略歴 [編集]
- 1982年3月 京都大学農学部食品工学科卒業
- 1987年3月 京都大学大学院農学研究科食品工学専攻博士後期課程修了
- 1988年7月 ロックフェラー大学ポストドクトラル・フェロー(分子細胞生物学研究室 1989年2月まで)
- 1989年3月 ハーバード大学医学部ポストドクトラル・フェロー(1991年7月まで)
- 1991年8月 京都大学食糧科学研究所講師
- 1994年4月 京都大学食糧科学研究所助教授
- 2001年4月 京都大学大学院農学研究科助教授
- 2004年4月 青山学院大学理工学部化学・生命科学科教授
- 2011年4月 青山学院大学総合文化政策学部教授
青山学院大学教授 福岡伸一1959年生まれ 分子生物学者 京都大学大学院終了後 ロックフェラー大学およびハーバード大学で博士研究員として勤務 帰国後 京都大学助教授などを経て現職 タンパク質の生体における働きを研究している07年に発表した『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)が各方面から賞賛を浴び65万部を超えるベストセラーに近著 『できそこないの男たち』(光文社新書) 『動的平衡』(木楽舎) 『世界は分けてもわからない』(講談社現代新書)にも注目が集まっている
「生命」はどう定義されるか
一般的な定義(従来の定義)
生命の定義=生命とは「自己複製」できるものである
DNAの二重らせん構造DNAは2本の鎖がお互いに他を写すネガとポジの対構造で成り立っている
なぜDNAは二重らせん構造をしているか
大事なのは二重構造 片方が失われてもネガからポジ、ポジからネガが複製できる
二重という構造の中にすでに自己複製をするための機能が内包されている
過不足無く機能と構造が一致している
分子生物学 自己複製できるメカニズムとして生命を見る
生命の”自己複製”という仕組み
機械的な 時計仕掛けの ミクロの精密な仕組みとして生命はある
遺伝子の組み換え 臓器の入れ替えによる延命 などは機械的な生命論のうえに成り立っている
ウイルスは「生命」か?
自己複製のシステムに乗る形でウイルスは増殖していく
ウイルスは生物と無生物の間をたゆたう存在だが 「自己複製する」という定義に立てば間違いなく生命
しかし ウイルスはある意味物質 それを生命と言い切っていいのかという疑問
生命観の歴史的変遷
どういう生命観を引き受けていくべきか
「生命は機械論で語れない」
遺伝子を漏れなく記載して遺伝子図鑑が作れれば、すべての部品が網羅できて、生命現象を解明できると思い分子生物学に進んだ
生命の要素を揃えても生命は生まれない
すべての遺伝子が解明でき 全部が合成できた
2万数千種類の遺伝子から作られたタンパク質をコップに入れてそこに生命が立ち上がるかというと立ち上がらない
生命として何が足りないのか
完璧な個体の中から一つの部品を技術的に作れなくすることが可能(ノックアウト・マウス)
マウスは壊れずにぴんぴんしている
生命が不具合を修復できる理由
たいへんなお金と年月をかけ 受精卵の段階で設計図を書き換え ひとつだけ部品を作れないようにしてできた個体を調べてみて 不具合があればその部品がないことによってその不具合ができていると考えられるため その部品の役割がわかるはず
しかし 何不自由のない完全に健康に見える個体が出来てしまう(機械では絶対にありえない)
いくら壊しても全然平気という方が多い
ひとつの遺伝子がたった1個の形質と対応しているのではなく これがなくても同じ状態を他のたくさんの遺伝子から成るタンパク質がカバーできてしまう
脳も同じような構造をしている
シナプス(神経細胞)のネットワーク
壊しても修復することが比較的短い時間で出来る
そういったものの方がむしろ生命現象の特徴としてより重要
自己複製という定義だけで生命を定義するのは大事な生命の側面を見失ってしまうのではないかという反省
生命は”動的平衡”で自らを維持している?
新しい定義
動的平衡=生命とは「分子を入れ替えながらその同一性を保っている」ものである
機械論的な生命観に対するアンチテーゼ
鴨長明 方丈記行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
なぜ食べるか
機械論的には エネルギーを燃やすための燃料を取って 内燃機関のように燃やして 動力を得ている
そうではなく
分子レベルで入れ替えが行われている
『体の細胞は常に入れ替わっている』
爪や髪の毛ならイメージできるが それだけではなく 分裂しないはずの脳細胞 心臓 カチッとしている骨や歯であっても その中身はものすごい速度で壊されながら作り変えられている
その流れを止めないために私たちはものを食べ続けなければいけない
循環が絶えず起こっているということが生命そのものである ということを証明した人がいる
ルドルフ・シェーンハイマー(1989-1941)生命は機械ではない 生命は流れだ
動的平衡を発見したシェーンハイマーの実験
ものを食べるということの意味を実験によって調べようとした
マウスの体はミクロなレベルでは炭素・水素・窒素等の集まりなので 粒子のかたまりと見ることが出来る
食べ物(チーズ)は植物性のものにしろ動物性のものにしろ 他の生物の体の一部だったものをその生物を殺めていただくものなので 食べ物も炭素・水素・窒素・酸素等の集合体と考えることができる
それまでの仮説
食べ物は燃やされて その燃えカスは二酸化炭素となって呼吸として出てきたり尿や糞として排出される そのことによって作られたエネルギーが自動車を動かすように私達の体を動かす
食べてしまうとその粒子がどこでどのように燃やされたかわからない
それを追跡できる方法がないか
アイソトープある原子と同じ原子だが中性子数の違いにより質量が異なるもの
元素としては同じ 栄養素としては同じだが 元素に目印をつける方法が生み出された
その結果
予想を裏切り (燃やされる部分ももちろんあったが)
半分以上の食べ物の元素はネズミの体の中 ありとあらゆるところに溶け込んでいった
私達がものを食べているというのは
食べて 中にあるものが出ていく 食べて 出て行く・・・・・・という流れの中に生命がある
ぐるぐるまわっていることが生きているということ
この流れを止めないことが食べるということの意味
排出された分子はどこへ?
呼吸、尿
今食べたものがでているのではなく 私達の体を作っていたものが出ている
体の古い一部が排出されている
ウンチの大半も食べたものではなく 古いものが出て行っている
アイデンティティーを支えているのは記憶
記憶は漏れなく保存されているという前提があるから昨日の自分と今日の自分は同じ
実際はそうではない?
記憶の分子は入れ替わっていないのか
記憶はどうやって保たれるのか?
まだ解明されていないことが多い
ジグソーパズルのモデル
私達の体を作っている分子 あるいは細胞は 単に寄り集まっているだけではなく 互いに他を律する形 ジグソーパズルのピースのように
ひとつの細胞があればそれを取り巻く全細胞 前後左右の細胞が 絶え間なく情報交換をしたりくっつきあったりして周りを認識している(空気を読み合っている)
ピースのひとつが分解され捨てられたとしても 周りのピースが8つ残っていれば真ん中の形は保存される
そうすれば新しく作ったピースをここに入れることが出来る
ジグソーパズル全体で同時多発的にいろんなピースを次々と更新しているにもかかわらず全体像は残る
全体像として書かれているものが記憶や自己同一性であり
それを担保している物質は絶え間なく入れ替わっている そこに相互補完性があるので全体としては変わらない
ごそっと無くなったり非常に長い年月が経てばジグソーパズルの模様も少しずつは変わっている
しかし私達はそれに気がつかない
恣意的に動かしている可能性もある
ヴィヴィッド(vivid)に覚えている記憶は そのことがすごく印象強いから残っているのではなく その記憶がその人にとってとても大切なペットのような記憶で 何度も何度も 思い返しているからヴィヴィッドに残っている
記憶としての形は 物質ではなく 細胞と細胞の相互関係として残っている 何回も思い出されることによって強化されているに過ぎない
健康的な食事で健康になれるのか
動的平衡を乱さないような 流れを止めないような分子・原子を摂り続ければ 私たちの動的平衡は エントロピー増大の法則が起こるまでは生き長らえる
エントロピー増大の法則形あるものは全て壊れる運命にあるということ
サプリメント 不足しがちなものを食べていくというのは効果があるのか
ビタミン欠乏による夜盲症な事例は確かにある
サプリメントは摂取した方がいい?
現代の日本において 普通の食生活で ビタミン欠乏に陥る患者はほとんどいない
何かを飲まないと健康にならない 体調がおかしい 肌の調子が悪い という状態が
ビタミンが欠乏している ミネラルが不足している と感じるのは
700万年間人間が置かれていた 不足や欠乏に対する恐怖の裏返しの強迫観念
現代の日本で不足しているものはほとんどない
それを食べてなんとなく直ったような気がするのはプラセボ効果である方が多い
プラセボ効果薬でないモノでも「薬だ」と言われて飲むと本人の思い込みから治療の効果が出ること
コラーゲンの入っているサプリを飲むと肌がスベスベする
というのは幻想
生物学的にはまったく無意味
コラーゲンへの大きな誤解
コラーゲンはタンパク質
食べているコラーゲンは牛や魚のコラーゲンタンパク
それは食べると消化酵素によって消化されアミノ酸に分解される
(コラーゲンはそんなに分解されやすいタンパクではないので排出されてしまう部分もある)
体の中に入ったアミノ酸は 体の中に散らばって ありとあらゆるタンパク質の材料になる
一方で 体の中のコラーゲンを作る仕組みは 必要なアミノ酸からコラーゲンを作るが
それはどんなタンパク質から由来するアミノ酸でも使える
だから 食べたコラーゲンが ダイレクトに体の中に入っていって細胞と細胞の間にはまりこんで何か不足を補うということは決して起こらない
なぜプラセボ効果は起きる?
いかに人間の健康状態が精神的な情報に左右されやすいか ということの表れ
ニセモノの薬がなぜ体に効くのか?
どんな薬でも その薬とそっくりの 薬方がない錠剤を使って飲ませると だいたい3割から4割の人に効果がある
面白いことに「これが新しくできた薬です」と言って実験するとプラセボ効果は高く出る
半年経って実験するとプラセボ効果は弱くなり
1年経って「これが1年前にできた薬です」と言ってやるとプラセボ効果はさらに下がっていく
「新薬で いまできたての最新の薬です」という情報が 身体性に何らかの影響を与えて直った気にさせてくれる
情報が何らかの形で脳内に 生化学的な変化をもたらして 体の治癒力を高める
分子生物学が進んだことによる発見
ES細胞
生物の受精卵から作られる
あらゆる細胞に変化できる細胞
iPS細胞
皮膚などの体細胞から作られる
あらゆる細胞に変化できる細胞
人が操作して医療に使っていくのはどうか
発見自体はすばらしいが
これがすぐに役に立つ技術として医療に使えるかどうかに関しては非常に慎重な立場が必要
万能細胞への期待と不安
ビジネスや産業化にみんなが猛進していることには危惧を感じる
生命は動的平衡状態にあるのでピンポイントで介入すると
押せば押し返す 沈めようとすれば浮かびあがってくるのが動的平衡なので
ES細胞にしろ iPS細胞にしろ ある種の操作を加えてプログラムを戻そうとする操作
その場限りにおいてはうまくいっているように見えるが
長いスパンで見ると 逆襲がきたり 思わぬ副反応が起きてきたり
時間の関数として生命現象を見なければいけないにもかかわらず
あまりにも短期的な その場限りの効果だけに目を奪われて
そこからバラ色の未来 人間がどんどん延命できるのではないか 再生医療のようなことが あまりにpositiveに語られすぎることについては慎重であるべき
改正臓器移植法(A案)脳死を「人の死」として定義し脳死状態に陥った場合家族の同意だけで臓器移植が出来るようになった
日本の法律は法改正により死の概念を変えてしまった
「脳死は人の死」 臓器移植法の改正
臓器移植のためだけではなく 一般的に 人の死が脳死であると定めてしまった
脳死問題は脳が始まる時期(脳始)の問題にも絡んでいる
脳死は本来なら古典的な死の 心臓死 呼吸停止 瞳孔の3大 を前倒しにした
私たちの体は60兆個の細胞から成っているので その細胞がすべて動的平衡を止めるときが本当の死
見極めきれないので心臓死付近に前倒しされた
同じ議論
人が死ぬのが脳であれば脳が始まるときが人の始まり
脳死=死が提起する問題
脳が始まるのは 脳細胞ができてそれが集まってシナプスを形成し 脳が脳波を生み出して おそらくその頃に意識が作られる
受精後27週目ぐらい
脳死の議論はまだ生きている身体を死体とみなすことが出来ることによって臓器を取り出すことを可能にした
逆に
脳始(受精後27週目)が人の始まりであれば その前の段階は細胞の塊なので まだ人ではないから そこからES細胞のための細胞をとったり 再生医療のための組織をとっても殺人にならないという議論
そもそも臓器移植という医療行為自体が本当に有効な医療行為なのかどうか
ちゃんと検証しなければいけない
動的平衡論で臓器移植を考える
動的平衡の生命感から見ると 個別のパーツとしての臓器というのはない
臓器というふうに見えるが ジグソーパズルの絵柄がそういう風に見えるだけで
細胞のレベルでは全体と緊密に連絡している
あるところだけを切り抜いて それをこっちからこっちへ持ってくるというのは 動的平衡を乱す最大の理由
切り取られれば その時点で動的平衡状態は終わる
倫理学的な問題
移植を受けなければ死ぬという人にとって どちらの選択肢が魅力的か 有効なものか
科学的な議論を超えて倫理的な議論
そこにオプションを残すことは大事
臓器移植を選ぶ人が選べるようにしておくことは大事
拒否をしないとドナーになる可能性が
あまねく脳死が人の死となると 脳死状態になれば あらかじめ自分が拒否しておかないと臓器移植の対象になってしまう
ネガティブ・デフォールト
臓器移植のプレッシャーが遺族にかかるのはおかしい
***
爆発的流行へ!?新型インフルエンザ
一般的に夏には流行しないだろうと多くの専門家が言っていたが
(実際には)夏には着実に流行して感染例が増えていって亡くなる方もでてきている
秋・冬になると感染爆発になるのではないかという危惧
いま一番必要なのはタミフルでもワクチンでもなく ある種の冷静さ
「新型インフルエンザ」を「新型」と呼んでいるのは日本だけ
すべてのウイルスは絶え間なく変化しているので おしよせてくるウイルスは結局どれも新型
恐れなければいけないとしたら 非常に感染力が強くて致死率が高いものが新型インフルエンザと定義されて
十分な体制が必要
今来ているのはブタ由来と言われている H1型 従来型・季節型と基本的には変わらないタイプ
(ブタを経由しているので少しは新しい)
季節型の普通のインフルエンザと同じように考えるべき
季節型だとある程度免疫記憶があって 免疫機構が働くが 今回の新型は免疫が効かないといわれているが?
まだデータが十分ない
”新型”の感染力はなぜ強い?
毎年襲ってくる季節型も非常にたくさんの人がかかる(たくさんの人が亡くなっている)
感染すること自体は いくら免疫があっても感染は成立してしまう
それが重症化するかどうかが免疫力
今回のウイルスも感染を完全に防いだり 最小限に抑えることは
これだけ人が右往左往している現代社会においては
感染を止めることは出来ない
大事なことは 重症化して 亡くなる人をできるだけ最小に抑えること
だから 限られた医療資源はそちらに向けられるべき
感染を防止することにあまりに極端な注意を向けられると 却って死者を増やしてしまう
重症化しやすいハイリスク群(妊婦さん、糖尿病を持っている人、心臓病や肺疾患を持っている人、幼児)を対象とすべき
それは季節型のインフルエンザとまったく同じ
タミフルで”新型”は抑えられるか
タミフル耐性菌・新型インフルエンザがすでに出てきている
タミフル耐性菌が全部生き残ってしまえばタミフルはもう使えない
日本はタミフルを使いすぎ
抗生物質も(日本は)使いすぎたせいで抗生物質耐性菌ができてしまった
動的平衡の観点に立てば あるピンポイントで介入すればそれを無力化するように平衡状態は動くので
どんなものであれ耐性菌ができるのは時間の問題
普通 自然はある種の抗生物質のようなものを作り出しているが それは敵が来襲してきたときに緊急体勢として一挙に出して敵をやっつけたらそれが消えてしまう
常時いつもある状態では そういう防御システムは働かないので 均衡が保たれている
それが人為的にいつでもどこでも大量に抗生物質が存在する あるいはタミフルが存在するという人工的な環境を作れば それはウイルスや病原体に対して進化の実験場を与えているようなもの
タミフルを使えば使うほど タミフルに対する変質を変えていく可能性が高くなる
現実に出ている
タミフルが作るタミフル耐性菌
N1型だと流行性でも出ている
季節性のインフルエンザでもタミフル耐性ウイルスができている
新型でもすでに発見さえれいる
使えば使うほど無力化してしまう 抑制的に使うべき
本当にウイルスに対して闘う あるいは病気から直るのは 薬が直してくれるのではなくて
私たちの動的平衡の力が回復してくれる 免疫力・抵抗力
そこを健全に保つことが一番大事
目先のワクチン タミフルを奪うことが自分たちを病気から守ることではない そこのそもそも論が欠けている
ワクチンの取り合い 緊急輸入
メーカーは副作用が起こっても免責 つまり問わないでくださいという一筆をつけて開放しようとしている
一時かなり問題になった異常行為
副作用が心配されるインフルエンザワクチン
大原麗子さんが亡くなったギラン・バレー症候群 インフルエンザ・ワクチンの副作用として知られている
ギラン・バレー症候群筋肉を動かす運動神経が働かず両手両足に力が入らなくなる難病
ワクチンを大量につかうと顕在化
ハイリスク群に対しては重特化 使わざるを得ない場面は確実にある
使いすぎていいか
リスク・ベネフィット
説明されてから
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