ウルリヒ・ベックの『危険社会』


危険ーリスクを否認し「許容値」という名の「毒」を容認する科学者たちー東日本大震災の歴史的位置

さて、再度、ウルリヒ・ベックの『危険社会』についての紹介を続けよう。本書においては、環境破壊における科学批判の部分が、非常によく分析されているといえる。このことは前回までに紹介してきたが、ここでもまず、みていこう。ベックは、危険ーリスクについて、このように指摘している。
近代化に伴う危険は、科学の合理性の抵抗を押し切って意識されるようになってきた。この危険意識に人々を導いたのは、科学が明らかに犯してきた数々の危険についての誤り、見込み違い、過小評価である。危険が意識されるようになった歴史あるいは社会による危険の認知の歴史は、そのまま科学の神秘性を剥奪する歴史である。(本書p92)
その上で、ベックは、このように述べている。
危険を生産しておきながら、それを正しく認識できない大きな理由は、科学技術の合理性が「経済しか見ない単眼構造」にあるからである。この目は生産向上に視線を向けている。同時に、構造的に見て危険には盲目なのである。経済的に見合うかどうかという可能性については、明確な予測が試みられ、よりよい案が追求され、試験が行われ、徹底的に各種の技術的検討が行われる。ところが危険については、いつも暗中模索の状態で「予期しない」危険や「全く予期し得ない」危険が出現して初めて、心底怯え、仰天するのである。(本書p94)
これは、まさに福島第一原発事故の経過でこの1年間いやというほど見せつけられてきたことである。地震や津波、また全電源喪失などの「危険」は科学者・技術者の間ではないものにされ、根本的な安全対策がとられることがなかった。これは、何も日本だけのことではないことに注目しておきたい。
そして、大気中の汚染物資による気管支ぜんそくに罹患した児童の親たちの戦いをについて述べておく。親たちは、自分の子どもたちの病気の原因について、さまざまな主張を行うのであるが、「科学的に証明されない限り」問題にもされないことを認識するのである。
危険を否認する科学者たちの対応について、ベックは、次のように論じている。
 
科学者たちは自分たちの仕事に「質」を大事にし理論と方法の水準を尊重して、転職経歴と生活の糧を確保しようとする。まさにここから、危険と取り組む際の科学者に独特な非論理性が生まれる。関連性不明を主張することは、科学者にふさわしいし、また一般的に見て誉められるべきことであろう。しかし、危険と取り組む場合にこのような態度をとることは、被害者にはまさに正反対の態度と映るのである。この態度は危険を大きくするばかりだからである…科学性を厳密に言えば言うほど、危険だと判定されて科学の対象となる危険はほんのわずかになってしまう。そして結果的にこの科学は暗に危険増大の許可証を与えることになる。強いて言うならば、科学的分析の「純粋性」にこだわることは、大気、食品、土壌、さらに食物、動物、人間の汚染につながる。つまり、科学性を厳密にすることで、生命の危険は容認され、あるいは助長される。厳密な科学性と危険とは密かな連帯関係にあるのである。(本書p97)
そして、このような科学者たちの姿勢から生み出されてくる「許容値」について、ベックは「科学者はわからないということが絶対にないので…危険と取り組む際、自分たちもまたわからないのだ、ということを表す主要な言葉は『許容値』という言葉である」(本書p101)と説明している。そして、ベック自身は、次のように許容値を定義している。
 
許容値とはつまり大気、水、食品の中にあることを「許容される」有害かつ有毒な残留物の値である。これは危険の分配にとって重要な意味をもつ。それはちょうど富の不公平な分配にとって能力主義の原理が許され公に認められる。汚染を制限する者は、結局汚染に対して許可を与えたことになる。これは現在許可されたものは、例えどんなに有害であったとしても社会的に下された定義では「無害」ということを意味する。なるほど許容値によっては最悪の事態は避けられるかもしれない。しかし、これは自然と人間を少しなら汚染してもいい、という「お墨つき」ともなる。(本書p101)
この許容値という問題は、倫理上の問題を惹起する。
この倫理では、人間は互いに毒物を与えてはならないといのは自明の理であった。もっと正確に、毒物は絶対に与えてはならない、とすべきであったかもしれない。なぜなら許容値規定によって、皮肉にも悪名高いそして議論の多い「少し」であれば、毒は許されることになったのである。したがって、この「規定」は汚染防止にはつながらない。むしろ汚染がどこまで許されるかを問題にしているのである。明らかなことであるが、汚染は容認されるというのが、この規定のよって立つ根拠である。今や文明社会には有毒物質や有害物資があふれているが、その文明の退却路が許容値である。この許容値という概念は、汚染があってはならないという当然の要求を、ユートピアの発想だといって拒んでいるのである。(本書p102)
さらに、ベックは、次のように主張している。
「許容値規定」の根底にあるのは、技術官僚が下した非常にうさん臭い危険な誤った推論である。すなわち、(まだ)把握されていないもの、あるいは把握不可能なものには毒性がない、という推論である。また別の言い方をすれば、疑わしきは罰せずで、毒性の有無がわからない場合には、毒の方をして人間の危険な手から守ってやってくれ、ということである。(本書p104)
このような、ウルリヒ・ベックの主張は、放射線に対する「科学的」な見解のもつ問題点を的確に指摘している。空間における低線量被ばく、食品に含まれる微量の放射性物質の有害性については、いまだ定説がなく、放射性ヨウ素と甲状腺がんとの関係など以外では、立証されたと言いがたい状況である。そこから、許容値が一人歩きするようになる。立証されていないだけなのに、空間線量、食品中の放射性物質含有量、廃棄物(がれき・焼却灰・下水汚泥など)が、許容量以下ならば許されてしまう。そして、このような許容量を設定する科学者と、政府・企業・自治体とが密やかに結びついてしまうことになる。
これは、単に科学者が「御用学者」ということからのみ発生するのではない。科学的に立証できなければ因果関係を認めないという態度からも発生している。例えば、広瀬隆批判を行った野口邦和は、共産党系の日本科学者会議所属であり、主観的には政府・企業と結びついていたわけではない。読んでいる限りは、広瀬隆の論理展開に内在する「非科学性」が問題なのである。しかし、広瀬の主張が、一部根拠にかける部分があったとしても、全体を「ウソ」とまでは断じることはできないであろう。広瀬隆は、チェルノブイリ事故後甲状腺がんなどが多発すると「推測」しているのだが、それはその通りであった。現時点で立証できないとしても、リスクがなくなるわけではないのだ。そのように自問することが科学には求められているといえよう。
結局、科学者にせよ、政府にせよ、企業にせよ、自治体にせよ、まさに「人間は互いに毒を与えてはいけない」という倫理の上にたつべきである。許容値はせいぜい目安にすぎない。立証の問題とは別に「毒」は可能な限りゼロに近づけていくべきだと思う。

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