2012年4月1日日曜日

法と民主主義



★子どもの権利保障のいま──子どもの生きる力を育む一歩へ

特集にあたって
 震災は、子どもにとっていっそう過酷である。被災地三県の就学中の子どもの死者約四〇〇人、行方不明者も未だに一二〇人以上、両親ともに亡くした子どもは一〇〇人を超え、どちらかを亡くした子どもは数倍になろう。非難のため県外の学校で学ぶことを余儀なくされている子どもは約九五〇〇人にのぼるという。未就学の子どもを含めて考えるとき、息をのむ。子どもたちを支える親や教育関係者等々の大人も同じく被災者である。

 いま、われわれは子どもに何を伝えなければならないのだろうか。子どもが奪われた大きなものの一つは生きる力であろう。それは子どもの権利の核心の一つだ。ゆっくりでもそれを恢復していくために、大人社会は子どもの権利保障のあり方と向き合うことが不可欠だろう。

 子どもの権利について語られ、その保障がさけばれて久しい。国連子どもの権利条約(一九八九年)を日本が批准(一九九四年)して一七年、じきに二〇年を向かえようとしている。この間、日本政府は国連子どもの権利委員会で、三度にわたって(一九九七、二〇〇八、二〇一〇年)子どもに関する法制度や施策について報告し審査を受けてきた。それは単なる実情報告とそれへの承認ではない、いわば日本における子どもの権利保障の進展とそのあり方、かつそれに向けた総合的な政策に関する検証でもある。その意味で、委員会から審査後に日本に向けられた三度の勧告は、子どもの権利保障に向けた日本の子ども施策の方向を見定める議論の契機でもある。しかし、昨年の勧告でも示されたように、子どもの権利保障をめぐる議論と施策は、子どもの実情を十分にふまえたものとはいえず、子どもの権利保障の包括的な基本法の必要性が説かれている。

 また一方で、「貧困」、「格差」、「無縁社会」という言葉が日本社会の実相を示しつつ、「子どもの貧困」についても大きく注目された。子どもの貧困は、子どもの成長過程での総体的機能不全でもあり、それは子どもの人間としての尊厳と社会の一員としての意識の促進と深く関わる問題である。

 子どもの権利保障とは、子どもひとり一人の「生きる力」を守り、はぐくむことでもある。そのためにも、子どもの抱えた課題と実情を見つめ、いま、子どもの権利保障にむけて何が求められるのかを多様な観点から探ることが求められている。なお、その取り組みは始まってもいる。子どもの権利保障、支援に関わるNGOや制度論及び司法問題に関わる実務家、NGO、研究者等々子ども問題に関わる担い手が、いま問題をどのように捉え、展望をどこに見いだそうとしているのか、またその取り組みを探る。現在(いま)を追いつつ、次の手だての構想と支援を育むときだ。
 本企画は震災前にたてられたものだが、考えるべき課題は共通していると思われる。
 東日本大震災で被災された方々に、心よりお見舞い申し上げるとともに、親を失った多数の子どもたちの心の傷に寄りそい、子どもたちの瞳が輝くことを願って本特集を送りたい。
編集委員会 神戸学院大学 佐々木光明


 
時評●3・11の惨禍と人為災害の恐怖

(弁護士)鷲野忠雄

 日民協のホームページに掲載されている「ワシノメモリー」も五月一四日現在でA4版一二二頁に及ぶ。毎日の被害状況とマスコミの反響をメモ風に記録し、忘却という人間の習性に逆らい続けている。
     *****
 三月一一日午後二時四六分、宮城、岩手、福島の三県を中心とする東日本を襲ったM9.0の巨大地震。リアルタイムでテレビ放映された「人間の日常」を奪いつくした大津波、死者二万五千人(行方不明含め)、建物損壊一八万戸、最大五〇万人に上る避難者、船舶・漁港の「壊滅」的被災、農地被害二万五千ha…(中略)…経済的被害は九〇兆円の国家予算の規模に匹敵するであろうし、多くの被災者が受けた精神的苦痛は図りしれない。しかも、この地震と津波により東京電力福島第一原発が破壊され、冷却用電源が喪失して「制御不能」「炉心溶融」「高濃度汚染水」の垂れ流し、国際評価尺度レベル7のチェルノブイリ並み、あるいは、それ以上の事故とされている。(中略)放射能被害は、収束のめどが立たず、福島第一原発を震源地として、風や海流によって日本列島の大半に及ぶ危険性さえある。地震大国の我が国に五四基もの原発が作られ、全発電量の三分の一を原発電力が占め、「クリーンエネルギー」として、これを五〇%まで増やし、インド、ベトナム等に原発輸出を打ち出していたのが現政権であった。いま、私たちは、制御技術や危機管理を欠いた原発事故という未曽有の人災に怯え、そのツケを払わせられつつある。
     *****
 「ワシノメモリー」を作りながら、痛感した疑問と問題を思いつくままに列挙してみたい。
 ①この惨禍と被災者の苦悩を共有し、これをもたらした自然の猛威への対策、日本列島を覆いつくす人為災害=原発事故への対応・そして、救援・復旧・復興のためにあらゆる知恵と人的・物的条件の確保のために、総力を傾注すべきことは言うまでもない。
 ②国民に塗炭の苦悩をもたらし、ひいては国を破滅させかねない原発政策を長年、推進してきた自民党政権とこれを反省もなく承継してきた現政権、政・官・業・学の「鉄の四角形」の犯罪性、マスコミによる情報操作の異常さ、世界最大級の事故でありながら、情報を隠し、小出しにする詐術的手法、など納得できないことばかりである。原発政策の根本的な転換抜きに、また、この四角形の解体なしに、今回の原発事故への根本的な対策はあり得ない。首相が国会でお詫びし、東電役員が謝罪の被災地回りをし、原発の許認可にお墨付きをを与えた専門学者らが国会で「反省」を表明することで済むことではない。
 ③すでに、福島第一原発の1、2、3号機とも燃料棒が溶け、原子炉の「炉心溶融」が確認され、「六~九カ月で原子炉を安定した状態に」という工程表の出鱈目さも明らかになった。事故発生後二五年たつチェルノブイリの半径三〇キロ圏内には今なお人が住めず、最終収束までに更に一〇〇年を要するとさえ言われている。国民の中に湧き上がり始めた反原発の動きに対し、東電と政府は、停電、電力料金値上げ、不況・失業の加速、社会保障の圧縮などの対策やキャンペーンをもって対抗している。
 ④原発推進に殆どのケースで免罪符を与え続けてきたのは、司法である。この責任も軽視できない。
 ⑤わが国が、今、歴史的な「非常事態」にあることは事実である。この機に乗じて、国政、地方政治、外交、軍事など全面にわたって強権政治の創出を狙って、非常事態法の制定、さらには、九条を中心とする憲法改正の動きも表面化しつつある。
 大震災と原発大事故を巡る私たち国民の監視・批判・政治転換への絶え間ない努力が今ほど強く求められている時はない。原子炉の「炉心溶融」→「臨界爆発」への真摯な対応は当然であるが、民主主義をメルトダウンさせてはならない。

 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

飛鳥山に行かないで

弁護士鳥生忠佑先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1983年4月。北区長選立候補の時。社会党、社民連、共産党の推薦だった。左が都知事美濃部亮吉、左は社会党委員長飛鳥田一雄、場所は都知事室である。鳥生先生は50才。一度限りということで鳥生先生は自分が役に立てばと立候補した。
 東京北法律事務所は北区王子本町にある。飛鳥山の麓、王子神社の門前町である。江戸時代から桜と紅葉の名所で時代小説にはよく登場する所だ。王子神社の門前から一本隣、本郷通りに面した角地にメリヤス問屋「鳥生商店」があった。タオルで有名な愛媛県今治の出身の父清吉が開業し、手広く商売をやっていた。母トミの実家も山形の繊維業、東京に手伝いに来ていて清吉と結婚した。子どもは六人、鳥生先生は上から四番目である。一九三二年八月一一日、鳥生先生はそこで生まれた。満州事変と五・一五事件が起きた年である。今年七九才になる。

 生まれたその場所で法律事務所を開き五〇年、「鳥生商店」は「東京北法律事務所」になり、木造二階建ての靴を脱いで上がるあの事務所は二〇〇七年に「北法ビル」となった。三階に七〇人収容のホール、四階と五階が事務所である。父清吉は鳥生先生が二才の時に亡くなっているのに先生にはなんだか「鳥生商店」の旦那がよく似合う。「鳥生商店」で厳しく育てられた番頭手代は、みんな独立してそれぞれ実に個性的な弁護士業を営んでいる。亡くなった雁谷勝雄一七期、中村仁二二期。小野寺利孝一九期、高山俊吉二二期、梓澤和幸二三期、斉藤義房二六期、中本源太郎二八期、清水洋二九期、山本裕夫三一期、下林秀人三二期。本郷、四ッ谷、神田須田町、駒込、板橋、上野、巣鴨、後楽園、本店王子を要にしている様だ。この面々をみると「鳥生商店」の商いのやり方が脈々と息づいている。三つ子の魂百まである。「先生はどうやってこんな人たちを育てたんですか」「私はその人それぞれの個性と人格をよーく見るのです。そしてよい所を殺さないで生かす」反面教師と言っていた人もいた。「いろいろ聞いていますけど」と私が突っ込むと「ふふふふ。そのようなことをみんな言っているようだな」なぜかうれしそうな鳥生先生なのである。

 鳥生先生は右目の視力が全くなく、左足も不自由である。足が不自由なことは直ぐに気づくが目のことは一見分からない。顔全体に迫力があるのでどうも見えてるような気がするのである。実は忠佑君、三才で結核性の左関節炎と右眼角膜炎に罹患したのである。母トミの願いはとにかく生きのびてくれることであった。月二回の東大病院への通院はもちろん、加持祈祷まで病気によいと言われることは何でも試した。忠佑君は風呂場で絞ったまむしの生き血まで飲まされた。母の思いが叶って忠佑君はギブスをつけ小学校に入学。特別な机と椅子を教室に持ち込んで授業を受けた。四年の時やっとギブスがとれた。「昔はギブスで固定したの。これがたいへんでね」。

 一九四四年の四月忠佑君は母の故郷山形に疎開する。大事にされたが忠佑君にとっては心地良いものではなかった。翌一九四五年の二月、忠佑君一二才は王子へ帰って来てしまった。東京大空襲が来る。三月一〇日一〇万人が亡くなり、翌月四月一三日の夜にもB26の大編隊が王子の造兵敞から飛鳥山にかけて大量の焼夷弾をばらまいた。「今夜は、飛鳥山の防空壕に入ろうよ、忠佑」母トミと兄弟姉妹四人は飛鳥山に向かった。ところが石神井川にかかる音無橋にさしかかったときトミは突然「飛鳥山に行かないで、今夜は危ないから音無橋の下の壕のほうがいいと思うよ」と言った。飛鳥山の横穴式の防空壕はその夜、焼夷弾で多くが焼き払われた。一家は母トミの一言で生き残った。

 王子は一面焼け野原、すべてなくなっていた。住むところもなく一家は埼玉に疎開する。終戦の詔勅は田端駅ホームで聞いた。忠佑君はそこから中学に進学しそのまま高校に進んだ。王子に帰ったのは一九五七年である。長兄は早稲田大学を卒業してメリヤス問屋に勤務した後、「鳥生商店」を再開した。忠佑君は学習院大学政治経済学部に進学する。一学年下には皇太子がいた。学習院と鳥生先生はどうも結びつかない。「どうして学習院だったんですか」。「平和主義者の院長安部能成にひかれたこと。それに学習院は飛鳥山公園から都電一本で通えて楽でしたから」

 忠佑君が司法試験の勉強を始めたきっかけは学習院の法学研究会で「育ちの良さそうな同年配の青年」に出会ったことである。これが小田成光先生である。この二人の取り合わせも不思議である。小田先生が学習院初の司法試験合格者、二番目が鳥生先生なんだって。一〇期で研修所入所、卒業は手術で一年遅れて一一期となった。二度にわたる股関節の大手術が成功して研修所を出るときは鳥生先生は知力も体力も充実していた。

 一九五九年に弁護士登録し、一年間蒔田・松井法律事務所で修行。一九六〇年、生まれた所王子本町で開業する。長兄は原宿に移転して婦人服の仕事を始めていた。空き家になった木造二階建ての家の二階が事務所になった。鳥生先生はそこから動かず、そこをよりどころとして庶民のために共に闘う弁護士になるつもりだった。

 二〇〇九年六月、ノンフィクション作家の今崎暁巳さんが「北の砦 ルポルタージュ鳥生忠佑と北法律事務所」という本を日本評論社から出版した。鳥生先生の弁護士生活五〇年に合わせて出された。今崎さんは昨年亡くなってしまい、この本が遺作となった。同世代で北区の住民、鳥生先生とさまざまな運動を共にすることもあった。もちろん筆力もある。早稲田大学野村平爾の労働法ゼミの一員でもあった。こんな人に「いつか同時代のこの男についてルポルタージュを書いてみたい、そう思ってきた」なんて言われて鳥生忠佑は幸せ者である。「私たち北区民は鳥生の事務所を日常、『東京北法律事務所』とは呼ばない。親しみを込めて『北法律』と呼んでいる」。私たちもそうです。この本で活写されている様様な事件活動と闘いは、すぐ側で自分も参加しているような気持ちになる。鳥生先生や登場する弁護士のかっこいいこと。日頃の自分の弁護士活動とは次元の違う話である。ダメ弁佐藤としては反省しきりである。こんなことやれた北法律と鳥生先生を見直しました。「地域に根ざし、市民の権利を守る」五〇年はどう考えても鳥生忠佑という強烈な個性がなければ到達し得なかったと思う。

 「隠居しないのですか」と聞くと「ふっふ。まだしばらくは」仕事が趣味なんだって。「面白いですね。弁護士は」今事務所の番頭は青木譲三八期。席も鳥生先生の隣である。「先生が跡継ぎだって」と私が言うと、青木さんは何食わぬ顔で「はあ」と言っていた。五五期の坂田洋介、六一期の金井知明、六三期の長谷川弥生と続く。鳥生先生の可愛い孫の世代である。みんなよかったね。先輩はたいへんだったんだからね。
鳥生忠佑(とりう ちゅうすけ)
1932年東京生まれ。56年学習院大学政治経済学部卒業。59年弁護士登録(11期)。宮掘川管理責任追及事件、新幹線高架設置反対訴訟、公団住宅建替え事件、オリンピック病院開設阻止事件などに携わる。東京弁護士会副会長、日弁連司法問題対策委員会委員長などを歴任。「北・九条の会」代表委員。


時評●原発震災と最高裁判所

(理事長)久保田 穣

 五月三日の憲法記念日を前にした記者会見で、竹崎博允最高裁長官は、一連の原発訴訟のほとんどで、裁判所が国や電力会社の言い分を認めてきたことについて、次のように答えた、と報じられていた。
 「あらゆる科学の成果を総合し、原子力安全委員会などの意見に沿った合理的な判断がされているかに焦点を当て、司法審査してきたと理解している」(『朝日新聞』五月三日付朝刊)と。
 だが、原子力の「安全の確保に関する事項について企画し、審議し、及び決定する」(「原子力基本法」五条二項、「原子力委員会及び原子力安全員会設置法」一三条)とされた安全委員会は、独自の調査権限や機能を持たないことなどから、安全審査等を原発企業に依拠せざるをえないという、独立性や中立性を欠いた委員会であったことが明らかにされている(吉岡 斉『現代思想』五月号、伴 英幸『世界』五月号など)。
 安全委員会による審査審議が、オーソライズのための儀式にすぎず、実質的なチェックは果たされない安全審査なるものがまかりとおってきたからこそ、「人災」として福島原発事故が現出したと言えるのである(田中三彦『科学』五月号、桜井 淳『中央公論』五月号など)。
 竹崎最高裁長官の上記のような記者会見での答弁は、一連の原発訴訟をつうじて、最高裁が原子力安全委員会のそのような審査のありようを踏まえた実質的な司法審査を、そもそも行ってきたのかについて、改めて疑念を抱かせられる。
 最高裁は、原子力安全委員会を信頼性の高い科学技術専門組織であると無批判に前提にするなどして、一連の原発訴訟をつうじて、国の原子力推進行政を事実上あと押ししてきたと言える。一連の原発訴訟のリーディングケースに、現在もなっている伊方原発一号炉、および福島第二原発一号炉の、設置許可取消訴訟における最高裁判決(一九九二・一〇・二九最一小判)で、行政庁側の主張をそのまま採用して、原子炉設置許可の段階における安全審査の対象は、基本設計ないしは基本設計方針にかかわる事項に限られるとしていた。
 原発の危険の重大性を踏まえて、原子炉施設の安全性に関係するあらゆる事項について、計画の当初段階から、ひろく審査対象にすることを、免れさせていたのである。
 そして、そのような限定は、後続の原発訴訟における最高裁判決で踏襲されてきただけではなく、たとえば、高速増殖炉「もんじゅ」の設置許可無効確認訴訟における最高裁判決(二〇〇五・五・三〇最一小判)などに見られたように、安全審査の対象を基本設計に限定したうえで、どのような事項が基本設計における安全性にかかわる事項であるかも、「原子力安全委員会の意見を十分に尊重して行う主務大臣の合理的判断にゆだねられている」として、司法審査を放棄したに等しいような判断を示してきたのである。
 予断の許されない状態に依然としてある福島原発事故により、多数の人々の生命、身体、健康、そして環境という「何事にも代え難い権利、利益」 (「もんじゅ」差戻後控訴審、二〇〇三・一・二七、名古屋高裁金沢支部判)の侵害が、現実のものになってしまっているなかで、これまでの原発訴訟における最高裁の司法審査のありようは、今こそ深刻に反省されなければならなかったはずである。
 竹崎最高裁長官の上記の答弁には、そのような反省の片鱗すら感じられないものであった。

 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

マルクス主義法学の船に乗って

東京大学名誉教授藤田 勇先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

963‐64年、モスクワ留学時代の仲間と東京で同窓会。右から藤田先生、小原元(国文学者、評論家)、城田俊(ロシア語、獨協大学名誉教授)、丹辺文彦(ロシア語、愛知淑徳大学教授)、斉藤勉(日ソ学院=現東京ロシア語学院教師)、林基(中世史家)各氏。小原氏はモスクワの東洋語大学の、林基氏は科学アカデミー東洋学研究所レニングラード支部の招聘教授。
 二〇一〇年八月一五日、藤田勇先生は「マルクス主義法理論の方法的基礎」(日本評論社)のはしがきを書いた。二〇〇六年一一月に渡辺洋三先生が逝去したことがこの本をまとめるきっかけになった。二〇〇九年八月には長谷川正安先生が「渡辺さんの後を追うように鬼籍に入ることになった」。洋三先生は藤田先生の四才年上の尊敬する研究者で共に東京大学社会科学研究所で学び研究した。正安先生は二才年上「年はあまり違わないのに正安さんは僕が研究所に入るよりずっと前から論陣を張っていた」。三人とも戦争から生還、または召集解除で復員して研究者になった。「私はソビエト法と言う外国法を専攻領域にしていたせいばかりとはいえないが、発想が理論史に傾きがちだ」。共にマルクス主義法学の船に乗ってきた。一九二五年生まれの藤田先生は八五才、「残された時間は少ない」とおっしゃる。昨年八月一五日は、藤田先生が中国東北部図們から延吉に向かう途中の三叉路でソ連軍を迎え撃とうとしていたその時から六五年目の夏であった。

 藤田先生は朝鮮咸鏡北道羅南市で生まれた。父は蚕糸専門学校で養蚕を学び、養蚕技師として原蚕種製造所につとめていた。咸鏡北道の各農村から青年男女を集めて養蚕の講習をしていた。母は実践女子学園で和裁を学び朝鮮羅南女学校で裁縫の教師をしていた。共に新潟県の佐渡の出身である。姉と二人の弟がいる。勇君は三才のとき母の実家佐渡加茂村の高橋酒造に預けられ、祖母に育てられた。加茂村の尋常小学校に入学し二年まで通い、三年になるとき家族の下に帰った。鏡城小学校に転入して一五才まで鏡城で育った。小学校も旧制羅南中学も日本の植民地の学校で勇君は朝鮮の人々の暮らしにも、人々にも直接触れることなく生活をしていた。一度だけ朝鮮人の子どもに挑まれたことがあった。「ここはお前たちの国ではない。お前たちは自分の国イルボンに帰れ」と言って突っかかってきた。勇君が組み伏せると相手が泣き出した。「ここはお前たちの国ではない」という叫びを「私は、じつのところ当時よく理解できず、だから言い返すこともできなかった。そのことについて両親や先生に聞くこともしなかったが、幼い胸に一つの棘として残ることになった。この時の状景はありありと想いうかべることができる」。

 一九四一年四月、勇君は高田市で勤務医をしていた叔父の家に寄宿して高田中学四年に転入する。「内地の高等学校から帝大へ」との母の強い思いで決められたことだったようだ。一生懸命受験勉強をし、次の年旧制新潟高校文科甲類に入学する。寮に入り、文学書を読み、大正教養主義の本を読んだり西田哲学をやったりしていた。戦況も厳しく二年半で卒業となる。一九四四年の一〇月東京帝国大学法学部政治学科に入学する。法学部は六〇〇名の新入生だった。

 戦況は厳しく、勇青年は高校時代からこの戦争は負けると思っていた。そういう高校の教授もいた。しかし徴兵は避けられるはずもなく、行けば死が待っている。大学に入学して半年後一九才で徴兵。「すべては終わりだ」と覚悟した。一九四五年三月、仙台に入営し、五月には生まれ故郷の羅南の自動車隊に転属となる。ひさしぶりの生誕の地だった。

 鉄拳制裁もある軍隊だったが、東京帝国大学生の弱兵勇青年を助けてくれる人も多かった。何とかソ満国境にたどりつく。八月一五日、前記の三叉路でソ連軍を待ち受けた。みんな日の丸のはちまきをした。勇青年の頭は真っ白、いよいよ死ぬしかないと思った。ソ連兵はやって来なかった。昼過ぎに白旗を掲げた日本軍の車がやって来た。「死ななくてよい」。その日はとにかく眠った。そして次の日、ソ連軍に投降することになる。間一髪の終戦だった。八月一六日仮収容所の穴を掘っただけのトイレで月を仰ぎながら「日本は文化国家になる」としみじみうれしかったという。

 その時から一九四九年一一月舞鶴に復員するまで四年三カ月勇青年はハバロフスク、フルムリ地区の捕虜収容所を振り出しに抑留されることになる。一九才から二四才青春のときである。腎臓の病気を抱え、体力もない勇青年は強制労働に向かなかったため、かろうじて生き続けることができた。なんと言っても東京帝国大学のインテリ学生である。労働はダメでも勉強は好きである。フルムリ地区の収容所で開かれる学校に通うことになる。できが良いのでハバロフスクの学校までいく。学んだのは弁証法的・史的唯物論、政治経済学、日本事情、ソ連事情、レーニン主義の『基礎』及び『諸問題』(スターリン)、国際情勢等。講師は日本人だった。勇青年は収容所で壁新聞作りもやっていた。幸運であった。

 復員後大学に戻った。日本に帰ったら資本論をじっくり読んでみようと思っていた。一九五一年か、社会科学研究所のソビエト部門の助手にならないかと山之内一郎先生から誘われた。シベリア抑留が目にとまったのかも知れない。助手ならば給料ももらえる。やり遂げられるかは分からないが学問の道も悪くない。この時藤田先生の進むべき道が決まった。山之内先生のもとにはじめて伺ったときの指示は「プラウダ」の一論説を翻訳せよだった。ところが藤田先生はシベリアに四年もいたのにロシア語がまったくできない。それをいうと山之内先生は「いやできるのです」と断言された。藤田先生は腹をくくってロシア語の勉強とプラウダの記事の翻訳を始めた。二五才、遅い出発だった。

 社会科学研究所は経済学や政治学、法学など研究分野が広い。とりわけ経済学の分野から藤田先生は大いに刺激を受ける。一九五八年には研究所の助教授になる。一九六二年九月から一九六四年七月まで二年間モスクワ大学法学部に留学しソビエト法理論史の研究を深める。一九六九年に教授になり、一九八〇年から八二年まで社会科学研究所の所長を務めた。専門分野の論文や著作は言うまでもなく、退官後は神奈川大学で教鞭を執り、民科法律部会事務局長、法社会学会理事、日ソ協会理事長、日本ユーラシア協会会長、国法協会長、非核の政府を求める会世話人、などその活動はひろい。

 お住まいは大船の高台にある。もともとは鈴木圭介先生の所有地で一九七六年、藤田先生が移って来た。土地の値段は渡辺先生が鶴の一声で決めたという。一本道の向こうは鎌倉市である。小高い丘がいくつもある。笹や雑木が風に揺れる。

 「季節で丘の色が変わるんです」。大船の駅で、待ち合わせ時間のかなり前から待っていてくれた藤田先生。「近くに美味しいそばやがあって、予約しようと思ったんだけど土曜日でダメでした」。風が吹き抜ける応接室には書庫からあふれた本が積んである。一角には渡辺洋三先生の本がまとめてあった。
藤田 勇(ふじた いさむ)
1925年朝鮮羅南生まれ。52年東京大学法学部卒業。
東京大学社会科学研究所教授、神奈川大学法学部教授を歴任。現在、東京大学名誉教授。
著書「ソビエト法理論史研究」(岩波書店)、「法と経済の一般理論」(日本評論社)、「自由・民主主義と社会主義」(桜井書店)、「マルクス主義法理論の方法的基礎」(日本評論社)など多数。

創立50周年記念●平和・人権の確立と司法の民主化をめざして
記念特集の発刊にあたって………編集委員会
■次世代へのメッセージ
◆恵庭・長沼裁判の担当者として伝えたいこと………内藤 功
◇恵庭・長沼裁判の闘いのバトンをつなぐ………川口 創
◆将来世代の弁護士さんたちへ………大久保賢一
◇世代を超えた対話・交流を………森 孝博
◆高く掲げよう「ヌチドゥ宝」………新垣 勉
◇米兵犯罪に泣き寝入りはしない………中村晋輔
◆「あんな戦争は二度とやってはならない」との決意に生きて………根本孔衛
◇過ちを繰り返させないために………小賀坂徹
◆定数削減を阻止し、憲法の生きる日本を………坂本 修
◇共に歩み続ける先にこそ未来が………神保大地
◆法律家と「怒り」………森 英樹
◇法律家のネットワーク力………小沢隆一
◆法律家の生き甲斐………澤藤統一郎
◇先輩法律家の存在に励まされながら………清水雅彦
◆憲法25条を武器に………新井 章
◇原点は「朝日訴訟」、武器は「25条」………渕上 隆
◆患者の権利運動と法律家の役割………鈴木利廣
◇患者の権利運動と鈴木先生………大森夏織
◆司法は裁かれていない─ハンセン病問題と法律家の責任………徳田靖之
◇「やましき沈黙」からの脱却………野間 啓
◆行政に理不尽があったら、「オブジェクション!」………高橋利明
◇よみがえれ!宝の海・有明海………後藤富和
◆バトンに託す深い思い──中国人戦後補償裁判闘争………小野寺利孝
◇バトンは彫琢してこそ──弁護士の職務領域を越えた価値………福留英資
◆子どもの権利の拡充のために──土佐高校落雷被災事件………津田玄児
◇当事者に学び、当事者に寄り添う………佐藤香代
◆公害根絶・環境保全を求めて………豊田 誠
◇3・11からはじまる公害根絶・環境再生への取り組み………大江京子
◆「生きがいと希望のもてる社会を」―─貧困問題の取り組みを期待する………宇都宮健児
◇大震災も貧困も乗り越えてゆこう 弁護士自治の旗は掲げて………及川智志
◆消費者運動・市民運動こそが日本の民主政治を支える………木村達也
◇高利貸金業被害から反貧困運動への展開………辰巳裕規
◆市民による企業の非常識に挑んで―─株主オンブズマンの経験から………阪口徳雄
◇株主の権利弁護団から──株主・市民の常識の受け皿として………前川拓郎
◆政教分離訴訟を闘って30年………加島 宏
◇バトンなんか、受け取らない………康 由美
◆「貧困からの解放」から「教育・教科書の自由の獲得」への課題………俵 義文
◇教育・教科書の自由と法曹の責任………穂積匡史
◆公立学校での「日の丸」「君が代」強制に抗する訴訟………加藤文也
◇子どもたちの心を守り、自由で暖かい社会を取り戻すたたかい………黒澤いつき
◆メディアの民主化を目指す法律家の活動とその展望………梓澤和幸
◇市民メディアの発展によりメディアの民主化の実現を………加藤 幸
◆差別の根絶をめざして………中山武敏
◇励ましでも謝罪でもなく──差別根絶のためにやるべきことは………金 竜介
◆坂の上のキノコ雲………安田純治
◇大地に足をつけて………渡部容子
◆被爆者の目で原子力災害を捉え原爆記憶を世界遺産に………池田眞規
◇核時代をヒバクシャとして生きる弁護士を目指して………徳岡宏一朗
◆破壊から学ぶ転換………佐々木猛也
◇未来世代の希望を預かる責任………河上暁弘
◆核兵器と原発の廃絶を………浦田賢治
◇いかに受け継ぐか ヒロシマ、ナガサキ、そしてフクシマ………山田寿則
◆原発裁判30年──過ちを繰り返さないために………海渡雄一
◇原発安全神話への挑戦──島根原発差止訴訟から学んだこと………林 一蔵
◆次世代への希望について──被災地からの願い………庄司捷彦
◇もう一つの被災地から──絶望を乗り越えるために………渡邊 純
◆刑事司法が学者に求めるもの………川崎英明
◇嵐のなかの刑事訴訟法学………渕野貴生
◆嗚呼 冤罪………秋山賢三
◇「防ぐ人」たらんと欲す………阿部 潔
◆冤罪事件の責任………柴田五郎
◇冤罪からの一刻も早い救出を………佃 克彦
◆陪審問題について………石松竹雄
◇市民による陪審制度の再開のために………石塚伸一
◆裁判員制度をどうするか………五十嵐二葉
◇「裁判員裁判」に命を吹き込む………永瀬英行
◆あのころ裁判官たちは何を考えていたか………宮本康昭
◇裁判官に時間と心のゆとりを………竹内浩史
◆裁判官の自由のために──寺西事件と日独裁判官物語………高見澤昭治
◇被疑者の自由のために──令状審査に力を注ぐ………寺西和史
◆司法改革はどこからきたか………大川真郎
◇これから改革すべきものは?………米倉洋子
◆日本の司法に憲法の輝きを法曹一元制度を導入しよう………鳥生忠佑
◇原発・震災被害者の人権の砦となる司法に………南 典男
◆最高裁裁判官国民審査の再生めざし………鷲野忠雄
◇最高裁裁判官国民審査について悔い改めた私………西川伸一
◆司法改革法案等の立法作業に関与して………佐々木秀典
◇激動する民主主義の力にふさわしい国会を………仁比聡平
◆後世代に遺したい言葉………渡辺 脩
◇在野法曹の真の価値を受け継いでゆくために………泉澤 章
◆「法律家」間の社会的分業………江藤价泰
◇時代にあった法律家間の分業を目指して──「落ち穂拾い」から「生活支援」へ………稲村 厚
◆司法の民主化と全司法労働組合………吉田博徳
◇先輩たちの司法民主化の先駆性をいかして………門田敏彦
◆「役に立つ税法学」を求めて………浦野広明
◇納税者の権利の確立を目指して………望月 爾
◆働く者の「団結」の再生を………宮里邦雄
◇権利意識の覚醒から団結の再生へ………佐々木亮
◆家事事件が映しだす社会………平山知子
◇それぞれの「使命」を受け止めて──暴力・戦争の根絶と脱原発をめざして………岸 松江
◆好奇心とプラス志向で!──女性の弁護士として思うこと………久米弘子
◇「好奇心とプラス志向」持ち続けます!──「家庭と仕事」の輪の中で思うこと………長尾詩子
◆少年法の危機と弁護士付添人の重要性………斎藤義房
◇少年たちと真摯に向き合いたい………伊藤由紀夫
◆家裁に働く仲間の皆さんへ………浅川道雄
◇家裁発足理念をいま一度………小林一善
◆地方に法律事務所を構えて………金野和子
◇地方で市民のニーズに応えていきたい………江野 栄
◆土佐に生きて──往事茫々………土田嘉平
◇地域の人権の開拓者として………加藤 裕
◆歴史の旅………上条貞夫
◇未来に続く喜びの歩み………三浦直子
◆『ニュールンベルグ裁判』と『大日本帝国』──若き法曹に観て欲しい映画………内田雅敏
◇そのとき何処にいたのか──映画『ニュールンベルグ裁判』を見て………井堀 哲
◆戦争の歴史を語り継いでほしい=平和博物館の営みから………野間美喜子
◇うけとめ うけつぎ 語りつぎ………市田真理
◆三つの震撼すべきことと法律家の国際連帯………新倉 修
◇人権の視点での国境を越えた発信を………田部知江子
◆難民・外国人事件を受けるあなたへ………渡邉彰悟
◇外国人・難民が人として尊重される社会を目指して………本田麻奈弥/小田川綾音

記念論稿●日民協の50年とこれから(Ⅰ)………久保田 穣
年表●この10年(2001年~2011年)の日民協のあゆみ
資料●「法と民主主義」(創刊号~460号)総もくじ
インフォメーション●DVDの活用について
付録●創立50周年記念「法と民主主義」DVD

 
創立50周年記念●平和・人権の確立と司法の民主化をめざして

記念特集の発刊にあたって
 日本民主法律家協会の生年月日は一九六一年一〇月七日である。
 この日の午後、日弁連会館の講堂で開催された創立総会への参加者は六六名。原始会員は、自由法曹団・総評弁護団・青年法律家協会の三団体(二年後には、全司法労働組合が加盟)と個人会員二〇一名であった。選任された代表理事は九名、海野晋吉ら弁護士のほかに、野村平爾、末川博、平野義太郎、恒藤恭、戒能通孝ら学者の名がならんでいる。
 知られているとおり、空前の国民的運動となった六〇年安保闘争の一翼を担った法律家部門の統一戦線組織が「安保改定阻止法律家会議」となり、その発展的な改組としての日本民主法律家協会の誕生であった。設立総会において掲げられた協会の目的は、「独立と平和と民主主義を確立し、人権の擁護と伸長をはかる」である。

 以来、協会はこの目的に添って、憲法擁護、平和と民主主義と人権の確立、そして司法の民主化を求めてその歩みを継続し、今秋創立五〇周年を迎える。本号は、この五〇年を振り返り、新たな五〇年に踏み出すにあたっての記念特集である。
 この五〇年間、まことに多様多彩で豊富な法律家の活動があった。多面的な課題に、創意に満ちたさまざまな活動が積み重ねられてきた。そして今、世代を超えたその経験と成果の承継が大きな課題となっている。
本号では、「次世代へのメッセージ──時空を超えた書簡集」を企画した。誇るに足りる法律家活動の成果とその承継とを確認しようとする試みである。
 編集委員会はしかるべき会員・読者に、次の依頼をした。
 「記念特集号の企画では、先進会員・読者の寄稿を『次世代へのメッセージ』として誌面に掲載するとともに、そのメッセージの神髄のしかるべき受け手を探して、受け手の寄稿と併せて、『時空を越えた書簡集』とする誌面構成を考えています。
 まずは、次世代に伝えるべきメッセージをしたためてください。編集委員会が、いただいたメッセージの受け手として最もふさわしい方を全国から探してお届けし、これを受けとめてもらって、実践承継の決意を書いていただくようお願いいたします。もし、ぜひこの人に、この団体へなど、受けとめて欲しい次世代が具体的に思いつく方には、その旨明記いただけると幸いです」。

 この要請に応えて寄せられた五十余通のメッセージと、これを受けとめた若い世代の「時空を超えた書簡集」をご覧いただきたい。
 メッセージの発信者を「sender」、これを受け止めた返信者を「recipient」と表示した。貴重な荷物の「送り主」と「受け手」というイメージを込めてのことである。是非とも、両者の往復書簡の心地よい響き合いを感得していただくようお願いしたい。そのハーモニーこそ、世代を超えた民主的法律家活動の経験と成果との承継の証しである。

 次いで、久保田穰前理事長の「日民協の五〇年とこれから」(Ⅰ)を掲載した。日民協創立の経緯から、一九六〇年代、七〇年代、八〇年代の協会活動の詳細な歴史である。紙幅の都合上九〇年代以後は次号の掲載となるが、創立当時の日民協の息吹を伝えて、「新たな半世紀に向けて、協会活動を発展させていく上での手がかりを模索」するための労作である。

 そして、「法と民主主義」創刊号から四六〇号までの全目次を掲載するとともに、「創立五〇周年記念『法と民主主義』DVD」を付録とした。ともに、貴重な記録であることの自負をもってのことである。
 本特集が、世代を超えた新たな法律家運動の起点となることを願いつつ、会員・読者そして、協会と「法と民主主義」を支えて下さった方にお届けする。 

特集★教育をめぐる危機と展望

特集にあたって
 二〇一一年は、「日の丸・君が代」の強制をめぐる訴訟での相次ぐ最高裁判決、二〇一二年度から使用する中学校教科書の採択、大阪府における教育基本条例の制定の動きなど、教育をめぐるさまざまな問題が生起した年であった。二〇一二年の年頭に当たり、一月一六日にも最高裁判決が下された今、教育における自由と民主主義を守る運動の到達点を踏まえ、これらの問題を総合的に検討するのが、本企画の趣旨である。
 日本国憲法のもとでの教育をめぐる主な対抗軸は、長らく、教育の国家統制をもくろむ政権党と文部省(現文科省)に対して、教職員組合やこれと連帯する市民が「国民の教育権」を掲げてとりくむ運動によって形作られてきた。その中で「国民の教育権」論は、子どもの学習権、その保障である「私事」としての「親義務としての教育」の共同化・組織化、教育専門職としての教師の教育の自由などのコンセプトを含んで展開されてきた。
 現在の教育をめぐる危機は、政権党や文科省が前面に立つ動きではなく、地方自治体や市民社会のレベルを震源地とする政治的動きによって作り出され、またその動きが、競争主義的な状況の下での親・住民の教育要求に沿うかのような形で提起されるなかで生じている。それは、中央・地方の政治権力、経済社会・地域社会にまたがる市民社会、それらとの関係における教育という営み、これらの「関係構造」の深い把握を求めている。
 冒頭の杉原・佐貫両氏の論文では、今日の時点に立って「公教育の憲法論」、「国民の教育権」を根本からとらえる理論構築の重要性が強調されている。それに続く他の論考は、この間教育の世界で生起してきた諸問題、それらをめぐる裁判や市民運動の動向などについての貴重なリポートである。
「法と民主主義」編集委員会 小沢隆一


 
時評●二つの国民的経験から何を学ぶか

(一橋大学誉教授)渡辺 治

 二〇一一年に、私たちは二つの国民的といってよい経験を持った。一つは、〇九年から始まっている民主党政権という国民的経験、もう一つが、三月一一日の大震災、原発事故の経験である。
 まず民主党政権。いささか色あせた感があるが、戦後六七年の歴史で、単独野党が国民の多数の支持を得て政権交代した経験は実は初めてのことだ。
 この経験は、私たちに二つの教訓を与えた。一つは、運動が政治を変えられれば、福祉や国民生活を前進させる政策は実現するという確信である。自公政権が存続していたら、高校授業料無償化一つ実現していたであろうか。生活保護の母子加算復活も、農家戸別所得補償も…。また、米軍基地の国外退去は政府の決意次第で可能なことも国民は知った。自民党政権が長年否定し続けた「密約」も公開された。
 しかし、民主党政権はもう一つの教訓ももたらした。民主党マニフェストのような、選挙目当てのトッピングの政策では、構造改革政治に終止符をうち、格差と貧困、日米軍事同盟を代えることなど覚束ないということである。それには、安定した雇用と社会保障を二つの柱とする新たな福祉国家型の体系的対案が不可欠であると言うことだ。
 3・11という国民的経験は、耐え難い犠牲をともなって、私たちにこれまた三つの教訓を与えた。
 第一の教訓は、大震災の被害の深刻化、復旧の遅れにも原発事故の発生にも、それまで自民党政権が推進してきた大企業本位の政治、さらにそれを右から再編した構造改革政治が大きな原因となっているということである。被災地東北は震災によって、それまでの幸せな生活が突如奪われたわけではない。震災のはるか前から、構造改革により公共事業が打ち切られて雇用は失われ、地方自治体財政の赤字で公務員のリストラ、医療・福祉・介護施設の統・廃合が進んでいた。釜石で市民病院が統廃合され、「医療崩壊」が騒がれたのは、二〇〇七年のことであった。そこに津波が襲ったのである。原発事故も同様だ。地場産業も農業も崩壊し財政赤字に悩む「僻地」に、電源三法交付金、固定資産税などのカネ、原発がもたらす雇用をえさに、地域の安全など一顧だにせず導入を強要した産物であった。
 第二の教訓は、民主党政権による構造改革型復旧・復興政策が、復旧・復興の異様な遅れと困難を倍化しているということである。東日本大震災の復旧・復興は、阪神淡路型の大型公共事業投資優先の復旧・復興の害悪と構造改革型復興の害悪が合流して現れた。財界の圧力で、国は徹底して財政出動を渋り、赤字に悩む地方自治体に丸投げしたから、瓦礫処理、仮説建設は遅れに遅れた。おまけに乏しいカネは、大型ゼネコンに丸投げされた。地域のイニシアティブは、上からの構造改革型復興構想につぶされている。
 したがって、第三は、3・11からの真の復旧・復興には、構造改革政治に終止符をうち福祉国家型の地域づくりが不可欠だという教訓である。被災地の復旧には、被災前に戻すだけではなくさらに、構造改革により破壊された医療・福祉・介護・公務公共サービスを拡充しなければならないし、地場産業、農業による福祉型地域経済の建設が必要だ。原発からの脱却にも、原発に代わる自然エネルギーの開発だけでなく、エネルギー多消費型産業構造の変革、原発に依存しない地域の建設が不可欠となる。
 二つの国民的経験が提起したのは、新自由主義・構造改革型政治の脱却のための対案の提示とそれを実現する政治の緊急性であった。しかし、この課題はひとり日本のみでなく、大統領選挙を抱えるアメリカ、EUの諸国を含めた世界の国々が、実現しなければならない、二〇一二年の世界共通課題でもある。
 新自由主義・構造改革政治打破は、まだどこの国でも成功していない。それに、真っ先に風穴をあけることが、これだけの経験をした私たちに課せられた責務である。私はそう思う。

 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

たたかってこそ明日が

弁護士菊池 紘先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1972年。1964年8月。原水禁世界大会に参加後、立命館の今はなき広小路キャンパスにあった「わだつみの像」の前で。
 菊池紘先生は一九四二年ハルピンで生まれた。世界を天皇のもとにひとつの家とする「八紘一宇」の「紘」である。「加藤紘一、中村紘子と聞くと、ああ同じ世代だな、とすぐに分かるのです」。後に結婚する二才年下の同郷の妻は征子である。共に戦争の時代に産まれた。
 父も母も岩手出身の教師だった。若い夫婦は希望の地、満州国にわたった。長男は内地生まれ、次男と紘君と妹が満州生まれである。一九四五年八月一五日に終戦。一家は引揚者となる。三才の紘君は一〇才の長兄に背負われ、生まれたばかりの妹を母が抱え、満州を後にする。紘君はマラリアに罹り、妹は栄養失調で亡くなってしまう。「僕は当時のことはなにも覚えていない。父も母も話さないので」。
 一九四六年佐世保にたどりついた一家は盛岡に戻る。父も母も教師に復職し、四才の紘君は祖母が面倒をみてくれていた。母が日直の時には一緒に学校に行っていた。地元の小学校に入学、四年の時に岩手大学教育学部付属小学校に編入し中学まで通学。付属は人数も少なく手厚い教育を受けた。そしてバンカラで有名な盛岡一高に進む。二学年下に坂井興一弁護士と妻征子がいた。小田中聰樹先生は長兄と同学年で秀才で有名だった。岩手県下の秀才が集まる盛岡一高で紘君は一年間はよく勉強したが二年になると勉強に興味を失い失速。スキーに夢中の次兄と違い当時は書斎派だった。六〇年安保は高校時代で、紘君は「世界」なども読む硬派の高校生だった。
 長兄は教育大へ進学し心理学の研究者をめざし、次兄は遠く京都大学に進学しスキー部へ。紘君は近場の東北大学法学部へ進学する。「何となく法学部だとつぶしがきく」。東北大学の法学部は一五〇名の小所帯。自治会再建運動を横目で見ながら大学生活が始まった。友人たちに乞われて、「原潜寄港阻止」などよく看板を書いていた。少しずつ自分の生きる道が見え始めたころ、紘君はある大会で被爆者の話を聞くことになる。
第一〇回原水禁世界大会である。一九六四年八月三日の午後八時、京都府立大グラウンド、「立つことさえできぬ体を、母に抱かれて」被爆者渡辺千惠子さんは「私たちが訴えなければ、原水爆の恐ろしさを誰が訴えるでしょう」。三万五〇〇〇人の人々に静にしみわたった。紘君はその時「できることなら額に汗して働く者の立場に立つ弁護士として努力したい」と決意する。菊池先生の原点はこの日にある。
 一九六五年、紘君は盛岡に帰って受験勉強に専念する。その年に合格し二〇期となるのである。「自己正当化の詭弁の『教養』ほど唾棄すべきのはない」一九六八年四月二〇期会「きずな」六号。それから四五年、菊池先生はちっとも変わっていない。
 一九六八年四月、菊池君は青柳盛雄法律事務所に入所する。一九六九年には青柳盛雄弁護士が衆議院議員に当選し政治活動に。一九七〇年に城北法律事務所となる。菊池先生は「四〇年余りこの事務所で、働く人々の権利と自由を守る裁判に加わってきた」。石川島播磨の解雇・差別争議でも苦闘の全面勝利した。そして二〇一〇年六月には国鉄分割民営化の解雇事件一〇四七人の闘いで「二三年の苦闘を経て、勝利解決した」ことがうれしいという。「ここ数年は、金属や郵政で働く人々の雇用と権利を守るたたかいや、派遣村など格差と貧困の問題に取り組んでいる」。ライフワークだった労働者の言論を守るたたかいは堀越事件、世田谷事件とが最高裁にかかっている。当事者と共に闘い続けているのである。そして二〇〇九年秋から自由法曹団の団長に就任し、九〇周年の記念行事を賑々しく祝い、二年の任期を終えた。
 今、城北法律事務所は池袋駅西口近くのビルの五・六階にある。弁護士二一名事務局一五名の大事務所になった。懐が深く、幅も広い。多様な人材を育て、事務所の創立理念である地域の労働運動・住民運動を支えながら活動分野の拡大も図ってきた。一番上の小林幹治弁護士と菊池先生が事務所の屋台骨である。半分が五〇期以降の登録弁護士で、それぞれがよしとする分野で生き生きと活動している。
 インタビューにうかがったのは土曜日の午後。何人もの弁護士と事務局が和気あいあいと仕事をしている。亡くなった嶋田隆英弁護士とそっくりな息子の嶋田彰浩弁護士もいる。「ほんとによく似てるよね」お母さんのような事務局の人がしみじみという。事務局も弁護士も家族のように遠慮がない。菊池先生も「うちのおとーさんさー」と言われている感じである。弁護士の執務スペースは机と本棚が置けるブースになっている。「ちょっと失礼、見せてね」とぐるりと一周させてもらう。「ぎょえっ」と驚く惨状の方、弁護士も書類の山の一角になっている。頭も机もすっきりとしている方。おやぬいぐるみが一杯。それぞれの弁護士の氏名と照らし合わせて「家政婦が見た」の気分だった。菊池先生のところはちゃんとしています。おや私の一期下の小薗江先生がピーナツを食べています。彼が上から三番目の弁護士になってしまいました。お互いに年をとりましたね。わが同期の佐々木芳男弁護士はこんな狭いスペースでどうやっていたんだろう。「佐々木君は事務所に入った途端に『打倒菊池』って言ってね」。言ってみたかっただけなのです。菊池先生がいたから佐々木君はがんばれたのです。どこかから「むっちゃん、なに今日は」と声が聞こえそうである。
 菊池先生の妻征子さんは定年まで都立高校の国語の教師をしていた。二人の娘を育て、忙しい菊池先生を抱え、都高教の女性部長まで務めた。そして、もちろん不起立、「日の君」の原告でもある。「僕はえらくないんですが妻はえらい人なんです」。保育園の前に家を買ったという菊池夫婦。「僕なんか朝、子どもを保育園に送るだけだった。ダメですね」。夫婦の共通の趣味は登山とスキーである。征子さんはお茶大の登山部、菊池先生は国労の人たちとスキーにのめり込んだ。二級までとってカービングになったので一級は止めたんだそうです。ゴルフはやらない。今年も野沢で滑ってきたという。
 今年七〇才になるというのに気持ちは五〇才である。白髪にはなったが贅肉もなく元気そのもの。
 3・11、福島原発事故を経て「この国の社会と政治のありようを根本から問われている」のだという。まだまだ出番ですよ、先生。
菊池 紘(きくち ひろし)
1942年生まれ。東北大学法学部卒業。1968年弁護士登録(20期)。石川島播磨重工の解雇・差別争議、全動労採用差別事件、明治乳業差別争議事件、メーデー事件、選挙弾圧事件などに取り組む。
著書「小選挙区制 憲法はそれを許さない」(1991年、学習の友社)、「私たちには、こんな権利がある」(共著、1996年、新日本出版社)等。



特集★原発災害を絶対に繰りかえさせないために(パートⅢ)──脱原発と被害回復に向けた法律家の取組み
特集企画にあたって………高見澤昭治
◆「脱原発」と日本国憲法──ドイツの経験と日本の展望………広渡清吾
◆脱原発弁護団連絡会議の役割と今後の課題………河合弘之
◆泊原発廃炉等請求訴訟──「相対的安全性」との闘い………菅澤紀生
◆大間原発差止訴訟──3・11その日以降の私たち………森越清彦
◆東通原発と核燃施設──その危うい現状………浅石紘爾
◆東海第二原発訴訟──提訴に向け運動の拡がり………萩野谷 興
◆浜岡原発──3・11以降の控訴審の動き………青木秀樹
◆浜岡原発新訴──原発の「安全」を主張できない中部電力………栗村香奈子
◆柏崎・刈羽原発差止訴訟──提訴の気運高まる………水内基成
◆志賀原発──強まる反原発・脱原発の動き………岩淵正明
◆福井原発──様々な人たちが様々な形式で訴訟を………井戸謙一
◆島根原発訴訟──「仕切り直し」裁判の様相を呈する控訴審………水野彰子
◆上関原発──「反原発」の結束を強める島民たち………嶋田久夫
◆伊方原発──全ての原子炉の運転差止を求めて………薦田伸夫
◆玄海原発──1?4号機訴訟の現状と課題………冠木克彦
◆九州玄海訴訟──圧倒的多数の人々とともに脱原発を………東島浩幸
◆川内原発訴訟──被害の甚大性と事態の不可収束性を問う………大毛裕貴
◆福島原発被害弁護団の取組み………米倉 勉
◆原発事故被災者支援弁護団(東京)の報告………丸山輝久
◆原子力損害賠償への日弁連の取組み………出井直樹
◆双葉町弁護団について………荒木 貢
◆子どもたちの権利を守る法律家ネットの活動………井桁大介
◆子どもの避難を求めた裁判でも機能不全を露呈した司法………柳原敏夫
◆原発労働者の労働実態………水口洋介
◆東電株主代表訴訟………河合弘之

 
原発災害を絶対に繰りかえさせないために(パートⅢ) ──脱原発と被害回復に向けた法律家の取組み

特集にあたって
 東日本大地震と福島第一原発事故から、ちょうど一年が経過した。
 野田総理大臣は、昨年一二月一六日、「原子炉は冷温停止状態に達した」として事故の収束宣言をしたが、相変わらず不安定な状態にあり、史上最悪のレベル7とされた原発事故の影響はなおも甚大な被害をもたらしつつある。
 本誌は、未曾有の取り返しのつかない災害をもたらした原発事故に鑑み、「原発災害を絶対に繰りかえさせないために」という共通表題の下に、昨年六月号で「各地のこれまでの取組みと司法・行政の責任」を、また七月号で「原発被害の実相と今後の課題」を特集したが、本号はそのパートⅢとして「脱原発と被害回復に向けた法律家の取組み」に焦点をあて、特集を企画した。
 冒頭、法律家としてこの問題に取り組むにあたっての基本的な考えないしは姿勢はどうあるべきかについて、広渡教授に「『脱原発』と日本国憲法──ドイツの経験と日本の展望」を論じていただいた。福島原発を契機にドイツがすばやい対応を示した原因や背景が紹介され、今こそ平和主義と生存権に基づいて「脱原発」への取組みの重要性が指摘されている。日本国憲法との関係で原発問題をどう考えるべきかについては、名古屋学院大学の飯島講師から早くに「投稿」を寄せられていたので、これも本号に掲載した。
 本号では、特に深刻な実態を前にさまざまな取組みがある中で、弁護士など法律家が裁判所を利用し、あるいは現地に入って、市民と共に現に何をし、これから何をしようとしているかを中心に、その取り組み状況を報告してもらうことにした。超多忙であるにもかかわらず、それぞれ現状と今後の課題を纏めていただき、感謝にたえない。
 とくに、電力不足や料金の値上げを理由に、ストレステストを梃子にして停止中の原発を再起動させようとしている電力会社と政府の動きが強まりつつあるだけに、福島原発事故を契機に発足した脱原発訴訟全国連絡会に結集し、各地で精力的に取り組まれている裁判については国民の関心も高く、その成り行きが注目されている。各地ではそれなりの報道がなされているであろうが、本誌によって脱原発弁護団全国連絡会の役割と今後の課題を紹介してもらうとともに、各地の弁護団から裁判所内外での最新の取組みの状況が報告されており、その意義は大きいと思われる。
 次に、原発事故による被害をどうとらえ、これを早急にしかも全面的に如何に救済するかについて、日弁連の取組みに加え、現地に何度も足を運び精力的に取り組んでいる三弁護団からそれぞれ報告をいただいた。ほかにも多数の弁護士が現地を訪れ、あるいは緊急避難区域や計画的避難区域などから避難した方たちを対象に、各地の弁護士会などが相談会を開いたり、あるいは弁護団を結成して取組んでいる動きもあるが、紙面の関係で省略せざるを得なかったことを了解いただきたい。
 さらに、最も放射線の被害を受ける子どもたちを護るために、いち早く郡山市を相手に「放射能から安全な場所で教育をせよ」を求める仮処分についての経過と結果、およびこれとは別に「子どもたちの権利を守る法律家ネット」の活動を報告してもらった。
 また、原発事故で最も過酷な状況の中で懸命になって働かざるを得ない「原発労働者の実態」について労働弁護団から、さらに危険性を知りながら原子炉を稼動し続けたためにこのような悲惨な事態をもたらした東京電力の歴代経営者の責任を追及するための株主代表訴訟について河合弁護士から、それぞれ報告をいただいた。
 日本民主法律家協会ではこれまで日本科学者会議と日本ジャーナリスト会議の協賛を得て、外の四法律家団体と共同で「福島原発災害連続講座」を五回にわたって開催してきた。またこの四月七日と八日には、福島大学を会場に、「『原発と人権』全国研究・交流集会in福島」を計画し、その成功が期待されている。
 本特集が、福島第一原発事故の全面的な被害回復とともに、日本が脱原発に向けて大きな展望を開く一助となれば幸いである。
「法と民主主義」編集委員会 高見澤昭治


 
時評●福島原発事故から一年

(弁護士)安田純治

 福島第一原子力発電所の爆発から一年が経つ。
 この間で、私が学んだことは、あまりに多く、かつ重い。寸評をもって尽すことはもとより不可能である。
 まして私は、父親が小高町(現在、南相馬市小高区)出身であり、親類縁者も多く、南相馬の桜井市長は私の従兄弟の子である。加えて、今から三六年前の福島原発設置認可取消訴訟(福島地裁昭和五〇年行ウ第一号事件)の弁護団長であったから、個人的体験や感情、つまりは“積もる思い”を抜きにして、今回の原発事故を簡潔に書くのは、とてもむずかしい。
 私のツイッターをもって、時評にかえたい。

1 我国の為政者の“棄民思想”に呆れる
 中国残留孤児問題などで、政府の棄民思想がいわれたが、原発事故でも、“緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)”を地元民に公表せず(アメリカ軍にだけは速報したとのこと)、そのため多くの避難者は、放射線量の高い地方へと逃げ、再三の流浪を余儀なくされた。沖縄県民に対する扱いも、この棄民思想が根っ子にあると思われる。

2 遅れをとった被害者の組織化
 被害者が損害賠償を請求すると、その内容は当然のことながら東電の一手に集約される。被害者の住所・氏名・家族構成・職業・過去の収入状態など、すべての情報が集中し、東電は、これを分析して悠々と作戦計画を練ることができる。
 ところが被害者側はバラバラで、隣人や同業者がどんな請求をしているのか、どんなことが問題で請求が認められないのか(又は認められたのか)マスコミ・口コミによる情報しかない。そこで同業者の団体や東電の窓口に行くと、過去三年間の所得が計算基準だといわれたりして、あたかも過去三年間に発生した損害を請求するような錯覚に陥っている人がいる。私が“爆発直前の収益力が基本で、放射能のためにその収益力が実現できなかったのが損害と考えるべきではないか、損害額の計算にあたって、過去の実績を参考にするのが合理的な場合もあり、そうでない場合もある”というと、「それで税務署が通りますかネ」と疑わしそうにいう。まるで、東電に対する請求を税務申告と混同しているようだ。
 過去三年間の申告所得の平均が合理的であると、自他ともに認める人は弁護士のところに相談に来ないから、右のケースでは、この後にいろいろな問答が続くのだが、ことほど左様に、被害者は、相当因果関係だの過去三年の平均値だの損益相殺だのと、もっともらしい話をされて、出て来た金額が、原発爆発前の生活実感とかけ放れていることに納得できずにいるのである。
 初期段階で被害者の組織化が実現していたら、もっと違った状況になっていたと悔やまれる。

3 生業をかえせ弁護団のこと
 爆発直後から五月ころまでは、地元縁故関係等の弁護士が個々に駈けつける状態だったが、その後、弁護団が次々と結成され、遂には、県弁護士会が会員に対して、弁護団加入状況のアンケートまで実施する状況になった。そういうなかで、福島市で開かれた一万人集会で結成された弁護団は、原発事故前の状態に戻すことを極限まで追求する目的で、名前も「生業(なりわい)を返せ弁護団」とした。元に戻すということは、被害者各人の個々の損害項目の積算に止まらず、生活の質の回復を求めるものであり、また、地域環境などの回復をも求めるものであるから、従来の不法行為分野における相当因果関係論や互換性論など諸々の理屈を、どう理論的・実践的に克服するかが問われるし、被害者(被害者の範囲も広がる)の会と弁護団・研究者の共同が不可欠である。
 原発爆発から一年、長い闘いは、はじまったばかりだ。

 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

未完の憲法学

一橋大学名誉教授杉原泰雄先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

 杉原先生は日野市に住んで三二年になる。中央線豊田駅から歩いて五分。自宅と書斎がすぐ近くにある。改札口まで迎えに来ていただいた。豊田駅に初めて降りた。八王子の一つ手前の駅。駅は崖線に沿って作られている。下車すると右手は武蔵野台地が切土され、左手には低い家屋が並ぶ。ずっとむこうには丘陵が見える。電車が発車すると「垣根の垣根の曲がり角 たき火だたき火だ落ち葉たき」のメロディーが流れる。つい歌ってしまった。作詞した巽聖歌が戦後日野市旭が丘に住んでいたことが縁だという。台地側の北口駅前も見晴らしがきく。駅舎が低いので屋根越しに多摩丘陵が見渡せる。武蔵野台地の下には浅川が流れ、向こう岸遠く多摩丘陵の麓を京王線が走っている。
 先生は約束の五分前に改札口に現れた。小さな買い物袋をぶら下げている。何かお買い物でも。「お待たせしまして」。とんでもない。改札口からエスカレーターを南口に降りると、さっき見た町並みの駅前に出る。タクシー乗り場とバス乗り場があり、すぐに住宅地である。「いいとこですね」と言うと「前は駅から家まで麦畑だったんです」。もうすぐ駅前整備が始まるという。駅から住宅地の中をずんずん歩くと所々に空き地がある。「まだ戸建て住宅が買えますよ」と先生。
 二階建ての家の前に着く。「娘の家なんですが。僕が書斎に使っているんです」。前庭にイチゴやブルーベリーが植えられている。ヤマモモもあるんだって。よく日が当たる南向きの庭である。先生の書斎は玄関の隣、広い部屋にはグランドピアノが。「先生ピアノをひくんですか」。「僕はだめ。娘が」。「この部屋は防音になっているんでドアを閉めていると眠くなるんです」酸欠なんだ。先生はいそいそと台所へ。「頭が疲れると甘いものとお茶なんです」。さっき持っていた袋から草餅を二個取り出した。これだったんだ。有田のお茶碗でお茶をいただく。
 先生は一九三〇年生まれ、今年八二才になる。一〇年前の写真とまったく変わらない。元気はつらつ、ばりばりと講演をこなし、インタビューも受ける。昨年も「憲法と公教育」を出版し、法民の一月号に巻頭論文も書いていただいた。インタビューだけでもこのところ三件も続いているという。お電話すると必ず「一〇〇年に一度の危機」を説き、憲法の重要性を展開する。憲法学の研究者として五〇年を超える先生は「今なお自分の憲法学の方法や大系の習作中」。「未完の憲法学」をかかえている先生はなぜかうれしそうに見える。
 杉原先生は伊豆の大仁で生まれた。修善寺の二つ手前、三島から各駅停車で三〇分。家は製材業だった。八人の兄弟姉妹。地元の小学校から旧制韮山中学校へ進学した。一九三七年小学校入学の年に「シナ事変」、戦争の時代に育った。一九四一年太平洋戦争がはじまったときは一一才、国民学校五年生だった。「『神国日本』の歴史的使命を受け入れる『少国民』に育ちました」。戦争する国に育ち徹底した軍国教育を受けたのである。杉原少年も「神国日本」のために死ぬ覚悟だった。中学に入ると杉原少年は選ばれてグライダーの操縦訓練を受けるようになった。いつかはそれに乗って戦うことになると思っていた。中学二年の三学期から軍需工場への動員がはじまった。
 一九四五年八月一五日は動員先の軍需工場でむかえた。玉音放送の意味は分かった。杉原少年一五才、衝撃だった。「玉音放送の直後、その軍需工場の監督官が私たち中学三年生だけを集めて話した。海軍大尉でおそらく学生出身の人だった。」「竹槍ではB29には対抗できない。非科学は科学に対抗できない」その言葉は杉原少年の非合理的な精神主義に「とどめを刺した」。杉原少年は一九四八年旧制静岡高校に進学する。その前年杉原少年は「日本国憲法」出会った。この憲法を学び、理解し、実践していくことが杉原少年の生き方になった。
 旧制高校に一年いるうちに、学校制度が変わり、次の年新制大学を受験できることになった。兄が東京に在学していた杉原家ではとても泰雄君を東京の大学に進学させる経済的余裕はなかった。泰雄君は働きながら大学に行くことを決め、東京薬科大学の事務の仕事に就く。専修大学の法学部夜間部に中途入学する。次の年安部能成が学長を務め多くの知性が集まり「真理と平和」教育を理念として掲げていた学習院大学政経学部二年に編入する。朝鮮特需で経済的に余裕が出てきた実家の仕送りも受けることができるようになっていた。杉原青年は憲法から平和問題談話会の「三たび平和について」やレーニンの帝国主義論まで、自由に幅広く学んだ。卒業後は教育の道を進もうと高校の教師になるが、学止みがたく、教師を辞め大学院に進学し研究者の道へ進むことになった。
 一橋大学大学院に入学する。指導教官は田上穣治先生。田上先生は美濃部達吉先生の弟子で、学生の自主性を尊重する先生だった。杉原先生はそこで修士・博士課程と進み、五年間で博士号を取得。田上先生から「僕の後を」と言われ杉原先生はそのまま停年まで一橋で研究と教育を続けることになる。美濃部達吉、田上穣治から憲法講座を受け継いだ三代目である。先生の研究活動は解釈学にとどまらず「憲法の歴史研究にかなりの時間没頭した」。近年の課題は「軍拡と経済衰退」。常に社会に目を配り憲法を人類の歴史の中でとらえ直す。「日本国憲法に集められた叡智が問題解決の指針となる」。「ピンチはチャンス」と杉原先生。長い憲法の歴史のなかで見ても日本国憲法はその力を失っていない。それどころか「今こそ憲法に学ぶとき」と言う。
 杉原先生の教え子は学内にとどまらない。すぐれた憲法研究者を育てたことはご承知の通り、もちろん多くの学生も。そして学外の市民。「憲法を支え守る人」の連帯がなければ平和国家、社会国家(文化国家を含む)、民主国家は実現しない。杉原先生が理事を務める地元、日野・市民自治研究所との関わりも深い。理事長は山本哲子弁護士。
 二〇一一年一〇月、研究所の拠点ゆのした市民交流センターが新装となった。「私たちは、新しい学舎をえました。すばらしいことです。『居は気を移す』と言われます(孟子)。新しい学舎で学習・研究の意欲も新たにし、直面する危機の克服に取り組み、その成果を『つうしん』・年報・叢書として発信したいものです。この歴史的危機を克服する力は、市民の生活経験と学習・研究のうちにあると思うことです」通信一一〇号。次女が書いた今年の年賀状で、先生は竜になって空へこぎ出している。片手に憲法を持ち。
杉原泰雄(すぎはら やすお)
1930年静岡県生まれ。1961年一橋大学大学院法学研究科博士課程修了。1972年より一橋大学教授。東京大、静岡大、名古屋大、熊本大などでも教鞭をとる。現在、一橋大学名誉教授、駿河台大学名誉教授。
著書『憲法と資本主義』(勁草書房、2008年)、『憲法と公教育──「教育権の独立」を求めて』(同、2011年)他多数。






























































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