障害児教育と社会ダー ウ イ ニズム超寛の問題 サイズ:0 | 見る:312 | のページ:20
大阪教育大学紀要 第W部門 第32巻 第1号 57~76頁 (1983年9月)障害児教育と社会ダーウィニズム超克の問題い たに よし のり井 谷 善 則大阪教育大学養護教育教室(昭和58年4月22日受付) ダーウィンの進化論は自然科学領域の研究成果として歴史的に高く評価されるものである。同時に,この進化論の中にある自然淘汰,適者生存,優勝劣敗,生存闘争等々...大阪教育大学紀要 第W部門 第32巻 第1号 57~76頁 (1983年9月)障害児教育と社会ダーウィニズム超克の問題い たに よし のり井 谷 善 則大阪教育大学養護教育教室(昭和58年4月22日受付) ダーウィンの進化論は自然科学領域の研究成果として歴史的に高く評価されるものである。同時に,この進化論の中にある自然淘汰,適者生存,優勝劣敗,生存闘争等々の考え方は,生物の社会のみならず人間の社会のあり方の原型でもあると解釈され,社会思想に大きな影響を与えた。しかし,この考え方を基盤とする社会ダーウィニズムは障害児教育の視点からはとうてい承服できないものである。 そこで,本稿では社会ダーウィニズムの基盤となっている進化論そのものの欠陥を,棲み分け論,分子進化中立説,ゲラダヒヒ社会などを参考にしながら指摘した。進化論そのものの難点に光を当てることにより,社会ダーウィニズムの基盤の弱さを明きらかにした。 一方,社会ダーウィニズムは,進化論の生物学的正誤とは別個に,思想として一人歩きをしている一面がある。そこで独立した思想としての社会ダーウィニズムに対して,人間の文化のあり方からの対応を考えた。その場合,発展社会から減速社会への転換を計ろうとしている現在,特に障害児の生き方が示唆に富むものであることを指摘した。そして,障害児や老人をくみこんだ多元的価値社会が,真に,人間性を擁護するものであると把えた。これらの問題を踏まえて,本稿において,障害児教育と社会ダーウィニズム超克の問題の核心と周辺を考察した。1 自然淘汰による進化の問題 1 ダーウィンのいう進化 ダーウィンのいう進化とVう考え方を一言で述べると次のようにいえる。生物は常に多産である。その個々には個体差がある。過剰繁殖した生物個体間においては,生き残るために競争が生まれる。その際,他の個体より少しでも有利な個体差をもっものが適者生存をする。この勝ち残った個体がその有利な変異を次代に伝える。この競争の結果の集績として進化が成立するというのである。このことをダーウィンは次のように説明している。「各々の種は,その存続可能な数より遥かに多くの個体を産出する。その結果,生存闘争が頻発するので,従って,どれかの生物が複雑なかっ,時々変化する生活条件の下において,もし少しでも自己に適したように変異すれば,その生物は存続の機会をもつことが多くなり,こうして,自然に淘汰せられることになる。淘汰せられた変種は遺伝という力強い原則によって,その新しい変容した形態を増殖するようになるだろう。1)」ここでは生存にとって有利な変異が自然淘汰という作用を通して進化に対して重要な役割を果すことが述べられている。 生存にとって有利な変異をもっものが,生存競争に勝ち残り,進化する例はいくつか考えられる。最近のものとして,抗生物質耐性菌を挙げることができる。ペニシリンのよう58 井 谷 善 則な抗生物質は,初めて使用された時,ほとんどの菌に対して驚異的に有効であった。しかし,抗生物質を使用する機会の増加にっれて,従来は非耐性菌であったものの中に,抗生物質に少し適応する変異をもっ菌が出現した。そうすると,適者生存,自然淘汰の論理どおり,抗生物質に対する非耐性菌が滅んでいく一方で抗生物質に対する耐性菌が適者生存し,しかも次第に進化した。その結果,古い型の抗生物質は効かなくなり,新型の抗生物質の開発の必要に迫られた。薬と菌の攻防の歴史の中に,進化論でいう適者生存,自然淘汰,進化のひとつの実例をうかがうことができる。 生物の世界の問題としては,一応,以上の説明にうなづける。それでは,この考え方は人間に対してはどのように適用されるのであろうか。ダーウィンは,生物の進化のためのみならず,人間の進化,発展のためにもこの適者生存,自然淘汰が適用されることを次のように述べている。「すべての人間が自由に参加できる競争が,あってしかるべきである。そして最も有能なものは人生においていちばん成功し,だれよりも多くの子供を育てることができるというわけであるが,これを法律とか慣習などで妨げることがあってはならない。2) vまた, 「もし人間が,原始時代に自然淘汰に支配されなかったならば,人間はきっと現在の地位た達しなかったであろう。3)」ダーウィンは『種の起源』において主に生物社会のあり方を検討した。しかし,ダーウィンの進化論は,生物社会のみに必ずしも限定した考え方ではなく, 『人類の起源』という書名にもみられるように,人類社会のあり方にも関与するものであることがうかがえる。人間の知能,巧緻性,集団性,組織力も人類の生存に有利な方向で進化したとみる。生存に有利な差異をもっものが生き残り,不利な差異をもっものが滅亡するという適者生存,自然淘汰は,人類の進化・発展のすじ道でもある,とダーウィン自身も考えていたといえよう。生物あるいは人間は,進化の歴史において,その全ての機能や構造を生存に有利な変異の集積として現在あるような様態になして来たといえる。この過程には生物と人間に区別はみられない,というのがダーウィンの進化論の特徴である。 2 進化論に難点の存在すること 進化論の考え方は説得力のあるものであり,多くの人々から受け入れられたものである。しかし,この考え方にも種々の難点が存在することも事実である。現代の生物学・科学の研究成果から進化論を構成する幾っかの基本的前提を吟味すると,多くの難点が存在する。極端な評価を下す場合には,ダーウィンの自然選択説の構成全体をも否定可能であるという。 ノーマン・マクベスは『ダーウィン再考』 (草思社)の中で最適者という考えにかかわって次のように述べている。だれが最適者であるかを決定する際,生き残りという試験による以外に基準はない。しかし,このことはある個体が最適であるから生き残り,生き残るがゆえに最適であるということを意味する。これは循環論法であり,なんであれ適しているものは適しているというのに等しい,とマクベスは述べ自然選択による適者生存論は何も説明していないという。 基本的前提のいくつかを吟味することは次節以降でそれなりに取り挙げたい。ここで一つだけ獲得形質が遺伝するという前提にっいて記しておく。肉体労働者は腕をよく使うので腕の筋肉が発達し,その子どもに腕の筋肉がよく発達する子どもが生まれ,知能労働者は頭をよく使うので頭の働きが迅速になり,その子どもの頭の働きが迅速になるような遺伝がなされる,という考えがこの前提である。しかし,この獲得形質が遺伝するという考えは,現代においては,科学的根拠が全くないとして否定されている。進化論構成要素の障害児教育と社会ダーウィニズム超克の問題 59一っである,獲得形質は遺伝するという前提は,否定されているのである。 有利な変異・不利な変異ということに関して,生物の場合と人間の場合を同列に論じることができるであろうか。生物の場合の有利さ・不利さは個体自身の比較的単純な要因による。たとえば適応に有利な変異は体の変異である。体を変えることによって変化する環境に適応できるかどうかが決まる。しかし,’人間の場合の有利さ・不利さは,個体自身のあり様以外に多様な要因がかかわる。たとえば,変化する環境に適応する有利な条件は,体を変えることによるのではなくて,衣服,食物,住居その他を変えることによって生まれる。生存に対して有利・不利,強い・弱いというこ、とに関して,生物の場合は単純な生物的強さ・弱さが問題となるが,人間の場合は社会的強さ・弱さが問題となり,両者の間には質的な違いがある。有利な変異が,生物では単純に身体的であるが,人間の場合は人間の身体的要因以外の多くのものに関係し,多様であり,場面的である。人間におLいては,あの面では強いがこの面では弱いというような多様な多面的変異が評価されるべきであろう。生物の世界では,個体数が多くなり過ぎて食物に不自由するがゆえに,生存闘争が生まれて自然淘汰がなされるという。しかし,人間の世界では,人口が減少し食糧が十分にある場合にも戦争はある。人間の世界と生物の世界の連続と非連続を含めて進化論を再考する必要がある。 また一方,生物の世界はダーウィンのいうほどそんなに生臭い,残酷な世界なのだろうか。ある進化学者にいわせると,ダーウィンのいうような論理から進化した生物はまだ二・三種しか確認されていないという。そして,ダーウィンの論理の大きな柱はことごとく覆されたという。もしそうだとすれば,適者生存・優勝劣敗・弱肉強食はほんの一部のあるいは例外的な自然の断面であり,自然の摂理とはもっと穏やかで安らかなものではないだろうか。400年前(江戸時代)のイヌと現代のイヌはほぼ同じだし,2000年前(古代ギリシャ)の人間と現代の人間はそれほど異ならないのではなかろうか。 自然界の摂理に反して,人間がかってに打ち立てた形而上学としての進化論に基づいて,適者生存・優勝劣敗・弱肉強食さらには能力主義・リーダー制・順位制を人間の世界にあたかも根源的なもののごとく説得させてきたのではなかろうか。本当の自然の摂理はそうではなくて,温かく穏やかで平安を好み,お互いが寄添うているものではなかろうか。人間の歴史にしても,それは弱い者が支えた歴史である。社会的弱者を切り捨てたら人間の社会は成立しえないだろう。これらの疑問に直面したら,進化論を起点として,障害児教育のあり方や人間のあり方を少し考えてみる必要が生まれてくる。1 社会ダーウィニズムから能力主義への再考 1.社会ダーウィニズム もともと進化論は自然科学の研究成果である。当時,特に自然科学は自然法則の発見と記述を任務とし,思想・価値・政治とは無関係のものと考えられていた。しかし,進化論は,生物学的意義とは別に,哲学・思想へくいこんで行った。没価値的自然法則としての側面とは別に,社会的・思想的側面からの影響をもたらした。そして現代においても,ダーウィンの進化論は,自然科学の問題としてよりもむしろ人間社会のあり方への影響が大であるものとして,人間科学の立場から再考しなくてはならない。自然科学の分野でダーウィンの理論が種々な面からたとえ否定されていようとも,人間科学には深く広く根づいているといえよう。進化論が人間社会のあり方へ影響したひとっの典型を社会ダーウィニ60 井 谷 善 則ズムの中に見ることができる。 社会ダーウィニズムは主にドイツで育まれた思想であるが,一瞥してみよう。人間社会の中においても,生存競争で自然淘汰が行われ,適者が生き残り,その適者が社会・人類の発展・進歩を担うというのである。逆にいうと人類の退化を阻止するために,劣者を不適者として淘汰することを正当化さえするのである。社会ダーウィニズムを唱える人は人間が生物である限り生物社会の原理が人間社会へ適用されて当然と考える。生物社会で進化のために自然淘汰が不可欠だということであるから,人間社会にも当然この考えが適用されるべきだというのである。最も典型的なもののひとつとして,ナチズムが社会ダーウィニズムをどうとらえて生かしたかを一瞥しよう。 「ナチズムは反科学・反知性だとみなされてきた。なるほどナチスは知識人を軽蔑し,大量のユダヤ人科学者を追放した。しかし一方で,ナチスの論の組み立て方は恐しく合理的で”科学的”であった。ナチスの悲劇はある意味で非合理なほど徹底して合理主義を貫徹してしまったところにある。ヒトラーの根本資料の一っ『食卓談話』に多出する言葉の一つは科学(Wissenschaft)であり,ヒトラーは自らの世界観や政策が科学的根拠に裏づけされていると信じていた。そしてその基本にあったのは生物学主義的世界観であった。ナチスは政治のレベルでも生物学的・医学的用語を濫用したが,これは単なる比喩ではなかった。国家は生物学的人種が構成する”民族共同体”であり,常により広い”生存圏”を求めて他の民族と戦闘状態にある。そして最良最強のもの,すなわちゲルマン民族が勝利し世界を支配するのは歴史の必然と考えた。ヒトラーは生物学的な人種概念と国家とを結びっけたところに自らの独創性を感じとっていたのである。4)」このように社会ダーウィニズムは,生物学的進化論を人間社会の基礎原理ととらえ,その上に”科学的”説明づけをされた淘汰社会を築こうとするものである。 ここでは自然科学の成果を人間社会のあり方に対して没価値的にとらえてはいない。むしろ逆に,自然科学的根拠づけがあるからこそ人間社会のあり方に対しても価値あるものというとらえ方がなされている。そこに一っの問題がある。社会ダーウィニズムは,生物と人間の間に一線を画さないで,その共通性のみを過大視し,人間の独自性や固有なあり方を過小評価し,自然淘汰思想を人類社会へ適用しようとしたのである。 一方,この社会ダーウィニズムを過去の一つの思考方法としてのみとらえることはできない。現代においてもこの思想を擁護しようとする基盤がないわけではない。医学が進歩したお・かげで,従来は生存率,結婚率,出産率がきわめて低かった病気の人びとが,生をまっとうすることができるようになった。このことに対して,淘汰によって人類の進歩・発展を促進しようという社会ダーウィニズムの観点からはどう対応することになるのであろうか。 「近年,血友病患者の出血管理が進歩してきたので,患者の生存率や結婚率が高くなり,平均産児数も正常者の70%程度まで向上したといわれる。したがって,患者から次代に伝わる血友病遺伝子の割合も著しく増加したに相違ない。簡単な計算をしてみると,このまま進めば血友病の頻度はおそらく数世代のうちに現在の二倍以上に高まることであろう。5)」また, 「フェニールケトン尿症の患老で子孫を残すものはほとんどなかったので,患者がもっていた本症の遺伝子はすべて失われていたが,新しい治療の普及とともに,本症遺伝子は淘汰を受けることなく次代に伝わるようになった。したがって,フェニールケトン尿症の遺伝子が集団内に増加していき,患者の頻度もしだいに高まることであろう。6)」この血友病患者,フェニールケトン尿症の患者の例以外に,優性遺伝をし患者のほとんどが死障害児教育と社会ダーウィニズム超克の問題 61亡していた幽門狭窄症は手術方法が開発され恐れるに足らぬ病気となった。 医学の進歩により,従来は生存そのものが限定されていたある病気の人びとの生存が可能となった。このことは,従来はその遺伝子を残すことが困難であったものがその子孫を容易に残すことができるようになった,ということである。一代目,二代目と代を重ねるに従って,社会の中でこれらの遺伝子をもっ人の割合が増加することになるのは自明である。、もしもこのことを深刻に考えると,現代において淘汰を基調とする社会ダーウィニズムが再起しないとだれがいえようか。そうなるとこの社会ダーウィニズムの問題を障害児教育を擁護する立場から考察する必要に迫られてくるのである。 2.適者生存 社会ダーウィニズムでは,適者は生存し社会の発展の原動力となり,不適者は社会発展の妨害になるので滅亡させられるということになる。しかしいうところの適者を人間にあてはめて考えるときわめて曖昧な概念である。 適者という概念は人間にとって一義的ではないし,流動的で多元的である。ダーウィン流に考えれば,個体間の競争の場面にお・いて有利な変異をもっものがその場の適者である。動物においては,この有利な変異が一元的あるいは単純に他の場面にも適用できるものであるかもしれない。また人間の過去の歴史においては,比較的一元的あるいは通用範囲の広いものであったかもしれない。しかし,現代の人間の社会においては,ある場面での適者の条件が,他のもろもろの場面でも有効であるとは限らない。人間社会における適者の条件は,多元化・多様化しており一過的であり局部的であり流動的であると考えた方がよいo 少し例は適切でないかもしれないが,多様な価値体系の中で限定的に存在するひとつの「適者」の例としたい。この長びく不況の中で障害児の就職問題は困難なものを多く含んでいる。その中で新しい身体障害者雇用促進法の適用実施にふみ切った企業の要請でろう・難聴の子どもの就職がここ二・三年好調である。この一点だけに限っていえば,ろう・難聴の子どもがそうでない子どもよりも「適者」の場面があるということになる。しかし,ろう・難聴の子どもが現代社会において一般的に適者であるというわけではない。適者とは特定のある場面・ある価値体系・ある環境に適するものということである。ある社会のあり方により適者の概念は変化する。もの(者)それ自体の特性が同一であっても周りのある特定社会の変化により最適者にも最不適者にもなる可能性がある。相対的概念である。 適者生存という概念を,一応漠然と肯定して考えた場合に以上のような解釈ができる。しかし一方で,適者生存という概念が生まれた基盤そのものの吟味から出発すると少し異なった考え方が生まれてくる。ダーウィンのいう適者生存,自然選択,優勝劣敗の考え方は比較的一般に根づいている。そしてあまり矛盾を感じない程度に受け入れられている。しかし,木村資生の中立突然変異浮動仮説や今西錦司の棲み分け論その他により,ダーウィンの理論が,必ずしも現実の生物社会の姿の反映ではないということが一面的であれ根本的であれ確認されたとすると,今までとは異る対応をダーウィニズム,適者生存概念に対して考えねばならない。ダーウィンの理論は生物社会の現実の姿の反映であるという確信をもって適者生存,自然淘汰を納得するのと,現実とは一応関係ないひとつの思想として適者生存,自然淘汰を考えるのでは,その説得性において大きな違いがある。 従来は多くの場合,動物の世界では適者生存・優勝劣敗・弱肉強食が適用されていると考えられた。そしてこの原理が動物を進化へ導くものだと考えられていた。だから,人間も動物の範疇に含まれる以上,人間社会の進化・進歩のために当然に動物社会と同じ原理62 井 谷 善 則すなわち適者生存・自然淘汰に従わないと,人間という種の優位性が保持できないというふうに把握されてきた。しかし,もし,動物の世界でこの適者生存・自然淘汰の原理に疑義が生じてくると,当然に人間の世界への適用にも問題が生じてくる。 後で述べるように,ダーウィンの適者生存論・自然選択説はその基本的なところにおいても自然科学的には否定されたところが目にっく。しかし思想としては広く深く人びとの心の中にくいこんでいる。自然科学的に正当化されたものが人間の社会のあり方に発言権をもっ場合と,自然科学的には否定されたものでも人間の社会のあり方の思想として受け入れられる場合がある。人間の社会では既にこの適者生存論・淘汰原理は,その出発点とは別個に,一人歩きをして十分強力な思想へと発展しているのである。 極端には,ダーウィニズムは動物の社会では適用されなくて,逆に人間の社会にこそ適用される社会原理とされる危険がなきにしもあらずである。ともかく,生物社会で確固たる実態をもち生物として生きるために根源的なものであることが万人に認められた上に構築された適者生存論という場合と,一っの思想・形而上学として現実の生物社会のあり様とは一応切り離されたところに構築された適者生存論という場合には,おのずとこの社会原理に対する依存度が異ってくる。そのあたりのことを考慮に入れながら論を進めてみたい0 3.能力主義 能力主義の原型には将来への明るい展望があった。すなわち,従来の最適者条件としての腕力・血統・富・学歴あるいは無差別悪平等を克服したいという一念から,機会均等を保障するための能力主義というものが支持されてきた。能力の高い人は高いなりに,能力の低い人は低いなりに尊重しようというのである。従来の最適者条件の不合理性を反省し,能力以外の要因で人を差別し,選別してはならないという考えである。しかも,この能力の中には,知的なもの,身体的なもの,人間的なもの,技能的なもの,趣味的なもの,情操的なもの,等々の多面的な能力把握があった。 ところが次第に主客転倒の関係に変化する。主題の機会均等は消滅し,補佐の能力主義が一人立ちし独走し変化したといえる。すなわち,能力を従来の最適者条件に代る新しい基準(最適者条件)と位置づけることにより,能力による機会不均等は当りまえであるという考えに移行したのである。そしてしかも能力の中味が,学校教育などにおいては,知的なものに楼小化され過ぎ,知的なもの以外の入間的多種多様な能力は能力の枠外のものとみなされるに至った。能力主義の原型においては,このような流れになることは予想もされていなかったことであろう。ただただ従来の最適者条件の不合理・不条理を克服するという目的においてのみ能力をとらえていたからである。 能力主義の原型と変型の間に進化論的発想がくいこんで来たのではあるまいか。進化論流に考えると,人間の間にはそれぞれ個体差がある。そして人間も多産であるから生存競争が生まれる。その際,能力的に優れている者が能力的に劣っているものを打ち敗かす。その結果,社会が進歩することになる。人間の個体差に着目し,自然淘汰による進化を考慮にいれると,能力主義は必然的に不平等主義・差別主義となる。ここでは個体差の位置づけと重みづけが大きく関わる。自由と平等にっいても同じような経過をみることができる。自由と平等が歴史的に標榜されはじめた時には明るい展望と意義があった。当時はその自己矛盾は全く気づかれていなかったか,あるいは気づかれていてもなおかっ意義があった。しかし,後になって自由と平等の間における矛盾が露呈することになる。すなわち不平等への自由という事態である。能力主義が不平等主義・差別主義へと変質した経過に障害児教育と社会ダーウィニズム超克の問題 63似ていると考えられる。 この不平等主義・差別主義に堕した能力主義を展望のあるものへと把握し直すためにはどのように考えたら良いのであろうか。障害児,弱者,劣者,老人なども正当にくみこんだものが必要ではなかろうか。 たとえば,能力主義と福祉の思想は並列的補完関係にあるべきではなく,内包的関係であるべきではなかろうか。老人問題を考えてみよう。老人自身は働けるまではいつまでも社会で働きたいという。老人ホームへは死ぬ直前に行きたいという。老人自身は一般社会の中で同じ原理で生きたいと願っている。また障害児は,たとえ賃金は少なくても,少しでも社会の一人として職を持ちたいと切望している。それは,経済的自立ということもともかく,社会一般の原理の中にくみこまれて生活することを欲していることを表明しているのである。現今の能力主義社会から落ちこぼれたり,それにっいていけない人のために,福祉の思想を補完的に並置するのは正当でないと考える。能力主義そのものの思想が障害者,弱者をくみこんだものとして完結しなくてはならない。
社会における最適者条件の中味が腕力・血統・富・学歴・年功・能力へと変遷して来た。
そして現今,その能力が一部の知的なものに媛小化されている。しかし,これらの中味を古いものとして捨てさり,新しい能力の中味を設定し直すことにより,能力主義を差別主義・不平等主義でないものにすることも可能ではなかろうか。能力主義そのものを否定するのではなくて,能力主義は肯定するがその能力の中味を問題とするのである。福祉の思想を能力主義の落穂拾いの役目にするのではなくて,福祉の思想を内包した能力主義である。機会均等を保障するための能力主義という原型に近い考えであるが,この原型を一歩越えたものと考える。多種多様な個々人の能力をそれなりに社会の中に位置づけることにより,それぞれなりの存在価値を多面的に位置づけるのである。 そのような能力主義の社会においては,たとえば,障害者は障害者にしかできない多くの提言をすることができる。「障害児が発見された現代」においては,古代ギリシャに人間が,近代に子どもが発見されたと同じ要件において,障害児が文化・教育・倫理・哲学の根源にまでさかのぼる問題提起をすることができる。そのことはすなわち能力主義の原理にかなって障害児なりの位置から有益な提言をする能力・素質があるということになる。古代ギリシャに人間,近代に子どもが果した役割を,現代では障害児が演ずるのである。逆にいうと,現代では「人間」や「子ども」には根源的な問題にせまる問題提起をする力がないとさえいえるのではなかろうか。障害児,社会的弱者,劣者,老人を切り捨てないで,彼らにこそできる人間社会の問題提起を生かす場がみとめられる能力主義が必要である。 4.人間の序列づけの問題 障害児の親たちに接していると,子どもの障害の種類や程度によって,障害児の親たちの間に子どもの序列づけの傾向があることに驚かされる。非障害児と障害児の間の序列づけや差別意識もさることながら,この障害児間の序列づけを無視することはできない。統合教育は障害児と非障害児間の問題であるばかりでなく,この点からは,障害児間の問題としても重要である。
人間は,自分より困っている人間や「下」の人間をみると,可愛そうだとか手助けしてあげたいという気持を持つが,一方で, 「ホッ」とする一面がある。この「下」を発見して「ホッ」とする一面は,人間の本能的なものかそれとも生育歴から後天的に生まれるものなのか。
遠山啓は,動物の特性の延長上としての人間の特性として,序列づけを非常に64 井 谷 善 則重要なものとみている。
「この序列をっけるということ,あるいは序列主義といいますか,その背後にある序列づけの考え方,これは人間が動物の時代からずっと遺伝的に持っている考え方ではないか。そう考えると,これはひじょうに根強いものだと考えざるをえません。η」
動物社会に存在するということを考慮して,この序列づけが人間社会にも根源的なものであるというのである。 しかし,教師に暴力をふるう中学生は,過去に教師から厳しい仕打ちを受けた経験のある子どもが多いという。浮浪者や老人に暴行する中学生は,かって自分が弱くていじめられる立場にあった子どもが多いという。これらの子どもが他人を蔑み,軽視するのは後天的要因によるものが大きいようである。とすると,人を蔑んだり自分より弱い立場にある人間をみて「ホッ」とするような感情は,本能的なものに近いかもしれないけれども,後天的に身にっいた要素も多く,人間の教育や倫理観の育成で軽減できるものであると考える。
この一見差別意識と思われるものは決して本能的で不変なものではなくて,人間の生育歴に深くかかわるものであって,人間の努力により軽減できる感情の領域ではなかろうか。 人間の序列づけは,動物社会で根源的なものであるからという理由で,避けることはできないものであるとは考えない。少なくとも人間の固定的序列づけは避けることができるものであるという足場を固め,その上にどのような教育を構想するかということが障害児教育の一つの大きな課題である。
能力主義を問題にした時には,その一面的要素を普遍化するところに問題があると述べた。
そして多種多様な多元的価値観からの能力の評価が必要であると述べた。序列にっいても同じ構造を考えてみたい。 人間における序列を全く否定するということはできないと思う。課題解決という目標に応じてリーダーを必要とする。たとえば,体育祭を成功させようという目的で行動する場合である。組織的活動を完遂するために序列が必要な場面がある。
問題なのは,ある一一っの序列づけが他の多くの場に普遍化され君臨するということである。
ある特定の場に特定の序列が設定されることが望ましいのではなかろうか。 自分が何かで生かされている,自分がその中で役立っている,自分がまわりの人から認められている,自分が仲間の中で必要だとみなされている,ということを自覚する局面をもっことができれば,他の局面においては,自分が中心でなくても,また序列づけが低くても納得いくものである。この意味でも目的や課題や場面に応じて,一過的序列づけあるいは多元的序列づけというものを考えるべきである。 動物社会においては力が強いか弱いかというような要因で一っのピラミッドを形成した一元的で単純な序列化,順位化が確立され易い。しかし,人間社会の場合,価値の体系が一様でなく多様である。そのため序列のピラミッドが多く存在する。一人ひとりの生物的差異に応じて多元的な個性がある。一面的で狭くしかも画一的な尺度による人間の序列づけ,たとえば極端には知的な学力を能力ととらえそれのみで普遍化した序列づけをすること,が問題なのである。 リーダーがいないと集団社会が滅亡することもある。また社会発展の推進のために序列が必要不可欠なこともある。社会発展を止めたり社会の活力を欠くことを望むなら,完全な序列の廃止を考えることができるであろう。しかし,それは望まないとすれば,
人間の社会で望ましい序列づけは,一義的ではなく課題や状況に応じて流動的で一過的で局部的なものであるべきである。
それを普遍化しないことが重要である。
障害児教育と社会ダーウィニズム超克の問題 65皿 共存共栄をはかる棲み分け論 自然の摂理とは高等なものが下等なものを絶滅させたり,力強きものが力弱きものをおしのけて生きていくことなのであろうか。ダーウィンは確かに述べている。 「闘争はほとんど常に同種の個体の間で最も激烈である。何故なら彼らは同じ地域に棲み,同じ食物を要求し,かつ同じ危険に曝されているからである8)」と。
しかし,
生物社会はそれほど優勝劣敗や闘争が貫徹した社会なのであろうか。
アメリカの政治においては,ベトナム戦争より前には力は正義であると考えられていたが,今ではそれに代ってバランスは正義であるという政治哲学が支持されているという。生物社会においても,力による価値尺度以外で説得力のあるものはないのだろうか。そのようなとらえ方に加担する考え方が存在する。反選択主義の視角がら,競争ではなくて,共存共栄の原理に基づく棲み分けこそ生物社会の原理であるとするとらえ方である。 同種の個体の間に闘争があるのではなく,棲み分けをして共存をはかっているという今西錦司の考えを一瞥したい。 「よく似た種同士というものは,形態的にも機能的にも,あるいは生活上の要求におLいても,お互いによく似ているであろうから,種として両立するためには,お互いの生活の場をずらしておいた方がよい。これをお互いによく似た種は,その生活の場を『棲みわけ』ているという。なぜよく似た種をもってきたかというと,よく似ていない種すなわち形態的にも機能的にも異なり,したがって生活様式もまた異なっている種と種のあいだには,すでに進化の途上で社会的隔離ができあがっているからである。しかし,こうした社会的隔離も,これを広義の棲みわけと考えられないこともないから,このようにみてくると,この地上に一五〇万種にもお・よぶいろいろな生物がすんでいるといっても,それぞれに生活の場をもち,お互いに棲みわけて,それぞれに独自な世界をっくりだしている。一五〇万種の生物によって,一五〇万種の世界がつくられている,とみてもよいであろう。9)」この今西錦司の「棲み分け」論は,カゲロウ幼虫の水底における分布調査から発展したものである。
そこでは同種の個体が,
棲み分けを行うことにより,闘争を避け相補う立場にあるというのである。
そしてこの考え方の根底には,たとえ同種の個体が闘争しても,
相手に致命的な打撃を与えることができるほどの個体差はないという理解がある。
そうであればこそまた共存共栄のための分離としての棲み分けが納得いくものである。
この棲み分け論からは,優勝劣敗による自然淘汰に基づく進化というものは考えられない。
適者生存ということに関しても,淘汰に有利な面をもっということが基準にはならない。
「相並んだ二っの種社会AとBは,どちらが適応においてすぐれているというわけでもない。AはAの生活の場においてはBよりも適応がすすんでいるといえるかもしれないが,これはBについてもおなじことがいえるであろう。これはまぎれもない多極相論の立場である。多極相論の立場にたっかぎり,現存するすべての種は,この特殊な生活の場において,他種よりもよりその環境条件に適応している,あるいはこれを相対的により適応している,といえるかもしれないが,これはけっきょく,現存するすべての種は,そのえらんだ特殊な生活の場において,その生活が保証されているかぎり,その生活の場に適応している,ということに他ならない9°)」ここでは種の間における優劣の差を認めない。棲み分けることにより,種はその生活の場に立脚した固有性をもっのである。 ダーウィンの理論は,論理的に人を納得させるのに力強いものである。今西理論は,「なるべくしてそうなる」というような表現があることが象徴しているように,論理的に整然66 井 谷 善 則としているとはいえない面がある。しかし,ダーウィンの理論が論理的であっても,それだけで人の心をひきつけるわけではない。今西理論に力強い説得力がなくても,人の心に響くものがあることは見逃せない。自然の営みをみてみると,生臭い,殺伐とした調子の論法になるダーウィンの進化論より,ゆったりとしたおおらかさのある今西の棲み分け論に無視できないもののあることに気づく。 一方,この二つの理論が科学的に正しいかどうかという問題をとおりこしたところに,現代の進化論の思想的問題がある。だから,自然科学のレベルでの真偽とは別のところで歩んでいる思想として,ダーウィンの自然選択説と今西の棲み分け論を考察する必要性もある。 棲み分け論をここでとり挙げたのは,生存のために闘争による淘汰を強調するのではない理論があること,を明示したかったからである。主眼はあくまでも自然淘汰・自然選択に反する進化論が一方にあるということである。ところが,棲み分けということが生物の社会でみられ,それが争いのない平安な社会生活の要件であるとすれば,それは人間社会とはどうかかわるかということも少し考えておく必要がある。 棲み分けを人間社会に適用すると,障害者と非障害者の棲み分けということになるのだろうか。そして障害者の集団は非障害者の集団とは別の新種社会を形成するということになるのだろうか。もしそうだとすれば納得のいくものではない。ただ,ここでは,個体差に基づいて競争が生まれそれが進化の原動力になるというのではないというところに,棲みわけ論が障害児教育の視点から見るべきところがあるものであるといいたいのである。ダーウィンのいうような生存競争や優勝劣敗の原理だけではなく,安寧を望み,闘争や競争はできるだけ控えようとすることが自然の摂理の一面であるということに障害児教育の視点から関心を払いたい。N 適者の条件としての運の良さ 自然淘汰のみで生物の社会が律し切れないと考える人は多い。有利な変異をもつものが生き残り,その有利な変異が遺伝により子孫に受け継がれるということとは異なる事実をつきっける理論がある。それは木村資生の説く分子進化中立説(中立突然変異浮動仮説)である。ここでは以後,中立説と記すことにする。 中立説においては,生存競争における優者・劣者・適者・不適者という枠組みは考えない。生き残りの条件は偶然性や幸運さにあるという。木村資生の考えを一瞥しておこう。「中立説の主張の根本は,進化にお・ける遺伝子内部の変化が自然淘汰よりむしろ主として突然変異とそれに続く遺伝的浮動の支配を受けているということである;1)」さらに,詳しくは次の文章で明らかとなる。
「淘汰論者は,突然変異遺伝子が集団中にひろがるには,なにか淘汰に対する有利さがなければならないと主張する。他方,中立論者は,いくらかの突然変異遺伝子は,なんら淘汰に有利でなくても,それ自体で集団中にひろがることができると主張する。突然変異遺伝子が前にあった対立遺伝子と淘汰の上で等価であれば,それがどのような運命をたどるかは,偶然にゆだねられる。
各世代においてばく大な数の雄と雌の配偶子(生殖細胞)が作られるが,実際にはそのうちの比較的少数が”抽出”されて,次世代の個体に現われるわけであり,突然変異遺伝子の頻度は気ままに増えたり減ったりしながら揺れ動いているのである。この偶然的浮動の過程で,大部分の突然変異遺伝子は偶然によって消失するわけであるが,その残りの少数のものは集団中に究極的に固障害児教育と社会ダーウィニズム超克の問題 67定することになる㍗」
この中立説は,分子遺伝学の化学的方法によって確かめられ,分子レベルでの進化は,淘汰に有利でも不利でもない中立な突然変異遺伝子の偶然的生き残りによって構成される,という理論である。ダーウィンの理論は一つの推論,思想という側面が強く,必ずしも検証されたものとはいえない特性をもっているのに反して,この中立説はアミノ酸の転位速度やタンパク多型の解析から導き出されており,分子レベルのこととしては検証可能な理論である。 ひとつの観点は,環境からの影響が分子レベル(遺伝子)の進化にあまり関与しないということである。獲得形質は遺伝しないということは古くから明らかにされていた。しかし獲得形質が遺伝するという仮説は,ダーウィンの理論にとっては重要な構成要素であったし,また人々の心の奥に相当浸透して消し難い了解事項でもあった。
ところが木村資生は,
「今世紀における遺伝学の発達と共におびただしい実験的・理論的研究が行われたが,個体が一生の間に環境から受けた影響が直接その個体の遺伝子を適応的な方向に変化させるという証拠は,全く得られなかった,13)」
と述べている。
環境条件は遺伝や進化に決定的影響をもっものではないというのである。 もともと進化と遺伝はあいいれない要素をもっている。進化は常に発展向上し変化することを前提としている。遺伝はそれと反対に継承し保持することを前提としている。だから遺伝をステップにして進化をはかるということは,変わりにくいものを変わらせることができれば可能であるということになる。ダーウィンは表に現われた形態を主にみて進化を考えた。木村資生は遺伝物質の内部の進化を主にみた。実際には表に現われるものの進化と遺伝物質の内部の進化には時間的ズレが相当あってもおかしくない。表に現われているものは環境と直に接し,内部の物質の進化への影響までに相当重層な影響力の変化があるであろう。この点からだけ考えると,ダーウィンの理論と木村理論に多少のズレがあってもおかしくはない。しかし,ここでは,環境条件が分子レベルすなわち遺伝子の内部構造のレベルの進化にほとんど影響を与えないということに注目したい。 人間の遺伝子の中にはきわめて多量の遺伝的変異が含まれているということである。それは劣性遺伝子がヘテロ接合した場合もあろうし全くの変異と呼ばれる場合もあろう。中立説発表の背景には,この変異のある遺伝子が変異のない遺伝子の中に予想外に多いということに気づいたことがあるという。その数多い突然変異遺伝子の中でどの型のものが進化の推進をするかということでは,それは環境条件との相関からではなくて,全く偶然な要因のみによることを中立説は明らかにしているのである。 ある社会に突然その社会の要請にこたえる条件を最もよくかなえた人間が現われたとしよう。全く偶然にである。他の人間と比較にならないほどの最適者であったとしよう。しかし二代目ではその特性はどうなるのであろうか。さらに三代・四代目となるとどうであろうか。多分,最適者としてそなえていた特性は代が進むにしたがって全体社会の中へ吸収され埋没していくのではないだろうか。そして次第に一般化されよう。逆に,ある社会における最不適者の場合も代を重ねるに従って,その最不適な特性は吸収され一般化されるのではないだろうか。こう考えると集団一般からの変異としての有利な条件は,普通の場合には,代を重ねるごとに強化されるのではなくて消失される方向のものであると考えることができる。その場合,数多くある変異をもっものが全て消失するのではなく,その中で偶然に生き残るものがある,というのが中立説のもっ思想である。代を重ねるにしたがって,大部分は集団全体の中へ吸収・消失される突然変異の中で,ごく一部が生き残り,その生き残りの集積として進化が構成される。その進化へ至る契機は,決して生存に有利・68 井 谷 善 則不利ということではなく,全く運という偶然的浮動によるという考え方は,明らかにダーウィンのいう自然淘汰説を覆すものである。V 順位やなわばりのない社会 動物の社会では厳とした順位制やなわばり制がある。現在の順位をより高めようとするものがいる時あるいは順位に混乱のある時,動物の世界では闘争による順位確認が行われる。また群れをっくらない動物の社会にもなわばり制ははっきりと存在する。なわばりを確保し維持するために闘争があ’6。そしてこの闘争に勝残ったものがそのなわばりの中での平和を亨受できるというのである。順位制やなわばり制は動物の社会に根源的に存在するものであり,人間もまた動物の延長上にあるとすれば,人間の社会にとっても無くすことのできないほど根源的なものであると考えられてきた。ところが,順位制,なわばり制の全く存在しない,平和で温厚な社会を構成している動物がいたのである。競争や闘争による社会ではなくて,温和で平安な社会をゲラダヒヒが形成しているのである。この順位制やなわばり制をもたない動物の社会が現に存在しているというこの事実を,自然淘汰の理論を批判的に検討する場合見逃すことはできない。 従来,動物社会学の研究成果として,社会生活を営む動物には順位制,なわばり制,リーダー制は不可欠であるとされてきた。これにみあうものとして,人間も社会生活を営む以上人間の序列づけは根源的なもので抜きにすることはできない,という論に一面の説得力があった。そして進化論でいう最適者生存条件にみあった序列づけによる序列社会が合理化されてきた。しかし,ゲラダヒヒの社会においては,順位制やなわばり制がみられない。すなわち,順位制やなわばり制を抜きにした社会生活を営む動物もいるということである。この事実は,人間社会の序列づけを動物社会のそれから導き出した,根拠を覆すものである。そしてこの事実からは逆に,人間の社会にお・いても,生物的基盤からも,対等で平和な秩序原理による社会を構想することが可能であることが明らかとなる。 エチオピアの海抜2500メートル以上の高地の断崖に住む,ゲラダヒヒの生態については河合雅雄が精力的な研究を行った。その研究成果からまずゲラダヒヒの特性の一端を紹介したい。 「ハードは一団となって草原を遊動しているが,ハード全体のリーダー(個体であれ,ユニットであれ)はいない。遊動の方向やコースは,自然になんとなく決定される。興味のあることは,ユニットのリーダーオス間には順位がない。同じくユニット間にも順位はなく,各ユニット同志は,完全に対等である。たとえば,水飲み場での水をめぐっての争いといったことはない。先に到着したユニットが水を飲み,他のユニットは先着者が飲み終わるまで,グルーミングをしたりして待っている;4)」(ハードは大集団,ユニットは小集団)さらに,攻撃能力に裏打ちされたリーダー制でないことも次のように述べられている。「ユニットの統合にっいて,大きな興味をひくのは,リーダーとメスとの関係である。リーダーはメスを自分の周囲にまとめるのに常に注意を払っておLり,たまにメスが遠くへ離れたり,他のユニットオスの近くにいったり,オスグループが接近したりすると,メスを連れ戻しに行く。マントヒヒのリーダーは,こういう場合,クンマーがネック・バイティングと呼んでいる行動によってメスを連れ戻す。リーダーオスはメスを激しく攻撃し,メスの首に咬みついてこらしめるのである。しかしゲラダヒヒでは,リーダーはメスに対してけっして攻撃的行動をとらない。彼はメスの前に坐り,慰撫や安心を与える行動,あるいは懇願に類した行動をとって,メスを連れ戻す。メス間にトラブルが起こってリー障害児教育と社会ダーウィニズム超克の問題 69ダーが仲裁する場合も,しばしばメスの方がリーダーを追いかける。リーダーは逃げ,頃合いをみて立ち止まり,メスをなだめる。これらの場合,複雑なニュアンスをもつ3種の音声を交用するのが特徴的である。マントヒヒのリーダーは攻撃行動によってメスを統合しているのに反し,ゲラダヒヒはむしろ宥和(ゆうわ)とか,安心を与える行動によってメスの統合をはかっている点が,非常に対照的である」㌧ゲラダヒヒの社会においては,力や暴力による統治ではなく”人格”による統治の色彩が強くみられるのである。 なわばりのない社会はゴリラにおいてもみられるが,ゲラダヒヒの場合はどのようになっているのであろうか。 「ハードがもっている他の重要な性質はその解放性である。ある日,ひょっこりと見なれないユニットが現われることがある。ハードの若いオスとメスは少し叫び声をあげ,若オスはこの出現群の方に駆け寄って行く。しかし,彼らは,ただもの珍しさから近寄っていくにすぎないらしく,出現したユニットとの間に何らのインターアクションも見られない。………新参ユニットは,なんとなくハードの中に入ってくる。そして,まるでハードの一員のようにおさまってしまう。この訪問者は,一週間ばかり滞在し,どこかへ消え去って行く。このように,ときどき訪問者がハードを訪れ,抵抗なく受け入れられるという現象は,霊長類社会の中でゲラダヒヒ社会の大きな特徴であるご6)」ゲラダヒヒの社会においては,自分たちの生活域としてのなわばりを守るための闘争と殺裁が行われるという情況とは似ても似っかない光景がくりひろげられている。 人間の本性は動物の本性とよく似たところが多い。動物の特性をみていると人間の素朴な特性を理解しやすいところがある。もちろん人間に独自なものもあるが,動物的特性からくる制約がけっこうあり,動物的自然を軽視できないと考えられてきた。だからこそ最適者の条件を生みだす序列づけの根拠として,動物の社会における順位制・なわばり制・リーダー制の存在の確認は,人間の動物的基盤に立脚するものとして説得力あるものであった。だからたとえゲラダヒヒが動物社会の中で例外的な特性を示すものであるとしても,ともかく現実にこのような動物がいるという事実は見逃がせないことである。ダーウィンの自然淘汰論にっらなる能力主義の社会を志向するのではなくて,ゲラダヒヒの動物的特性を基盤にし,その上に人間独自の社会のあり方を新しく規制することが可能ではないだろうか。動物社会に対する誤った常識に根拠づけられた能力主義・序列主義は,その根拠づけの崩壊に伴なって,新しく人間的発展を遂げさせられなくてはならない。V【動物社会と文化社会の連続と非連続 自然淘汰の原理が適用されるという自然界は,残虐な行為に満ち溢れているのであろうか。実際には,苛酷で血.なまぐさい生存闘争が同種の個体の間でくりひろげられているとはいい難いことが,動物の世界では色々みられる。動物学者や霊長類学者は次のように述べている。 「サルは強い個体が弱い個体を追いかける。すると弱い方はお尻を向け,その上に強い方が形式的に乗る。そういう行動をとれば,あとは噛まれたり,蹴られたりすることは決してない。ダマジカは,喧嘩をしていて,これはダメだと思うと,コロッと寝ころんでお腹をみせる。強い方はお腹をみると攻撃を中止する。ゲラダヒヒは,弱い方が強い方の前に二本足で立ちあがる。そして自分の陰部の弱い所を強い個体にさらす。それをやられると強い方はとたんに攻撃を止める」7)」 (本文を少し修正)「オオカミは相手が優勢とわかると,頭をそらし,もっとも致命的な首を相手にさしだす。そうすると,優勢な方は攻撃をやめるご8)」 「イグアナは頭を低く下げて,正面から頭と頭をぶつけ合い,力の70 井 谷 善 則限り押し合う。この押し合う競技は長く続き,一呼吸してから再開し,結局,この押し合いで勝ったものがテリトリーを独占し,敗者は去る:9)」これらの動物の社会においては,噛み合ったり,角で突き刺したりして本気で戦うということは同種の個体間にはみられない。順位,リーダー,なわばりの維持,更新,防衛,あるいは雌の獲得などに際して,同種の個体が闘争しても,やろうと思えばできるのであるが,相手を殺してしまうようなことはない。生命の維持をするためだけ以外には他を傷つけないことが,動物社会の一面の摂理である。 もっと積極的には,社会性昆虫の無条件奉仕,利他行動がある。自然淘汰に有利な条件を自分のためにではなくて他のために与える行為である。これらの事実から考えられることは,動物の世界では,厳しい自然淘汰のための生存競争は最少不可欠な場合のみ存在し,かえって社会的相互援助や役割分担が一般的特性ではないだろうかということである。この点からも,社会ダーウィニズムを正当化するような自然淘汰万能の考え方を批判する根拠が生まれる。 このようにして動物の社会そのもののあり方をみつめることから,社会ダーウィニズムを批判する手がかりを得ることができるわけであるが,さらに,動物の社会からの演繹以外に,人間独自のあり方としてこの社会ダーウィニズムを崩す手がかりを次には得ることを考えなくてはならない。 人間と動物の決定的な違いは,文化をもっているかどうかということである。文化が人間に対して,衣服,道具さらには薬をもたらした。人間は環境が変わっても衣服で気候に適応でき,身体の変化をまたなくても道具を役立て,薬の利用により病気からの離脱を可能にした。文化こそは動物の社会には無いものであり,人間の社会に固有のものである。文化の世界には,たとえ自然界で適用されるものであると仮定しても,社会ダーウィニズムの根拠となる自然淘汰の原理は当てはまらないものである。いや当てはまらないものにするのが逆に文化の存在意味でもあると考えてよい。障害児が文化社会においてどう生きることができるかということは,自然淘汰の問題ではなくて,文化のあり方の問題なのである。その文化を根拠づけるものは,人間の動物的特性もさることながら,人類の45億年にわたる歴史である。この歴史的集積により,人間と動物には一線が画されてしかるべきである。人間は,人間といわれる以上,動物とは異なる。自然に生きるということと,人間らしく生きるということとはおのずと別である。人間は,人間らしさを重視し,あくまで人間的に生きねばならない。 ただ,人間のっくり上げた文化が,自然や人間に対して好ましいことのみをしてきたとはいえない。 ”人間はそんな悪いことをするものではない”という人間の側面と”人間だからこそそんな悪いことをする”という側面を両方備えているのが人間そのものでもある。自然淘汰の代りに人為淘汰が広範に行われ,人間に役立っ種は保護育成され,人間の必要を満さないものは絶滅の危機にさらされているものがある。文化は動物的自然と人間の歴史の共同の産物としてまだ未熟な状態で生成発展している。人間らしさには動物より良い面と悪い面がある。その人間らしさを良い方向に発展・展開させるのもまた人間のみにできる文化の仕事である。動物社会のあり方を基盤としながらも,人間社会の独自なあり方を展開させようとする時,優勝劣敗による淘汰の原則の徹底には,障害児教育の観点からはとうてい共感できないのである。障害児教育と社会ダーウィニズム超克の問題 71W 多元的価値社会 1.一元化より多元化 自然選択説でいう適者の概念は,動物にあてはめられる場合と人間にあてはめられる場合で,その内容と有効性を異にする。動物の場合,一つの場面での適者の条件が他の多くの場面でも適用されやすい。適者の条件が比較的単純で一様的でありうる。人間の場合,歴史的には適者の条件が,一応,比較的単純に推移したと考えられる。一つの場面での適者の条件が他の場面でも多く適用された。しかし,人間の社会が民主的になればなるほど,適者の条件は多様化され,この条件は限定的場面にのみ有効とされるべきである。社会の価値観が多元化すればするほど適者の条件が多様化する。一元化された価値観の下では適者の条件に合わなかった者も,多元化された価値観の下では,何かの価値体系において上位を占めることもありうる。 障害児の中には非障害児の中におけるよりももっと”強いもの”,”深いもの”をもっている者がいる。障害児の中にある”すばらしいもの”,”いいところ”をひき出していったならば,障害児がどのような場面においてもいっでも”不適者”であると断定することはできない。だから,障害児教育の立場からは,適者の条件が多様化することを願い,障害児が最適者になる場面が多くなることが望まれる。この点から,適者生存論自体を否定しなくても,この適者生存論にのっとってそれを乗り越えて障害児を生かす道も可能である。適者生存・序列づけの基準を一元化から多元化することにより,障害児にもそれなりの立場を確保することができる。たとえば,優しさ,おもいやり,素直さ,無邪気といったような尺度が,多くの尺度の中の一つとして,あって然るべきである。 しかし,現実社会の傾向は必ずしも多元化のみを指向しているとは考え難い。たとえば,共通一次試験は全ての解答を白か黒で答えることを要求している。価値観が多元化した社会におLいては,白か黒かという判断の困難なものが多い。価値観の単純で一元的な場では白黒を分別しやすいが,そうでない場では白でも黒でもないという判断も必要となる。同じ次元,同じ質のものについては白黒の判断は可能であっても,次元と質が異なるものには白黒の判断は困難である。次元の異なるものがあり,質の違うものがあることの重要視が大切なのである。共通一次試験に見られるような白か黒かを速断できる力が,それ以外の¥j断力・人格・指導力などヘー般的に般化できると考えるところに問題がある。一領域・一 nullnullnull\力が他の多くの領域・側面の能力をも見通した能力だと判断し利用するところに,教育が価値の一元化に加担する大きな危険性がある。一っの現象として,高校生は世界史を履習しないで日本史を履習する傾向を強めてきた。日本史は一本の筋で暗記できるが,世界史は多岐的洞察を必要とするからという。多様で多次元的内容をもっ教科より,一様で単線的内容をもっ教科を履習する方が有利であるような試験は,価値観の多元化を進める上では有害である。 価値観の一元化より多元化をという時,この裏には,固定したもの・人間の意志や努力ではどうしようもないものを基準にしないで,流動可能なもの・人間の意志や努力が報いられるようなものを基準にした尺度を尊重したいという願いがある。そうなると,自然淘汰でいう適者というものの存在を肯定する場合,適者たる基準を生まれっきの動かし難いものあるいはそれに近いものすなわち血統・門地・富・学歴とするのではなくて,努力や意思が反映する基準であるべきだというのである。能力主義の原型においてある程度の明るい見とおしがあったのは,能力発揮にはその人の主体性・意思・努力が反映されるとい72 井 谷 善 則う前提があったからである。原型としての能力主義が行き詰まったのは,能力発揮における主体性・意思・努力の反映が弱化し,能力発揮にも先天的要素や経済的背景,学歴その他のような主体的には動かし難い要因が強く関係するようになったからである。そこでは,純に能力が有るか無いかではなくて,能力とそれにかかわるプラスαが有るか無いかということが問題になる。プラスαの無い能力は能力を開花する機会を逸するのである。たとえば,経済的基盤が無いと東大入試に合格する能力は育成できないというような現象がこれにあてはまる。この状況下では,能力を適者の条件に設定すると,差別・選別を積極的にすすめる基準となる。主体的努力で動かせる能力を基準にできる場合と,主体的努力ではいかんともしがたい要因により成り立っ能力を基準とする場合がある。この二っの能力は質的に異なるものである。後者は特に能力による差別・選別を助長するものである。 価値の多元化の必要性をもう少し考えてみよう。たとえば,平等ということについて考えてみよう。500年前と比較していえば,現代のB本においては完全に平等がいきわたっていると解釈できないことはない。障害児問題にっいても,300年前の人に言わせると,現代においてはその差別は殆んど無いと言うかもしれない。巨視的にみると,平等にしろ差別にしろ,300年前の問題意識は解決されているものが多いだろう。そして,現代問題意識となっているものは,当時,思考のレベルにも登ってきていなかった些細な問題かもしれない。また,300年後には,現在問題になっているような平等・差別の問題は解決済みかもしれない。しかし,300年後には,現代問題意識にも無いような新らたな差別・平等の問題が問題化しているのではなかろうか。格差感・差別感は人間の本性に基づく面があり,現在感じている格差・差別が解消されると,また新らしい基準での格差・差別感が別のところに発生するのではなかろうか。それは,現代ではとるに足らないものかもしれないが,将来において現代の格差・差別が解消されたとき,大きな新らたな格差・差別へと発展するということは十分に考えられる。現代の問題は,格差・差別の問題が無くなると把えることではなくて,今考えて,不合理とおもえる格差・差別の問題を解決することである。その後に出てくるかもしれない問題はその時の問題である。だから,当面は,単純化され一元化された価値尺度では落ちこぼれるものを,多様化された多元的価値観でそれなりに位置づけしようというのである。 この点からいうと,多数決の原理あるいは最大多数の最大幸福の原理も一考を要する側面がある。多数から漏れる者,最大から漏れる者の処遇が問題である。自然選択に対する逆選択,あるいは最適者に対する最不適者の問題がここに生起する。障害児教育はこの逆選択・最不適者についての考察から出発するのである。価値の一元化から漏れる者にも,それなりの位置づけをしようというのが価値の多元化である。その意味では能力主義に対決したり並列したり同調するのではなく,能力主義を超克しそれを内包した障害児教育を考えなくてはならない。 2.低成長社会での障害児の役割 高度経済成長社会にはそれなりの特徴があった。好ましい好ましくないということとは別に,そこではそこなりの障害児の位置づけがなされた。しかし現在においては,高度経済成長社会すなわちやみくもに発展をめざす社会の行き詰まりが問題となっている。そしてその行き詰まりの中での,障害児の新しい位置づけが重要なものとなってきた。 仲手川良雄は従来の社会を発展社会,あるべき将来の社会を価値社会と呼び興味深い考察をしている。 「発展社会ではおおむねっぎの三つのことが暗黙のうちに大多数の人びとによって承認されている。一,動きは向上に通ずる一発展の正当性 二,向上の過程は障害児教育と社会ダーウィニズム超克の問題 73無限である一発展の無限性 三,動きはいっさいを巻きこむべきである一発展の全体包摂性。これは発展社会にある人びとの精神,意識,衝動,願望が一般にとっている基本的諸方向,いいかえれば発展社会の精神構造の諸特徴というべきものであろう。発展社会の三つの命題と呼んでもいい3)」今までの社会を発展社会と位置づけこのような特徴づけがなされている。この発展社会の特徴と能力主義の原型のもっ特徴が歴史的に同’じ出足を持っている。能力主義の原型には歴史的意義と展望があったが,その後の変型には幾多の問題が生まれた。この発展社会の特徴も静的社会・中世的社会からの離脱の際には歴史的意義と明るい展望をもったものであったろう。しかし,現在に至って,この発展社会の命題は幾多の好ましくない根源的問題を提起している。 発展社会には人間性を擁護するという側面から展望があった。人間性を窒息させた中世社会から人間性を解放するために,発展社会の命題が生まれた。しかし,その命題が現代では逆に人間性を窒息させるものへと発展した。たとえば,発展の全体包摂性の命題に従って,ヒマラヤの中国とインドの間にある国へ世界ではじめて日本のマスコミ関係者が入ることを許されたという。そしてその国は日本の援助を望んでいる。その国の人びとは多分今までにチョコレートを食べたことはないであろう。日本人がはじめてチョコレートの味をその国の人びとに教えるであろう。はじめてチョコレートを食べ,発展社会へくみこまれた人びとが,それ以後,文明の恩恵に浴して幸せになると言い切ることができるであろうか。チョコレートの味を知らずに未文明な生活をしていた彼らと,チョコレートの味を知って発展社会にくみこまれ急激に文明化した生活におし流されていく彼らと,どちらが人間的に解放された生活をしているといえようか。簡単には文明化した生活の方が人間性を擁護されているとは決して言えない。文明や進歩が必ず人間に幸せをもたらすものとは言い切れない,ということを発展社会のもっとも尖端に住んでいる人びとが明らかにしている。現代ではだから初生時の事情とは逆に,人間性を解放し回復するために,発展社会の命題を修正した社会が必要なのである。 発展社会の三っの命題は,中世における停滞社会が人間性を圧殺し人間の自由を拘束していたことへの反逆として生まれた時点では,明るくすばらしい展望のある命題であった。仲手川良雄のいうように,動きは進歩に通じ,動きは価値に通ずると信じられてきた。歴史的動きは進歩の証であると考えられてきた。そして,動きに動じようともしなかったアフリカ・南米・アラスカをもこの動きに巻きこむことが正義であるかのように考えられてきた。 しかし,現在,この発展社会の命題が逆に人間性を圧殺し,人間の自由を剥奪するに至ったことに問題がある。歴史における動きは必ずしも人間の幸福に有益なものばかりではない。動きの遅いアフリカの原住民より動きの速い国の国民が幸福とはいえない現状にある。逆に,停滞から動きへの流れが行きすぎて人間性を喪失させるものとなった結果,停滞のメリットを動きの中にくみいれることが必要となってきたのである。 障害者の中には,この発展社会の動きに流されないで独自の生き方をした者が多くいる。障害児・者の生き方の中に,この発展社会から減速社会への転換を容易にする方策を見つけることができるのではないか。従来から障害児にとって障害は,打ちくだかれるもの,乗り越えられるもの,克服できるものではなかった。障害と共存する以外に手はなかったのである。一般の人びとは,発展社会において,困難なことには打ち勝ち,乗り越えるべきだと考えてきたし,またそうすることもできたことが多い。しかし,発展社会の矛盾に突き当たり,困難と共存共栄を計ってこそ,人間性が擁護されるということに一つの真理74 井 谷 善 則があることが明らかとなった。このことを理解するためには障害児の生き方が参考となる。 困難を打ちくだき,乗り越えるのではなくて,それとの共存の中に人間の生き方の深みがあるということについて高橋英夫は次のように述べている。「現代はあらゆるマイナスを次々と処理し,マイナス除去に熱中しているのだが,その勢いにはずみがつけばつくほど,どこかから新しいマイナスが発生し,以前よりも彩しいマイナスが増殖してゆく,そんな社会になってしまっている。マイナスの切捨てとか,マイナス符号のプラスへの転換法という発想それ自体に現代の動かしがたい傾向が見出されるだろう。そこに問題が潜んでいる。マイナスを排除するのではなく,マイナスを生かす方がむしろ豊かな人間のあり方ではないのか。マイナスも生の一部であり,マイナスがなければ生は成立しないというのが,中世からの予感である。現代の現代的発想は,今後,いかにこの生の中にマイナスを取りこむか,死を生に引き寄せ,生と織り合せるかという方向をとるしかない。そのとき中世人の生きていた日々,彼らの悲惨から華麗まで,浅薄から幽遼までのさまざまなリアリティは,マイナスを決して排除しなかった生,それだけに言いようもない含蓄に富んだ生としてわれわれの目を搏つものがある㌘」 人間の尊厳を守るために,発展社会の通念に逆らって,ありのままを受け入れることも必要となる。しかし,ここでなげやりな気分や無気力や心の荒廃へ直結するような急激な変化にならないような配慮も必要である。発展社会の中にあって,人間性が疎外されていることからの脱却を計ろうと努力することは相当な覚悟を必要とするものである。しかし,障害児は以前より既に,この発展社会の命題を超克した生活をしているものも多い。 たとえば,病虚弱児が発展社会の原理に従って生きようとすれば,病気を克服して病気に打勝って生きることが必要になる。しかし,現実には病気に敵対し打勝っことが不可能な場合,病気との共存を計る。ここではマイナスをプラスにしたり無くするのではなくて,マイナスはマイナスとして温存させながらそれと共存共栄を計ろうとするのである。これは発展社会の三命題にかなった生き方ではなく,かえって逆らった生き方である。 障害児が一般学級へ入ることにより戸惑いを感じる人びとに,そのメリットをどのようにしてもたらすか,ということが現代の障害児教育問題の言果題である。発展社会から多元的価値社会を志向する時,近代において「子ども」がはたした役割を「障害児」がはたしてくれるのではないか。発展社会においては,隣の人がビデオを買えば自分も買いたい,友人が大学へ進学するから自分も大学へいきたい,というように一っの動きが全ての人を包括する傾向にある。この動きが人間の生活を拘束し,人間を自由でなくしている。とすれば,この「動き」の体系に少しでもそれることで,人間性の回復を計ることが可能となる。その時,一般の人びとの生き方をいくらみつめていても有効な示唆を得にくい。ところが,障害児は,既にこの観点から自ら多元的価値社会を形成して,その中で生きている。障害児の生き方をみっめることにより,それ以外の人びとが,無気力やなげやりにならないで発展社会から離脱した生き方をすることができるようになるのではないだろうか。その意昧では,低成長社会での障害児の役割は従来以上に重要なものである。 3.人間のための視点を障害児から 一般的に,障害児にとって障害はマイナス要因として把えられてきた。障害は壁であった。ところが,障害児の生き方をよくみていると,決して障害が壁に終始しているのではないということが分ってくる。障害を個性と把え,さらには踏み台とすら考えて積極的生き方をしている人もいる。障害児やその親たちの生き方が多くの人びとに感動を与えるのは,こういう要因を看取させるからである。マイナス要因に打ちひしがれずに,これと共障害児教育と社会ダーウィニズム超克の問題 75存共栄を計ることによって,結果的に生き方においてマイナス要因をプラス要因に転換させていることがある。 障害をもった子どもの親は,一面では,他人に言い尽せないような絶望と苦悩に陥っている。しかし逆に,そこから考え方の転換を計り新しい人生を切り開いている人も多い。あるいは,その絶望と苦悩のただ中にあってもなおかっそこにひとつの明るい生を獲得している場合もある。人間は案外,案ずるよりも生むが易すしといわれるように,非常な困難・苦悩に直面しても,なんとかうまく切り抜ける方策を打開く能力があるもののようである。障害児教育はこの楽天的な方向を信じないと前進しない面がある。 人と人とのぬくもり,おもいやり,すがすがしさそしてそれらを基にした人生哲学の深みを,障害児・者なるがゆえに獲得することがある。進行性筋委縮症の磯部則男は,動けないということを自分の長所として,身の回りのものを深くみっめることにより,人一倍深みのある身近なものを題材とした絵を描く。ハンディーがあったからこそ絵を描くようになり,目標のある人生を送ることができるようになったという。 (朝日新聞昭和56年12月6日付)八代英太参議院議員は,立てず歩けず排泄も思うままにならない身体になって,タレント八代からはとても想像できないほどの深い人生哲学を携さえて政治に参画している。 (朝日新聞 昭和58年2月15日付) 人間のあり方を探究する時,その指針を自然界に求めるのも一つのやり方である。そして従来そういうことが行われてきた。しかし,人間のあり方が行き詰まった今日,人間的要素を自然的要素より重視しようとしたならば,自然界レベルでの洞察よりも障害児レベルでの洞察が有効である。 人間を中心にすえた見方が必要なのである。ところが従来の学問にはその観点が弱かったことを見逃すわけにはいかない。「医学の進歩のために人間や病気があるかの如き,また経済発展のために人類が生存しているかのように錯覚していないか。今日程人間とは何か,どうして人間であるのか,何故人間なのかと言った問題に直面していることはない㌘)」人間のためにという視点を明確にしたならば,自然や動物のあり方に強く拘束されたり,従来の単なる学問的蓄積に埋没してしまうのではなくて,人間そのものを腰をすえて見すえることが必要である。その場合,人間としての存在を全とうするために生に対して最も真剣な対決をしている障害児の生き方は,自然や動物からより幾倍も人間らしい示唆を与えてくれるであろう。人間のための視点は人間を見すえるところから生まれるものである。文 献1)C.ダーウィン 堀伸夫訳 (1958) 種の起原 上巻 槙書店 22ページ2)C.ダーウィン 池田次郎 伊谷純一郎訳 (1967) 人類の起原 (世界の名著39) 中央公論社 559ページ3)C.ダーウィン 同上書 204ページ4)米本昌平 (1981) 社会ダーウィニズムの実像 (東京大学教養講座4 時間と進化) 東大出版会 281-282ページ5)田中克己 (1974) 文明と淘汰 (木村資生編 遺伝学から見た人類の未来) 培風館 90-91ページ6)田中克己 同上書 93-94ページ7)遠山啓 (1976) 競争原理を超えて 太郎次郎社 36ページ76 井 谷 善 則8)C.ダーウィン 堀伸夫訳9)今西錦司10)今西錦司11)木村資生12)木村資生 35ページ13)木村資生14)河合雅雄 社15)河合雅雄16)河合雅雄17)河合雅雄18)河合雅雄19)浅倉繁春(1976)(1977)(1979)(1980) (1979) (1976)64ページ20)仲手川良雄 126ページ21)高橋英夫22)篠崎信男(1976)同上誌沢田允茂(1980)(1981) (1979)(1979)(1972) 前掲書 114ページ進化とはなにか 講談社 124-125ページダーウィン論 中央公論社 127ページ分子進化中立説・(自然 第34巻12号) 中央公論社 72ページ・分子進化の中立説 (サイエンス 第10巻1号) 日本経済新聞社分子進化中立説 前掲誌 62-63ページゲラダヒヒ (別冊サイエンス 特集動物社会学) 同上誌 71ぺrジ67-68ページ(1980) 動物と人間 思索社 92ページサルの目ヒトの目 平凡社 206ページ動物たちの儀式と伝統 明星大学出版部 207ページ 発展社会から価値社会へ (中央公論 8月号)中世との往還 (中央公論 8月号)人類働態学入門 同友館 40ページ日本経済新聞中央公論社中央公論社 121ページ Untersuchung zur Einstellung gegentiber der sozialen Selektionstheorienmit besonderer Berticksichtigung der Sonde叩姐agogikYoshinori ITANI Studie〃gangseinheit Heit-u〃ゴSonderp didagogik,0ぷaka Kンoiku Universitat, Hira〃oku, Osaたα54Z/bρan Wenn Wir die natOrliche Auslesetheorie aus dem sonderptidagogischem Gesichtspunktbetrachten, dann gibt es neue Gesichtspunkt. Es handelt in diesem Essay sich vor allem um 7Akzente. -die Entwicklungslehre vori Charles Darwin -die soziale Selektionstheorie -‘‘11abitat segregation”von Kinji IMANISHI -‘‘neutral mutation-random drift hypothesis”von Motoo KIMURA -das soziale Zusammenleben ohne Rangordnung und Machtbereich von Theropithecus gelada -die Kontinuittit und Nichtkontinui垣t mit der Tierwelt und dem Ku|ωrleben -die menschliche Gesellschaft mit der Pluralitat Die Entwicklungslehre von Charles Darwin ist in der 6ffentlichen Schatzung gesunken.Aber die soziale Selektionstheorie ist hochgeschatzt. Die natUrliche Auslesetheorie, das Gesetzdes Uberlebens der Tauglichsten haben auf den Padagogik einen grossen Ein伽ss gehabt. Dochwir der Entwicklungslehre von Charles Darwin.kritisch gegenUberstehen. Wir so‖en der Lehrenicht mehr gehorsam sein.“Habitat segregation”,‘‘neutral mutation-random drift hypothesis”und Kulturwissenschaft werfen. die bisherige Theorie von Darwin um.
0 件のコメント:
コメントを投稿