12月2日、東京都品川区に本店を置く信用金庫「城南信用金庫」が全店舗で東京電力との契約を解除し、自然エネルギーや民間の余剰電力を購入し販売している「エネット」との契約に切換えることを自社サイトで告知した。
エネットとはPPS(特定規模電気事業者)と呼ばれる事業者のうち、NTTファシリティーズと東京ガス、大阪ガスの子会社で、一般電気事業者が管理する送電線を通じて小売りを行う事業者である。
城南信用金庫はこの事業者を通じて電気を購入することで、東京電力の負担を減らし電力不足の解消に力をいれたいと発表している。詳細な理由についても公表されており、そのリリース文の一部を読むと以下のような文章が記載されていた。
仮に、当金庫と同じように、各企業などがPPSへの切換えを推進し、我が国全体のPPSによる電力供給が増えれば、
①東京電力などが主張している今後の電力不足が解消される
②原発を使わない電力の供給が増え、原発維持の必要性が無くなる
②原発を使わない電力の供給が増え、原発維持の必要性が無くなる
ため、「原発に頼らない安心できる社会」が確実に実現できます。
当金庫では、今後、こうした動きを各方面に訴え、賛同者を広げることにより、「国民経済の健全な発展」と「原発に頼らない安心できる社会の早期実現」を両立させるため、全力で取組んでまいります。
城南信用金庫 吉原毅理事長
マル激トーク・オン・ディマンド 第536回(2011年07月23日)
信用金庫が脱原発宣言をすることの意味
ゲスト:吉原毅氏(城南信用金庫理事長)
菅直人首相は震災発生から「脱原発宣言」までに4ヶ月あまりを要したが、
震災の衝撃も覚めやらない4月1日に、堂々と脱原発宣言をやってのけた金融機関がある。
日本初の脱 原発金融機関として今や全国的に有名になった東京の城南信用金庫だ。
同庫のホームページに掲載された宣言「原発に頼らない安心できる社会へ」は瞬く間にツイッターなどで広 がり、
同時期にウェブサイトに公開された吉原毅理事長のインタビューは8万回以上も再生された。
経済界では異例の脱原発宣言はなぜ行われたのだろうか。
また、脱原発で城南信用金庫に続く金融機関はなぜ現れないのだろうか......。
4:55から吉原毅氏
岩井俊二 friends after 3.11 飯田哲也 吉原毅...「原発」に頼らない社会へ 「節電30%」は実現可能!
吉原 毅
城南信用金庫理事長
2011年7月号 [インタビュー]
by インタビュアー 本誌 宮嶋
吉原 毅
(よしわら つよし)
城南信用金庫理事長
1955年東京生まれ。77年慶大経済卒。同年城南信用金庫へ。92年理事・企画部長、96年常務理事、2006年副理事長を経て、昨年11月より現職。自らの年収を支店長(1200万円)以下に抑え、理事長・会長任期を最長4年、停年を60歳とする異色の改革を断行。信金業界切っての論客である。
――城南信用金庫がホームページ上で訴える「原発に頼らない安心できる社会へ」と題する「脱原発」宣言が話題を呼んでいます。
吉原 大震災の被害は、私の想像をはるかに超えるものでした。痛切に、何かをしなければならないと思いました。城南信金の実質的な創立者である小原鐵五郎元会長は「銀行に成り下がってはいけない」と説いていました。地元の協同組織金融機関である信金は社会貢献(地域社会の繁栄)のために生まれた組織であり、お金儲けのためにやっている銀行ではないということです。信用金庫は困っている人に手を差しのべます。思いやりの気持ちを大切にします。それが、いつの時代にも変わることのない、私たちの原点です。
城南は震災のたびに義捐金1億円を出してきましたが、今回は3億円を寄贈しました。4月以降は常時6~7名の「被災者支援ボランティア隊」を宮城県石巻市に派遣し、被災した宮古信用金庫(岩手県)とあぶくま信用金庫(福島県)に就職予定であった学生10名を受け入れ、6月1日に入職式を行いました。
南相馬市に本店のあるあぶくま信金さんは本当にお気の毒です。警戒区域内の6支店が閉鎖となり、大切な職場とお客様を瞬時に失ってしまいました。浪江町や双葉町の支店には戻れないという異常な状況が続いています。地元の顧客を守り、地域の繁栄に奉仕することが信金の使命です。ところが、全住民が退去させられ、町が消滅する事態が勃発した。これはとんでもないことだという怒りが込み上げてきました。極論すれば、電車の中で誰かがからまれていたら「やめなさい!」と言わなければならないのに、誰も声を上げようとしません。私にはあぶくま信金さんの窮状が他人事と思えませんでした。
家庭でもゲーム感覚で節電
――リスクを嫌う金融界で「脱原発」を宣言したのは御社だけです。瞬く間にツイッターで話題になり、吉原さんのインタビューはユーチューブで7万回も再生されました。
吉原 本当はもっと激しいメッセージを出したかったのですが……。周囲の意見もあって「原子力エネルギーは明るい未来を与えてくれるものではない。それを管理する政府機関も企業体も万全の体制をとってこなかった。これに依存することはあまりにも危険性が大きすぎる」という、穏やかな表現にとどめました。
――城南信金は「脱原発」と併せて、社内の「3割節電」を打ち出しましたね。
吉原 「原発抜き」では現代社会は成り立たないという人がいます。我が国は発電の約3割を原子力に依存しているから、原発は欠かせないとの主張です。それならば徹底した節電運動の実施、省電力設備の導入、断熱工事の施工、緑化工事の推進、ソーラーパネルの設置、LED照明への切り替えなどに挑戦することにしました。その結果、割と簡単に3割減らせました。この「節電ゲーム」は家庭でも楽しめます。毎月の電力使用明細には、去年との比較が出ています。また、自宅の電力計を見ると一日何キロワット使用しているかがわかる。今日は7キロワット使ったから、どこで無駄遣いをしたかなと反省する。こうして私は自宅でも2カ月連続30%以上の節電に成功しました(笑)。
――「原発に頼らない安心できる社会へ」というスローガンを掲げ、地域の顧客の節電を応援する新商品を開発しましたね。
吉原 省電力設備への投資を行う個人がお借り入れいただく際の金利を当初1年間は無利息(2年目以降は1%)とする「節電プレミアムローン」、省電力のために10万円以上の設備投資を行った個人を対象に1年ものの定期預金の金利を年1%とする「節電プレミアム預金」などをスタートさせました。
――原発は段階的に撤退すべきですか。
吉原 いや、はっきり言って即座に止めるべきですね。なぜかと言うと、すでにわかったように、原発のコストは決して安くないからです。福島原発事故の補償は途方もない額にのぼる。そのうえ危険な使用済み核燃料を安全に処理する技術がいまだ確立されていないのです。この狭い国土に54基の原発があり、地震・火山・津波のリスクに怯え、ミサイルを撃ち込まれる国防上のリスクまで考慮したら、石原慎太郎都知事だって「とんでもない」とおっしゃるのではないか。
原子力は一歩間違えれば取り返しのつかない危険性を持っていることをネグレクトしてきた罪は重い。ただちに原発をゼロにすればさまざまな問題が起こるでしょうが、もはや議論する余地はなく、原発立地県の不安を考えたら、いったんすべてをストップするのが筋だと思います。
「原発」に姿を変えたお金の暴走
――なぜ、こんな事態が生じたのでしょう。
吉原 お金がバブルを生むように、原子力もバブルを生んだのです。もともと人々の幸せのためにお金があるはずですが、ともすると、人はお金に目を奪われて、それを忘れてしまう。お金というものは、人間の大脳が生み出した最大の妄想であり、魔物であり麻薬なのです。だから、何か具合の悪いことがあっても、ひとたび走り出すと止まらなくなる。間接金融のメーンバンク制の時代には、バブルが発生しないように銀行が一定の歯止めをかけていましたが、市場中心主義のもとで自由化が進んだため、お金が暴走するバブル現象を止める人がいなくなってしまいました。
原発が危険な技術だとしても、国益と安全性を徹底重視したなら、うまくいった可能性はあります。あるいは危険性が高まった段階で踏みとどまったかもしれない。ところが、原発はたった一基稼働させるだけで年1千億円を超える利益を生み出す麻薬です。いつの間にか、この巨大ビジネスに巣食う企業、政治家、官僚、学者らの利権複合体が生じ、そこへ莫大なお金が流れるようになりました。その結果、安全より金儲け第一に陥ってしまったのです。東日本が壊滅しそうなほどの大惨事、大悲劇が起きても、「原発反対」の大合唱が起こらないのは、お金が人の心を狂わせているからです。それこそお金の魔力、「原発」に姿を変えたお金の暴走だと思います。バブルの怖さを知る金融マンの立場からも見て見ぬふりはできません。
――今、求められているものは何ですか。
吉原 東京が直下型地震に襲われたら、城南も崩壊するかもしれません。「メメントモリ(自分もいつか必ず死ぬということを忘れるな)」という言葉があるじゃないですか。企業も今、この瞬間をどう生きるかを問われています。この国難には最大の善なることに取り組みたいと思います。
お客様サービスの充実も大事ですが、そういうことばかり言っている場合ではない。もっと大きく、世のため人のために何ができるかを考えたい。それが、お金儲けが目的ではない、相互扶助と非営利性を原点とする信用金庫の社会的な使命だと思います。
小原 鐵五郎
(おばら てつごろう、1899年(明治32年)10月28日 - 1989年(平成元年)1月27日)は、日本の信用金庫人。城南信用金庫の第3代理事長であり、全国信用金庫連合会(現信金中央金庫)会長、全国信用金庫協会長を永年にわたって務め、信用金庫の発展に努める。歯に衣着せぬ直言で金融界のご意見番といわれる。従三位勲一等瑞宝章。
来歴・人物 [編集]
明治32年(1899年)10月28日、
家業の農業に従事。第一日野尋常小学校卒。
貧富の差をなくして安定した社会を作りたいと考え、
大正8年(1919年)7月大崎信用組合設立時に書記として入職。
実務に精励し次第に頭角をあらわす。
昭和20年(1945年)2月専務理事就任。
同年8月10日に空襲により被害を受けた
東京城南地区の15の信用組合が合併して城南信用組合が発足し、専務理事に就任。
同年12月、
昭和25年(1950年)6月1日の信用金庫の親機関である
「全国信用協同組合連合会」(現信金中央金庫)の発足に尽力し常務理事に就任。
ちなみに同連合会は城南信用金庫の応接を事務所として発足した。
昭和26年(1951年)6月15日に
信用金庫の単独法である信用金庫法の成立に尽力する。
初代理事長である代田朝義
(六郷信用組合:後に大田区長となる)、
2代目理事長である酒井熊次郎
(入新井信用組合:初代全国信用金庫連合会(現信金中央金庫)会長)のあと、
昭和31年(1956年)5月に城南信用金庫の3代目理事長となる。
昭和41年(1966年)3月に全国信用金庫協会長。
以来両会長職を長年勤め全国の信用金庫をまわるなど信用金庫業界の結束に尽力する。
この間、大蔵省の金融制度調査会委員として
預金保険法の成立や限度額の拡充など金融制度の整備にも貢献。
昭和43年(1968年)の金融二法成立時には、
株式会社化の危機にあった信用金庫制度を守りぬく。
信金情報システムセンターSSCを設立、
信金中央金庫による金融債の発行を実現など、
中小企業と信用金庫業界の発展に貢献。
「裾野金融」「貸すも親切、貸さぬも親切」「カードは麻薬」などの
「小原哲学(名前の一字を取って、鉄学・鐵学とも言われる)」
は、現在も信用金庫業界の経営理念として残る。
世のため人のために貢献する有為な人材を育成するために財団法人小原白梅育英基金を設立し全財産を遺贈。
同財団は日本でも有数の奨学育英基金となる。
小原鐵学 [編集]
「裾野金融」 [編集]
昭和41年(1966年)に、
金融制度調査会において、
競争原理の導入による金融効率化論議が行われ、
その中で、協同組織にもとづく信用金庫を株式会社に改変して、信用金庫を資本の原理の下に、大銀行に合併統合してしまおうという
「滝口試案」が滝口吉亮政府委員から出された。
また同様に会員組織を否定する「末松試案」が
しかしながら、そもそも、協同組織運動は、19世紀の英国において、株式会社の弊害を是正するために生まれたものである。
すなわち、
出資額に応じて企業支配をする株式会社は、
株主・資本家の利益を目的とした経営がおこなわれるため、労働者や消費者などの庶民は搾取され、貧富の差が拡大し、企業買収が容易なので資本の独占化が進むなどの問題があった。
このため、イギリスのロッチデールにおいて、
労働者が集まって、儲け主義ではなく、
利用者である庶民の生活向上や相互扶助のために、
この社会運動がドイツにわたり、それを模範として、
明治期に日本に導入された産業組合が信用金庫の起源である。
この産業組合は「地方自治の基礎」として、
地方自治体が社会安定の観点から地域の有力者に設立を要請するなど公共的な役割が期待されていた。
「滝口試案」は、
こうした協同組合運動の歴史や役割を踏まえぬ議論であり、
まさに信用金庫制度存亡の危機であった。
これを知った小原は、全国の信用金庫に団結を呼びかけるとともに、
「信用金庫は中小企業の金融機関だ。
株式組織にすれば、大企業中心になってしまう」と激論を述べ、一転して
「およそ八百屋であれ魚屋であれ、企業にはビジョンというものがあるが、
滝口試案のどこに信用金庫のビジョンがあるのか、伺いたい」
と問いただし、返答に窮する政府委員に対して、
信用金庫設立の経緯と理念を、富山で米騒動が起こった背景から諄々と説明し、
「中小企業の育成発展、豊かな国民生活の実現、地域社会繁栄への奉仕」
という信用金庫の3つのビジョンについて語り、
「超資本主義で事を進めるなら、
いつか貧富の差が激しくなり、
階級闘争が火を吹くかもしれない。
平和な世の中を作るには、信用金庫の存在こそ必要ではないのか」
と述べ、
最後に
「富士山の秀麗な姿には誰しも目を奪われるが、
白雪に覆われた気高い頂は、大きく裾野を引いた稜線があってこそそびえる。
日本の経済もそれと同じで、
大企業を富士の頂としたら、
それを支える中小企業の広大な裾野があってこそ成り立つ。
その大切な中小企業を支援するのが信用金庫であり、その役割は大きく、使命は重い」
と締めくくった。
これが「裾野金融論」であり、
「これは小原鐵学である」と評したという。
「滝口試案」は廃案となり、
「川口試案」が基本となり、
信用金庫制度は存続され、金融二法と呼ばれる
「中小企業金融制度の整備改善のための相互銀行法、信用金庫法等の一部を改正する法律」(43法律85号)及び
「金融機関の合併及び転換に関する法律」(43年法律86号)が制定された。
この合併転換法は、当初、銀行が信用金庫を合併する条項しかなかったが、
逆に信用金庫が銀行を合併できるような法律構成にしなければ不公平だと
小原が強く主張し、最終的にいずれも可能にした。
しかしこのようにいろいろな主張を熱心に行ったこともあり、小原は「グズ鉄」と揶揄されたという。
「貸すも親切、貸さぬも親切」 [編集]
大崎信用組合に入職した若い小原は、
夜間は、産業組合中央会の勉強会に通い、
簿記や法律など、金融の基本実務の習得に励んだ。
その産業組合中央会の弁論大会で、小原は
「銀行は利息を得るためにお金を貸すが、
我々組合は、先様のところへ行ってお役に立つようにと言ってお金を貸す。たとえ担保が十分であり、高い利息が得られたとしても、投機のための資金など先様にとって不健全なお金は貸さない。
貸したお金が先様のお役に立ち、感謝されて返ってくるような、生きたお金を貸さなければならない」
と述べこれを「貸すも親切、貸さぬも親切」と要約した。
また、日ごろから「お金を貸す」という言葉ではなく、
「ご心配して差し上げる」という言葉を使い
「銀行はお金を貸すことに目がいくが、
信用金庫は、相互扶助を目的とした協同組織金融機関であり、
まず先様の立場に立って、事業や生活のご心配をし、
知恵を貸し、汗を流して、その発展繁栄に尽力することが大切であり、
その上で、資金が必要ならばご融資し、
お客さまのためにならない資金ならお貸ししないことが親切である」
と指導した。
この「貸すも親切、貸さぬも親切」は、
「日本の銀行制度の父」
と呼ばれたスコットランドの銀行家アレクサンダー・アラン・シャンドが、英語を学ぶためにシャンドの使用人として銀行支店に勤めていた
銀行業務について師事していた渋沢栄一などに教えた英国の正統銀行哲学(サウンドバンキング)を忠実に受け継ぐものである。
シャンドは、
「有力取引先の息子が遊興費を借りに来ても、
本人のためにならないお金を貸すことは銀行員として行ってはならない。
忠告をして親切に断ることが大切である。
これはロンドンおよびウェストミンスター銀行の支配人を勤め、
銀行学者として学士院会員にも選ばれた
ジェームズ・ウィリアム・ギルバートの所説である」
と教えた。
ちなみにシャンドは、
日露戦争当時にイギリスに戦費調達に来ていた高橋是清を助け、
多数の銀行に紹介して、国債の引き受けを成功させ、
日本の窮地を救った恩人である。
かつてのバブル期において、大手銀行は、
株式や土地、ゴルフ会員権、変額保険などの投機を取引先に勧め、
そのための資金を積極的に融資した。
その後のバブル崩壊、デフレ経済により、取引先は多額の損失を被り、不健全な融資を勧めた銀行に厳しい社会的批判が寄せられたが、こうした中で、城南は
「貸すも親切、貸さぬも親切」に徹し、
取引先のためにならない投機的な融資を断ったため、取引先に損害をかけず、同時に、健全経営を堅持することができたという。
一見合理性のある収益拡大のための投機も、
合理性を懐疑し、長い歴史的見地から判断して、
社会の良識に反することは長くは続かないという判断が大切であるという英国流の経験主義が
「貸すも親切、貸さぬも親切」の根本である。
また小原は、日頃、支店長会などでも
「融資を断る時は、相手の気持をよく考えて、できるだけ親切丁寧にして、
本当にすまないという態度、姿勢を示すなど、相手に十分に配慮しなさい」
と教えた。
融資を断る時には、例えば上着を相手に着せ掛けてあげるとか、具体的に細かい仕草まで教え、断った相手が失意に陥らないよう、かえって感謝されるように、十分に配慮することが大切だということを強調していた。
「カードは麻薬」 [編集]
小原は、昭和30年代に海外視察を行って海外の金融情勢を調べ、
また信金中金の国際業務を強力に推進し、
ニューヨーク、ロンドン支店の設立には自ら実地調査するなど、国際派の側面があった。
その小原が、米国の金融情勢を視察した際に、
米国社会は、クレジットカード漬けであり、
安易な借金に頼る結果、
堅実に働いて将来に備えるという「勤倹貯蓄の精神」を失い、生活が破綻し、貧富の差が拡大し、
これが犯罪の増加などの社会不安を招いていると述べた。
そして、日本でも拡大しつつあったクレジットカード、消費者金融に警鐘を鳴らし、
「カードは麻薬」であり、
こうしたクレジットカード、消費者金融が拡大すると、
やがて日本もアメリカのように、社会治安が悪化し、
凶悪な犯罪が続発し、
不健全な社会になることは必至であると厳しい警告を発した。
この警告は後年のクレサラ問題という形で日本でも現実化している。
「貯蓄興国、借金亡国」 [編集]
小原は、庶民がしっかりとした蓄えを持たずに、
病気などをきっかけに悲惨な生活を送ったり、
高利貸しに手を出して、
家屋敷や家財までも手放して生活破綻に陥ることを強く憂いて、
「豊かな国民生活の実現」
のためには、まず貯蓄奨励が大切であると常に強調していた。
そして、働いて貯蓄し、財産を多少なりとも持てば、
物事の考え方や行動までも堅実になり、
それが個人の生活の安定だけでなく、国家の繁栄にもつながるが、反対に、借金生活が当たり前になると、その国は衰退してしまうとして、
「貯蓄興国、借金亡国」ということを、常日頃から強調していた。
「銀行に成り下がるな」 [編集]
信用金庫の前身である市街地信用組合を各地に設立したのは、
主に地域の町長などの有力資産家であった。
彼らは
「成金が跋扈する軽佻浮薄な風潮を是正して
勤倹貯蓄の堅実な考えを地域に醸成するため」
「市街地信用組合は地方自治の基本」
とする東京府などの地方自治体の方針、要請を受けて、
「地域社会の繁栄のため」
という公共的な目的のために、
という公共的な目的のために、
リスクが高く、収益の見通しもつかない、
一歩間違えれば先祖伝来の財産を失う危険のある金融事業を、郡長などから説得されて、やむなく引き受けたケースが大半であった。
このように、彼らは、銀行が利益目的で設立されたのとは異なり、
市街地信用組合は、
世の為、人のための公益事業であり、利益のために市街地信用組合を設立したのではないという、強い自負、プライドがあった。中には、組合を設立するのに当たり、
先祖伝来の田畑を一部売却して資金をつくり、
万が一にも預金者に迷惑をかけないように配慮するなど、背水の陣の覚悟で臨んだ者もいた。
昭和26年(1951年)に信用金庫法が制定された際に、
無尽会社は相互銀行、信託会社は信託銀行、
そして市街地信用組合は信用銀行という名称になる予定であったが、業界のリーダー達は、
「市街地信用組合は公共的な目的のために設立されたのであり、金儲けを目的とした銀行とは違う」
として「信用銀行」案に強く反発した。
そこで舟山正吉銀行局長が、
「それなら政府機関しかつかっていない金庫を特別に認めましょう。
金は銀よりも上です」と提案して「信用金庫」という名称になった。
こうした業界の先達者たちの強い誇りやプライドを肌身で知っていた小原は、
銀行と信用金庫は違う、という意識が強く、しばしば
「銀行に成り下がるつもりですか」
「あれは金儲けが目的ですよ」
と語気鋭く、部下を叱りつけた。
「人の性は善なり」 [編集]
金融機関経営においては、お金を扱う関係から、相手を疑い、ともすれば
「性悪説」で相手を考えるということが常識となっているが、小原は、若い時からの様々な経験と苦労を経た結果、
逆に「人の性は善なり」ということを自らの信条としていた。
ある時、小原は、世間から山師と蔑視され、乱暴で、相手にされなかった人間から融資の相談があった。
しかし小原は、その時に、相手をそうした色眼鏡で見ずに、
ひとりの人間として丁寧に接し、相手の人柄が信頼ができ、大丈夫と判断して
「私はあなたを信用します」
と告げ、思い切って融資を行った。
と告げ、思い切って融資を行った。
その相手は事業に成功し、やがて国会議員となり、
地元の名士が集まって祝いの宴席が設けられた。
その際に、その国会議員は
「小原さんはおられるかな。今日は床の間に小原さんをすえなきゃ俺は座らない。
帰るぞ」
と言い、末席にいた小原を招いて床の間に座らせ
「私が五反田にいた頃、ほとんどの人が私をヤクザ扱いしたが、
小原さんだけは、一人前の人間として扱ってくれた。
だから私も、その信頼を裏切らないように、
今日まで一生懸命働き、頑張ってきた。
私が今日あるのは、ひとえに小原さんのおかげである」
と深く感謝したという。
こうした経験を経て、小原は
「相手を信じて、恩情を持って接すれば、その心は必ず相手に通じ、
相手もまた信頼と恩情に応えようと精一杯努力するものである。
このように、『人の性は善なり』と考えるべきであり、
私の経験でも、まず裏切られるようなことはなかった」
と強調していた。
「人柄に貸せ」 [編集]
小原は
「銀行は晴れた日には傘を貸して、雨が降り出すと取り上げるというが、
信用金庫はそういうことではいけない」
「担保主義ではなく、借りる人の身になって考え、
その人の事業が将来必ず成功するはずだと思えば、お貸しすべきだ」
と教えた。
そして、常に
「人柄に貸せ」
と述べ、信用金庫は地域に密着し、
会員の評判や仕事ぶりを的確に把握しているのだから、
相手の人間を見て、商売のやり方をみて貸すことが肝心であると強調していた。
具体的にも
「中小企業などは、いくらか油が染み付いた作業服をきた工場主、前垂れを掛けた商店主など、飾ることなく、地で来る人のほうが間違いが無い。
逆に奥さんにないしょでお金を借りに来るような人はだめだ。
結局信用できるかどうかは、外観じゃなくて人柄だ」と教えた。
主な著書 [編集]
- 「わが道ひと筋」(日本工業新聞社1969年)小原鉄五郎
- 「私の履歴書」(日本経済新聞社1970年)小原鉄五郎
- 「小原鉄五郎語録―庶民金融の真髄をつく」(金融タイムス社1973年) 小原鉄五郎
- 「貸すも親切貸さぬも親切―私の体験的経営論 」(東洋経済新報社1983年) 小原鉄五郎
- 「王道は足もとにあり―小原鉄五郎経営語録」(PHP研究所1985年)小原鉄五郎
- 「この道わが道―信用金庫ひと筋に生きて」(東京新聞出版局1987年) 小原鉄五郎
- 「小原鉄五郎伝」(金融タイムス社1980年)
- 「小原鉄五郎伝II」(金融タイムス社1988年)
- 「小原鉄五郎伝―追悼総集編」(金融タイムス社1989年)
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