東京新聞 10月9日
田中正造語録から考えるフクシマ
国策被害 「足尾」と酷似 東京新聞 11月9日
「民を殺すは国家を殺すなり」
東京電力福島原発事故後、
足尾銅山鉱毒事件の展示施設に足を運ぶ人が増えているという。
鉱毒と放射能の違いはあれ、それを撒いた加害企業は政府と親密で、
被害住民は塗炭の苦しみを強いられた。
1世紀以上の時間を隔てながらも、両者は酷似している。
足尾事件で闘いの戦闘に立った政治家、
田中正造は命を懸けて政府を糾弾した。
その言葉と歩みはいま、私たちに何を伝えるのか。
『己の愚を知れば則ち愚にあらず、
己の愚なることを知らなければ真の愚である。
民を殺すは国家を殺すなり、
法を蔑ろにするは国家を蔑ろにするなり、
人が自ら国を殺すのである。』
(田中正造之生涯 大空社より)
足を鉱毒事件を告発した政治家田中正造は、
1900(明治33)年2月17日、衆議院でこう大演説をぶった。
その4日前、鉱毒被害に苦しむ農民たち約2500人が
警官隊と群馬県佐貫村(明和町)で激突。
この「川俣事件」について、政府に抗議した。
正造は1841年、現在の栃木県佐野町に生まれた。
県議を経て、90年に衆議院議員に初当選。
帝国議会で足尾銅山の鉱毒被害について、質問を来り返した。
01年に議員を辞職し、被害住民救済を訴えるため、
明治天応に直訴を試みたが、失敗。
その後も、渡良瀬川の洪水防止を名目とした
遊水池建設の反対運動を続けたが、13年に71歳の生涯を閉じた。
『世の中に訴へても感じないと云ふのは、
一つは此の問題が無経験問題であり
又目に見えないからと云ふ不幸もございませう』
同じ演説で正造はこうも述べた。
大規模な鉱毒被害を引き起こしても
当時の政府は実態を認めようとしなかった。
目に見えない物質の影響がどの程度なのか。
福島原発事故による放射性物質にもその構図は重なる。
1897年の衆議院での演説は、より辛辣だった。
『まづ鉱毒で植物が枯れる。
魚が取れぬ。
人の生命が縮まる』
『銅山に毒があれば動植物に害を与へる
と云ふことは古来学者の定論で、
農商務の官吏が皆正直で宜しいのである。』
『銅山の毒が何に障るかと云ふ位の事はわかりきって居るのに、
農商務省がわからぬと云ふは不思議千万』
この言葉はすべての情報を開示していない
現在の原子力安全・保安院や東電にも当てはまる。
正造が住んでいた。
栃木県谷中村は鉱毒沈殿用の渡瀬遊水池が作られることになり、
強制廃村に追い込まれた。
加害企業の古河工業と住民の賠償交渉も長期化。
閉山した足尾銅山周辺では、いまも少量の鉱毒が流出し続けている。
見えない毒・情報隠し・・・
反原発の哲学者 「経済より倫理必要」
『真の文明は
山を荒らさず
川を荒らさず
村を破らず
人を殺さざるべし』
今年3月13日、地元紙に一つの記事が載った。
栃木県日光市にある古河機械金属足尾事業所の源五郎沢堆積場が、
東日本大震災の地震の余波と見られる地滑りで崩れ、
渡良瀬川に有害物質が流入したという記事だ。
堆積場とは、銅を精錬したあとに残った金属かすを貯蔵している場所。
12日に同社が2キロ下流で実施した水質調査では、
国の基準を2倍近く上回る鉛が検出された。
NPO法人・足尾鉱毒事件田中正造記念館の島野理事は
「堆積場や1200キロに及ぶ廃坑の坑道からも、
有害物質が流れ続けている。
足尾銅山の公害はいまだに終わっていない」と話す。
田中正造の研究を続けている
熊本大の小松教授(日本近代史・思想史)は、
「足尾鉱毒事件と今回の原発事故の構図があまりにも似ていて、
本当にびっくりした」と語る。
約100年前の正造の言葉を伝えたくて、
9月に『真の文明は人を殺さず』を出版した。(小学館)
放射性物質と同じく
「目に見えない毒」に汚染された水や作物を飲み食いすることを
正造は「毒食(どくじき)と表し、
汚染地域の農産物の販売や結婚で差別が生じたことに心を痛めた。
「低線量の放射線被害は未知の分野。
足尾のように福島原発事故の被害者が見棄てられてはならない」
(小松教授)
被害住民は古河工業や政府に何度もだまされた。
当時、
「鉱毒除去のために設置する」と政府が表明した機械は、
実は増産を目的とした銅の採集器だった。
だが、この採集器設置と引き替えに示談交渉を進めた。
日清戦争時は、「永久に苦情を申し立てない」という示談契約もあった。
福島原発事故では東電があとに撤回したが、
被災者の賠償請求書に
「一切異議・追加請求を申し立てない」と盛り込んだ。
政府方針の裏付けしかない御用学者たちもいた。
足尾鉱毒事件では、
「銅山から出るのだから、銅中毒に違いない」という説が主流だった。
その中で、
帝国大学医科大学(東大医学部)の林春雄助教授がただ一人、
「複合汚染」を疑った。
足尾土王算の銅功績は
硫化銅で鉛や亜鉛、マンガン、ヒ素やカドニウムも含んでいたためだ。
ところが、林助教授は複合汚染を提唱した直後、
むんぶしょうにドイツ留学を命じられた。
林助教授が不在の間に政府は第二次鉱毒調査委員会を設置、
遊水池を作って対策を終わらせた。
小松教授は、メディアの責任も指摘する。
古河工業が鉱毒予防工事を実施したあと、
当時のメディアは「鉱毒問題は終わった」と報道。
実際は当時の記述では完全に鉱毒拡散を止められず、
被害は広がり続けた。
北海道で反原発活動を続ける哲学者、花崎皋平さんは、
「日本社会における倫理観の欠如」
を問題の背景と見る。
「唯一の行動規範は、経済による欲望の充足。
欲望のまま、
科学技術で何でもやっていいと国策で突き進み、
足尾行動事件や福島原発事故を引き起こした。」
原発は半減期が数万年もの放射性物質を生む。
放射性廃棄物の処理機技術は確立していない。
潜在的な核武装である。
ドイツ政府は、
宗教者が加わった「倫理委員会」でこうした論議を重ね、
脱原発にかじを切った。
『現段階では、人間に原子力は扱えない。
いくら技術が会ってもクローンを作ってもよいのかという話と同じで、
倫理的な観点が必要と花崎さんは話し、正造の残した言葉を引いた。
『真の文明は 山を荒らさず 川を荒らさず 村を破らず 人を殺さざるべし』
デスクメモ
足尾鉱毒事件の背景にあった、
「富国強兵」「増産興業」の標語は、
今日、TPP推進派が掲げる「経済成長に引き継がれている。」
1世紀以上も成長神話にひれ伏す中、
それが市井の人たちを幸せにするのか、
という根源的な議論は国政の議場からは聞こえない。
この政治家の思考停止こそ犯罪的である。
足尾鉱毒事件
田中正造が生きた明治時代と今、何も変わっていませんでした。RT @hanayuu 『〔メモ〕公害事件の嚆矢「足尾銅山鉱毒事件」に関する勝海舟の発言』低気温のエクスタシーbyはなゆー|http://bit.ly/eNMixe
田中正造の人権・平和思想 http://www8.plala.or.jp/kawakiyo/index4.html
田中正造。『真の文明は 山を荒らさず 川を荒らさず 村を破らず 人を殺さざるべし』 TPPは、「山を荒らし 川を荒らし 村を破壊し 人を死なせる」 http://qjomiuchi.exblog.jp/8170270/
田中正造は私が最も敬愛している人 小出裕章(毎日jp) http://bit.ly/kuSvVf
〔フクシマ・NEWS〕 小出裕章さん 「田中正造はもっとも敬愛する人」(机の空の下)http://bit.ly/mOww7m フクシマの「原爆公害」は足尾の鉱毒にもまさる破滅的な死の灰を撒き散らし、東日本を汚染し続けている。今や、東日本全体が「谷中村」になってしまったのだ。
【憲法九条の先覚者・田中正造】
9★Collectionさんのブログより
真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし
《田中正造1912年(明治45年)6月17日付日記》
足尾鉱毒事件の中で焦点となった
栃木県谷中村が、藤岡町に合併さ
れ、廃村となって100年目、
2006年のドキュメンタリー映画
『赤貧洗うがごとき―田中正造と
野に叫ぶ人々―』でも描かれた
田中正造は、足尾鉱毒事件と
たたかい、渡良瀬川流域の住民を
救済するために、生涯を捧げた
ことでよく知られています。
その田中正造が、「憲法九条の
先覚者」でもあったことはあまり
強調されていないようです(私だけ
が知らなかっただけかも…)。
田中正造の研究者である梅田欽治さん
(宇都宮大学名誉教授)は、
以下のように述べられています。
《しんぶん赤旗2009年2月5日から抜粋引用》
│ (前略)…この田中正造が日露戦争(1904-05年)に反対して「世界各国
│皆海陸軍全廃」、つまり「軍備全廃」を主張している。(中略)鉱毒被害に
│苦しんでいる国民を救わない国はすでに「亡国」であり、政府が「国家存
│亡」という日露戦争よりも先決問題であるとした。さらに「無戦主義」と称し
│て「戦争は罪悪である」とし、(中略)「野獣は言語少なく意思の通じない
│ため腕力で是非を決するが、人類は言語を解するのだから、なぜ腕力を
│使うのか」と国家間の紛争は話し合いで解決すべきだと(中略)…さらに
│1907年にオランダのハーグで開かれた万国平和会議(第二回)に「軍備
│全廃」を議題とするよう働きかけるために…(中略)
│
│ 田中正造の平和思想は現在の日本国憲法と直接の関係はないが、
│二つの世界大戦を経て基本的内容は日本国憲法として実現した。また
│田中正造は国内では人民の立場、国際的にはアジアの立場から日本の
│進路、国のあり方を提案した…(後略)
[ハート型シリーズ;03]
田中正造は、その生涯に約千首に及ぶ歌を書き残しているそうです。
奈良達雄さん(新日本歌人協会常任理事)の「歴史の中の文学」(2001年
青龍社)から二首だけご紹介します(かっこ内は解説です)。
│戦ハ悪事なりけり世をなべてむかしの夢とさとれ我人
│ (当時は「力が正義」であった。「むかしの夢」という表現は、武力
│ による解決は誤りだ、そのことはすでに決着ずみだ、という正造の
│ 強い信念を意味するものといえよう。)
│戦わで勝ちほこりたる端西たずねてみよややまと民族
│ (「端西」はスイス、当時はスイッツルと読ませたようだ。…「富国
│ 強兵」のスローガンで、ひたすら軍事大国をめざしていた当時の
│ 日本にあって、この歌を詠み、スイスの永世中立を外交路線上の
│ 「勝ちほこ」れる成果ととらえ、「たずねてみよや」と積極的に学ぶ
│ ことを提起している正造の先駆性に驚かざるを得ない。)
「環境」と「平和」…田中正造が生涯をかけて、今私たちに問いかけている
ものは、人類の未来をかけてとりくむべき大きさと深さを持っていると言えましょう。
門人は「田中正造の全人格を一語で
表せば愛」と語っていたと云います。
奇しくも、旧谷中村・渡良瀬遊水地を
衛星写真で見るとハート型に見えませ
んか。 (↑上の写真)
田中正造は、伊藤博文と同世代、
天保12年(1841年)~大正2年(1913年)
の時代を生きました。
財産はすべて鉱毒反対運動などに使い果たし、
71歳で死んだときは無一文で、
合切袋(身の回りの物をあれこれ
入れる袋)一つが全財産でした。
中味は日記3冊、河川調査の草稿と
新約聖書、矢立と川海苔の壜、帝国
憲法とマタイ伝、小石3個であった…
と言います。
葬儀には5万人もの人が集まりました。
by MO
(全財産は袋を加えて九種の品ですね…)
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