私は、今回検出されている放射線レベルなど、過去の大気圏核実験の折の世界中に拡散した汚染物質よりも極端に少ないと主張していた。そしてあの最悪のチェルノブイリ事故でさえ、その汚染は、大気圏内核実験の20分の1であり、日本人が被った中国の核実験による被曝よりも格段に少ないのだ。それを裏付けるデータをここに紹介する。
《》は引用
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大気圏内核実験当時の体内放射能とチェルノブイリ事故後の体内放射能(09-01-04-09)
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《<概要>
日本人の成人男子集団のチェルノブイリ事故による放射性セシウムの体内放射能は、1961年から1962年にかけて行われた大気圏内核実験による体内放射能のほぼ10パーセントである。欧州中部並びに北部では同事故の体内放射能が大気圏内核実験の時の体内放射能の2から8倍になったところもあった。チェルノブイリ事故による体内放射能は日本では15か月で半分に減った。欧州でもやはり減少してきている。
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<更新年月>
2003年03月 (本データは原則として更新対象外とします。)
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<本文>
(1)なぜ体内に放射能が蓄積するか。
大気圏内核実験(137Cs)でも、チェルノブイリの事故(137Csと134Cs)でも放射性セシウムが環境中に放出された。放出された放射性セシウムは、食物連鎖をたどって米、野菜、牛乳や肉、魚等の食物中に入る。この食物を食べると放射性セシウムが人体へ移行して来る。身体の中へ入った放射性セシウムは血液に入って、筋肉を始めとしていろいろな組織や内臓へ運ばれて行き、決まった早さ(生物学的半減期)でそこから出て行って、体外へと排せつされる。このように放射性核種が代謝や排せつなどによって体外に出ていく場合、体内に残っている放射性核種も自然に半減期(物理学的半減期)によって減衰する。したがって身体の中に入った放射能が半分になるまでの時間は、二つの過程により減衰し、これを実効半減期と言う。大気圏内核実験やチェルノブイリ事故のように農地や牧場が広く放射性セシウムで汚染された時は、食物の放射能汚染が長く続くために食物を食べる度に食物と一緒に放射性セシウムが身体に入って来ることになる。従って、食べた食物に入っていた放射性セシウムが身体の外に出ない内に、また次の食物を食べることになるので、体内放射能は次第に高くなって行く。その高くなり方は、実効半減期が長いほど高くなる。また、食物中の放射能が大きいほど、体内放射能は大きくなる。
(2)核実験とチェルノブイリ事故による日本人の体内放射能量
放射線医学総合研究所では長年にわたって全身計数装置(ホールボデイカウンタ)を用いて日本人の成人男子の放射性セシウムを測っている。1961年から1962年にかけて米国とソ連が行った大規模の大気圏内核実験による体内放射能が最も高かったのは1964年10月で730ベクレルであった。一方、チェルノブイリ事故では1987年5月に体内放射能は最も高い60ベクレルとなった。この体内放射能には大気圏内核実験の放射性セシウムが20ベクレル程度残っていた。正味のチェルノブイリ事故による体内放射能は40ベクレルである。また1年間の平均で比べると、大気圏内核実験は510ベクレル、チェルノブイリ事故による正味の体内放射能は約5%にあたる23ベクレルであった。
中国も大気圏内核実験を行った。1964年から10年以上にわたり繰り返し日本から近い場所で行われ、何回もそのフォールアウトにより日本の環境が放射能汚染を受けた。そのため、この大気圏内核実験の体内放射能への影響は1961年から1962年の米国とソ連による大気圏内核実験とは日本人の体内放射能への影響のしかたがいくらか違っていた。つまり、その影響は1961年から1962年の大規模な大気圏内核実験の影響が減ってきた1967年頃から目だち始めて、日本人の体内放射能の減る早さが小さくなった。さらに時期によっては、体内放射能が増えた。しかし、1961年から1962年の米国などによる大気圏内核実験よりも影響は小さく、体内放射能が185ベクレルを超えることはなかった。チェルノブイリ事故の直前には約20ベクレルまで体内放射能が減少した。チェルノブイリ事故による体内放射能への影響はさらに小さかった。放射性セシウムの日本人の体内放射能への影響の大きい順に並べると、米国とソ連が1961年から1962年に行った大気圏内核実験、中国が行った大気圏内核実験そしてチェルノブイリ事故となる。
日本で中国の大気圏内核実験により体内放射能が増加したときに欧州では影響がほとんど認められなっかったように、放射能汚染は事故サイトに近い程大きい。チェルノブイリの事故サイトに近い欧州では事故の影響が大きく、これらの地域では大気圏内核実験による137Csの体内放射能よりもチェルノブイリ事故による放射性セシウムの体内放射能の方が大きい国もあった。(表1参照)
表1 大気圏内核実験による体内放射能とチェルノブイリ事故による体内放射能
日本人のチェルノブイリ事故による放射性セシウムの体内放射能は約15か月で半分まで減り、その後も同様に減り続けている。欧州でも放射性セシウムの体内放射能は事故1年後に最大になった後は、減り続けている。
(3)チェルノブイリ事故汚染地域住民の内部被ばく線量
ベラルーシ、ロシア、ウクライナの汚染地域の住民が1986年から1995年までの期間に受ける推定集団実効線量を表2に示す。事故後最初の10年間に与えられた集団実効線量は、外部被ばくから24200人・シーベルト、内部被ばくから18400人・シーベルト、合計で42600人・シーベルトで平均実効線量は8.2mシーベルトと推定される。最初の10年間に与えられた線量が外部被ばくの生涯線量の60%、内部被ばくの生涯線量の90%と仮定すると、平均生涯実効線量は12mシーベルトに相当する。》
結論を言うなら、過去日本人は基準値の数十倍以上の放射線を何年にも渡って浴びていたし、汚染された食品を摂って体内に取り込んでいた。しかし、健康被害は全くなかった。その間日本人の平均寿命は伸び続けている。
現在の基準値とはその数値の全く意味もないほど低い数値を定めている。確かに全く何もない状態では、検出されない線量だろうが、これは飛行機による移動などで簡単に何十倍にも達する数字だ。そもそも、基準値自体が意味がない。
後述する青酸カリの致死量のようなものだ。仮に青酸カリの環境基準値が定められたとして、致死量は成人では300mg、環境基準では10μグラムです、と言うようなもの。10μグラムの千倍をとっても人間の健康には影響がない。そのイメージだ。
放射性同位元素についての一般的データ
今回方々で検出されている放射性ヨウ素、セシウムなどは、原子炉燃料が炉内で核分裂反応をした結果生じた物質であり、今は核分裂反応は無いので、新しく出来ることはない。違って、今環境に漏れているこれらの物質はきわめて限定的であり、確かに今の処理過程で漏れ続けることがあったとしても一時的な上昇はあるが、無限に増え続けるものではない。まして、放射性ヨウ素131の半減期は8日であるから、今原発に存在しているものも環境に漏れだしたものも、8日で半減し、3ヶ月もすれば検出不可能なレベルに消滅してゆくし、その間に拡散希釈してゆくのだ。したがって、放射性ヨウ素が人体に取り込まれる期間はどう考えても2,3ヶ月以上であるわけが無く、一年以上続けて摂取した場合の基準など意味がないことが分かる。誰かが一年以上放射性ヨウ素を作り続けて、ばらまき続けなければならないが、とんでもない金がかかる。
セシウム134は半減期が30年なので、事実上環境にばらまかれたものは長期に渡って存在し続けるが、実際には拡散希釈して検出不能レベルになる。今、おそらく大量のこれらの放射性物質が海に流れ出ている。これは大量の水をかけており、その水が海にそのまま流れ出ているのだから当然で、その出口ではかった量が通常に数百倍であろうと、一切気にすることはない。海水の量を考えれば、競技用プールいっぱいに、インク一滴を垂らしたよりも量は少ない。
なお、中性子も検出されたと言うが、検出可能ぎりぎりのレベルであり、それなら自然界にいくらでも存在するレベルだ。ウラン鉱山の近くに住んでいる人たちは中性子を浴びているだろうが、全く影響のない、無視しうるレベルだ。
イメージで人は恐怖を抱く。誰かが水道水源に青酸カリを混入したとしよう。おそらく東京都民はパニックになってミネラルウォーター業者に貢ぐのだろうが、全くそんな必要はない。
青酸カリの致死量は、体重60キロの成人の場合、300mgとされている。一方たとえば今回汚染されているという金町浄水場の貯水池は286,800m3であり、仮に1トンの青酸カリを運んできてぶちまけ完全に攪拌したとして、濃度は30PPMだから、大人の致死量の10分の1、30mgを摂取するためには9リットルを一気飲みしなくてはならない。もちろん、確実に死ぬためには90リットルを一気飲みする必要がある。だらだら飲んでいると、排出されてしまうからだ。おそらく、青酸カリで死ぬより先に、水の飲み過ぎで死ぬのではないか。
今回の放射性同位元素もそんなイメージだ。
放射性ヨウ素は放って置いても消えて無くなるし、セシウムは人体に取り込まれる率がかなり低い。ほとんど排出されてしまう。そしてごく一部取り込まれたものも、2~300日で新陳代謝により完全に排出され、その間の体内残留量は検出すら難しい微量なのだ。
そのことについては、幸か不幸か日本は広島、長崎、第五福竜丸などのデータが非常に豊富にあり、きわめて確実に認知された事実だ。専門家がこぞって、心配はないというのは、決して気休めなのではなく、世界で一番充実したデータに基づいての話だ。
そもそも、政府発表で、乳児にたいする基準の倍だが、ミネラルウォーターが入手できなかったら飲ませてもかまわないなどとふざけたことを言っている。後から叩かれたくないだけの小細工であり、実際にはデータに出た数字は、乳児に飲ませても全く問題がないと言っているのだ。
単位
シーベルト 人体が放射線に受ける影響度
ベクレル 放射線源の強さ
なお、水道の汚染問題で、乳児向けに東京都が24万本を配ると言うが、今すぐ必要な家庭に届くわけがない。乳幼児に水道水を飲ませても良いと明言すればよいのだ。確かに、差し支えないと言っているのだから。とにかく発表すれば責任はない、と考えただけで、その後のことを理解していなかった。菅内閣や小役人の考えそうなことだ。
つまり、どんな損失が出ても、それは東電の責任であり、補償は最終的には国庫からなされるのだから、とにかく情報開示の責任だけは果たした、というだけだ。だが、情報を理解させる努力はしていないし、第一自分たちが理解しようとしていない。
放射線障害防止法に規定するクリアランスレベルについて
平成22年11月
放射線安全規制検討会
文部科学省
科学技術・学術政策局
http://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2011/02/04/1301631_1.pdf
被曝するとはどういうことか(被曝の意味)
1、被曝被曝とは人が放射線を浴びること。
その結果、人の身体にどういう影響があるか。それについて考えたい。
例えば、3月14日に、米軍第7艦隊は福島第一原発から約160km離れていたにもかかわらず、被爆したので退避したと報道された(東京新聞3月14日)。彼らは臆病者なのだろうか。彼らの対応は決して単なる感情や気分ではなく、科学的な研究の裏づけに基づいている。例えば以下のような研究である。
2、アーネスト・スターングラス博士の青森市講演(2006年3月)
--放射能は見えない、臭わない、味もしない、理想的な毒です--
1923年ベルリン生まれ。アメリカのピッツバーグ医科大学放射線科の放射線物理学名誉教授。
1967年から同大学の放射線物理・工学研究所を指揮し、X線と放射線医療診断における放射線量を低減させる新しい投影技術の開発。
放射性降下物と原子炉核廃棄物による人間の健康に対する広範囲な医学的影響調査研究を行い、その結果をアメリカ議会で発表。すなわち、アメリカとソ連が核実験を繰り返していた冷戦当時、核実験の死の灰(放射性降下物質)による放射線の影響で世界の子どもたちの白血病やガンが急増している事実を議会で報告し、それがきっかけとなって米ソ核実験停止条約が締結された。
長年に渡って低レベル放射線の危険性を訴えている。
現在、ニューヨークの非営利団体「放射線と公共健康プロジェクト」の科学ディレクター。
「低レベル放射能」(1972年)、
「隠された放射性降下物」(1981年)、
「ビッグバン以前」(1997年)
スライド 01
私が原子力発電所からの放射線拡散に興味を持つことになったのは、最初の子どもが生まれた時です。ピッツバーグで、ちょうど家を建てていました。
当時は冷戦最中で、死の灰から身を守るために核シェルターを作らなければならないと言われていました。私はアメリカ科学者同盟(Federation of American Scientists)のメンバーでしたが、ずっと前から私たちは米ソ軍備競争は止めなければならないと警告していました。当時、政府が、核爆発を何回行いその放射性降下物(死の灰:Fall Out)がどこに行ったのかという報告書を初めて出したので、私たちはそれを調査していました。
議会で公聴会が開かれ、その際イギリスのアリス・スチュワート博士の論文が報告されました。スチュワート博士はオクスフォード大学で、イギリスの子どものガンや白血病が急増している原因について研究していました。彼女はガンや白血病になった子のお母さんのグループと健康なこどものお母さんのグループに100の質問アンケートを送りました。アンケートを回収すると驚いたことに、10歳未満のガンや白血病の子どものお母さんたちが妊娠中にエックス線を浴びていたことがわかりました。
それが、わずかな放射線でも人体には影響を与えることの初めてヒントになりました。つぎのグラフがその研究結果です。
スチュワート博士が発見したのは、数回のエックス線照射でガン発生率が倍増することです。この際、1回のエックス線の放射線量とは自然界の環境放射線の約2年分に相当します。この放射線量というのは、大人にガンを発生させる量に比べるとその10分の1から100分の1に相当します。赤ちゃんや胎児は100倍も影響を受けるのです。また妊娠3ヶ月未満にエックス線を浴びたお母さんの子どもの幾人かは、ほかのお母さんのこどもより10〜15倍ガンの発生率が高かったのです。
政府は(核戦争があっても)核シェルターから出てきてもまったく安全だと言いましたが、それは1000ラッドの放射線量の環境に出てくるわけです。それはエックス線を数千回浴びることに相当するわけですから子どもたちが生き延びることは不可能です。ですから、このような人類の惨禍を防ぐために核兵器を廃絶しなければなりません。それで、私は、核実験の後のアメリカの子どもたちにどのような影響があるのか調べ始めました。
当時は冷戦最中で、死の灰から身を守るために核シェルターを作らなければならないと言われていました。私はアメリカ科学者同盟(Federation of American Scientists)のメンバーでしたが、ずっと前から私たちは米ソ軍備競争は止めなければならないと警告していました。当時、政府が、核爆発を何回行いその放射性降下物(死の灰:Fall Out)がどこに行ったのかという報告書を初めて出したので、私たちはそれを調査していました。
議会で公聴会が開かれ、その際イギリスのアリス・スチュワート博士の論文が報告されました。スチュワート博士はオクスフォード大学で、イギリスの子どものガンや白血病が急増している原因について研究していました。彼女はガンや白血病になった子のお母さんのグループと健康なこどものお母さんのグループに100の質問アンケートを送りました。アンケートを回収すると驚いたことに、10歳未満のガンや白血病の子どものお母さんたちが妊娠中にエックス線を浴びていたことがわかりました。
それが、わずかな放射線でも人体には影響を与えることの初めてヒントになりました。つぎのグラフがその研究結果です。
スチュワート博士が発見したのは、数回のエックス線照射でガン発生率が倍増することです。この際、1回のエックス線の放射線量とは自然界の環境放射線の約2年分に相当します。この放射線量というのは、大人にガンを発生させる量に比べるとその10分の1から100分の1に相当します。赤ちゃんや胎児は100倍も影響を受けるのです。また妊娠3ヶ月未満にエックス線を浴びたお母さんの子どもの幾人かは、ほかのお母さんのこどもより10〜15倍ガンの発生率が高かったのです。
政府は(核戦争があっても)核シェルターから出てきてもまったく安全だと言いましたが、それは1000ラッドの放射線量の環境に出てくるわけです。それはエックス線を数千回浴びることに相当するわけですから子どもたちが生き延びることは不可能です。ですから、このような人類の惨禍を防ぐために核兵器を廃絶しなければなりません。それで、私は、核実験の後のアメリカの子どもたちにどのような影響があるのか調べ始めました。
スライド 02
この図は、乳児1000人に対する死亡率を示しています。年ごとに始めは下降していきますが、途中で急に下降が止まります。それはネバダの核実験が始まったときです。それ以降、核実験のたびに乳児死亡率も合わせて上昇しています。これは米ソ英による大気核実験停止条約が締結される1963年まで続きます。しかし、中国とフランスは核実験をつづけました。1961年に北シベリアでソ連が5000万トンのTNT爆弾に相当する巨大な原爆実験をしました。広島原爆は1万キロトンTNTでした。広島の5千倍の威力の原爆です。これは北半球に住む人間全員に腹部エックス線照射をしたことになります。これから世界中の子どもたちにガンや白血病が発生することが予想されます。そしてその後、実際にそうなりました。私は核実験を止めないと世界中の子どもたちにガンや白血病が発生することになるとサイエンス誌で警告しました。幸いなことに当時、ソ連のフルシチョフ首相と核実験停止条約を結ぼうとしていたケネディ大統領のもとで働いていた友人がホワイトハウスにいました。しかし、条約が締結されるには議会の上院での承認が必要です。そこでケネディ大統領はテレビとラジオで演説し、われわれの子どもたちの骨に含まれるストロンチウム90や血液中の白血病細胞をなくすために核実験をやめなければいけないと国民に呼び掛けました。するとたくさんの女性が乳母車でホワイトハウスを囲んだのです。また上院議員たちに手紙を書き、電話をしました。私は議会で証言する必要があると言われました。それから約1ヶ月後の8月にワシントンに行って議会で証言するようにという手紙を受け取りました。幸いにも、ハーバード大学のブライアン・マクマーン博士がスチュワート博士と同じ研究をアメリカ国内で行っていて同様な結果を得ていました。エドワード・テラー博士が、核実験は継続するべきだと証言しましたが、合衆国上院は条約批准賛成の投票をしました。すると幸いなことに、その後乳児死亡率が下がったのです。しかし、すべての州でベースライン(核実験がなかった場合に予想される乳児死亡率)に戻ったわけではありませんでした。
スライド 03
多くの州では乳児死亡率の下降が止まってしまいました。ベースラインとの差がまだありました。
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スライド 04
乳児の死亡の主な原因は、多くの場合出産時の体重が平均よりも低体重(2キロ以下)であることが考えられます。乳児の低体重率は条約締結後低下し、そのまま降下するはずでした。しかし、2つのことが起こりました。ペンシルバニアでスリーマイル島事故と呼ばれる大きな災害が起こりました。ハリスバーグ近辺の原子力発電所の原子炉事故です。その後しばらくして乳児低体重率の下降が止まり上昇し始めました。それから1986年のチェルノブイリ原発事故です。それによって放射性降下物質が世界中に広がりました。低体重率はその後上昇し、大気核実験が行われていた時期と同じレベルに戻ってしまいました。このころから明らかになったことは、放射性降下物(Nuclear Fallout)が、原子炉事故と原子力発電所の通常運転による放出にとって替わられたと考えられることです。
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スライド 05 (大)
スライド 05 (大)
低体重で生まれた子は、深刻な知的およびほかの肉体的な問題を抱えています。とくに初期の学習能力障害や後期の精神障害などです。この表はたくさんの原子炉がある州(ニューヨーク、ニュージャージー、イリノイ、フロリダ、カリフォルニア)とない州との(乳幼児死亡率)比較です。ご覧のように核実験中は下降が停止して横ばいになっていますが、(核実験が終わっても)もとのベースラインに戻ることはありません。ところが原子力発電所がないネバダでは核実験が終わるとベースラインに戻っています。ほかの原子炉がないニューメキシコ、ケンタッキー、ワイオミングなどの州も同様です。これは原子力発電所の原子炉が関係していることを示す非常に明確な証拠です。
スライド 06
われわれはこのことを確証するために他の証拠を探しました。1935年から乳幼児死亡率は年率約4%ほどで下がって行きます。それはベースラインにそって下がっていくはずだったのですが、上昇し始め、核実験期間中に1958年にピークになり、その後下がって行きますがベースラインまでに戻ることはありませんでした。その結果、なにもなければという想定数値に比べ100万の乳児が死んだことになります。
スライド 07
重要なことはアメリカ国民全員が被曝している事実です。この図は7、8歳になったこどもから取れた乳歯に含まれているストロンチウム90の値で、骨に蓄積していることがわかります。この表から60年代前半に、乳歯中のストロンチウム90が環境中のストロンチウム90の値を反映していることがわかります。核実験が終わると下降しますが、その後下降が止まり横ばい状態になります。ちょうどこの頃アメリカでは大規模な原子力発電所が操業開始しました。それは日本も同じです。それ以降80年代中頃になっても横ばいが続きます。そして最近になってまた上昇し始めました。このことからも、一見何も無いような平和的な原子力発電所の日常運転による放出も、核実験中と同様に、ストロンチウム90の原因であるという重大な事実がわかります。86〜89年に少し減少しているのは原子力発電所の稼働率減少や閉鎖されたことによる影響でしょう。重要なことはその後数年にわたって上昇しつづけていることです。また、ガンになった子どもにはガンにならないこどもの倍のストロンチウム90があることが分かりました。
スライド 08
これまでに、私たちはほぼ5000本の乳歯を調査しました。この表からも、どうしてこのようなことが起きているのかを理解することができます。これは政府が発表したミルク中のストロンチウム90の値です。コネチカットのミルストーン原発からの距離との関係を示しています。この原発から数マイル(1マイル=1.6キロ)以内に住んでいる人たちのレベルは、大気核実験中の時の最高値よりも高くなっています。それと同じ原子力発電所がある日本では、なにも危険なものは出していないと言われています。これはジェネラルエレクトリックの原子炉です。表から、100マイル(160キロ)離れていてもミルク中には高いレベルのストロンチウム90が含まれていることがわかります。多くの原子炉を抱える日本ではその周囲が非常に放射能汚染されていることが予想されます。
スライド 09
この表から、1970年から1975年にかけて、ガン死亡率が原発からの距離に比例して低くなっていることがわかります。原子炉があるところではわずか5年間で58%死亡率が上昇しました。これから、ガンが原子炉からの核物質放出を明瞭に反映するインジケーター(指標)であることがわかります。しかし今だに原子力発電はクリーンだと宣伝されています。放射能は見えない、臭わない、味もしないからです。理想的な毒です。
スライド 10
コネチカットでは1935年からの甲状腺がんのデータがあります。甲状腺がんに罹ったひとは政府に報告する義務がありました。これは死亡率ではなくガン発生率です。1935年〜1945年では変化がなく、むしろ減少経過があります。そして医療の向上や改善によってさらに減少するはずでした。しかし1945年からわずか5年間で3倍にもなります。そして大気核実験のピークから5年たった1965年に再び上昇します。また、大きなミルストーン原子力発電所が稼働し始めてから5年後に急激な上昇がはじまります。チェルノブイリの事故から5年後に大きな上昇が起こります。ここで重要なことは、甲状腺ガン発生率の増大が医療の向上を反映していない事実です。ガン発生率が0.8から4.5に5倍も増大したことは統計的にも小さな変化ではあり得ません。
スライド 11
これは同地域の乳がん発生率です。同じように1935年から1945年までガンの発生率は上昇していません。実際、多少減少傾向にあります。そして核実験中に上昇し、1967年にコネチカットで最初のハダムネック原子炉が稼働すると急激に上昇します。1970年にミルストーン原子炉が稼働するとその5〜8年後に大きく上昇します。
日本でも同じような研究をすべきでしょう。
日本でも同じような研究をすべきでしょう。
スライド 12
政府は、肺がんやその他の病気は喫煙が原因だとみなさんに信じてほしいと思っています。大規模な核実験が終わった1961〜62年から1990年までに、18歳以上の女性の肺がん死亡率は5倍以上になっています。実際には女性の喫煙率はどんどん落ちているのです。
スライド 13
世界中の政府や国際原子力安全委員会などは、放射能による影響はガンと子どもの先天性障害だけだとみなさんに信じ込ませようとしています。しかし実はさまざまな面で健康に影響を及ぼしているのです。乳児死亡率や低体重児出産のほかに糖尿病があります。1981年から2002年の間にアメリカの糖尿病罹患者は5.8x百万から13.3x百万に増加しました。それと同時に原子力発電所の稼働率は40〜50%から92%に増大しています。(注:アメリカ国内の原子力発電所の建設は1978年以来ないので稼働率が発電量を反映する)原子炉の検査やメンテナンスや修理の時間がより減少してきたことがあります。その結果、振動によってひび割れや放射能漏れが起きています。
1959年ドイツのスポーディ博士などのグループがストロンチウム90をたくさんの実験動物に与えました。それらは当初カルシウムのように骨に蓄積すると予想されていたのですが、実験室がイットリウム90のガスで充満していることを発見しました。イットリウム90は、ストロンチウム90の核から電子がはじき出されると生成する元素です。このようにストロンチウム90からイットリウム90に変換します。そこで実験動物の内蔵を調べた結果、ほかの臓器にくらべ膵臓にもっともイットリウム90が蓄積していることが判明しました。また、肺にも蓄積されていましたが、それはラットの肺から排出された空気中のイットリウム90をまた吸い込んだためだと考えられます。膵臓はそのβ細胞からインシュリンを分泌する重要な臓器です。それがダメージを受けるとタイプ2の糖尿病になり、血糖値を増大させます。膵臓が完全に破壊されるとタイプ1の糖尿病になり、つねにインシュリン注射が必要になります。おもに若年層の糖尿病の5〜10%はタイプ1です。アメリカと日本に共通していることですが、ともに膵臓がんの数が非常に増加しています。
1959年ドイツのスポーディ博士などのグループがストロンチウム90をたくさんの実験動物に与えました。それらは当初カルシウムのように骨に蓄積すると予想されていたのですが、実験室がイットリウム90のガスで充満していることを発見しました。イットリウム90は、ストロンチウム90の核から電子がはじき出されると生成する元素です。このようにストロンチウム90からイットリウム90に変換します。そこで実験動物の内蔵を調べた結果、ほかの臓器にくらべ膵臓にもっともイットリウム90が蓄積していることが判明しました。また、肺にも蓄積されていましたが、それはラットの肺から排出された空気中のイットリウム90をまた吸い込んだためだと考えられます。膵臓はそのβ細胞からインシュリンを分泌する重要な臓器です。それがダメージを受けるとタイプ2の糖尿病になり、血糖値を増大させます。膵臓が完全に破壊されるとタイプ1の糖尿病になり、つねにインシュリン注射が必要になります。おもに若年層の糖尿病の5〜10%はタイプ1です。アメリカと日本に共通していることですが、ともに膵臓がんの数が非常に増加しています。
スライド 14
アメリカの普通死亡率推移(1900〜1999)。これは乳幼児死亡率、肺がん、膵臓がん、乳がんなどすべてのガン、糖尿病などのすべての死亡率(1000人中)の総計です。1900年から1945年までは年率約2%で死亡率が下がって行きました。唯一の例外は1918年に世界的に流行したインフルエンザの時です。このときはアメリカも日本も世界中が影響を受けました。この間ずっと、化学物質や喫煙率も増えているのにもかかわらず死亡率は減少しています。それはネバダの核実験が始まる1951年ころまで続きます。そして核実験が終わって少し下がりますが、やがてほとんど下がらずに横ばい状態が続きます。予想死亡率減少ラインから上の実際の死亡率ラインとの比較から、アメリカでこの間2000万人が余計に死んだことになります。広島や長崎で死んだ人の数よりはるかに多くの数です。
スライド 15
これは日本の膵臓がん死亡率のチャートです。前述したように、1930年から1945年ころまでは低くまったく変化がありません。しかし、1962〜63年ころまでには12倍に増加しています。これは東北大学医学部環境衛生の瀬木三雄博士たちの1965年のデータです。これからお話しすることは本当に信じられないことです。この12倍になった死亡率が、2003年までにはさらにその3倍から4倍になったのです。ストロンチウム90やイットリウムが環境に放出されることがなければ膵臓がんの死亡率は減少していたでしょう。アメリカでは約2倍になっています。
スライド 16
これは同じ東北大学のデータで日本の5〜9歳男の子のガン死亡率チャートです。1935年から1947年までは実際に死亡率が減少しています。それ以降、ソ連の核実験やアメリカの太平洋での核実験が度重なるにつれ、6倍に上昇しています。そしてこれ以降もさらに増加していることがわかっています。これらのデータは政府刊行物である「人口動態統計」からとりました。このような詳細にわたる統計は世界でもいままで見たことがありません。
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スライド 17
同様に東北大学のデータです。これはアメリカ(非白人)と日本の男性のガン死亡率を比べたものです。1920年から1945年まで、この間喫煙率や化学物質の量が増加し、また石油、ガス、石炭の消費量増加による大気汚染も増加しているにもかかわらず、日本ではほとんどガンの増加はありません。非常に重要なのは、このことを理解しないと放射能を理解することができません。1945年以降ガン死亡率が急に上昇し、1962年にまでに42%増加します。それ以前にアメリカと日本で少し減少したところがありますが、これは核実験を一時停止した時期です。
これらは核降下物の低レベル放射線が原因であることの強力な証拠です。しかし、政府は、その量があまりにも低すぎて検出できないと主張しています。
これらは核降下物の低レベル放射線が原因であることの強力な証拠です。しかし、政府は、その量があまりにも低すぎて検出できないと主張しています。
スライド 18
これは1970年以降の日本の原子力エネルギー生産量を示したものです。一時増加が止まった時期もありますが、最近では急激に上昇しています。これは原子炉の稼働率をなるべき上げるようにしているからです。アメリカも同じです。
スライド 19
1950年から2003年までの、さまざまなガンによる男女別死亡率の推移です。これを見るとわかるように、1970年ころから急に上昇し始めますが、1950年ころからすでに上昇し始めています。もっとも増加したのは男女とも肺がんです。大腸がんは女性の方がやや高いですが、やはり急激に上昇しています。膵臓がんは1962年までにすでに12倍に増えていますが、さらに大幅に上昇しつづけています。このことから日本になぜアメリカの倍の糖尿病があるのかという説明になります。
スライド 20
1899年から2003年までの主要死因別死亡率の推移です。これは男性女性を合わせたものです。1900年代初頭は世界的な疫病が流行し、1918年に肺炎死亡率がピークになってやがて降下していきます。抗生物質の出現で肺炎を含む感染性疾患は1990年ころまでに減少します。ではガンはどうでしょう。現在日本中の最大の死亡原因はガンです。東北大学の瀬木博士が指摘しているように、1962年ころまではガンの大きな増加はありません。それまでの感染症(伝染病)が増加した20〜30年間にガンは多少増加していますが、これはガン全体の20%がバクテリアやウイルス感染に起因することが影響しています。感染症が横ばいになるとガンも同様に1945年まで変化しません。その後1947ごろから急激にガンが上昇し始めます。そして1966年商業用原子力発電所の放出が始まるとさらに上昇します。もし、これらが核実験によるものであるのなら減少していかなければならないはずです。ところが実際には、ガンの早期発見や治療法の向上にもかかわらずガン死亡率は増加しつづけています。1990年代はじめから急激なガン死亡率の上昇が見られます。このときに放射性物質を含む劣化ウラン兵器がアフガニスタン戦争やイラク戦争で用いられました。それが世界中を回っているのです。
ですから、平和的な原子力発電所の放出から平和的な劣化ウラン兵器に置き換わったわけです。安すぎて計量できないと言われたクリーン原子力エネルギーのおかげというわけです。
ですから、平和的な原子力発電所の放出から平和的な劣化ウラン兵器に置き換わったわけです。安すぎて計量できないと言われたクリーン原子力エネルギーのおかげというわけです。
スライド 21
1899年から2003年までの死亡数と死亡率の推移です。世界的なインフルエンザ大流行の時期に大きなピーク(1918年)があります。その後下降し、広島・長崎原爆後もまた核実験が終わったあとでも下降しています。それはその後もそのまま下降するはずでした。ところが1970年ごろから下降が止まります。そして1990年ころになって、1918年以来はじめて上昇し始めます。これから国の医療費の負担がいかほどになったか想像できるでしょう。国の将来を担う新生児が影響を受けているのです。赤ちゃんだけではありません。死ななくともいい人びとが多く死んでいるのです。巨大な軍事費の代わりに、あなたの国はなんとか死亡率を下げようと巨大な医療支出を被っています。どなたか広島・長崎以降の国家医療費の総計を原子力発電所の推移とくらべて調べてみるといいでしょう。
これが私のみなさんへのメッセージです。民主主義のもとで選ばれた、みなさんを代表する議員たちにこのことを伝えてください。私たちがホワイトハウスを乳母車で囲んだように、みなさんも乳母車で国会を囲んでください。 ありがとうございました。
米国の乳がん
公表された事実
1950~1989年の40年間に婦人の乳がん死亡者が2倍となった。そのため、世論は政府に 原因究明を求めた。p114
政府による原因究明
政府の調査報告書曰く「乳ガンの増加は、戦後の石油産業、化学産業などの発展による大気と水の汚染など、文明の進展に伴うやむを得ない現象である。」p114
統計学者グールドの批判
1、全米3053郡が保有していたその40年間の乳ガン死亡者数を使い、増加した郡と横這いか減少した郡とに分類して、郡ごとの動向を調べた。その結果、全米一様に乳ガン死亡者が2倍になったのではなく、1319郡(43%)が増加し、1734郡(57%)では横這いか減少していたことが判明。
2、では、なぜ、このような明瞭な地域差があるのか。 3.その原因を探求した末、彼は1つの結論に達した--原子炉から100マイル(161㎞)以内にある郡では乳ガン死亡者数が増加し、以遠にある郡では、横這いか減少していた、と。 ーー>原子力施設と乳ガン患者の相関関係の図 (図の黒い部分が原子力施設から100マイル以内に位置している郡)
なお、グールドの原文と図は-->こちら141
日本の乳がん公表された事実
1950~2000年の50年間に、婦人の乳ガン死亡者数は4.3倍となった(10万人あたり1950年が1.7人が、2000年では7.3人)。2006年では対10万人率が17.3。10倍強となった
ーー>グラフp115
肥田舜太郎らの分析
グールドにならって、日本で原子力施設から100マイル(161㎞)の円を描いてみた。すると、列島全体が多重の円で蔽われてしまって、グールドのように2つの地域のに区分けできなかった。
-->日本地図と日本の原子力施設参照115
東日本6県の特徴
これまでに、乳ガンの死亡率が12人(10万人あたり)を超えた県は青森・岩手・秋田・山形・茨城・新潟の6県。この6県の乳ガン死亡率のグラフには顕著な特徴が見て取れる
それは、1996~1998年だけ突出している。
なぜ、このときだけ突出したのか。 肥田らは原因を探求した末、1つの結論に達した--1986年のチェルノブイリ事故による放射性物質の汚染である。すなわち、 (1)、この事故による放射性物質の汚染は東日本でひどかった(原子力安全研究グループのチェルノブイリ新聞切り抜き帖 86/07/02朝日「放射能汚染は東高西低」 1950年以来のセシウムの秋田での降下量のグラフでも、1986年のチェルノブイリ事故のとき、セシウムの降下量が突出している)
(2)、放射性物質が体内に入ってから乳ガンを発症し死に至るまでに平均して11~12年はかかると言われている。
(3)、従って、上記6県で1996~1998年にだけ乳ガン死亡率が突出したのは、10~12年前のチェルノブイリ事故による放射性物質の汚染によるものである。118
(1.1) わたしの発端 肥田舜太郎・鎌仲ひとみ『内部被曝の脅威』(ちくま新書 2005)を読んだ。肥田舜太郎(ひだしゅんたろう 1917生れ)は陸軍軍医として広島で被爆し、同時に被爆者の治療にあたった。そのあと戦後一貫して被爆者の治療にあたり、そのなかでも特に内部被曝という観点をもちつづけていた。鎌仲ひとみはドキュメンタリー映画制作者で、環境問題に関わってきている。映画「ヒバクシャ」には肥田も出演しており、様々な賞をとっている。 『内部被曝の脅威』という本は、残念ながら、本としての出来はあまり上等ではない。色々と貴重なデータや観点がゴチャゴチャに詰めこまれていて、全体として訴えかけてくるものが分散している。しかし、触発されるところの多い本だった。 “ピカドン”と原爆にうたれて人間が即死に近い状態で死ぬ。あるいは数日のうちに死ぬ。これは、強い放射線にさらされて人体内部が細胞レベルで破壊されてしまうからである。もちろん、それ以外に強い熱でヤケドを負ったり、強い爆風で吹き飛ばされたりすることも致命的になる。極端な場合は、強い熱線で瞬間的に蒸発してしまうこともある。このような、人体外部からくる放射線でやられる場合を外部被爆と肥田はいう。東海村の臨界事故(1999)で死んだ2名は、まさに、この外部被爆の純粋な形である。(しかし、「外部被爆」と「外部被曝」を区別して使うのは、実際には混乱しがちである。また、厳密に区別して使用することにそれほど意味があるとも思えない。本論が放射線を扱うことが主なので、以下、わたしは「外部被曝」を使う。特に意味があると思える場合には「外部被爆」とする。放射線・熱線・爆風が同時に来るような場合である。) それに対して、放射性のチリや液体を体内に取り込み(呼吸、経口、皮膚から)体内に沈着した放射性元素が体内で放射線を放出することによって放射線障害を起こしたり、ガンを発病したりする。これを内部被曝という。 外部被曝と内部被曝は、いずれも放射線による細胞破壊であるという点では本質は同じなのだが、実際には、大いに異なる点がある。まず、本質は同じとは言いながら もうひとつ、重要な点は線量測定のことである。放射線の量である。 この線量の話は、許容量のことと密着する。どれくらいの放射線に照射されても大丈夫か、という量。これの算定の基礎になるのは、ひとつ自然放射線の量、もうひとつは広島・長崎での原爆被害の例。しかし、それらはいずれも外部被曝からでてくる線量である。 外部被曝から求めた許容量を、内部被曝にも適用できるか。これは、大問題で、決着が着いていない。 そもそも、アメリカをはじめとする原子力推進を考える国家や原発会社は内部被曝という考え方そのものを認めない。内部被曝を認めない場合、広島・長崎の原爆の被害者に関して、信じられないようなつぎのような見解が公式のものとなる。1968年に日米両政府が国連に提出した「原爆被害報告」である(前掲書p66)。
被ばく者は死ぬべき者は全て死に、現在では病人は一人もいない。
こういいう驚くべきアメリカの公式見解(これが虚偽であることは明らかである)を持ちつづけなければ、劣化ウラン弾などは使用できるはずがない。アメリカ政府について驚くのは、国内の原子力施設でもこの考え方を“愚直に”まもっているようにみえることで、ハンフォード(コロラド川流域)やオークリッジ(テネシー州)などの「マンハッタン計画」を実践した施設周辺での放射性物質の漏洩・汚染はひどいものである(これらについては、「中国新聞」の秀逸な特集核時代 負の遺産で知った)。アメリカ政府は自国民に対しても自国内で多数の被曝者をつくりだしている。 わたしは「マンハッタン計画」の“成功”と同時に全世界に向かって虚偽を声明することで、アメリカの20世紀後半の世界戦略がはじまっていることに気づいた。これが、“自由と繁栄”を売りものにするアメリカの覇権の教義である。 核兵器と原子力の安全性をトコトン追求していくことは、20世紀後半以降のアメリカ覇権主義の“アキレス腱”を突くことになっているはずである。 1968年の段階で「被曝者で死ぬべき者はすべて死んで、現在は病人はいない」というのは、事実に反している乱暴な見解であるが、あるいは“これは原爆症の範囲をどこまで広げるか”の解釈の相違の問題なのではなかろうか、と思う人もあるかも知れない。でも、それはアメリカに対して、あまりにも好意的すぎる考え方であると言わざるを得ない。なぜなら、下の(1.4)節で紹介するが、これとほとんど同文の声明を、アメリカ陸軍准将・ファーレルが、1945年9月6日に東京帝国ホテルで、連合国の海外特派員に向けて発表しているからである。原爆投下して、わずか1ヶ月後のことである。しかも、ファーレルは現地を視察しないで、この声明を発表している。 これが、わたしの発端である。 (1.2) 乳ガンの死亡率の上昇 まず、つぎのグラフをじっくりと眺めて欲しい。これは1970年から2006年までの、日本の女性の乳ガン死亡者数(10万人に対する率)の推移を示している。容赦なく増加し続けていることがよく分かる。 最新データの2006年を述べておく。女性の乳ガン死亡者が11,177人、対10万人率が17.3。(じつは本稿の「暫定版」では、ここに『内部被曝の脅威』からとったグラフを掲げていたが、そのグラフは男性を含めた全人口に対する比率になっていたので、改めて、「人口動態統計」から作図しなおした。) わたしは、ずいぶん多いものなんだなあ、と思った。わたしの知人の範囲でも乳ガンの手術をしたという人が複数いるから、乳ガンの罹患者というのは莫大な数になるのだろう。このグラフは、そういう多数の日本人女性を分母にした、彼女らの乳ガンに関する35年間の「動向」を表現している。 10万人に対する率としている意味を汲みとってもらいたい。たとえば、女性人口がドンドン増加している時期であれば、ある病気で死ぬ人数がドンドン増加するという場合もある。上のグラフが示しているのはそうではなく、日本女性の全体数とは無関係に現れている傾向だというのである。つまり、確かに日本女性は、乳ガンが原因で死ぬ率が増えているということだ。 一貫した増加傾向にあるということは、恐ろしい意味がある。乳ガン検診による早期発見や治療は、数十年前と比べれば手厚くなっている。また、検診に対する女性の意識もずいぶん変わった。だから、乳ガンによる死亡率は減少しても不思議ではないのである。それにもかかわらず、「一貫して」増加しているのである。 これが意味しているのは、次のことしか考えられない。
前掲の『内部被曝の脅威』p114以下で、肥田は、上のグラフを作成する動機はアメリカの統計学者J.M.グールドの傑出した仕事に触発されたと述べて、グールドの目の覚めるような仕事を紹介している。 アメリカで上のグラフと同様の統計がとられ、1950~89年の40年間にアメリカの白人女性の乳ガン死亡者が2倍になったことが分かった。その原因を求められてアメリカ政府は、膨大な統計資料を駆使した調査報告書を作成し とした。 グールドは、この政府の統計処理に疑問を持ち、全米3053郡が保有していたその40年間の乳ガン死亡者数を使い、増加した郡と横這いか減少した郡とに分類して、郡ごとの動向を調べた。その結果わかったことは、けして全米一様に乳ガン死亡者が2倍になったのではなく、1319郡(43%)が増加し、1734郡(57%)では横這いか減少していたのである。つまり、明瞭に地域差があるということである。 しかも、グールドは増加している1319郡について、増加要因を探し、じつに乳ガン死亡率が、郡の所在地と原子炉の距離に相関していることを発見したのである。原子炉から100マイル(161㎞)以内にある郡では乳ガン死亡者数が増加し、以遠にある郡では、横這いか減少していたのである。(なお、原著からの直接の図が公開されていて、さらに、詳しい説明もついている。High Risk Counties Within 100 Miles of Nuclear Reactors )
原子力施設から100マイル以上離れている地域では、おそらく、40年間の医療検診やガン治療の改善によって死亡者数は横這いか減少を示すという予想通りのことが起こっていた。ところが、原子力施設から100マイル以内では乳ガン死亡者が増加していたのである。これによって、原子力施設から乳ガンの原因物質が排出されているという蓋然性が大きいことが示されたということは出来よう。いうまでもなく、その「原因物質」は放射性物質である、といいたいところだが、状況証拠は濃厚にあっても、そのものズバリを示したわけではない。 重要なことは、これらの原子力施設でなにか事故が起こっていた、というのではないのである。そのことが、とりわけ重要なのだ。日常運転をしていて「原因物質」が周辺に出てきている、と考えざるを得ないのである。これは、かなり絶望的なことだ。 ここでふたたび、許容量という考え方が曲者であることを強調しておきたい。原子炉からは放射性物質の排出をゼロにおさえることは原理的に出来ない。放射性の希ガスは少量でも周辺に排出してしまう(放射性のキセノンとかネオンは気体でしかも化学的に捉まえられないので、どうしても環境に逃げてしまう)。日常的な作業でも、大量の排水のなかには、薄められた放射性物質が含まれている。それに対しては、十分に薄いので「許容量以下」で“健康被害を心配する必要はありません”というおなじみのセリフが出ることになる。操作ミスや重大事故で環境に放射性物質が散逸した場合でも、同じセリフが可能ならくり返される。つまり、ここのキーワードは濃度なのだ。 だが、どうやら上の図のグールドの研究は、許容量以下で日常運転しているのに原子炉周辺は乳ガンの危険性が高いということを示していることになりそうである。 外部被曝と内部被曝のちがいが許容量についても出てくる。内部被曝の場合は、いくら少量で弱い放射線源でも危ないのではないか、という考え方がありうる。体内にとりこまれ、体の特定の場所に濃縮して蓄積されるものがあるからである(ストロンチウムは骨に、ヨウソは甲状腺にというふうに)。つまり、内部被曝の許容量はゼロであるという考え方である。これはECRR(欧州放射線リスク委員会)が取っている立場である。それに対してICRP(国際放射線防護委員会)は許容量を設定しようとする立場である。後者は1928年の第2回国際放射線医学会総会で設置された委員会で、主流の考え方である。肥田は次のように述べている。 ICRPはアメリカのエネルギー委員会の意向を受けて動いているのだが、もちろん、そう単純な話ではない。「ICRP1977年勧告」以来「放射線は合理的に達成できる限り低く」の考え方で、「同1990年勧告」はそれを踏襲している。「許容量」の問題は、原子力産業や放射線医学界などの意向とかかわる、政治的な思惑の錯綜する、素人にはよく分からない分野である。ICRPは新勧告を出そうとしており、「2006年勧告案」が示されているようだ。 「しきい値」のことや、LNT説(線形性でしきい値なしの仮説)のことなどは(7.4)で扱っているが、「許容量」や「リスク論」には踏みこんでいない。 (1.3) チェルノブイリ事故の影響 統計学者J.M.グールドがアメリカの女性の乳ガン死亡率が40年間で2倍になったことを説明するために前掲図に到達し、原子力施設が原因物質を出しているらしいという研究を出版・発表したのが1996年である。それに触発されて肥田舜太郎が作表した前掲グラフをみると1950年の1.7人から2000年の7.3人まで、4.3倍になっている(前掲書p115)。日本の方が、アメリカより明らかに乳ガン死亡率の増加が大きい(倍以上大きい)。 肥田はグールドと同じように、日本で原子力施設から100マイル(161㎞)の円を描いてみたそうである。すると、列島全体が多重の円で蔽われてしまうという。たぶん例外は沖縄と北海道東部ぐらいだろう。 上の地図はデフォルメされていて正確ではないが、感じはつかめるだろう。ようするに、グールドの考える100マイル基準で、“日本人はみな原子炉の近くに住んでいる”ということなのだ。ともかく、日本の乳ガン死亡率がアメリカの倍以上の割合で着実に増加してきたことは、グールドの100マイル基準の理論とよく合っているといえる。 次に紹介する「チェルノブイリの日本への影響」は、原子炉から出ている乳ガンの原因物質は放射性物質なんだ、と説得力を持って突きつける、もうひとつの実例である。 チェルノブイリの原子炉事故は1986年4月26日のことだった。21年前のことになる。定期点検中に或る実験が行われ、その最中に数秒の間に2回以上の大爆発がおこり、核燃料や原子炉材がこなごなになって吹き上がり、数千mに上がった放射性物質は、最終的には地球全域にひろがった。(チェルノブイリでは定期点検の機会を利用して、特別な実験をしてみようということだった。日本の原子炉の臨界隠し(北陸電力志賀原発1号機、1999年6月)も、定期点検中に弁の操作などをやっていて、起こったことだった。定期点検のときなど普段と違うことをしているのだが、事故はそういうときに起こりがちであることを示している。) チェルノブイリ事故の日本への影響は、1週間以上経って現れている。つぎは、同年5月5日の朝日新聞(原子力安全研究グループのチェルノブイリ新聞切り抜き帖から)。 日本の放射能対策本部が安全宣言を出したのは、6月6日のことで「5月4日に出した雨水を直接飲む場合は木炭等で漉す、野菜等は念のため十分洗浄してから食べる、などの注意呼びかけ」を解除した。 「チェルノブイリ新聞切り抜き帖」を見ていて、オヤ?と思ったのはつぎの記事。 チェルノブイリの「死の灰」は、ジェット気流などで運ばれるのだろうが、青森・岩手・秋田などの東北に強く影響がでたらしい。肥田前掲書は、秋田でのグラフを示している。 1950年以来のセシウム137の秋田での降下量の記録である(たて軸の単位が不明確。ミリキューリーだが、面積や時間の表示が必要)。米ソなどが盛んに大気圏内核実験を行っていた60年代までと、中国が行った70年代と、突出して86年のチェルノブイリ事故の場合がある。その後は急減している。 放射性物質が体内に入ってから乳ガンを発症し死に至るまでに平均して11~2年はかかるという。日本の都道府県別の経年の乳ガンの死亡率が12人(10万人あたり)を超えているのは、つぎの6県だけである。青森・岩手・秋田・山形・茨城・新潟。次図は、この6県だけをプロットした乳ガン死亡率の経年変化である(肥田前掲書p118)。 (1.2)の最初のグラフと比較してみると分かるが、死亡率が6人を超えるのは1994年あたりで、全国平均も上の6県もそこまでは似たようなものである。がぜん違うのはそのあとの数年間(1996,97,98)のピークである。その数年間だけ死亡率が急に倍以上の12人を超えている。これは、チェルノブイリ事故からちょうど10~12年であって、乳ガンの潜伏期間に相当していると考えられる。 これら6県に住む女性が不幸にもチェルノブイリからの濃厚な「死の灰」の通過地帯にあって、呼吸や水や農作物を介して放射性物質を体内に取り込んだと考えられる。その放射能は外部被曝の許容量からすると“なんら健康に影響はない”と言いうるようなものにすぎなくとも、内部被曝においては十分に乳ガンの原因物質になり得たということであろう。そう考えるのが、合理的である。 小論が乳ガン死亡率を取りあげているのは、肥田前掲書がそうしているからに過ぎず、原子炉やチェルノブイリの「死の灰」が特に乳ガンに悪い、ということではもちろんない。よく知られているように、小児の白血病や甲状腺ガンがチェルノブイリ周辺で急増して悲惨な様相を呈している(小児白血病については、(その7)で取りあげている)。 その乳ガンであるが、世界的にみれば罹患率のゆるやかな上昇が続く中で、乳ガン死亡率は1990年頃を境にして、それまでの一貫した上昇から一転して、確実かつ持続的な低下に向かっている。その理由としては、検診の普及と抗ガン剤の普及が考えらる。その世界的な趨勢にかかわらず日本では乳ガン死亡率が上昇を続け、2004年は16.1になっている。 次も、ヤフーの「ヘルスケア」からの情報です。ここ 先に示したように、日本の乳ガン死亡率は上昇し続けている。アメリカでは元々は日本よりずっと高く20近かったが、1990年頃から下がって97年頃に日本の死亡率を下回った。アメリカは乳癌の発症率は依然として上昇しているが、死亡率は下がってきた。日本は発症率も死亡率も上昇している。なぜなのか。乳ガン検診の受診率を増やせば解決する問題なのか。どうも、そうは思えない。 乳ガンの原因として、サイトを眺め回ると、水道水・牛乳など経口の原因をあげるものがほとんどで、「近年日本における、和食軽視、食の欧米化が最大の原因と考えられていますが、 日本では乳ガンを発症する患者さんの絶対数が急速に増加しています」(良心的と思える、医師が発信している現在のガン治療の功罪から。)しかし、アメリカの乳ガン死亡率が下がりだしているのに、日本では増加を続けているという現実を前に、「食の欧米化」もないもんだ、と思う。「食の欧米化」が乳ガンの原因であることがたしかなことであるかのような言説がまかり通っているのは奇妙である。 グールドのアメリカの原子力施設近傍の例や、肥田舜太郎のチェルノブイリ事故の例は、放射性チリによる内部被曝が乳ガン死亡の原因(のひとつ)になっていることを根拠をあげて示していると思う。 1979年のスリーマイル島の原発事故のあとアメリカでは原発の発注が止まり、原発の危険性を訴える市民運動の高まりや原発による電力のコスト高も理由の一つとなって、天然ガスによる火力発電が中心になりつつあった。1990年頃からのアメリカでの乳ガン死亡率の減少が、このことを反映しているかどうかは不明である。ブッシュ政権後半になり、原発建設が再開される計画がもちあがってきていて、2008年に建設・運転の許可申請をすれば、30年ぶりの建設ということになるが、まだ、不確定である。 (1.4) アメリカの内部被曝を認めない態度 小論(1.1)の終りに、1968年に日米両政府が国連に提出した「原爆被害報告」は というものであったということを、記しておいた。日本政府は、アメリカを頂点とする原子力体制(原水爆および原子力発電と、それらをまかなうウラニウム・ビジネスの国際巨大企業)に完全に包みこまれているので、たんにアメリカ政府の公式見解に追随しているにすぎない。問題は、なぜアメリカ政府が内部被曝を認めない態度をとりつづけるかということにある。 日本降伏後マッカーサーが厚木飛行場に着いたのが1945年8月30日だったが、その1週間後、ファーレル准将が9月6日に東京帝国ホテルで、連合国の海外特派員に向けて発表した声明は というものであった(椎名麻紗枝『原爆犯罪』大月書店1985 p37)。ファーレルは米陸軍の「マンハッタン計画」(原爆製造計画の暗号名)の副責任者であり、原爆放射能の恐ろしさをよく承知していた人物である。 「マンハッタン計画」の責任者レベルの者たちは、物理学者たちからの情報で原子爆弾とは別に「放射能兵器」がありうることをよく知っていた。(この問題については、「(3.1)放射能物質のバリケード計画」で具体的に触れる。) この問題に入る前に、まず、「内部被曝」の症状は個々のひとりひとりの人間について簡単に実証できないこと、この症状は“疫学的な対象”であること、について説明しておかないといけない。この点の理解が十分でないと、単にアメリカ政府や日本政府が「有ることを無いといって欺している」という浅い理解になってしまう。そして、感情的な反発になってしまいがちである。 最も日常的に定常的に運転されている原発を考えてみよう。 原発はウラン燃料を“燃やして”熱を取りだして、その熱で発電機を回して電気を得ている。ウラン燃料を“燃やす”というのはヒユ的表現で、実際には核分裂が起こっていて、原子核内部のエネルギーが「熱」として現れている。つまり、核分裂の“核”というのは“原子核”のことで、ウランの原子核が幾つかに分裂するのである。その結果できる新たな原子核(もとの核の半分程度の重さになっている)が多くの場合不安定で、放射線を出してより安定な原子核に変化していく。つまり、もともとはウランという重い金属元素一種だったものが、核分裂の反応が起こると極めて多種の元素(200種類を超える同位元素)が原子炉内部にできてくる。それはヒユ的に言えば“燃えかす”であり“灰”である。(誤解のないように付け足しておくが、核分裂の反応がおこることと放射性廃棄物(“灰”)が生じることは同じことを異なる角度から言い表しているのであって、“燃えかす”がでないような原子炉などというものはあり得ないのである。原子炉を運転すれば必然的に放射性廃棄物が生じるのである。)それが恐ろしい放射能をもっているので、それを“死の灰”と言いならわしているのである。公的には(お役所語では)「放射性廃棄物」である。 原子炉は炉内に生成されてくる放射性物質を閉じこめるために、何重もの蓋があって簡単に放射性物質が外部に出てこないように工夫がなされている。ところが、チェルノブイリ事故のような爆発が起こらない、軽微な破損や操作ミスさえもない、ごく定常的な運転が理想的に行われている状態であっても、この「放射性廃棄物」の一部はどうしても原子炉外部へ出て行かざるを得ない。つかまえるのが難しい元素、クリプトン85(Kr85 半減期10.8年)がその代表的なものである。これは気体として環境に放出され、希ガスなので化合物を作らず(だからつかまえようがない)、しかも、重たいので地表へ沈降してくる点も厄介である。原子力資料情報室のデータ、1988年までしかない古いデータだが、大気中のクリプトン85の濃度が確実に上昇していることは確かめられる。なお、放射性クリプトンは天然には宇宙線によって作られるぐらいでほとんどは核実験と核施設から生じたものである。(したがって、下のグラフは最初はゼロから出発したと考えてよい。中国の核実験も終わった80年代以降の上昇分は、核施設からの排出によるものである。半減期10.8年だから核施設を全部停止すれば、徐々に減少に向かう。) 縦軸のピコキューリー(pCi)は確かに小さいが(ピコは10-12)、大気中へ拡散して放出されているのである。ゆえに「安全基準」からすると、“健康に影響はありません”ということになるのである。特にクリプトンは生体を構成する元素ではないので、吸収されて蓄積・濃縮といことはないだろうと考えられている。だが、肺に吸着したり血液に滲透したりして、放射線を出すから、安全とは言えない。 原発に必須の多量の排水の中に水溶性の放射性物質が混入せざるを得ない(トリチウム(三重水素)や炭素14などが心配される)。混入は、原理的にゼロにはできない。なぜなら、化学的にせよ物理的にせよ、放射性物質(廃棄物)をトラップをかけてつかまえるのであるが、完璧に全部の粒子(原子や分子)をつかまえることはできない。ミクロな領域では必ず拡散の法則にしたがって環境へ逃げだす粒子が存在するのである。それをゼロにすることはできない。 これは、理論的に理想的な設計通りの運転が行われている場合のことである。チェック不可能なほどの軽微なヒビや部材の間のユルミ、まして操作ミスや運転ミスなどがあれば、環境へ逃げだす粒子(原子や分子)の数がたちまち何桁か上昇する。それでも「安全基準」からすると問題にならない程度の小さなものである場合が普通である。したがって、原発や官庁が事故の後すぐ“健康に問題有りません”というのは、マニアルどおりにアナウンスしているのであって、ウソをついているのではない。だからこそ問題の根が深いのだ。 では、マニアルに問題があるのか、ということになる。それはある意味では、その通りである。ICRP勧告などを基準にして公的なマニアルが作られるのだから、「内部被曝」が正当に扱われていなかったりしているのである。 もう一度言おう。すべての原子力施設からは、最低でも「安全基準」以下の放射性物質が環境に絶えず放出されている。原子力施設につきものの巨大なエントツと排水口から、排気と排水によって、放射性物質が環境に絶えず放出されている。ここでのキーワードは安全基準である。 自然環境にはもともと存在している放射能がある(もちろん、これは本当です)。通常の土壌や岩石にはウラニウムなど自然放射性元素が極微ながら含まれているから、山に行けば自然の放射能レベルが上がる。宇宙からは宇宙線が絶えず降り注いでいて、大気と反応して様々な放射性物質をつくる(例えば炭素14)。それらの自然放射能のレベルよりも低くなるように「安全基準」を定めています、というのが決まり文句である。ここには、ウソはない。しかし、すべての原子力施設からは、放射性物質が環境に絶えず放出されているということも事実である。 次の例は、建設中の青森県六ヶ所村の「再処理工場」である。 情報元は、先のクリプトンの表と同じ「原子力資料情報室」の資料、ここ。大気中、海水中へ放射性物質を早く広くひろがらせて薄めたい、という再処理工場側の思惑がよくあらわれている。 電力会社や原子力施設側が「安全基準」を、本当に守っているかどうか、これは一般市民には確かめようがない。モニターをつくって監視したりすることは意味があるが、根本は原子力施設を運転している側が、全面的に情報をオープンしているかどうかである。放射能は五感によって感覚できない。だからこそ原子力施設にはとりわけ信頼性が求められるのである。この観点からも、日本の電力会社の隠蔽体質がいかに致命的なものであるか、われわれは昨年来(2006~)の電力各社の呆れ返った不祥事の暴露からよく学んだだろうか。それに対する国の処分がまたまた呆れ返った軽さであったことから、われわれは何を学んだだろうか。 放射能(放射線を出す性質)は、原子核がもっている性質である。元素(ヨウ素とか炭素とかストロンチウムとかウランとかの)のそれぞれの特徴・性質(化学的性質)をきめているのは、原子核ではなくその周辺にある電子である。 一例を挙げよう。ヨウ素127は自然界にあるヨウ素で甲状腺ホルモンを造るために必要なので、人間にとって必須元素である。ヨウ素131は半減期8日ほどの放射性同位元素であるが、これが体内にはいると、生体はヨウ素127と区別できず、まったく同じ扱いをする。それゆえ、放射性のヨウ素131は正常なヨウ素とともに甲状腺に集まってくる。その結果、甲状腺が集中的に放射線で照射されることになり、甲状腺ガンの原因になる。 つまり、放射性物質を生物体内に取り込んだ場合、その物質粒子(原子や分子)はその生理的性質にしたがって体内の特定の場所へ溜まる(ストロンチウム90は骨へ、ヨウソ131は甲状腺へ、カリウム42やセシウム137は筋肉へ、胎児は“小さな総合”であるからほとんど全ての元素がごく狭い領域へ集中する)。環境の中では広く薄く分布していた放射性物質が生物体内では特定部位に集まってくるので濃縮されることになる。これは、生物が自然界の物質を材料にして自分の身体を作り上げるという根源的な能力によって生じる働きである。だから、とどめることはできない。 人間は、呼吸し水を飲み、食物を食べる。海草や野菜、魚や肉や牛乳を口にすることによって、濃縮の濃縮が起こる。特に胎児には多様な元素が必要であるから、体内に入った放射性物質の多様な元素が集まってくる。小さな胎児のなかに形成されつつある更に小さな甲状腺にヨウ素131が集中する、という具合に。したがって、胎児は放射能に成人よりずっと敏感である。たとえば初期胎児が成人の100分の1のサイズだとすれば、体積(重量)はその3乗で百万分の1だから、百万倍敏感なのである。妊娠初期ほど警戒が必要である。
体内に取り込まれた放射性物質は、その半減期にしたがって原子核崩壊が起こり放射線を出す。既述のように、外部被曝では問題にならないアルファ線でも、内部被曝で細胞を構成する元素から放射されれば話は別である。その近傍にある細胞器官を破壊したり活性酸素を作ったりする。DNAを変化させることもありうる。ガン細胞をつくりだすことも、あり得る。 このようにして、チェルノブイリの近くだけでなく、数百㎞以上はなれたヨーロッパでも、甲状腺ガンや白血病の子供が増加したりする。何千キロも離れた日本でさえ、10年以上経ってから乳ガン死亡率が増加するということが起こっている。 これが内部被曝の恐ろしさである。「安全基準」以下の排気や排水であっても、長期にわたって広汎に調べると、原子力施設の周辺ではガンの発症が多くなっている、ということがわかる。逆に言うと、そういう調べ方(疫学的調査=多人数・長期間の調査)をしないと、犯人は原子力施設にある、ということに気づかない。このように調査した後でも、ある特定のガン患者が内部被曝によってガンを発症した、ということは直接的に証明することはむずかしい。なぜなら、ガンの原因は自動車の排気ガスだったり、食品添加物だったり、残留農薬だったり、さらに遺伝的要素も重要だったりするからである。 さきに、内部被曝による発症は“疫学的な対象”であると述べておいたのは、こういうことである。 広瀬隆『危険な話 チェルノブイリと日本の運命』(新潮文庫 1989)に、とても分かりやすい説得力のある例があがっている。アメリカのネバダ砂漠が核実験場として使われはじめたのは1951年からだが、そこから250㎞も東にはなれたユタ州ビーバー郡の小学校の女先生、メリー・ルー・メリングという方が、自分の周辺で白血病や各種のさまざまなガンで死ぬ人が増えてきて、おかしいと感じて記録を取り始めた。それが53年からである。この先生は79年までの27年間、こつこつと記録を取って残した。広瀬隆は次のように述べている。 このメリング先生は、たくさんの流産と重度の障害のある新生児(多くはすぐ死んだ)についてはリストに載せていないと、断っている。 広瀬隆は「時限爆弾」という表現をとっているが、内部被曝がはじまってもそれがガンに発症するまで何年もかかる。甲状腺のばあいは10~12年かかるという。いずれにせよ、メリング先生のような調査がないと、個々のガン患者の苦しみと悲しみがあっても、それがネバダ砂漠の核実験に原因があるらしい、というふうには結びつかないのである。アメリカにはメリング先生以外に多数の調査レポートがあるのだそうだ。 ネバダ砂漠の核実験場では、1951年から92年までの間に、計925回の核実験が行われ、大気圏内核実験が禁止される1962年まで100回の実験があった。地下核実験は825回行われたが、地下実験でも少なくない放射性物質が大気内へ放出されたことが分かっている。 この核実験場の南にはラスベガスがあり、西にはロサンゼルス(350㎞)やサンフランシスコ(600㎞)など大都会があるため、実験はつねに西風の日を選んで行われ、メリング先生たちユタ州側が風下となった(Downwind People 風下住民という語ができたそうだ)。ひどい話だが、風下住民はモルモット扱されたわけである。いいかえれば、実験をする者たちは、“死の灰”が有害であることを重々承知の上で、実験を行っていたのである。 人体実験消えぬ疑惑(朝日新聞、1998年1月20日)は、ネバダの風下住民よりもっとひどい扱いをされたのが、1954年のビキ二核実験による放射性降下物で被ばくした南太平洋マーシャル諸島の住民らであるという特集なのだが、ここでは、ネバダの扱いのみを引用させてもらう。 どういう論理で「健康補償法」や「風下法」を米政府が作ったのかよく分からないが、個別の症例に対する“補償”は認めざるを得ない状況になってきているのは間違いない。だが、その“補償”そのものが被ばく者に犯罪的な屈服を強いるものになっていることは確かのようだ。(一例として、「原水禁2001年世界大会」に寄せた「放射線被害者支援教育の会/ユタ州ネバダ核実験場風下地区住民」のデニース・ネルソンのアッピール文がネット上で読めることを記しておく。その中には、つぎのような一文がある。 デニース・ネルソンは「20万人以上の被爆兵士、少なくとも2万人の風下住民、数千人のウラン鉱山労働者、そのほかおおくのネバダ実験場労働者がいます」と述べている。被ばく兵士というのは、アトミック・ソルジャーと言われる実験場に動員されていた兵士たちのことである。その数の多さに驚く。劣化ウラン弾の被害にあっている湾岸戦争-イラク戦争の兵士たちの“先輩”というわけだ。) 核実験のそもそもの第1号は、1945年7月16日のニューメキシコ州アラモゴードのマンハッタン計画による、人類最初の原爆実験である(この時の精彩あるレポートは「実験について」というグローブス将軍が書き、トルーマン大統領と共にポツダムに行っていたスチムソン陸軍長官へ緊急飛行機で報告されたもの。その中にはファーレル准将のレポートも引用されている。一読の価値がある)。 46年からはビキニ環礁、エニウェトク環礁での実験がはじまり、これは58年まで行われる。ネバダでの核実験は、前述のように、51年からはじまった(その他アラスカなどでも行われた)。いずれの実験でも、兵士が“核兵器を体験する”という目的で関わっており、核実験の危険性などをまったく教えないまま、無神経とおもえるほどの無防備さで立ち会わせている。わたしは「彼らは実験動物として使われた」と言ってかまわないと思う。そのために、十万人単位で数える兵士に後遺症が出た。 広瀬隆は前掲書で、次のように述べ、被曝(外部被曝、内部被曝)が疫学的対象であることを分かりやすく示している。 なぜ、こんなに時間がかかったか。それは、兵隊帰りの誰それがガンになった、というだけではけして社会問題にはならないからだ。 もう一度言っておく。被曝(外部被曝、内部被曝)がガンとして発症する可能性は大いにあるが、それはあくまで疫学的対象であるのだ。だから、あるガンの原因が、何年も前の・何十年も前の被曝であると直接的に実証することはほとんど不可能なのだ。 自分の周辺のガンで死んだ者を思い出したらいい。 特別な状況がない限り、ガンで死んだ者を解剖しようが物質分析しようが、そのガンの原因を突き止めることはできない。ガンの最初は、ただ一個のガン細胞からはじまるのである。 この節(1.4)の初めに、次のように述べておいた。 1968年に日米両政府が国連に提出した「原爆被害報告」は というものであった。日本政府は、アメリカを頂点とする原子力体制に完全に包みこまれているので、たんにアメリカ政府の公式見解に追随しているにすぎない。問題は、なぜアメリカ政府が内部被曝を認めない態度をとりつづけるかということにある。 日本降伏後マッカーサーがコーン・パイプをくわえて厚木飛行場に着いたのが1945年8月30日だったが、その1週間後、ファーレル准将が年9月6日に東京帝国ホテルで、連合国の海外特派員に向けて発表した声明は というものであった。
(2.1) 放射線の発見 放射線の発見の歴史を確認しておく。 X線は1895年にレントゲン(ヴィルヘルム.C)によって発見された。写真乾板を感光させる不思議な“線”であったが、骨格を透視して撮影できることが衝撃的にアッピールした。いまウイキペディアにある透過写真はレントゲン夫人の手で指輪も写っている有名なもの。エジソンは、さっそく1896年5月のニューヨーク電気博覧会に「X線蛍光透視装置」を出品して人気を博した。だが、のちにエジソンと共にGE(ジェネラル・エレクトリック)を造るイライヒュー・トムソン(Elihu Thomson)は、すでに1896年にX線の害について論文を書いている。 トムソンは自分の小指を使って実験したという。なお、このイライヒュー・トムソンは三相交流の発明など優れた発明が多数ある人物。ところが、この明確な警告にもかかわらず、エジソンの助手ダリーはX線装置を使いすぎて1905年に放射線障害で死亡している。エジソンはその後X線分野から手を引いた。 X線が細胞を破壊する力を持っていることは、見方を変えれば、ガン細胞を攻撃することができるということである。照射の容易な皮膚ガンなどに試してみて効果がある場合もあることが確かめられた。X線のガン治療への応用がさまざまに試みられた。 ウランは古くから知られており、陶器の着色剤として瀝青ウラン鉱の採掘がすくなくとも16世紀には行われていた。元素として確定したのは1789年のこと。“ウランガラス”の製造は1850年頃からイギリスではじまった(ガラスにウランを混ぜると、不思議な蛍光を発するので喜ばれた。放射線のためであることはまだ知られていなかった。いまでもマニアがいる)。 ウラン鉱夫に職業病として肺ガンがあることは、かなり前から知られていた。ウランの放射性崩壊で発生するラドンガスがウラン鉱石に含まれており、坑道には高い濃度のラドンガスが立ちこめている。ラドンの半減期は短く(同位体によって異なるが、最長で3.8日)肺に吸いこまれて、ポロニウム・ビスマスなど“ラドンの娘”といわれる放射性重金属に転換する。それらが肺でアルファ線を出し続けるのである。 パスツールもウラン鉱石と発ガン性の関係を指摘しているという(前掲『プルトニウム人体実験』p99)。ウランが放射性であることが分かったのは1896年である。いずれにせよ、ウラン鉱山での作業は体内被曝をひきおこし、肺ガンとなる可能性が高いことは、19世紀には専門家には知られており、20世紀前半段階で確定していたといってよい。陶器・宝飾への使用や健康医療への応用程度のウラン利用から、マンハッタン計画はまったく質的に異なる世界的なウラン需要をつくりだした。アメリカの軍事産業と金融資本が結びついて世界中のウラン鉱山を買い占め、ウラン独占を計画した。たとえば、アメリカ国内では西部のアメリカ原住民(インディアン)の土地のウラン鉱山で、原住民が鉱夫として働いたのであるが、肺ガンによる死者を多数出した。原子力委員会の反対にあって、長い間ラドン被曝に対する何の手も打たれなかったからである。「ラドン・ガス・レベルの連邦基準法」が不十分なものながらともかく成立したのが1971年であるが、それさえ守られない状態がつづいた(『被曝国アメリカ』p230~235)。(ウラン鉱山での被曝に関しては、河井智康『原爆開発における人体実験の実相』新日本出版社2003の「第5話 ウラン工夫の被爆体験調査」が詳しい) ウラン自体は半減期が長く(U238が45億年、U235が7億年)放射能は比較的弱い。しかもα線を出すから空気中での被曝(外部被爆)はあまり問題にならない。むしろ、天然ウラン鉱石には崩壊系列のラジウムやラドンを含むことが問題である(ラジウムは放射能が強いこと、ラドンは気体で吸入しやすい)。ただし、体内にとりこむと深刻な影響がありうる。劣化ウランは核廃棄物であり有害な放射性同位元素を微量ながら多様に含むこと、弾丸として使用すると蒸発・飛散して吸入しやすいことなど危険性が増す。後に劣化ウラン弾を扱うときに詳論しよう。 キューリー夫妻がウラン鉱石の残滓に存在する放射性物質を求めて新元素ポロニウムおよびラジウムを発見したのが、1898年のことであった。ラジウムはウラニウムより放射能が強く(百万倍強い、α線)、医療用の応用が期待された。キューリー夫人は発見後直ちに自分の肌に貼り付けて、X線照射の場合と同様に皮膚が赤くなったのを確かめている。X線のような装置が不用なので、子宮ガンなどに使われて、注目された。ラジウムは医療用に需要が高く、しかも、ピッチブレンド鉱石4トンから1グラムがとれるという稀少さからきわめて高価なものであった。 核分裂が発見されるまでは、放射性物質は医療的な価値で注目されていたのである。ヨーロッパにおいても温泉水を飲用する療法は昔からあったが、トムソン(J.J.Thomson)が温泉でラドンを発見すると(1903年)、ラドンが 温泉水の効用の原因物質であるという説がひろがり、「ラドン水」が売り出され人気になった。 次の引用は、舘野之男「人類にとってラジウム放射能とは? 」から。 ラジウムの危険性が広く認識されたのは、時計の文字盤にラジウムを塗る若い女工さんたちに“ラジウム顎”と医師に呼ばれた奇病が発生した事件からである。ニュージャージー州オレンジに最大の工場(女工800人)があり、貧血・口腔の出血・口蓋や喉の崩れ・全身の骨折や挫傷など、死者もでるようになった。これが、1920年代半ばのこと。 読むだけで恐ろしくなる話であるが、“放射能医療”の連想なのか日本では“ラジウム温泉”や“ラジウム岩盤浴”などに現在も人気がある。“ラドン温泉”と共に、危険なげてものである。 キュリー夫人(Maria S.Curie 1867-1934)は、白血病で死んでいる。今でこそ、X線や放射能はまず恐ろしいという印象であるが、19世紀末から20世紀の30年頃までは、“体に力をつける不思議な万能薬”というとらえ方が普通だった。マリー・キュリーはその代表的な人物である。娘イレーヌも夫フレデリック・ジョリオ=キュリーと共に2代にわたって夫婦でノーベル賞を受けている高名な研究者であるが、放射線に対して無防備で、イレーヌもフレデリックも放射線障害で死亡している(それぞれ1956,58年没)。 サイクロトロンの発明者E.O.ローレンスの逸話で、資金を集める講演会で放射能の研究の重要性をアッピールする目的で、会場にいたオッペンハイマーに放射性ナトリウムを一口飲ませ、手の先にカウンターを当てておくと50秒ぐらいでガリガリいいだす、という実験をしている(『プルトニウム・ファイル』上p14。『被曝国アメリカ』p238にも類似の逸話が出ている)。胃で吸収されて血液循環に入って50秒で手の先まで来ることが分かるということだ。放射性ナトリウム(24Na)の半減期は15時間ほどだから放射性のトレーサとして使えるのだが、リスクがないわけではない。人体実験で有名なハミルトンは、学生の前で放射性ヨウ素を飲んでみせ、カウンターを喉に当ててガリガリいいだすのを聞かせたという。ハミルトンは49歳で死亡した。 このような奇矯な振る舞いをする学者が皆無ではなかったが、しかし、19世紀末に発見された目に見えないが強力な作用をもつ“放射線”が人体に有害な生理作用を及ぼすことは、いまや誰にとっても常識である。放射線の電磁遊離作用によって細胞が破壊されるという観点は物理学者にとっては、原理的で必然的な理解である。ガンに対する医療的応用はその危険な生理作用を逆手に取った応用である。 (2.2) 最初の原爆実験 放射線の発見があいついだ19世紀末から40年後、核分裂の最初の実験がベルリンのカイザー・ウイルヘルム研究所で1938年秋に行われた。第2次大戦直前のアメリカに、ヨーロッパから亡命した物理学を中心とした“世界の頭脳”が集まって、物質の究極の姿を解明すべく努力が重ねられていた。ところが、その物質の究極の探求が、同時に原子核のエネルギーを取りだす可能性を追及することに収束していった。 核エネルギーの解放の可能性が、がぜん現実性を帯びてきたのは、1939年3月に、シラードとフェルミがウランの核分裂で中性子数が増加する現象を発見したことによる。この現象を人工的につくり出せば、連鎖反応が生じて、人類はこれまでまったく知られていなかった巨大なエネルギー源を手にすることができる。また原子爆弾の可能性が出てきた。 ナチス支配下のドイツでも同じ原理によって、核エネルギーの解放が探求されていると考えられた。というよりむしろ、アメリカに集まった学者たちはドイツの方が先行しているという恐怖の念に突き動かされて、しゃにむに働いたのである。 このシラードらの発見を受けて、有名なアインシュタインのルーズベルト大統領宛の書簡が1939年8月2日に書かれる。シラードが書いてアインシュタインは署名しただけであったという。(シラードはハンガリーからアメリカへ亡命した人物。物理学者として一流であるが、政治活動などにも関心がありやや毛色の変わった人物だったようだ。次はウイキペディアからの引用。「シラードは科学のみならず世界情勢に関しても人よりも先を見通すことに長けていた。 研究成果を論文の形で発表するよりも特許を申請することを好み、原子炉を始めとする多くの先進的なアイデアが特許の形で残されている。 また、科学者を組織し、様々なロビイスト活動を行った。 亡命後はスーツケースを携えてホテル暮らしをし、しばしば一日中、湯舟に浸かって思索するのを好んだ。」) また、大統領への仲立ちをしたのは、アレギザンダー・ザックス(1850年創業の投資銀行リーマン・ブラザーズの副社長)であった。つまり、アインシュタイン書簡は、はじめからロスチャイルド系財閥が背景にひかえている野望漫々の軍事投資に利用されたのである。ウラン鉱石の世界的な市場を展望することなどは、普通の物理学者のできることではない。勘どころを見ておこう。 この書簡には放射能の危険性には触れられていないが、書簡とともに大統領に渡ったシラードのメモには、次のように、放射性物質からの「防護」が必要であることが述べられている。 つまり、原子炉も原爆もまだ何も実現していない段階であっても(シラードら指導的学者においては)放射性物質による害毒の放出は十分意識されていた。このことは疑いない。 マンハッタン計画が正式にスタートするのが1942年8月17日である。 同年12月2日に、人口密集地のシカゴ大学のテニスコートにつくられたフェルミが指導する黒鉛炉で、臨界が確認された。高純度の黒鉛レンガを積み上げ、ウラン(精製された天然ウラン)をその間に挟み込んでいた。500トンの黒鉛のブロックと、50トンのウラニウム。これらは、みな、物理学者らが真っ黒になって人力で自ら積み上げたものである。ニックネームは“パイル”(薪積み)だった。 白黒の写真が残っているが、レンガ積みの実験炉の上に乗って、万一の場合に備えてカドミウム溶液の入ったバケツを持った3名の人物(物理学者)がいるし、炉をごく間近に(5,6m)みる位置に多数の学者がいる。こういう体勢でかなりの被ばくがあったと思われるが、それの防護の配慮は写真からはうかがえない。人類初めての原子炉の“点火”の一瞬を待つ気持ちがすべてを支配していたのであろう。 中性子の量を計測しつつ、すこしずつカドミウムでできた制御棒を抜いていった。計算尺で絶えず理論値をチェックしていたフェルミの指示と予言どおりに、臨界点に達し28分間運転をつづけた。そして、制御棒を安全な位置に固定して、実験は終わった(グルーエフ『マンハッタン計画』早川書房1967中村誠太郎訳 による)。(この時の出力は200ワットと言われている。もちろん、被曝を心配して、できるかぎり小さな出力で押さえようとしたのである。) グローブス『原爆はこうしてつくられた』(第2版 恒文社1974)では、この実験炉が万一爆発する可能性を述べている(グローブスはマンハッタン計画の総責任者。(その4)で参照したアラモゴルドの原爆実験のレポート「実験について」の筆者、グローブス将軍である)。 グローブスのこの本(『原爆はこうしてつくられた』)は、記者グルーエフが書いた『マンハッタン計画』より読みにくいかも知れないが、現場にいたものが書ける迫力がある。また、放射能の危険性についても、全面的に伏せることなく率直に書いているところもある(『マンハッタン計画』は成功譚であって、放射能の危険性などにはまったく言及されていない)。 次は、アラモゴルドの最初の原爆実験の実験日を決定する際の天気予報についての話である。 原爆の放射能に関して、ここに見てとれる特徴を二つ指摘しておきたい。ひとつは、強い放射性物質が大量に発生するので危険であることを明瞭に認識していたこと。ふたつは、放射性物質が「跡方もなく吹き散らされる」なら問題ないと考えていたことである。 これらは、厳密に考えると矛盾しているのであるが、戦時中はあいまいなままやり過ごされ、のちに「安全基準」まで薄めればよいという原子力推進の論理となって現在まで世界を支配することになる。この点についても、あらためて詳論しよう。 先に一度参照したものだが、アラモゴルドの原爆実験(1945年7月16日)を総責任者グローブスがポツダムにいるスチムソン陸軍長官へ報告した文書から、放射能関係の記述を含む部分を抜き出してみる。 グローブスは、陸軍長官やトルーマン大統領やチャーチル英首相の目に触れることを当然予想しながら緊急のうちに書いたこのレポート中で、「TNT火薬1万五千トンないし2万トン相当」の空前の威力を強調しつつも、上のように放射性物質の飛散についても細かく述べている。ただ、全体としては「負傷者は1人もなく、また政府区域外で不動産の損害を受けた者もいない」というまとめ方であった。 E.J.スターングラスはこの時の「原子雲」の流れを、ランシング・ラモント『トリニティの日』を用いて知り(「トリニティ」は原爆実験のコード名、ラモントはタイムの記者。上図は、ウイキペディアの「トリニティ実験」からいただきました。)、それに添って胎児・乳幼児死亡率が上昇していることを発見している(『死にすぎた赤ん坊』原題 “Low level radiation”、時事通信社1978肥田舜太郎訳 p119~)。このスターングラスの本は図表がまったくなく、けして読みやすくはないのだが、特にこの章「トリニティの雲」は迫力がある。 胎児・乳幼児の死亡率上昇の原因には、多様なもの(殺虫剤、薬品、食品添加物、重金属類、大気汚染、母親の喫煙・・・など)があり、放射能が原因だといっても説得力が弱いのである。ところが「トリニティ」作戦の“死の灰”は人類による初めての核実験が原因であり、「これ以前には環境中には核の死の灰はなかった」のであるから、もしトリニティの「死の灰」降下地域に胎児・死亡率の上昇があればそれは環境に新たに加わった因子として評価できる、というのである。しかも、医学や保健の進歩によってなのだろう、1940~45年は「アメリカのすべての州で乳幼児死亡率の堅実な下降が続いていた最も長い期間」(p123)であった。それが、特定の“風下地帯”で死亡率が異様な増加を示したのである。これは死の灰による影響であることを否定しがたい。 つまり、放射性物質の拡散状況は、(1) 胎児や乳幼児に被害が敏感に出ること、(2) 発症まで低レベル放射能なら時間を要することなどを考慮しないと、安全か危険かの判断はできないということである。 われわれは、この議論に入る前に、マンハッタン計画の頃のアメリカの状況をもう少し見さだめておきたい。 (2.3) プルトニウム汚染 「マンハッタン計画」は暗号名であり、原爆を製造するという軍事秘密を厳重に守ることが重視された(原爆投下直後のトルーマン大統領の声明の冒頭は「16時間前に広島に爆弾を一発投下した。この爆弾はTNT高性能爆薬の2万トン以上に相当する威力」を持つというものであったが、この長文の声明の中には、この作戦は20億ドルを費やし12万五千人を雇用したが、「自分が何を生産してきたのか知っている人はほとんどいない」という特徴的なセリフが入っている。計画の全貌を承知しているのはほんの数名の、学者と軍-政府の責任者だけだった。げんに、原爆投下の4ヶ月前まで副大統領だったトルーマンはルーズベルトの急死で大統領になるまで、何も知らされていなかったのである)。これは軍事作戦だったのだから当然だろうという面と、都合の悪い面はのちのちまでも秘密のままにしておいたという面の両面がある。 後者に入る重要な事実が、この計画全体の医療部門がどのような規模のもので、どのような活動をしたかということである。この面は「マンハッタン計画」を述べた多くの書物でまったく触れられていない。これは、X線と放射性物質については医療的関心が高かった19世紀末から第1次大戦後までの学問の流れからすると、まったく不自然なことなのである。というより、核分裂の現象が発見される(1938年)までは、一般人には放射能はもっぱら医療的関心以外の対象になることはなかった。 わたしがこの点で、初めてある程度納得したのはアイリーン・ウェルサム『プルトニウム・ファイル』(上・下)(翔泳社2000渡辺正訳 原著“The Plutonium files”1999)を読んでからである。このウェルサムの本は、マンハッタン計画の中で、正面からプルトニウムの人体への影響を取りあげている。その点が貴重であるし、意義深い。(ウェルサム記者といえばアルバカーキー・トリビューン編『プルトニウム人体実験』(小学館1994広瀬隆訳・解説)を想起するが、これは広瀬隆がアルバカーキー・トリビューン紙のウェルサム記者の「一連の記事」“THE PLUTONIUM EXPERIMENT”と“AMERICAN'S ATOMIC FALLOUT”を訳出し、解説を付けて一冊の本としたものである(同書奥付)。したがって、この2著は重なっているところも多い。『プルトニウム人体実験』は人体実験という衝撃的事実を衝撃的に伝えている。しかし、人体実験をアメリカの核兵器製造の全体の構図の中において見るには『プルトニウム・ファイル』の方が視野が広く、本質を突いている。アメリカという国家・軍・産業のあり方について考えこまざるを得ない。もっと読まれるべき本だと思う。) シラードが「核分裂の連鎖反応」という着想を得たのは1933年である。ドイツで核分裂現象がはじめて発見され(1938年)、シラードとフェルミはウラニウムの核分裂で数個の中性子が生まれることから連鎖反応が実際に可能であることを理論的に確かめた(1939年)。フェルミがシカゴ大の「パイル」黒鉛炉でそれを実証したのが、1942年12月であった。 この10年足らずの間の核物理学の進展は、“象牙の塔”の極点のひとつで物質の究極を探求していた先端的な物理学者たちを、一気に軍事-産業の世界的先端へ押し出してしまったのである。ウェルサム『プルトニウム・ファイル』の第4章は、つぎのように、放射能の本質をもっとも良く理解している物理学者たちの“医療的”観点からの反応を描いている。 このコンプトンは物理の“コンプトン効果”のコンプトンである(光と電子の衝突で光が粒子としてふるまう場合の解析、高校物理に出てきます)。シカゴに送りこまれたのは、ロバート・ストーン。ガン治療に中性子線を使う研究をしていた。 プルトニウムの発見者はグレン・シーボーグである。彼がサイクロトロンをつかってウランからプルトニウムを造り、分離に成功したのは1941年のことである。シーボーグは1944年1月に、シカゴの医療責任者ロバート・ストーンに次のようなメモを送ったことが記録されている(シーボーグは化学的にいくつもの超ウラン元素の確定に寄与し、1951年にノーベル化学賞を得ている。また106番元素にシーボーギウムの名をつけられる栄誉を受けている)。 この「研究」は人体実験のことだったのか、とのちにシーボーグは訊かれている(動物実験のつもりだったと答えている)。 わたしは、ここでは、アメリカでの人体実験の詳細には入らない(上掲のウェルサムの2著を読んでください)。アメリカの研究者たちは、プルトニウムという新元素が、やがてキログラム単位で扱われることを見据えて問題にしていることを、注意したい(このメモの時点で「地球上にプルトニウムはまだ2ミリグラム」もない、と前掲書(p62)は述べている。だが、1年半後に実験することになるトリニティ爆弾はプルトニウム10㎏ほどといわれる。その1月後に長崎に投下されたのも同じ。クリントン大統領にエネルギー省(DOE)長官に指名された黒人女性のヘイゼル・オリアリーが多くの秘密文書を公開したが、1993年12月に、「合衆国はプルトニウムを89トン生産した」と述べている『プルトニウム・ファイル』(下p204))。そして、このやがて研究レベルを超えて“放射性物質の産業”が生まれる状況をよく想定して、恐怖していると思う。 マンハッタン計画のなかの医学部門の責任者はスタフォード・ウォーレンで、ウォーレンは広島・長崎の被曝調査に来日する人物。ウォーレンの下でロスアラモスの保健部長になるのがルイス・ヘンペルマン。 これが1944年夏の段階の話だ。プルトニウム汚染を防ぐために考えられる手を次々に打っていく。毎日2度、看護婦が鼻の穴を先端に紙を巻いた棒で拭きに来る。もちろん、その紙をカウンターで計測する。時には恐ろしい数値が出たりする。しかし、目に見えない微粒子を浴びて、それを室外に体と共に持ち出すのを防ぎきれない。44年8月にはロスアラモスの「D棟とH棟の汚染が進んできた」と健康管理報告にあるという。 事故もおこる。44年8月1日のことである。マスティックという若い微量物質の化学分析の専門家が実験室で、プルトニウム10㎎入りのバイアル(資料瓶)のガラスの首を折ったところ、内圧が上がっていて液がピュッと飛びだし、一部は口に入った。プルトニウムは放射性なので常に発熱しているのだ(このときの対処の有様などは、前掲書第1章を読んでください。マスティックはそのあと、長生きする)。 これらは、プルトニウム型原爆(トリニティ爆弾)の最初の実験の1年たらず前のことなのだ。この状況の中で、ヘンペルマンらはプルトニウムの人体実験を計画する。最初の注射が行われたのが1945年4月10日。つまり、プルトニウム人体実験が秘密裡に強行されたということ自体が、マンハッタン計画関係者の放射能に対する強い恐怖感を証明していた、といえよう。
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