Ⅰ.人形峠ウラン鉱山
日本のウラン探鉱の歴史
原子力の燃料はウランである。そのウランは日本では採掘されておらず、全量が輸入されている。それにもかかわらず、日本政府と原子力産業界の統計では、時として原子力が「国産エネルギー」に含まれている。いったい何のことかと思えば、ウランは原子炉内でプルトニウムに変わり、それがまた燃料になるので「準国産エネルギー」なのだという。しかし、ウランをプルトニムに変える高速増殖炉は、原型炉「もんじゅ」が試運転開始早々に事故を起こし、再開のめどすらない。おまけに、高速増殖炉計画が思惑通り完璧に完成しても、燃料の倍増時間は90年というのであるから、そのようなものはエネルギー資源と呼べない。
ただ、かって日本で原子力開発が始まった頃、日本のあちこちでウランを探し回った時代があった。
1954年3月1日に米国はビキニで水爆実験を行い、周辺の島々に住む住民と日本の第五福竜丸の乗組員が被曝した。その日、当時改進党代議士であった中曽根康弘は当時の与党自由党および日本自由党との3党公式会談で原子力予算を提案した。その原子力予算は、翌々日、3日国会に上程され、翌4日には何の反対もないまま衆議院を通過してしまう。予算の内訳は、2億3,500万円の原子炉建設調査費と、国内ウラン調査費1,500万円、合計2億5,000万円であった。この原子炉調査費の2億3,500万円は、核分裂性ウランの質量数235との語呂あわせで決められたというのであるから、あきれるほかない。しかし、このとき同時に認められた国内ウラン調査費1,500万円は、国内でのウラン探鉱に一気に火を点けた。予算を受けた地質調査所では、調査機器の調達にてんやわんやとなり、大学の研究者、それに山師も含めて各地で意味のあるものからないものまで様々なウラン探しが行われた。
調査の進行に伴い、少しでも望みのある地域は絞られてきた。その一つが、岡山県から鳥取県にかけての花崗岩地帯であり、特に倉吉の小鴨鉱山を中心とする鉱脈型の鉱床であった。そのため、55年秋には地質調査所の探鉱活動は鳥取県中部で集中的に行われていた。秋も深まった11月12日、野外調査の最終日、すでに日没を過ぎた暗闇の中を探査ジープは岡山・鳥取の県境、当時は名もない峠を走っていた。突如としてカウンターが鳴り響き、日本で初の堆積型ウラン鉱床が発見された1)。峠は人形峠と名付けられ、翌56年1月1日の読売新聞は、冒頭に人形峠の写真を載せ、「人形峠付近では0.1~0.4%のウラン鉱石を25,000トンと推定」したとして、「今年の希望」の筆頭においた。
こうして、自然に寄り添うようにして形作られてきた静かな山村は、一気に現代の「宝の山」へと劇的な変貌を強いられた。
人形峠での試掘と挫折
56年8月1日、原子燃料公社が設立され、地質調査所は基礎的な探鉱を、原子燃料公社は企業化探鉱を実施するとの役割分担ができた。地質調査所は、すでに60年までに、全国土の半分を超える約20万km2の地域で、エアボーン(飛行機での探査)、カーボーン(自動車での探査)調査を行なった2)。ただ、有力な鉱床はほとんど発見できず、結局、坑道を掘って探鉱活動が行われたのは、倉吉、東郷、人形峠、それに三吉、垂水、東濃の6カ所でしかなかった。それも、全部で36,155mの掘削坑道のうち、34,115mは倉吉、東郷、人形峠の3鉱山、(うち東郷、人形峠だけで30,435m)が占めており、実質的な探鉱活動は人形峠周辺でしか行われなかった3)。
その人形峠での探鉱活動も、当初の期待とは裏腹に経済的にはとうてい採算の合う物ではないことが分かってきて、1967年を最後に探鉱活動は終了した。その点を、原子力委員会は69年度の「原子力年報」ではじめて次のように記載した。「わが国のウランの埋蔵量は、1970年4月1日現在、平均品位約0.05%程度で、7,700トン(U3O8換算)を把握しているにすぎない」4)。この7,700トンという数字も、可能鉱量というあやふやな数字を含めたものである。それを除外し、確定、推定、予想鉱量を考えれば、平均品位0.117%、1,901トンとなる5)。今日一般的となった100万kWの原発には毎年180トンのU3O8が必要であり、日本国内には、10基の原発を1年間運転させるだけのウランしかない。その上、世界でウラン鉱石として通用するは平均品位が0.2%以上のものであり、日本国内のウランなど、エネルギー資源として何の役にもたたない。結局、先の「原子力年報」はいう。「このため、今後わが国のウランの需要を満たすためには、積極的に海外からの入手の道を開く必要がある」4)。
残土問題の発覚
人形峠で採掘されたウラン鉱石は1964年夏に、当時は東海村にしかなかったウラン製錬工場に送られ、45.6kgのウランが分離された6)。翌65年からは、人形峠で山元試験製錬所が稼働をはじめ、313.4kgのウランを分離した7)。続く66年度に709kg8)、67年度に約900kg9)のウランが分離されたが、以降は海外からのウラン鉱石を人形峠に運びあげての製錬試験に変わってしまっている。
その後も、わずかの試験採掘は行われたが、結局、「宝の山」と騒がれた人形峠周辺のウラン鉱山は、総量でも83トンのウラン(U3O8)しか生まなかった5)。ところが、鉱山が閉止された跡には、地底から掘り出されたウラン鉱石と、鉱石混じりの土砂が打ち捨てられたままになっていたのであった。その量は20万m3に及び、一部は風雨に洗われて崩壊し、山裾に広がっていた。ウランは放射能であり、それ自身危険なものであるし、ウランの崩壊生成物の中にはラジウム、ラドンなど多数の放射能が含まれていて、それぞれに固有な危険を持っている。鉱山が操業している間は、曲がりなりにも放射能に対する法の規制を受けていたが、すでに鉱山は廃止され、土地の貸借契約も切れて、それらの土地は私有地に戻っていた。そのため、放射能に対する一切の規制を受けないまま、周辺住民は危険にさらされることになったのであった。その傷が姿を現したのは、ウラン発見から30年、鉱山閉止から20年以上の歳月が流れた1988年夏のことであった。
Ⅱ.苦しい撤去闘争
金で失った自治
原子燃料公社は、1967年10月に発足した動力炉核燃料開発事業団(動燃)に統合されていたが、残土問題が発覚したとき、鉱山周辺の町村は、すでにすっかり動燃に寄生する町村となっていた。たとえば、動燃の人形峠事業所は岡山県上斎原村に立地する。その村はウラン発見当時の1957年、隣接の奥津町との町村合併を求める内閣総理大臣勧告を蹴って、単村を選択したが、ウラン鉱山が役立たないまま閉山され、以下のような村となっていた。
「村の最大の恩恵の元となった濃縮パイロットプラントの立地
(前略)何よりも村にとって最大の恩恵をもたらす元となったのは、1977年7月、人形峠鉱業所構内に、ウラン濃縮パイロットプラントの立地が決定したことであった。それによって1978年5月、全額村の出資による動燃人形峠事業所への協力会社として人形峠原子力産業株式会社を設立することが出来、村民の働ける場所が確保できたのである。
この原子力産業株式会社は、動燃人形峠事業所の警備、運転手、食堂の厨房、鉱内維持管理・清掃、木の植栽、ボイラー・電気関係、洗濯、分析など、動燃の業務の補助的な仕事が主な内容で、村内から約80名くらい、村外から60名くらいの採用で現在147名が就労している。
さらに、電源三法交付金によって、幼稚園、小学校、中学校、体育館、給食センターをまとめた総合教育施設の建設や、スキー場、道路などの整備が遂げられたことは、単村であったからこその恩恵を得られたのだと言えよう」10)。
静かな山村でひっそりと暮らしてきた人々は、一躍脚光を浴びた「宝の山」で鉱山労働者として働いた。そして、労働者として現金収入を得ていた村人たちには、閉止されたウラン鉱山の代わりに、ウラン製錬工場、ついで濃縮工場を受け入れるしか道を残されていなかった。
残土が放置されていたことが発覚しても、こうした町村及びそこの住民には、動燃を相手に闘う力は残されていなかった。ほとんどの場所は動燃との貸借契約が再度結ばれ、その場所を柵で囲い込むといったおざなりな「対策」なるもので沈黙することになった。
立ち上がった集落
しかし、1つの集落だけは、放置されていた残土の全面撤去を求めて立ち上がった。鳥取県東伯郡東郷町にある集落、方面(「かたも」と読む)である。この集落は、わずか22世帯、100人足らずの小さなもので、集落から沢を登って約1kmに、かっての東郷鉱山のひとつの坑口がある。探鉱活動があった頃には、自らの土地を原子燃料公社に貸した上で、ほとんどの住民が何らかの形で作業に従事した。そして、方面地区での坑口が閉鎖された1966年から86年までの20年間に、8人が癌で死に、そのうち5人は肺癌死の男性であった11)。(肺癌は昔からウラン鉱山労働者の職業病であり、その原因はウランの崩壊生成物であるラドンにある。)
また、坑口周辺には鉱石混じりの残土1万6,000m3が置き去りにされていた。その残土は豪雨の度に崩壊し、沢を流れ下り、土砂止めの堰堤を埋め尽くし、さらに下流の水田をも埋めた。その残土堆積場、特にかっての貯鉱場跡では、空間ガンマ線量が、年間の被曝量に換算して100ミリシーベルト(動燃の公表値でも32ミリシーベルト)を超える。一般人に対する年間の被曝限度は1ミリシーベルト、職業人に対してさえ50ミリシーベルトなのであるから、本来なら、放射線管理区域としての対策がとられなければならない。
また一方では、開口したままに放置されていたかっての坑口、あるいは野ざらしにされた残土の表面からは、ラドン(希ガスの1種で常に気体)が吹き出してきていて、沢沿いに集落にまで汚染を広げている。このラドンガスに対しては、職業人の許容濃度が1,000Bq/m3であり、放射能を扱う施設から敷地境界を超えて放出してよい濃度はわすか9Bq/m3でしかない。ところが、たとえば坑口では89,000Bq/m3の空気中濃度が測定されているのであった。
「協定書」締結まで2年、そして裏切り
残土問題が発覚して以来、動燃はいち早く土地の囲い込みに動き、行政は安全宣言を出して、それを支えた。しかし、方面自治会は、88年12月1日に「ウラン残土の全面撤去」要求書を東郷町長に提出した。その後も、激しい懐柔・切り崩し工作が続いたが、方面自治会の団結は崩れず、一貫して、ねばり強く残土全面撤去を求め続けた。私有地を不法に使用していることになった動燃は、翌89年3月16日、仲介に当たっていた「動燃人形峠放射性廃棄物問題対策会議(以下、対策会議)」に残土の全量撤去を回答した。苦しい中で闘ってきた方面住民の喜びはひとしおであった。しかし、その回答は、早くも25日には反故にされてしまった。そこで、方面住民は全世帯の「連判状」を作成して、動燃と鳥取県知事に送るが、それもまた黙殺されてしまう。
それでも、方面の住民たちは挫けなかった。自らも鉱山労働者として働き、「人形峠ウラン鉱山ドキュメント」の著者である榎本益美さんが、この集落の住民であったことが、大きな力であった。彼は一貫して残土の全面撤去を求め続け、決してあきらめなかった。地縁・血縁、金力を使った、集落住民に対する動燃の執拗な切り崩しにも耐え、集落の団結を守り通した。私有地を不法に占拠している状態が解消できなかった動燃は、ついに90年8月31日、方面自治会との間で、「ウラン残土の撤去に関する協定書」(以下、「協定書」)を締結することになる。
「協定書」には以下のように書かれている。
「乙(動燃)は、方面1号坑及び2号坑のウラン鉱帯にかかわる残土を全量撤去する。
鉱帯部分の残土を全量撤去した段階で乙と甲(方面自治会)はその後の残土の取り扱いについて協議し、乙は甲の意見を尊重の上対処する。」(括弧内は、小出)
そして、「ウラン鉱帯部分」については、添付された「覚書」に、「ウラン鉱帯部分の堆積量は、約3,000m3と推計される」と記されている。
撤去の時期については、「協定書」に「ウラン残土の撤去は、関係自治体の協力を得て、「米」「梨」などの収穫期までに着手し、当協定書(覚書、確認書を含む)を遵守の上、一日も早く完了するものとする」とうたわれた。残土問題発覚からすでに2年経過しており、重苦しい毎日を送ってきた住民から見れば、これでようやく残土が撤去されると思ったことであろう。自治会は、動燃との間に「ウラン残土撤去作業に伴う措置工事に必要とする土地の使用についての了解事項」を交わし、残土撤去工事の期間中再度動燃に土地を貸す契約を結んだ。しかし、残土の撤去は進まなかった。
県境という壁
残土は方面から撤去したところでなくなるわけではないし、それに含まれる放射能もなくならない。それは結局どこかに移動させるだけのことである。その移動先は動燃人形峠事業所の敷地と考えられていたが、事業所敷地は峠の岡山県側にある。岡山県は残土問題が発覚して以降、岡山県内に野ざらしにされている残土については、たびたび「安全宣言」を出し、動燃のおざなりな対策を支えてきた。ところが、その岡山県では、「鳥取県内で危いといわれるようなものを、岡山県が受け入れられない」と知事が議会で答弁した。動燃は「関係自治体の協力」が得られないことを口実に、撤去作業への着手を棚上げ、事態は再度膠着状態に陥った。
確認書までさらに3年
住民たちの気持ちは、放射能に対する不安と、一向に進まない撤去に対する絶望の間を揺れ動いたことであろう。それでも、住民たちは粘り強く闘った。協定書の締結からさらに3年、1993年8月12日に、方面自治会は、動燃との間に「ウラン残土撤去にかかわる確認書」(以下、「確認書」)を交わした。
この「確認書」では、先の「協定書」で動燃が撤去を約束した3,000m3の鉱帯部分をさらに2つに分け、放射能含有量の著しい貯鉱場跡の残土240m3について、まず早急に袋詰めの上、仮埋設。その他のものについても94年6月を目途に選別、仮埋設することになっている。動燃の思惑は、総量16,000m3の残土のうち、実際に撤去する量を少しでも減らしたい、あわよくば、撤去はせずに仮埋設をそのまま本埋設にして逃げ切ってしまいたいというものであった。住民としては、仮埋設が本埋設とされる危惧を感じながらも、仮埋設でもよいから膠着してきた事態を一歩でも進めたいというものであった。
そのため住民は、自治会総会で以下の決議を採択して、「確認書」締結時に動燃に渡している。すなわち、
「(貯鉱場跡の)袋詰めした残土は1994年12月末までに方面地区外に搬出撤去すること。
(鉱帯部分の残土については)1990年8月31日の協定書による約束に基づき、少なくとも3000立方メートル相当の残土は袋詰めの上1995年12月末を目途に方面地区外に搬出撤去すること。
(袋詰めした)ウラン残土の方面地区への「据え置き」はいかなる理由や口実にせよ絶対認めない。」(括弧内、小出)
住民の疲れを待つ動燃
動燃は「確認書」に基づいて早速、貯鉱場跡の残土を袋詰めし、一時仮置きと称して、さっさと埋設してしまった。しかし、住民が真に願った方面地区外への搬出撤去は一向に進まず、月日はたった。その間、住民の先頭に立って動燃と闘ってきた榎本さんのお連れ相いがガンでなくなった。
だまされ続けた方面住民は、1995年11月になって、ウラン残土撤去工事を理由に動燃に貸していた土地の、使用契約更新を拒否すると動燃に通告した。この住民の決断により、土地貸借期限の切れた12月27日以降、動燃は、不法に残土を投棄している事態に再度追い込まれた。
時は、ちょうど動燃「もんじゅ」の事故と同じであった。傲慢な国家組織、動燃もさすがに社会の批判を受け、事態の打開に動き出したかに見えた。年が明けて1996年4月5日、動燃は、対策会議との交渉で、残土を方面地区から撤去し、動燃人形峠事業所から県境を超えた隣接地の鳥取県有地に移すことで、合意に達した。
その交渉の議事録確認には次のように記されている。
「動燃は、鳥取県、三朝町他関係者の合意を条件として、「協定書」に基づき、ウラン鉱帯に係わる堆積残土推計3,000m3を撤去する。
撤去先は鳥取県と岡山県の県境(鳥取県有地)とする。」
こうして、ようやく残土が動くかとも思われたが、その期待も、またまた裏切られる。残土撤去先に予定されていた鳥取県有地は三朝町に属する。その三朝町には、方面と同じ東郷鉱山の1つの坑口、神ノ倉地区があった。その神ノ倉地区周辺には、7万m3に上る残土が放置されているが、三朝町はそうした残土については、動燃や県の安全宣言を追認してきた。その同じ三朝町が、方面の残土の搬入には難色を示し、動燃はそれを口実に再度引き延ばしをはかったからである。残土問題発覚からすでに8年、本稿を書いている96年末においても、残土は方面地区から一歩も動いていない。
Ⅲ.必要な闘い
加害者の論理
人形峠周辺でウランを掘ったのは、原子燃料公社、現在の動燃である。おろかな期待と見通しのため、結局この鉱山は全く役に立たなかったが、生じさせてしまった放射能汚染についての責任は、すべて動燃にある。自らの誤った行為の責任をとることは、当然なさねばならないことであるし、ましてやそれが国の機関であればなおさらである。
鉱山周辺に野ざらしにした20万m3の残土(方面地区についていえば、16,000m3)を、可能な限り安全に管理する責任が動燃にはある。ところが、動燃は、一切の残土について単に柵で囲い込むだけの対策で済ませようとしてきた。方面地区については、さすがにそうはできなかったが、今度は撤去する量を値切り、あわよくば撤去そのものから逃げようとしたのであった。
昨年4月の県境への撤去案について、動燃の文書「方面堆積場問題解決へ向けての提案」(以下、「提案」)には、以下のようにある。
「[撤去に当たっての前提条件]
1.まずは、方面自治会の皆様及び「対策会議」が、下記の「県境保管」の完了を以って、上記「協定書」及び「確認書」における動燃事業団に対する債務の履行の完了とすること。」(アンダーラインは小出)
動燃のこの「提案」には、3,000m3撤去によって、地表での空間ガンマ線量率が0.3マイクロシーベルト/時(年間では、約3ミリシーベルト)になることが記されている。しかしその点だけを取っても、国の法令を満たさない。おまけに空気中を拡散してくるラドンは柵では止まらないし、長い年月の間に残土が崩壊することも防げない。方面自治会は、当初から一貫して残土の全面撤去を求めてきた。90年の「協定書」には、鉱帯部分(約3,000m3)を全面撤去するとともに、残りの部分については、協議の上、動燃が方面自治会の意見を尊重して対処すると書かれているのである。たかだか3,000m3の撤去を以て、動燃の債務履行が完了するなどということはとうていあり得ない。ところが動燃は、債務履行完了を認めることが、わずかの残土撤去の「前提条件」だというのである。
かって、水俣病の被害が拡大してきた1959年、困窮する患者が加害者チッソに補償を求めた。そのとき、チッソはすでに水俣病の原因が自らの工場排水にあることを知っていたが、わずかばかりの「見舞金」を支払う条件として、「将来水俣病が工場排水に起因することが決定した場合においても新たな補償金の要求は一切行わない」という契約を患者に強要したのであった。
歴史は繰り返す
歴史は繰り返すという諺通り、同じことは繰り返し繰り返し起こってきた。かって、足尾鉱毒事件が起き、関東一円の農民、漁民が著しい被害にあえいだ。加害者である古河が被害に対する金銭を最初に払ったのは、1892年の洪水で著しい被害が出た後であった。その翌々年1894年には、被害はますます激しくなり、古河は再度示談金を払うことになるが、その時、古河が作成し農民側に署名を強制した契約書には、次のように書かれている。
「同銅山御稼業により常時不時を論ぜず、鉱毒、土砂、その他渡良瀬沿岸我等所有の土地の迷惑になるべき何等の事故相生じ候とも、損害賠償その他苦情がましき儀一切申し出まじく候」
この条文について、英国人で日本についての研究家でもあるケネス・ストロングは書いている。
「この第二の契約書に記されている文言はとんでもないもので、脅迫されて押しつけられたものでなかったら、また農民たちの田畑の多くが取り返しのつかぬほどの不毛の土地にされてしまって極度の困窮状態におかれているのでなかったとしたら、いくら下野の農民が気が小さいといっても、まともな分別を持った人間がこれに調印することが一体どうしてあり得たのか、ほとんど想像がつかないようなしろものだったのである。」12)
天地と共に生きる
足尾鉱毒事件に文字通り全身全霊を捧げた田中正造は、死を迎えた朝、見舞客に対して言った。
「お前方大勢来ているそうだが嬉しくも何ともない。みんな正造に同情するだけで正造の事業に同情して来ているものは一人もない。おれは嬉しくない。行ってみんなにそういえ。」13)
正造の求めたものは、汚染され、破壊された自然そのものを回復することであった。
「この正造はな・・・天地と共に生きるものである。天地が滅ぶれば正造もまた滅びざるをえない。今度この正造がたおれたのは、安蘇、足利の山川が滅びたからだ。・・・日本も至るところ同様だが・・・。故に見舞いに来てくれる諸君が、本当に正造の病気を直したいという心があるならば、まずもってこの破れた安蘇、足利の山川を回復することに努めるがよい。」
人形峠周辺を汚染しているのは、地底から引きずり出されてしまったウランである。その放射能は毒性が半分になるまでに45億年の歳月が必要な毒物である。その被害を防ぐためには、ウランを再度地底に戻せばよい。しかし、崩壊してしまった坑道にそれを戻すことは今やできない。いま可能なことは、管理可能な場所で、それらを密閉し続けることである。
人形峠周辺の現在の状況は、足尾や水俣で起きたとおりに厳しい。立ち上がる力を奪われた住民がほとんどであるし、立ち上がった住民にしても孤立した苦しい闘いで疲れ果てている。しかし、被害を強制されたものが、被害の泣き寝入りをする必要はないし、またしてはならない。悲惨な歴史を繰り返さないためには、なんとしても、加害者に加害の責任をとらせることが必要である。そのために、私にできることは、汚染の実態を正確に調べ、できるかぎり広く知らせることであろう。その責任だけは、果たしたい。
[注、引用文献]
1) 高瀬博、動燃事業団人形峠のウラン鉱床と製錬工場について、温泉科学、35(1985),65-77
2)原子力委員会、第5回原子力白書、p.94
3)動力炉・核燃料開発事業団、「動燃二十年史」p.280、(1988)
4)原子力委員会、原子力年報、1969年度(1970)p.44
5)3)に同じ、p.281
6)原子力委員会、原子力年報、1964年度(1965)p.33
7)原子力委員会、原子力年報、1965年度(1966)p.56
8)原子力委員会、原子力年報、1966年度(1967)p.33
9)原子力委員会、原子力白書、1967年度(1986)p.56
10)科学技術庁青森原子力企画調整事務所、けんど君、ウラン鉱床発見の地「人形峠」を訪ねて-②、KENDO(1991)p.1-2
11)榎本益美、人形峠ウラン鉱山ドキュメント、北斗出版(1995)
12)ケネス・ストロング、「田中正造伝」晶文社(1987)p.169
13)林竹二、「田中正造の生涯」、講談社現代新書442(1976)p.228
14)注12)の文献p.377
人形峠周辺の残土堆積状況と空間ガンマ線量
県 | 鉱 山 | 地 区 | 堆積量 | 空間ガンマ線量率 [ミリシ-ベルト/年] | |
名 | 名 | [m3] | 動燃 | 市民グループ | |
鳥 | 東 郷 | 神倉 麻畑 方面 | 71,700 31,000 16,000 | 2~ 7 1~21 1~31 | 5~131 5~ 53 11~105 |
取 | 倉 吉 | 円谷 歩谷 横路谷 広瀬 | 8,500 7,800 1,600 15 | 2~ 4 1~ 3 1~ 2 2~ 3 | 5~ 11 |
岡 山 | 人 形 峠 | 中津河 夜次 赤和瀬 長者 峠 | 51,000 (露天掘) 2,700 940 | 1~60 1~35 1 1~11 1~ 6 | ~ 74 |
国内探鉱実績表(主要なもののみ)
地区名 | 地質調査 [km2] | 試錐探鉱 [m] | 坑道探鉱 [m] | |
北海道南部 小国 山形県南西部 阿武隈 東濃 室生 北丹 倉吉 東郷 人形峠 三吉 三次 豊田 北九州 垂水 | 127 146.6 658 715.8 741.8 683.3 1,389 51.5 908.5 442.6 107.3 1,098 258.8 808 438 | 9,546 6,482 7,426 166,083 5,458 14,175 5,073 80,743 72,536 830 3,295 21,073 333 3,457 | 1,405 3,680 13,215 17,220 380 255 | |
合計 | 14,377.6 | 422,068 | 36,155 |
1987年度末における日本のウラン埋蔵量
(平均品位:0.117%U3O8)
U3O8量(トン) | |||||
確定 | 推定 | 予想 | 可能 | 合計 | |
人形峠 東郷 東濃 奥丹後 豊田 奥尻 | 210 90 | 142 3 | 364 2 916 162 12 | 17 844 27 12 11 | 733 95 1,760 27 174 23 |
合計 | 300 | 145 | 1,456 | 911 | 7,701 |
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