(1)
“ラッキードラゴン”の衝撃/米が「広島に原発を」
1954年3月1日早朝、中部太平洋のビキニ環礁。米軍の実験用水爆「ブラボー」がきのこ雲をあげ、空を真っ赤に染めました。
爆心から160キロメートル付近を航行していたマグロ漁船「第五福竜丸」に、水爆がまき散らした“死の灰”が降り注ぎます。乗組員23人全員が被ばく。無線長の久保山愛吉さんは半年後の9月23日に死亡しました。
世界から非難
米ソの核軍拡競争が幕を開けたこの時代、第五福竜丸=「ラッキードラゴン」事件は米国に重大な打撃を与えました。アイゼンハワー大統領が53年12月8日、国連総会で演説し、「原子力の平和利用」(アトムズ・フォー・ピース)を訴えたばかりでした。
この演説で、同盟国や友好国への濃縮ウラン100キログラムの提供と国際原子力機関の創設を提唱。原子力発電で先行した英国、ソ連に対抗し、核態勢の主導権を奪還することが目的でした。しかし、第五福竜丸の乗組員やビキニ住民を被ばくさせたことで、全世界から非難を受けたのです。
日本国内では事件を契機に反核平和運動が起こり、翌55年に第1回原水爆禁止世界大会が開催されました。
「今やわれわれはヒトラーと比較されている」。ダレス国務長官の嘆きの言葉です。
この危機をどう脱するのか。安全保障政策の最高決定機関である米国家安全保障会議(NSC)に設置された「運用調整委員会」(OCB)。「読売」が3月16日付の報道で第五福竜丸の被ばくを暴露してから、わずか6日後の22日の会議で、「日本に実験用原子炉を提供する」との提案がなされました。
解禁された文書に、その理由が記されています。「原子力の非戦争使用での攻勢は、ロシアによるプロパガンダへの対抗措置として時宜にかなっており有効である。加えて、日本ですでにおこっている損害を最小限に抑えることができる」
「平和利用」に
日本への原発売り込みは、さらに特別な意味がありました。
「広島と長崎の記憶が鮮明なときに、日本のような国に原子炉を建設することは劇的であり、これらの街での大虐殺の記憶から遠ざけるキリスト教徒としての行いである」
米原子力委員会のトーマス・マリー委員のこの言葉に示されているように、米国による原爆投下の責任をあいまいにし、日本国民に原発を受け入れさせることで、「原子力の平和利用」の象徴にしようという狙いがありました。(ニューヨーク・タイムズ54年9月22日付)
さらに露骨なのが、商業原発推進派のシドニー・イエーツ下院議員。広島に6万キロワット級原発を建設する法案を提出しています。(ワシントン・ポスト55年2月15日付)
広島への原爆投下は実験的な要素が強かったと言われています。今度は、技術的に未完成の原発を建設し、新たな核の実験場にしようというのです。
◇
世界で唯一の被爆国でありながら、米仏に次ぐ世界第3位の原発大国になった日本の歩みは、米戦略と密接に関わっています。原発の源流を日米関係から探ります。
(つづく)
(「しんぶん赤旗」2011年6月7日)
(2)
中曽根と正力/つきまとう諜報の影
2億3500万円。日本で初めて計上された原子炉築造予算の金額です。
ウラン235
1954年3月3日、中曽根康弘衆院議員(後の首相)らが中心となり、当時の保守3党(自由党、改進党、日本自由党)が突如、54年度政府予算案の修正案を衆院予算委員会に上程。翌4日には衆院通過を強行しました。
ビキニ水爆実験で第五福竜丸が「死の灰」を浴びた直後で、被ばくの事実が暴露される約2週間前でした。
2億3500万円という数字にどういう根拠があったのか。中曽根氏は、著書で「(核燃料となる)ウラン235の二三五ですよ(笑い)」(『天地有情 五十年の戦後政治を語る』1996年)と述べています。
当時、日本では原子力の研究体制さえなかった時代。日本初の原子力予算が何の根拠もなかったことを示しています。
こうした暴挙に、マスメディアや学界からは「札束で学者の頬をひっぱたくものだ」という批判が噴出しました。
なぜ中曽根氏が推進の先頭に立ったのか。そのカギは、前年に開かれたハーバード大学の「夏季国際問題セミナー」にありました。
中曽根氏(当時、改進党)は、「マッカーサー司令部のCIC(対敵国諜報部隊)に所属して、国会や各党に出入りして情報活動をしていた」(前出の著書)人物からもちかけられて、このセミナーに参加します。セミナーを統括していたのは後の大統領補佐官・キッシンジャー氏。中曽根氏はセミナー後、米国の原子力施設を見学するなどし、原子力研究に慎重な日本の学界の状況を「政治の力で打破する」(同)と決意したといいます。
世論誘導図る
米原子力戦略に従い、日本への原発導入に積極的に動いたのは、中曽根氏だけではありません。その一人が、当時、読売新聞社主で日本テレビ社長だった正力松太郎氏(後に政府の原子力委員会初代委員長)です。
第五福竜丸事件を契機に原水爆禁止の世論と運動が全国に燃え広がる中、“総理大臣への野望”を抱いていた正力氏は、政治的求心力を得るため原子力に着目。新聞とテレビをフルに使って「原子力の平和利用」キャンペーンに打って出ます。
正力氏は55年5月、米国から、世界初の原子力潜水艦ノーチラス号を製造したジェネラル・ダイナミックス社のホプキンス会長らを「原子力平和利用使節団」として招聘。同年11月から「引き続き巨費を投じて米国務省と協同で原子力平和利用大博覧会を全国で開催」し、「それを読売新聞と日本テレビの全機能をあげて報道し、世論の一変を期した」のです。(正力氏の証言、『原子力開発十年史』65年)
正力氏の腹心、柴田秀利氏(後の日本テレビ専務)は、米政府の情報員とたびたび接触。その中で柴田氏は「日本には昔から、“毒は毒をもって制する”という諺がある。…原爆反対を潰すには、原子力の平和利用を大々的に謳い上げ」ることが必要だと提案したことを明らかにしています。(『戦後マスコミ回遊記』85年)
(つづく)
(「しんぶん赤旗」2011年6月8日)
(3)
軍事優先の開発/原潜からはじまった
東日本大震災当日の3月11日に炉心溶融(メルトダウン)し、翌12日に水素爆発をおこした福島第1原発1号機は、米ゼネラル・エレクトリック(GE)社が建造したものでした。
2社が独占的
日本で商業用原子炉の運転が本格化した1970年代前半に建設された原子炉はいずれも、米国のGEとウェスティング・ハウス(WH)が受注しています。(表)
米国の原子力開発はもともと、原爆開発や原子力艦船の建造といった軍事目的で進められてきました。
商業用原発の実用化が進んだ50年代、米国は54年に世界初の原潜ノーチラスを進水させ、核兵器は53年の1000発から、60年には2万2000発に増えました。
GEとWHは、軍事開発から商業利用にいたるまで原子力開発をほぼ独占的に受注してきました。
両社は米原子力委員会の下で艦船用の原子炉を開発し、アイゼンハワー大統領はWHの加圧水型原子炉(PWR)を採用。米海軍は現在にいたるまでこの型を使用しています。
米国は当初、原子力発電には消極的でしたが、英国とソ連が原発の運転に成功すると路線を転換。急きょ、WH社の原潜用原子炉を陸揚げし、57年にシッピングポート原発の運転を開始しました。同原発の運転は米海軍が主導しました。
原発 | 主契約企業 | 運転開始 |
敦賀 1号機 | GE | 70・3・14 |
美浜 1号機 | WH/三菱 | 70・11・28 |
福島第1 1号機 | GE | 71・3・26 |
福島第1 2号機 | GE/東芝 | 74・7・18 |
一方、GE社はWH社に対抗するため、沸騰水型原子炉(BWR)の開発を続け、59年10月にドレスデン原発で臨界を達成しました。それから数年後に、日本との契約にこぎつけたのです。
構造的な欠陥
軍事的なニーズを発端として、ほとんど駆け足で開発された原子炉には、構造的な欠陥がありました。
米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版=3月15日付)によれば、福島第1原発など日本に9基ある「マーク1」型について、米原子力委員会は72年、原子炉の格納容器が小さいことを問題視。水素がたまって爆発した場合、格納容器が損傷しやすいとして「使用を停止すべきだ」と指摘していたのです。
この警告どおり、福島第1で1号機の格納容器が損傷しました。
さらに、福島第1原発で1~4、6号機の開発に関わった東芝元技術者の小倉志郎氏は3月16日、外国特派員協会でこう指摘しました。「GE社の原子炉はそもそも津波を想定しない設定だった。2号機以降は日本で建設したが、1号機の設定が踏襲された」
津波で非常用電源が喪失し、原子炉の冷却機能が失われる危険性は、日本共産党福島県委員会などが繰り返し、警告していたことでした。
日本共産党の吉井英勝議員は5月27日の衆院経済産業委員会で、福島第1原発事故に伴うGE社の製造者責任を追及。外務省の武藤義哉審議官は「現在の日米原子力協定では旧協定の免責規定は継続されていない」と答弁し、協定上は責任を問うことができるとの見解を示しました。
(つづく)
(「しんぶん赤旗」2011年6月9日)
(4)
原子力協定の攻防/湯川氏、抗議の辞任
「本件発表は慎重を要する」。外務省の解禁文書(1955年3月18日付メモ)にある「本件」とは、同年1月11日、米国が日本政府に示した、対日原子力援助に関する口上書のことです。
アイゼンハワー大統領が提唱した「原子力の平和利用」政策の具体化として、濃縮ウランや原子炉の提供が盛り込まれました。井口貞夫駐米大使はただちに、「日本においても推進するとの建前をとること内外共に時宜を得たる」(55年1月25日付公電)との見解を示します。
しかし、「朝日」同年4月14日付で暴露されるまで、口上書の存在は極秘扱いでした。「原子炉建設に関する米国の協力に対する一部学界の反対ないし原子力問題に関する敏感な一般世論に無用の刺激を与えることを避けるため」(前出メモ)という理由からでした。
自主・民主・公開
「科学者の国会」と言われる日本学術会議は、第五福竜丸事件が明らかになった直後の54年3月18日の原子核特別部会で、「自主・民主・公開」の原子力研究3原則を決めました。
ところが原子力協定の米国案9条に「動力用原子炉(原発)についての協定が行われることを希望しかつ期待し、その可能性について随時協議する」との規定がありました。
濃縮ウランも、原子炉も米国産。しかも、米原子力法に沿って機密保護まで求められていたのです。「自主・民主・公開」の3原則に真っ向から反する内容でした。
財界は米国からの原子炉購入を強く主張しましたが、政府は9条の削除と機密保護条項の適用除外の要請を決断。「動力用原子炉に関する日米間協定の実施から独占的米国資本の導入を誘致し、またわが方の学術的研究の自主性を毀損する恐れある云々との有力にしてかつ多分に感情的なる意見をも考慮」(55年6月7日、井口大使宛て公電)した結果でした。
慎重でなければ
55年11月、原発建設を前提としない「日米原子力研究協定」が調印されました。
自立的な原子力研究が担保されたかに思われましたが、初代原子力委員長に就任した正力松太郎氏は56年1月4日、「5年後に原発建設、米国と動力協定の締結」構想を発表しました。14日には米原子力委員会のストローズ委員長が「正力構想」に対する異例の「歓迎」声明を出しました。56年末には原子力協定見直し作業が始まります。
これに抗議して原子力委員を辞任したのが、日本人初のノーベル賞受賞者の物理学者・湯川秀樹氏でした。湯川氏は辞任直前、こう訴えました。「動力協定や動力炉導入に関して何等かの決断をするということは、わが国の原子力開発の将来に対して長期に亘って重大な影響を及ぼすに違いないのであるから、慎重な上にも慎重でなければならない」(『原子力委員会月報』57年1月号)
しかし、原子力委員会は歴代自民党政権に牛耳られ、安全性を二の次にした原発推進機関に変貌してしまいました。
(つづく)
(「しんぶん赤旗」2011年6月10日)
(5)
「逆立ち」のスタート/米のウラン義務付け
米国、フランスに次ぎ、世界3番目の54基もの原発が林立する日本―。米国は、原子炉の燃料となる濃縮ウランの提供をテコにして、日本を危険極まりない“原発列島”に仕立て上げました。
「建前」が一変
この濃縮ウラン提供を取り決めたのが、日米原子力協定です。
最初の協定は、1955年11月調印の「日米原子力研究協定」です。「研究」用に米国が日本に濃縮ウランを最大で6キログラム(ウラン235の量)貸与することを定めました。
日本の原子力開発の動きは当初から米国の世界原子力戦略に呼応していましたが、建前上は「自主開発」が基本とされていました。
政府の原子力委員会が57年12月に刊行した『昭和31年版原子力白書』でも、「わが国の原子力開発がスタートした際には、わが国の原子力開発はすべて国産技術を基礎から培養しようとする心構えであり、原子力技術の育成計画もこの線に沿ってたてられていた」と述べています。
ところが「日米原子力(研究)協定が登場するにおよび事情は一変した」(前出の『原子力白書』)のです。
日本政府は、日米原子力研究協定の仮調印(55年6月)を受け、貸与されることになる濃縮ウランを使用するため、米国から研究用原子炉の購入を計画。「濃縮ウランの受入れは、小規模かつ長期にわたって低い処から自力で原子力技術を養ってゆくという考え方を、海外(米国)からの援助を取入れて急速かつ大規模に行うという風に計画を変える大きな要因となった」(同)のです。
原子力の研究計画もないのに原子炉築造予算を計上(54年度)し、導入する炉型の判断もなしに濃縮ウラン受け入れを決め、炉を設置する研究所(原子力研究所)の設立(56年6月)は最後になりました。こうしたやり方は、世界に例のない「逆立ちした研究のスタート」と指摘されました。
30年分も購入
こうした「逆立ち」は、それ以後も続きます。
55年の研究協定は58年、動力用原子炉の開発を目的にした新たな協定(6月調印)に置き換えられます。同協定は、米国から日本への濃縮ウラン提供量を拡大し、最大で2・7トン(ウラン235の量)を貸与できることを明記。これと一体に実験用動力炉が導入されました。
さらに、68年2月に調印された日米原子力協定では、日本で建設中または計画・考慮中の原発に、今後30年間必要なウラン235の量を個々に明記。その総量154トンを日本が米国から受け入れることが義務付けられました。その中には、東日本大震災で事故を起こした福島原発も含まれていました。
(つづく)
(「しんぶん赤旗」2011年06月11日)
(6)
核燃料サイクル計画/日本は施設の実験場
日本で福島第1原発など商業用原子炉の建設が始まったばかりの1967年4月、政府の原子力委員会は、新たな「原子力の研究、開発及び利用に関する長期計画」を発表しました。
同「計画」では、日本の原子力発電が今後、長期間にわたり米国が開発した軽水炉に依存し、その燃料である濃縮ウランの供給も米国一国に頼ってしまうことは、原子力開発の自主性を確保する上で「必ずしも望ましいことではない」と強調していました。
すべて軽水炉
濃縮ウランの主な輸入先と 数量・割合(2004~10年の合計) | |
(1)アメリカ | 4602.7トン(73%) |
(2)フランス | 1146.2トン(18%) |
(3)イギリス | 532.3トン(8%) |
(4)オランダ | 30.2トン(0%) |
(5)ロシア | 25.8トン(0%) |
全体計 | 6306.9トン |
ところが現在、日本にある原発54基すべてが、米国で開発された加圧水型軽水炉(PWR)と沸騰水型軽水炉(BWR、改良型4基を含む)です。
濃縮ウランは、米国からの輸入に100%頼っていた当初に比べれば、フランスやイギリスなど輸入先の拡大が図られてきたものの、今でも7割が米国からの輸入に頼っています。(表)
原子力委員会の『昭和62年版原子力白書』は、日本の原発事業者が米国以外からの濃縮ウランを混焼する場合、30%を上限にする契約を結んでいると指摘。制約が課されていることを明らかにしています。
さらに重大なのは、1988年の日米原子力協定で、「核燃料サイクル施設」の建設をはじめ危険な計画が新たに大きく動き出したことです。協定の付属書4は、使用済み核燃料からウランやプルトニウムを取り出して再び燃料にする「六ケ所村商業用再処理施設」(青森県)や、使用した以上の燃料(プルトニウム)を生み出せるとした高速増殖炉「もんじゅ」(福井県)などを列挙し、米国の同意が与えられています。
米国自身は技術的に未完成だとして再処理施設の運転は行っていないにもかかわらず、一連の施設建設への同意は、日本を「実験場」とすることを意味しました。
政権交代後も
こうして進められてきた原発の大量建設は、民主党政権になっても引き継がれました。
2010年6月、菅直人首相は、総電力に占める原子力発電の割合を20年後に50%以上にすることを想定し、最低でも14基以上の原発を新増設するとした「エネルギー基本計画」を閣議決定。11月にはオバマ米大統領との会談で、原子力分野での日米協力の推進を確認しました。
今年3月の東日本大震災による福島原発事故を受け、菅首相は「エネルギー基本計画」を「いったん白紙に戻して議論する」と表明しました。しかし、5月末のフランスでの主要8カ国首脳会議(G8サミット)では、オバマ大統領らを前に「最高度の原子力の安全を実現する」などと表明し、原子力発電を今後も続けていくことを国際公約しました。
「安全神話」が完全に崩壊した福島原発事故の現実を見れば、「最高度の安全」という首相の言葉はむなしく響くばかりです。日本が原発ゼロの道に踏み出すためにも、対米従属のくびきから抜け出すことが必要です。
(おわり)
(この連載は、榎本好孝、竹下岳が担当しました)
(「しんぶん赤旗」2011年6月12日)
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