
            りませんからどこに落ちるか分りません 御承知の様に
            人道主義のアメリカは罪のない人達を傷つけたくはあり
            ません ですから真に書いてある都市から避難して下さ
            い アメリカの敵はあなた方ではありません あなた方
            を戦争に引っ張り込んでゐる軍部こそ敵です アメリカ
            の考へてゐる平和といふのはたゞ軍部の庄迫からあなた
            方を解放する事です さうすればもっとよい新日本が出
            来上るんです(中略)
             この裏に書いてある都市でなくても爆撃されるかも知
            れませんが少くともこの裏に書いてある都市の内必ず四
            つは爆撃します
             予め注意しておきますから裏に書いてある都市から避
            難して下さい」

            裏には爆撃中のB29の写真に、攻撃目標の11都市が、日本の
           丸い印鑑のようなかたちで刷りこまれている。青森、西宮、
           大垣、一ノ宮、久留米、宇和島、長岡、函館、郡山、津、宇
           治山田だった。アメリカ軍資料によると、長岡には7月31日
           午後9時39分、8月1日午後9時27分の2回にわたってまかれてい
           る。(近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.75)
          # 長岡空襲で孤児になった原田新司氏の記憶
             「どこかへ避難しているとおもっていたんですね。しか
            し、知人に会って尋ねてみると、原田屋さん、見かけなか
            ったなあという返事がかえってきました。平潟神社にいく
            と、死体が山のようになっている。信濃川の土堤を探して
            もみあたりません。一日中探しまわって、疲れはてて、夕
            方、焼跡にかえると、火はどうにかおさまっていて、中に
            入ることができました。すると、瓦礫のなかから祖母や両
            親の持物が出てきました。箪笥の鍵、水晶の印鑑。両親の
            死はその持物でわかりました。遺体は焼けただれて俯せに
            なっていました。庭の奥のほうに井戸があったんですが、
            その近くから女学生のバックルが出てきた。しかし妹たち
            の姿はみあたりません。遺骨だけがありました……。祖母
            57歳、父37歳、母は38歳でした。上の妹は女学校1年生、
            12歳でした。そして9歳、6歳、3歳の妹たち……。みんな
            いっペんに死んでしまったんです。いまでも街で女の子の
            うしろ姿をみると、妹たちのことを想い出します。焼け死
            んだ妹たちのことが忘れられませんね」
               (近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、pp.89-90)
          # 富山は人口10万人、空襲の死者は2275人。大被害だった。
             神通川の河原では、多くの人が死んだ。その堤防と並行
            するように松川の流れている個所があるが、そこでも死屍
            累々だった。東のいたち川でもおなじだった。母と妹を失
            った政二俊子さん(三上在住)は、神通川手前の護国神社
            にはいったとたんに「ブスブスブスと土煙をあげる機銃掃
            射を浴びた」といい、「ふと土手に目をやると、黄燐焼夷
            弾や油脂焼夷弾が真っ赤な光の噴水を上げるように火花を
            ひろげ、その中を黒い影がうごめいているのがうつる。
              ……火炎に映えた真っ赤な敵機は、無防備の都市を悠々
            と飛翔し、物量に物を言わせて投下を続ける。こんな火の
            中では、猫の子一匹助かりっこないと思われた」と書いて
            いる。(近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.102)
          # 熊谷空襲、長島二三子氏の詩
              死者たちよ 戦争で死んだものたちよ
              赤児も 大人も 年寄りも
              黄色も 黒も 白瞥
              轟然と声をはなって泣け
              生きている者たちに その声を忘れさせるな
               (近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.183)
          # アメリカの詩人ジョン・チアルディ(日本爆撃に参加)
             「カーティス・ルメイがきて、作戦は全面的に変更され
            た。ルメイは第八空軍の司令官だったが、第20空軍を引き
            つげというわけで、ここへきたんだった。その第20空軍に
            私はいた。まず戦術に変更があった。ルメイは、夜間空襲
            せよ。5000フィートでやれ、銃撃なし、後部にふたりの
            チェックマンを配置せよ、といった。これで回転銃座と弾
            薬の重量が変わる。日本軍は戦闘機で夜間戦うことはしな
            い。レーダーもない。焼夷弾をおとせばいい、っていった
            んだ。家にすごい写真をもってるんだ。トーキョーが平坦
            な灰の面になつている。ところどころに立っているのは石
            造りのビルだけだ。注意深くその写真をみると、そのビル
            も内部は破壊されてる。この火炎をのがれようと川にとび
            こんだものもいたんだ。その数も多く、火にまかれて、み
            んな窒息してしまった。……
             私としては優秀戦士になろうなんて野心はなかった。私
            は自分に暗示をかけた。死んでもやむをえないんだってね。
            それには憎しみが必要だから、日本人ならだれもが死ねば
            いいとおもった。
             たしかにプロパガンダの影響もあったが、同時に、実際
            自分たちが耳にしたことも作用していた。なにしろ敵なん
            だ。その敵を潰滅させるためにここへきてるんだ。そんな
            兵隊特有の近視眼的発想があった」。
               (近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.201)
          # 帰り掛けの駄賃:日本最後の空爆、小田原空爆
               (近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.202-)
          # 島田豊治氏体験記(『東京被爆記』より)
             「ひとかたまりにうずくまり、降り注ぐ火の粉と飛んで
            来る物から身を守るため、トタン板をかぶっていた。弟の
            防空ずきんに火がついて燃え上がった。父が素手でもみ消
            していた。その間に母が見えなくなっているのに気がつか
            なかった。母を捜しに川岸近くまでにじりよってみたが、
            そこは魔のふちであった。男も女も、年寄りも子どもも、
            折重なって川に落ちころげていた。こうして、母を捜すこ
            ともできずに、長い悪夢の夜を過ごしたのだった。
             朝になり、恐ろしい光景があちこちにあった。地上の物
            はすべて燃え尽され、異様な臭気がただよっていた。それ
            からの毎日は、生死不明の母を捜すことに明け暮れた。焼
            けこげた死体のまわりに品物を求め、水死体を引寄せては
            顔をあらためて見たりした。あちこちにバラックが立つよ
            うになってからも、病院から病院へと足を棒にして歩き続
            けた。どんな姿になっていてでも生きてさえいたらそれだ
            けを祈って捜しまわったが、姿はもとより消息すらわから
            なかった」(近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.224)
       ・ロンドン会議(1945.6~)
         戦争犯罪人を裁く国際裁判方式の法的根拠について米英仏ソは鋭
        く対立。「通例の戦争犯罪」に加えて「平和に対する罪」「人道に
        対する罪」が採択される事になった。(粟屋憲太郎氏著『東京裁判   
        への道<上>』講談社、pp.19-20)
       ●第87臨時議会開院式(戦前最後の議会、S20.6.9)での天皇発言
         「世界の大局急変し敵の浸冦亦倍々猖獗を極む正に敵国の非望を
         粉砕して征戦の目的を達成し以て国体の精華を発揮すべき秋なり」
         という勅語を発している。(もう完全にアホです)
          (纐纈厚氏著『日本降伏』日本評論社、p.209)
       ・天皇がやっと戦争終結を方針を表明した。(S20.6.22)
          (纐纈厚氏著『日本降伏』日本評論社、p.213)
       ●沖縄守備軍全滅(S20.6.23)
          "鉄の暴風"(砲撃)。戦死9万人、一般市民の死者10万人。
       ●国民義勇隊結成のすすめと法的枠付け(義勇兵役法公布、S20.6)
          15歳以上60歳までの男子と17歳以上40歳までの女子に義勇兵役
         を課す。これが国家総力戦構想のなれの果ての姿だった(国民総
         員特攻化)。
          日本陸軍は人間特攻として戦車やアメリカ軍に突入する玉砕要
          員が欲しかっただけのことである。
       ・国民義勇隊の兵器展示(S20.7)
          手りゅう弾、単発銃(元亀天正の銃)、竹ヤリ、弓、さす叉、
         鎌、鉈、玄翁、出刃包丁、とび口など。
          (こういう発想を平気で行う軍人は狂人という他なく、呆れ果て
           るばかりである)
          結局、昭和陸軍は、あらゆる戦力が尽きつつあったときに、本
         土決戦という名の玉砕を目指していたのだ。
               ---------------------------------
          大本営から来たという中佐は岩松(筆者注:岩松三郎、当時東
         京民事地方裁判所所長・戦後最高裁判事)にこう説明した。
           「諸君は義勇軍を組織して帝都を守るんだ。各省庁ごとの
           連絡は隊長がやりなさい。我々の方からも命令を出す。し
           っかりやるように」
          しっかりやれと言われたところで、裁判官たちに戦う能力が
         あるとは思えない。岩松はおそるおそる訊いている。
           「それじゃ、武器はどうなるのですか。どういう武器をい
           ただけるのですか」
           「所在の武器をとってやれ」
           「所在の武器とはどこに」
           「棒でも石ころでもあるだろう」
          そう言い放つ中佐に、岩松はたまらず訊き返した。
           「それで上陸してくる米軍と戦えというのですか。軍人は
           帝都を守ってくださらないんですか」
           「軍人は陛下をいただいて長野に引っ込んで国を守るんだ」
          もはや呆然とするしかなかった。中佐が出ていってから、立
         ちつくす所長の元に部下の裁判官たちが集まってきた。
          岩松は首を振って彼らに諭した。
           「もう、こんなところにいてはいけない。私は大隊長とし
           て敵のタンクに向かって突進します。みんなは疎開しなさ
           い。妻子をこんなところに置いてはいけない」
          所長の言葉に、部下の一人は家から持ってきたという日本刀
         を見せた。
           「所長だけを死なせるわけにいきません。私もこの日本刀
           を振りかざして、タンクに向かいます。私も一緒に死にま
           す」
          岩松の目から涙がこぼれた。そんなことをしたって無駄だよ、
         無駄に死ぬよりも、生き延びろ。記録さえ残しておけば、また
         いつか裁判を続けることができる。
          所長の言葉を聞きながら、集まった裁判官たちも、泣いてい
         たという。(清永聡氏著『気骨の判決』新潮新書、pp.145-147)
               ---------------------------------
       ・満州への定住者約130万人
       ・敗戦時の海外の日本人
          軍人・軍属:約353万人、民間人:約306万人
               (昭和20年、『昭和 二万日の全記録』講談社)
       ●プルトニウムを用いた人類最初の原爆実験成功(1945.7.16)
         コード・ネーム”トリニティ(三位一体)”(オッペンハイマ
        ーが命名)
       ●原爆投下:広島(S20.8.6 08:15:45=ウラン)
         ※ソ連の極東戦争への介入を妨害、対日戦勝利のへの寄与をでき
          るだけ最小限に食い止める。
                **************    **************
          トルーマンにとって必要だったのは、ソビエトを怯えさせるこ
         と、アメリカの優位をスターリンに認めさせ野放図な振る舞いを
         慎ませることだった。そのために「世界中を焼き尽くす業火」を、
         降伏する前の日本に対して、使用しなければならない。7月26日
         に発表された「ポツダム宣言」にたいして、アメリカはソビエト
         の署名を求めなかった。その炎が燃えさかった時、スターリンは
         新大統領(トルーマン)がなぜかくも強硬だったかを知るだろう。
                  (福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)
              -----------------------------------
           「そりゃもう目もあてられん状態じゃけェ、あっちにも
          こっちにも黒焦げになった人が転がっとるんよ。だれがだ
          れやら見分けがつかんのじゃ、むごいことじゃ。あっちこ
          っちで焼いとるんじゃけェ、たまらんのよその匂いがのう、
          赤ん坊を抱いたまま死んどってんよ、電車でも焼け死んど
          りんさる。腐って蛆がわいとりんさる。薬がないんよ、ヨ
          ードチンキを塗るぐらいじゃのう、死に水をとったげるた
          めにきたようなもんじゃよ」(新藤兼人氏の姉の話)
          (新藤兼人氏著『新藤兼人・原爆を撮る』新日本出版社、p.10)
              -----------------------------------
           6月6日にスチムソンは、5月31日の暫定委員会の決定を大統領
         に報告した。その時には、「大量の労働者を使用し、労働者住宅
         群にびっしり取り囲まれている重要な軍需工場」という投下目標
         が実際には住民の大量殺教を意味することは知っていたのである。
         したがって、トルーマンが日記に書いている女、子供を投下目標
         にしないというスチムソンとの合意を額面通りに受け取ることは
         到底できない。
          実際にも原爆による直接の被害を受けたのは、軍人よりも圧倒
         的に多数の民間人であった。広島の場合でいえば、軍人の被爆者
         は4万人以上、軍人以外の直接被爆者の数は31万から32万人であっ
         たと考えられている。
          また被爆者の意識には、「原爆によってもたらされたのは、一
         瞬にして人間や人間の生の条件そのものを壊滅させ炎上させる非
         人間的な世界、ホロコーストの世界にも匹敵できる地獄」として
         とらえられている。
          そのような被爆のイメージをあらわしたものに深水経孝の絵物
         語『崎陽のあらし』がある。被爆した後中学教師となった深水は、
         被爆体験を記録として後世に残すため、まだ惨劇の記憶の生々し
         い1946年夏にこの絵物語を描いた。
          そこには天を仰いで路上に倒れる女、子供、母子、両眼を失い
         天に祈る乙女、火焔をあげるバスの中で倒れ這いだそうとして力
         尽き焼け焦げる人、火中に退路を絶たれ防火用水に飛び込み悶絶
         する人々などが燃えさかる市街を背景に描かれ、心にやきついた
         被爆の原風景が如実に再現されている。
          深水は絵に添えた文章のなかで、この原風景を「古の修羅もか
         くて」とか、「いずれも悲しきことながら、之の世の事とも思わ
         れず」、あるいは「されどこれ、地獄というも愚かなり。想え、
         外道、天日の晦きを」などと形容している。被爆直後の心象とし
         て刻まれた世界は「この世の外」、「地獄」、「外道」 の世界、
         まさに人間が非人間化されるこの世の終末、すなわちホロコース
         トの世界であった。 (荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店、
         pp.174-175)

       ●ソビエト軍の満州進攻(対日宣戦布告、S20.8.8)
         モロトフ外相:「・・・日本はポツダム宣言の受諾を拒否した
           ので、ソ連に対する日本の和平調停の提案は、まったくそ
           の基礎を失った。日本の降伏拒否にかんがみ、連合国はソ
           連の対日参戦を提議した。ソ連はポツダム宣言に参加し、
           明日、すなわち8月9日寄り、日本と戦争状態にあるべきこ
           とを宣告する」
               ***************    ***************
          ソビエト軍は将兵160万人、戦車等5000台余り、航空機4000機
         以上という圧倒的兵力で満州になだれ込んだ。ソビエト軍は、南
         へと逃れる開拓団の老若男女を殺戮し、ハルビンで、新京で、奉
         天で、破壊と略奪の限りを尽くした。満州国の充実した重工業の
         設備を肇、主要な機械や財貨などすべてがソビエトに持ち去られ
         た。そのなかには、何ら国際法上正当性にない仕方で連れ去られ
          、抑留された60万人の将兵や官吏らもいた。
              <日本人難民、棄民、捨駒以下、中学生の囮兵>
            軍および政府関係の日本人家族だけが、なぜ特別編成の列
           車で新京を離れられたのか。この年の秋までに日本へ帰りつ
           いた人びともある。生きのこったことを責めようとは思わな
           い。しかし、決定権をもち、いち早く情報をとらえ得た人た
           ち、その家族の敗戦は、一般の在満居留民とは異なった。身
           勝手な軍人たちの判断の詳細とその責任は、現在に至るまで
           あきらかにされていない。軍人たちにより、明白な「棄民」
           がおこなわれた。軍中央も政府も、承知していたはずである。
            切り棄てることがきまった土地へ、女学校と中学校の三年
           生が動員されている。たまたまわたしは、その動員学徒の一
           人として開拓団生活を体験している。それを小さな文章に書
           いた縁で、新京第一中学校三年生の「運命」を知った(英文
           学者の小田島雄志氏の同級生たち。小田島さんとわたしには、
           新京室町小学校の一年一学期、同級だった縁がある。知った
           のは何十年ものちのこと)。
            新京一中の三年生は三つのグループにわけられ、そのうち
           の126名が5月28日、「東寧隊」として東満国境近くの東寧報
           国農場に動員された。
            この日付は、大本営が「朝鮮方面対ソ作戦計画要領」を関
           東軍に示達する2日前。同要領によって、京図線の南・連京線
           の東という三角地帯が定まったのだが、南満と北朝鮮へ重点
           変更の作戦計画は、20年1月上旬にはじまっていた。さらに
           新京一中生の動員は、予定よりも1か月間延長になっている。
            8月9日未明、ソ連参戦。東寧は穆稜(ムリン)などと同様、
           国境にいた関東軍がほとんど全滅した一帯である。関東軍に
           あって、国境部隊は時間かせぎの捨駒以下だった。『人間の
           条件』の主人公は、穆稜の戦闘で奇蹟的に生きのこる。作者
           自身の体験が裏付けにある。東寧の陣地には、彫刻家の佐藤
           忠良氏もいて、「地獄」を体験、ソ連軍の捕虜となり、シベ
           リア送りとなった。
            現役部隊がほぼ全滅し、生きのこる成算のほとんどなくな
           る国境地帯へ、なぜ14か15の中学生を動員したのか。しかも、
           ソ連参戦まで動員は継続された。列車は不通となり、国境線
           の戦闘が終ったあと、中学生たちは歩いて新京の親もとまで
           帰る。大陸の広大さ、伝染病と餓え、北満のきびしい寒気、
           そしてソ連軍の銃火と中国人の憎悪。中学生たちは70余日の
           避難行をし、乞食姿の幽鬼のようになって新京へたどりつく
           が、四人が途中で亡くなった。
             体験者の一人谷口倍氏が『仔羊たちの戦場-ボクたち中
           学生は関東軍の囮兵だった』を出版するのは1988年。体験か
           ら40年以上経ってである。
           (澤地久枝氏著『わたしが生きた「昭和」』
                          岩波現代文庫. p210-213)
       ●ふたたび原爆投下:長崎(S20.8.9=プルトニウム)
         ※ソ連の対日参戦の影響を力をできるだけ少なくせねばならぬ。
              <祈りの長崎>(永井隆の弔辞)
          「原子爆弾がわが浦上で爆発し、カトリック教徒8000人の
         霊魂は一瞬にして天主のみ御手に召され、猛火は数時間にし
         て東洋の聖地を廃墟とした。しかし原爆は決して天罰ではあ
         りません。神の摂理によってこの浦上にもたらされたもので
         す。これまで空襲によって壊滅された都市が多くありました
         が、日本は戦争を止めませんでした。それは犠牲としてふさ
         わしくなかったからです。神は戦争を終結させるために、私
         たちに原爆という犠牲を要求したのです。戦争という人類の
         大きい罪の償いとして、日本唯一の聖地である浦上に貴い犠
         牲の祭壇を設け、燃やされる子羊として私たちを選ばれたの
         です。そして浦上の祭壇に献げられた清き子羊によって、犠
         牲になるはずだった幾千万の人々が救われたのです。子羊と
         して神の手に抱かれた信者こそ幸福です。あの日、私たちは
         なぜ一緒に死ねなかったのでしょう。なぜ私たちだけが、こ
         のような悲惨な生活を強いられるのでしょうか。生き残った
         者の惨めさ、それは私たちが罪人だったからです。罪多きも
         のが、償いを果たしていなかったから残されたのです。日本
         人がこれから歩まなければいけない敗戦の道は苦難と悲惨に
         満ちています。この重荷を背負い苦難の道をゆくことこそ、
         われわれ残された罪人が償いを果たしえる希望なのではない
         でしょうか。カルワリオの丘に十字架を担ぎ、登り給いしキ
         リストは私たちに勇気を与えてくれるでしょう。神が浦上を
         選ばれ燔祭に供えられたことを感謝いたします。そして貴い
         犠牲者によって世界に平和が再来したことを感謝します。願
         わくば死せる人々の霊魂、天主の御哀れみによって安らかに
         憩わんことを、アーメン」(鈴木厚氏著『世界を感動させた
         日本の医師』時空出版、pp.28-29)
       ●昭和20年8月9日御前会議、天皇の発言
         「開戦以来、陸海軍のしてきたところをみると、どうも、計画
        と実際が違う場合が多かった。いま陸海軍では、先程、大臣と総
        長が申したように、本土決戦の準備をしており、勝つ自信がある
        といったが、自分はその点について心配している。先日、参謀総
        長の話では、九十九里浜の防備は八月中旬に完成するということ
        であったが、侍従武官が現地を見てきたところでは、八月末にな
        らなければできないという。また新設師団ができても、これに供
        給する兵器は準備されていないという。これでは、あの機械力を
        ほこる米英軍に対して、勝算の見込みがない。こうした状況で本
        土決戦に突入したらどうなるか、自分は非常に心配である。空襲
        は激化しており、これ以上、国民を塗炭の苦しみにおちいれ、文
        化を破壊し、世界人類の不幸を招くのは、自分の欲しないところ
        である。忠勇な軍人より武器を取り上げ、忠勤をはげんだ者を戦
        争犯罪人とすることは情において忍び得ないが、国家のためには
        やむをえない。明治天皇の三国干渉の際の決断にならい忍び難き
        を忍び、国民を破局から救い、世界人類の幸福のために、このよ
        うに(筆者注:ポツダム宣言受諾)決心した」(実松譲著『米内
        光政正伝』光人社、p.335)
             ----------------------------------------
       ・陸相の布告(アホ丸出し、S20.8.11読売新聞より)
          全軍将兵に告ぐ
          ソ聯遂に鋒を執つて皇国に寇す
          名分如何に粉飾すと錐も大東亜を侵略制覇せんとする野望
           歴然たり
          事ここに至る又何をか言はん、断乎神洲護持の聖戦を戦ひ
           抜かんのみ
          仮令(たとへ)草を喰み土を噛り野に伏するとも断じて戦
           ふところ死中自ら活あるを信ず
          是即ち七生報国、「我れ一人生きてありせば」てふ楠公救
           国の精神なると共に時宗の「莫煩悩」「驀直進前」以て
           醜敵を撃滅せる闘魂なり
          全軍将兵宜しく一人も余さず楠公精神を具現すべし、而し
           て又時宗の闘魂を再現して驕敵撃滅に驀直進前すべし
                昭和二十年八月十日      陸軍大臣
         「何をか言はん」とは、全く何をか言わんやだ。国民の方で
        指導側に言いたい言葉であって、指導側でいうべき言葉ではな
        いだろう。かかる状態に至ったのは、何も敵のせいのみではな
        い。指導側の無策無能からもきているのだ。しかるにその自ら
        の無策無能を棚に挙げて「何をか言はん」とは。鳴呼かかる軍
        部が国をこの破滅に陥れたのである。
             (高見順氏著『敗戦日記』中公文庫、pp.294-295)
             ----------------------------------------

       ●「降伏文書」調印式(S20.9.2)
       ●スターリンの対日勝利宣言(S20.9.2)
          敗戦当時まだ有効であった日ソ中立条約を無視して参戦し、
         国後島を占拠したスターリンは対日勝利宣言を行った。
           「日本の侵略行為は、1904年の日露戦争から始まってい
          る。1904年の日露戦争の敗北は国民意識の中で悲痛な記録
          を残した。その敗北は、わが国に汚点を留めた。わが国民
          は日本が撃破され、汚点が払われる日の到来を信じて待っ
          ていた。40年間、われわれの古い世代の人々はその日を待
          った。遂にその日が到来した」。(山室信一氏著『日露戦
          争の世紀』岩波新書、pp.ii~iii)
       ●731石井細菌部隊(と栄1644部隊(通称「多摩部隊」))の残虐
        性、神風特攻隊、人間魚雷、竹槍訓練・・・等々。
       ●敗戦後の特務団の山西省残留
          9月9日、南京で中国における降伏調印式があった。しかし
        蒋介石率いる国民党の司令長官閻錫山と北支派遣軍司令官澄田懶
        四郎が密約をして当時の残留兵59000人を国民党に協力させ八路軍
        (中国共産党)と戦わせようと図った。
         結果的には約2600人が山西省に残留し、敗戦後なお4年間共産軍
        (毛沢東)と戦った。(奥村和一・酒井誠氏著『私は「蟻の兵隊」
        だった』岩波ジュニア新書、pp.35-42)
       ●シベリア抑留:約57万5000人中約6万人が死亡。
          スターリンは北海道占領をあきらめる代わりに、北方四島と日
         本人捕虜を戦利品として獲得した。シベリア抑留の真相は敗戦処
         理とその後の東西冷戦という政治的駆け引きのなかでスターリン
         の思いつきから生まれた公算が大きい。
            (保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より)

    ★敗戦時、日本国籍の者は外地に629万702人いた。
       旧満州国からの引き揚げにあたっては、関東軍将校が自らの家族を
      優先させて帰国させてしまい、民間人を見捨てたという状態になった。
      中国残留孤児問題はその結末の一つである。
         -------------   -------------   -------------
      <森正蔵『あるジャーナリストの敗戦日記』(ゆまに書房)p.37より>
        満州の事情は大ぶんひどいらしい。樺太でも左様であるが、ソ聯兵
       の暴行が頻々として伝はれてゐるほかに、満軍の反乱が相次いで起り、
       満人や鮮人の暴徒が邦人を襲つたりしてゐる。関東軍は武装解除をし
       たのだから、もう何の力もないわけである。そして醜態を現はしてゐ
       るのは、関東軍の将校たちで、いち早く三個列車を仕立てゝ自分たち
       の家族をまづ避難さした。満鉄社員、満州国の日系官吏がそれに続い
       て家族を避難させ、取残された一般邦人がひとりさんざんな目に遭つ
       てゐる。戦争情態に入つた新京では親衛隊が離反して皇帝の身辺が危
       くなつた。そこで通化にお遷ししたのだが、通化からさらに日本にお
       遷しするために、奉天の飛行場までお連れして来たところを、降下し
       たソ聯の空挺隊のために抑へられてしまつた。それは十九日のことで
       あるが、それ以後今日まで、皇帝の御身体は赤軍の手中にあるのであ
       る。

    *********** 【以下、順不同に悪魔の所業を書き出しておく】 ************

       # 昭和15年頃、第一線部隊の師団長、旅団長、野戦病院長までもが女
        と暮らしていたのには驚いた・・・。日米開戦当時陸軍でも、海軍で
        も一部の幹部は陣中で兵の苦労をよそに着物姿だった。
        (当時日本の軍事関係費は総予算の40%で、その60%が陸軍にまわさ
         れていた)

       # 激変する雨と川の関係は、さまざまな配慮を人間に要求する。サバ
        のラナウーサンダカンの道路は、ボルネオを横断する唯一の道だが、
        それは川から遠く離れた高い固い地面を選び選び走っている。バス旅
        行に慣れた今日の人間は、自然の厳しさを忘れるようになっていく。
        実際この知識と配慮がなかったために、ここを強行軍させられた日本
        軍兵士は、山中で無残に溺死した。水が引くとかれらの死体は樹々の
        高みにひっかかっていた。(鶴見良行氏著『マングローブの沼地で』
        朝日選書;1994:293)

       # サイパンの戦い(田中徳治氏『我ら降伏せず』(サイパン玉砕戦の
        狂喜と現実)などより)
          ・・酒だ。ムラムラッと怒りがこみあげてきた。こんな安全な
         洞窟の中で、酒を飲みながら、作戦指揮とは・・・。この連中は
         一体全体、昨日の無謀な戦闘を知っているのだろうか。よくも酒
         など飲んでいられるものだ。我々は部下も戦友も次々失い、空腹
         も忘れ、無我夢中で戦っている。それにくらべ・・・と思うと、
         怒りと同時に全身から力がガックリと抜けてしまった。我々を指
         揮する最高司令官がこれでは、と思うと情けなくなった、不動の
         姿勢が保てなかった。気力をふりしぼってやっと報告に立った。

         田中:「以後、的確なる命令と、各部隊の密接なる戦闘計画なく
             ば敗戦の連続です」
         斎藤:「バカ! 的確な命令とは何事だ。命令を何と心得とるか。
             大元帥陛下の命令なるぞ。軍人は死するは本望だ。兵士
             は師団長の命令通り動き、死せばよいのだ」
         田中:「閣下、我々軍人は命令に従って死せば戦闘に勝てるので
             すか。尊い生命を惜し気もなく、一片の木の葉か、一塊
             の石の如く捨てれば勝てるのですか」

         (斎藤はこの後田中徳治氏に「無礼者」といい、軍扇で頭を殴り、
          田中氏を狂人呼ばわりして司令部を追い出した)

         田中徳治氏の書にある兵士は、故郷を思い、父母の名を叫び、そし
        て絶望的な気持ちで死んでいっている。彼らは司令官を、そして大本
        営作戦参謀を呪い、恨み、そして死んでいったことだけはまちがいあ
        るまい。(以上、保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より引用)

       # いくら督促されても、「できないことは、できない」こと。「だか
        ら、何とかしてくれ」と頼みに行ったわけである。ところがその返事
        たるや「ナンだと。機材がないからどうもならんと、砲弾が輸送でき
        んからどうもならんダと。どうにもならんですむか! キサマそれで
        も将校か。ここをどこだと心得トル。ここは戦場じゃぞ。これがない
        から出来ません、あれがないから出来ませんでは戦さはできんのだ。
        将校たるものがそんな気魄のないことでどうなる。砲弾は人力で運べ。
        住民がいるじゃろう。それを組織化して戦力に役立たせるのがキサマ
        の任務じゃろう。任務を完遂せんで何やかやと司令部に言って来オル。
        このバカモンが! 砲を押して敵に突撃するぐらいの気魄がなくてナ
        ンで決戦ができるか。この腰抜けが!……」延々と無限につづく罵詈
        雑言。
         悲しいとか口惜しいとか言うのではない。むしろ何ともいえない空
        虚感であった。(山本七平氏著『一下級将校のみた帝国陸軍』文春文
        庫、pp.164-165)

       # 東条英機の残した『赤い手帳』(三男、東条敏雄氏所有)より
         (多少、言い訳めいたことも書き残したかったのであろうか)。
        昭和一八年八月十一日
        「戦局ノ進展深刻化ニ伴フ戦争的要求ト日本ニ於ケル政治 単的ニ
         謂ヘハ下僚政治、属僚政治ノ弊ノ根深キモノアルト。
         統帥ノ独立ニ立籠リ又ハ之レニ籍口シテ陸軍大臣タル職権ヲ有
         スルニ不拘ラス之レニ対シ積極的ナル行為ヲ取リ得ズ、国家ノ
         重大案件モ戦時即応ノ処断ヲ取リ得サルコトハ共ニ現下ノ最大
         難事ナリ」
        解釈:戦争は行く末が見えず、益々進展し深刻化しているという
           のに日本の政治は・・・(混迷を極めていて、世界を相手に
           戦争出来る様な情勢ではない)、一言でいえば下っ端官僚や
           属僚たちが幅をきかせている政治、この弊害は根深いもの
           がある。しかし自分は(それは良く分かっているのだが)、
           統帥の独立という構造にたてこもり、またそれを口実にして
           積極的な改善手段を実現させることが出来ない。総理大臣と
           して国家の重大案件も思うに任せず、陸軍大臣として切羽詰
           まった戦況の打開策も、いずれも即時に処置断行することが
           出来ない。これはともに今の最大の難事である。
                 (月刊『宝石』、平成10年6月号より抜粋)

       # ガダルカナル最前線(元陸軍中尉、小尾靖夫の手記より)
         「立つ事の出来る人間は・・寿命30日間。体を起こして座れる
        人間は・・3週間。寝たきり、起きられない人間は・・1週間。
        寝たまま小便をする者は・・3日間。もの言わなくなった者は・・
        2日間。またたきしなくなった者は・・明日。ああ、人生わずか
        五十年という言葉があるのに、俺は齢わずかに二十二歳で終わる
        のであろうか」(昭和17年~18年)

       # ブーゲンビル島ブイン飛行場(昭和18年4月頃)
         飛行場のまわりは、昼なお暗きジャングルである。マラリア蚊が
        跳梁し毒蛇や鰐が横行している。こんな、とても人が住めない密林
        のなかで、日本海軍の男たちは戦っていたのだ。
        (星亮一氏著『戦艦「大和」に殉じた至誠の提督 伊藤整一』より)

       #  馬を引いて前線に届けるのが任務である。「馬は軍にとって大変
        大切だ。おまえらは一銭五厘の切手で召集できるが馬はそうはいか
        ぬ。おまえらより馬のほうが大切なのである」
                    
         「昭和15年召集、入隊してそこで待っていたのは、毎日のような
        しごきでした。教官はお前たちの命は九牛の一毛より軽いというこ
        とで兵隊の命なんか上の方では、人権なんか余り考えてなかったよ
        うな気がします」(朝日新聞、H10.12.2朝刊より)

       #  第三班。そのまま聞いとれ。今日はお前たちの担当じゃなかっ
        たけん、よかったが、お前たちの番になって、あんな真似をしとっ
        たら、おれが承知せんぞ。お前たちのような消耗品は、一枚二銭の
        はがきで、なんぼでも代わりが来るが、兵器は、小銃は、二銭じゃ
        出来んからな。銃の取り扱い方、手入れ法を、ようと勉強しとけよ。
            (大西巨人氏著『神聖喜劇<1>』光文社文庫、p.97より)

       # これが戦争なんだ。これが軍隊なんだ。       
         上官が家々を物色して回る「徴発」 を命じた。村民はクモの子を
        散らすように逃げまどった。「背に弾を打ち込め」と命令されたが
        銃身をわずかに空に向けて外した。食料はないか、家畜はいないか。
        一軒一軒をのぞいて回った。ある民家の土間に老女がうずくまって
        いた。・・・その老女は逃げる体力も気力も持ちあわせていないよう
        に思えた。一抱えもある鉄鍋の下にかぼそい炎が見えた。「何か
        炊いている」食い物にありつけるかも知れない。腹をすかせた兵士
        たちの期待が膨らんだ。老女は恨めしそうな目を投げかけてきた。
       「あんたら日本人は何でも奪う」、そう言いたげな刺す様な視線だ
        った。・・・鍋に近付いた。その中に、黒ずんだものがかすかに
        ブスブスと動いていた。何の臭いもしなかった。・・・
         老女が煮ていたものは、ただの土。何のために?。・・・
                      (朝日新聞、H10.11.30日朝刊より)
         絶叫でもなく、悲鳴でもない。動物の呷きにもにた男の声が残った。
        暴れる男は太い幹にくくりつけられた。何が始まるのか初年兵全員が
        分かっていた。・・・「突け!」。剣のついた小銃を持った初年兵が
        木に向けて走った。・・・約50人の初年兵が次から次へと突いた。
        男の内蔵は裂け、ぼろぞうきんのようになった。体はどす黒い血の塊
        となって木の下に崩れた。(朝日新聞、H10.12.1日朝刊より)

       # われわれが連れていかれたのは、寧武にある処刑場です。荒れ地で、
        城壁の角地でした。そこへ、綿入れの便衣を着た中国人五十数人がじ
        ゅずつなぎに連行されてきました。そこでは、すでに数人の将校によ
        って「試し斬り」がおこなわれていました。手をしばられた中国人の
        首を刀でバサッと斬っているのです。ところが下手な将校は、刀の扱
        いがうまくできずに頚動脈を切ってしまうものだから、血が噴き出し
        ている。あわてて刀を何回も振り下ろしています。一回で首を切りお
        とせなかったのです。むしろ下士官のほうがうまくて、片手にもった
        サーベルをパッと振り下ろすと、首がごろっと落ちる。私は仰天しま
        した。いままでこんな恐ろしい場面を見たことがなかったからです。
        つぎからつぎへとくりひろげられる悽惨な光景に、体はふるえ、こわ
        ばつて目も開けられない状態でした。
         そうして、こんどは私たちに「肝試し」が命じられました。正確に
        はこれを「刺突訓練」と呼んでいました。銃剣で、後ろ手にしばられ
        立たされている中国人を突き刺すのです。目隠しもされていない彼ら
        は、目を開いてこちらをにらみつけているので、こわくてこわくてた
        まらない。しかし、「かかれっ」と上官の声がかかるのです。私は目
        が開けられず、目をつむったまま、当てずっぼうに刺すものだから、
        どこを刺しているのかわかりません。そばで見ている古年兵にどやさ
        れ、「突け、抜け」「突け、抜け」と掛け声をかけられる。どのくら
        い、蜂の巣のように刺したかわかりません。しまいに、心臓にスパッ
        と入った。そうしたら「よ-し」と言われて、「合格」になったので
        す。こうして、私は「人間を一個の物体として処理する」殺人者に仕
        立て上げられたのでした。(奥村和一・酒井誠氏著『私は「蟻の兵隊」
        だった』岩波ジュニア新書、pp.22-23)

       # 私は既に日本の勝利を信じていなかった。私は祖国をこんな絶望的
        な戦いに引きり込んだ軍部を憎んでいたが、私がこれまで彼等を阻止
        すべく何事も賭さなかった以上、今更彼等によって与えられた運命に
        抗議する権利はないと思われた。一介の無力な市民と、一国の暴力を
        行使する組織とを対等におくこうした考え方に私は滑稽を感じたが、
        今無意味な死に駆り出されて行く自己の愚劣を笑わないためにも、そ
        う考える必要があったのである。
         しかし夜、関門海峡に投錨した輸送船の甲板から、下の方を動いて
        行くおもちゃのような連絡船の赤や青の灯を見て、奴隷のように死に
        向かって積み出されて行く自分の惨めさが肚にこたえた。
                         (大岡昇平氏『俘虜記』より)

       # 軍の輸送船はひどい、まるで地獄船だという話は前にも聞いてい
        た。しかしその実情は聞きしにまさるもので、いかなる奴隷船もど
        のような強制収容所も、これに比べれば格段に上等である。前に週
        刊朝日でも触れたが、人類が作り出した最低最悪の収容所といわれ
        るラーベンスブリュック強制収容所の狂人房も、収容人員一人あた
        りのスペースでは、陸軍の輸送船よりはるかに”人道的”といえる
        のである。前述の石塚中尉の日記をもう一度ここで引用させていた
        だこう。「・・・船中は予想外の混乱なり。船艙も三段設備にて、
        中隊176名は三間と二間の狭隘なる場所に入れられ、かつ換気悪い
        ため上層の奥など呼吸停止するほどの蒸れ方なり。何故かくまで船
        舶事情逼迫せるや。われわれとしては初めて輸送能力の低下してい
        る事情を知り大いに考えざるべからず。銃後人にもこの実情を見せ、
        生産力増強の一助にすべきものなるにかかわらず、国民に実情を秘
        し、盲目的指導をつづけていることは疑問なり」。
         これ以上の説明は不要であろう。2間に3間は6坪、これを3層のカ
        イコ棚にすると、人間がしゃがんで入れるスペースは18坪、言いか
        えれば、ひざをかかえた姿勢の人間を、畳2枚に10名ずつ押し込み、
        その状態がすでに2週間つづいているということ、窒息して不思議
        ではない。それは一種異様な、名状しがたい状態であり、ひとたび
        そこへ入ると、すべてが、この世の情景とは思えなくなるほどであ
        った。その中の空気は浮遊する塵挨と湿度で一種異様な濃密さをも
        ち、真暗な船艙の通路の、所々に下がっている裸電球までが、霧に
        かすんだようにボーッと見え、む-っとする人いきれで、一瞬にし
        て、衣服も体もべタベタしてくる。簡単にいえば、天井が低くて立
        てないという点で、また窓もなく光も殆どない鉄の箱だという点で、
        ラッシュアワーの電車以上のひどさで家畜輸送以下なのである。だ
        が、このような場所に2週間も押し込められたままなら、人間は、
        窒息か発狂かである。従って耐えられなくなった者は、甲板へ甲板
        へと出ていく。しかし甲板には、トラックや機材が足の踏み場もな
        いほど積まれ、通路のようなその間隙には、これまた人間がぎっし
        りつまり、腰を下ろす余地さえなくなる。一言でいえば、前述した
        プラットホームである。そのくねくねした迷路に一列に並んでいる
        人の先端が、仮設便所であった。便所にたどりつくのが、文字通り
        「一日仕事」。人間は貨物ではない。貨物なら船艙いっぱいにつめ
        こめればそれですむ。しかし、人間には排泄がある。・・・
        (山本七平氏著『一下級将校のみた帝国陸軍』文春文庫、pp.63-64)

       # 「日本のボロ船は、アメリカ製高性能魚雷2発で15秒で沈む。
        3000人のうち助かるのは12、3名」。
          (山本七平氏著『一下級将校のみた帝国陸軍』文春文庫、p.67)

       # 師団長や参謀たちが何だというのだ。彼らは私にとって、面と向か
        って反抗できない存在だ。その点では班長や下級将校も同様だが、班
        長や下級将校は、私たちと同様に彼らに使われているのだ。あいつら
        やあいつらよりもっと上の連中たちが、こんな馬鹿げた戦争をしてい
        るのだ。ああいう連中になりたがっている連中もいるわけだが、しか
        し、私は、結局は、あいつらに使われる状態から逃れられないのだ。
        私は、彼らに対して、そう思っていた。挙国一致だと。糞食らえだ。
        尽忠報国だと。糞食らえだ。心中ひそかに悪態をついてみたところで、
        もうどうなるものでもない、と思いながら、私は悪態をついていたの
        だ。
         気力なし、体力なし、プライドなし、自信なし、希望なし。悪態は
        ついても、恨みも不平もなかった。私は、もう、なにがどうでもいい
        ような気持になっていたのだ。
         龍陵の雨を、寒さを、漆黒の闇を、草を、木を、土を、空を、星を、
        運を、思い出す。その中で、常時、死と体のつらさに付き合っていた
        ことを思い出す。歩けないのに歩かなければならないときの苦しさを
        思い出す。(古山高麗雄氏『龍陵会戦』(文春文庫)p.52)

       ★特攻隊攻撃:軍部にみる残酷さと卑怯さの象徴(発案は服部卓四郎、
              源田実、大西瀧治郎(直属部下:玉井浅市、猪口力平、
              中島正)、富永恭次ほかの悪魔ども)。
          初めて行われたのは比島沖海戦の翌日の昭和19年10月25日で、
         敷島隊がレイテ湾の米軍艦に体当たりを敢行。 敗戦までに実に
         2367機が出撃した。(因に潜水「魚雷」は海軍大将黒木博司によ
         り別に考案され最初の出撃は昭和19年11月だった)
          青年達(海軍の飛行予科練習生と学徒兵)に下士官の軍服を着
         せて飛行機に乗せ、未熟な操縦技術ながら敵に体当たりさせた。
         (昭和17年から乙種飛行予科練習生の徴募年齢が満14歳に引き下
         げられていた)。
         皮肉にもこの特攻隊攻撃が原爆投下を米英に決断させることにな
         った。
        ※おそるべき無責任
          英文学者の中野好夫は、特攻を命令した長官が、若いパイロッ
         トたちに与えた訓辞を引用して、一九五二年にこう述べている。

          「日本はまさに危機である。しかもこの危機を救い得るものは、
         大臣でも大将でも軍令部総長でもない。勿論自分のような長官で
         もない。それは諸子の如き純真にして気力に満ちた若い人々のみ
         である。(下略)」
          この一節、大臣、大将、軍令部総長等々は、首相、外相、政党
         総裁、代議士、指導者-その他なんと置き換えてもよいであろう。
         問題は、あの太平洋戦争へと導いた日本の運命の過程において、
         これら「若い人々」は、なんの発言も許されなかった。軍部、政
         治家、指導者たちの声は一せいに、「君らはまだ思想未熟、万事
         は俺たちにまかせておけ」として、その便々たる腹をたたいたも
         のであった。しかもその彼等が導いた祖国の危機に際しては、驚
         くべきことに、みずからその完全な無力さを告白しているのだ。
         扇動の欺瞞でなければ、おそるべき無責任である。
            (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.61-62)
        ※死へのカウントダウン
          学徒兵たちは、自分たちの政府に「殺される」出撃の最期の
         瞬間まで読書と日記を続けた。どんな時代や国においても、死
         とは孤独なものである。こうした若者は人生の早い段階で死刑
         宣告を受けていたも同然で、ただでさえ短かった人生を、死の
         影の中で生きねばならなかった。そのため、彼らの人生には常
         にこのうえない淋しさが付きまとっていた。だが、潔く死ぬこ
         とを当然祝された若き学徒兵たちは、こうした感情を公にする
         ことはできなかった。残された手記は、自らの行為に納得のい
         く意味を見出そうとするものの、最期の瞬間まで苦悩し続け、
         悲壮なまでの孤独感に覆われた胸中をありありと見せている。
         1940年11月の日記に、林尹夫は「死にたくない!… 生きたい!」
         と書き連ねていた。中尾武徳は、1942年9月に「静寂」という
         題の詩を書き、多くの若者たちが感じていた時間の経過に対す
         る焦燥感を表現している。刻々と時を刻む時計の針の音は、彼
         らにとって死へのカウントダウンの音でもあったのである。
          中尾や他の学徒兵の手記は、人生そのものを含め、彼らが失
         ったすべてのものへの嘆きの声で満ちている。
         (大貫恵美子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.34-35)
        ※驚くべきことに、悪魔らが特攻作戦を創設した際、陸海軍兵学校
         出身の職業軍人の中から志願したものは一人もいなかった。
               (大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』岩波書店)
        ※関行男大尉(23歳、第一次神風特別攻撃隊、敷島隊(5機の零戦))
          「日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すな
         んて。僕なら体当たりせずとも敵空母の飛行甲板に500キロ爆弾を
         命中させて還る自信がある」。
         ●特攻隊攻撃については柳田邦男氏著『零戦燃ゆ(渾身編)』や
          大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』に詳しく載っている。ぜひ
          ご一読をお勧めする。また『はるかなる山河に』(南原繁編集)
          や『きけわだつみの声』(一、二集)という遺稿集もぜひ読ん
          でほしい。
         ●源田実はのうのうと生き続けて、戦後は自衛隊に入り、最後に
          は参議院議員にまでなった。つまり戦没した特攻隊員に恥じる
          ことも殉ずることもなかったのである。
           -------<別に賞賛しないが、こういう軍人もいた>-------
            軍令部々員の国枝兼男少佐が去る二十二日未明自決した。
           かつて予科練の教官をしてゐて、その教へ子のうちから沢山
           の特攻隊員が出てゐる。それ等の教へ子を先に死なせ、しか
           も戦争はこのやうな終末になつた。相済まぬといふ心に耐へ
           られなかつたのである。最後まで役所の仕事は滞りなく片づ
           け、土浦の自宅に帰り、夫人に決心のほどを語りて納得させ
           たうへ、拳銃で二人の子供を殺し、夫人をも同様の手段で殺
           した後、自らの頭に銃弾を打込んで果てたのである。
           (森正蔵『あるジャーナリストの敗戦日記』
                           ゆまに書房、pp.34-35)
        ※上原良司特攻隊員(20年5月11日、沖縄嘉手納湾の米国機動部隊に
         突入し戦死)
           いわゆる軍人精神の入ったと称する愚者が、我々に対しても
          自由の滅却を強要し、肉体的苦痛もその督戦隊としている。し
          かしながら、激しい肉体的苦痛の鞭の下に頼っても、常に自由
          は戦い、そして常に勝利者である。我々は一部の愚者が、我々
          の自由を奪おうして、軍人精神という矛盾の題目を唱えるたび
          に、何ものにも屈せぬ自由の偉大さを更めて感ずるのみである。
          偉大なるは自由、汝は永久不滅にて、人間の本性、人類の希望
          である。
        ※何が愛国だ? 何が祖国だ?(佐々木八郎、1945年特攻にて戦死、
         享年22歳、1941.9.14の日記より)
           戦時下重要産業へ全国民を動員するとか。全国民のこの苦悩、
          人格の無視、ヒューマニティの軽視の中に甘い汁を吸っている
          奴がいる。尊い意志を踏みにじって利を貪る不埒な奴がいるの
          だ。何が愛国だ? 何が祖国だ? 掴み所のない抽象概念のた
          めに幾百万の生命を害い、幾千万、何億の人間の自由を奪うこ
          とを肯んずるのか。抽象概念のかげに惷動する醜きものの姿を
          抉り出さねばならぬ。徒らに現状に理由づけをして諦めること
          はやめよう。(大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、
           p.83)
        ※古川正崇(海軍中尉、神風特別攻撃隊振天隊、S20.5.29沖縄近海
              にて特攻により戦死。享年24歳)の決意と覚悟
           出征の日に私は友の前で、「大空の彼方へ我が二十二歳の生
          命を散華せん」と詠つた。さうして今その二十四歳の生命をぶ
          ち投げる時がきた。
           出征の日に私は机に「雲湧きて流るるはての青空の、その青
          の上わが死に所」と書いてきた。さうして今その青空の上でな
          くして、敵艦群がる大海原の青に向つて私の死に所を定めやう
          としてゐる。
           しかも人生そのものにやはり大きな懐疑を持つてゐる。生き
          てゐるといふこと、死ぬといふことも考へれば考へるだけ分ら
          ない。ただ分つてゐることは、今、日本は大戦争を行つてゐる
          といふこと、神州不滅といふこと、その渦中に在る日本人とし
          て私の答はただ、死なねばならぬ、といふことだけである。
           絶対に死なねばならぬ。我が身が死してこそ国に対する憂ひ 
          も、人間に対する愛着も、社会に対する憤懣もいふことができ
          るのだ。死せずしては、何ごともなしえないのだ。
           今、絶体絶命の立場に私はゐる。
           死ぬのだ。潔く死ぬことによつて、このわだかまつた気持の
          むすび目が解けるといふものだ。
           (桶谷秀昭氏著『日本人の遺訓』文春新書、pp.186-187)
        ※特攻隊員たちの生活
          一方、多くの士官は鬼のように振る舞った。職業軍人たちは、
         自分より階級の低い学徒兵の些細な行動を不快に思う度、それを
         行なった本人のみでなく、隊全員に苛酷な体罰を加えた。色川(
         歴史家色川大吉氏、土浦基地元学徒兵)は、学徒兵を待ち受けて
         いた「生き地獄」について、まざまざと語っている。
             「土浦海軍航空隊の門をくぐってからは、顔の形が変
            るほど撲られる「猛訓練」の日がつづいた。一九四五年
            一月二日の朝は、金子という少尉に二十回も顔中を撲ら
            れ、口の中がズタズタに切れ、楽しみにしていた雑煮が
            たべられず、血を呑んですごした。二月の十四日は、同
            じ隊のほとんど全員が、外出のさい農家で飢えを満たし
            たという理由で、厳寒の夜七時間もコンクリートの床に
            すわらされ、丸太棒で豚のように尻を撲りつけられると
            いう事件が起こった。
            私も長い時間呼出しを待ち、士官室に入ったとたん、
            眼が見えなくなるほど張り倒され、投げ飛ばされ、起き
            直ると棍棒をうけて「自白」を強いられた。頭から投げ
            飛ばされた瞬間、床板がぬけて重態におちいり、そのま
            ま病院に運ばれ、ついに帰らなかった友もあった。これ
            をやったのは分隊長の筒井という中尉で、私たちは今で
            もこの男のことをさがしている」
          学徒兵たちは、しばしば叩き上げの職業軍人の格好の的とされ
         た。彼らは大学どころか高等学校にさえ在籍することの叶わなか
         った自らと比較し、学生たちを、勉学に専心することの許される
         特権階級の出身者として見ていたのも一つの理由である。
             (大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』岩波書店より)
        ※出撃前夜の様子
          ガンルームでの別離の酒宴席設営。明日出撃の若き士官の冷酒
         の酒盛り、一気飲み!! ガブ飲み!! 果ては遂に修羅場と化して、
         暗幕下の電灯は刀で叩き落され、窓硝子は両手で持ち上げられた
         椅子でガラガラと次ぎつぎに破られ、真白きテーブル掛布も引き
         裂れて、軍歌は罵声の如く入り乱れ、灯火管制下の軍隊でこゝガ
         ンルームでの酒席は、”別世界”。ある者は怒号、ある者は泣き
         喚き、今宵限りの命……。父母、兄弟、姉妹の顔、顔、姿。そし
         て恋人の微笑の顔、婚約者との悲しき別れ。走馬灯の如く巡り来
         り去り来る想いはつきずに。明日は愈々出撃、日本帝国の為、天
         皇陛下の御為にと、若き尊い青春の身命を捧げる覚悟は決してい
         るものの、散乱のテーブルに伏す者、遺書を綴る者、両手を組み
         て瞑想する者。荒れ果てた会場から去る者、何時までも黙々と何
         かを書き続ける者、狂い踊りをしながら花壇を叩き毀す者。この
         凄惨な出撃前のやり場の無い、学徒兵士の心境は余りにも知らさ
         れていません。……早朝飛行場に走り昨夜水盃ならぬ冷酒の勇士
         は日の丸のはち巻も勇ましく爆音高く出撃!! 私は……英霊に成
         られし方々の日常を知り尽くしております。私同様激しい教練の
         後にお定まりの制裁のシゴキが続けられていました。
           (大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.15-16)
        ※特攻生き残り隊員への罵声
         「貴様たちはなぜ、のめのめ帰ってきたのか、いかなる理由が
          あろうと、出撃の意思がないから帰ったことは明白である。
          死んだ仲間に恥ずかしくないのか!」
                  *****
         「あの時の参謀の迎え方で、われわれは司令部の考えていたこと
          がすべて分かりました。われわれは帰って来てはいけなかった
          のです。無駄でもなんでもいい、死ななければならなかったの
          です。生きていては困る存在だったのです」
                    (佐藤早苗氏著『特攻の町知覧』より)

         ◆  我々は故意に歪められた歴史と、その過程における ◆
         ◆ 政治の役割にもっと注意を払うべきである。特攻隊員 ◆
         ◆ たちは自分たちで語ることはもはやできない。もし、 ◆
         ◆ 「死者でさえ敵から安全ではない」(ベンジャミン) ◆
         ◆ ならば(この場合敵とは日本と欧米諸国のとの政治権 ◆
         ◆ 力の不平等、日本国内における政治への無関心である ◆
         ◆ )、彼らはポール・クレーの絵の中のような、青ざ  ◆
         ◆ めた歴史の天使が彼らを目覚めさせ、人間性と歴史の ◆
         ◆ 中に彼らの場所を確保してくれるのを待っているので ◆
         ◆ ある。                      ◆
         ◆  いかなる歴史的過程においても、全体主義政権の指 ◆
         ◆ 導者のような歴史的エージェントは、他の者よりはる ◆
         ◆ かに大きな影響力を持っていた。こういう者が人間性 ◆
         ◆ に対して犯した罪は決して許されるべきものではない。◆
         ◆  隊員たちの日記は、夢と理想に溢れた若者たちを死 ◆
         ◆ に追いやった日本帝国主義の極悪非道の行為を証明す ◆
         ◆ るものである。                  ◆
         ◆   (大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』岩波書店)◆

       ★「玉砕戦法」:昭和20年8月8日夜、ソ連軍の参戦。本土防衛のため
         国境(ソ連-満州)付近にいた精鋭部隊は帰国しており無防備状態
         。予備士官学校生も急きょ防衛隊を編成したが満足な武器はなか
         った。塹濠から爆弾を抱えて戦車に突進する以外に有効な手段は
         なかった。(「戦後50年『あの日・・・どう語り継ぐ』」、山陽
         新聞(H6.8.16)より引用)

       # 戦艦大和の最期がせまり、動揺する戦艦の兵士たちに向かって、
        哨戒長・臼淵大尉は、囁く様にこう言うのだ。
         「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目覚メルコトガ最上ノ
         道ダ 
         日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ 私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダ
         ワッテ 本当ノ進歩ヲ忘レテイタ 敗レテ目覚メル ソレ以外ニ
         ドウシテ日本ガ救ワレルカ 今目覚メズシテイツ救ワレルカ 俺
         タチハソノ先導ニナルノダ 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサ
         ニ本望ジャナイカ」
         (吉田満氏著『戦艦大和ノ最期』、哨戒長・臼淵大尉(当時21歳)
          の言葉、講談社文芸文庫、p46)
        ※戦艦大和の乗組員3332人のうち3063人が死亡、生存者は269人とい
         う。

          遺書ノ筆ノ進ミ難キヨ サレドワガ書ク一文字ヲモ待チ給り人
          ノ心ニ、報イザルベカラズ
          母ガ歎キヲ如何ニスベキ
          先立チテ散ル不孝ノワレニ、今、母ガ悲シミヲ慰ムル途アリヤ
          母ガ歎キヲ、ワガ身ニ代ッテ負ウ途残サレタルヤ
          更ニワガ生涯ノ一切ハ、母ガ愛ノ賜物ナリトノ感謝ヲ伝ウル由
          モナシ
          イナ、面ヲ上ゲヨ
          ワレニアルハ戦イノミ ワレハタダ出陣ノ戦士タルノミ
          打チ伏ス母ガオクレ毛ヲ想ウナカレ
          カクミズカラヲ鼓舞シツツヨウヤクニシタタム
          「私ノモノハスベテ処分シテ下サイ 皆様マスマスオ元気デ、
          ドコマデモ生キ抜イテ下サイ ソノコトヲノミ念ジマス」 更
          ニ何ヲカ言イ加ウベキ
          文面ニ訣別ノ思イ明ラカナレバ、歎キ給ウベシ
          ワレ、タダ俯シテ死スルノミ ワガ死ノ実リアランコトヲ願ウ
          ノミ
          ワレ幸イニ悔イナキ死ヲカチ得タラバ、喜ビ給エ
          読ム人ノ心ノ肌ニ触ルル思イニ、読ミ返ス能ワズ 郵便箱ニ急
          ギ押シ入レ、私室ヲノガレ出ズ カクシテ、ワレト骨肉トヲ結
          ブ絆絶タレタリ
          カカル折ニモ、父ガ愁イヲ顧ミルコト薄キハ如何ナル心情カ 
          晩酌ノ一献ヲ傾クル後姿ノ、ヤヤ淋シゲナルヲ一瞬脳裡ニ描キ
          シノミ
          世話好キノ鈴木少尉、戦友一人一人ニ、「貴様モウ遺書ヲ書イ
          タカ」
          面ヲソムクル者アレバ「何ダマダ書カンノカ オ前ニハオフク
          ロガイナイノカ一字デモイイカラ書イテヤレヨ」 促シツツ「
          ペン」ヲ握ラス
          (吉田満氏著『戦艦大和ノ最期』講談社文芸文庫、pp33-34)

       # 戦艦大和甲板上、森少尉の遺言
         太キ眉ノ影、月ニ冴エシ頬ニ落チタル横顔ハ森少尉ナリ
         艦内随一ノ酒量、闊達ノ気風ヲモッテ聞エ、マタソノ美シキ許婚
         者ヲモッテ鳴ル彼 常ニ肌身ヲ離サザル写真ノソノ美貌ト、シバ
         シバ届ク便リノ水茎ノ鮮カサトハ、カネテ一次室全員ノ羨望ノ的
         ナリ
         学徒出陣ヲ目前ニ控エシ一夜、初メテ彼女ノ手ヲ握り、「君ノ眼
         モ口モ鼻モ、コノ手モ足モ、ミンナ俺ノモノダ」ト短キ言葉ヲ残
         シテ、訣別セリトイウ
         暗キ波間ニ投ゲタル眸ヲワレニ返シ、耳元二訴エル如ク呟ク
         「俺ハ死ヌカライイ 死ヌ者ハ仕合セデ 俺ハイイ ダガア奴(
         イツ)ハドウスルノカ ア奴(イツ)ハドウシタラ仕合セニナッ
         テクレルノカ
         キット俺ヨリモイイ奴ガアラワレテ、ア奴卜結婚シテ、ソシテモ
         ット素晴シイ仕合セヲ与エテクレルグロウ キットソウニ違イナ
         イ
         俺卜結バレタア奴ノ仕合セハモウ終ッタ 俺ハコレカラ死ニニ行
         ク ダカラソレ以上ノ仕合セヲ掴ンデ貰ウノダ モットイイ奴卜
         結婚スルンダ ソノ仕合セヲ心カラ受ケル気持ニナッテ欲シイン
         ダ
         俺ハ真底悲シンデクレル者ヲ残シテ死ヌ 俺ハ果報者ダ ダガ残
         サレタア奴ハドウナルノダ イイ結婚ヲシテ仕合セニナル 俺ハ
         ソレガ、ソレダケガ望ミダ ア奴ガ本当ニ仕合セニナッテクレタ
         時、俺ハア奴ノ中ニ生キル、生キルンダ……
         ダガ、コノ俺ノ願イヲドウシテ伝エタライイノダ 自分ノ口カラ
         繰返シ言ッタ 手紙デモ何度トナク書イテキタ 俺ヲ超エテ、仕
         合セヲ得テクレ、ソレダケガ最後ノ望ミダト……
         シカシソレヲドウシテ確カメルノダ ア奴ガ必ズソウシテクレル
         ト、何ガ保証シテクレルンダ
         祈ルノカ ドウシテモ祈ラズニハ居レナイ、コノ俺ノ気持ハ本当
         ダ ダガソレダケデイイノカ 自分ヲ投ゲ出シテ祈レバソレデイ
         イノカ ドウカア奴ニマデ聞エテクレト、腹ノ底カラ叫ブシカナ
         イノカ」
         荒キ語勢ニ涙ナシ セキ込ムバカリノ切願ナリ ムシロ怒リナリ
         怒リヲ吐ク彼 肯キツツ言葉モナキワレ 二人ヲ蔽ウハ、コレガ
         見収メノ清澄ノ月空
         二人ノ足ヲ支ウルハ、再ビ踏ムコトアルマジキ堅牢ノ最上甲板
         許婚者ナル方ヨ 君ハ類イナキ愛ヲ獲タリ
         彼ガ全心コメタル祈リハ、聞キ入ラルルベシ 必ズ聞キ入ラルル
         ベシ
         彼、怒レルママニ口ヲ結ビ、凝然卜足下ノ波頭二見入ル
          (吉田満氏著『戦艦大和ノ最期』講談社文芸文庫、pp39-40)

       # シベリアで仲間は死んだ。(朝日新聞、H10.11.29朝刊より)
         食料は下になるほど上級兵にピンはねされ、飯盒のフタにエンドウ
        が五、六ツブといった食事が何日も続いた。
         一昨日は隣分隊の初年兵が栄養失調で死んだ。昨日は山下が死んだ。
        今日は隣の奴がと、毎日のように死人がでた。
         収容所は全本能の闘争場だった。陰気な、悽惨なものだった。

    ***************** 【以上、悪魔の所業のほんの一部】 *****************










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