世界はどこにあるのか―津村喬のインターナショナリズム


世界はどこにあるのか―津村喬のインターナショナリズム Add Star

昨日京都大学で行われたシンポジウム「日本からみた68年5月」でのスピーチを、以下に掲載します。
400人を超える超満員!
「68年」をテーマに埋め尽くされた会場は、正直壮観でした。
聞けば聞くほど、話せば話すほど、それぞれの「68年」がある――。
主催者の方々やパネリストの皆さんをはじめ、スタッフ、そして当日お集まりの皆さん、本当にありがとうございました。


 私は、六八年の五月生まれです。ですから、「六八年」についての具体的な経験や記憶はありません。
 そういう私が「六八年」を意識したのは、やはり文芸批評家のすが秀実さんの影響でした。あれは確か、すがさんの「革命的なあまりに革命的な」(以下「革あ革」)が、まだ単行本になる以前に「早稲田文学」誌上で連載中のことだったと思いますが、あるシンポジウムがありました。その席上、浅田彰さんが、例によって切れ味鋭い全共闘批判を展開されていた傍らで、すがさんは小声でぼそぼそと「六八年革命がいかに画期的であったか」について述べられたのです。
 私は、客席でそれをハラハラしながら見ていました。なぜ、あんなにも妙に胸騒ぎがしたのか。おそらくは、それまで一般的にはネガティヴでしかなかった「六八年」や「全共闘」――だからこそ、その経験は口をつぐんでは隠され、また語られたとしてもノスタルジーでしかなかった――が、突然ポジティヴに語られ出した瞬間を、目の当たりにしたからだと思います。たとえば、『革あ革』の冒頭付近に次のような一節があります。

別段、個々にあげつらわないが、少なくとも日本においては、六八年革命はあまりにもおとしめられ過ぎている。(中略)日本における六八年革命は、それを体験した六八年世代の者からさえ、いまだに「挫折」といったイメージによって語られている。全共闘=ニューレフトは権力の悪に対して純粋な正義感から反抗を開始したが、体制の厚い壁の前に挫折を余儀なくされ、ついには「連合赤軍事件」(一九七二年)をシンボリックな頂点とする「内ゲバ」によって自壊していった、という次第である。それは、明治期初期の「自由民権運動」から一九六〇年安保にいたる近代「青年」運動の挫折の延長上にイメージされており、哀惜されるばかりなのだ。
 それが、ぼそぼそと小声で語られ出した(それはあまりに小声で、最初、私はすがさんの体調を心配したほどです)ということも大きかった。もしこれが、自信満々に、また淀みなく立て板に水のように語られていたら、「この全共闘オヤジが!」(笑)という反発しか覚えなかったに違いありません。
 当時は、誰にも賛同されなかったこの孤立的な小声が、だからこそ私には極めて批評的に響きました。井土紀州さんは、この批評家の緊張と孤立を「LEFT ALONE」という映画でとらえていたと思います。このすがさんのつぶやきは、それまで完全に「六八年」の外部にいた私にも届くものでした。
 さて、その「すが史観」を、他と隔てる最大のポイントは、「七〇年七・七」という日付を、決定的なターニングポイントとして見出し導入したことでしょう。いわゆる「七〇年七・七華青闘告発」です。
 正式名称を「蘆溝橋事件三十三周年、日帝アジア再侵略阻止人民集会」という、この集会自体のインパクトやリアリティについては、当事者でない私には正直よく分かりません。その他の「六八年」本には、ほとんど取り上げられていないのだからなおさらです。しかし、この集会を思想的に組織した、津村喬という人物と、彼が提起した問題、その思考や闘争が切り開いた地平は、津村を読めば読むほど、現在にまっすぐつながる問題として極めて重要なものだということが見えてきます。
 津村の父は、戦前からの社会運動家で元総評事務局長の高野実であり、兄はテレビでも有名な政治ジャーナリスト高野孟です。津村は、高校生のときに中国に縁のあった父に南京の大虐殺記念館に連れていかれ、ショックを覚えます。「この木の切り株に穴が開いていて、その穴に顔を置いて上から槌で殴ると目がポロッと落ちる」など細かに解説され、「こういうことは嫌だ」と思いながら「外から見たら同じ日本人だ」というふうに分裂してしまう。
 そうしたトラウマ的な経験もあってでしょう、早稲田大学一年在学中の一九七〇年に『われらの内なる差別 日本文化大革命の戦略問題』(以下『われら』)を発表しデビュー、全共闘運動に差別論という形で、在日朝鮮人中国人といったマイノリティーの問題を、はじめて導入し注目を浴びました。これこそ、「六八年」が、日本の文学や思想に与えた、最も大きなインパクトだったといっていいでしょう(例えば、部落差別へとスライドしていったとはいえ、中上健次はその例でしょう)。
 というのも、それまで六〇年安保の国民的高揚という、いわば一国主義的なナショナリズムの延長線上で運動を行ってきた全共闘運動に、決定的な切断としてのインターナショナリズムをもたらしたからです。津村は、「六八年の闘争は、六〇年安保よりはるかに深い意味をもたらした」と明言しています。この六〇年と六八年の切断線を見ること?
 『われら』は、六九年四月二十日に、二二歳で服毒自殺した、奈良県立医大華僑青年李智成のことから書き起こされています。その短い遺書には「満腔の怒りをもって佐藤反動政府の〝出入国管理法案〟〝外国人学校法案〟に対して抗議する」とありました。また、強制送還のため大阪出入国管理事務所に収容された韓国人金賢成が、「佐藤総理大臣殿。日本人には人道の涙がないのですか。…日韓会談以後も、在留韓国人の法的地位は実現されていないではありませんか」という遺書を残して焼身自殺をしたという記述がそれに続きます。
 最初、津村は、「人間はこんなことで死ぬのだろうか」と首を傾げたと言います。しかし、やがて、それを恥ずかしいことだったと思いなおし、「李智成の自殺は、われわれの革命運動と全共闘運動に対する告発である」と捉えなおしていくのです。全共闘運動のなかで「自ら革命の主体であると同時に対象でもあるととらえる」ことで運動全体が劇的にシフトした瞬間でした。「入管闘争が日本人民に贈った差別の概念は、革命主体の客観化のための方法概念だった」。そして津村は、李が告発した入管闘争へとコミットしていくことになるのです。津村は言います。

こうして、入管闘争を軸とした差別構造解体闘争の一環となるときにのみ、全共闘運動は、社会各階層のあらゆるレベルで不均等に展開されつつある階級形成の運動を、大きなひとつの流れに結合させる環となることができるのであろう。
 李智成の問いかけの本当の解決とは、はるかな無階級社会における国境の廃絶であり、そこにいたる、すべての差別構造の解体・日帝打倒・世界資本主義止揚にほかならないだろう。私たちは入管闘争をやるだろう。また当面の学園闘争の中で永続的な文化=政治革命を提起して、私の内部の「日本」と、そしてすべての李智成の殺害者と闘っていくだろう。そうでなければならない。「死者がもし生ける者の心の中に埋葬されるのでなかったら、それは本当に死んでしまったのだ(魯迅)」
 それまで「日本人」だった朝鮮台湾など旧植民地出身者は、一九四五年の日本の敗戦によって、「外国人」に身分を変更され、またしばらくすると、五一年の「出入国管理令」(入管令)によって、今度は「在日」という資格を与えられ区分されることになります。そして、今また新たに「出入国管理法案」(入管法)が国会に提出されようとしているのです。
 こうした事態に、左翼インターナショナリズムは冷淡でした。華僑青年が住む善隣学生会館における、中国人学生と日本共産党の衝突は、それを象徴する事件でした。六七年三月、日本共産党中国人学生をメット・ゲバ棒で襲ったのです。それまで、中国共産党寄りだった日共が、六六年に発動された中国文化大革命の「造反有理」の波及を恐れて離反、そしてこれを民青などの若者に民族排外主義を煽ることで暴動は起こりました。新左翼系諸党派は、中国人学生の側を支援し、これが在日中国人と日本の新左翼の、最初の共闘を形成しました。
 この事件について、津村は次のように言っています。

軍国主義時代を全然知らない、「チャンコロ」意識など持たないはずの若い人たち、しかもまがりなりにも共産主義者を自任している人たちが、「ここは日本の領土だ、出ていけ」などとこのゲバルトにさいして中国人学生に向かって叫んだことは、革命家は「国家」を超えられるのだろうか、それはいかにしてか、という問いをあらためてぼくたちに突きつけられました。
 同時に、戦後民主主義が何だったかということを、この事件は照らし出した。日共は中国人学生を負傷させたことを、「民主主義を守る」ということで合理化しようとしたのです。
 この事件には、戦後民主主義というフィクションの崩壊、インターナショナリズムを掲げてきた前衛党の権威や信用の失墜、新左翼における毛沢東主義の導入、マイノリティーという他者や「第三世界」の発見といった、いわゆる「六八年」の主題がおおかた出揃っています。この事件によって、日中戦争の引き金になった日本軍中国軍が衝突した蘆溝橋事件の日付である(三七年)「七・七」が、改めて注目されることになりました。そして、「七〇年七・七」を準備していくのです。

 今や「世界革命」や「第三世界」の「世界」は、カタカナの「セカイ系」となり、「インターナショナリズム」は、「グローバリゼーション」として易々と「国家」を超えていきました。それは、資本主義の作用であるとともに、それらを空疎なスローガンとしてしか掲げられなかった左翼運動の帰結でもあるでしょう。
 津村は、スローガンという「言葉=形式」に「意味」を取り返そうとしました。「第三世界」「世界革命」「インターナショナリズム」「国境を超える」というのなら、まず目の前にいる具体的な他者=マイノリティーと結びつくことを考えてくれ。津村にとって、李智成の死と引き換えの告発を、自ら「在日日本人」として受けとめることが、「私の内部の=内なる「日本」」とたたかうことであり、「自分の中に第二、第三のベトナムを作れ」というゲバラゴダールの言葉に「意味」をこめる実践だったのです。
 重要かつ困難なのは、こうした「差別論」を、自虐史観的なもの、すなわち「日本は悪かった」という坊主懺悔的な道徳主義として見誤らないことです。先の引用にあったように、「入管闘争を軸とした差別構造解体闘争」は、あくまで「社会各階層のあらゆるレベルで不均等に展開されつつある階級形成の運動」を背景にしているというのが津村の認識でした。
 すなわち、津村にとって差別とは、(ウォーラーステインアミン、フランクらの「従属理論」を先取りした)同じく「六八年」のイデオローグ岩田弘の世界資本主義論が示したように、資本主義の中核としての日本が、低開発の周縁部を従属させる、その「構造」そのものにありました(『われらの内なる差別』というタイトルは出版社によるもので、もともとは『差別の構造』というタイトルだったといいます)。
 津村は言います。「教育や労務管理の再編もが日帝アジア侵出と直結している、日本人全体をアジアの管理層にしていくという形で結び付いている」。
 基本的にこの構造は、認知労働など旧先進資本主義諸国の非物質的労働が、国外的には中国インド東南アジア中東アフリカ諸国などの工場労働者、国内的には下請け、非正規、派遣、パート、ワーキングプアなどの物質的生産に負っている現在の構造にまでそのままつながっているのではないでしょうか。資本主義という圏域の中で、必然的に搾取の構造は生まれ、労働者の配分や移動が起こります。この視点にたてば、それが外国人であれ、派遣労働者であれ、あるいは「在日」であれ、それらは国籍や人種を超えて同じ構造に折りたたまれた者たちであると見なすことができるかどうか。「六八年」においては、それが問われていたのであり、津村が強調したのは、ほかならぬそのことだったのだと思います。
 ひとつだけ、現在の見やすい例をあげます。たとえば、日本国内の「脱原発」は、中国インド東南アジアなど旧第三世界原発を輸出することではじめて可能になっています。世界の生産工場たる後者においては、多くの電力、多くの原発が必要だからです。
 そうしたなか、昨年の六月、カタルーニャ国際賞スピーチで、作家村上春樹は、原発事故の悲劇や核の恐怖を次のように訴えました。「ご存知のように、我々日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された経験をもつ国民です」、したがって「我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきでした」。
 「歴史上唯一、核爆弾を投下された」「国民」。これが、原爆死没者慰霊碑の言葉「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませんから」とセットで述べられていることからも明らかですが、このスピーチは、基本的に一国平和主義的でナショナルな認識に基づいています。私たちは、アラン・レネの映画のように、「あなたは「六八年」に何も見なかった」と言わねばならないのでしょうか。
 最初に述べたように、「六八年」は、こうした一国平和主義的でナショナルな認識を切断しようとしました。「六八年」を「べ平連」の事務局長として通過した吉川勇一は、自らがコミットした原水爆禁止運動について、次のように述懐しています。

しかし、もちろん十分ではなかった点もあります。たとえば、「世界のなかで唯一核兵器による被害を受けた国日本」という発想です。いまでもそう考えている人をときどき見かけます。原爆被害者は、広島長崎だけをとってみても、そのなかに膨大な朝鮮人韓国人中国人が含まれます。捕虜収容所にいたアメリカ兵も被曝しています。何よりも数が多かったのは核実験が行われたマーシャル群島、ビキニ島付近住民たちの被害です。しかし、そうした問題の広がりは、一九五五年の第一回原水爆禁止世界大会では意識されませんでした。ほとんどの人が、自分たちが唯一世界のなかで核兵器の被害を受けた国民だと思うだけで、それ以外の人びとは脳裏に入ってこなかったのです。(中略)
 一九六〇年代後半にならないと、マーシャル群島の人びとの話や、原子力全体の理解までは射程に入ってきません。(「原水爆禁止運動からベ平連へ」、『連続講演 一九六〇年代 未来へつづく思想』)

 今回、私が与えられたテーマは、「六八年」が文学に与えたインパクトというものでした。しかし、村上氏のスピーチを見るまでもなく、一方で「六八年」は活発に語られるようになっていながら、もう一方で現在急速にその核心は忘却され、認識ははるかに後退している気がしてなりません。とりわけ、「第二の敗戦」「第二の戦後」「戦後復興」などと言われる「三・一一」は、またしてもわれわれを、「四五年」を切断線とする一国史観へと引き戻そうとしているように思われます。
 津村喬は、一九七八年に『全共闘――解体と現在』に寄稿したあと、続けて八〇年に『全共闘――持続と転形』を自ら編集しなおします。それは「解体と現在」という思考の枠組が、抵抗と挫折の図式で貫かれている気がしたからだと。この、「六八年」を、抵抗と挫折の物語として語り継ぐことをよしとせず、再び「持続と転形」という文脈を作り直そうとした津村の意志をこそ、私たちは「持続」していくべきだと考えています。特に経験や記憶を共有せず、したがって具体的な手持ちの手段を何ももたない者にとっては、そのほかにいったい何が残されているのでしょうか。
 どうもありがとうございました。

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