「原発の父」と呼ばれる正力松太郎は、独占的な通信網欲しさから原発を日本に持ち込み、田中角栄は利権目的で原発を利用した。こうして日本の原発は、その本来の目的とは乖離した、いわば不純な動機によって増殖を続け、そしていつしかそれは誰も止めることができないものとなっていた。
正力松太郎に詳しい早稲田大学の有馬哲夫教授によると、読売新聞の社長で日本初の民間放送局日本テレビの社長でもあった正力の真の野望は、マイクロ波通信網と呼ばれる国内通信網の実現だった。これを手にすれば、当時将来有望な市場と目されていた放送・通信事業のインフラを自らの手中に収めることができる。正力はそのための資金としてアメリカからの1000万ドルの借款、それに対する日本政府の承認、そして通信事業に参入するための公衆電気通信の免許が必要だった。
正力は野望実現のために、当時の吉田茂首相やアメリカとの交渉に奔走した。しかし、正力はほどなく一つの結論にたどりつく。それは、野望を実現するためには自らが最高権力者、すなわち日本の首相になるしかない、というものだった。そして、正力は同じく当時将来が嘱望されていた原子力発電は、そのための強力なカードになると考えた。しかし、正力の関心はあくまでマイクロ波通信網であり、原発そのものは正力にとってはどうでもいい存在だった。
当初はアメリカも、弱小紙だった読売新聞を大新聞に育て上げた正力のビジネスマンとしての才能や政治的コネクション、そして何よりもそのアンチ共産主義的な思想を評価していたと有馬氏は言う。更にアメリカは、1953年のアイゼンハワーの国連演説以降、核の平和利用を推進し、その恩恵を西側陣営に広げることを対ソ戦略の柱の一つにしていた。アメリカにとって正力は十分に利用価値のある人物だった。
日本で初の原子力関連予算が成立した翌年の1955年、正力は衆院議員に当選するやいなや、原発の導入を強力に推進する。新人議員ながら既に70歳と高齢だった正力は、限られた時間の中で、自らが首相になるための実績作りを急がなければならなかった。そのために読売新聞や日本テレビを使った大々的な原発推進キャンペーンを次々と打ち、当時第五福竜丸の被爆などで高まりつつあった反米、反原子力の世論の懐柔に奔走した。こうして正力は初代の原子力委員会委員長、同じく初代の科学技術庁長官の座を手にし、権力の階段を着実に登り始めたかに見えた。
しかし、その頃までにアメリカは正力の権力欲を警戒し、正力から距離を置き始めていたと有馬氏は言う。それでも正力はあきらめず、遂に1957年8月、茨城県東海原発実験炉に日本で初めて原子力の灯がともった。しかし、正力の首相になる夢は叶わず、マイクロ波構想も通信・放送衛星の登場によって、意味のないものとなってしまった。
夢のエネルギーであるかに思えた原子力発電にも問題が起きる。その年の10月、イギリスのウィンズケールの原子炉で大規模な事故が起こり、原発のリスクが顕在化したのだ。正力が科学技術庁長官並びに原子力委員長を退任した後の1961年、原子力賠償法が成立したが、その内容は事業者負担の上限を定め、それ以上は国が負担するといういびつな二重構造だった。ここにも、民間と言いながら実際は国が保証しているという原発の二重性の欺瞞を見て取ることができる。
しかし、原発は正力の手を離れた後も著しい成長をみせた。1970年の大阪万博には敦賀原発から電力が送られ、未来のエネルギーとしてもてはやされた。オイルショックも原子力の推進を後押しした。そうした中で登場した田中角栄首相のもとで、1974年、電源三法が制定され、原発は高度経済成長の果実を得ていない過疎地の利権としての地位を得て、更に推進されることになる。
正力が「首相になるための道具」として日本に原発を導入してから、半世紀がたつ。一人の男の不純な動機で始まった日本の原発は、原発に利権の臭いを嗅ぎ取った希代の政治家田中角栄の手で、やはり本来の目的とは異なる別の動機付けによって推進されるなど、常に二重性の欺瞞に満ちているようだ。
「原発の父」正力松太郎の生きざまを通じて、原発の歴史と今後のエネルギー政策へのヒントを、有馬氏と考えた。
なぜ日本にこんなに多くの原発があるのか -日本原発導入史-
テーマ:原発問題日本の原子力発電機の数は54基と米仏に継ぐ世界第三位で、建設中・計画中のものを含めると69基と第二位である(2010.1.1時点)。国土面積あたりの基数は主要国の中では最多であろう。
世界唯一の被爆国である日本で、しかも地震の被害が当初から懸念されていた原子力発電が、安全が確保されないままなぜここまで普及したのか。それには導入当初の特殊な政治的事情を振り返ってみる必要がある。
ここでは「大正力」「原子力の父」といわれた正力松太郎とオーナーであった読売新聞、同時期に原発推進に動いた中曽根康弘の動きを中心に見てみたい。
当時正力は読売グループのオーナーとして創設間もない日本テレビを含め全権を掌握していたが、かねてからの政界進出の夢を諦めきれずにいた。原子力を武器に一気に首相の座まで狙っていたと言われている。中曽根は55年の保守合同で旧民主党から河野派入りするまで野党暮らしが続いていたが、この原発推進過程で正力に接近し、正力派の立ち上げに動いている。渡邊恒雄との接点ができたのもこのころである。
1953.7 中曽根康弘が、米政府関係者の勧めによりヘンリー・キッシンジャー
(後国務長官)主催のハーバ ード大インターナショナルセミナーに参加。
原子力施設を見学(~11月まで)
12.8 国連総会において、アイセンハワー大統領が「アトムズ・フォー・
ピース」演説。原子力の平和利用提唱
1954.1.21 ジェネラル・ダイナミクス社建造所にて原子力潜水艦ノーチラス
進水。同社社長兼会長のジョン・Jホプキンスが挨拶
3.1 ビキニ環礁で水爆実験(キャッスル作戦ブラボー実験)。第五福竜
丸が被爆
3.3 中曽根康弘、稲葉修らが原子炉築造費を含めた研究予算要求を国
会へ提出し、可決
3.14 第五福竜丸焼津へ帰港。被爆を最初にスクープしたのは読売
新聞だった。
3.15 被爆したマグロ等が築地に入荷。以降、日本全国で850隻の
漁船から460tの放射能汚染に侵された魚が見つかる。
以降、原水爆禁止運動が急速に拡大し、三千万人の反核
署名を集める戦後最大の反米運動に発展
4.22 米・国家安全保障会議の作戦調整委員会(OCB)が「水爆や関
連する開発への日本人の好ましくない態度を相殺するための米政府
の行動リスト」を起草。福竜丸乗員の死亡を予測し、死因を放射能によ
るものではない、と主張する方針を策定
7~8月 読売新聞、新宿伊勢丹で「誰にでも分かる原子力展」開催。第五福竜
7~8月 読売新聞、新宿伊勢丹で「誰にでも分かる原子力展」開催。第五福竜
丸の船体を展示
8.30 米において原子力法成立。米国企業の原子炉輸出が可能に
9.23 第五福竜丸久保山無線長、放射能症で死去。米国は4月の方針通り
9.23 第五福竜丸久保山無線長、放射能症で死去。米国は4月の方針通り
水爆実験との関連を否定
1955.1.1 読売新聞が「米の原子力平和使節ホプキンス氏招待」と
1955.1.1 読売新聞が「米の原子力平和使節ホプキンス氏招待」と
告知。以降5月の来日まで大々的にキャンペーンを展開
(詳細は下記リンク参照)
MATRIXさんのブログ「近代日本と欧米諸国(4)原子力発電 」
2.27 正力松太郎、衆議院議員初当選
11.1 読売新聞、原子力博覧会を開催(12.12まで。約37万人が来場)
11.27 正力松太郎、北海道開発庁長官として初入閣
(第三次鳩山内閣。 70歳)
12.19 原子力基本法成立
1956.1.1 正力松太郎、原子力委員会初代委員長就任
5.19 正力松太郎、科学技術庁初代長官就任
「5年以内に原子力発電を行なう。」と提唱
6 茨城県東海村に特殊法人日本原子力研究所発足(財団法人と
しては前年11月から)
12.23 正力松太郎、科学技術庁長官、原子力委員会委員長を退任
(鳩山内閣退陣による)
1957.5 九電力社長会で、九社出資による「原子力発電振興会社」説立
案が出される(民間主導案)。
7.10 正力松太郎、 国務大臣国家公安委員長の兼務として原子
力委員会委員長に復帰(第一次岸内閣)
7 電源開発株式会社が原子力発電は政府主導でと主張する意見
書提出。経済企画庁長官だった河野一郎がこの方針を支持し、
正力と対立。中曽根は正力から離反
(電源開発出資割合は政府66.67%、九電力33.33%)
1957.11.1 茨城県東海村に日本原子力発電株式会社発足(九電力80%、
政府20%出資)
中曽根康弘は強硬に地元群馬県への誘致を目指し、正力に
働きかけていたという。
(柴田秀利著「戦後マスコミ回遊記」より。柴田は日本テレビ元専務)
このころ、正力松太郎は原発の早期開発のため英国炉の導入
を推進し、米国とその意向を恐れる外務省、財界の反発を招く。
1958.6.12 正力松太郎、原子力委員会委員長他を退任し、閣外へ
(岸内閣改造による)
1959.6.18 中曽根康弘、科学技術庁長官兼原子力委員会委員長就任
(41歳。第二次岸改造内閣~1960.7.19まで)
1960.1 東海原子力発電所着工
(正力主導により英国製原子炉を導入したが、英国製輸入は
これが最初で最後)
1961 原子力損害賠償法成立
1963.10.26 日本原子力研究所の試験炉が、日本初の原子力発電に成功
1965.5.4 東海原子力発電所、初臨界に到達
1964~65 中曽根康弘、渡邊恒雄、児玉誉士夫と共に九頭竜ダム(水力
発電所)疑惑に関与
1966 中曽根派結成
1967.9 福島第一原発着工
1967.9 福島第一原発着工
これを見ると、
・原子力発電の供与を同盟国つなぎとめの手段としようとした米国
・米国と結び、原子力により政界進出を図ったが、その後離反し英国炉の導入に奔った正力
・米国の示唆で原子力発電推進に取り組み、一度は正力と手を握ったが、離反し原発の主導権を握った中曽根
これらの思惑が錯綜しているのが分かる(もちろん、これ以外に電力確保やエネルギー源の分散化など
様々な思惑が錯綜しているのだが)。米国は一旦は日本への原子炉提供に積極的になるも、原子炉を持たせることによる核武装の可能性には怯えて、自国で管理できない英国炉の導入に奔る正力を切ることになる。一方中曽根は、原発推進を通じて一度は正力派の立ち上げに動いたとも言われるが、米国に逆らう正力の暴走を見て離反し、河野一郎の下へ戻っていった。その結果、正力退任の一年後、科学技術庁長官兼原子力委員会委員長の座を射止める。これをきっかけに力を付け、九頭竜ダム疑惑に関与する一方、河野の死の翌年にはついに中曽根派を結成する。
原子力発電については1954年にソ連が先鞭をつけ、以降米英が続いた。西側諸国内でも米英は競争関係にあった。そのため、58年に科学技術庁長官に復帰した正力が早期開発のため英国炉の導入を図ると、米側の猛烈な巻き返しにあい、ついにはその座を追われることになる。このあたり、田中角栄が濃縮ウラン導入を巡って英仏に接近し、原油確保のためのアラブ寄り外交政策も含め米国に忌避されることになった事情にも似ている。
正力はCIAのエージェントだったとも言われるが、彼の行動が全て米国の意に沿ったものであったわけではない。もちろん、一気に首相の座を射止めたかったという彼の野心もあったろうが、原子力の持つ力が日本の発展に役立つということに加え、日本も核武装したいという思いもあったのだろう。
しかし、地震の多い日本で、十分な検討、確証もないまま原発導入を強引に進めたのは、やはり早計ではなかったか。当初正力は、米国の戦略どおり読売グループをフルに活用して原子力の宣伝に努めた。日本テレビでも頻繁に原発PR番組を放映し、ディズニー製作の原発PR映画まで放送している。このような強引な宣伝がなければ、日本への原発の導入はもっと遅れ、結果ここまでの数にはなっていなかったのではないか。
確かに未来の予見は困難である。しかし政治家は結果責任を負わなければいけない。日本史上において、大正力と中曽根の負った罪は、非常に大きい。
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